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2008年8月 5日 (火)

『蟹工船』を超えて ~働く個と雇用組織の関係

小林多喜二の『蟹工船』が今再び売れているというので、読んでみた。
確かに、その過酷な労働現場の描写や人物の表現は
息詰まるほどリアルなイメージを呼び起こす。
搾取する側(=資本家)と搾取される側(=労働者)の単純明快な対立構図、
そして最後のダメ押しとして、国家権力が資本家側につくというオチ。

まさにプロレタリア文学の直球作品ですが、確かに、
「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」――――
小説の最終部分に出てくる労働者のこの悲痛な叫びは、
そのまま、現代のある層の労働者にも当てはまる吐露でもあるように思えます。

『蟹工船』しかり、また『女工哀史』しかり、そこで描かれているように
資本家が“雇用”をある種の権力にして
経済的弱者である労働者の生殺与奪を握り、彼らを使い回すことは、
古くて新しい問題です。

◆資本家・企業家は必ずしも人格者ではない
これは、悪徳資本家を追放し善良な労働者を守れというような
単純に階級闘争の図式に落とし込めばよい問題ではありません。

これは、誰の中にも潜む人間の欲望のコントロールに関する問題です。

私たちが認識すべきは、
資本家や企業家、経営者が、必ずしも聖人君子、高邁な人格者でないことです。
(これは同じように、労働者も、必ずしも聖人君子、高邁な人格者ではない)

私はビジネス雑誌の編集を7年間やり、
さまざまな企業人を直接インタビューするなどして観察してきましたが、
彼らはむしろ我欲、自己顕示欲の強い俗人であることがほとんどです。
人間のバランスとしては(良くも悪くも)歪んでいます。
歪んでいるからこそ、それがパワーとなって成功を得るわけでもあります。
(利益獲得競争のビジネス世界では、バランスのいいお人よしは成り上がれない)

そして、成功してカネやら既得権益やらを手に入れると、
ますます欲望が増長して、暴走する可能性を大きくする。

マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で
「精神のない専門人、心情のない享楽人」と表現しているのも、
まさに資本主義ゲームの盤上で我欲を増長させ跋扈する不逞の輩のことです。

渋沢栄一や松下幸之助、本田宗一郎といった
どこまでいっても自ら抑制の利く哲人企業家は極めて例外的な存在でしょう。

◆私欲を暴走させない方策
ならば、不当な過酷労働、不幸な労働者搾取はどう防げばよいか―――?

自律的な処方箋としては、
資本家や企業家、経営者自身が高い理念、倫理観を抱くこと。
そして企業も、組織理念の中に従業員主役の思想を抱くこと。
(労働組合のスローガンとは異なる角度で)

他律的な処方箋としては、
法律の規制、報道メディアによる指摘・糾弾、バイヤー側の不買運動などがあるでしょう。

ともかく、企業家は高邁な人格者とはかぎらないわけですから、
(また、当初はそうであっても、過剰な成功が彼を狂わせるときもあるので)
自律、他律、個人、組織、社会とさまざまな方位から、
統合的に正しい経営の道を進んでいけるよう
彼を導いてやるしか方策がないのだと思います。

◆働き手よ、成り下がるな!
そして、最後は、やはり、働く側本人の生きる姿勢こそ決定的です。
そうした過酷な労働現場に身を置かなければならなくなった状況は、
人それぞれにあるでしょう。
人生はもともと不平等ですし、理不尽ですし、運不運が左右します。
しかし、不遇があれ、不幸があれ、幸福をつかむ人はたくさんいます。
結局、成り上がるも、成り下がるも、自分の意志・努力次第なのです。
(そう言えるほど、平成ニッポンの世は、人類史からみれば最良の時代のひとつです)

だからこそ、一人でも多くの働き手が、
「蟹工船」的な職場を選択肢として排除できるようになるほどの
技能と就労意識を持つようキャリア教育の分野で何かしらの貢献ができないか――――
それが私の事業目的のひとつでもあります。

◆キツネとタヌキの化かし合い?
さて、ここからは広く「働く個(従業員)と雇用組織(会社)の関係」を考えます。

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私は、両者の関係は、象徴的に図のような3つの極があると感じています。
1つめは、冒頭触れたように、
会社が労働者に過酷な労働を強い搾取するという「蟹工船」の極。
2つめは、逆に、
従業員が組織に依存べったりで自らの保身に浸る「ぶらさがり」の極。

私はキャリア教育研修の現場で、働き手側のいろいろな就労意識に接していますが、
ほんとうにひどい依存心、保身・安住意識、怠慢さ加減を目にすることもしばしばです。
(私が経営者であったらなら、その場で説教のひとつでもしたくなるような人はたくさんいます)

この「蟹工船」と「ぶらさがり」の2つの極は、
いずれも従業員と会社のネガティブな関係です。
でも、世の中には、このネガティブゾーンの関係は実は多いと思います。

会社側は、できるだけ労働者を効率的に安く多く働かそうとし、
労働者側は、できるだけ安全にラクをしようとする・・・・・
まさにキツネとタヌキの化かし合いです。

会社と従業員は、この2つの極の間のどこかで折り合い、
両者とも「しょーがねぇなー」という冷めた感じで雇用・被雇用関係を維持していく。
その会社に組織員が共感を呼ぶ事業理念がない、あるいは、経営者自身に魅力がない、
したがって、結果的に組織全体に求心力のない会社は往々にしてこうなりがちです

◆企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
そんな中、会社と従業員がポジティブな関係を築こうとするところもあります。
3つめの極「活かし活かされ」がそれです。
ここでは、
会社は働き手を「人財」として扱い、働き手は会社を「働く舞台」としてみます。
両者間では事業理念の共有がなされ、たいてい、
魅力的な経営者が求心力を創造しています。

私は、その典型を、本田宗一郎の次のような言葉の中に見出します。

 「“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。
 
それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、
 こんな楽しい人生はないんじゃないかな。

 そうなるには、一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。
 石は石でいいんですよ。ダイヤはダイヤでいいんです。
 そして監督者は部下の得意なものを早くつかんで、伸ばしてやる、
 適材適所へ配置してやる。

 そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
 企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
 舵を取るもの 櫓を漕ぐもの 順風満帆 大海原を 和気あいあいと
 一つ目的に向かう こんな愉快な航海はないと思うよ」。

  ---『本田宗一郎・私の履歴書 ~夢を力に』 “得手に帆を上げ”より

◆根本は一個人の欲望のコントロールの問題
経営者も働く個人も、
ある理念の下で健全に挑戦意欲を湧かせ、その好循環を図る。
これが働く個と雇用組織の“よい関係”が生まれる構図です。

経営者(企業家、資本家含め)は、私腹を増長するために労働者をいいように使う、
あるいは、
労働者は、自らの保身欲のために組織にいいようにぶらさがる、
これが働く個と雇用組織の“醜い関係”が生まれる構図です。

結局、こうした問題の根っこにあるのが、欲望のコントロールの問題なのだ
と申しあげたのはまさにここです。
経営者であれ、企業家であれ、資本家であれ、一介の労働者であれ、
一個人として欲望のコントロールを賢く行なえるかどうか――――
宗教・哲学が地盤沈下している現代ですが、
やはりそこからの解と行(ぎょう)を求めなければいけないと思います。

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