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2009年3月23日 (月)

ピカソはワークライフバランスを求めたか!?

久々に紙面をマーカーで多く塗ってしまう仕事本にぶち当たりました。

Sk_2  ジョシュア・ハルバースタム著
『仕事と幸福、そして、人生について』
(ディスカヴァー・トゥエンティワン刊)

ハルバースタム氏は、米コロンビア大学の哲学部教授とのこと。
哲学者が語る仕事・労働というとどうしても固くなりがちですが、この本は、とてもビジネス現場の感覚に近い視点で書かれています。

私もかねてから、今日のビジネスや行政はすべからく「哲学・思想」を掛け合わせて考えるべきと思っていましたから、「仕事論」×「哲学・思想」は、待ってました!の本でした。

その中で語られている「ワークライフバランス」について
きょうは書きたいと思います。

◆バランスをとることにより失うもの
同著の小見出しにこういうのがあります。

「ピカソは『バランス』を求めただろうか?」

ピカソの作品は突出していて、偉大です。
その偉大さは、とにもかくにも彼の芸術への没頭生活にあるわけです。

ピカソさん、ちょっとワークとライフのバランスを考えて生活なすったらどうですか?
---なんて訊くのは愚問中の愚問です。

ハルバースタム氏は言う。
「バランスばかりにとらわれていると、
われを忘れて何かに打ち込むという豊かな体験を逃してしまうことになりかねない
妥協は情熱の敵であり、意思決定の方法としては二流である」。
「『バランス』が常に理想的であるとはいえないのである」。


私は、こうした考え方におおいに賛同します。
私は「ワークライフバランス」は理想の形だとは思っていません。
それはどちらかというと“守りの形”だと思うからです。

では、“攻めの形”で、目指したい理想形は何か?

―――それを私は「ワークライフブレンド」と言っています。

Wl ワークライフバランスは基本的には、公私を分離し、均衡を保っていくという含みです。
一方、ワークライフブレンドは、
公私の区分はあいまいで、融合し、相互によい影響を与えている姿です。

仕事の中によりよい生活の発想を得、
生活の中でよりより仕事の発想を得るという構図です。

公私の区分があいまいだからといって、
よく言われる「ワーカホリック(仕事中毒・仕事依存)」とは全く異なっています。
ワーカホリックは、自分が定めた目的ではなく、
会社からの目的に下に働かされてしまうという不健全な状態をいいます。

ワークライフブレンドは、みずからの目的・意味の下に嬉々として
仕事をし、生活をする、そして両者が和合している姿です。


◆「公私同根」
私が昨年お会いした株式会社スマイルズ(スープ専門店「Soup Stock Tokyo」を展開)
の社長・遠山正道さんは、

「公私同根」という彼独自の言葉を使っていらっしゃいました。

仕事も生活も同じ根っこから発しているということですね。
絶妙な言い回しだと思います。

確かに、出産・育児と仕事の両立、あるいは親の介護と仕事との両立で
バランスをきっちり取らねばやってられない状況というのはあります。
それはそれで尊い姿だと思います。
だから、私もワークライフバランスが劣るなんてことは言っていません。

ただ、それはやはりどちらかというと“守りの形”なんだろうと。

私は、せっかく21世紀の世界・平成のニッポンの世に生まれたんだから
仕事が面白いから生活も面白くなる。
生活が楽しいから、仕事も楽しくなるという
ワークライフブレンドでやっていきたい。
そうでなければ、人生がモッタイナイ! ―――そう強く思います。


ワークライフバランスついては、
私の最新著『いい仕事ができる人の考え方』
-あなたの「働きモード」が変わる36のQ&A-
の中でも詳しく触れていますサマリー(PDF)はこちらから

2009年3月10日 (火)

「天職」とは“境地”である

01010 いよいよ来週から全国の書店に並ぶ新著が印刷製本され、きょう、出版社から出来立ての10冊が届きました。

今では元原稿の執筆・入稿から、レイアウト編集、チェック、校正まですべてDTPでやっているので自分の原稿との向き合いは、PCの画面上のデジタルデータでした。

それが、いまこうして実物(手触り・目触りのある実体)の本になってくると、やはり言い難い嬉しさがあります。

* * * * *

さて、きょうは、その4冊目の著書『いい仕事ができる人の考え方』
の中でも触れた「天職」についての考察を書きたいと思います。

天職とは、私は
「仕事を通して得た最上の境地」ととらえています。


つまり、突き詰めると、天職の「職」は、特定の「職業」ではなく、
「境地」と置き換えてもいいようになるのです。

西村佳哲さんが書かれた『自分の仕事をつくる』(晶文社)という本があります。
これは、著者がものつくり系のデザイナー・職人たちをさまざまに訪ね、
「仕事とは何か」というテーマを追っていく良書ですが、
ここでは興味深いコメントが散見されます。

例えば、東京・富ヶ谷にパン屋「ルヴァン」を開く田中幹夫氏のコメントは:
「パンそのものが目的ではないな、という気持ちが浮かんできた。
・・・パンは手段であって、
気持ちよさだとかやすらぎだとか、平和的なことを売っていく。
売っていくというか、パンを通じていろんなつながりを持ちたいというのが、
基本にあるんだなと思います」。


また、日本在住の人気デザイナー、ヨーガン・レール氏のコメントは:
「自分の職業がなんであるとか、そういうことはあまり気にしません。
私は、モノをつくってるというだけでいいです(笑)」。


これらの人たちは、まさに天職を生きていますが、
彼らの心の次元では、もはやパン焼き職人とか、アパレルデザイナーだとかの
具体的な職業は主たる問題ではなくなっています

いまのこの力強い心の平安を自分にもたらしてくれている職業が、
たまたまパン職人であり、デザイナーであったのだ
という思いにまで昇華されているからです。

つまり、これらの人たちは、仕事を通じてある高みの境地に達したといえる。
この悟りにも似た感覚は、
私がビジネス雑誌記者時代に遭遇した一級の仕事人たちも同じようなことを口にしたのを記憶しています。

◆ふつふつと湧き起こる想いが天職の源
このような天職境地にたどり着くための必須要件は「想い」です。
先の田中氏にしても、レール氏にしても、
彼らは決して、何々という職業の形にこだわってはいないし、
それを始めるにあたって、
いま流行(はやり)の仕事と能力のマッチングがどうだこうだと
何かの診断テストで自己分析したわけでもないでしょう。

ましてや雇用の形態や会社の規模、年収額など気にかけたはずはない。
彼らは内奥からふつふつと湧く「想い」をただ実現しようと生きてきた(いる)だけです。
「想いの実現」が目的であり、職業は手段なのです。
その結果として、天職を感得した。

「想いの実現」を奮闘していった後に“ごほうび”として得られる泰然自若の状態
―――それを天職と私は言いたい。


私たちは職業選択にあって、職業・職種という形や
雇用条件、能力・資質の問題を過度に考えるきらいがあります。

さらに不幸なことは、人気企業ランキングなどのデータをみて、
世間体のよさ、企業ブランドのようなものまで気にかける。
しかし、生涯を通じ最終的に天職を得たいのであれば、最も重要なものは「想い」です。

私が行う研修プログラムの中で最も注力するのは、「想いを描く」という部分です。

受講者一人一人のかけがえのない職業人生にあって、
「何を働く中心テーマ」に据えたいのか、
自分という能力存在を使って「何の価値」を世の中に届けたいのか、
日々の仕事のアウトプットには「どんな想い」を反映させたいのか、
そして自分の送りたい人生は「どんな世界観」なのか等々、
これらを各人がうまく引き出せるように刺激を与える。

これらを肚で語れないかぎり、
会社員はずっと「働かされ」モードから抜け出すことはない。
そして、どんよりと長き職業人生を送ることとなる。
また一部には、働かされることに適当な距離で安住し、会社にぶらさがる人間も出てくる。

「想い」を持たない人は、天職から程遠いばかりでなく、
能動・主体の人生も危ういのです。

では、これ以降の論議は拙著にて。
本でお会いできることを願っています。


*最新著のサマリー(PDF)はこちらからご覧いただけます

2008年12月 4日 (木)

選択力 ~仕事を選べる人・選びにいく人

Aさんのもとには彼の才能と人柄を頼って、
日々、いろいろな仕事・仕事相談が舞い込む。
そして、彼はその中から自分がワクワクできる仕事を悠々と選ぶことができる。
(つまらない案件だと思えば、それを断ることもできる)

一方、Bさんは自分に都合のよい条件の仕事を探し回っている。
三度目の転職を考えているのだ。
「まったく、世の中にはイイ仕事なんてありやしない」と愚痴混じりに
ネット上の膨大な求人情報をさまよう。

◆カタログ上の仕事情報は急増している・・・だが
ピーター・ドラッカーは『断絶の時代』の中でこう述べています。

「先進国社会は、自由意志によって職業を選べる社会へと急速に移行しつつある。
今日の問題は、選択肢の少なさではなく、逆にその多さにある。
あまりに多くの選択肢、機会、進路が、若者を惑わし悩ませる」。


確かに、この指摘は一面で正しい。
しかし、一面で正しくないともいえます。

つまり、カタログ上の職業や職種、あるいは求人は過去に比べ増えている。
WEBや分厚い冊子に載る就職情報・求人情報は日常、溢れるほどあり、
そういった意味では、ドラッカーの言うとおり、
私たちは、その種類の多さに、“いったんは”惑い、悩む。

しかし、よくよく自分の適性やら条件やらに当てはめていくと、
「これも×」、「あれも×」・・・となっていき、
ついには自分が選べるものがみるみるなくなっていく。。。
そして、残った数少ないものに応募し、面接するのだけれども、
結果は「不採用」・・・

カタログの中には、無数の選択肢が目まぐるしく記載されているのに、
自分はどこからもはじかれてしまう・・・
そんなBさんのような人が世の中には多くなっている。

とはいえ、広い世間には、それとは真逆の人もいる。
Aさんのような人です。
彼のもとには、仕事が向こうから寄ってくる。

◆「仕事を選びにいく回路」に留まっているかぎりジリ貧になる
―――この二人の選択肢の差が、私の言う「選択力」の差です。

選択力とは、厳密に言えば、
「選択肢を増やし、結果的に“選べる自分”になる力」です。

Bさんのように、都合のよいものだけを追っかける働き方をしている人は、
そもそも選択肢を増やすことをしない。
既存の選択肢に自分が擦り寄り、あれこれ選り好みしているだけなので、
早晩、ジリ貧になる。
すなわち、「選びにいく自分」がそこにいる。

ところがAさんは自分の抱く目的の下に、
いろいろな形で行動で仕掛け、自分をひらいている人です。
おそらく、何かしら「仕事の世界観」をもっているのでしょう。
その世界観がいろいろなヒト・仕事・機会・ときにはカネを引き寄せることになる。

自分の仕事の世界観をつくるには、
明確な目的を抱き(=自分が働く方向性・イメージ・意味を腹に据え)、
自分の道を“限定”していくことです


自分を目的に沿って限定することが、
逆説的だが、実は、選択肢を広げることにつながっていく。

Photo


今の世の中は、専門バカといわれようが、オタクと呼ばれようが、
そんな小さな隙間分野に固執して大丈夫かと言われようが、
自分の決めた目的の下に、粒立った一個の仕事人になることが
「選択力」を高めることにつながる。

「選べる自分」になるのか、「選びにいく」自分になるのかの分岐点は、
理屈をこねず、怠け・甘え・臆病を排し、
ひとたび腹を据えて、目的(当初はあいまいでもよい)を設定し、
そこにがむしゃらに動くかどうかです。

それを実証してみたいなら、
何かに3年間しがみついて、こだわって、没入してみること。
―――すると選択肢が自分のところに寄って来るのがわかるでしょう。

多少の勇気と不屈の心さえあれば、「選べる自分」に人生転換することができる。
特別な能力は必要ない。

私は毎朝メールボックスを開けるのが楽しみです。
きょうも既知・未知の誰かから、
何かしらプロジェクトの提案メールが来ているかもしれない。
「選べる自分」になると、未来がワクワクする。


●【補足の話】
阪急グループ創業者である小林一三の言った有名な言葉:

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
 そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」。


豊臣秀吉が織田信長の下足番からのし上がり、
ついには天下を取った話は有名です。

小林は著書『私の行き方』の中でこう補足する。

「太閤(秀吉)が草履を温めていたというのは
決して上手に信長に取り入って天下を取ろうなどという
考えから技巧をこらしてやったことではあるまい。

技巧というよりは草履取りという自分の仕事にベストを尽くしたのだ。
厩(うまや)廻りとなったら、厩廻りとしての仕事にベストを尽くす、
薪炭奉公となったらその職責にベストを尽くす。

どんな小さな仕事でもつまらぬと思われる仕事でも、
決してそれだけで孤立しているものじゃない。
必ずそれ以上の大きな仕事としっかり結びついているものだ。


仮令(たとえ)つまらぬと思われる仕事でも完全にやり遂げようとベストを尽くすと、
必ず現在の仕事の中に次の仕事の芽が培われてくるものだ。
そして次の仕事との関係や道筋が自然と啓けてくる」。


要は、生涯、下足番になり下がるも、
それを極めて次のステップに自分を押し上げるも、
すべては本人の心持ち次第ということです。

演劇の世界に「小さな役はない。小さな役者がいるだけだ」という言葉もある。
切り替えて言えば、
「小さな仕事はない。仕事を小さくしている働き手がいるだけだ」ということになる。

2008年11月 2日 (日)

偶発を必然化する力―――秋の読書4冊

◆人生・キャリアはJazzだ
ジャズ音楽の醍醐味は、そのアドリブ(即興)にあります。
ジャズにおいては、とりあえず楽譜はあるものの
ミュージシャンたちはたいていその場その場の雰囲気でアドリブを仕掛けていく。

ジャムセッションで、演奏メンバーは何の曲をやるかは分かっていますが、
それをどう弾いて、結果、どう仕上がっていくかは、
本人たちにも想像がつかない。
当日の聴衆の雰囲気によっても左右されるでしょうし、
誰か1人が弾いたアドリブの一節が他のメンバーに引火し、
それがどんどん大きくなり、これまでにない演奏になる場合もあるでしょう。
ジャズの演奏の出来不出来は、もう演奏してみないと分からないわけです。

そして、演奏してみた結果、初めて
本人たちも「俺たちがやりたかったのはこういう演奏だったのだ」とわかる。

考えてみれば、人生もキャリアもジャズと同じようなものです。
自分の能力や意志、体力、経済力といったものを統合的に組み合わせて、
自らの生き様・働き様といった作品をこしらえていく。
しかし、ことはすべて型どおり、予定通りには進まない。
運や縁といった偶発のいたずら要素も大きい。
ですから、人間は毎日の生活を即興演奏しているともいえる。

アドリブとは「逸脱の創造行為」ととらえてもいいでしょうが、
この逸脱という試みは、基本的な演奏技術を習得し、
演奏の場数を豊富に経験した上で、
「偶発」に下駄を預けることの妙味を知っている者こそがやると、
すばらしいアウトプットを誕生させることができる。

私は、自分が行っているキャリア研修で
「人生やキャリアも、ある部分、
アドリブを意図的に楽しむという“行き当たりばったり”でいいんですよ

と言っています。

ただし、
その上で、納得のいく生き様・働き様を表現していくためには、
もろもろの基礎力やイマジネーションがあってこそ、と付け加えています。
自分の意志も能力も経済力も脆弱なままでは、
逸脱を十分な創造人生までに変換することはできません。


◆「ハプンスタンス・アプローチ」~偶発を楽しめ!
キャリアは「計画された行き当たりばったり」でよい、とする研究成果を出したのは、
「Planned Happenstance Theory」 を提唱した
米スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授です。

教授によれば、
キャリアは100%自分の意のままにコントロールできようものではなく、
人生の中で偶然に起こるさまざまな出来事によって決定されている事実がある。
そこでむしろ大事なことは、
その偶発的な出来事を主体性や努力によって最大限に活用し、チャンスに変えること、
また、想定外な出来事を意図的に生み出すように積極的に行動することだ
という論旨です。

そのために、各人は好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心を持ち、
失敗を許容するおおらかさを持つことが重要だといいます。
これらを教授は「ハプンスタンス・アプローチ」
(偶発を肯定的に利用しチャンスに変える)と名づけていますが、
変化の激しい時代を生きる上で、この心の持ち様はとても有効だと思います。


ジェラート・パートナーズのH.B. Gelatt博士は、同じような観点から
意思決定の方法論として
「Positive Uncertainty」 (不確実性を肯定的に受け入れる)
という概念を提唱しています。


◆「セレンディピティ」~迎えに行く偶然
科学の世界では、偉大な発見が偶然の失敗や何気ない所作から生まれることが多い。
しかし、果たしてそれは、
偶然だったのか、それとも必然だったのか・・・?

「チャンスはその心構えをした者に訪れる」。
Chance favors the prepared mind.


これは、フランスの細菌学者ルイ・パスツールの言葉。
ノーベル賞を受賞する科学者たちが頻繁に引用することでもつとに有名です。

2002年同物理学賞受賞の小柴昌俊博士も
著書『物理屋になりたかったんだよ』の中でこう述べています。
「たしかにわたしたちは幸運だった。
でも、あまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、
と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、
それを捕まえるか捕まえられないかは、
ちゃんと準備をしていたかいなかったかの差ではないか、と」。

そこで、西洋の言葉には「セレンディピティ」という便利な一語がある。
“serendipity”とは、オックスフォード『現代英英辞典』によれば、
「楽しいものや思いがけないものを偶然に見つけること。あるいはその才能」とある。

セレンディピティの研究でいくつかの著書がある澤泉重一氏は、
偶然の中から何かを察知する能力として、
セレンディピティを「偶察力」と名づけています。

氏はまた、人生には「やってくる偶然」だけではなく、
「迎えに行く偶然」があるといいます。
つまり後者は意図的に変化をつくり出して、そこで偶然に出会おうとする場合をいう。
その際、事前に仮説をいろいろと持っておけば、何かに気づく確率が高くなる。
基本的に有能な科学者たちは、こうした習慣を身につけ、
歴史上の成果を出してきたと氏は分析します。

パデュー大学のラルフ・ブレイ教授によれば、
セレンディピティに遭遇するチャンスを増やす心構えとして、
「心の準備ができている状態、
探究意欲が強く・異常なことを認識してそれを追求できる心、
独立心が強くかつ容易に落胆させられない心、
どちらかというとある目的を達成することに熱中できる心である」としている。
(澤泉重一著『セレンディピティの探究』より)


◆哲学は偶然性をどう考えるか
偶然性は哲学の世界においても大きなテーマであり続けてきました。
『偶然性と運命』(木田元著)は、
幾人もの哲学者たちがそれをどうとらえてきたかをわかりやすく解説してくれます。

マルティン・ハイデガーは、独自の時間論の中で偶然をとらえます。
人間は、現在を生きるとき、未来や過去をも同時に生きている。
つまり、外的で偶然的なものとしか思われない現在のこの出逢いが、
あたかも自分のこれまでの体験の内的展開の必然的到達点であるかのように
過去の体験が整理しなおされ、未来に向かって意味が与えられる。
ハイデガーはこれを<おのれを時間化する>と表現しました。

また、日本の九鬼周造は、運命を
「偶然な事柄であってそれが人間の存在にとって非常に大きい意味をもつ場合」
と定義づけ、運命とは偶然の内面化されたものであるとします。

また、ヴィルヘルム・フォン・ショルツは必然化された偶然を
「運命の先行形態としての偶然」と言い、
カール・ビューラーはそうした必然化されたときの感覚を
『ああ、そうか!(アハ)体験』(Aha-Erlebnis)と呼んでいます。

ゲオルク・ジンメルは、
「事象を同化していくほどの生の志向をもたないばあいには、
自然性に流されて生きることになり、 <運命より下に立つ>ことになるし、
内部から確固としてゆるぎない生の志向をもつ者は
<運命より上に立つ>ことになる」と言及している。


◆運命決定論と運命努力論との間(はざま)で
「人生においては何事も偶然である。
しかしまた人生においては何事も必然である」とは、
哲学者の三木清の言葉です(『人生論ノート』)。

なぜなら、「生きることは“形成”すること」であるがゆえに、
人間は、偶発や失望を必然や希望に変換し、形成しなおすことができるからだと、
三木は言いたいのだと思います。

例えば、人生、紆余曲折を経て、ある地点にたどり着いたとき、
来し方を振り返ってみると、
「ああ、あのときの失敗はこういう意味があったのか」、
「あのときの出来事は起こるべくして起こったのだな」
といった思いにふけるときがあります。
それがつまり、自分が偶発を必然に変えることができたということでしょう。

人間の運命に関しては、
何かの力で先天的に決められているとする運命決定論と
後天的な意志と努力でどうにでもなるとする運命努力論との
二元的な考え方がありますが、
実際のところ、その2つの間の無限のグラデーションなのだと思います。

まァ、すでに凡人・凡才として生まれ出てしまっている私にとっては、
先天的なこの凡運をいかんすることもできないので、
おおいに偶然を必然化することに注力し、
最大限自分をひらいていこうと思っています。
ひらく伸びシロは、見通せないほど広大にあると思います。


Photo
【推薦読書】
・『その幸運は偶然ではないんです!』J.D.クランボルツ/A.S.レヴィン著(花田光世/大木紀子訳/宮地夕紀子訳)ダイヤモンド社
・『セレンディピティの探究』澤泉重一・片井修著(角川学芸出版)
・『偶然性と運命』木田元著(岩波書店)
・『人生論ノート』三木清著(新潮社)

2008年10月13日 (月)

結果とプロセス―――どちらが大事か?

今年も日米ともにプロ野球のリーグ戦が終わりました。
そしてそれぞれの国では、
日本シリーズ、ワールドシリーズのチャンピオンシップをかけ
トーナメント戦が始まっています。

今年の記録といえば、米シアトルマリナーズ・イチロー選手の8年連続200安打や、
読売巨人軍の13ゲーム差をひっくり返しての優勝などいろいろありました。

また、記録より記憶に残るといえば、
オリックスバッファローズ・清原和博選手の引退でしょう。

いずれにしても、勝ち負けという結果を厳しく問われる仕事に生きる
プロスポーツ選手たちの働き様・生き様は
私たちホワイトカラー族にもさまざまなことを考えさせてくれます。
今日は、「結果とプロセス」をテーマに書きたいと思います。

* * * * * * *

働いていく上で、そして自分をつくる上で、
「結果」と「プロセス」のどちらが大事か?―――これは難しい問題です。
結論から言えば、どちらも欠くことはできない大事なものです。

しかし、「真に人をつくるのは」と問われれば、プロセスだと思います。
結果は確かに人を自信づけ、歓喜をもたらしてくれます。
しかし、その一方で、人を惑わしたり陥れたりもします。
「結果はウソを言うときがあるが、プロセスはウソを言わない」
言い換えてもいいかもしれません。

このあたり、イチロー選手の語録には
深く噛みしめるべき内容がありますので、いくつか紹介します。
(イチロー選手のコメントは、いずれも日本経済新聞紙上で掲載されたもの)

・「結果とプロセスは優劣つけられるものではない。
 結果が大事というのはこの世界でこれなくしてはいけない、
 野球を続けるのに必要だから。
 プロセスが必要なのは野球選手としてではなく、人間をつくるうえで必要と思う」―――。

これは一般のサラリーパーソンについてもまったく同じことが当てはまります。

会社員であれば組織から与えられた事業目標、業務目標があり、
それを成果として個々が達成することで、会社が存続でき、給料ももらうことができる。
また、自分の能力よりも少し上の目標を立て、それを達成することで自分は成長する。

ただ、そうした結果を出すことが絶対化すると、
周囲との調和を図らない働き方や不正な手段を用いた達成方法を生み出す温床となる。
また、働く側にとっては、それが続くと、早晩、消耗してしまう。
結果至上主義は多くの問題をはらんでいます。

イチロー選手はこうも言います。

・「負けには理由がありますからね。
 たまたま勝つことはあっても、たまたま負けることはない」。


・「本当の力が備わっていないと思われる状況で何かを成し遂げたときの気持ちと、
 しっかり力を蓄えて結果を出したときの気持ちは違う」―――。

これはつまり、結果が出た(=勝った・記録を残した)からといって
有頂天になるな、結果はウソを言うときがあるぞ、
というイチロー選手独自の自戒の言葉です。

プロセスが準備不足であったり、多少甘かったりしたときでも、
何かしら結果が出てしまうときがときにあります。
そうしたときの結果は要注意です。
そこで天狗になってしまうと、次に思わぬ落とし穴にはまってしまうことが往々にして起こります。
結果におごることなく、足らなかったプロセス、甘かったプロセスを見直し、
次に向け気を引き締めてスタートすることが必要です。


こう考えてくると、「結果」をめぐる問題点は、どうやら二つありそうです。
一つは、「結果を出せ!」とか「結果を出さなくてはならない」といった強要や自縛がはたらくと、
結果主義はマイナスの面が強く出る。

もう一つは、たまたま「結果が出てしまう」ことで、本人に慢心が起こる。
この点に気をつければ、「結果を出すこと」は働く上で重要な意識になるでしょう。

むしろ、結果を求めないプロセスは、惰性や無責任を生みます。
また、結果が出ることによってこそ、それまでのプロセスが真に報われることになります。

要は、結果とプロセスはクルマの両輪であって、
どちらを欠いてもうまく前に進むことはできません。
そして、駆動輪になるのは、言うまでもなく、
日々こつこつと努力を重ねるというプロセスのほうです。

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