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2008年5月

2008年5月27日 (火)

これからの大事な人財要件3<自律した強い個>

要件3【自律した強い個」のマインド】=


私は人財をみるとき3つの層に分けてみるようにしています。


【第1層】どんな「知識・技能(スキル)」を持っているか

【第2層】どんな「行動特性・態度・習慣」で行動しているか

【第3層】どんな「観・マインド」で、自らのあるべき仕事・人生を考えているか


つまり上から順に、have要素、do要素、be要素で人財をみるわけです。

これまで、人事の世界では、主に人財をhave要素、do要素の2つで

事細かに要件を出してとらえてきました。

しかし、これからは、第3層の「be」要素にもしかるべき視線を入れて、

その人財をとらえ、育成する必要がある、それが今回のこの記事の中心軸です。


で、働き手に、よき人財として、第3層(be要素)に何を求めるか――――

1つは先に言及した「賢慮・美徳」性、

そしてもう1つは、「自律マインド×個として強いこと」です。


よき人財というものは、

組織に雇われていようがいまいが、

チームで仕事をしていようがいまいが、

自分が平社員であろうと、管理職・経営者であろうと、

結局のところ、


・一人で考える時間をつくり

・一人で決断し

・一人で率先し

・一人で組織と向き合い、一人で顧客あるいは社会と向き合い

・一人で自らの仕事をつくりだし

・一人で責任を負う覚悟をし

・一人で仕事の完成を目指す  働き手です。


仕事を真に極めていくことは、必然的に「孤独」という状態を引き込んでいきます。

また「孤独」でなければ本当の深い仕事はできません。

(注:「孤独」であって、「孤立」ではありません)


真のプロフェッショナル、真の経営者を見つめれば、それは実に孤独なものです。


ゲーテは、

「何か意味あることは、

孤独のなかでしか創られないことを私は痛感した」と言い、

また、ソローは、

「ものを考える人間、働いている人間はどこにいようとも孤独である」

と言いました。


この孤独に耐え、孤独を基盤とし

(哲学者・池田晶子の言う“「零地点の孤独」を知る”)、

孤独を楽しみにさえする。

そして、外にはそんな孤独をみせずに、

周囲と調和をはかり、周囲を動かして、仕事を成していく――――

これが自律した「個として強い」人財です。


しかし、それとは逆に、人事担当者の若手・中間管理職をみる目には心配事が多い。


・業務命令の意図を理解し、それをソツなくこなすことはできる。

だが、仕事をつくりだすことができない。

・事業や組織への不満や批評を口にすることは多い。

だが、それを変えようとする意気はない

・3人寄っても文殊の知恵が出ない。誰もが周囲の出方をうかがって、

自分の意見を言わない。無難で平板な論議しかできない。

・経営からの情報・意思を単に現場に下ろすだけの

“伝言型”中間管理職が多い。そして、

自らの意見を上に返すこともなく、また、自らそしゃく・増幅して

下に伝えるわけでもない。

・「その仕事において、そう行動する理由はなぜだ?なぜだ?なぜだ?」・・・

と問うていけば、結局、「組織がそう求めたから」という答えしか出てこない。

・現状の事業・仕事のやり方・あり方は明らかに組織都合のものである。

決して顧客目線にはなっていない。しかし、それを変えることは面倒だし、

失職のおそれすらあるので容認してしまう。

・(本人の意識は薄いが)組織外の場に出ると、

やたら「●●会社の●●(役職)でござい」というオーラで立ち振る舞う。

また、他の人間をみる場合に、何よりも会社名や役職で判断し、

その尺度から離れられない


・・・このように働き手が「個として弱い」がゆえに起こってくる症状は

さまざまあります。


私は、企業や地方自治体の従業員・職員に対し、

自律マインド醸成のための研修を行なっていますが、

多くが「個として強くなっていない(=個として弱いままの)」現状を感じます。


私は研修の中で、

・「で、あなた自身はどう考えますか?」、

・「組織や経営者の考え方の受け売りではなく、

この事業に関するあなたの意見・判断は何ですか?その根拠はなんですか?」、

・「あなた自身が、顧客と世間の前に出て全説明ができますか?」、

・「あなたは何者ですか?名刺なしに語ることができますか?」、

・「明日から一個のプロフェッショナルとして、自営で生きていくことができますか?」、

などの目線から問いを発し、各自の「個としてひ弱な」就労意識にカツを入れます。


アランの『幸福論』#89に、次のような一節があります。


「古代の賢者は、難破から逃れて、すっぱだかで陸に上がり、

『私は自分の全財産を身につけている』と言った」。


こうした「個」として毅然とした人財こそが、これからの時代に大事な人財です。



*********

<補足>


雇用組織にぶら下がるでもなく、雇用組織の威を借りるでもなく、

他者や世間の流れに付和雷同することなく、

一個の職業人として悠然と仕事を成していく―――――

そんな「個として強い」働き手は、充分に「孤独感」を味わいます


ですが、それは決して「孤立感」ではありません


世の中には、「個として強く」働くがゆえに、

その孤独感を理解している人たちがたくさんいます。


で、そうした人たちは、心の深い次元でつながります


糸井重里さんの『ほぼ日刊イトイ新聞』の表紙ページにあるあの名文句:

Only is not lonely.  が示すとおり、

能あり志ある「個」は、共振し、連帯し合い、コスモスを形成します


また、古今東西の偉人の書物に触れるとき、

それを“身読・心読”(身で読み・心で読むこと)できるがゆえに、

時空を超えてピーンとつながることができます。

決して孤独ではないのです。




*参考文献

野中郁次郎・紺野登『美徳の経営』、NTT出版、2007

アラン『幸福論』(白井健三郎訳)、集英社文庫

2008年5月26日 (月)

これからの大事な人財要件2<賢慮・美徳性>

【信州・蓼科発】

5日間の「信州キャンプ」も最終日。

きょう、八ヶ岳西麓はよく晴れました。これぞ高原の爽快な初夏の気候です。

こういう日は、オープンエアの臨時仕事デスクをこしらえます。

木陰にキャンプ用のテーブルとイスを出し、

ノートPCに向かって原稿を書くもよし、

本を読むもよし、

昼寝をするもよし。

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*ピクニック感覚で外に繰り出し、仕事をする。それもアリです。

おにぎりやお茶、お菓子も持っていけば、けっこう楽しい仕事になりますよ。

近くの公園で一度試してみるのをおススメします。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

さて前回から、私が思うこれからの時代の大事な人財要件3つを紹介しています。

それら3つとは、

1)「コンセプト創造」性

2)「賢慮・美徳」性

3)「自律した強い個」のマインド   です。

今回は、2番目について触れます。


=要件2【賢慮・美徳性】=

人財要件として、そもそも、賢慮とか美徳性などという言葉を持ち込むことに

何か違和感を持つ人もいるでしょう。


しかし私は、あえていま、

1人1人の働き手(一般従業員、管理職層、経営者)

「賢慮・美徳」性を問いたいと思っています。


なぜならひとつには、それをあえて指摘せねばならないほど、

働く上での倫理・道徳が世の中あげて壊れかけている状況があること。

これはネガティブサイドの観点。


もうひとつには、ポジティブサイドの観点として、

結局、よりよく働く、真に優れた仕事を究めるということは

賢慮・美徳を元とする「道」を志向することにつながってくるからです。


ところで、

“暗黙知”や“形式知”を世に広めた

『知識創造企業』、『知識創造の経営』などの著作で知られる

一橋大学の野中郁次郎名誉教授の近著タイトルは、『美徳の経営』です。

教授が経営の核心を“知識”から“美徳”へと

踏み込んでいった点は注目に値します。


その著書によれば、

・経営はすでに「質の時代」に入っている。「量の時代」のピークは過ぎた。

・グローバルに経営の知のあり様が変化している。

 米国式経営や戦略に限界がみえ、そこにはより深い批判的視点が起きている。

企業倫理やCSR、さらには、芸術的なリーダーやデザインへの関心などは

その表れである。

・新たな時代に求められる経営の資質は「美徳」である。

 美徳とは、「共通善」(common good)を志向する卓越性の追求である

この美徳を実践に結びつけるための知が「賢慮」である

 賢慮は論理分析的なノウハウではない。

理想と現実の矛盾を超えて実践するための高質な暗黙知である。


この本は、美徳や賢慮といったものを

主に経営者やリーダーに求める角度で書かれているわけですが、

私はすべての働き手に求めていいものであると思います。

なぜなら、働く上での賢慮・美徳性といったものは、

いきなり身につくものではなく、

職業人になると同時に(もっといえば、生まれたときから)

その涵養が行わなければならないものですし、

また、昨今の企業や官公庁などの不祥事をみても、

それらは一介の社員・職員が倫理観なく起こしたもの、

あるいは、たとえ「悪いとは知りつつ」も、

経営者の暴走や組織の慣行を容認して結果的に加担したものが多いからです。


これからの時代の、真に優れた人財を考えるとき、

業務処理能力が高く、量的な成果をあげることに長けている、

という単線的な評価ではいけないと思います。


その組織・事業にとっての「共通善」とは何か?

顧客との間の「共通善」とは何か?

社会との間の「共通善」とは何か? ということに照らして、

仕事の目標や目的を考えることができ、日々の業務の営みに卓越性を求める

―――――つまり働く地盤に、賢慮・美徳性を敷いているか、

そんな目線も同時に必要なのではないでしょうか。


ひょっとすると、これからの時代の「人財に優れた組織」というのは、

「ハイ・パフォーマー」(high performer)を

どれだけ抱えているかということよりも、

組織員をあまねく

「バーチュアス・ワーカー」(virtuous worker:徳心ある働き手)として

押し上げ、

「共通善」の元に求心力を保持している組織ではないかと思います。

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2008年5月25日 (日)

これからの大事な人財要件1<コンセプト創造性>


【信州・蓼科発】

初夏の仕事キャンプ4日目。

蓼科地方は昨日の午後から雨。きょうもたっぷり降りました。

観光であれば恨めしい雨なんですが、

私の場合、部屋の中で雨音を聞きながらの執筆仕事もまたいいものです。

新緑も5月の慈雨を受けて、つやつやしています。

そして、仕事合間に露天温泉に浸かりに行く。

仕事は天候にかかわらず順調です。


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*部屋の窓からは緑がまぶしい。今日は奥蓼科温泉に:「渋辰野館」の湯はいいです!

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

さて、本日の話題。

きょうから3回シリーズで、これからの時代の働き手に求められる大事な要素について書いていきます。


組織人事の分野では、「人財要件」(あるいは「人財スペック」)という語がよく使われます。

人財の採用・登用にあたって、どんな要件を満たすことを求めるか、ということです。

この人財要件とは、主に、能力・資質面のことを考えるわけですが、

近年はその分類がどんどん細分化しています。


例えば技術系の職種であれば、どんな種類の技術的技能・資格・知識を、

どのレベルまで有しているか、

管理職であれば、PL/BSは読めるか、

コミュニケーション能力、リーダーシップ能力はどの程度か、

また職能等級を1段階上げるには、どの能力をどの程度まで上げる必要があるか、

など、ともかく人事担当者は細かなマトリックス表をつくって

人財の要件管理を行なうわけです。


これはこれでなくせないものであると思いますが、

ただ、この流れのみで人財をとらえていくと、見失うものがあると私は感じています。


要件を細分化するだけではみえてこないもの

人財を見つめるにあたって、

もっと大きなゆるいくくりで

大元のところの要件を考える必要があるのではないかと思います。


そこで、私が考えるこれからの時代の大事な人財要件を3つ述べます。

これは私が日ごろ企業研修を行なって、

今の働き手(一般従業員、管理職、経営者のすべてを含む)の中で

脆弱化しているなと感じるものでもあります。


その大事な人財要件3つを先に紹介すると

1)「コンセプト創造」性

2)「賢慮・美徳」性

3)「自律した強い個」のマインド


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


要件1【コンセプト創造性】=


◆モノづくりの真面目さだけではダメな時代

この「コンセプト」という語は「概念」という訳語では狭くてしっくりこないので

そのまま英単語を用います。


ともかく、日本人はこの「コンセプト」の創造が下手な民族かもしれません。

乱暴な言い方を許していただければ、

日本人は古来より「モノづくりの民」です。

民族のコンピテンシーは繊細で器用な手先にある。

一方、アングロサクソン人は「コンセプトづくりの民」かもしれません。

新しい概念をつくって、仕組み化する、

そしてその胴元になって自らを潤すことに長けている。


日本人は一生懸命、「優秀なゲームプレイヤー」になろうとするが、

アングロサクソン人は、努めて、

「ゲームプロデューサー/オーナー」になろうとする。


これからの時代は、情報化社会から一歩進んで「コンセプチュアル社会」に移る。

また、「ハード/ソフトづくり」を超えて、

「コンテクスト(文脈)づくり」をうまく成し遂げた者

優位に立つビジネス世界となる。

そんな状況にあって、

個々の働き手に求められる人財要件のひとつは「コンセプト創造性」です。


自分が携わる分野の商品・サービスにおいて

・新しい概念を顧客に提案し

・それをビジネスモデルとして仕組み化し

・その仕組みや枠組みを他との競争の中で常に再構築していくこと


日々の業務で言えば、

・常に「サムシング・ニュー」を仕事に付加すること

 (=同じパターンの繰り返し業務で安穏としない)

・常に未来に仮説を抱き、そこに道筋をつけようと行動する

 (=過去の成功分析、後学問で仕事・事業がわかったような気にならない)

・人が普通考えないような角度でものを考える

・新しいキーワードをつくって人々を引き寄せる

・自分が担当業務の場からいなくなっても、業務が回るような仕組みを考える

・自分のアイデアを他者に発信する習慣を持つ

 (他者からのフィードバックを得たら、その後、修正アイデアを再発信する)

・新しいことを面白がる

などなど、さまざまあるでしょう。


ダニエル・ピンク氏が著した

『ハイ・コンセプト~「新しいこと」を考え出す人の時代』

(大前研一訳、三笠書房、2005年)は、まさにこれらのことを指摘した意欲作でした。


◆「答えのない時代」にどんなヒトが求められるのか?

ピンク氏は、

「これからは、創意や共感、

そして総括的展望を持つことによって社会が築かれる時代、

すなわち『コンセプトの時代』になる。

・・・・・・

『ハイ・コンセプト』とは、パターンやチャンスを見出す能力、

芸術的で感情面に訴える美を生み出す能力、

人を納得させる話のできる能力、

一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力

などだ。

・・・・

個人、家族、組織を問わず、

仕事上の成功においてもプライベートの充足においても、

まったく『新しい全体思考』が必要とされている」

と書いています。


この本の訳者である大前研一氏は、まえがきで次のように補足しています。

「要するに、これからは創造性があり、反復性がないこと、

つまりイノベーションとか、クリエイティブ、プロデュース、

といったキーワードに代表される能力が必要になっていくということである。

・・・・

『答えのない時代』のいま、世の中に出たら、知識を持っているよりも

多くの人の意見を聞いて自分の考えをまとめる能力、

あるいは壁にぶつかったら、

それを突破するアイデアと勇気を持った人のほうが貴重なのであると。


パソコンOS、インターネット、ネット通販、検索エンジン、Web2.0・・・

アメリカの国力は、こうした新しいコンセプトを次々に生み出し、

それを具現化し続けるところで維持されています。


一方、生真面目なモノづくりのみをコンピテンシーとする我が国は、

すでに黄色信号です。

(国レベルだけの話ではなく、個々の会社、個々の働き手においても)


日本民族は概して、コンセプト創造を得意としません。

しかし、まったくその能力がないかといわれれば、否です。


◆ニッポン人だって、すごいコンセプトを生み出してきた

商品先物取引というコンセプトは、大阪のコメ市場が世界の発端であるいいます。

千利休は類稀なるコンセプト創造者でした。

茶道というコンセプトを打ちたて、今日に続く美の様式を打ち立てました。


いわずもがな、ソニーは「音楽を持ち歩く」というコンセプトを

「ウォークマン」というハードに具現化させ、

現代人のライフスタイルをつくりました。

(ただ、その後、アップルにお株を奪われてしまっていますが・・・

それも、その後のコンセプト展開を怠けたということでしょうか)


また、任天堂の「Wii」の成功は、

家庭用ゲーム機のコンセプトを再構築したことにあります。

(かつての「ファミコン」は借り物のコンセプトの上の製品でした)


日本は、もはや「優れたモノづくり力」×「追従・模倣力」で

やっていく国ではなくなっている。

これからは、「優れたモノづくり力」×「コンセプト創造力」でやっていくしかない。

しかし、それが掛け合わさったとき、ものすごい力が出せると思います。


さて、次回は、冒頭にあげた3つの人財要件のうち、

残りの2つ、「賢慮・美徳」「自律した強い個」について書くことにします。

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*滞在宿の大きな窓のところの

一角を仕事テーブルとして使わ

せていただく

なお、信州キャンプの模様は間近に特集記事としてアップの予定です。

2008年5月23日 (金)

ソロー『森の生活』ほか


【信州・小淵沢発】

新緑萌え出ずる5月、初夏キャンプで小淵沢に来ています。

仕事キャンプでは企画練りとか原稿執筆の仕事が主になるのですが、

そのために本をどっさり持ってきて、

森の中で読むことが多くなります。


私の場合、もちろん、経営関連やら人事・組織関連やらの本・雑誌を

読むことは多いのですが、山にこもる場合は、

古典書とか、他の分野の名著を読むようにしています。

きょうはその中から、これまでに何度も読み返してきた本を紹介しましょう。

いずれも、山・田舎を創造的な拠点して

いい仕事を成した(成されている)人たちの名著です。

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1●ソロー『森の生活~ウォールデン』(佐渡谷重信訳、講談社)


ヘンリー・D・ソロー(1817-1862)は米国の思想家で、

エマソンやホイットマンらとともに、19世紀半ばに起こった

いわゆる「アメリカ・ルネッサンス」の中心人物の1人です。

この著書は、彼の2年3ヶ月におよぶ森(コンコードのウォールデン湖畔)での

一人暮らしの記録をまとめたものです。

当時、急速に進む科学技術と資本主義経済が

人々の暮らしを劇的に即物的・快楽的な性質に変えつつある中にあって、

人間が獲得する真の安堵や幸福は何か、その答えを求めるために彼は山にこもり、

彼独自の見事な文体で考えを著しています。


ソローは決して

俗世をすてて山にこもったという批評家・厭世家ではありません。

山にこもるからこそ、人間本来が持つ霊感が呼び覚まされ、

急速に変わりゆく都市の文明を

客観的に英知をもって見つめることができるのだと考えた人です。


むしろソローは骨太な啓蒙家、実践家です。

2年間の山生活を終えた後は、街を拠点に積極的に講演活動などをしています。

そして、有名な税の不払いによる拘置事件。

これは後に、ガンジーのインド独立運動や、

キング牧師の市民権運動などに思想的な影響を与えました。


山にこもる生活=のんびりスローライフではまったくないのです。

彼は、山に入って、闘っていたのです。


この本で私の好きな箇所のひとつは、「住んだ場所とその目的」の章にある

“朝”について書き記したところです。


「私が玄関と窓をことごとく開けたまま坐っていると、

東雲(しののめ)きたる頃、目にとめることのできない、

ましてや、その姿すら想像できない一匹の蚊が、

かすかに戦慄(わなな)きながら、私の部屋の中を飛んでいく。

(中略)

それはまさしく、ホメーロスの鎮魂歌(レクイエム)であった。

蚊みずからが己の怒りと放浪をうたいながら、

空を切り、天を駆け巡る<オデュッセイアー>であり、

<イーリアス>それ自身であった」。


・・・・この一節はまだまだ続くのですが、

ソローは、日の出が夜の闇を破り、曙の下に目覚める瞬間こそが

最も崇高な時であることをうたっています。


「工場のベルによってではなく、

天体の音楽の調べと大気を満たす香りにつつまれ、

新たに貯えられてきた活力と精神が心のうちから高められたときに

やがて目覚めてゆく。

前の晩に眠りについた時よりも、

さらに高い生活へと目覚めてゆく。

・・・・

ヴェーダの経典には『すべての知恵は朝に目覚める』とある。

詩歌も芸術も、人間の最も美しく、記念すべき活動は

この朝の刻限に始まる」。


この本のあとがき部分で、翻訳者の佐渡谷氏が紹介しているように

ホイットマンは「ソローはとらえどころのない驚くべき男であるが、

彼は土着の力の一つ、つまり、一つの真実、一つの運動、

一つの激動を代表している。(略)

ソローはエマソンの人格的偉大さややさしさをもっていないが、

一つの力だ」だと評しています。


まさにこの本を読むと、確実に一つの力を感じます。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
AM・リンドバーグ『海からの贈物』(吉田健一訳、新潮文庫)


加速度的に変化する科学文明・都市文明から一歩身を離し、

自然の中の簡素な小屋で豊潤な思索の生活を行なう。

それを山で行なったのはソローですが、一方、島で行なったのは、

このアン・モロー・リンドバーグ(1906-2001)です。


この名を聞いてピンとくる人は少ないでしょうが、

あの大西洋単独横断飛行をしたチャールズ・リンドバーグの夫人です。

彼女自身も女性飛行家の草分けとして活躍し、

その後作家活動や社会活動に人生を捧げた凡ならざる人です。


この本は、彼女が一人、ある離島の浜辺の小屋に2週間滞在し、

リンドバーグ夫人であるということ、母親であること、職業人であることを

離れて、一女性、一人間として思索したことを書き綴っています。


「やどかりが住んでいた貝殻は簡単なものであり、

無駄なものは何もなくて、そして美しい。

大きさは私の親指くらいしかないが、

その構造は細部に至るまで一つの完璧な調和をなしている。

・・・・・

浜辺での生活で第一に覚えることは、

不必要なものを捨てるということである。

どれだけ少ないものでやって行けるかで、

どれだけ多くでではない。

・・・私は貝殻も同様の、屋根と壁だけの家に住んでいる。

・・・私の家は美しいのである。

そこには殆ど何も置いてないが、

その中を風と日光と松の木の匂いが通り抜ける。

屋根の、荒削りのままになっている梁には蜘蛛の巣が張り廻らされていて、

私はそれを見上げて初めて蜘蛛の巣は美しいものだと思う」。


ここからはLean but Rich」(質素だが豊か)ともいうべき

成熟した精神をもつ者の観がみてとれます。

また、この本から得るべきメッセージは、「独りになる」ことの重要さです。


「我々が一人でいる時というのは、

我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。

或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いて来ないものであって、

芸術は創造するために、

文筆家は考えを練るために、

音楽家は作曲するために、

そして聖職者は祈るために一人にならなければならない」。

その他にも、

「女はいつも自分をこぼしている。

子供、男、また社会を養うものとして、女の本能の凡(すべ)てが女に

自分を与えることを強いる。・・・・

与えるのが女の役目であるならば、

同時に、女は満たされることが必要である。

しかし、それにはどうすればよいのか」。―――――と、

また別の大きな問題に思索をめぐらせていきます。


この本は文庫本にして120ページ、文字級数も大きめで

分量はさほどのものではありませんが、内容はとても濃く、

広い世界の思索に読者を誘ってくれます。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』

V・ミヒュエルス編、岡田朝雄訳、草思社)


ヘッセ(1877-1962)は、言わずと知れたドイツの詩人・作家であり、

1946年にノーベル文学賞を受賞しています。


「土と植物を相手にする仕事は、

瞑想するのと同じように、魂を解放させてくれるのです」と、

ヘッセは後半生を自分の庭で過ごし、

庭という自然・小宇宙を通して、人間と人生を見詰めることをしました。


この本は植物や自然、庭に関するヘッセの遺稿や書簡を整理したものです。

ですから、多くの文章は、自分の庭の四季の出来事を書いています。

しかし、そのところどころで力強いメッセージが行間からふつふつと湧いています。


「私は木を尊敬する。

木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。

そのような木は孤独な人間に似ている。

何かの弱味のためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、

ベートーヴェンやニーチェのような

偉大な、孤独な人間に似ている。

その梢には世界がざわめき、

その根は無限の中に安らっている。

しかし、木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、

その命の全力をもってただひとつのことだけを成就しようとしている。

それは独自の法則、

彼らの中に宿っている法則を実現すること、

彼らの本来の姿を完成すること、

自分みずからを表現することだ。

・・・・

木は、私たちよりも長い一生をもっているように、

長い、息の長い、悠々とした考えをもっている。

木は私たちよりも賢い。

私たちが木の語ることに耳を傾けないうちは。

しかし木に傾聴することを学べば、そのときこそ私たちの短小で、

あわただしく、こどもじみて性急な考えが

無類のよろこばしさを獲得する」。


この本は、どのページのどの小片をつまみ読んでも

楽しく深い思索ができる本です。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

加島祥造『LIFE』 PARCO出版)


加島さんは、翻訳家、詩人、墨彩画家、タオイストと多面でご活躍されている方です。

現在は、長野県伊那谷に独居中とのことです。

私は、朝日新聞の紙面で、彼のライフスタイルが紹介された記事を読み、

以降、何冊かの著書を拝見させてもらっています。


私自身、西洋思想よりも東洋思想を軸にものを考えることをしていますので、

タオイズム(老荘思想)もまた馴染みやすいものです。


加島さんのいいなぁと思うところは、

何か目にやさしい明るさや、痛快さがあるところです。

まぁ、老荘思想やら老子道徳経やらというと、

何か抹香臭~い、薄暗~いイメージがあるわけですが、

不思議と加島さんの本からは、それが伝わってこないんですね。


たぶんそれは、加島さんの人柄と、

英米文学の翻訳家として培われた文章技法によるものだと思いますが、

いずれにしても最新著の『求めない』もベストセラー中で、

多くの現代人の心をつかんでいるようです。


「花は 虫のために咲く

虫は喜び 花の願いに報いる

人はたヾ 見ているだけだ」


「ひと粒ひと粒が 幾百年と生きて 巨木になる力を

なかに宿して ただ小さく ころがっている」

「草木の 行き先は大地 水の行き先は海

いずれも 静かな ところだ」


「高い山の 美しさは 深い谷が つくる」


この本はこうした詩を加島さんが筆でしたためたものをまとめてあります。

それらは額装して部屋のあちこちに掛けたいようなものです。

わずかな単語で綴られたそれらの一句一句は

Less is More」(より少ないことは、より多いこと)を感じさせます。


山の中の滔々とした時間に身を浸しながら、

一句一句味わって詠んでいくことで、

身体の芯からエネルギーが湧き起こってくる感じがします。

人生には、こうした漢方のような薬膳本が大事だと思います。



2008年5月22日 (木)

創造拠点としての田舎

【信州・小淵沢発】


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八ヶ岳中央農業実践学校から初夏の八ヶ岳を望む

5月の連休明けから、高原は本格的な緑の季節に入る。

このころになると私は山に行きたくなってしようがない。

山の空気に身を浸して、そのまま身も心も溶かしてしまいたいと思うのです。


去年は軽井沢に滞在して、いくつかの仕事を片付けましたが、

今年は小淵沢と蓼科に拠点を押さえました。

春の沖縄で仕込んだ単行本の企画が進み、

今回はその本文の執筆に勤しみたいと思います。


滞在宿の窓を開けると、新緑薫る爽やかな風と音が遠慮がちに

部屋の中にあふれてくる。

BGMは特に必要ありませんが、私は時々、

PCのハードディスクに落としてあるヨーヨー・マのバッハを流します。

旧ソビエトの指揮者・ロストロポーヴィチは、

「バッハの音楽は、まるで草木をみるようだ」と語りましたが、

まさに今、そのことがよくわかります。


◆「複眼」を持った生活

私も会社勤め時代の最後は、

東京の湾岸エリア・豊洲の高層ビルで働いていました。

オフィスフロアからは遠くにレインボーブリッジを見渡すことができ、

また業界特性から最新のIT情報に囲まれながら、

戦略を練り、交渉ゲームをし、数々のパーティーにも顔を出し、

さも、カッコヨク、ビジネスパーソンをしていました。


しかし、そんな会社人生活をやめ、独立して5年。

今では、そんなカッコイイ仕事場環境ではなくなりました。


自宅オフィスのある東京・調布は、田んぼの中にあり、

ちょうど今時期は、カエルの鳴き声とともに仕事をしていますし、

今回のように山に仕事キャンプに出れば、

山の陽射しや雨、枝葉のざわめきとともに仕事をしています。


しかし、仕事の分野が特段変わったわけではありません。

豊洲にいたころも人財育成分野の仕事ですし、今もその分野の仕事です。

こうして郊外や田舎に仕事場を移してやっているものの

顧客のほとんどは首都圏にいて、営業や研修実施があればそこに出向きます。

仕事の意識も競争の中心地である東京に向いています。

それはそれで、私にとって、緊張感のある気持ちのいいものです。


ただ、それが常態化すると、気持ち悪くなるんでしょうね。

息が詰まってくる。


東京(都会)は、「刺戟と効率のスピード」・「処理と競争」の世界です。

一方、田舎(地方)は、

「退屈と自然のリズム」・「思索と耕作」の世界です。

(退屈とはポジティブな意味で使っています)


今の私は、この2つを適宜組み合わせながら働くことで

カッコヨクはないけれど、

平静で快活な生活を手にすることができています。

(完成型にはまだほど遠いですが)


「東京で仕事を発散し、田舎で仕事を仕込む」――――この2種類の生活が、

私に「複眼」を持たせ、ものが立体的によく観えてくるんだと思います。


東京だけの生活は単眼的で見失うものが多い。

だから、山や島にこもって、仕事の思索と耕作をする機会を持つ。


◆田舎こそ「鍛錬・創造・攻めの場」

一般的に田舎は、都会で疲れた心身の癒しの場、消費レジャーの場、

あるいはリタイヤ後の安住の場としてみられることが多い。

しかし、私にとっての田舎は、

思考鍛錬の場であり、創造の場であり、

現役の仕事をバリバリやる攻めの拠点でもあります。


喧騒とした都会に縛られることなく、

田舎のたおやかさ、おおらかさを取り込む生活。

また、田舎の保守風土に引き込まれることなく、

都会の変化刺戟を受け取る生活。

私のハイブリッド・ライフはまだまだ始まったばかりです。

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