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2010年7月

2010年7月22日 (木)

“You Are Your Product.”

Tp book


暑い―――。
地球温暖化の影響で南極の氷が減っているという事実はなかなか実感できないが、
この猛暑や頻発する猛烈な雨は、
私たちに気候の変化をじわじわと体感させている。

しかし、どうにもこうにも暑い。
こんなとき私は、空調をきかせた部屋に閉じこもるよりいっそ外に出る。
外といっても街中ではない。
森に出る。
風の通る木陰で溜めている本を読む。
(こんな生活ができるのもサラリーマンという時間売りの商売をやめたからこそ)

きょう持ち出したのは、トム・ピーターズの最新刊
『The Little Big Things: 163 Ways To Pursue Excellence』。

翻訳版はいずれ出るのだろうが、タイトル的には、
「その小さなことが大きな差を生み出す~卓越性を追求する163の方法」。
内容的には特に目新しい切り口はないのだが、
相変わらずピーターズ節でぐいぐい押してくる感じがよい。
500ページを超える分厚い1冊だ。

ざーっと目を通してみて、私が引かれたのは次の2つの節見出し―――

“You Are Your Product.”
“You Are Your Story.”

「あなたは、あなた自身がつくる産物である」。
「あなたは、あなた自身がつづる物語である」。


世の中にはあまた生産品(農産物から家電品、建造物まで)や物語(小説や映画やら)があって、
それらを消費者・購買客の立場から、
「くだらない商品だな」とか「イマイチのシナリオだな」とか評することはできる。
そして不満なら、他のものを買い替えることもできる。

しかし、「自分という産物づくり」から自分自身は逃げられない。
「自分という物語つづり」を他に任せることはできない。
自分という産物の出来が悪いからといって、
自分という物語の展開がさえないからといって、
「所詮、俺はB級・C級品さ」と冷笑しても始まらない。

ちなみに、
「自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ」
―――という小林秀雄の言葉がある。

その産物が、ヒット商品になる必要はない。
その物語が、ベストセラーである必要もない。
要は、自分で納得のいくものをこしらえているかどうかだ。

そのために、きょうも、1つ1つカイゼンを重ねていく。
1語1語、表現を織っていく。


2010年7月18日 (日)

W杯サッカーが終わって〈2〉

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その2◆結局は基本の力

90分のサッカーゲームは、「パス・トラップ・ドリブル」の織物である。

強いチームを見て惚れ惚れと感じることは、
パス・トラップ・ドリブル、この3つの基本動作のうまさが違うことだ。
その単独の行為だけ見ていても十分に魅了される。
ゲームを決するシュートも、結局、この3基本動作の組み立ての結晶である。
スペクタクルなゲームという豪華な反物は、すべてこの基本動作によって織られている。

仕事もそうだ。
よい仕事をする人は、例外なく基本がきちんとできる。
私が最も重要だと考える基本動作は次の5つである。

 読む。 ―――インプット
 考える。 ―――スループット
 書く。 ―――アウトプット
 決める。 ―――方向づけ
 はたらきかける。 ―――人とのつながり

これら5つの基本動作で、私たちは仕事という織物を自分なりに織っている。
私はいまだこの5つの基本を大事にし、鍛錬を怠らないようにしている。



その3◆ライバルとの死闘は究極のコラボレーションである

「今夜の勝利にふさわしいのはスペインのほうだった」―――
準決勝戦で敗れたドイツのレーブ監督は試合後のコメントでこのような内容を語り、勝者を称えた。

私は(サッカーに限らないが)、監督・選手の試合後のコメントに聞き耳を立てることが多い。
特に、敵に対してどうコメントするかを聞いている。
スポーツの試合には当然ながら相手がいる。強い相手がいるからこそ、自分も強くなれる。

本大会も息詰まるカードがいくつもあったが、
それはどちらが勝ったにせよ負けたにせよ、後世に見事な作品として残る。
前記事でサッカーゲームは織物だと言ったが、
見事な織物作品は、見事なタテ糸と見事なヨコ糸によってこそ出来あがるものである。

そういった意味で、私は、
「ライバルとの死闘は究極のコラボレーションである」と思っている。
で、それを知っている人間は、
試合後のコメントを求められたときに、相手を称えることを忘れない。

今年の春の選抜高校野球で、ある野球名門校の監督が1回戦敗退の後に
「21世紀枠に負けて末代までの恥」と発言したことが世間でも話題となった。
その悔しい心情はわからないでもないが、残念な発言ではある。

名勝負という作品の半分は、「よき敗者」によってつくられているのだ。


ちなみに、ラグビーの場合、試合終了を「No Side」という。
これは、試合が終わって「もう敵・味方の区別をなくしましょう」という意味だ。
ラグビー専用の球技場では、シャワールームも1室しか設置せず、
両軍の選手が一緒に汗を流すというつくりになっているところも多いという。



その4◆戦うモチベーションは「誇り」

W杯という頂点レベルのサッカーは、人のやることの研ぎ澄ましだから、
いやがうえにも民族の精神性や身体特性、社会性が浮き彫りになる。
だから、ニッポンのサッカーとサッカー選手の有り様は、日本の伝統と時代性の影響下にある。
その点を考えると、
この平和な平成ニッポンに生まれ育ち、身体特性も華奢(きゃしゃ)な日本人選手たちが、
よくぞここまで世界で健闘しているなという思いを持つ。

だから私は、W杯に出場というだけで(本戦での勝ち負けはともかく)、
ジャパンイレブン(監督・コーチ陣や、控え選手、サッカー協会など含む)に
「W杯という楽しみを与えてくれてありがとう」と言いたい。

私がサッカーをやっていた少年時代(70年代前半)などは、
日本がW杯に出るなんぞは実現不可能なことで想像もしなかったし、
またサッカー番組などは放映もされなかった。
唯一、三重テレビ(テレビ東京系)が『三菱ダイヤモンドサッカー』というのを放映していて、
でも三重テレビはUHFチャネルで、特別なアンテナを立てないとうまく受像できないので、
私はしかたなく画面にサンド嵐が吹き回る中を目を凝らして観たものだ。
(私は解説者だった岡野俊一郎さんの声を聞くと、いつもこの時代のことを思い出す)

元日本代表監督のイビチャ・オシムは、
「日本という国は人をだまさなくても生きていける平和な国だ。
だからサッカーの世界で勝っていくことは難しい」
といったような意味のことを発言したと私は記憶している。

確かに国際レベルのサッカーで勝つためには、
ずる賢さや狡猾さ、そして強烈なハングリー精神が必要になる。

日本のサッカーは、ずる賢さや狡猾さ、ハングリー精神の面で言うなら、
相当その要素を欠いているのではなかろうか。
そのうえ体格だってハンディを負っている。
にもかかわらず、ベスト16までは行けたのだ。
(技術や規律性、団結力、「代表の誇り」といったモチベーションによって)

ともすると平和ボケしそうな社会のもとに生まれ育った若者が
モチベーションを高く維持してあれだけの戦いをしたのだから、とても敬服に値するし、
(たとえ1次リーグで敗退していたとしても)ありがとうと言いたい―――それが私の目線だ。

Tsuyuake3 
仕事部屋の窓から雲を眺める。
雲の変化をみているとヘラクレイトスの「万物は流転する」を思い出す 。

W杯サッカーが終わって〈1〉

Tsuyuake1


祭りの後はなんともさみしいものだが、
今回のW杯サッカーを観戦しながら考えたことを断片的に書き出してみる。

その1◆トータルフットボールの円熟

毎度のことながらW杯サッカーでは、特定の個人プレイヤーを挙げて
「今回は誰々の大会になりそうだ」と戦前に人びともメディアも騒ぐ。
実際、過去の大会では、サッカーの神様が誰か一人に魔法の黄金シューズを履かせ、
アンビリーバブルなプレーをさせてきた。

今回はそれがメッシなのか、C.ロナウドなのか、
はたまたカカなのかルーニーなのか…… (結果はご存じのとおり)

しかし、これほど特定の個人が浮き出なかった大会も珍しい。
得点王も結局、5得点の4人が並ぶ結果となった。

しかし、突出したファンタジスタが現れずとも、本大会は見ごたえのある対戦が多かったし、
スペインという「統合力×独自の美意識の貫徹」のチームが優勝したことで
現代サッカーの1つのお手本解が示されたともいえる。

巷間(私も含め)のサッカー論議やメディアの一般記事では
好んで特定のヒーローをこしらえたいし、また「組織力か個人力か」という2項対立で話をしたい。
しかしながら、実際のサッカーは、もはやその2項対立ではないし、
特定のスーパープレイヤーに頼れば頼るほど勝ち進めなくなっている。

現代サッカーは、1970年代のオランダチーム(ヨハン・クライフら)が展開した
トータルフットボールの流れを受け、
全員攻撃・全員守備、献身的なハードワークが前提、組織力が基盤、その上での個人力
―――を目指すようになっている。
個人主義ベースと言われるブラジルやアルゼンチンでも、
もはやコレクティヴ(協働的)な部分を無視できない。

しかしながら、トータルフットボールは往々にして、
「固い守備+カウンター攻撃」のような型になりがちで、どうも面白さに欠けた。
だからこそ、私たちはその中で「強烈な個」を常に欲していたとも言える。

ところが、今回のスペインは、コレクティブでありながら、
そのコレクティブさを守備固めというより、攻撃のためのパスサッカーに適応し、
独自の美意識に固執して得点を奪うという相当に高度なことをやってのけた。
まさにトータルフットボールの円熟ここにあり、といった感じだった。

組織も強いし、個人も強い。
守備も強いし、攻めも強い。
そして、自らのスタイルを貫いて、美しく勝った。

美しく勝つといっても、スペインの場合、楽勝だった試合は1つもなく、
1点をこじ開けて守る薄氷を踏む勝ちが多かった。
美しさを貫く底にしぶとさがあったのだ。

本大会王者のスペインから引き出せる強さのキーワードは
○「トータル」であること
  =強い組織と強い個が統合して力を出している。
  =「私攻める人/私守る人」といった分業でなく、全員・全体で勝ちにいく。
○「コレクティブ」であること
  =互いの献身が全体を支えている。
○独自のスタイル+それを貫徹させる“しぶとさ”


さて、話を私たちの働く現場に向かわせてみよう。
……いま日本の働く現場では、ことごとく逆のことが起きているのではないか。

日本人の働き手は、相変わらず会社の組織力に身を委ねたがる傾向性が強い。
もちろん会社の諸々の力はうまく利用していいのだが、
その上で、個人で何か突破することをしないように思う。
若い世代の大企業志向、公務員志向、終身雇用志向など、保守回帰が始まっていることも気になる。
また、不景気で雇用需要が弱まってくると、
会社は「雇ってやっているんだ」、個人は「雇ってもらうためにはしょうがない」
といったような心理状態になりやすく、
そこにもますます「強くなる(場合により暴君化する)組織」と「縮こまる個人」の構図が見てとれる。

さらに、いまのビジネス現場では業務があまりに専門分業化されるために、
働き手に求める能力も、どんどん専門分業化されていく。
そのために働き手はますます知的部品化、技的部品化していく。

組織側はそのほうが人材として使いやすいのでその流れを肯定し、
一方、働き手側も、
周辺の余計な業務に手を煩わせたくないので、どんどんタコツボ的に自分を限定していく。

……こうみると、いまの日本人の働き手、日本の多くの職場は、
「トータル」さに欠け、「コレクティブ」さも欠けている。
そして独自のスタイルをどこに見出せばいいのかさっぱり迷っている。

独自のスタイルに関して言えば、
「ていねいなものづくり」はグローバル経済の中でも、
いまだ十分に日本の独自スタイルになりうると思うのだが、
ただ、美しいサッカーが、歴史上、
泥臭いサッカーやずる賢いサッカーにたいていの場合勝てなかったように、
「ていねいに(しかし高価格に)つくった」日本の家電製品は、
世界市場において「そこそこの品質で安くつくった」韓国製品・台湾製品に勝てなくなっている。

しかしそれでも、美しさを堅持しながら、スペインはしぶとく勝った。
だから、私は、日本が「ていねいさ」を堅持しながら、
ものづくりの分野で勝ってほしいし、勝てると信じている。

しかし、そのためには「トータルさ」と「コレクティブさ」を強くする必要がある。
(ふーむ、やはりここに問題は返ってくるのだ)


補足◆ボールから遠いとき何を考え何をしているか

サッカーの名指導で私がいつも思い出すのは、故・長沼健さんの次の言葉だ。

 「1試合で1人の選手がボールに直接関係している時間は、
 合計してもわずか2分か3分といわれている。
 1試合が90分だから、ボールに直接関係していない時間が87分から88分という計算になる。
 ボールに直接関係しているときは、世界のトップクラスの選手も、小学校のチビッ子選手も
 同じように緊張し集中している。技術の上下はあっても、真剣であることに変わりはない。

 ボールに直接関係していない時間の集中力が、トップクラスの連中はすごいのだ。
 逆に言えば、ボールに関係していないときの集中力のおかげで、
 いざボールに関係するとき優位を占めることができるし、
 
もっている技術や体力が光を帯びることになるわけである。

 サッカー選手の質の良否を見分ける方法は比較的簡単だ。
 ボールから遠い位置にいるとき、何を考え、どういう行動をとるかを見れば、
 
ほぼその選手の能力は判断できる」。

                        
―――『十一人のなかの一人~サッカーに学ぶ集団の論理』より


Tsuyuake2
いよいよ梅雨が明け、今年も暑い夏が来る

 

2010年7月 1日 (木)

留め書き〈012〉 ~運・鈍・根

Tome012


最初に「運・鈍・根」という言葉を聞いたのは20代初めのころだったろうか。
私はこの言葉を何となく好きになれなかった。
何か苦節何十年という演歌歌手が口にする人生訓のようで、
血気盛んで(勘違いに)自信家だった自分には地味過ぎたからだ。

運なんかをあてにするより実力だろう。
鈍なんて野暮ったい。知性も感性も鋭敏でなくちゃ。
根気、根気って、根気にしがみつくより、方法論を変えたらどう?
・・・と、まぁ、それはそれなりに理屈は通っているのだが、
いま思うと、若気の至りの解釈だったかもしれない。

しかし40も後半になって、ようやくこの「運・鈍・根」の三文字が
味わいのあるものとして咀嚼できるようになった。

私はいま、「運・鈍・根」を「生(活)かされる自分・愚直・信念」として受け留めている。

私は20代、30代、狩猟的に働く舞台を変えた。
会社員として4度の転職、そして海外留学と、環境の変化を能動的に楽しんだ。
仕事への想いは強かったが、信念と呼べるものではなかった。
しかし、40歳で独立して、時を経るごとに信念が出来あがってきた。
そしてそれは職業人としてのアイデンティティーの根っことなった。
教育事業という大地に自分を植え付けることにより、何か安定感を得た。

独立後、確かに市場の変化や顧客の要望に敏感でいようとはする。
しかし、それよりも重要と考えるのは、ある種、鈍感になって、
自分がやるべきだと思うことを愚直に掘り進んでいくことだ。
そして「これが自分の信ずる形だ。どうだ!」と言って、市場・顧客に差し出す。

そうして、「根」に「鈍」に、もがいているとどうだろう……
差し出した仕事に共感いただける方や応援してくれる仲間などができてくる。
下からは押し上げられ、上からは引っ張り上げられ、
何か自分の歩むべき道がすぅーっと開けてくる。
そして、その道の上で「生(活)かされる自分」を自覚する。
それこそがひとつの「運」のはたらきなのだろう。

「生(活)かされる自分」とは、決して受動的な姿ではない。
そこにはむしろ“大きな我”“開いた我”がいる。

もし人生の重大事として「運・鈍・根」を語る人がいれば、その人はきっと、
信念の下に生き、
愚直に何かを求め、
生(活)かされる自分をじゅうぶんに意識している人だと思って間違いない。



 

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