2013年6月10日 (月)

日本人は教えられすぎている


「日本人は教えられすぎています」。───こう語るのは、キング・カズことプロサッカーの三浦知良選手だ。彼は加えてこうも言う。「教えられたこと以外の、自分の発想でやるというところがブラジルよりも遅れています」(いずれも『カズ語録』より)。


米メジャーリーグ野球では、コーチのほうから選手にあれこれ指導しないと聞く。選手のほうからコーチに具体的にはたらきかけてはじめて、コーチが技術やメンタルを改善するためのヒントを与えるのだという。このことは米国の大学院に留学経験のある私もじゅうぶんに理解できる。
授業内容は研ぎ澄まされてはいるものの、どちらかというと淡々としている部分も多い。短い在学期間のなかで、ほんとうに自分の研究したいこと、成就したいことのために、大学教官の知見を引き出したり、協力を仰いだりするのはなんといっても授業外だ。授業外でどれだけ彼らを活用できるかが学生の優秀さでもある。教官に教えてもらうのを待つというより、こちらから能動的に引き出す、活用するというスタンスが強い。


ひるがえって日本の企業研修の現場。研修を行った後に、受講者からの事後アンケートを見せてもらう。どこの企業でも少なからず見受けられるのが、「もっと方法を教えてほしかった」「技術論が少なかった」「具体的にどうすればよいのでしょう」といったハウツー要求の意見だ。
私の行っている研修が「知識・スキル習得型」のものであれば当然、そのあたりのことは伝授しなければいけない。しかし私の分野は「仕事観・働く自律マインド醸成型」研修である。自分の仕事の意味をどうすれば見つけることができるか、自律的な人間になるための術は何か、幸せに働くための方法はどうかなどを教えることなどできない。もちろん、そうしたテーマに対し、どう心を構えていくか、どう内省・思索するか、どう行動で仕掛けていくかのヒントは研修内でいくつも与えたつもりである。しかしそれでも技術的なハウツーにまで落として教えてほしいという(不満ともとれる)声は必ず出る。

困ったことに、人財育成担当者のなかには、そうした不満の声による研修の低評価をそのまま受け入れ、「では来年度はもっと方法・技術論を教えてくれる先生に任せよう」と考え違いする場合があることだ。「そんな処世術めいたことを安易に欲しがる社員をうちは増やしたくない!」くらいの毅然とした親心の評価眼で、そうしたアンケート回答になびかない担当者が増えてほしいものだ。

いずれにせよ、「よりよく働くこと・自律的に職業人生を切り拓くこと」のやり方は、自分自身が見出さねばならない。その方法・プロセスこそ、その人の人生そのものだし、自らが抱く価値の体現だからだ。そこの部分は、時間がかかろうが、不器用だろうが、まわり道をしようが、自分でもがいて築いていくしかない。
書店に行けば、「3日間で人生を変える魔法の●●」式の指南本がたくさん出ている。確かに、その中には有益なことも書かれているだろうが、そうしたものに頼っても“Easy build, easy fall”(お手軽に出来て・容易に崩れる)の域を出ない。人生の成功を即効的に刈り取りたいという考えに疑いを持つ人でないかぎり、深い生き方には入り込んでいけないと思う。


芸術品や工芸品を観るとき、作品という成果のみに目がいきがちだが、私はつくり手の創作プロセスや方法に興味がわく。そこを知ることによって作品の味わいが格段に深まるのは言うまでもないが、「生きる・働く」うえでの力をもらえるからだ。すごい作品というのは、技術や発想がすごいというより、そこに達するまでの自己との戦いや鍛錬、執念の物語がすごいのだと思う。そのプロセスの一切合財がいやおうなしに作品や技術に宿るからこそ緊迫感のある名品が誕生する。

Mujinzo いま濱田庄司の『無盡蔵』(むじんぞう)を手元に置いて読んでいる。濱田庄司といえば、ありふれた日用雑器の焼きものだった益子焼(栃木県)を、世界にその名を知らしめるレベルにまで高めた陶芸家である。

濱田は陶芸を英国で始め、沖縄で学んだ。36歳のときに益子に移り住み、以降40年以上そこで作陶人生を送る。実は益子の土は粗く、焼きものに最上のものとはいえない。それを知った上で濱田はそこに窯を築いた。なぜか。濱田はこう書いている───「私はいい土を使って原料負けがしたものより、それほどよくない土でも、性(しょう)に合った原料を生かしきった仕事をしたい」と。

窯にくべる薪は近所の山から伐ってくる。釉薬(ゆうやく・うわぐすり)は隣村から出る石材の粉末で間に合わせる。鉄粉は鍛冶屋の鋸くずをもらってくる。銅粉は古い鍋から取る。用筆は飼っている犬の毛から自分で作る───その考え方・やり方こそが濱田そのものなのだ。

真の創造家は、創造する方法を生み出すことにおいてさえ創造的である。今日の益子焼を代表する色といえば、柿色の深い味わいをもつ茶褐色である。これは“柿釉”(かきぐすり)と呼ばれる釉薬を使用することによって生まれるのだが、その柿釉をつくり出したのは、ほかでもない濱田だ。気の遠くなるような材料の組み合わせや方法のなかから、思考錯誤を繰り返し、ついにこの柿色にたどり着いた。しかも釉薬の原料は先ほど触れたように、隣村からもらってくるのだ。

また、濱田の代表的な技法のひとつとして「流し掛け」というのがある。濱田は成形した大皿を左手に持ち、右手にはひしゃくを持つ。ひしゃくにたっぷりと釉薬を汲み、大皿の上にすっと縦に釉薬を走らせる。そして左に持つ大皿を手の平でひょいひょいと90度回転させるやいなや、再び釉薬を縦に無為に走らせる。すると大皿に十字にしたたる線が描きあがる。これを焼き上げると、躍動的で面白みある表情が出る。これが流し掛けだ。この潔く堂々とした方法こそ濱田そのものだと私は感じる。そしてまた、一見、無造作に流し掛けた線であっても、それがきちんと濱田庄司という人間の器にかなった線が出る。そこが芸術の面白いところだ。

ちなみに流し掛けを巡って、濱田は「一瞬プラス六十年」というエピソードを書き残している。ある訪問客が、これだけの大皿に対して、たった15秒ほどの模様づけではあまりに速すぎて物足りないのではないかとたずねたそうだ。そのときの濱田の返答───


「これは15秒プラス60年と見たらどうか」。

 ……60年とは言うまでもなく、濱田が土と戦ってきた歳月の長さだ。

方法やプロセスはその人そのものを写す。方法やプロセスにかけた厚みこそ、その人の厚みになる。だから、私たちは安易に教わりすぎてはいけないのだ。



2013年6月 6日 (木)

「LEADER’S CAMP 2020」に出講します!(6月19日開催)


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『LEADER’S CAMP 2020』告知サイト



人材紹介会社大手の株式会社インテリジェンスが主催する『LEADER’S CAMP 2020~未来を変える「学び場」』。その第3回講師として登壇することになりました。概要は次のとおりです。

* * * * *

〈LEADER’S CAMP 2020~未来を変える「学び場」第3回〉 
○日時:6/19(水)19:30~22:00(受付開始19:00)
○場所:東京・丸の内ビルディング
○講師:村山 昇(キャリア・ポートレート コンサルティング 代表)
○テーマ:『セルフ・リーダーシップ』
~自己をたくましく導くプロフェッショナルになるために~ 
○参加対象:社会人経験10年未満の方

○詳細情報・参加申し込み(参加無料:応募者多数の場合は抽選):
http://doda.jp/contents/mirai/leaders_camp/murayama.html

* * * * *

インテリジェンスのご担当者からは、若手のビジネスパーソンに向け、自身のキャリア形成に対し、積極果敢な行動意識を醸成できるようなヒントを与える場にしたいとのご要望がありました。

Int_semin_02 そこで私は、キャリアをたくましく拓くためのキーコンセプトとして「セルフ・リーダーシップ」と「VITMモデル」を軸にプログラムをこしらえました。
VITMとは、「V=ベクトル(方向性)」「I=イメージ(理想像)」「T=トライアル(自分試し)」「M=ミーニング(意味)」のことです。この4つの要素がいかにキャリア形成に影響を与えるかを解説するとともに、参加者1人1人のVITMが何かをあぶり出すワークをやる予定です。そしていかに自己を導く(=セルフ・リーダーシップ)能力を発揮していくかにつなげていきます。

今回は2時間半のセミナーですが、濃密にやりたいと思います。ご関心のある方はどうぞご参加ください。



2013年5月22日 (水)

どっしりと静かだが激しい土の造形───樂茶碗

Rakuyaki


私たちは常に何かしら“表現”したいと望んでいる。きょうはどんな服を着ていこうか、どんなことを話そうか・どんな言葉で話そうか、どんな写真を撮ってネットに上げようか、どんなプレゼントをしようか……現代人はいったい1日のうちにいくつの表現を行っているのだろう。

考えてみれば「職業・仕事」にしても、それは自分の能力と価値観を、意見やアイデア、商品やサービスといった形に表現する行為だと言っていい。それら一人の人間が行う大小あまたの表現は、人に見られたり見られなかったり、評価されたりされなかったり。でも、たいていのものは悠久の時間の波のなかへ泡のようにすっと消えていく。

しかし、なかには、とてつもなく強靭な表現があって、たとえば、聖書や仏典、コーランのように千年単位の時を超えて私たちに影響を与える深遠な物語がある。また、モーツァルトやベートーベンは華麗で荘厳な音の織物を書き上げた。ガンジーやキング牧師は崇高で不屈の生きざまによって、21世紀の私たちに正義とは何かを問いかける。ピカソは油絵という表現によって、ガウディは建築物という表現によって、世阿弥は猿楽という表現によって、いまだに私たちを魅了する。

長い時間の風雪をもろともしない強靭な表現に接することはとても楽しい。その表現を前に、心身が引き締まる楽しさ、咀嚼する楽しさ、圧倒される楽しさ、畏れ敬う楽しさ、インスピレーションをもらう楽しさがある。

そんな強靭な表現のひとつに対面してきた。
過日、関西出張の合間に『樂美術館』(京都市)を訪ねた。折しも「樂歴代名品展」を開催中だった。

「一樂二萩三唐津」(いちらく・にはぎ・さんからつ)という言葉があるように、お茶の世界で好まれる焼きものの一番めにくるのが京都の樂焼である。樂焼はロクロを使わずに手づくねで成形し、一品ずつ小炉に入れて焼くところに特徴がある。約400年前、千利休が樂長次郎に焼かせたときに始まる。樂焼の美と技は、初代・樂長次郎から連綿と継承され、現在、十五代目の樂吉左衛門に至っている。

1枚のガラスを隔てて展示台には、初代・長次郎作の茶碗をはじめ、二代・常慶、三代・道入、四代・一入、五代・宗入らの作品が並んでいる。武骨だけれども流麗、粗に見えて繊細、素ながら綿密。単色のなかの無限の奥行き。目で撫でれば撫でるほどに鈍重な快楽を呼び起こす造形。油断をすればその小さな土の塊にからだ全部が吸い込まれてしまうのではないかと思える強い存在感。一つ一つの器を眺めていると、時間がいくらでも経ってしまう(手のひらで触れることができれば、さらに魅了されてしまうところだが)。「なんで、こんな造形をつくってしまえるのか!」───私は心のなかでそんな感嘆の声を何度も上げながら、ただただ見入るだけ。

長次郎の茶碗は初代にして後の誰をも黙らせるほどの完成度を誇っている。だから、二代目以降の樂家当主は、長次郎を超えることが宿命であるかのように、それぞれが独自の作風を必死になって生み出していくという歴史が生まれた。

樂家十五代・樂吉左衛門さんは、NHKのテレビ番組で、初代・長次郎の茶碗についてこう語っていた───

「動かざる岩みたいにどかんとしていて、だけど静かだっていう」、
「美という範疇からも醜いという概念からも逸脱しているし、両方におさまらない激しさをもっている。そんなものを世の中にぬっと差し出してくる鋭さ、激しさ、意志力」。


……吉左衛門さんもまた、長次郎の遺した器そして長次郎という人間の巨大な壁を目の前に「こんなものをどう乗り越えたものか」と戦う一人の陶工である。

ちなみに吉左衛門さんは、樂焼なるものをしっかりと受け継ぎながら前衛的な試みをする人である。彼が先のテレビ番組のなかで、「言葉なんかにとらえられないところにいきたい」と言っていたのが印象的である。

“どっしりと静かだが激しいもの”───そういう表現を私も遺していきたいと思う。私の場合は著作という形で。たとえば、いま私の机にはマルクス・アウレーリウスの『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)がある。マルクス・アウレーリウスは2世紀に生きたローマの哲人皇帝である。彼の書いたものが1900年の時を超えて、いまだ私たちに大きな啓発を与える。どっしりとして静かだが激しい巌(いわお)のごとき内容だから朽ちないのだ。

私は独立して11年目を迎え、その間に8冊の著作を刊行することができた。しかし、どこか時流に乗って売りたい、評価されたい、自分の知見をひけらかしたい、のような下心が排せなかったようにも思う。
そんなとき、美醜を超え、世間の評価など眼中に入れず、ただひたすらに土と炎に向き合い、おのれの造形を突き出し続けた長次郎の生きざまには、はっと気づかされるものがある。

“動かざる岩みたいにどかんとしていて、だけど静かだっていう”書物を著すには、まず、自分という人間がそうなってなくてはいけない。人生は短く、芸の道は長い。想い描く表現を手にするまでの修業はまだまだ続く───。








2013年5月 2日 (木)

苗床づくりと種まき


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ゴールデンウィークが始まりました。
私は地元の田んぼにいます。


Tanemaki00 「田んぼの学校」は毎年、無農薬栽培です。なので、いま時期の田んぼの雑草はすごい生命力です。ただ雑草といってもちゃんと名のある野草です。レンゲにナズナ、ホトケノザ、ヨモギなど。間近で観察するといろんなものが花を咲かせています。風に小きざみに揺れるカタバミの可憐な黄色の花、オオイヌノフグリの花のすがすがしく繊細な青色のグラデーション、トキワハゼのミクロアートな造形の花……。
かれらは根っこをしっかり張って伸びたい放題、もう、ぼーぼー状態です。近くには除草剤がまかれている農家の商業用耕作地があるので、ひと目で比較できるのですが、その雑草の生い茂る状態は大違いです。

こうした雑草を根っこから手で刈る作業はそれはもう大変です。ですが、こうした作業を経験すれば、農家が除草剤を使うことも十分に理解ができます。

* * * * *

きょうは水路そうじも行いました。
この田んぼは湧水箇所から水を引いています。水路はコンクリートですが、それでもところどころに水草が生え、さまざまな生き物を囲っています。そうした生態系に極力インパクトを与えないように、引っ掛かった人工物(ビニール袋や空き缶など)を丁寧に取り除いていきます。ザリガニやオタマジャクシ、カワニナ(ホタルの幼虫の餌になる)など、私にとっては何十年ぶり
かの手にとっての観察となりました
「田んぼの学校」は親子での参加も多いのですが、子どもたちにこうした原体験をさせておくことはきわめて大事なことだと思います。


Tanemaki03 そして午後からは苗床づくりと種まき。各自が自宅で芽を出させた種籾(たねもみ)を持ち寄り、苗床にまきました。芽と根が伸び、稲が10センチくらいまで生長したら、水を張った田んぼに手で植えることになります。それが6月中旬の予定です。

土と草の香りを満喫し、さまざまな生命(いのち)
触れた日でした。
「春(はる)」は、新しい生命が湧き出でようと「張る(はる)」、田畑を耕して開く「墾る(はる)」、また陽光がきらきらと輝く「晴る(はる)」などからきているそうです。田んぼに出ると、そんないろんな「はる」を鋭敏に感じ取ることができます。同時に、自分自身が生き物として本来もっているエネルギーも自然と呼ばれて、からだの内側から張ってくる状態も感じ取ることができます。農の作業はそうしたからだを蘇生させる力をもっています。



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2013年4月18日 (木)

留め書き〈032〉~静かだが、深く広く響いていく声


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ほんとうに大事なことは静かに語られる。
静かに語られたほんとうに大事なことは、聴く者一人一人の内に深く沁みていく。
そして時空を超え、確かな波となって広がっていく。

静かだが、深く、広く、響いていく声。

私はそんな声を聞き取りたいと思っているし、
発したいと思っている。
そのために“人間の器”をつくる鍛錬が日々ある。



作家・城山三郎さんが座右の銘にしているのが───

  「静かに行く者は 健やかに行く。
  健やかに行く者は 遠くまで行く。」

だそうだ。私もこの言葉にじんとくる。
この言葉を自分なりに展開してみたのが、上の留め書きである。


オペラ歌手のあの力感と美に満ちた歌声はあの躯体(くたい)あってこそ。
“静かだが、深く、広く、響いていく声”を発するには、
それにふさわしい“人間の器”を要する。


自分の器はどうだろう? ……まだまだ精進せねば。


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