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2008年4月25日 (金)

小林秀雄『人生の鍛錬』


私は、17年間のサラリーマンキャリアの中で、

7年間、ジャーナリズムの世界に身を置きました。

ビジネスメディア出版社で、ビジネス雑誌の編集・記者をやり、

来る日も来る日も記事の企画、取材、執筆に明け暮れました。


ビジネス雑誌の編集は、ある意味、刺激に溢れ面白い仕事でした。

しかし、経済のバブルが増長中であれば、経済をあおる記事を書き、

バブルがはじければ、誰が悪いんだと犯人探しの評論記事を書く。

しかし、当時の私を含め、現場の人間たちは、

時代の流れを忠実に記事に表現しているだけと、

「ジャーナリズムとは何か?」という本質論についての内省はほとんどありませんでした。


また、自分のいた出版社ではありませんが、

人のゴシップや醜聞を、偏向や悪意で書き立て、

ぎょうぎょうしい見出しで売らんかなとする媒体の数々・・・。


「ペンの正義」にあこがれて

メディア・ジャーナリズムの世界に転職した私でしたが、

どうも現場は、「ペンの横暴」が跋扈している。

そんな業界の性質にネガティブな思いがどんどん大きくなっていた折、

次の小林秀雄の文章に接しました。


・「自分の仕事の具体例を顧みると、

 批評文としてよく書かれているものは、

 皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、

 はっきりと気附く。

 そこから素直に発言してみると、

 批評とは人をほめる特殊に技術だ、と言えそうだ。

 人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、

 批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ」。



真の批評とは、対象物を肯定的に包容する中から生まれる―――

この大海原のごとき精神に、私ははっとしました。

そして、それまで書いてきた自分の記事を振り返りながら、

自分のジャーナリストとしての小ささに、ただただ、身の縮こまる思いでした。


で、私は、そのビジネス出版社を辞める決意、

正確には、ジャーナリストを辞める決意をいたしました。


前置きが長くなりましたが、

小林秀雄は私にとって、キャリアの分岐点をつくってくれた特別な人です。


きょうは、

『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』(新潮社編、新潮新書)

を取り上げます。


Photo
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

小林秀雄(1902-1983)は、

“近代日本の批評の父”ともいうべき批評家・評論家です。

その高邁・明晰な文章は、その後の作家や芸術家、政治家などに大きな影響を与えました。


小林は、生涯、非常に多くの批評・評論を書き残しています。

ですので、どれか1片、どれか1冊をとなると私も紹介ができないのが

正直なところです。

そこで、きょうの1冊―――『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』です。


これは小林の主だった言葉を、時代順に新書サイズに収めたものです。

どれもこれも、小林の透徹した思想を凝縮した珠玉の言霊ですが、

まず、一通り読んでみて、

自分が気に入った言葉が見つかれば、

その元となった著作をしっかり読んでみる。

それがいいと思います。


小林秀雄の著作であれば、地元の公立図書館に行けば、

たいてい全集が揃っているはずです。

私もそうやって、少しずつ、小林秀雄全集を読み進めています。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


私が小林秀雄から教わることは、まず、人の基本動作を再認識して深めることです。

例えば、


・「考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、

 物と親身に交わる事だ。

 物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、

 そういう経験をいう」。


・「表現するとは、

 己を圧(お)し潰(つぶ)して中味を出す事だ、

 己の脳漿(のうしょう)を搾(しぼ)る事だ」。


・「歌は読んで意を知るものではない。歌は味わうものである。

 ある情から言葉が生まれた、

 その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ」。

・「書物が書物には見えず、

 それを書いた人間に見えて来るのには、

 相当な時間と努力とを必要とする。

 人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、

 読書の技術というものも、其処以外にはない」。


日々働く上で、こうした基本動作を

漫然とやるか、深い認識の下にやるかで、

5年後、10年後の差は驚くほどついてくるんだと思います。

小林の言葉はそのことを気づかせてくれます。



小林の批評が、重く鋭い力を持つのは、

おそらく文明視座的な時間軸を持つからだと私は思います。

四半期(4ヶ月)ごとの数字の増減ばかりに視座を奪われる現代社会にあって

正常な意識を覚醒してくれる言葉が数々あります。


・「古代人の耳目は吾々に較べれば恐らく比較にならぬ位

 鋭敏なものであった。

 吾々はただ、古代人の思いも及ばぬ複雑な刺戟を受けて

 神経の分裂と錯雑とを持っているに過ぎない」。


・「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、

 無常という事がわかっていない。

 常なるものを見失ったからである」。

・「未だ来ない日が美しい様に、

 過ぎ去った日も美しく見える。

 こうあって欲しいという未来を理解する事も易しいし、

 歴史家が整理してくれた過去を理解することも易しいが、

 現在というものを理解するは、

 誰にもいつの時代にも大変難しいのである。

 (中略)

 あらゆる現代は過渡期であると言っても過言ではない」。

・「能率的に考える事が、合理的に考える事だと

 思い違いをしているように思われるからだ。

 当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。

 (中略)

 考えれば考えるほどわからなくなるというのも、

 物を合理的に究めようとする人には、

 極めて正常な事である。

 だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう」。



また、小林の根強い人気は、

その懐の深い厳父のまなざしがあるからだと思います。

結局、冒頭の彼自身の言葉が指し示すように、

批評・評論は冷血な言いっぱなしではなく、

根底には愛情や敬い、肯定する心があるからです。


・「勇ましいものはいつでも滑稽だ」。


・「後悔などというお目出度い手段で、

 自分をごまかさぬと決心してみろ」。


・「感傷というものは感情の豊富を言うのではなく

 感情の衰弱をいうのである。

 感情の豊富は野性的であって、感傷的ではない」。


・「悧巧(りこう)に立ちまわろうとしている人を傍でみている位

 冷々(ひやひや)するものはない」。


・「自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、

 最も逆説的な自己陶酔の形式だ」。


・「自信というものは、いわば雪の様に音もなく、

 幾時の間にか積もった様なものでなければ駄目だ。

 そういう自信は、昔から言う様に、お臍(へそ)の辺りに出来る、

 頭には出来ない」。


・「確かなものは

 覚え込んだものにはない。

 強いられたものにある」。


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