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2008年12月 8日 (月)

ホンダF1撤退と「ゲームの三達者」

ホンダ(本田技研工業)が、12月5日付けで、F1の撤退をアナウンスしました。
世界最高峰のレースに参戦し勝つことは、
二輪・四輪を問わず、ホンダの創業以来、DNAレベルに強く染み付いたものですし、
さまざまな先行投資、裾野の広い関係者への影響を考えても
そう簡単に、そしてかくも火急に決断できることではありませんが、
よくぞ福井社長はそれを下したと思います。

F1に注いできた経営資源や人材を
環境関連などの新しい分野に振り向けるということですが、
その新しい分野の開発および製品化で
21世紀の「ホンダらしさ」をおおいに発揮してほしいと思います。

ホンダという企業のアイデンティティは、本田宗一郎さんのころから、
一にも二にも「独創性」(=人のものまねをしないこと)だったと思います。
であるならば、
ガソリン1リットルで100km走る乗用車とか
太陽電池で時速100km出せる乗用車とか
あるいはロボットだとか、
そういうことでナンバーワンになる、オリジナルなものを製品化するということで
今後もホンダがホンダらしくあり続けることが十分に可能なのではないでしょうか。

私は、実家が三重県の鈴鹿市に程近いところでF1レースは嫌いではありませんが、
それでも最近は、
このように物質をぜいたくに使い廃棄する興行イベントは
旧感覚・旧価値観のマッチョレースだと思うようになりました。

だから、むしろ日本のものつくりの雄であるホンダには、
F1レースというような
ヨーロッパの上流階級と旧時代のクルマ好きがつくったレースとはおさらばし、
全く異なった次元・発想のレース、あるいは市場をつくって、
そこで独自性や存在感を出してほしいと切に願います。

F1というレースの枠組みは、はっきり言って、もう古いです。
そんな中で、一等賞を目指す必要はもうないと思います。

『ホンダ・フィロソフィー』の中にある
「社会からその存在を認められ期待される企業になる」ことについて、
社会の私たちは、もはやホンダに期待することは、F1で優勝してくれではなく、
他のもっと大きな枠組みで何か人類の益となる画期的なことを成し遂げてくれ、なのです。

* * * * *

ゲームには“三人の達者”がいます。

○第一の達者:
「枠の中の優れた人」=「優者」・「グッド・プレーヤー」

これは、決められたルールの中で優秀な成績をあげる人です。

○第二の達者:
「枠を仕切る人」=「胴元」・「ルール・メーカー」「ゲーム・オーナー」

これは、ゲームのルールを決め、元締めをやる人です。

○第三の達者:
「新たな枠をつくる人」=「創造者」・「ニューゲーム・クリエーター」

これは、そのゲーム盤の外にはみ出していって、
全く違うゲームをつくってしまう人です。


日本人は民族のコンピテンシーとして、
「ものつくりの民」であり、
決められた枠の中で、一番の人を模倣して研究し、
やがて一番になることが得意です。
つまり、第一の達者タイプです。

一方、アングロサクソンやユダヤの民族は
「仕組みづくりの民」であり、
第二の達者、第三の達者としてコンピテンシーを発揮します。

* * * * *

01年9月11日のアメリカ同時多発テロ、そして今回の金融危機と
世界史的な時間軸でみれば、大きな時代が区切りを迎え、
次の新しい時代が始まろうとしています。
(どんな秩序になるかまったく見えませんが)

そんな大きな次の時代に、
ホンダに限らず、他の日本企業が、
そして日本という国自体が、そして個々の日本人がチャレンジすべきは
枠をはみ出し、枠をつくり出すコンピテンシーを養うことだと思います。

第一の達者を追求するだけでは、
もはや日本は世界経済の中ではうまく立ち行かなくなるでしょう。
日本人は狡猾さや政治力に欠けるので、第二の達者には永遠に向きませんが、
第三の達者にはなれると思います。

そういった意味では、
ホンダも、他者がこしらえたF1という枠組みの中での優等生から
みずから枠組みをこしらえることへの
一つの跳躍を試されているといえます。

私も、みずからの事業で、既存の枠組みからはみ出す努力を続ける決意です。

2008年12月 1日 (月)

「余命一年 行動リスト5」

Ochiba 週末、近所の雑木林を
カメラを持って散歩した。

足元にはさまざまな色や形の枯れ葉が落ちている。
枯れ葉の上をカサカサと歩くのは何とも気持ちがいい。

すると、目の前に、はらりと一枚
葉っぱが落ちた。

手にとって見ると、
葉全体はつやを保っている。
植物にも体温があると思うのだが、
そのわずかな体温も残っているように感じる。
葉の裏に走る葉脈は、細かな一筋までまだみずみずしい。
ついさっきまで枝にくっつき、
幹から養分をもらい生きていたが、
いまはもう土にとけて還るしかない。

私は、こうしたとき、いつも
吉田兼好の『徒然草』第四十一段を思い出す。
第四十一段は「賀茂の競馬」と題された一話である。

五月五日、京都の賀茂で競馬が行なわれていた場でのことである。
大勢が見物に来ていて競馬がよく見えないので、
ある坊さんは木によじ登って見ることにした。

その坊さんは、
「取り付きながらいたう眠(ねぶ)りて、
落ちぬべき時に目を覚ますことたびたびなり。
これを見る人、あざけりあさみて、
『世のしれ者かな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありて眠(ねぶ)らんよ』と言ふに・・・」


つまり、坊さんは木にへばり付いて見ているのだが、
次第に眠気が誘ってきて、こっくりこっくり始める。
そして、ガクンと木から落ちそうになると、はっと目を覚まして、
またへばり付くというようなことを繰り返している。

それをそばで見ていた人たちは、あざけりあきれて、
「まったく馬鹿な坊主だ、あんな危なっかしい木の上で寝ながら見物しているなんて」
と口々に言う。

そこで兼好は一言。
「我等が生死(しゃうじ)の到来、ただ今にもやあらん。
それを忘れて物見て日を暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」。


―――人の死は誰とて、今この一瞬にやってくるかもしれない
(死の到来の切迫さは、実は、木の上の坊主も傍で見ている人々もそうかわりがない)。
それを忘れて、物見に興じている愚かさは坊主以上である。

* * * * * *

医療技術の発達によって人の「死」が身近でなくなった。
逆説的だが、死ぬことの感覚が鈍れば鈍るほど、「生きる」ことの感覚も鈍る。

仏教では、人の命を草の葉の上の朝露に喩える。
少しの風がきて葉っぱが揺れれば、朝露はいとも簡単に落ちてしまう。
そうでなくとも、昇ってきた陽に当たればすぐに蒸発してしまう。
それほどはかないものであると。

仮に現代医学が不老不死の妙薬をつくり、命のはかなさの問題を消し去ったとしても、
人の生きる問題を本質的に解決はしない。
なぜなら、よく生きるというのは、どれだけ長く生きたかではなく、
どれだけ多くを感じ、どれだけ多くを成したか、で決まるものだからだ。


この一生は「期限付き」の営みである。
その期限を意識すればするほど、どう生きるかが鮮明に浮き立ってくる。
哲学や宗教は「死の演習問題」ともいわれ、
真の哲学や宗教であれば、確かに人類に果たす役割は大きい。

私は、大病こそないが、生来、からだが強くない。
たぶん、太平洋戦争以前の時代に生まれていれば、確実、早死しただろうと思っている。
だから、40歳以上の命は天から延ばしてもらっているものとして
(偽善的に聞こえるかもしれないが)
人のために何かしたいと思い、教育という道で脱サラした。

* * * * * *

私が行っている研修プログラムの一つに、
『余命一年:行動リスト5』というのがある。

つまり、自分の余命があと一年だと宣告されたと仮定して、
何を行動し完了すべきか、その上位5つを挙げるというものだ。

受講者は真剣に考える、そして生きることが新鮮な意味を帯びてくる。

「いつかくる死」で漫然と生きるのではなく、
「いつ死がきても悔いはない。目的の下にやり切っている。
そして、今日一日を生きられたことに感謝する」
―――そんな心持ちが強いキャリア・強い人生をつくると思っている。

最後に、いま読んでいる本から補足的に:

「目的とは、単なる概念ではない。生き方である。
人生は“すること”でいっぱいで、
“やりたいこと”が何であるかに耳を傾ける余裕もなかった」

(ディック・J・ライダー『ときどき思い出したい大事なこと』)

2008年11月 6日 (木)

●セミナー案内● 若年層の高い離職率を考える

きょうは私が登壇するセミナーのご案内をひとつさせてください。

「新卒入社の3割が3年で最初の会社を辞めてしまう」―――
いわゆる「3年3割離職問題」に対し、
人事部・経営側は何ができるか、というテーマです。

それに対し、私は、
働く「マインド・観」の醸成こそ根っこの解決である
という内容で話をします。

以下、セミナー案内文を掲示します。
ご関心のある方は、どうぞお越し下さい。

****セミナー詳細情報******

Photo

INSIGHT NOW! セミナー
『働く意義とは!?「意識・心」から考える若年層の離職』
~マインドとメンタルに訴える根本解決法を体感する

08年12月2日(火)13:30-17:30
ぷらっとホーム株式会社 セミナールーム
(東京都千代田区外神田1-18-13 秋葉原ダイビル9F)

【セッション1】
「部下を潰さない・辞めさせない行動科学式コミュニケーションメソッド」
― 部下に悪性ストレスをかけずに、本来の力を発揮させるには? ―
講師 阿部 淳一郎(INSIGHT NOW! ビジョナリー)

【セッション2】
働く「マインド・観」の醸成こそ根っこの解決
~自律した個として強いプロフェッショナル人財を育てるには!?
講師 村山 昇 (INSIGHT NOW! ビジョナリー)

****************

2008年4月28日 (月)

春の草々に想う ~生命の息吹と働きがいの創造

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沖縄に仕事場を移した春キャンプから東京に戻り、

いつもどおりの都会の生活が始まった。

多摩川沿いのサクラ並木も花を散らした後は、

おどろくほど速く木々たちが新緑葉を広げ、

いまでは空を充分に隠すほど、生い茂る姿になった。


私は東京の調布市に住んでいますが、

調布は都心・新宿にこんなに近いにもかかわらず、

田畑が住宅地のそこかしこにあるのがいいところです。

で、昼前、コンビニに買い物にいく途中、

いつもの田んぼの脇を通りました。


すると、ついこないだまで、枯れ藁の冬のさみしい平地だった景色が

一変しているのに気がつきました。


一面、雑草やら、オオバコ、タンポポ、ポピーなど名前を知っている花々やら、

ともかく草々で覆い尽くされています。

蝶も舞い、ツバメも飛び交い、

まぁ、本当に生命の息吹く季節なのだなぁと

ふと立ち尽くして見入ってしまいました。


◆生命の本質は「息吹き生成しようとする意志・努力」

かくも短い間に、緑に覆われた景色を見て、

私はホイットマンの『草の葉』の詩を思い出します。


見えない芽の群、数かぎりなく、うまく隠され、

雪や氷の下に、暗黙の下に、

四角や丸のどんな小さなところにも、

萌え出ようと、精妙で、繊細なレース網状をなし、

極微のすがたで、生まれないままの、

子宮のなかの赤んぼたちのよう、

潜伏し、抱きしめられ、密生し、眠っている、

数億万もの、幾兆万もの待ち受けている芽また芽の群、

(大地のうえ、大海のなか――全宇宙――九天の星々に、)

ゆっくり追い迫り、着実に前へ進み、

果てしもなく現れ出てきて、

絶えまもなくもっと多く、

永久にさらに多くの芽がと、

背後で待っていて。


  ――――『対訳 ホイットマン詩集』(木島始編:岩波文庫)より



“生命”とは、とてつもなく不可思議なもので、

そのエネルギーは、この広漠たる宇宙空間にあまねく潜在しており、

何処何時でも、その息吹く機会を待っている、否、欲している。


いかなる環境であれ、環境に抵抗し、環境に順応しながら、

息吹き、生成しようとする意志・努力――――

これが生命の本質でないかと私は思います。


フランスの哲学者・ベルグソンは、これを

「生命には、物質の下る坂を

さかのぼろうとする努力がある」と言いました。


* * * * * * * * *

◆生命の発露をなくす現代ビジネス社会

さて私は、日々、企業のキャリア研修で演台に立ちますが、

そこで感じることは、少なからずの人が

働くこと、生活することに疲れている、重い感じを引きずっている、

あるいはまた、

給料もらって働くって所詮こんなもんさと冷めている―――

ということです。


そこには、生命の“発露”がない。

何か現代ビジネス人は、生命力豊かに生きているのではなく、

生命力をしぼませて生きながらえている

―――そんな印象です。

(もちろん、溌剌と活き活き働いている少数の人たちもいますが)


私の行なうキャリア教育プログラムは、一種、独特なアプローチで、

「働くとは何か?」「よりよく働くためにどうすればよいか?」

といったことをテクニック論ではなく、

心持ちレベルでたくましく醸成しようとするものですが、

今の私のプログラム開発上、最大の課題は、

「働きがいの創造」を各自にどうさせればよいかということです。


私は、一人一人の働き手が、

生命の息吹きを取り戻し、よりよく働くためには、

「働きがい」を自分の内に創造することが唯一根本の手立てだと

確信するからです。


「働きがい」は、抗し難い情熱です。

どんな小さな隙間からも、噴き出してくるマグマです。

困難そうであろうが、

多くのリスクや面倒さ、手間がかかりそうであろうが、

無視されようが、見返りがなかろうが、いじわるされようが、

やむにやまれぬ想いがふつふつ湧いてきて、やらずにはおられない何か

―――それが「働きがい(のある仕事)」です。

“魂の叫び”といってもいいでしょう。


* * * * * * * * *

◆働きがいは無尽蔵のエネルギーを湧かせる

私個人はおかげさまで、自分なりの働きがいを具体的なレベルでこしらえ、

イメージできる状態になりました。

それが、独立開業という決断を促しもしました。


働きがいの下に身を置くとき、

智慧と力が無尽蔵に湧いてくるのが実感できます。

きょうの田んぼに見た、あの萌え出でる一面の草のように。


まずもってサラリーマン時代と、朝がまったく違います。

以前は本当に朝起きるのが辛かった。

今では、「きょうも1日、未知の1ページを描くことができる!」と

さっそうと起床することができます。


朝風呂の中では、アイデアやらイメージやらが湧いてきて、

忘れないうちに、脱衣所に置いてあるメモ帳に書き込むことが普通です。


きょうのこのブログにしても、日曜の夕方から深夜にかけて

風呂もまだ入らずに書いています。

だれが読んでくれるとも知れない、原稿料が出るわけでもない、

でも、書かずにはおられない。

その湧出するエネルギーはどこからやってくるのか?

・・・それは「働きがい」(そう働く意味・意義)です。


働きがいをより強く、より具体的に創造できたことで、

私はより快活に、より健康になりました。


大企業のサラリーマンを辞めて、以前より苦労や不安定さは増しましたが、

働きがいの下で働くことで、

それらを乗り越える勇気やら面白みを充分に湧かせることが

できるようになっています。

そういった意味で、私は齢40も半ばになりますが、

萌え出でるエネルギーで青春の真っ盛りにいます。


生命は本来的に「最大限に生き切ろう」とする意欲を持っています。

もし私たちが、なんとなく生き切っていない、

半端にしか生きていないような気がする、と感じているなら、

それは生命本来の性質を十全に謳歌していないということです。

それでは、この奇跡の確率で生まれ出た人の生がもったない。


働きがいにせよ、生きがいにせよ、

この「かい(甲斐)」を創造できるかどうかは、

その人の人生にとって、最重要の分岐点になると思います。


働きがい・生きがい・夢/志の創造については、

別の機会に詳しく書くつもりです。



2008年3月28日 (金)

キャリアを拓く“地頭力” ~『THINK!』誌寄稿

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* * * * * * * * * * * * * 

現在、書店で発売中のビジネス雑誌THINK!』08年冬号No.24

(東洋経済新報社発行)に、8ページの寄稿をしています。

この雑誌は毎号まるごと1つのテーマの特集号ですが、

今回のテーマは「地頭力トレーニング」。

私はその中で、「キャリアを拓く“地頭力”」と題して執筆しました。

その冒頭部分を少し抜き出して紹介します。

◆2つの賢さ ~ お勉強ができる賢さ/世間を渡り抜く賢さ

世の中には、立派な学歴がなくても

思うがままに仕事人生を切り拓いている人がいる。

他方、一流大学・大学院の出身者といえども、

誰もが素晴らしい仕事人生を送るわけではない。

また同様に、IQがいくら高くても、仕事下手、生き方下手の人は多い。

このことはつまり、お勉強問題が解ける賢さと、

働く・生きるをうまく取り仕切る賢さは、

ある面で別物だということです。

この2つの賢さを言い当てる表現が、

いわゆる「アカデミック・スマートネス(academic smartness)」

「ストリート・スマートネス(street smartness)」です。

「アカデミック・スマートネス」は、

知識、分析、論理、計画等による明晰性、合理性を基とした賢さです。

その名のとおり、学校や学術界で養われ、流通する能力形式です。

他方、「ストリート・スマートネス」は、

知恵、経験、勘、目算等による主観力、展開力を基とする賢さです。

その名のとおり、巷でしぶとく生き抜いていくための雑多な知恵です。

1人1人の働き手が、みずからのキャリア(仕事人生)を

切り拓いていくためには、後者、

つまりストリート・スマートネス的な賢さがどうしても必要になります。

なぜなら、人生は、偶発の連続であり、

常に不測の出来事や理不尽な力、とらえどころのない人間関係、

自身の刻々とゆらぐ想い等とファジーに葛藤して、

みずからのキャリア進路を創出していかねばならない営みであるからです。

人生は残念ながら、というよりもむしろ奥深きかな、

初速度と打ち出し角度を決めさえすれば、

後は着地点が計算で確実に予測可能であるようにはできていないのです。

・・・・中略

私はキャリア形成における「地頭のよさ」とは、

自分自身の知識、技能、行動特性、価値観を統合的に連結させ、

みずからが理想的に働くイメージや生きる道筋をひらめかせる、

そういった知恵を生み出す賢さであると定義します。

・・・(以下、記事省略)

◆生きることは、算数ではなく、工作/耕作である

結局、私がこの記事を通して言いたかったことは、

知識や技能(スキル・テクニック)だけで、

つまり上頭(うわあたま)のよさだけでは、

自身のキャリアをたくましく切り拓いていくことはできない。

自らの働き観を思索すること、

理想の状態を想い描くこと、

行動で仕掛け、状況が動いたら、知識や技能を組み替えなおしてまた仕掛けること、

偶発を必然的な出来事として認識すること、

など、頭の地の部分を使ってこれらのことをぐるぐる考え、

状況をつくりだす中でこそ、

キャリアはたくましく切り拓かれる。

働くことや生きることの本質は、算数ではないと思います。

何でも簡単に割り切れて、すべてに答えのあるものではないし、

功利的な結果のみを追うものでもありません。

働くこと・生きることの本質は、言ってみれば、工作/耕作ではないでしょうか。

地頭をギシギシ音を立てながらフル回転して考え、

何らかのものを自分なりに工(耕)作していく。

・・・そんなことをキャリア理論や達人の言葉を引用しながら、

記事としてまとめていきました。

ご関心があれば、一度、雑誌をのぞいてみてください。

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