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2010年4月10日 (土)

「働くこと」の問題雑考〈下〉~仕事を意味・価値から語れ

Nanohana 


2007年夏に刊行した拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』のまえがきで、
私はこう書いた。

「小さな飢え」と「大きな渇き」;

私たちは、
衣食足りて「働く」を知る――――ようになったのでしょうか?

確かに、平成ニッポンの世をみると、“小さな飢え”はなくなったように思えます。
しかし、私たちの目前には変わって、“大きな渇き”が現われはじめたのではないでしょうか。
次のような内なる問いに対して、明確な答えが得られないという渇きです。

・自分は何のために働くのか?

・食うためには困らないが、このままこの味気のない仕事を何十年も繰り返していくと思うと、
気分は曇る。かといって、今の自分に何か特別やりたいものがあるわけでもない・・・

・仕事は本来苦しみなのか、それとも楽しみなのか?

・今の仕事は刺激的で面白い。
しかし、これはゲームに興じている面白さと同じような気がする。
仕事に何か大きな意味とか意義を持っているわけではない。
これは健全なことなのか?

成功することと幸せであることとはイコールなのだろうか? 

つまり、仕事で成功したとしても、人生が不幸ということが起こりえるのか? 
また、仕事で必ずしも成功しなくても、幸せな人生を送ることは可能なのか?

・メディアの文字に踊るキャリアの勝ち組とは何だろう? 
成功者とは誰のことだ?

天職にめぐり合うことは、運なのか努力なのか?

・働きがいが大事なのはわかるが、理想の働きがいを追っていたら、
就職口はほとんどなくなるのが現状だ。
所詮、
働くとは、妥協と我慢を強いられるものなのか?

・利己的に、反倫理的に儲ける個人・企業が増えてきたら世の中はどうなるのだろうか?
また、自分自身がそういう“うまい汁”の権益を持った身になったら、
果たして自身の欲望を制御し、利他的、倫理的に振舞えるだろうか? 
しかし考えてみるに、欲望は成長や発展のために必要なものではないか?

・仕事はよりよく生きるための手段なのか、それとも仕事自体が目的になりえるのか?
・・・等々。

一人ひとりの内面から湧き起こってくるこうした「職・仕事」をめぐる“大きな渇き”は、
無視することのできない“大きな問い”です。
私たちは、みずからが働くことに対し、意味や意義といった“答え”が欲しい。
なぜなら人間は、みずからの行動に目的や意味を持ちたがる動物だからです。
ましてや、その行動が苦役であればなおさらのことです。
また、これら“大きな問い”は、同時に、私たちに課せられた“大きな挑戦”でもあります。
なぜなら、働くことは、

・生活の糧を稼ぐ「収入機会」であるばかりでなく、
・自分の可能性を開いてくれる「成長機会」であり、
・何かを成し遂げることによって味わう「感動機会」であり、
・さまざまな人と出会える「触発機会」であり、
・学校では教われないことを身につける「学習機会」であり、
・あわよくば一攫千金を手にすることもある「財成機会」だからです。


……この本を出したころは、景気に力強さがあったころで、
製造業の現場では旺盛に派遣労働を取り込んでいたし、
WEB上には転職案件も溢れていた。
世の中あげて人手不足感が強く漂っていた。
そして起こった08年8月のリーマンショック。
一転して、世は人員過剰・人員削減の流れに。

失職した人たちにおいては、最低限の生活保障が問題となり、
居残った人たちにおいては、業務量の急増による疲労やメンタルヘルスが問題となる。
いずれにしても、
働く個人も、雇い主も、行政も、ネガティブソーンの対症療法に振り回される現状が続いていて、
いっこうに「大きな渇き」「大きな問い」「大きな挑戦」に関心が上がっていかない。

私たち労働者は(宿命的に)意識に上げる優先項目として、次のTOP2がある。

 1)「労働条件」(いかに多くの給料を得られるか、いかに好ましい環境で働けるか)
 2)「仕事術」(いかに効率的に仕事を処理する技術を身につけるか)

私たちは、「いかに」(HOW)ということばかりに頭とカラダが占領されていて、
ついぞ「何がやりたいのか」(WHAT)や
「なぜそれをやるのか」(WHY)を掘り起こす時間をもたない。
「働く目的・働きがい」を求める内面の声は、
「生キテイクタメニハ ショウガナイダロ」というもうひとつの声にいとも簡単に押し殺されてしまう。

科学技術の進歩が人間をいろいろな労務・苦役から解放するにしたがい、
「働くこと」に関する論議は、当然、
意味論・価値論の領域に移っていくのが自然だと思われた。
しかし、私たちの論議は、
いまだ労働条件をどうする、仕事の効率化をどうする、のような外側の問題に終始する。

そんな中で、
人類古来からの大きな自問;「人はパンのみに生きるのか?」
という内側の問題に入っていくきっかけとして、
「モチベーション」という言葉が職場に普及してくるというのはひとつのよい流れである
―――このことは前回の記事で述べたとおりである。

私たちは、「働くこと」をもっともっと意味の側面から、価値の側面から、質の側面から
語り合う必要がある。
それは自分たちを、働くことに苦しむネガティブゾーンから引き上げるために、
そして同時に、働くことを楽しむポジティブゾーンでおおいに躍動するために、
必要である。

語り合うのは、もちろん働く個人が、であるが、
私は、仕事上で、上司がもっと語れ、人事部がもっと語れ、経営者がもっと語れと言っている。
しかし、上司や人事、経営者は、部下・従業員に「働くとは何か?仕事とは何か?」を語らない。
(語れない、語ることが怖い…いろいろある)
(だから、私は部課長に強く訴える本をいま書いている。今夏出版の予定)

そこで、以下に、私たちが「モチベーション」と同様、
「働くこと」を意味・価値・質のレベルで語るために
日頃から意識の棚に上げた方がよいと思われる言葉や概念をいくつか挙げる。


●【QWL;クオリティ・オブ・ワーキングライフ】
これを「労働生活の質」と直訳してしまうと、
ニュアンスの冷めたものになってしまうのだが、
QWLとは要は、
「人間らしい仕事生活の質」とはどんなものか?
「自分らしい職業人生のあり方」とはどんなものか?
「自分が納得できる働き様」とはどんなものか?
―――といったことを自分に問うものである。

私たちの「働くこと」が、量に支配され続ける中で、
質を考えることは当然のことなのだが、意外とできないことなのだ。

ちなみに、この言葉は「QOL」(クオリティ・オブ・ライフ)から派生している。
QOLは医療現場で使われ始めた。
例えば、
ガンなどの末期治療で、延命を目的に身体がボロボロになるまで薬剤投与を受けることが普通になっているが、
むしろそれは自分の理想にそぐわない、自分の尊厳がおびやかされる、
あるいは社会が人間らしい存続と思わない状態にしてしまうことがしばしば起こる。
これを「QOL」の低下と表現する。
患者によっては、「QOL」の維持を優先して、最小限度の治療に留め、
余命を限りなく有意義に送るという選択をするケースも増えている。

私たち働き手も同様に、自らの仕事生活に「クオリティ」という目線を入れるべきだ。
私は7年前、大企業の管理職を辞めて独立した。
独立後の平均年収はいまだサラリーマン時の最後の年収額を超えられていないが、
それでも「QWL」は比べようもなく改善し、
経済的報酬以外の素晴らしいものを多く手に入れている。

QWLを維持する・高めるために、何かを犠牲にする、我慢することは当然ある。
しかし、トータルでみて、生活・人生の質がどう変わるか、
これが大事な判断になる。


●【ディーセントワーク;Decent Work】
これはILO(国際労働機関)のスローガンにもなった言葉である。
直訳すれば、「まともな仕事」とか「人間らしい仕事」になる。
つまり、全世界を見渡すと、まだまだ
「まともな仕事」「人間らしい仕事」でない労働が蔓延しているのが現状であって、
だからこそILOは、これをスローガンに掲げなければならなかった。

いずれにせよ、“decent”(名詞形は:decency)という単語の中には、
人間としての尊厳や誇り、品位、輝きのようなものを含んでいる。
先ほどのQWLにしても、このディーセントワークにしても、
ややネガティブゾーンからの脱却として使われる言葉なのだが、
私はより積極的な意味合いとして使われることを願っている。

働く個人が、それぞれに「自分にとっての“decency”」を最大化する。
そして組織や経営者は、
その各々の“decency”を最大化するような働かせ方をする。


●【サステイナブル;持続可能な】
「サステイナブル(sustainable)」とは、最近では地球環境問題を語る際によく出てくる。
もちろん地球の存続は大事だが、その前に、
「このままのペースで働くあなたが、いつまで持ちこたえられますか?」
―――と私は尋ねたい。

そう、「サステイナブル」の観念が必要なのは、あなた自身の人生なのだ。

20代はいろいろとカラダやアタマに無理がきく。
しかし、自分なりの目的観ややりがいを持たずに残業の日々を送っている生活は
30代か40代に必ず大きな健康障害を引き起こす。…「必ず」!

いったん倒れてしまうと、そこからの職場復帰、そして定年までの再疾走は
とても辛いものになる。
さらには、50や60で定年退職したとしても、その後の人生はまだまだ続く。
(これからの時代、定年は明るいゴールではないかもしれない)

いまのビジネス社会の働き方・働かせ方の問題は、
短距離競走を、繰り返し繰り返しやっていることである。

キャリア・人生は短距離競走ではなく、マラソンである。
(マラソンよりトレッキングと言ってもいいかもしれない)
自分なりの表現で、完走できることが、ほんとうの勝利といえる。
だから留意すべきは、「サステイナブル」なのだ。


●【ハードの報酬/ソフトの報酬】
仕事の報酬にはいろいろとある。
私はそれを2つの考え方でとらえている。
それが「ハードの報酬」と「ソフトの報酬」だ。

ハードの報酬とは、目に見えやすい報酬のことで、
 ・給料や賞与など金銭的なもの
 ・昇進や昇格など職位・名誉的なもの である。

ソフトの報酬とは、目に見えにくい報酬で
 ・その仕事成就によって習得できた能力や経験知、充実感、自信
 ・その仕事成就によって得た人脈や信頼関係
 ・その仕事成就によって受け取った顧客からの感謝の気持ち
 ・以上の報酬を土台として手にする次のもっと大きな仕事機会

私たちは、もっとソフトの報酬の重要さを語るべきだ。
なぜなら、ソフトの報酬を受け取り、それを再度いろいろに組み合わせることで、
次のもっと大きな仕事機会を手にすることができ、
そこでまた、ハード/ソフトの報酬を獲得し、
そしてまたそのうちのソフトの報酬をいろいろに組み合わせ、
次のもっと大きな仕事機会を得て……
というように、
自分と機会が拡大再生産する回路がつくられるからだ。

私たちは、ハードの報酬、特に金銭的報酬に躍起になる。
もちろん、いたずらに安働きする必要はないので、
もらえるものはもらっていいのだが、カネは1回きりものだ。
カネで次のもっと大きな仕事機会が買えるわけではない。

「年収○○%アップの転職!」という文字がWEB上に踊る。
私は研修で、血の気のはやる若い世代の人たちに次の2点を言っている。
 ・今の仕事・組織が与えてくれている「目に見えない報酬」をよーく見つめ直すこと
 ・人材紹介会社は転職斡旋をビジネスとしてやっていること

また会社や上司も「若い連中がすぐにやめていく」と嘆く前に、
自社・自部署が、どれだけのソフト的な報酬、つまり
「成長報酬」、「意味報酬」、「機会報酬」を提供できているか、
それを彼らに堂々と語れるようでないとだめだ。


●【ワークライフブレンド】
「ワークライフバランス」は、先ほどのQWLを維持する上でとても大事な実践だといえる。
しかし私は、 「ワークライフバランス」はどちらかというと“守り”の形であると思う

「ワークライフブレンド」、つまり
仕事と生活の掛け合わせ的な和合が、より積極的な形だと思っている。

詳しくは下の過去記事を:
ピカソはワークライフバランスを求めたか!?


●【共通善;common good】
私は「共通善」という言葉を、意外にも、経営書で目にした。
それは『美徳の経営』野中郁次郎著・紺野登著(NTT出版)である。
この本のまえがきで、著者は
経営はすでに質の時代に入っていて、
新たな時代に求められる経営の資質は「共通善を志向する卓越性の追求」だとしている。

企業の事業目的にせよ、個人の「働きがい」にせよ、
利己に100%閉じてしまうことはいろいろな意味で危うい。
ある部分、利他に開いたほうが最終的にはうまくいく(いくものであってほしい)。

となれば、誰しも「共通善」を意識するようになる。
では「共通善」とは具体的にどんなことか―――
それは大いに思索や討論を要する哲学の問題である。

組織体や個人によって、それぞれの「共通善」を志向する答えがあるだろうと思う。
それを考えるプロセスこそ、
「働くこと」の問題に意味論・価値論を取り込んでいることにほかならない。

私は過去の記事で「社会的起業マインド」の話題に触れたが、
社会的な意義や使命をもつ事業を起こしたいとする熱が高まっているのも、
言ってみれば「共通善」を志向する高まりであると受け取れる。

→参考記事:
志力格差の時代〈下〉~社会的起業マインドを育め


●【バリュー・ステートメント】提供価値宣言
職業人として自己紹介するとき、次の文のカッコ内にどんな言葉を入れるだろうか?

―――「私は〈         〉を売っています」。

このカッコ内には、自分が売っている直接のモノやサービスではなく、
「提供価値」を入れてほしい。
例えば、私なら、「私は〈研修サービス〉を売っています」ではなく、
「私は〈向上意欲を刺激する学びの場〉を売っています」とか
「私は〈働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる理解〉を売っています」となる。

これと同様に、我が社紹介もやってほしい。
あなたの会社は、その事業を通して何の価値を世の中に売っているのだろうか?

―――「我が社は〈       〉を売っています」。

→参考記事:
提供価値宣言;「私は~を売っています」


●【アクティブ・ノンアクション;active non-action】
この言葉の意味は、
月々日々、忙しく動き回っているが(=アクティブ)、
その実、大した価値あるものを残していない(=ノンアクション)状態。
つまり
「不毛な多忙」。

同類語として、
“busy idleness”(あくせくしながらも結果として何もしないこと:多忙な怠惰)。

多忙であることは必ずしも悪ではない。問題は「何に忙しいか」だ。
残業もすべてを一絡げにして悪だとはいえない。
意味のある残業や、やる価値のある残業はある。

ほんとうに大きな仕事をしようと思ったら、
お行儀よく定時の範囲で終えられるはずがない。
自分がほんとうに意味を感じた仕事に没頭し、気が付けば残業していた―――
そんなときは、本人もぐんぐん成長している。
そうした残業は大事な時間だし、
会社側も喜んでお金をつけてやればいい。

しかし、意味のない残業、やる価値のない残業もある。
生産性の低い「ダラダラ残業」、残業代目当ての「ズルズル残業」は言うまでもないが、
最もやっかいなのが「仕事に使われ残業」である。
この手の残業は、意味がないわけでもないし、
やる価値がないわけでもないので、いろいろな言い訳を伴って常態化してしまうのだ。

自分の目的や意味を持たず、ただただ業務責任を果たすために、
あるいは時間を仕事で埋めて、ある種の安心感、「仕事やってるゾ感」を得るために
残業を慢性化させる―――これが「仕事に使われ残業」だ。

いずれにせよ、忙しさを考えることは、やはりそこに意味や価値を問うことなのである。

→参考記事:
『アクティブ・ノンアクション』不毛な多忙



Otchan 
(今年も桜の季節が早足に去っていく。 おっちゃん、気ぃつけていってな)

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