1) 仕事/キャリア Feed

2008年7月 8日 (火)

イメージは力を生む

◆人は坂に立つ

――――「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。
                      アンリ・ベルグソン『創造的進化』より

この言葉を読んで以来、私は、人は常に坂に立っており、
その傾斜を上ることがすなわち「生きる」ことだと考えています。

たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけです。
なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、
高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからです。

ですが、生命は、そのエントロピーの傾斜に逆らうように、
何かを形成していく努力を発する。
哲学者の三木清が「生命とは形成作用である」と表現したのもこのことだと思います。

◆プッシュの力・プルの力

さて、坂を上っていくには、自分を押し上げる力が必要です。
私はその力に2種類あると思っています。

1つには「ガマン・プッシュの力」です。
これは、義務感や責任感から出る力で、自分で自分を押す力です。
そしてもう1つは、「ドリーム・プルの力」。
これは、自分の理想像(夢や志といったもの)を具現化しようと
内面から湧き出てくる情熱で、目的イメージが自分を引っ張り上げてくれる力です。

01006

◆プッシュの力を出し枯れた成果主義現場

私はさまざまな企業、団体でキャリア開発研修を行なっていますが、
受講者のみなさんは日々の仕事に本当に疲れている様子です。
なぜか――――?

おそらく「ガマン・プッシュ」疲れなのだと思います。
組織の課してくる業務目標(=坂の傾斜)に対し、やりきらなくてはならないという
義務感・責任感で自分で自分を押してきたのですが、それにも限界がある。
もう絞り出せないところまできてしまっているのでしょう。

ですが一方には、同じように課された厳しい仕事をしぶとくこなし続け、
いっこうに疲れをみせない人もいます。
おそらく、その人は「イメージ・プル」をうまくやっているのだと思います。
組織が課してくる目標を、自分自身の働く目的イメージの中でうまく位置づけし、
内面からエネルギーを湧かせているのです。

昨今、成果主義の反省がなされていますが、
その際、成果主義自体を全否定するという観点ではなく、
その導入・運用のしかたに問題がなかったかという観点で議論されるべきだと
私は思います。

◆いかに業務目標を人生の目的の中に描き落とすか

人は、自分の行動に目的を持ち、理想イメージを描くことができれば、
むしろ成果を出したがる状態に変わるものです。
ロッククライマーのように激しい傾斜をも楽しんで上ろうとします。

企業が従業員に課す目標は往々にして定量的な数値になりがちです。
その数値目標をいかに、個々の働き手が、
各自のキャリア・人生における定性的な目的の中に描き落とすことができるか、
そうしたイメージング能力こそ、このストレスフルなビジネス社会を
渡り歩いていくための必須のものです。

そしてまた、企業側も、
そういうイメージづくりの支援や研修プログラムに着目しなければなりません。

私が行っているキャリア開発研修でも、この「イメージする」ことを重要視しています。
一般的なキャリア開発研修で主に行なわれている自己分析ワーク
(例えばアセスメントテストやSWOT表分析)、
将来のキャリア計画表づくりからは、エネルギーを湧かせることはできません。
イメージを自分の中に据えることこそ、
坂を上っていくエネルギーの源泉になりえます。

キャリアの長い道のりは、坂道マラソンです。
これからは、自分なりの大いなる目的を描く者と描かざる者の間で、
キャリア・人生がくっきり分かれるという二極化が進むと思います。

目的をイメージし、
エネルギーを無尽蔵に湧かせながらキャリアマラソンを楽しむ人たちと、
目的イメージを持たないがゆえに現状のストレスにあっぷあっぷで、
将来に不安を抱えながら走る人たちと。

2008年6月 9日 (月)

職業倫理の原点:『ヒポクラテスの宣誓』

昨今、民間企業、公的機関の別を問わず
不正・不祥事、犯罪的営利行為、非倫理的行為などのニュースが絶えることがない。

その原因は、
組織ぐるみのものもあれば、
一従業員や一管理者、一経営者によるものもある。

しかしいずれにしても、その根本は、
一職業人の中の
職業倫理欠落(あるいは欠陥)にあるといえるでしょう。

“倫理”などという抹香くさいテーマは
いまどきはやらないわけですが、
私は職業訓練・キャリア教育に携わる身の上でもあり
あえて声高に仕事上で折々に触れています。

なぜなら、誰しも働く上でこの倫理の問題を避けて通ってはいけないのは
「倫理を誓う」ことが
「プロフェッショナル」の原義
でもあるからです。

◆プロフェッショナルとは“宣誓する人”
「プロフェッショナル」という言葉は、現在では多義に拡大され
いささか大安売りされている感がありますが、
もともと「プロ」と呼べる職業は極めて限定的でした。

ジョアン・キウーラ著『仕事の裏切り』(原題:The working Life)によると、
プロフェッショナルという言葉は、もともと
“profess”=宗教に入信する人の「宣誓」からきていて、
やがてそこから、厳かな公約や誓いを伴うような職業をプロフェッショナルと呼ぶようになったといいます。

中世に存在した数少ないプロフェッショナルは、
聖職者や学者、法律家、医者だったわけですが、
彼らの仕事の特徴は、
仕事における(個人や組合・協会の)自律性と
私欲のない社会奉仕精神・公約の精神です。

プロフェッショナルの仕事は無報酬を理想とし、
「お金をもらう仕事をする」のではなく、
仕事をするために必要な経費を補填してもらうという意識が原則だったのです。

したがって、社会学者のタルコット・パーソンズはわずか50年前の著書で
「(こうしたプロフェッショナルの厳格な定義に照らすと)
企業管理者は決してプロになれない」と主張しました。
なぜなら、企業におけるビジネスマンは、
基本的に利己的行動に走らざるをえないからです。

□ □ □ □ □ □ □ □ □

◆我欲を排し、利他を誓う『ヒポクラテスの宣誓』
欧米の医学会では、
今でも、医師になるときに『ヒポクラテスの宣誓』を行なうしきたりを残していると聞きます。

ヒポクラテスは、紀元前400年ころに活躍した人で、
ソクラテスやプラトンと同世代のギリシャの偉人の一人です。
「人生は短く、学芸は永し。
好機は過ぎ去りやすく、経験は過ち多く、決断は困難である」
との有名な言葉は、彼のものです。

ヒポクラテスは、当時の医術の発展に多大な貢献をしただけでなく、
後世の医の倫理の礎を築きました。

彼は多くの著書を残しましたが、『ヒポクラテスの宣誓』は、
その中の、通常、「誓い」と表題された短文を指します。
彼はその中に、医師の戒律・倫理を明言しています。

全文はここに示しませんが、
ネット検索をすれば、どこかに掲示されていると思いますので
それを一度参照されることをお勧めします。

『ヒポクラテスの宣誓』は、要は、
冒頭、医神であるアポロン、アスクレピオスらに誓いを立てる文面からはじまり、
医を志す際の師弟の誓い、
そして医師として、患者第一とする利他的で我欲を排する誓いをするものです。

現代の資本主義下におけるビジネスで、
利益追求が悪だとか、利己主義が悪だとかを言うつもりは私にはまったくありません。

ただ、プロフェッショナルを標榜する人たちはもちろん、
すべての働き手たちが、『ヒポクラテスの宣誓』にも似た
おおいなるヒューマニズムに基づいた仕事倫理、信条を思い描き、誓うことを
基盤行為としてやってほしいと願うのみです。

◆精神のない専門人と心情のない享楽人
しかしながら、人間が我欲を抑えて
功利主義や保身主義にみずから抗することは、時代を越えて難しいことのようです。

孟子は、
「義を後にして利を先にするを為さば、奪わずんばあかず」
(義を後回しにして、まず利益を追い求めるということになると、
結局、人は他人のものを奪いつくさないと満足しなくなる)
と古くに説いていますし、

また、マックス・ヴェーバーは、
1905年の大著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾において
資本主義の興隆で跋扈し、うぬぼれるのは
「精神のない専門人と心情のない享楽人」であると予見しています。
しかも、ヴェーバーはこれら2種の人間たちを
“ニヒツ”(=無なるもの)と言い放っているところが、切れ味のある点です。

精神のない専門人が、プロフェッショナルとして多量になりすぎると
ビジネスは単なる「利益追求ゲーム」と成り下がり
夢と志に燃えてやっている人々が面白くなくなるばかりか、
経済が本来、“経世済民”として持っている
「民を救う」という使命・目的が喪失されてしまいます。

だから、私は、みずからのキャリア教育事業のプログラムの中で
『ヒポクラテスの宣誓』を引用し、
クラスで多少のディスカッションをするようにしています。

そして、何よりも、
まっとうな仕事の倫理・思想・哲学を持った経営者や働き手が
若い世代のロールモデルとして社会や各組織で活躍し、
高い道徳観を持つことがカッコイイのだという暗黙の認識を浸透させることこそ
嫌な潮流を変える大きな力になるものだと思います。

「プロフェッショナル」の原義は、“profess”(=宣誓する)。
プロが宣誓をなくしたとき、それは単なる「○○屋」でしかないのです。

【参考文献】
・ジョアン・キウーラ『仕事の裏切り』(中嶋愛訳・金井壽宏監修)翔泳社
・ヒポクラテス『ヒポクラテス全集 第1巻』(大槻真一郎編集・翻訳責任)エンタプライズ

2008年6月 5日 (木)

『フロー』:心理学者の説く“仕事の楽しみ”

きょう触れるコンセプトは「フロー」です。
カネやモノの「フロー」(流通)ではなく、
心理学者、チクセントミハイが言及した幸福の心理状態である「フロー」です。

彼がそれを最初に世に広めた1975年の著書
『楽しむということ』(原題:“Beyond Boredom and Anxiety”)の
「第一章:楽しさと内発的動機づけ」は、次のように始まります。

「金銭、権力、名声、それに快楽の追求が支配的な社会にあって、
明確な理由もなく、これらすべてを犠牲にしている人々―――――
例えば、ロック・クライミングに生命を賭ける人々、芸術に生活を献げる人々、
チェスに精力を費やす人々など―――――
がいるということは驚くべきことである。
なぜ、彼らは楽しみの遂行という捉えどころのない経験を得るため、
物的報酬を自らすすんで放棄するのであろうか。・・・・」

◆フロー=没頭している時の“あの空白な感じ”
チクセントミハイの著した要点は次のようなものです。

・人は行為そのものの中に見出した楽しさに動機づけられて行為する時、
 人は自信、満足、他者との連帯を増加させる。
 もしその行為が外からの圧力または報酬によって動機づけられるならば、
 彼は不確実性、欲求不満、および疎外感を経験する。

・人がその行為の中に楽しみを見出し、その楽しみ自体がその行為の
 最大の動機かつ報酬になっている場合を「自己目的的」と呼ぶ。

・そうした自己目的的活動に全人的に没入しているときに
 人が感ずる包括的感覚を「フロー」と呼ぶ。

◆フロー下では外発的動機が弱まる
「フロー」の状態がいかなるものか、
チクセントミハイは自己目的的活動に没頭する人々のインタビューから
巧みな表現で書き表しています。例えば、

ロック・クライマー:
「自分の身のまわりに起こっていること、つまり岩や、手掛かりや、体の正しい位置を探り出す動きに浸りきってしまいます―――すっかり夢中になっているために、自分が自分であるという意識がなくなり、岩の中に溶け込んでしまうのです。・・・・ある意味ではほとんど自我のない状態になって、どういうものか、考えることなしに、また全く何もしていないのに、正しくことが運ばれる、とにかくそうなってしまうのです」。

ダンサー:
「(踊っている最中には)大きなくつろぎと静けさが私を包みます。失敗することなど考えません。それはとても力強く暖かい感じなのです。私は拡がっていって、世界を抱きしめたいんです。優雅で美しい何かを生み出す、巨大な力を感じます」。

チェス・プレイヤー:
「最も報いの多いのは対局であり、知的な卓越性を誰かと戦わせることからくる満足です。私はトロフィーやお金をもらいました。でも、チェス協会への登録料などを考えると、たいていは持ち出しになっているのです」。

こうしたことから、自己目的的活動の特徴をチクセントミハイは、

・その活動は絶えず挑戦を提供する。
 これらから起こることや起こらないことに対して、退屈や心配を感ずる時間がない。
 このような状況の下では、人は必要とする技能を、それがどのようなものであれ、
 フルに働かせることができ、自分の行為から明瞭なフィードバックを受け取る。
 従って彼は筋の取った因果の体系の中にあり、
 そこで彼が行なうことは現実的で予想可能な結果を伴うことになる。
 その結果、自分は不可知の力によってもてあそばれているのではなく、
 自分自身の運命を支配しているという感じを経験する。
 そのとき、もはや物的・金銭的な報酬を主とする外発的動機は
 極めて低い割合の存在になる
。

***********

◆フローとは「砂場魂」
もちろん、「フロー」に似た概念はほかにもあります。

古くは、荘子が「遊」という概念を使っていました。
また、欲求5段階説・自己実現でおなじみのエイブラハム・マスローは
これを「至高体験」(peak experience)と名づけています。
加えて、トム・ピーターズは、「砂場魂」と呼びました。

以下は、トム・ピーターズの書き表しです。

 「遊びとは真剣なものだ。
 砂場で真剣に遊んでいる四歳の子供を観察してみればわかる。
 私はその真剣さを『砂場魂』と呼びたい。

 ・・・・遊びはすごいパワーを秘めている。
 自分を信じ、肩の力を抜き、誰の中にも眠っている豊かな創造力を解き放てば、
 自分のおそるべき才能を発見するだろう。
 遊びはいい加減にやるものではない。真剣にやるものだ。
 ウソだと思うなら海辺で砂のお城を作っている子供を見てみるといい。
 まさに一心不乱、無我夢中・・・。
 作り、壊し、また作り、また壊し・・・。
 何度でも作り直し、何度でも修正する。ほかの物は目に入らない。
 ぼんやりよそ見をしていれば、お城は波にさらわれてしまう。失敗は気にしない。

 計画はいくら壊してもいい。壊していけないのは夢だけだ。
 夢づくりは楽しい。思いっきり楽しもう。
 やってみよう。作ってみよう。気に入らなければ叩き壊そう。そしてもう一度作ろう。
 そうして人間は成長していく。遊びながら・・・」。

  (『セクシープロジェクトで差をつけろ!』より)

また、岡本太郎の本が手元にありますので、
そこからも一節。

 「芸術というのは認められるとか、売れるとか、
 そんなことはどうでもいいんだよ。
 無条件で、自分ひとりで、宇宙にひらけばいいんだ」。

  (『壁を破る言葉』より)

◆成果主義の敗因
つまりチクセントミハイは、
働き手が、自分の仕事を自己目的化でき、その行為の中でフローの状態を獲得するとき、
無限に内発的動機が湧き上がり、よりよき仕事ができるといい、
そうなるともはや仕事(労役)と遊びの区別はなくなるといいます。

そして、賞罰、いわゆるアメとムチによる外発的動機づけは、
最終的に人を疲弊させると説きます。
また、物的報酬はゼロサムの配分であって、原資が有限であるため
実施に限界がくることも指摘しています。

いわずもがな、
昨今の成果主義は、もっぱら、この外発的動機を全面的に押し立てて、
定量的な競争を強要したところに問題がありました。

**********

◆やらされ仕事をどう変えるか
誰しも、自分を没入できる楽しみを仕事の中に見出し、
フローを経験したいものですが、
組織から与えられる“やらされ仕事”を、どう自己目的化できるというのでしょうか?

私は、この問題の解決には、
個人の意識を変えることが半分、
組織の意識を変えることが半分、必要だと思います。

○まず、個人の意識について:

どんなやらされ仕事にも、楽しみや喜びは見出しうる、
どんなささいな仕事にも、進化や創意工夫の余地は無限にある
といった仕事意識を各人が立てることでしょう。
それが、プロというものです。

演劇の世界には
「小さな役はない。小さな役者がいるだけだ」
という言葉があるとおりです。

○次に、組織の意識について:
「ジョブ・デザイン」とは職務設計のことですが、
現在の多くの事業組織において、
ジョブ・デザインは単に、業務の分業をどう個人に割り振るかだけの
「ジョブ・ボリューム分け」と「ジョブ・レベル分け」になっている感があります。

「ジョブ<ジョイ>デザイン」はどう可能なのか?
「ジョブ<バリュー>デザイン」はどう可能なのか?
「ジョブ<クリエイション>デザイン」はどう可能なのか?
「ジョブ<イノベーション>デザイン」はどう可能なのか?・・・
その仕事・業務にまつわる心的・価値的な考慮がほとんど放置されている状況のような気がします。

おそらくこれは組織文化という中長期の辛抱強い習慣づけのプロセスによってのみ
可能になる問題ではないかと思います。

・「仕事とは、上からの押し付けではなく、自分に対してのチャレンジ」と
一社員が平然と言ってのけるシスコの組織風土。

・「いろいろと失敗しなければ、そもそもその製品技術に出くわすこともなかった」と
積極的失敗を奨励する3Mの企業文化。

・「他人のもの真似はしたくない」というホンダのものづくり精神。
・「カイゼン、カイゼンまたカイゼン」といったトヨタの現場思想。

こうした個と組織の善循環が始まれば、
仕事でフロー経験をする人の割合が増えてくるでしょう。
もはやそうなれば、内発的動機を主とし、外発的動機を従とする
健全なモチベーション構造の組織がみえてきます。
(現実は、さほど単純で簡単ではないことは承知していますが)

◆フローな仕事人=「遊ぶように働く人」
チクセントミハイは言います。

 「(外発的動機という)人間の生物学的性向を利用する
 社会的に条件づけられた刺激/反応のパタンに従っている限り、
 我々は外から統制される。
 我々は身体の命令からも独立し、
 心の中に起こることについて責任を負うことを学ばねばならない」
と。

私たちは、努めて
外発的動機に生物的に振り回されず、
自主・自律的に、
みずからが仕事の中に内発的動機をつくりだせる働き手になりたいものです。

その究極の姿は、「遊ぶように働く人」です。
たぶん可能だと思います。

*参考文献
・M・チクセントミハイ『楽しむということ』(今村浩明訳)思索社
・M・チクセントミハイ『フロー体験喜びの現象学』(今村浩明訳)世界思想社

2008年6月 4日 (水)

『アクティブ・ノンアクション』:不毛な忙しさ

このブログでも以前に紹介した本
『リーダーシップの旅 見えないものを見る』
(野田智義・金井壽宏著、 光文社新書)の中で、
気になる言葉を見つけました。

それは、『アクティブ・ノンアクション』(active non-action)です。
行動的な不行動、不毛な忙しさ、
多忙ではあるが目的を伴う意識的行動をとっていないこと、
の意味を含んでいます。

このコンセプトは、もともとは、
哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカが言及した『busy idleness』
(あくせくしながらも結果として何もしないこと:怠惰な多忙)
を起点にしているのだそうです。

セネカが約2000年前の人物だということを考えると、
人類の“不毛な忙しさ”問題は、古今東西を貫く一大問題なのかもしれません。

確かに私たちのビジネス生活は
多忙さに追い立てられ、それが止むことがありません。
でも、1日、1ヶ月、1年、3年を振り返ったとき、
何か本当に意義のあることを成しえているのか・・・・?

忙しく立ち振る舞っているだけで、
何か仕事をやって気にはなっているが、
世の中にとってどうでもいいようなことを
単に処理していただけではないか。。。。

私が4年前にサラリーマンを辞めて、独立を決心したのも
実はこの“不毛な多忙さ”生活に辟易したからです。

最後に勤めた会社は、国内では最大規模のIT会社で
そこで管理職をしていましたが、
雑多な指示与え、決済メールの山、
会議のハシゴ、
上部への根回し・プレゼン、
予算管理、労務管理、等々で、
きょうもアウトルックのスケジュールには、
部下からどんどん予定がほうり込まれてゆく。
根本的に意義ある事業を企画して、創造したりする時間が捻出できず、
大会社という機関車を止めずに走ることだけの
管理業務に振り回される日々。

「これでは自分の人生時間がもったいない」
と内なる叫びがこだまし、今日に至っているわけです。

独立後の仕事の日々も、忙しいことにかわりはありませんが、
不毛でないところが、重要な変換点だと思います。

自分が描いた目的のもとに、忙しいのか、
(目的=目標+意義・意味)
それとも、
ただ他者に使われるままに忙しいのかでは、
中長期のキャリアにおいては、天地雲泥の差ができてきます。

金井教授は、冒頭の本の中で、さらに
「忙しいから絵が描けないのではなく、描けないから忙しいだけだ」
とのフレーズを紹介しています。

また、関連するコンセプトとして、
ノーベル経済学者ハーバード・A・サイモンの
『計画のグレシャムの法則』もあげられます。

これはご存知「悪貨は良貨を駆逐する」という
有名なグレシャムの法則をサイモンが応用したもので、
「ルーチンな仕事はノン・ルーチン(創造的)な仕事を駆逐する」
というものです。

“忙しさ”―――-これは、けっこうな問題です。

2008年3月30日 (日)

梵鐘を割り箸でたたくな! 丸太でたたけ!


今年(08年)、独立後4冊めの著作に挑戦しています。

「職・仕事・働くこととは何か?」をさまざまな角度から照射していきますが、

その中で、ひとつの寓話を創作し、中心に据える予定です。


きょうはその創作寓話を、先立って紹介したいと思います。


□ □ □ □ □ □ □ □ □


むかし、あるお寺の和尚さんが、2人の童子を呼び、こう言いました。


「本堂の裏に蔵があるじゃろ。

実はあの蔵の中に、大事な宝物が代々保管されておる。

その宝物が何か、ひとりずつ、蔵に入ってみてくるがいい。

しかし蔵には窓もなく、昼間でも中は真っ暗じゃぞ、気をつけてな」。


まず1人めに、青の童子が蔵に入っていきました。


蔵の中は、和尚さんの言ったとおり、真っ暗で何もみえません。

しかし、目の前に“何か”があることは気配でわかります。

具体的に何であるかは見当がつきません。


そのとき、童子の足裏に、枝の端くれほどの木片が触れたので、

青の童子はそれを拾い上げ、

目の前の“何か”をたたいてみました。


カラン、カラン・・・ カラン、カラン・・・


青の童子は蔵の中から出てきて本堂に戻り、こう告げます。


「なんだ和尚さん、あれは“鍋”か“やかん”ではないですか」―――――


* * * * * *


次に、赤の童子が蔵の中に入っていきました。


そのとき、赤の童子も真っ暗闇の中、足裏で触れた木片を拾い上げ、

目の前に感じる“何か”をたたいてみました。


カラン、カラン・・・ カラン、カラン・・・


赤の童子はさらに、しゃがみこんで足元のまわりを手で探ってみました。

クモの巣やら、ほこりやらをかぶりながら

頭をどこかにぶつけながら、はいつくばって手を伸ばしていくと、

今度は重い丸太のようなものが手に触れました。

その丸太を持ち上げ、

童子は目の前の“何か”を力いっぱいたたいてみました。


ゴォーーーーン。


赤の童子は本堂に戻り、和尚さんにこう言います。


「あんな立派な“梵鐘”の音は聞いたことがありません」―――――と。


□ □ □ □ □ □ □ □ □



私がこの寓話で言う「梵鐘」は、

「職・仕事・働くこと」の隠喩(メタファー)です。


働くことは、ほんとうに奥深い人間の営みです。

私たちは、職・仕事を通して、無限大に成長が可能ですし、

職・仕事から、無尽蔵に喜びや感動を引き出すことができます。


私は、「働く心持ちを再考築」するための研修を

そこかしこの企業・団体でやっていますが、

受講者(社員・職員)の中には、

「働くって、所詮こんなもんさ」とか、

「うちの会社の今の仕事って、やっぱ限界あるよね」とか、

そんなような割り切り、しらけ、あきらめの境地の人たちが必ず何割かいます。


もちろん、その境地に至った背景は人それぞれにあるでしょう。

安易・怠惰で開き直っている場合もあれば、

苦渋の体験・出来事を経て、そう閉じこもってしまう場合もあるでしょう。


しかし、いずれにせよ、「働くって、所詮こんなもんさ」という人は、

お寺の鐘を割り箸でたたいている人です。

チン、チーン、カラン、カラン、くらいにしか鳴りません。


しかし、働くことは、本来、すごく大きくて立派な梵鐘です。

ただ、その立派な形状は、あらかじめ目にははっきり見えません。


こちらが丸太で、どーんと叩けば、

ゴォーンと響くものです。


そして、その奥深いゴォーンという音は、

打った本人のみならず、村じゅうに響いて、

人びとに時を知らせ、他者の益となります。


鍋・やかんが、せいぜい、自分が食べるためだけの益しか

果たさないことを考えると、対照的です。


さて、あなたは、「働く」という宝物に対して、

割り箸でたたきますか?

丸太でたたきますか? ―――――

過去の記事を一覧する

Related Site

Link