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2012年7月15日 (日)

「図解」から「図観」へ ~概念を「マンダラ化」する


THINK2012smr

ビジネス雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)の最新号が発売になりました。ここで1年間連載してきた
「曖昧さ思考トレーニング」もいよいよ最終回。
今回は、抽象度を上げて本質をつかむことの最終作業である「マンダラ化」について書きました。
その一部を紹介します。






* * * * * * *


◆図解表現としての「マンダラ」
   「図解」という思考手法・表現手法が、ビジネス現場では、ひとつの重要なリテラシーとして認識されるようになってきた。
   私は1994年、当時、出版社で雑誌の編集に携わっていたが、「これからは、紙の上に文字と写真を載せて記事にしていればいい時代ではなくなる。モニターの画面上で情報を摂取するのが主流になるときに、どういった形の情報の表現が必要になってくるのか。受け手がもっと直観的に、インパクトをもって、内容を理解するための新しい表現として何が開発されるべきか」といった問題意識をもって、米国に留学をした。
   私は米国のグラフィックデザイン界で進む「情報の視覚化」の分野に身を置き、先進的な情報地図やダイヤグラム、モデル図などを研究した。
   さて、図解的表現の分布を整理すると下図のようになるだろうか。

Risk df 00


   「地図・情報マップ」の世界はいまやどんどんその濃密化が進んでいる。カー・ナビゲーションシステムの画面にはより多くの情報が埋め込まれるようになっているし、「グーグル」などの地図にも店の情報やら広告情報が集積されている。「ダイヤグラムやチャート」といった主に数量・時経変化を表す図もますます進化していて、そのデザインのよしあしはプレゼンテーションの印象を左右する大事な要素になっている。
   また、物事の原理となる構造や仕組みを表す「モデル図」は、CG(コンピュター・グラフィックス)の発展でますます複雑化する傾向にある。テレビ番組などを観ていても、たとえば、宇宙の構成や人体のメカニズムなどが動的なモデル図で描かれ、視聴者はとても容易に理解ができる。

   このように図解的表現は、それぞれの分野で進化を遂げているのだが、私はさらにここでもうひとつの分野を考えたいと思っている。───それは、「マンダラ」だ。

   「曼荼羅(まんだら)」とは、広辞苑の説明では、「諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏・菩薩および神々を網羅して描いた図」とある。歴史の教科書や博物館、寺院などで一度は目にしたことがあるかもしれない。具体的にどんな絵図だったかは、ネット検索で「曼荼羅」と入力すればさまざま出てくるのでそれを見ていただくとして、要は、曼荼羅は、ある観念世界を1枚の平面に抽象的に表したものである。
   曼荼羅は物事を図で可視化するという意味で、図解的表現の1つと言っていいだろう。そして構造や仕組みを表しているので、その中でも「モデル図」のようなものだ。が、曼荼羅はモデル図に比べ、より抽象度を高くし、より重層的にメッセージを加えていく濃密さを持っている。また、必ずしも明解さを追求するのではなく、「にじみ」や「ぼかし」といった受け手に解釈をさせる暗示的な部分を残す特徴がある。
   そういった意味で、「構造を明らかにするモデル図」に対し、「世界観を提示する曼荼羅」となるだろうか。そんな曼荼羅を、私は抽象化思考の表現法の1つとして、「マンダラ」と表記して転用したいと考えている。
   本記事で「マンダラ」とは、「概念あるいは概念を捉える世界観を一幅の絵図に収めたもの」と定義する。よいマンダラの要件として、私が挙げるのは次のようなものだ。

・概念がよく定義化されたり、モデル化されたり、比喩化されたりしている
・その概念が持つ世界(意味的な空間)をよく表している
・その世界観は客観的であってもよいし、主観的であってもよい
・その絵図の表現には意味のにじみやぼかしがあってよい
(示唆的・暗示的なものでよい)
・目で考えさせる絵図である
・そして目から肚に落ちていく説得力がある
・絵図を通して本質を“観る”という意味で、図解的というより「図観的」である


◆「リスクとは何か」について考え表現せよ
   そうした図解表現としての「マンダラ」を理解するために、演習を通し、段階を踏んで「マンダラ」に迫っていこう。さて、演習テーマは、

        「リスクとは何か」について考え図で表現せよ。

   「リスク(risk)」は広い概念で多義的である。しかも外来語である。しかし、日本のビジネス現場では、すでに日本語並みに定着している。もちろん、英単語の“risk”は「危険(性)」という意味であるが、この演習はそういった字義的な説明を求めるものではない。

あなたの事業、あなたのキャリア・働き方にとって、
「リスク」(あるいはリスクを取ること)はどんな概念か?
それを考え、考えたことを表現しなさい。


───というものだ。まず、「リスク」を自分の言葉で定義してみよう。定義をするためには、いろいろな角度からその概念を見つめ、抽象度を上げて本質を引き抜いてくることが求められる。

   図2の列挙は、私が行っているワークショップで出てきた具体的な定義の一例だ。このように「リスク」という概念は、人により多義的である。

   個人で書き出したカードを一枚のボードに貼り出して、グループやクラス全体で共有すると、いろいろな気づきや創発が起こる。抽象的な思考は、数式の解を求める作業ではないので、唯一の正解値はない。どの答えにもその人なりの真実が含まれている。

Risk df 01


   次に各自から出たこれらの定義を参考にして、グループでさらに洗練させた定義を1つこしらえる。ここでは先ほどの故人でやった定義より一歩も二歩も本質に近づく表現が出てくる。たとえば、A班、B班の定義はこのようになった。


〈A班〉
「リスク(危機)とは、危険(danger)と機会(chance)の両面を持つコインである」。

〈B班〉
「リスクとは、挑戦に伴う影である。挑戦をしない場合にも、同じくリスクという影が伴う」。


───なるほど、両案ともひじょうに本質的な視点が入ってきたように思う。A班の定義は、リスクが一般的に危険性だけを考えるのに対し、実は機会の面を合わせ持つという両面性を捉えた。そしてまた「コイン」というメタファー(比喩)を用いている。これは誰もが誘惑される価値を持つことを含意するものだ。
   B班の定義もリスクが持つ両面性を捉えている。挑戦することのリスクと、挑戦を避けることのリスクである。また、「影」という語彙も効いている。つまり、リスクは挑戦という本体の大きさに比例して変わることを言い得ている。

◆リスクの両面性:「危険と機会」「資産と損失」
   さて、ワークショップでは、次に自グループで練り上げた定義を「モデル図」として表現する作業に移る。A班が仕上げたものが図2のAだ。
   これはこれで定義文を忠実に図化し、リスクの両面性を簡潔に表現してはいる。しかし、もう一歩踏み込んだ発展がほしい。たとえば、図1で数多く挙げられた定義のなかに、「リスクとは、人の気持ちによって大きさが変化する障害物である」や「リスクは、評価する者の心理によって伸縮するものである」といった視点がある。こうした要素を構造的に表現できればモデル図はもっとよくなる。

Risk df 02


   ちなみに、私が考えるAの改良図を図2の右に示した。危険と機会は両面でありながら、同時に、両者の度合いは相互に呼応して大きくなったり小さくなったりするという関係性まで示すことができた。「No risk, no chance」とか「High risk, high chance」などの表記を加えることで、いっそう分かりやすくなったとい思う。


   次にB班が作成したモデル図を見てみよう。図3のBがそれだ。「挑戦する」と「挑戦しない」が上下に分けられ、それぞれにリスクを表す影が付けられている。
   さて、ここからもっと思考を発展させ、よりふくらみのあるモデル図にしてみたい。この図の特徴は、横に1本の線を引き、挑戦すること(=ポジティブな態度)と、挑戦しないこと(=ネガティブな態度)を対照的に描いているところだ。そこで、そのポジティブとネガティブに着目して、関連する何かを図に加えると、より説明力が増す。
   では抽象度を上げて自問してみよう───「挑戦というポジティブな態度をとると、何が生じるだろう?」。逆に「挑戦しないというネガティブな態度をとると、何が生じるだろう?」。……挑戦の後には、成果物、経験知、感動・自信、人とのつながりといったものが手に入る。これらは自分にとって資産とも言うべきものだ。逆に、挑戦しなければこれらのものを得る機会を失う。

Risk df 03


   つまり、次のようなことが見えてくる───「挑戦にはリスクがある。しかし、このリスクを乗り越えたところには、資産獲得が期待できる」「挑戦しないことにもリスクがある。このリスクは機会損失につながっている」。
    しかし、ここで一つの疑問が出てくる。挑戦する場合、成功もあるが失敗もある。失敗はネガティブなことではないのか。だから、挑戦することの半分は、ネガティブゾーンとして図を描かねばならないのではないか、ということだ。これはとてもよい自問である。
    失敗は一見、成功の反意語でネガティブな意味に捉えられる。しかし、発明王エジソンはこう言っている───「私は失敗したことがない。うまくいかない1万通りの方法を見つけたのだ」と。つまり、失敗は1つの経験知であり、成功への立派な過程であるということだ。となれば、失敗もまた資産側に計上すべきものである。この考え方に立てば、成功の反意語は、「挑戦しないこと」となる。
    それで、思考をあれこれ巡らせた結果が、図3の【B-発展】になる。ちなみに、「挑戦する」の右上に「種」とあるのは、成功するにせよ、失敗するにせよ、挑戦という行動の中には、次の挑戦の種が宿されることを表現したかった。

◆「マンダラ化」とは図観=図によって物事を観る作業である
   さて、この「種」によって、どんどん挑戦が重ねられるという経時的な目線を入れると、図がさらに展開を始め、「リスク」という概念についての一つの世界絵、つまり「マンダラ」ができあがってくる。それが図4だ。

Risk df 04



   1回目の挑戦(チャレンジⅠ)を終えて、2回目の挑戦(チャレンジⅡ)にいくとどうなるか。挑戦した人間は「獲得資産Ⅰ」を得るし、挑戦しなかった人間は「後悔Ⅰ」が残る。チャレンジⅢ、Ⅳ、Ⅴと進むにつれ、それぞれ獲得資産がⅢ、Ⅳ、Ⅴと積み上がっていき、後悔Ⅲ、Ⅳ、Ⅴと膨らんでいく。前者は言ってみれば、「勇者の上り階段」であり、後者は「臆病者の下り階段」である。このような図を私は「マンダラ」と呼んでいる。

   1つの概念の定義化からマンダラ化まで思考作業を深めてくると、その概念についての理解がとてもふくよかなものになる。そして自分なりの解釈を絵図として把握することができる。マンダラはある部分、主観的な切り口によって描かれるので、たいてい作品としての個性が出る。しかし、マンダラを通して捉えようとするのは、あくまで普遍的な本質である。それはまさに「図によって観ること」(=図観)である。
   情報を図化する世界は、地図やダイヤグラム・チャートのように具体的なデータや数量を簡潔に表す方向があるのと同時に、モデル図や「マンダラ」のように概念を抽象化していってそれを一幅の絵図に収める方向がある。前者は「一見してのわかりやすさ」を求め、後者は「豊かな理解」を求めるものとなる。









2012年6月27日 (水)

新著『プロセスにこそ価値がある』刊行!

プロセスにこそ価値がある
今朝、出版社から届いた著者献本分の10冊。

書籍は今後、その大部分が電子メディアに置き換わっていくのだろうが、書き手・作り手にとってみれば、
やはり「手触り感」ある紙媒体の本として出来上がってくるほうが、比べようもないほどに嬉しいもの。



* * * * *

このたび独立後7冊目となる著書を上梓することができました。 プロセスに価値カバーs

『プロセスにこそ価値がある』
(メディアファクトリー新書)

〈序章より〉
仕事を嬉々としてやれる。嬉々とまではいかなくとも、穏やかに興味を持ってやり続けられる。「目標疲れ」しにくい仕事人生にしていく。そのために重要なことは何か?───それがこの本のテーマである「プロセス(過程)を大事にしよう」です。もう一つ加えておけば、結果とプロセスの先に「意味」を見つけることです。
この本は、目標や結果に追われるビジネス現場で、いま一度、「プロセス」について考えてみよう。すると毎日の仕事の景色が変わってくるぞ、そして中長期的に地に足の着いたキャリアを歩んでいけるぞ、という提言をまとめたものです。


きょうはこの本の中の議論を一部ここで紹介したいと思います。

* * * * *

   私が行っている企業内研修のサービスの中で、『キャリアMQ』という診断ツールがあります。これは個々の従業員の働くマインドや価値観がどんな傾向性を帯びているかを、65の設問に答える形で判定するものです。そこに次のような問いがあります。さて、AとBにつき、あなたはどちらの考え方に近いでしょうか───?

A;
「多少の無理や違和感があっても、
組織と合意して決めた業務目標をクリアするところに
働き手の成長がある」。

B;
「仕事はやりがいや納得感を最優先に設計されれば、
結果は後から付いてくるものだ。
無理な目標設定はかえって働き手のモチベーションを下げてしまう」。


   ……Aは「形ある成果を出すこと」を上位に考え(=結果主義)、Bは「きちんとプロセス(過程)を整えること」を上位に考えるもの(=プロセス主義)といえます。
   例えば、あなたがいま、いつも厳しい数値目標達成に走らされる部下であれば、「私は断然、Bです」と答えるでしょう。しかし、もし自分が経営危機に陥っているベンチャー企業の社長だったらどうでしょう。そのとき「私はBです」だなんて悠長なことを言っていられるでしょうか。

   で、実際のところ、このAとBの回答割合はどうなっているのか。私の顧客企業からデータを取って算出してみました。


Rvsp res02


   図にまとめたとおり、一般社員では人数のうえで、ほぼ7割(68%)が「プロセス重視」です。中間管理職はどうでしょう。状況は逆転して「結果重視」(52%)に振れています。これは経営側に寄っていけばいくほど、結果=利益を出さなければ、会社が回っていかないことの責任意識が強くなるためでしょう。あるいは、若い者をヘタに甘やかしてはだめだ、試練をもって成長させなければならない、といった年配者独自の考え方があるのかもしれません。
   しかしここで注目すべきは、結果重視とはいえ、中間管理職のなかで「プロセス重視」とする人数の割合は48%であり、半数に近いのです。これはおそらく、彼らもまた組織のなかでは上司を持つ身であり、「結果を出せ」のプレッシャー下にある身だからかもしれません。

   「結果とプロセス」のどちらが大事か?───は、とても悩ましげな問題です。「結果もプロセスもどちらも大事」と言ってしまうことは簡単ですが、それだけだと思考や意識が発展していきません。このテーマを深く考えることは、やがて「働くとは何か?」「仕事の幸福とは何か?」につながっていくからです。

◆「しんどくてツライ」か・「しんどいけど楽しい」か
   私は、企業の現場で「仕事とは何か?」「よりよいキャリア(職業人生)とは何か?」「プロフェッショナルとは何か?」といったテーマを研修にして実施しています。そうした教育プログラムを開発するにあたって、顧客企業の人事担当者といろいろと討議をするのですが、そのときに必ず出てくる職場問題の一つが、

───「みんな『目標疲れ』している」ということです。

   「目標疲れ」とは、毎期毎期、個人に課される数値目標、担当部署が掲げる数値目標を達成せよというプレッシャーに疲れることです。確かに、目標どおりに結果が出れば、達成感があってうれしいですし、その努力は給料にも反映されることでしょう。ですが、昨今の経済は必ずしも右肩上がりではなくなり、単純に対前年何パーセント増という目標を立てて結果を出すことが難しくなっています。加えて、多くの会社が成果主義制度の導入に踏み切ったことで、「結果を出さなければ」の精神的負荷はますます一人一人の社員に増しています。

   私もサラリーマン時代の経験で知っていますが、思うとおりの結果が出ないときは気分が落ち着かないものです。胃も痛くなるし、頭もさえない。上司との会話もぎこちなくなるし、自分が何かフワフワと漂流している感じで、「このままの状態でいいのかな」と不安にもなります。ましてや年次が上がってきてチームリーダーや管理職ともなれば、今度は自分が目標を部下に課さなければならなくなる。「サザエさん症候群」ではありませんが、日曜の夕食時、テレビからあの番組のテーマ曲が流れてくると、気分が重くなったものです。

   次の図を見てください。Aさん、Bさん、2人の働き様を表しました。

   Aさんの状態は逆台形です。とても不安定で、いまにも倒れそうな感じです。なぜなら、目標が重くのしかかっていて、自分の能力と時間をどう使うかというプロセスが小さくしぼんでいるからです。こういうあっぷあっぷの状態で、なんとか日々の仕事をやりきっている人が、実は日本の職場に増えています。仕事が「しんどくてツライ」という心理モードです。

Hatarakizu


   他方、Bさんはとてもどっしりとした形になっています。言ってみれば「富士山の上に太陽が輝いている」感じです。プロセスが力強く土台をつくり、そこから目標へとつながっています。そして目標の先に目的があります。「目標」と「目的」という言葉は混同して使われがちですが、目標とは単に成すべき数量や状態を言い、目的はそこに「~のために」という意味が加わったものです。

   Bさんの図で注目すべき点は、上で輝いている目的がモチベーション・やる気を起こし、プロセスを刺激していることです。
   人間は意味から力を湧かせる動物です。ですから、結果を出すことのプレッシャーが多少あったとしても、自分のやることに意味を見出していれば忍耐力と継続力をもって頑張ることができます。その力はプロセスを育みます。そして最終的に結果につながっていくわけです。すると、また次の目標に向かっていける。「しんどいけど楽しい。もっと挑戦してみよう!」という気持ちになれるのはこうしたメカニズムによるものです。

   Aさんはいわば、「目標に働かされる働き様」で、
   Bさんは、「みずからの目的に生きる働き様」と言っていいかもしれません。

◆「結果追求」から解き放たれた人間が得る「ライフワーク」
   男子フィギュアスケートの高橋大輔さんは、2010年のバンクーバー冬季五輪で銅メダルを獲得した後、将来のことについて、「スケートアカデミーみたいなものを作ってみたい。僕はコーディネーターで、スピン、ジャンプとかそれぞれを教える専門家をそろえて……」と語っていた。結局、その後も現役続行ということでこの計画はしばらく置くことになりましたが、彼は将来必ず実行すると思います。

   また同じように、プロ野球の読売巨人軍、米メジャーリーグで活躍した桑田真澄さんも引退表明時のコメントは次のようなものでした。───「(選手として)燃え尽きた。ここまでよく頑張ってこられたな、という感じ。思い残すことはない。小さい頃から野球にはいっぱい幸せをもらった。何かの形で恩返しできたらと思う」。その後、彼は若い世代への野球指導の道で精力的に活動を続けています。

   一方、プロサッカー選手として現役にこだわる三浦知良さんはこう言います。───「かなったか、かなわなかったかよりも、どれだけ自分が頑張れたか、やり切れたかが一番重要」、「成功は必ずしも約束されていないが、成長は約束されている」(『カズ語録』より)。

   勝負の世界を生き抜いてきた3人のこうした発言には、「結果を出すこと」を超えたところにある何か深い境地が感じられます。彼らは、いまや、フィギュアスケートと共にある人生、野球と共にある人生、サッカーと共にある人生、そのプロセス自体を深く噛みしめながら毎日を送っている。もちろんプレーをすることは依然最上の喜びでしょうが、人を育てることにも強いやりがいがあるでしょう。スポーツ普及のためにさまざまな場所で論議をし、イベントを企画・開催する。そうしたことに知恵を出すのも刺激的にちがいありません。
   そこには「結果追求」から解き放たれた人間が得た「ライフワーク」があります。ライフワークとは、人生の「大いなる目的」を見つけ、そこに向かう「大いなるプロセス」に没頭できる毎日です。

◆「結果・成功」は一時的な興奮vs「プロセス・意味」は継続的な快活
   有名プロスポーツ選手に限らず、人生の後半からほんとうの自分らしさを手に入れている人たちを観察して、私があらためて思うのは次のようなことです。

○働くことの成熟化に伴って、「結果・成功」志向は弱まっていき、「プロセス・意味」志向になる。これは個人にも組織にも当てはまる。

○つまり、「結果・成功」を手にするよりも、「意味」のもとに自分が生きている/生かされている「プロセス」に、より確かな喜びを感じるようになる。

○「結果・成功」は高揚や興奮を与える。しかし一時的である。「プロセス・意味」は人を快活に・辛抱強くさせる。それは持続的である。

○「プロセスを楽しむこと・意味を見出し満たすこと」がキャリアや人生の目的になる。「結果・成功」はそのための手段となる。「結果を出さねばならない・成功しなければならない」が目的化すると、よからぬ回路にはまり込む。


   このあたりのことを、賢人たちの言葉から補っておきたいと思います。

「人間の値打ちとは、外部から成功者と呼ばれるか呼ばれないかには関係ないものです。むしろ、成功者などと呼ばれない方が、どれだけ本当に人生の成功への近道であるかわかりません。だれが釈迦やキリストを成功者だとか、不成功者だとかという呼び方で評価するでしょうか。現代でも、たとえばガンジーやシュバイツァーを成功者とか、失敗者とかいういい方で評価するでしょうか。世俗的な成功の夢に疑惑をもつ人でなければ、本当に人類のために役立つ人にはなれないと思います」。

                              ───大原総一郎(『大原総一郎~へこたれない理想主義者』井上太郎著より)


「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」「無駄に終わってしまったように見える努力のくりかえしのほうが、たまにしか訪れない決定的瞬間よりずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか」。

                                              ───湯川秀樹(『目に見えないもの』講談社学術文庫あとがきより)


   このお二人の無私で透明感のある言葉を、私はようやく咀嚼できるようになってきました。とはいえ、次のメッセージも決して忘れてはならないものです。

「勝ち負けは関係ないという人は、たぶん負けたのだろう」。

                                   ───マルチナ・ナブラチロワ(テニスプレイヤー)


   そう、やはり勝つという結果にはこだわるべきなのです。特に若いうちは、野心でも利己心でも、ギラギラと何かを獲得しようと動き、もがいたほうがいい。最初から結果を求めずに、「私はプロセス重視派です」なんて言うのは、実際のところ、逃避か臆病か怠慢の言い訳にしかなりません。そういう姿勢は、結局、先の2人(大原と湯川)の言った「成功を考えないこと・プロセスが実は大事であること」の深い次元での理解からも遠くなります。

◆幸福とは意味に向かって坂を上ること
   結果や成功を語るとき、そこに忘れてはならないワードは「目的」です(目的は“意味”と置き換えてもよい)。何のための結果を追い求めているのか、何のための成功を欲しがっているのか───それが何か大きな意味につながっているなら、やがて結果も成功も心の中心から外れていくでしょう。代わって、プロセスに身を置くことが幸福感として真ん中に据わってきます。
   ですが、そのとき仕事がまったくラクになるかといえば、そうではないでしょう。ほんとうにやりがいのある仕事はやはり「しんどい」んです。挑戦であり、戦いですから。「けど楽しい」。これが事実です。幸福というのは、決して安穏として夢見心地に浸る状態ではありません。

   「幸福とは、自分が見出した意味に向かって坂を上っている状態」。
   ───これが私の考える幸福の定義です。

   フランスの哲学者アランが『幸福論』(白井健三郎訳、集英社)の中で、「登山家は、自分自身の力を発揮して、それを自分に証明する。かれは自分の力を感ずると同時に考慮する。この高級な喜びが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、この登山家と同じ太陽を見ることはできない。……人は意欲し創造することによってのみ幸福であると言っているとおりです。そして、そうした状態でやっている仕事が、実は「天職」なんだろうと思います。

   「結果とプロセス」どちらが大事か、という問いに対する私の結論は、次の一文に集約されます─── 「大いなる意味」を見つけ、そこにつながる「大いなるプロセス」を一つ一つ楽しもう!
 (「大いなる意味」の下で働くとき、「結果」を出すことは、大いなるプロセスの中に溶け込んでいく、あるいは、「結果が出た/出なかった」に一喜一憂せず泰然自若と構えられるようになる)


   これを日々溌剌と実践できる個人が一人一人増えていくことによってこそ、溌剌とした組織、快活で健やかな社会ができあがるのだと思います。
  
   では、本書でお会いできることを願って!




2011年10月 5日 (水)

正常値に収まっているから健康なのではない


Yatsu pkn 
野菜の市場はさながら「自然の造形ワンダーランド」。
ひとつひとつのいのちが纏(まと)うひとつひとつの造形は、人為ではとうていつくりえない表現物。

───八ヶ岳中央農業実践大学校(長野県)の直売所にて



昨晩、テレビのニュース番組で、
聖路加国際病院理事長の日野原重明さんが100歳を迎えたことを報じていた。いまも現役で医療活動を続ける先生の姿を拝見するたび、

自分も生涯かくありたいと気が引き締まる思いです。
私の読書メモから先生の言葉をひとつ紹介しましょう。


  「健康とは、数値に安心することではなく、
   自分が『健康だ』と感じることです」。

              ───日野原重明『生きかた上手』より


私たちは、なにかと数値で管理し(され)、時間で管理する(される)時代に生きています。
仕事上のことのみならず、生活上のことまで、
管理表や時計の中に収まるよう自分を仕向けます。
数値管理による生活は、“小さな安心・満足”は得られても、
生きていることの“大きな実感・自由感”は失われます。
ときに数値を離れ、時計をはずして、
自分の感覚で伸び伸びと生活を味わうことが大切ではないでしょうか。

* * * * *

私たちはしばしば、数値に収まること、数値を獲得することを目的化するときがあります。
そのとき、たいてい手段が目的に変わってしまっている場合が多いものです。

私はフィットネスクラブに通っていますが、そこでは、
「体脂肪率を何%以下にする」「胸周りの筋肉を何cm増やす」「背筋力を何kgまで強める」
といったことを目標に日々クラブ通いする人たちがいます。
「この数値のためなら、多少健康を損ねてもいい!」くらいの勢いの人もいます。
また、英語検定のひとつにTOEICがありますが、
「TOEICで満点を取る」ことをひたすら目指す人たちも世の中にたくさんいます。
これらは趣味だと考えれば、向上意欲をもった立派な趣味なので、
おおいにけっこうなことではあります。

しかし、やはり最終的に大事なことは、
それら数値に収まること、数値を獲得することを超えて、
その健康な身を使って何を行うか、その語学力で誰に何を語るか、です。
結局、身体や言語は、何か事を成すための手段なのです。

健康のことで言えば、
日野原先生は生きがいをもつことが最大の健康法だとおしゃっています。
生きがいとは、生きる上での“大きな意味”です。
大きな意味のために、自分の身を最大限に活かして使っていく。
その過程の中でこそ、人は伸び伸びと健康になっていくものだと思いますし、
健康でなければよい仕事ができないので、自然と健康増進にも気を配るようになる。

結局、「目的」が一番大事です。
目的の質とレベルに応じて、人は強くなり、賢くなれるのです。



 

2011年9月 2日 (金)

「形→本質」が日本のものづくりの道

Ipnwecp 


日本民族のコンピテンシーは手先の器用さ・繊細な感覚である。

日本はその能力を生かしハード的に優れたモノをつくってきたが、
形状・性能・価格といった「form」次元だけで戦うのは難しい時代に入った。
「form」を超えて「essence」次元にどうさかのぼっていくか───次のステージはそこにある。



◆意志を宣言するアップルvs性能説明をする日本メーカー
 2011年、春の携帯端末機商戦。アップルは『iPhone4』の広告を展開していた。宣伝のためのポスターやリーフレット、ウェブページには、 「すべてを変えていきます、もう一度」 「見たこともない電話のかけ方を」 「マルチタスキングとはこうあるべきです」といったコピーが載せられていた。
 一方、日本の端末機メーカーの宣伝コピーはどうだったか─── 「最薄部8.7mmのエレガントデザインと磨きぬかれた映像美の世界」(ソニー・エリクソン『Xperia arc』)、「トリプルタフネスケータイ~耐衝撃・防水/防塵構造」(NEC『N-03C』)、「ボタンが押しやすい約10.4mmスリムケータイ」(パナソニック『P-01C』)、「バカラのきらめき、歓びのかたち」(シャープ『SH-09C』)。アップルと日本メーカー勢とでは、明らかに商品の訴え方に違いがある。この違いは何なのか? そしてこの違いはどこから生じてくるのか?

 アップルは自分たちが考える携帯端末機の「あるべき姿」を提示し、主観的な意志を宣言している。一方、日本メーカーは、ハード的な性能優位を謳うのが目に付く。それは客観的で説明的な言葉だ。

 図1に示したように、アップルはコンセプトやスタイルといった「コト的」なものを創造することを志向し、抽象的な次元から絶対評価の眼をもって商品づくりをしている。ちなみにここで言う「コト」とは、商品の差異化手法としてよく用いられる記号論的な付加価値(例えば、ある商品に伝説的な物語を付与することによりステータス性を醸し出すことができる)のようなイメージ要素としてのコトではない。「根っこにある何か本質的なコト」という意味で用いている。
 一方、日本メーカーはこぞって、データやスペック(仕様・性能)といった「モノ的」な出来栄えにこだわり、具体的な次元から相対評価の眼で商品づくりをしている。この両者の違いを見て、それが単にコトからのアプローチとモノからのアプローチの違いであると片付けるわけにはいかない。そこには「本質」をつかまえているかどうかの重大な差があるのだ。


Z01 


◆アップルは「essence→form」・日本勢は「form→form」
 世の中の事象において、 「本質は形をまとい、形は本質を強める」 という相互作用がはたらいている。内側に本質の円を、外側に形態の円を描き、それを表したのが図2である。
 アップル「iPhone」の成功は、彼ら自身がとらえた本質的なものを起点として、それを巧みに形態(携帯端末機のハードやソフト、そしてビジネスモデルといった目に見えるもの)に落としたことにある。つまり、「essence→form」の流れがそこにある。もちろん彼らとて最初から本質が明快に分かっていたわけではない。プロトタイプ(試作品)というモノを何度も何度も起こし、仮説として抱いた本質を研ぎ澄ませていくという「form→essence」の流れも同時に起こしたのだが、あくまで主導は「essence→form」である。言い換えれば、彼らの思考は「inside-out」(内から外へ)なのだ。
 さて、伝統的に優れたモノづくりをする日本人の思考はどうか。それは端的には「form →essence」主導の流れだ。 “神は細部に宿る”を体現した伝統工芸品、あるいは茶道や華道、柔道、剣道、能、歌舞伎など「型」を究めて本質にたどりつく修業などはその典型である。日本人は古来、「outside-in」(外から内へ)の思考なのである。

Z02 


 しかし問題は昨今の日本のモノづくりがどうかだ。「essence→form/inside-out」であれ、「form→essence/outside-in」であれ、本来、どちらが良い悪いというものではない。本質をつかみ取るかぎりにおいては、どちらが主導でもよい。それで携帯端末機市場を例に取れば、日本メーカーはやはりformから入っている。しかし、そこからformを究めることで、essenceの次元に上がっていっているだろうか……。残念ながらformの次元に留まり、相対的なハード面での競争を繰り返すだけのように見える。つまり、「form→form」「outside-out」の思考に陥ってしまっているのだ。

◆曖昧さ思考と明瞭さ思考
 図3と図4はアップルと日本メーカーの思考の違いをさらに詳しく考察するために描いたものである。図に示したとおり、「essence」と「form」の間は、「本質→価値・意味→コンセプト→仕組み・スタイル・型→性能・技術→モノ・サービス」といったものが複雑なグラデーションを織りなしながら連続している。
 私たちは「essence」を究めていこうとすればするほど、「曖昧さを取り込む思考」が必要になる。それは言ってみれば「ファジー(fuzzy)な思考」であり、抽象的に、輪郭を描かず、示唆化するように考えることである。そこでは、不確実性・曖昧さを受け入れ、ものごとをまるごと包み込んでとらえようとする全体論的な姿勢となる。また、主観的解釈で仮説を立てる、綜合的・拡散的である、問いに向かって非直線的に、というのもこの思考の特徴となる。ちなみにここで言う「曖昧さ思考」は、「曖昧な思考」とは異なる。前者は曖昧さをもって強く考えることであり、後者はどう考えをまとめてよいかわからず曖昧な状態に留まることである。
 他方、私たちは「form」を究めようとすればするほど、「明瞭さに落とし込む思考」が必要となる。それは「ソリッド(solid)な思考」とも言うべきもので、具象的に、明示して、形式化するように考えることである。そこでは、不確実性・曖昧さを排除して、ものごとを細かに分解し調べて理解しようとする還元論的な姿勢となる。また、客観的説明を積み上げていく、分析的、収束的である、解決に向かって直線的に、というのがこの思考の特徴となる。


Z03 


 アップルは図3のように、抽象度という川をさかのぼっていく曖昧さ思考と、具象度という川を下っていく明瞭さ思考の2つの次元を大きく往復運動しながら事を進めている。そのようなダイナミックな思考過程から、デジタル機器・デジタルライフのあるべき姿や体験価値・体験世界を考え、コンセプトを起こし、「iTunes」によるビジネスモデルを創出し、「iPod」はじめ「iPhone」や「iPad」といったハードを生み出した。彼らのつくり出すものは断片的な製品やサービスのひとつひとつではなく、まさに「i-Something」ともいうべき“ホールプロダクト(whole product)”なのだ。

 真に成功するイノベーションは、技術中心ではなく、人間中心である。人間中心であるとは、曖昧で不明瞭で、ときに揺らぎ、ときに執着するような人間の想いや欲求の核にあるものをとらえることを最重要事項とする。そして、「お客様、あなたの欲しかったものはこういったものではなかったですか?」といって形にして差し出すために技術を使う。
 確かに、消費者から日々寄せられる具体的な声を分析し、商品開発に役立てることは欠かせない。しかしそれら客観的分析アプローチから可能になるのは、改良や改善であって、既存枠を打ち破るような商品の創出ではない。なぜなら消費者は目の前にある具体的な商品については雄弁に語るが、いまだ体験せぬ夢の商品に関しては語れないからだ。よく言われるのはこうだ。―――「消費者の声分析はクルマのバックミラーのようなものだ。後ろはよく見せてくれるが、決して前を照らして見せてくれるわけではない」。
 だからこそ、消費者の声を超えて、つくり手こそが大胆に主観的な直観で仮説を立て、曖昧さの中へ深く入り込んでいかねばならない。そしてそれを形にして、しつこくお客様に差し出すことを繰り返さねばならない。アップルはそれをやっているのだ。

◆ものづくりが「form」次元で勝てる時代は終わった
 他方、日本メーカー勢はそれに比べ、残念ながら図4のように思考の幅が縮こまった形になっているように思える。思考を曖昧さ次元に切り込むことなく、洞察がモノ寄りで留まっている。だから、出てくる製品や広告メッセージはどれもハード的な性能を謳うだけになってしまう。加えて、日本のメーカーにはアップルのようにホールプロダクト的な世界観がないために、ハードの性能で局所局所で戦うしか方策がないという状況もある。


Z04 


 昨今の一般消費財の開発・製造現場は、スピード化と生産効率化のプレッシャーが過酷である。システマチックに大量にモノづくりを行う大きな組織の製造業であればあるほど、アイデア出しから技術検討、コスト検討、意思決定などに関わる思考作業をできるだけ効率化させたいという誘惑にかられる。そのために洞察の過程は分業化され、計画立てられ、目標に向かって直線的になる。「次の製品は現行より何ミリ薄くできます」「他社より安く商品化できそうです」といった「form」の次元でモノづくりを考えるほうが、多くの関係者がわかりやすし、コンセンサスも得やすい。明瞭さ思考に留まることは、万人に明瞭であるがために、ある意味、組織を動かすにはラクなのである。
 しかしそれと引き換えに、着想と試作の往復運動はどことなく機械的に硬直化してしまう。そこからは突拍子もなく独創的であるとか、パラダイムを変えるようなエポックメーキングなものが出づらくなる。「品質はいいけど、面白みがないね」と言われる日本の製品の多くはこの回路の中にはまっている。
 アップルが大組織にもかかわらずその硬直化を免れているのは、スティーブ・ジョブズ氏のいい意味での変人ぶりと、コンセンサスを得ることの困難を恐れず、曖昧さ次元を漂う思考を楽しもうとする組織文化があるからだ。そしてまた、ジョブズ氏の無理難題な夢想に技術が試作で応えようとする強靭さもある。

 市場や店頭には、日々さまざまに具体的な商品が現れてくる。また、新聞や雑誌、業界紙などにもそれらの情報が溢れる。しかし、すでに誰かが形にしたものに振り回され、他社の成功物語に浮足立つより、私たちにはやるべきもっと大事なことがある。それは一生活者に立ち返って、自分のなかに曖昧とある想いや願望、意味や価値の芯が何であるかに考えを巡らせることだ。 「form」の次元に拘泥せず、「essence」の次元に上がっていくこと───これが日本のものづくりに課せられた問題である。そしてそれは突き詰めれば、1人1人の働き手が「曖昧に考える力」を養い、個として局面を突破できる独自で強いアイデアを出せるようになるかという教育、あるいは組織文化の問題となる。

◆思考ツールの簡便さが思考力を弱めている
 「form」次元に思考が留まっているのは、何も携帯端末機メーカーだけの話ではない。広く私たち1人1人のビジネスパーソンの思考もそうなってしまっているきらいがある。明瞭に物事をとらえ、整理し、説得するためにロジカルシンキングやフレームワーク思考の習得が花盛りである。確かにこれらは有益なスキルではある。
 しかし私が企業の研修現場で、そして大学院のMBA(経営学修士)課程で少なからず目にするのは、それらが簡便なツールと化し、もはやその型や枠に物事を流し込むことで何かを考えた気になったり、その行為自体が目的になったりしている風景だ。まさにこれは思考の型や枠といった「form」に留まっている姿である。

 私たちは物事を「的確に合理的に考えるため」にロジカルシンキングやフレームワーク思考を取り入れている。しかし、実際は「ラクで能率的に考えるため」にすり替わっていることが多い。評論家の小林秀雄はその点をこう喝破する─── 「能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いをしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。(中略)考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう」 (『人生の鍛錬』新潮社より)。

 考える手間を省くことを習慣化すると、頭はやがて形式化され単純化された情報しか処理できなくなる。昨今の若年層社員についてしばしば指摘される個別具体的に記述された文章しか読めない、マニュアル化されないと行動ができないといった傾向はこのことと無関係ではない。

 「その話は抽象的だ」というのは、多くの場合、ネガティブな意味に使われる。しかし、本質を含んだ深く広いことは、抽象的ににじみやぼかしを含んでしか表せないことがある。例えば、パスカルの放った「人間は考える葦である」という言葉はとても抽象的である。これを私たちは「抽象的すぎる」と批評できるだろうか。それを抽象的だという人は、実は、その本人に抽象的な表現を読解する力が欠けているからということもある。

 時代をあげた「わかりやすさ信仰」「論理思考信仰」「即効・能率信仰」によって、私たちはとても大事なものを捨て去っている。いったいぜんたい、アップルのジョブズ氏がマシンガンのように夢想的アイデアを発するとき、周辺に「わかりやすく」と気づかっているだろうか、ツリー図にして系統立てて考えているだろうか、“MECE”(モレなく、ダブりなく)で語らなきゃいけないなど意識しているだろうか。それは結果的に「誰かが後付け」でやっているのだろうが、最初の枠を打ち破るところのアイデアは、とても無秩序で理不尽で破天荒でつじつまの合わない、むしろ穴だらけ、甘さだらけの、抽象的で多くが理解に苦しむアイデアであったに違いない。しかし、このブレイクスルーを個々の人間がやれるところに、そして組織もそれを奨励するところにいまだ米国の強さはあるのだ。

 日本人は手先の器用さ・繊細さを長所とし、モノから思考し、他から型を取り込んで我が物としてしまうことに秀でた民族である。しかし時代は、モノや型といった「form」次元のみでビジネスを制することがますます難しくなってきている。抽象的な「essence」の次元に思考を巡らせ、曖昧さを許容し、むしろ曖昧さを味方につけなければ、真に強い独自の商品は生み出せなくなっている。曖昧さ思考は、明瞭さ思考に比べ直接的・即効的ではないが、“根本的”である。
 能面から無限の表情を読み取り、碗のひび割れからも茶の幽玄の世界を観る。ひとつの所作のなかに道の奥義を込める。日本人が古来持つ「form」を究めて「essence」をつかむ能力をいまこそ再生すべき時がきている。そうすることで私たちはアップルやグーグルとは異なった、そしてまた安さで勝負をかけてくる新興諸国とは異なった形で世界とやりあっていける。



【後記】
この記事は、ビジネス雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)2011年夏号に寄稿した
「曖昧さ思考トレーニング」の一部分を再編集したものです


私もかつてはメーカーに勤めていたので、
日本のものづくり(広く製造業)の問題はそう易々と語れないことを承知しています。
そんな中で、「form」と「essence」、
そして「曖昧さ思考」と「明瞭さ思考」という切り口で問題を私なりに書いてみました。
業界の現場、アカデミックな世界から見れば、本記事は、
穴だらけ、不足だらけで、論理飛躍の箇所がいくつもあろうかと思います。
しかし、未熟だろうが、偏っていようが、不格好だろうが、
私はこうした主観的な見解を個々の日本人が怖がらずにもっともっと発し、
建設的な目的の下に考えを交流すべきだと考えます。

私もかつては企業組織の中で数えきれないほど討議をやりましたし、
今でも顧客企業の担当者と議論を重ねたりします。
そこで感じることは、皆があまりにロジックを組み立てることに懸命になり、
その結果、モレやダブリを気にして思考が縮こまったり、
フレームワークの中に収めようと思考が窮屈になったりすることです。
説明を受ける側も、どこかにロジックの欠陥はないかとそんな目線になる。
会議の場は、分析や批評が溢れはするが、
ついぞ「自分たちはどうするんだ」とか「自分たちは事業をこう定義する」といった
肚から出る主観的な意志や見解は立ち現われてこない。
結局、対前年何%増といった事業計画上の数値目標だけが、
客観性・合理性を帯びた金科玉条として組織の中を跋扈することになります。


私は日本の製造業がもっと力強く続いてほしいと願いながらこの記事を書いています。
そのためのキーコンセプトは「曖昧さ思考」だと思っています。
本文でも触れたとおり、「曖昧さ思考」は「曖昧な思考」ではありません。
「曖昧さ思考」とは、曖昧さの中で、曖昧さを相手にしながら、
曖昧さの奥に潜む本質をつかむ思考のことです。
一方、「曖昧な思考」は考えがまとまらず、頭がモヤモヤとしている状態です。
もちろん分析的にロジカルに考えるという「明瞭さ思考」は前提として不可欠です。
で、その「明瞭さ思考」を超えたところの「曖昧さ思考」の発揮なくして
日本の製造力、ビジネス力、経済力の力強い維持は難しいと思っています。

 

 

2011年7月20日 (水)

You, imagine !


昨日、アカデミーヒルズ(東京・六本木)のセミナーに参加しました。

「Power of Social Business:世界を変えるソーシャルビジネスの力」
と題されたセミナーのメインスピーカーは、
バングラデシュでグラミン銀行を創設し、
2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏でした。

第1部のユヌス氏の講演が終わり、
第2部は一橋大学院の米倉誠一郎教授が入って質疑応答。
そこで面白かった場面を紹介しましょう。
(会場のやりとりはすべて英語でしたので、厳密でない部分もありますが)

会場から3番目か4番目くらいにあがった質問で
「ユヌスさんの先ほどのお話で、
誰しもが社会起業家(ソーシャル・アントレプレナー)になれるとありましたが、
私たち1人1人はどうすることが大事でしょうか?」
と、そんなような意味の質問が出された。

それに対し、ユヌス氏が答えたことは───
“Imagine. Imagine the world you want to change.”
「想像することです。あなたが変えたいと思う世界を想像してください」。

その一言が発せられたときに、横にいた米倉教授が、
質問者の男性のほうに腕をすっと伸ばし、人差し指を突き出して
“You, imagine ! ” (あなたが、想像するんですよ)
“And you and you, and you.” (そして、あなたも、あなたも、あなたもね)
と、会場のあちこちの聴衆に向かって、人差し指を突き出しました。
……この米倉教授の突っ込みというか、フォローというか、見事な所作でした。

そう、想像するのは、ほかの誰でもない、私たち1人1人なのです。
私たち1人1人が、きちんと理想の姿を想像することからよき変化は起こるのです。
ややもすれば、こういう大きなことを成し遂げた人のセミナーへ行くと、
「ああ、いい話が聞けたなぁ。でも自分とはどこか別次元のことだなぁ」
と、無意識に距離を置いてとらえていることが多い。
それに「You can change the world」なんていうフレーズは、
流行り歌にも出てきて、耳触りはいいけれど、すぐに頭から抜けてしまう言葉でもある。

そんなときに、
“You, imagine !  And you and you, and you.” という覚醒の指差しはとてもよかった。
会場の雰囲気も「あ、あっ、そうか、自分が、なんだ」という空気が流れ、
なごやかな笑いが起こりました。

私の好きな言葉に、ウォルト・ディズニーの次のようなものがあります───

「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」。
(If you can dream it, you can do it.)

想い描かなければ、何も始めることはできないのです。


 

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