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2011年7月15日 (金)

新連載スタート  「曖昧さ思考」


以前、本ブログで「ソリッド思考・ファジー思考」を書きました。

この記事を発展させ、「曖昧さ思考トレーニング」として、
ビジネス雑誌『THINK!』 (東洋経済新報社) で連載を始めることになりました。

THINK 11smr 
                『THINK!』 2011年夏号38号


この連載のリード文で私は次のように書いています―――

  「分析的に論理的に、具体的な解決に向かって直線的に、明瞭さをもって考えることは重要である。しかし、綜合的に直観的に、抽象的な問いに向かって非直線的に、曖昧さをもって考えることは、それと同じくらい、いやそれ以上に重要である。なぜなら、本質的なことはいつも曖昧さの奥に潜んでいて、それをつかみ取るには後者の思考が不可欠だからだ。本連載はそうした曖昧さを相手としながら、曖昧さをもって強く考えることを訓練するシリーズである」。


私は企業の研修現場で(これは学校の教育現場でも同じだと思いますが)
もうほんとうに人びとの抽象的に考える力がどんどん弱っていることを痛感します。

私たちは大人になるにしたがって、
「子どものころの受験教育には問題が多かったな。
記憶力試しの学習、型にはめこんで解を導きだす学習ばかりでなぁ」……
などと批判をこめて回顧します。
しかし、その当人たちが職業人となりビジネス現場に出てどうなるか。

やはり学ぼうとすることは、もっぱら業務処理のハウツー(技能・知識)であり、
自腹を切って読もうとする本は、
能率・即効性を謳う直接的・具体的な実用書に偏ります。そのために書店には
「○○するための成功法則」
「速習!3分で読める財務諸表」
「7日間で人生を変える●●魔法の習慣」といったようなタイトル本が並びます。

また、ロジカルシンキングやフレームワーク思考が流行りですが、
その習得ぶりを観察していると、本来の目的を外れて、
ただ単にものを単純化して能率的にラクに情報を処理するという姿に陥っている
ところがあります。

書店に並ぶマニュアル的実用書、ロジカルシンキング、フレームワーク思考が
悪いと言っているのではありません。
世の中あげて、
具体的に効率的にものごとを処理するのが“賢い人間”“デキる人間”とされ、
内省とか、観を研ぎ澄ませるとか、曖昧な大きな問いに頭を巡らせるとか、
そういった抽象的思考がいっこうに見向きがされず、奨励もされず、
読解に力の要る骨太の本がますます書店から姿を消しています。
私が言いたいのはバランスです。

抽象的に曖昧に考える力を鍛えて本質に迫っていけばこそ、
具体的に明晰に考える力も真に生きてきます。

昨今の具体的・明晰的思考は、
物事をラクに考え、効率的に流したいという心理や
少し理知的でカッコイイという心理と合わさっていることが多く、
表層的な術の部類になっているように見受けられます。そう考えると、
結局、職業人となってやっている学びも「お受験勉強」と本質的には変わりがない。

私はキャリア教育という分野から企業研修の現場に入り、
「なぜこの仕事をやるのか? なぜこの会社なのか?」
「働くことの目的(意味)は何か?」
「よい仕事の“よい”とはどういうことか」
「自律的とはどういう状態か? 自立的とどう違うのか?」
「プロフェッショナルの“プロフェス(profess)”とは何を宣誓することか?」
「あなたの仕事観の“観”はどのようなものか?」……
といったような、まさに曖昧模糊とした大きな問いを受講者に投げかけています。

これらの問いには唯一無二の「正解値」がなく、当然、答えが出る公式もありません。
こうした働き方(様)・生き方(様)に関わる問いは、
価値・意味、思想・哲学の次元にまで思考を上げていくことを求め、
抽象的な霧のなかで漂流することを強要します。

私が曖昧に抽象度を上げて考えることのもっとも大事だと思う点は、
その過程が「本質をつかむ」作業にほかならないということです。
本質は常に曖昧さのなかに潜んでいます。
曖昧に考える力がなければ、本質は永遠につかめません。

人生・キャリアを生きていくにせよ、
複雑で難度の高い仕事をするにせよ、
本質をつかめるかどうかは決定的に重要です。
そのために今回このような企画をやってみようということになったのです。
『THINK!』編集部もその意義と試みを大いに評価していただきました。

さて、連載の第1回目は

「なぜいま曖昧さ思考なのか~思考を抽象化しなければ独自で強い発想は生まれない」

として総論的な考察から始め、
その後4回にわたり
「曖昧に考える力」を養う誌上演習を行います。

 ・第2回:曖昧なことを「定義化する」
 ・第3回:曖昧なことを「モデル化する」
 ・第4回:曖昧なことを「比喩化する」
 ・第5回:曖昧なことを「マンダラ化する」

是非、誌面でお会いしましょう!


 

2011年4月30日 (土)

3つの「助ける」~援助・互助・自助

Koinob 2011 


私たちは今回の震災で多くの「助ける姿」・「助ける精神」をみた。

街角には多くの人が義援金箱を持って声をからした。
義援金はメディアを通しても、そして海外からも集まった。
お金だけではなく、生活物資も全国・世界から届けられた。
そして救出・救援・復興・再建のための労働力もさまざまな形で提供されている。
こうした被災者・被災地を「援助」するためのものが
広範に迅速に寄せられるのをみるにつけ、人の行為の有難さをあらためて感ずる。

同時に私たちは、被災者の方々が互いに支え合い、勇気づけ合う姿を数多く目撃した。
世知辛くなった現代社会、人づきあいが淡泊になったと言われる地域社会で、
「いや、人同士のつながりや絆はいまだ健在だった」と感じることができた。
「互助」の精神は日本人のなかに、そして国境を越えて人類のなかに、
きちんと生き続けているのだ。

さて、気がかりなのは「自助」だ。
確かに、地震から1カ月半が経って、
たくましくみずからの人生を立て直そうとする人びとの物語を
私たちはテレビなどのマスメディアを通してひとつひとつ知ることができる。
しかし、いまだ多くの人は無為にしか過ごしようのない日々を送っているのが現実だろう。
立て直そうとする意志もある、身体もある、技術もある……しかし、
土地が汚染されていて作付けができない農家。
同様に、酪農家や漁師の人たち。

仮に作物ができたとしても、風評という力によってお客がつくかどうか。

「自らを助けよう」にも、仕事がかなわないのではどうにも立ち行かない。
「援助」もきた。「互助」もある。
しかし「自助」がくじけてしまっては、真の再生復興はない。

私たちは、例えば発展途上国への支援のあり方で次のようなことをすでに知っている。
―――彼らが真に必要なのは、
「お金」ではなく「お金を稼ぎ自立するための手段」であることを。

「自助」の根本は、仕事をすること。
そして「自助の精神」の根本は、仕事をやることに意味と喜びを見出すことだ。
今日の社会において、人は仕事を通じて、
生活の糧を得、自分の身体と精神をつくり、協働し、他者や社会に貢献していく。
そしてその過程がまさに「自らを助ける」ことにほかならない。

生きる意欲を持った者なら誰しも、援助だけで生きていくのをよしとしないだろうし、
互助だけで生きていくことにもどこか限界を感じるだろう。
(援助・互助は無論大事なものであるが)
私たちは最終的に、自助の力を湧き起こして、一人一人立ち上がりたいのである。

被災地外の人間にとって、募金や生活物資提供など外側からの支援はいろいろとできる。
しかし同時に、
自助という個人の内面の力に関し、いったいどんなことができるのだろう。

私自身が持っている答えのひとつは「言葉と観念」を差し出すことである。
ここでいう言葉は、「がんばろう」「つながろう」といったような励ましの合言葉というより、
肚にずしんと据わる観念(やさしく言えば“心持ち”)を含んだ強い言葉のことだ。
そうした「強い観念・強い言葉」は、人の内面に「強い力」を生む。
例えば、私は苦しいときに次のような言葉で自らを助けてきた。

 ○「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」。
 ○「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」。

                          ―――アラン『幸福論』 (白井健三郎訳、集英社文庫)


 ○「人生の幸福は、

  困難に出会うことが少ないとか、全くないかということにあるのではなくて、
  むしろあらゆる困難と戦って輝かしい勝利をおさめることにある。
  力というものは、弱点にうち勝つ習練から生じるのである」。

                       ―――ヒルティ『眠られぬ夜のために』 (草間平作訳、岩波文庫)


 ○「高い山の美しさは 深い谷がつくる」。

                                      ―――加島祥造『LIFE』 (PARCO出版)


 ○「(挑むべき苦痛がないとしたら)徳、勇気、強壮、剛毅、果断などを

  われわれの間で誰が尊敬するであろうか。
  人は軽薄の友である歓喜や、快楽や、笑いや、冗談によって幸福なのではない。
  むしろ、しばしば、悲しみの中にあって、剛毅と不屈によって幸福なのだ」。

                                       ―――モンテーニュ『エセー』 (原二郎訳、岩波文庫)


他人からの援助はとても有難い。

互いが励まし合うことも素晴らしい。
しかし問題は、一人家に帰り、一人部屋で考え、一人眠る段になって、
一人立ち上がる気力と行動を起こせるかだ。
一人っきりになって、結局、意気消沈してしまい、
何もできずじまいの日々を送ることは往々にしてある。
援助や互助が真に報いられるためには、それが自助と結びつかねばならないのだ。
だからこそ、自助が最も大事である。

その自助の精神を呼び覚ますために、私は強い言葉を送りたい。
そして平時から強い観念を教育プログラムを通じて広げていくのが
自らの仕事の重大な役目だとも感じている。

日本が真にこの震災を乗り越えたという証は、
経済がもとの状態に戻ったとか、町が再建されたとかいう以上に、
日本人の自助の精神が強くなったかどうかにある。

最後に。
昨晩のプロ野球、東北楽天イーグルスの地元仙台での第一戦。
勝利の試合の後で、嶋基宏選手が球場のファンの前で御礼の言葉を述べた。

 ―――「この1カ月半で分かったことがあります。
 それは誰かのために戦える人間は強いということです。
 今この時を乗り越えた先には、もっと強い自分と未来が待っているはずです」。

とても強い観念を含んだ、とても強い言葉であった。
私たちはこういう言葉を肚で聞いて自助の力を養っていく。
そしてこういった言葉を体現する個人が増えてくることによって、
社会全体が自助力を増していく。
もちろんその自助力は、経済力や文化力につながっていく。

震災後1カ月半が経ち、日本人は見事な援助、互助の姿を見せた。
以降は、私たち一人一人の自助が試されることになる。



*【参考図】
「3つの助」をイメージ的に表すと次のようになる……

3jo image 


 



2011年3月23日 (水)

命を懸けて働く人びとに感謝と敬意を


「命を懸けて働く」、「体を張って仕事をする」とはよく口にする表現ですが、
いま、まさに文字通り、みずからの生命を極度の危険にさらして働く人びとがいます。

福島原発の状況はまだ予断を許しませんが、
事が落ち着いた時点で、東京電力はそのリスクマネジメントに欠陥がなかったか、
改めて追及されることになるでしょう(たとえ想定外の大地震だったとはいえ)。
しかし、現下、
放射線を浴びながら不眠不休で事故の処理に当たる社員たちの献身は尋常ではありません。
(ましてや、彼らの家族も多くは被災難民なのですから)

また一方では、計画停電のために、日夜、刻々と変わる状況を見ながら、
停電規模を最小限に食い止めようと体力と神経をすり減らす東電社員たちもいます。

(過去に経験のない)計画停電が発表になった翌日、
結局、停電は行われず終日電気が来ました。
それをマスコミは「二転三転する判断」「事前通告なし」などという表現で批判的に報じ、
一般市民の一部はツイッターで
「やるならやる、やらないならやらないではっきりしてくれ!」「かえって迷惑だ!」
と非難めいた発信をしていました。

……これらの反応に私は違和感を覚えます。私の感覚では、
「結果的に電気が来たんだから有難いな。
現場の担当者たちも懸命に情報と技術を集めて回避してくれたんだろうな。お疲れ様」です。
特に何か商売をやっている人、病気の人にとっては、もっと有難かったにちがいない。
結果的に電気がみなのもとに来た―――これを喜び合うのが本当ではないでしょうか。

また、日ごろ何かと揶揄される公務員(役場の人たち)も頑張っています。
自分の家のこと、家族のことは二の次で、
混乱のなかで公務を献身的にやっている姿がテレビに映し出されている。
自衛隊員も、その屈強な身体を使って、
被災者をおんぶしたり抱えたりしながら、一人一人救出していく。
そして消防隊やレスキュー隊の放水活動。
人の働く姿がこれほど頼もしく勇ましいと見えたのは本当に久しぶりのことです。

こうした中、
「電気を何が何でも安定的に供給するのが東電の仕事だろ」
「税金もらって市民のために働くのが公務員。だから当然でしょ」―――
といったような暴君と化した顧客・納税者意識が私たちの心の中にあるとすれば、
それはとても残念なことです。

彼らの献身的な仕事は、もはや給料をもらっているとかいないとか、
給料分に見合っているとかいないとか、そんな次元の話ではない。
一人の人間が、やむにやまれぬ責任感、利他精神から必死に働いている心に
私たちは素直に敬意を捧げてもよいのではないでしょうか。

ましてや、(職業的にではなく)無報酬で、
人のため、復興のために動いている人たちに対しては、
無条件に最大限の敬意と感謝を捧げたいと思います。


◆とても残念な仕事

その一方で、とても残念な働く姿もあります。例えば、
すでにネット上で話題となっている週刊誌『AERA』3月28日号(朝日新聞出版)
の表紙と中吊り広告。
物々しい防毒マスクを装着した人物を強調的にクロースアップ撮影し、
警戒を発するように赤い文字で載せられた「放射能がくる」という大見出し。
中身の記事のタイトルも煽情的な表現が踊る。

私はそれを見た瞬間、心理的な嫌悪感と、生理的な拒絶感が走りました。
私もかつて雑誌メディアに身を置いた人間ですから、
雑誌に対しての評価は冷静にできるつもりです。

確かに記事の1本1本は読んでみればさほど過激ではなく、劣悪なものではない。
ジャーナリズムメディアの役割のひとつは世の中の監視機能ですから、
東電や政府の動きについていろいろな角度からチェックを入れるのはよいでしょう。
しかし、この号からじっとり臭ってくるのは、
エリート気取りのジャーナリズムの高慢さと
「部数を売らんかな」という商業主義、そのためのセンセーショナリズムです。

『AERA』側は、 「編集部に恐怖心を煽る意図はなく、
福島第一原発の事故の深刻さを伝える意図で写真や見出しを掲載しましたが、
ご不快な思いをされた方には心よりお詫び申し上げます」
お詫びメッセージをツイッターで発信したものの、
ツイッターという軽めのメディアを選んでいるところにその反省の軽さがうかがえます。
マックス・ウェーバーの言葉を借用すれば、
まさに “精神のない専門人” の鼻持ちならない姿がここにあります。

また、もうひとつの残念な仕事。
地震のあった3日後、都心から自宅に戻る電車の中で、
隣に立つ人の夕刊紙をふとのぞき込んだら、次のような記事見出しが目に入りました。
「大暴落市場でがっつり儲ける急反発株30社」 ……。
地震の被害が刻々と明るみに出るテレビ映像を横目で見ながら、
記者はこの記事を書いたのでしょうか。
そしてこの夕刊紙の発行人もこうした類の記事がイケル!とほくそ笑んだのでしょうか。

世の中は、有象無象の者がいて、有象無象の仕事をやることで、
多様性をもちながら動いていきます。ですから、
AERAの表紙や夕刊紙の儲け株記事がこのタイミングで出てもいいでしょう。
ただ、私はそれを不快に思うので、不買・不読という形で拒否します。
(今回はこの記事を書くためにAERAを読みましたが)
人によっては買って支持する人もいるでしょう。
拒否する人が増えれば、そうした行為・仕事は、弱まるか修正されますし、
支持する人が増えれば、そうした行為・仕事は、強まり増長します。

そうした意味で世の中を動かす根本は、一般市民(民衆)の感覚・観念です。
一人一人の感覚・観念は、家庭でのしつけや学校での教育にはじまり、
日常の会話、ネット上でのコメント、メディアの発信コンテンツなど
さまざまな方面からの影響によってつくられます。

人は(特に若いうちは)何かと刺激や快楽を欲する動物で、その面では、
真面目でまっとうな、そして考えることを要求する内容ほど見向きをしなくなります。
ですが、やはり良識ある大人たちは、地味で無視されようとも、
言うべきことを表に出していく労力を惜しんではなりません。
分別ある大人の無言放置という怠惰こそ、世の中をあらぬほうへ動かしてしまいます。
だから私もこうして地味で不格好だけれども声を出します。


◆義援金について

私も微力ながら義援金をしました。
で、私が行った先は「あしなが育英会」です。
もちろんどこの団体に寄付をしても被災者のために使われるわけですが、
私は特にこの震災で多く出るであろう遺児のための学費援助に協力したいと思いました。
「あしなが育英会」はそうした遺児の支援団体です。

こうした大災害が起こった時、当然のことながら、
支援は直接的な被害や被害者の復旧・救済に最優先に向けられます。
そんな中で、見過ごされがちになるのが間接的に被害を被った人たちの支援です。
親を亡くしたり、あるいは親が職を失ったりして、
学費を出せず進学をあきらめざるをえない子どもたちは、目立ちませんが多く出るでしょう。

私も大学に進学しようとした時、家庭の経済状況が悪く、
進学断念という不安にかられたことがありました。
結局は奨学金を得て進学できたわけですが、本当にその支援制度には有難みを感じました。
子どもたちが大切な教育機会を失うことは、
本人はもちろん、国にとっても大きな損失です。

ちなみに、私は寄付を習慣化することにしています。
そのヒントをくれたのはプロスポーツ選手です。
例えば、元阪神タイガースの赤星憲広選手は、
自分の盗塁数に合わせて車椅子を施設に寄贈していました。
また、ソフトバンクホークスの和田毅投手は、
「公式戦で1球投げるごとにワクチン10本、勝利投手になったら20本」という
ルールを決めて募金することにしているそうです。

これにならって私も、毎年1回、その年のメール受発信数をカウントして、
メール1本当たりいくらという金額を決めて、計算し募金をすることにしました。
メールの受発信数が増えるということは、
それだけ自分の事業も発展している証拠ですから、
事業を伸ばせば伸ばすほど募金額も増えていくという心の張りにもなります。

◆BUY福島・BUY宮城・BUY茨城
原発事故の処理が長引くにつれ、農産物の汚染問題も持ちあがってきました。
きょうの報道では、原発近辺の農産物から微量の放射線物質を検出したということで、
出荷停止になっています。
こうした野菜農家、酪農家も間接的な被害者です。

こうした方々に私たちができる支援は、
(もちろん政府の調査を終え、安全宣言を待ってのことですが)
「BUY福島・BUY宮城・BUY茨城・BUY岩手・BUY千葉」産品です。
また、風評を信じて、これらの地域のものを一緒くたに敬遠しないことです。
どんどん買ってあげることも大きな支援になります。 

実際のところ被災した方々が、
町の復興、人生の復興をやっていくために最も大事なものは「仕事」です。
仕事があれば、もちろんお金も回り出しますし、
何よりも「さぁ、頑張るぞ」と精神が持ち上がります。
真の復興はみなさんが「生きる手段・働く場」をしっかり手に入れるところからです。

原発周辺の土地の放射能汚染はとても気になるところですが、推移を見守るしかありません。
結果的に、近辺の農家の方々が、
これまでどおり大地に根ざして仕事が続けられるよう切に祈ります。

 




Ume 01 
「国破れて山河在り 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」―――
とは中国の詩人、杜甫のあまりにも有名な『春望』ですが、
まさにこの詩の表現を借りるなら、国流されて山河在り……。
それでも梅が花をつける季節がやってきました。
自然を恨むことなく、天を恨むことなく。前を向いて。


 

2011年3月13日 (日)

自然の容赦ない圧倒的な力に思ふ


Mo header 

3月11日の午後、地震発生の2時間ほど前ですが、
私はこのブログに「太陽の偉大さ」というテーマで記事をアップしたところでした。

  太陽の偉大さは何だろう……?
   一、途方もない光と熱であること
   一、絶えず惜しげもなく豪勢に与え続けること
   一、きょうも変わりなく東の地平から闇を破って昇ってくること

この日の早朝、いつもどおり近くの雑木林に散歩に出て、
あまりに春の到来を告げる日差しが穏やかだったものですからこう書きました。
そして、その数時間後に地震は起きました。
東京の私のオフィス部屋も恐ろしく揺れました。
そしてテレビ画面に刻々と入ってくる映像……。

* * * * *

それにしても、こうした自然の巨大な力を目の当たりにするとき、
私たちは自然・宇宙のなかに、
あくまでちょこんと生きさせてもらっているのだということを感じます。

一昨日の巨大地震・巨大津波は、
善人だろうが悪人だろうが、
金持ちだろうが貧乏だろうが、
男だろうが女だろうが、
子どもだろうが年寄りだろうが、
また、船だろうが車だろうが家だろうが工場だろうが、
それらを分け隔てなく、根こそぎのみ込んでいきました。
……その容赦のない圧倒的な力。しかしそれは意図ある暴力的な力ではない。

自然の容赦のない圧倒的な力は、太陽がまさにそれで、
太陽は地球上の生きとし生けるものに滋養のエネルギーを与えると同時に殺傷もする。
(例えば紫外線は殺菌・殺傷能力があります)
太陽は何を生かし、何を殺すか、といった意図は持たないように思える。
ただただ、容赦なく、平等に、無関心に圧倒的に与え続けるだけです。

私たち人間ができることは、そうした圧倒的な力の一部を借りて、
最大限に生きさせてもらうことです。
また、その力の背後には、もしかして大いなる意図・法則があるのではないかというふうに
叡智をはたらかせて強く生きることです。
人間が持つ物理的な力は大自然の力に比すれば極微たるものですが、
私たちの思惟は全宇宙をも包含することができます。

私たちは、古来、自然・宇宙に畏怖を抱いてきました。
この原初的な信仰心の根っこである畏怖の念は、
いろいろな意味で傲慢になりすぎた人間をよい方向へ引き戻す作用として大事なものです。

こうした自然災害が起こるたび、
畏怖をベースとして生きること、運命ということについての観を見つめ直すことができれば、
それはひとつの被災をプラスに転じたことにもなるのでしょう。
「地に倒れた者は、地を押して立ち上がる」―――これからの復興は、やはり自然の力を借りて、
自然とともにあるわけです。
人間はこれまでもそうして何度も立ち上がってきました。

まずは救出・救援と最低限の生活環境の復旧です。
がんばろう、東北(関東含め)! 
私たちも我が身のこととして、復興支援にどんな形であれ加わっていきたいと思います。

震災からまる2日が経ちました。
何事もなかったかのように、太陽はきょうも天から光を降り注いでいます。

 

 

2011年2月16日 (水)

植物が経る「春化」というプロセス


Huyukodachi 


東京では毎冬1回はドカ雪が来るものだが、それが一昨日来た。

今年大雪に見舞われている北国のかたがたには申し訳なくも、
東京では景色が一変するので、特に子どもたちなどは喜ぶ。
昔はイヌも喜び回っていたけれど(歌にもそう唄われた)、
最近は部屋飼いが多くなったせいか、
寒がってテンションの上がらないイヌもいるらしい。

朝の散歩に出かけると、近くの雑木林は白化粧をしてひっそりとしている。
葉っぱをすべて落とした裸の木々は、凍える中でも凛と立っている。
やせていて寒さに弱く子どものころからよく風邪をひいた私は、
いつも冬の木立を見ると
「木は動くこともできず、服を着ることもできず、かわいそうになぁ」と思った。

しかし高校のとき、
百科事典か何かを見ていたら「春化」(しゅんか)という単語にでくわした。
春化とは、温帯に生息する植物の多くが、冬の一定期間、
低温にさらされることで花芽形成が誘導される、その過程を言うらしい。
桜もその春化が必要な樹木で、
冬のこの厳しい寒さを経ないことには、春にあの花を咲かせないのだ。

「寒さも桜には意味のある試練なのだなぁ」と
高校生ながらに人生訓じみたものを引き出した私は、
仲の良いクラスメイトたちにそのことを感動ぎみに話したのだが、
「話が固いよー」といって一笑されてしまったことを思い出す。
そのとき一笑した彼らも、もうベテランサラリーマンで、立派な父親たちになった。
彼らは、春化の話をいま聞くとどう感じるだろうか……。


……そういえば、
演歌の沁みてきさ加減も、どことなく春化の話と通底しているなと思いつつ。


 

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