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2010年8月

2010年8月23日 (月)

部課長の対話力〈4〉~自分は何によって憶えられたいか?



◆部課長が引き受けるべき5つの役割
中間管理職である部長・課長の役割とは何でしょうか? 
もちろん部や課という任された組織単位を管理・監督することは当然です。
しかし実際は一役職者のみならず、一職業人、一人間として多くの役割を担っています。
私は次の5つの役割があると思っています。

 〈1〉 担当組織(部や課)の管理監督者として
 〈2〉 価値の翻訳者として
 〈3〉 才能の孵化親として
 〈4〉 職業人のロールモデルとして
 〈5〉 良識・見識ある一人間として

1つめは自明ですので、2つめの「価値の翻訳者」としての役割からみていきます。
これは部下とのコミュニケーション上、とても大事なものです。
すなわち会社組織においは、経営者(層)からいろいろなメッセージが発信されたり、
全社的な方向性やら目標が現場に下されたりしますが、
たいていそれらはエッセンスの部分だけであったり、ときとしてあいまいな表現だったり、
飛躍のある結論であったりして、周辺の細かな説明は省かれています。
ですから、それを中間にいる部課長が、経営者の意図する価値を損なわないまま、
きちんと翻訳して現場に下さねばなりません。

経営者の言ったことを言ったまま現場に落とすなら、それは「伝書鳩」にすぎません。
経営者の言うことは、ビジョンや理念、方針、目的、全体目標であって、
そこにはどうしてもいろいろな矛盾や無理、非合理、夢物語が混じってきます。
しかし、役割分担から言えばそれでいいのです。経営者はリーダーであって、
それを現場で具体的に動かすのが部課長=マネジャーの仕事だからです。
部課長は、経営者の発信をみずからの部署の状況に合わせ、部下の個人状況に合わせ、
柔軟的に解釈を施してコミュニケーションすることが求められます。


◆人を育てることは自分の裾野を広くすること
次に3つめの役割が「才能の孵化親」です。
これは言うまでもなく一人一人の部下の内の才能を育み、
よき人財として成長させてやるという役割です。

ときに業務能力に長けた部課長は、自分で仕事を片付けてしまった方が手っ取り早いため、
大事な部分の仕事を部下に任せず、彼らの成長機会を奪っているということが起こります。
また、プレーイング・マネジャーは部下育成のための時間が思うように取れないのが現状です。
こうして部課長の中では「才能の孵化親」としての役割をほとんど果たさないケースが増えています。
しかしこれは、部下にとっても、組織にとっても損失であるばかりでなく、
その部課長本人にとっても大きな損失となります。

というのは、キャリアは10年、20年単位で展開されるもので、
目先の上司/部下関係というのは仮の関係でしかないからです。
10年後、20年後、部下や後輩たちが自分の配下から社内外に巣立っていき、
仕事のパートナーとなったり、同志となったり、
あるいは逆転して上司になったりすることは普通に起こりえます。
実に 「後生畏る可し」 (こうせいおそるべし)なのです。
自分が育てた人財たちは、将来、自分を押し上げてくれる存在に十分になるのです。

人をさまざまに育てた部課長であればあるほど、自身のキャリアは裾野が広くなると考えてください。
裾野の広い山は高い峰を形成することができます。
「情けは人のためならず」ということわざがありますが、
同様に「育成は人のためならず」と言えるでしょう。
人を育てたことは、巡り巡ってすべて自分に返ってくるのです。


◆結局、一人間としてどんな姿を見せるか
そして4つめに部課長は、「職業人のロールモデル」として
部下たちから模範とされる働き様、生き様を体現する役割を負っています。
私たちは知識や技能は書物や自己の経験から学ぶことができます。
しかし、「いかによりよき職業人となるか」については、人を通してしか学ぶことができません。
その場合、最も大きな影響力を持つのが日常の職場で身近に接する部課長なのです。

部下や若年層社員から「ああいうマネジャーになりたいな」、「あんな存在になれればいいな」、
「本当のプロフェッショナルって、ああいう働き方のことなんだろうな」
と思われる部課長が多くいる組織は、人財輩出組織になるでしょう。

逆に、若手から「ああはなりたくないね」、「給料泥棒の管理職が多いんじゃないの」、
「この会社で働き続けても先が見えてるな」といった視線で見られる部課長が多い組織は、
早晩、人財流出組織になってしまいます。

最後5つめは「良識・見識ある一人間」としての役割です。
上司と部下の付き合いは、最終的には一人間同士の付き合いに帰結します。
世間話や趣味話といった雑談のときにでも、部下は、
自分の上司がどのような観で物事をみているか、どのような視点で評価しているか
をきちんと観察しています。

また部下は同時に、上司が一私人・一生活人として
どのような価値を軸にして人生を送ろうとしているのかも鋭く見ています。
つまり一人間としての良識・見識は信頼に足るものか、生き方の基軸は魅力的か
などを感じ取ることにより、最終的に上司との付き合うレベルを決めているのです。

部課長がどれだけ一役職人として巧みに指示命令を出そうと、
どれだけ一能力人として優れて仕事を処理しようと、
一人間として良識・見識を欠いていては部下からの本当の信頼は築かれません。
例えば、取引先との電話を切るや否や、あるいは、役員との社内電話を切るや否や、
「いやぁ、あいつらはまったく話の通じない連中だ」とばかり、
丁寧だった口調がいきなり変わり業者や経営層批判を言い出す部課長がいます。
こうした裏と表のある言動をする部課長は絶対に信頼されません。
部下たちも、自分だって陰でこの上司に何と言われているかわからないもんだと猜疑心が募るばかりです。

部とか課といった顔の見える範囲での組織においては、
人をまとめていくベースは、やはり良識・見識に基づいた一人間同士の人間関係になります。


◆「自分は何によって憶えられたいか」~人生の目的を言葉に落とす
さて、部課長は管理監督者として毎期毎期、部下に業務上の目標を立てさせます。
これはこれで組織にとって必要なことではあります。
しかし、この目標設定が、義務感による習慣であったり、
機械的な達成数値の割り当てになったりしていないでしょうか。
そうした惰性の目標設定になっている場合、上司と部下の気持ちはどうなるかといえば、
―――「結局、給料をもらうためには目標立てなきゃダメだろ」(上司)、
「そうですね、給料のためにはしょうがないですね」(部下)となりがちです。

部課長はこれまで述べたように、管理監督者よりももっと多面的でふくらみのある存在です。
部下を一職業人、一人間としてもっと大きく見守ってやらねばなりません。
そのときに部下の将来をどう慮ってやれるのか?―――
そんな角度で私が考えることは、ピーター・ドラッカーの次の言葉です。

  「私が一三歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。
  教室の中を歩きながら、『何によって憶えられたいかね』と聞いた。
  誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。
  『今答えられるとは思わない。でも、五〇歳になっても答えられなければ、
  人生を無駄にしたことになるよ』」。
                                
(『プロフェッショナルの条件』より)


これはズシンとくるエピソードです。
漫然と生きることを自省させてくれる問いかけです。
これと同様のことを内村鑑三も言っています―――

  「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、
  このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も残さずには死んでしまいたくない、
  との希望が起こってくる。何を置いて逝こう、金か、事業か、思想か。
  誰にも遺すことのできる最大遺物、それは勇ましい高尚なる生涯であると思います」。
                                                 (『後世への最大遺物』より)


こうした、自分が生涯を通し「何によって憶えられたいか?」、「何を遺したいか?」との設問を、
部課長は若い部下たちにどんどん投げかけてやってください。
期ごとの業務目標ばかりに意識を縛るのではなく、
中長期の人生・キャリアといったもっと大きな方向性に思考を広げてやることが上司の務めです。

この設問に答えることは、人生の目的を凝縮して言葉に表現する作業です。
もちろん当座はうまく表現できない部下が多いでしょう。
また、一人の人間の中でも、最初に表した言葉よりもだんだん言葉が明確になっていったり、
言葉が変わったりする場合が出てきます。それはそれでよいのです。
時の経過、行動の蓄積とともに、目的が成熟してくるからです。
いずれにせよ、人生の早いうちに投げかけられたほうが、
本人は早くからそういうことを胸の内に意識します。


◆職場でやりたい「ミッション・ステートメント」ワーク
私が研修で使っているのが次の「ミッションステートメントシート」です。
職場では、例えばこのシートを年末に配り、
年明けの部課のミーティングで各自が披露しあうといった形でやるのはどうでしょうか。


Mission sts


もちろん部課長自身も披露してください。できれば毎年恒例にすればいいと思います。
目的観の進化・深化に合わせて、言葉表現も変わってくるはずで、互いにいい刺激になります。

業務目標だけが圧迫し続ける仕事生活は、いつしか「目標疲れ」を生み、個と組織を疲弊させます。
しかし、人生と仕事にはやはり目標が必要です。
部課長が留意すべきは、
目標を立てるアプローチやプロセスにおいて、きちんと部下と付き合うということです。
そして部下一人一人が大きな目的(夢や志、想いといった意味を含むもの)を描く手助けをしてやることです。
なぜなら、本来、目標立てというのは、ベースになる想いや願いからにじみ出てきて、
かつ、未来の先にイメージする理想から引っ張り上げられるのが最良の形だからです。
また目的はその内に意味的なものを含んでいますから、健全なエネルギーも湧いてきます。
部下のそうしたメンタルな掘り起こしなしに、彼らを芯から燃やすことはできません。

部課長が5つの役割を全うすることはとても大変です。
そしてその役割を全うするために、こつこつと対話を重ねる。これも大変です。
しかし、それこそが部課長としての真の喜びですし、
部下のためにやったことは、最後は巡り巡ってすべて自分に還ってきます。
そうした意味で、部課長のみなさん、いま一度、
「対話する」というコミュニケーションにつき見つめ直しをしてみてください。


2010年8月16日 (月)

部課長の対話力〈3〉~貢献意欲を湧かせる

Syoten01 
●『部課長の対話力』平積み中!

東京・神田駅前の啓文堂書店様にて。
版元のディスカヴァーさんの積極的な営業でなんと110冊も平積み展開していただいた!
著者にとって平積みはウレシイものであると同時に、不安なもの。
1冊1冊はかわいい我が子。
その子の内には自分が世に伝えたいメッセージを込めてある。
これらが1人1人のお客様にお金を頂戴して引き取っていただけるか―――
ブームでどかんと売れる類の本ではないだけに、
私は自著の平積みをいつも祈る気持ちで眺めている。




◆指示・命令に劣らず大事なコミュニケーションがある
上司が部下とやりとりするもろもろのコミュニケーションは何のためのものか?
―――こう問われたとき、みなさんはどうお答えになるでしょうか。
おおかたは「そりゃ決まっている、事業組織においては、指示・命令の伝達が生命線なんだから、
そのためにコミュニケーションをしている」・・・そんな答えになるでしょう。

確かに「伝達のコミュニケーション」は第一に重要なことです。
では、ほかに何があるでしょうか。
このことを考えておくことはとても有意義ですので整理してみましょう。

事業組織において、上司・部下間のコミュニケーションは次の3つに分けられます。

 1) 「情報伝達」 のためのコミュニケーション
 2) 「貢献意欲喚起」 のためのコミュニケーション
 3) 「関係性融和」 のためのコミュニケーション


1番目は冒頭に述べたとおりです。
上司は指示や命令、経営側の意思など諸情報を伝達するためにコミュニケーションを行います。
ひとつ飛んで3番目、上司は部下とスムーズな人間関係をつくるために私語や雑談をします。
これが関係性融和のためのコミュニケーションです。

そして忘れてならないのが、2番目の「貢献意欲喚起」です。
つまり、上司は
部下の1人1人が「事業目的に向かって貢献したい」という気持ちを呼び覚ますために
コミュニケーションをしなくてはならないのです。

経営学者であるチェスター・I・バーナードは『新訳 経営者の役割』の中で、
組織を成立させる3要素として「コミュニケーション・貢献意欲・共通目的」 を挙げています。
この3要素は深読みするといろいろあるのですが、
ともかくこれらのうちどれを欠いても組織たりえないと彼は論じました。

なるほどバーナードの示すとおり、組織は単に人の集まりではなく、
その集団が掲げる目的完遂のために貢献したいという「意欲の集まり」「やる気の束」ととらえるのは
ひとつのうまい定義です。企業とは、文字通り「業を企てる」です。
事業目的を完遂させようという意欲を持たぬ人間の集まりは、烏合の衆であって、
そもそも存続すら危ういでしょう。

◆部下を自分に従わせるのではなく、目的に従わせる
往々にして、部課長というものは、1番目の情報伝達のコミュニケーションに偏りがちですし、
そこに自分の存在意義を込めようとします。
指示・命令の正確な伝達と徹底こそ部課長の役目として、
権力の上下関係を後ろ盾に、部下を自分に従わせようと躍起になります。
そして、部下が従順に従えば従うほど(あるいは従うふりをしたとしても)、
部課長はそこにある種の安堵感を覚えるものです。

しかし本当のところ、部下は仕事上の家来でも子分でもありません。
意欲喚起のコミュニケーションを十分に知っている部課長は、
部下を自分に従わせようとするのではなく、目的に従わせようとします。
つまり目的完遂のために彼らをどう貢献させようか、
その貢献過程で彼ら自身が成長を得られるにはどうはたらきかけをすればよいか、

について頭を巡らせます。

そうした部課長は、
部下に対し「なぜ、あいつは俺の言うことをきかないんだ」とイライラはしません。
「あいつは俺の言うことをきかないが、反骨エネルギーは持っている。
そのエネルギーを目的に結び付けるにはどういう刺激を与えればいいのか」、
そういう発想になるのです。

ある意味、情報伝達のためのコミュニケーションは簡単かもしれません。
「何を・どうやるか」について、職権を土台にして伝達すればよいからです。
一方、2番目の貢献意欲喚起のためのコミュニケーションは、職権パワーはあまり効力がなく、
その上司の語る力、想う力、人間的な包容力、根気が問われることになってきます。
部下を一人の人財として慮り、彼(彼女)の意欲を目的につなげ、
会社を働く舞台とし、仕事を成長機会にしてやる、そうしたことは大変なことですが、
それこそが部課長が行うコミュニケーションのチャレンジングな部分であり、
深い喜びの部分でもあります。

◆好かれる上司が「よい組織」をつくれるわけではない
よい組織における上司と部下の人間関係とはどのようなものか?
―――ピーター・ドラッカーは次のように指摘しています。

  「人間関係に優れた才能をもつからといって、よい人間関係がもてるわけではない。
  貢献に焦点を合わせることにより、初めてよい人間関係がもてるのである。
  生産的であることが、よい人間関係の唯一の定義である。
  仕事に焦点を合わせた関係において成果が何もなければ、温かな会話や感情も無意味である。
  とりつくろいにすぎない」。
                                          (『プロフェッショナルの条件』より)

ここでドラッカーは2つの重要なことを指摘しています。
1つめに、よい人間関係を「生産的であること」と定義したこと。
よい人間関係というと、「掛け値のない相互信頼」とか
「反りが合う」「気楽に付き合える」などと考えてしまいがちですが、
事業組織という中でのよい人間関係とはまさにこのとおり
――皆が目的を共有し、各自がそこに貢献しようと生産的になれる関係――です。

反りが合う、気楽な人間関係はそれに越したことはありませんが、
組織の中ではそれが往々にして派閥や親分子分の連れ添いを生み、弊害となる場合も多いものです。

2つめとして、よい人間関係を持つことは能力・テクニックではないこと。
これはハッとする指摘です。私たちは往々にして、
人間関係の構築を「対人コミュニケーション法」という技術で何とかしようとしますが、
いくらそうした技術を身につけたところで、互いが目的を共有せず、
心がバラバラな状態では決して良好な関係は生まれません。
組織に属する人間たちがさまざまな違いや対立を乗り越えてよい関係が構築できるのは、
技術のあるなしではなく、「共通の想い」のあるなしです。

ですから、部課長が組織を引っ張っていくために最も重要なことは、
目的を皆でしっかり持ち合うようはたらきかけをすることなのです。
上司は部下に好かれなくてはならない、役員に取り入らなければならない、
チームは和気あいあいとしていなければならない、などとやきもき考えだす必要はありません。
自分の想いを真正面から語り、共通目的の下にメンバーが貢献意欲を湧かせ、
生産的になる―――それに専念することです。

1番目の伝達のコミュニケーションに長けた部課長が、
あるいは三番目の関係性融和のコミュニケーションがうまく人気のある部課長が、
必ずしも「よい組織」をつくれるとはかぎりません。

◆至難の旅への男子求む。報酬わずか…
英国の探検家アーネスト・シャクルトン卿は、
1914年、世界初の南極横断をするための冒険隊員募集の広告を新聞に出しました。
その有名な文面はこうです。

  「至難の旅への男子求む。報酬わずか。極寒。暗黒の長い月日。
  絶えざる危険。生還の保証無し。成功の暁には名誉と賞賛を得る」。

―――結果、この広告に5000人もの人が応募したといいます。
シャクルトン卿はリーダーシップ研究の材料にされるほどその後伝説的な冒険をしましたが、
彼が荒くれ男たちを見事に統率できたのは、
「なぜこの冒険をやるのか」「お前たちは歴史をつくりに来たんじゃないのか」
という問いを隊員たちにかけ続け、貢献意欲を湧かし続けたからです。

人間の真のやる気は、意味を感じられる目的の下に生じるものです。
そして意味や目的といったものは、対話によってこそ共有されうるものです。

「なぜ多くの社員がやる気をなくしているのか」、
「なぜ組織の空気がどんよりしているのか」を考える根っこは、
果たして、うちの組織は目的(事業の意義であったり理念であったり)を明確に設定して、
それを皆で共有しているだろうか? そしてそのための対話があるだろうか?
との自問から始めねばなりません。
目的がない、そのための対話もない。そして日々、目標だけが覆いかぶさる組織―――
それでは皆が疲れるはずです。

組織の中には、
「さぁ、うちの部も伝説をつくろうじゃないか」と言ってのける部課長がそこかしこにいてほしいものです。



2010年8月12日 (木)

ルイス・マンフォード『現代文明を考える』


◆smartばかり増やし、thoughtfulを増やさない教育
現代が変化・スピードの時代であることは誰しも否定しようがない。
そのため、変化に押し流されないよう個人も組織も常に最新の情報の摂取に忙しい。
そして何事もスピーディーに行動することを求められる。
時代の先を読み、迅速に反応できる人間が、優秀だと評価される。

私も仕事柄、組織で優秀だと言われる人財にさまざま会ってきた。
(MBA学生をしていたとき、席を並べた同級生たちもそんな類の人財たちだ)
確かに彼らは時代の先読み感覚はあるし、頭の回転も行動も早い。
知識や技術もハイクラスのものだ。
しかし、彼ら(私自身も含めて)の弱いところは、
「史観」を持って自分たちの置かれた状況を見つめ、物事を解釈することだ。

経営者・ビジネスパーソンに限らず、第一級の人間は、独自の史観を内面に醸成している。
そして、表層の波のごとく変化する現在の出来事を長い時間軸から俯瞰してとらえ、物事を判断する。

いまの教育は、
時流に対応できる「smart=利口な」人間を増やしてはいるが、果たして、
時流がどうあれ、どっしりと思索のできる「thoughtful=思慮深い」人間をつくっているだろうか。

史観というものは易々と教育できるものではないし、
そもそも「史観はこうあるべきだ」という正解もないから、教育すべきでもない。
しかし、大人たちは、若い世代にさまざまな刺激や啓発を与える任務を負っている。
そのために大人ができることは、歴史的視点から考える材料や機会を若い世代にどんどん与えることだ。
(どのような史観を醸成させるかは、あくまで本人による)

私はMBA教育にはさほど感動はしなかったが、
それでも「経営哲学」という科目で、渋沢栄一の『論語と算盤』や
マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などを教材として
資本主義を歴史の視点から再考させてくれたことには、いまもって感謝している。

(*そのことについては下の記事をご参考に)
「伊丹先生が試みたもの・・・MBA教育の中の“徳育”」

ああいった学びがなければ、いまだに私は、資本主義を無条件に漫然と受け入れるだけで、
資本主義に使われる人間になっていただろうと思う。
資本主義の毒の部分を知って、その上で肯定する―――その理解次元に立てたことは大きな成長だった。

* * * * *

◆人類の最初の恩人はプロメテウスかオルフェウスか
さて、そんなところから、この「滋養本」のカテゴリーでは以降数回にわたって
文明的視座から書かれた本を紹介していく。今回は、

ルイス・マンフォード『現代文明を考える』Mumford cv
 (生田勉・山下泉訳、講談社)
である。

本著は、米国の文明批評家であるマンフォード(1895-1990)が、
1951年にコロンビア大学で行った講演をまとめたものである。
原題が『Art and Technics』とあるとおり、
芸術と技術の2つから文明をとらえていく。

マンフォードはそこで、
ギリシャ神話に出てくるプロメテウスとオルフェウスを比喩として用いる。
大方の見解として、プロメテウスは、
人間に最初に火をもたらした神であり(火は総じて道具や技術の意味を含む)、
人間が野生動物から分離していく発展の源をつくったとされている。
それに対し、マンフォードは
「いや、オルフェウス(竪琴の奏手、ここの文脈では芸術・表象の意味)こそ
人間の最初の教師、恩人であったのだ」と反論をする。

人間を最初に人間たらしめたものは、道具を使うという技術(プロメテウス)であったのか、
それとも、形態や意味を表象する芸術(オルフェウス)であったのか、
それは大いに議論が出るところだが、いずれにしても、
人類の文明の発展(あるときには、後退とか停滞とか破壊があるだろうが)には、
2つの推進力―――プロメテウス(技術)的な推進と、オルフェウス(芸術)的な推進が絡んでいる。
同時に付け加えるならば、この2つの推進力は一人の人間の内にも同居する。

◆人間を置き去りにして技術だけが勝利した
マンフォードはどちらの力が優で劣か、ということを論じない。
かつてその二つは表裏一体となって睦まじい関係にあったが、いつしかその二面は剥ぎ裂かれてしまい、
双方が均衡を欠いていることが現代の危機であると指摘する。
均衡を欠くとは、すなわち、プロメテウス(技術)の肥大化・暴走化と
オルフェウス(芸術)の衰弱化・病弊化だ。

  「機械の誇りとする能率にもかかわらず、
  またエネルギー、食糧、素材、製品がありあまるほど豊富なのにもかかわらず、
  質の面では今日の日常生活はそれらに見合った改善がなされず、
  文明のなかで充足し栄養十分な大衆が、
  情緒的不感症と精神的冬眠、無気力と萎びた願望の生活を送り、
  近代文化の真の潜勢力(ポテンシャル)に背を向けた生活をしているのです。
  まさに『芸術は貶(おとし)められ、想像力は拒まれ、戦争は国民を支配した』
  (注:ウィリアム・ブレークの言葉) のです」。

人間性を失くした技術の肥大と暴走は、同時に、芸術の衰弱と病弊を呼ぶ。

  「社会が健全なときには、芸術家は社会の健全性を強めますが、
  社会が病んでいるときには、同じようにその病弊を強めます」。

マンフォードも各所で指摘しているのだが、
技術と芸術は単純な二元論で片付けることができない。
もし、これらが単純な二元対立でとらえられるなら、
一方の技術の暴走は、もう一方の芸術の復興によって修正することができるはずだ。
―――しかし、残念ながらそうはならない。
芸術はいったん崩壊の流れに乗るや、みずから崩壊の度を強めていくのだ。

  「その(芸術の)運動自体は、崩壊作用をみずからの栄養分としており、
  まさにその崩壊作用に著しく規定されているため、精神の根底から変化しないことには、
  その運動が新しい平衡と安定を私たちの生活にもたらすことはできまい」。

これは、いみじくもゲーテが「文学は人間が堕落する度合いだけ堕落する」と喝破したことと共鳴する。

確かに、昨今の芸術――ここで言う芸術とは、芸術家による創作活動だけではなく、
すべての人が情念の発露として行う表現活動まで含める――において、
表現する道具や手法などがそれこそ技術の発達によって洗練されたにもかかわらず、
出来あがってくるものは、神経質でギスギスと痩せたものばかりだ。
道具や手法などが未発達で粗だった時代のほうが、芸術ははるかに健やかさとふくらみをもっていた。

また、真の芸術の衰退は、人びとがそれを求めなくなることで加速される。
  「真の芸術家はやむにやまれぬものを描き、書き、作曲するもので、
  同時代人を喜ばせることは、二次的な問題にすぎないのですが、
  かれは同時代人のかれへの興味、悦び、直観的反応によって、いっそう努力するよう促されるのです。
  私の親しい友マシュウ・ノヴィッキが建築についてよく言っていたことですが、
  『偉大な依頼者こそ偉大な建物の制作に不可欠である』という言葉は、
  他のどんな芸術形式にもあてはまるように思われます」。

私たちは、技術を「富」の増幅と獲得に用いるばかりである。
確かにそのことによって、先進国では物が増え、娯楽が増え、平均寿命は延びた。
現代において、技術だけが勝利しているように思える。
芸術は縮み、人間は技術の配下に置かれる状況が生まれている。
この事態を健全な状態に切り返す手立てはいったい何なのか?

マンフォードは言う――――
  「救いの道は、人間個性を機械へ実用的に適応させることにあるのではなく、
  機械はそれ自体、生活の秩序と組織の必要から生まれた産物ですから、
  機械を人間個性に再適応させることにあるのです。
  つまり人間類型、人間的尺度、人間的テンポ、とりわけ人間の究極目標が
  技術の活動と進行を変革しなければなりません。…(中略)
  人格のない技術によっていまやまさに枯渇させられた生気とエネルギーとを、
  もう一度芸術のなかに注ぎなおさなければならない」。

結局のところ、人間が技術を司るのである。
結局のところ、人間が芸術を司るのである。
技術の自己肥大化、芸術の自己病弱化に人間が振り回されているのが重大問題なのだ。
そのために、私たち人間は、技術の主人となれ、芸術の主人となれ、
そのために叡智を集結させて文明の流れを修正せよ、これがマンフォードのメッセージである。

* * * * *

◆大きなシステムの中で部品化する人間
しかし、技術の主人となる、芸術の主人となることは、そう簡単な話でない。
私たちは今日、標準化、大量生産、大量消費、分業、カネがカネを生む経済システムに
よって“生かされている”。

もっと多くを欲し、もっと多くを生産する。
もっと速く生産し、もっと速く消費する。
そうして工場を稼働させ続け、拡大再生産回路を絶たないようにする。
これこそが社会を潰さず、企業を潰さず、個人の生活を潰さないための唯一の方法―――
現代文明は、ブレーキもハンドルもなくアクセルしか付いていない暴走車に
いまや何十億人という人間を乗せて走っているのだ。

大量生産・大量消費・拡大成長・競争原理を前提とした経済は、
必然的に、仕事の分業化を押し進める。
仕事の分業化は、働く個人の技能的部品化・知能的部品化を意味する。

チャーリー・チャップリンの映画『モダンタイムス』(1936年)は、
工場労働者が単純作業にまで分解された仕事を黙々とこなし、
生産機械の一部になっていくことを痛烈に批判したものであるが、
これをいまのビジネスパーソン(ナレッジワーカー)たちが観て、
「かわいそうになぁ、そりゃあんな単純な肉体労働を歯車のようにさせられちゃ
人間疎外にもなるよ。昔はひどかったな」と思うかもしれない。
しかし、よくよく考えてみるに、
チャップリンが描いた当時のブルーカラーも、
現代の大企業オフィスで知的労働に関わるホワイトカラーも問題の本質は変わっていない。
単純な肉体作業が多少複雑な知的作業に取り替わっただけの話であって、
依然一人の働き手が、大きな利益創出装置の中の歯車であることには変わりがない。

私は主に企業の従業員を対象に研修をしているが、
新入社員であっても、3年目、5年目社員であっても、そして部課長ですら、その多くがが
「(生計を立てるため、というほかに)働く目的を明確に持っていない」、
「夢・志を描けない」、「働きがいが見出せない」、
「10年後どうなっていたいか、特に想いはない」……という状況だ。

このことは、過度に進む仕事の分業化と関連がある。

 自分のやっていることが、全体とどう結びついているかが見えにくい、
 自分のやっていることが、末端のお客様とどうつながっているかが実感しにくい、
 自分のやったことで、直接お客様から「ありがとう」を言われたことがない、
 自分のいまやっていることは、会社からの異動辞令が出ればまた変ってしまう、
 自分に任された範囲のことをきちんとやっていれば、月末に給料が振り込まれる……

そんな状況で働いて、
働く目的や意味を見出せ、将来を描けというのは、酷な話かもしれない。

人間は、自らの仕事に全人的に関わらないかぎり、
そこに働きがいや意味を付与することは難しい。

◆手仕事の職人という理想形
マンフォードは労働者の理想、そして技術と芸術のよき均衡を19世紀中葉までの手仕事の職人に見る。

  ―――「かれ(職人)は自分の仕事に時間をかけ、自分の身体のリズムに従ってはたらき、
  疲れれば休息し、経過をふり返っては工夫し、
  また興がのったところでは、ためつすがめつ、あれこれ手をかけていました。
  ですから仕事はあまりはかどりませんが、かれがそれに費やした時間は、真に生きた時間でした。
  職人も、芸術家とおなじように、
  自分の仕事に生き、仕事のために生き、仕事によって生きたといえます。
  はたらく報酬も、そうした活動そのものにもともと備わっているもので、(中略)
  かれ自身が製作工程を支配する親方であるという事実は、
  人間的尊厳の大きな満足であり、その支柱でもあったのです。
  手仕事のもうひとつ報いられた点は、
  職人がさらに技術的に熟達すれば、仕事の操作から仕事の表現という面に移行できたことです」。

私自身、大企業の管理職を辞め、自営で独立した。
個人事業は苦労も多いし、障壁も多いが、仕事には格段の充実を得るようになった。
それはとりもなおさず、自らの仕事の全体を掌握する主人になったからだ。
コンサルタントという知的サービス業ではあるが、それは職人的手仕事と似ている。
自分を全体的に使って、仕事を全体的に動かしていく。
自分の信ずるところの想いを事業という形に変えるという営みは、
技術と芸術の相互の掛け合わせなしには実現されない。
技術は芸術を高め、芸術は技術を刺激する。
そして技術と芸術は、自分の想いをどんどん進化・深化させてゆく。
そのやり応えを一度でも知ったなら、とてもサラリーマンには戻れない。

私は周囲の骨のある人間には、常にこう勧めている―――
ともかく生涯に一度でも、自分の事業をやってみなさいと。

ちなみに、19世紀中葉に活躍し、アーツ・アンド・クラフツ運動の中心的人物だった
ウィリアム・モリスも職人的手仕事を理想的な労働とした一人であるが、
彼は著書『ユートピアだより』の中で、
有用な仕事は3つの希望を与えると言っている。
その3つとは―――
「休息という希望」、「生産物という希望」、「仕事自体楽しいという希望」である。

確かに、自らの意志の下で行う職人的手仕事という労働はひとつの理想形ではある。
しかし、この現代社会において、
そして地球人口が70億人を超えそうな状況において、
すべての人間が職人的手仕事に従事して世界経済を回していくわけにはいかない。

私たちはやはり大量生産・大量消費、分業制、企業組織、金融システムといったものを
利用しながら人類を食わせていかねばならないのだ。
しかし人間がそれらの下僕になってしまってはいけない。
その解決のための決定打は何なのか―――!?

◆1人1人が1日1日の小さな決断をたくさん積み重ねた結果、流れが変わる
マンフォードはきちんとそのことについて言及している。
しかし、その決定打というのは、起死回生の一発逆転満塁ホームラン!のような
即座の劇的な方法ではない。
それは、一人一人が“人間味”を取り戻すこと、
生物全体、人間全体へと関心を方向転換させること、
内なる自分を見つめ、耳を傾け、心中の衝動と情動に応える習慣を身につけること―――
だと彼は言う。なぜなら、文明の流れの全面的変化は、
「ある独裁的命令で即座に生じるのではなく、
新しいアプローチや新しい価値観の傾向や新しい哲学などから生じる
一日一日の小さな決断をたくさん積み重ねた結果」
もたらされる(されてきた)からです。
そしてマンフォードは、絶対神を崇めるキリスト教思想よりも、
自然と共生し、個々の人間の自制的生活を促すという意味で東洋思想への期待をにじませている。

……そう聞くと、
「なんだ、結局は一人一人の人間が慎ましく変われということか。平凡な答えだ」と
思う人が多いかもしれない。

しかし、そうした答えを大勢が見くびっていく先には、文明の衰退があるだけだ。
「一人一人の人間が叡智を湧かせて変わる。それこそが世界をよく変える唯一確実な道」
―――平凡だがこれほど偉大な答えはない

超一級の学者が常にそうであるように、ルイス・マンフォードは、
大きな問題に独自の視点を与え、表現を凝らしてそれを照らし出す。
そして、一貫して人類の叡智を信じ、強い楽観主義に基づいて聴衆の心に呼びかけをする。
この本には、部分部分でいろいろなことを考えさせてくれる指摘や考察があるので、
是非一度読んでみてください。


2010年8月 9日 (月)

部課長の対話力〈2〉~上司は「客観的であれ」に逃げるな


◆部下は「正論」より「熱のある話」を聞きたがっている
世の部長・課長は「部下のマネジメント」という名目の下に学習熱心です。
さまざまに研修・セミナーを受け、ビジネス書を読み、いろいろな知識・技術を吸収しています。

例えば、部課長は管理職に上がったときに「人事考課者研修」を受け、
部下の評価をいかに客観的に公正に行うかを学びます。
そこでは評価者が陥りやすいエラーとして、
「ハロー効果」や「寛大化傾向」「中心化傾向」「理論的錯誤」などがあることを学びます。
また、人事評価制度に基づく客観的な事実のとらえ方や、
査定方法、運用方法、面談方法などをこと細かに勉強します。

また部下とのコミュニケーションを改善しようと「コーチング」を学んだりもします。
そして「答えはあなたの中にある」という奥義を知ります。

私はこれらの学習は必要であり、大事な知識吸収だと思っています。
しかし、少なからずの部課長たちが、その習った知識や技術に“逃げている”のではないかとも感じています。

人事考課者の研修では、部課長は、一にも二にも
「客観的であれ。客観的な事実を把握し、それによって判断し、伝えよ」と教わります。
しかし部課長が客観性に留まっているだけで部下は動くのでしょうか。
上司との面談において、

 部下は、「正論」より「熱のある話」を聞きたがっています。
 部下は、「評価」より「自分の存在意義」を求めています。
 部下は、「データ」より「意味・やりがい」に耳を傾けます。
 部下は、「現実の分析」より「未来の期待」によって動きます。
 部下は、「詰問」より「自問」によって考え始めます。
 部下は、「客観的事実」より「主観的想い」を雑多にぶつけられる中で
       「この上司と一緒にやっていく!」かどうか、肚を決めます。

「客観的に冷静であれ」ということを金科玉条のごとく守っている上司は、
実は、自らの担当事業について熱をもっていない、
主観的な自分の意見を自信を持って部下にぶつけられない、
自部署のやっていることの意味や意義を語れない、
部下の成長イメージを描けない、などの場合が多いのではないでしょうか。
ですから、彼らが唯一頼れるのは「客観的でいる」ことなのです。

コーチングのエッセンスである「答えはあなたの中にある」という問いかけもそうです。
少なからずの上司が、このフレーズに逃げ込んでいます。
「上司が自分の主観的な意見や想いをいたずらに部下に言ってしまわないほうがよい。
彼(彼女)自身が答えを出さなくなってしまう」―――
これを都合のいい理由にしながら、実は、
上司本人は部下にぶつける「コンテンツ(言うべき中身)」を持っていないのです。

もっと困った上司は、部下と一対一面談をするときは
「真正面どうしで座らず、90度の角度をつくるように座るのがよい」というテクニックだけを覚えて、
それを実行することで何か部下マネジメントが上達した気になっていることです。

「どのように話すかという問題が意味を持つのは、何を話すかという問題が解決されてからである」
―――前回紹介したピーター・ドラッカーの言葉を私たちはよくよく肝に銘じなくてはなりません。

公正で透明な人事評価の運用は大事です。
しかし、それは主に「衛生要因」としてはたらくだけで、 「動機づけ要因」としては非力です。
部下が大いに動機づけされるためには、
上司は強い主観を持ち、言うべき中身をどんどん彼らにぶつけなければならないのです。
そこには対話というコミュニケーションがどうしても必要になってくるのです。

◆コミュニケーションの基本要素「3つのC」
部課長が部下に対して行うコミュニケーションを極めて単純な形で言い表すと、
次のようなものになります。

 部課長は、
  〈1〉状況文脈をつかみ、その文脈に乗せて
  〈2〉語るべき内容を持ち、
  〈3〉もろもろの振舞いを通して、
 部下に対し意志疎通を図る。

ここに出てきた3つの要素;
 ・「文脈」(Context)
 ・「語るべき内容」(Contents)
 ・「振舞い」(Conduct)
は、どれを欠いてもコミュニケーションが成り立たない大事な基本要素といえます。
英語表記の頭文字を取って「3つのC」と呼ぶことにします(図1)。

Bkc2a


コミュニケーションは双方向ですから、実際は図2のように、
部課長には部課長の3つのCがあり、部下には部下の3つのCがあり、
これらが相互にやりとりされる形になります。

Bkc2b



〈1〉状況文脈をつかみ、その文脈に乗せて
よいコミュニケーションは自分の言いたいことを一方的に押し放つだけでは成立しません。
文脈をつかむという受信作業、そして文脈に乗せるという発信作業があってこそ
効果的に成立します。ここで言う文脈とは、
上司/部下間に漂う空気とかそれまでのやりとりの過程、両者の関係性、担当事業の進捗する具合、
組織風土、社会情勢など、当事者を取り巻く諸状況を指します。

図2を見てわかるとおり、部課長と部下が同じ状況におかれていたとしても、
部課長には部課長の文脈があり、部下には部下の文脈があり、
双方の文脈はまったく同じではありません。
なぜなら両者には問題意識の差や情報感度の差などがあり、部課長側が感じ取る文脈と、
部下側が感じ取る文脈にはズレが出て、それぞれのものになるからです。

部下とのコミュニケーションに優れた上司は、
部下が感じ取っている文脈がどんなものであるのかまでをも含んで文脈を読み取り、
やりとりをします。いずれにしても、
部課長として部下に「何を・どう語る」のかは、こうした文脈の上にしっかり乗っていなくてはなりません。

〈2〉語るべき内容を持ち
コミュニケーションの核となるのは、何と言っても「語るべき内容・伝えるべき中身」です。
部下を動かしたり、部課長が信頼されたりするのは、
最終的にはその部課長から「何が語られたか」なのです。

ビジネス現場にはあらかじめの正解値がない問いばかりです。
そんな中で、対話力のある部課長とは、どんどん自分の考えることを部下にぶつけます。
そして、部下はそれに刺激を受け、自分なりに考えることを始めます。
部課長の「語るべき内容」の量と質に応じて、部下は何らかの反応を示すものです。
そして部下からの反応と、部課長の考えとを戦わせながら、
第三の答えを未知の中につくりだしていく、これがよい対話がなされている姿です。

〈3〉もろもろの振舞いを通して
コミュニケーションにおいて、語るべき内容は発信者側のいろいろな行為によって相手に伝えられます。
相手と直接対面しながら口頭で話しをする、これは最もわかりやすい行為の形ですが、
対面せずとも言いたいことを伝える形もあります。
手紙やメールがそれです。

また、話しをしたり、文面で伝えたりといった言語的な形もあれば、
無言でつくる顔の表情や真剣になって取り組む背中など、
非言語的な形でこちらの気持ちが伝えられることもあります。
そのようにコミュニケーションは発信者自身の心情や人柄、人格までもが滲み込んだ
振舞いによって届けられるのです。

◆対話とは「正・反・合」の共創作業である
コミュニケーションの中で、最も建設的で、しかしながら最も根気を要する形が「対話」です。
対話を本記事なりに定義すれば、
「考えていることを真摯に開き合い、
互いが当初よりも高い次元の考えにたどりつこうとする語り合い」となるでしょうか。

ジャーナリストの立花隆氏は次のように書いています。―――
  「会話というのは、それ自体が一つのダイナミックな過程であり、
  対話者同士のインターアクションによって展開していくものである。
  弁証法(ディアレクティケー。もともと対話術の意味)的に会話をうまく展開させられれば、
  それはインターアクティブであることによってより高次元の認識に達することができる過程となる」。
   (『二十歳のころ』より)

ここで出てきた「弁証法的な発展」とは簡単には次のようなことです。
一方に〈正〉という考えがあって、他方に〈反〉という考えがある。
その双方が議論を重ねて、〈合〉という「第三の知」を新しく生みだすこと(図3)。


Bkc2c


上司と部下との対話もまさに「正・反・合」の共創です。
別に表現すれば、「1+1=3」です。

つまり、上司が「1」という自分の考えを差し出し、
部下も「1」という考えを差し出す、あるいは上司が部下の「1」を引き出して傾聴する。
そして新しい気づきである「3」を互いが得る。

対話とは単に双方が気休めで座談しているものではありません。
高次元の結実を求める意志的な協働なのです。
そしてこの協働によって生み出される「第三の知」こそ、
組織文化の源となり、環境変化に対応していくための推進力になるのです。

◆互いの「べき・はず論」を超えて「共有目的」を置く
対話が重要な作業であるのは誰しも感じることなのですが、
上司と部下において、なかなかこれができません。それはなぜでしょうか?―――
それは図2でみたとおり、
上司には上司の文脈があって、上司はそこに乗ってコミュニケーションをしようとし、
一方、部下には部下の文脈があって、部下はそこに乗ってコミュニケーションしようとするからです。

たいてい両者の文脈にはズレが生じていて、
そのズレが大きければ大きいほど対話はかみ合わなくなります。
上司も部下もそれぞれが自分の「べき論・はず論」を前面に立てていて、
歯車が共創回路に入らないのです。

では、どうすれば対話がかみ合い共創回路に入りやすくなるのか。
―――それには「共有目的」(Common Purpose)を設定することが必要です。

会社という全体組織にしろ、部課という小単位の組織にしろ、
それはいろいろな背景をもち、いろいろな考えや性格をもった人びとが、
たまたま居合わせるようになったモザイク的な集団です。
そんな人びとの集団の中で、雑談を超え、会議を超え、命令を超え、
対話が起きるためには目的が欠かせません。
同じ目的を見晴らし、その目的実現のために組織はどうあるべきか、
各人は何をすべきかと考えるとき、対話は起こりやすくなります。
つまり、図4のように、上司も部下も互いの文脈の中に、共有する目的を置ければいいわけです。

Bkc2d


ここでさらに重要なことを言います。―――「目的」とは何でしょうか?

目的は「目標」とは違います。
図4において、「共有目的」の箇所を「共有目標」と置き換えてはいけないのです。
共有目標の下には対話は起きません。下手をすると分裂すら起きます。

目的と目標の違いは、端的には「目的=目標+意味」によって表わされます。
つまり、目標とは単純に目指すべき方向や状態を言います。
目的はそこに意味や意義が付加されたものです。

目標はある種、冷徹なもので、定量・定性的に表わされ、ひたすらそれを達成することが求められます。
ですから、上司と部下が「共有目標」を間に置いてコミュニケーションをするとどうなるか?
―――両者の関心は、もっぱらそれを達成する手段や方法論に偏り、
最終的にはその目標が「できる・できない」について神経を尖らせ合うという結果を招きがちです。
そこにはもちろん対話は生まれません。
最悪の場合、「給料をもらいたんなら、つべこべ言わず目標をクリアしろ!」と、
上司が一喝して終わりということにもなりかねません。

一方、上司と部下が「共有目的」を間に置いてコミュニケーションをするとどうなるか。―――
両者の関心は
「なぜ、我々はこの目標を成し遂げる必要があるのか?」
「我が社・我が部が行う事業の意義は何なのか?」
「その意義に照らし合わせてみて、現状の目標が適切なのか?」
「この目標を達成することは自分自身のキャリアにとってどんな意味があるのか?」
といった観点になる。そこには、意味創出のための対話が必然的に起こってきます。

共有目的とは、分かち合える理念やビジョンと言い換えてもいいでしょう。
いずれにしても、このことを部下とともに語らおうとすれば、
部課長はしっかりとした「観」を自身の中に打ち立てておく必要があります。
なぜなら、目的は意味論・価値論をベースに語られるものだからです。

◆部課長の対話こそ組織の自律的成長の起点
このように対話を行うことは、部課長にさまざまなことを要求してきます。
文脈を読むこと、語るべき内容を持つこと、
そのために観(仕事観、人財観、キャリア観、組織観、社会観)をつくること、
そして部下と目的を共有し、さまざまな振舞いを通して語ること―――
さて、こうした対話の起こせるベースをきちんとつくっている部課長が、
あなたの組織にどれくらいいるでしょうか?

指示・命令がうまくできる部課長がいるかもしれません。
客観的で冷静に部下を評価できる部課長がいるかもしれません。
気さくに冗談を飛ばして人気のある部課長がいるかもしれません。
しかし、腹応えのある対話のできる部課長は少ないものです。

しかし、この対話のできる部課長こそ、組織を自律的にさせるために不可欠な存在なのです。
なぜなら、対話とは上司の「1」と部下の「1」をぶつけ合って、
「3」を生み出す作業だと書きましたが、この「1+1=3」こそ、
その組織の自律的な成長プロセスにほかならないからです。

日ごろの職場で、主観的な想いぶつけながら部下に思索・啓発を促し、
部下とともに目的を語り、対話の中から進むべき解を探り出していく部課長が
1人1人増えていくことこそ、個と組織が強くなる確実な道のりなのです。



2010年8月 4日 (水)

部課長の対話力〈1〉~上司の対話が個と組織を強くする

Bukachobk 
きょう版元さんから8月11日発売の新著が届いた。

『個と組織を強くする部課長の対話力』
(ディスカヴァー・トゥエンティワン、1500円+税)

今回の表紙は装丁デザイナー・中村勝紀さんのこだわりもあり、
銀の特殊紙に黒のシルク印刷をかけるという手の込んだもの。
質感がとてもよい。
今後、書籍販売の主戦場は電子出版に移っていくことは確実だが、
どこまでいってもこうした手触り・目触りのある実物の本というものはなくならない。
書籍とは本来、
「情報の中身(コンテンツ)×デザイン×製本」で完成するパッケージ商品なのだ。


 

◆いま職場に「対話」があるだろうか!?
世の部課長(組織でいわゆるミドルマネジメントにあたる人びと)に対し、次の問いを発したいと思います。

□日本の働く現場では多くが疲れている。
確かにマクロの眼で見ると「経済のグローバル化」や「企業の利益至上主義」
「成果主義」が要因となって労働者を消耗させ、
職場のギスギス化を促進させているように説明がつく。
しかしその前に、ミクロの眼で見て、
部長や課長は職場で1人1人の働き手に語りかけることをしているだろうか?

□「大学新卒入社者は最初の3年で3割が辞める」、
「離職理由の4割が能力適性と配属とのミスマッチであるらしい」といった調査データを眺めて、
「我慢をしなくなった若者を扱うのは難しい時代だな」と静観することは簡単である。
しかし部長や課長は、
ある日突然「会社を辞めたいんですが」と言ってきた社員に、
それまでの日頃、彼(彼女)とどんなコミュニケーションを交わしていたのだろう?

□世の中は戦略ブーム、知識ブーム、変革ブーム、制度ブームである……
しかし、組織を本当に変えるために、
そもそも経営者と働き手、上司と部下の間にどれだけの対話があっただろうか?

□「近頃の若者は○○できない」「最近の新入社員は○○が弱い」といった
イマドキの若者論はいつの時代にも年長世代の口から漏れてくる。
しかし、同時に耳を澄ませば、こんなことも漏れ聞こえてきはしないだろうか?―――
「いまどきの部課長は保身に走っている」「いまどきの上司の背中は貧相だ」
「最近の中間管理職はトップからの命令と数値目標を現場に下すだけの伝書鳩管理職だ。
みずからの言葉で真正面から何かを語ってくれたためしがない」。

□部課長たちは研修やセミナーでコミュニケーション術の習得に熱心である。
しかし、ピーター・ドラッカーはこう言っている。
―――「どのように話すかという問題が意味を持つのは、何を話すかという問題が
解決されてからである」
(『プロフェッショナルの条件』より)と。
そう、術・スキルをうんぬんする前に、
部課長たちは「語るべき何か」をどれほど豊かに内面に湛えているだろうか?

□確かに部課長は日頃の職場で、業務指示や目標徹底など通知すべきことは多く抱えている。
しかしそれら命令や情報とは別に、
「仕事とは何か? よりよく働くこととは何か?」のような誰もが抱く根っこの問いに対して、
どれだけ多くのことを肉声で語っているか、あるいは、語れるだろうか? 
そしてそもそも、部長や課長は一職業人として、
語ることのベースとなる「観」をどれだけ堅固に持っているのだろうか?

* * *

……私もサラリーマンを辞めたときは、ある大きな企業の中間管理職をやっていました。
中間管理職というのは、組織の中で実に雑多な情報が行き交うポジションであり、
またそれらを適切に処理し、部署を動かさなくてはならない役目にあります。
したがって、部課長は日々大量のコミュニケーションを行っています。
書類のやりとり、電話・メールのやりとり、会議での発表や討論、取引契約の交渉、
接客での説明やプレゼンテーション、仕事合間の世間話など。

さて、そこで振り返ってみるとどうでしょう、その中で「対話」という形式を使った
コミュニケーションがどれくらいあるか?―――ほとんどないことに気がつくでしょう。

社内で行われるほとんどは、 「指示・命令系」 もしくは
「議事系(会議・討議)」 のコミュニケーションです。
あと 「渉外系(商談・折衝)」 「雑談系」 があって、
そして稀に 「対話系」 が混じってくるという具合です。
部長・課長が自分の部下に対して、思索や啓発を促す対話を行ったのはいつのことでしょうか? 
一週間前? 半年前? 一年前? それともその類のことはやったことがない? 
もっとも、対話であると思っていたものは、一方的なお説教であったり、
単なるガス抜きの談話であったりする可能性もあります。


◆対話とは「1+1=3」の共創作業である
いま組織内で対話が決定的に欠乏しています。
そして何についての対話が欠乏しているかといえば
「仕事とは何か?」という万人の働き手が持つ大きな問いに対する対話です。

「仕事とは何か?」という問いには、
 働く目的とは何か? 
 企業も個人も結局は利益・給料のために働くのか? 
 どうすれば働きがいが見出せるのか? 
 同じ仕事をやっても労役と感じる人間と朗働と感じる人間と差が出るのはなぜか? 
 仕事の最良の報酬とは何か? 
 会社と個人は主従関係なのか? 
 自律的に働くとは具体的にどういうことか? などさまざまな内容を含みます。

もちろんこうした問いに決まり切った正解値はありません。
変化が激しく、常に数値目標が覆いかぶさるビジネス社会にあって私たちがしなければならないのは、
こうした問いに対し、動機の湧いてくる解釈、状況を切り拓く自律性、
変化に押し流されないための観をつくり出していくことです。
そして、それは対話によってこそ可能になるのです。

対話とは、双方が真摯に心を開き、
意見や観を交換し、「1+1=3」という新しい次元にたどり着こうとする共創作業です。
その意味で、漫然と話を交わす会話とは異なります。

対話とは、上司は経験から獲得した「1」を差し出し、
部下は未熟ではあるが熱のある「1」を差し出し、
そこから「3」を生み出す意欲的なチャレンジです。

組織はいくら立派な戦略を立てても、その戦略意義を対話を通して
一人一人の働き手に咀嚼させないかぎり、その戦略は有効に実行されません。
そればかりか逆に、ますます現場を疲弊させることを招きます。
また、組織がいくら立派な理念を標榜したとしても、
その理念を対話を通して一人一人の働き手に共感してもらわなければ、
単なるお題目に終わってしまうでしょう。
さらに、組織はとても立派な制度改革をやりますが、
その導入目的を対話を通して一人一人の働き手に納得してもらわなければ、
「仏作って魂入れず」となり制度だけが空回りします。

◆なぜ部課長は対話を起こさないのか
そうした対話の重要性は経営者も管理職もたぶん感じていることでしょう。
しかし、現場の部課長たちは「仕事・働くこと」といった重い直球のテーマについて、
どことなく対話を避けている、もっと厳しく言えば逃げてはいないでしょうか。
それはなぜでしょう。

○「そんなテーマの対話などよそよそしくてできない・気恥ずかしい」
……上司というものは、業務の指示・命令なら部下の心理にズカズカと強気で
入り込んでいくのに、こうしたことになるととたんに引っ込み思案になってしまう。
それは都合のいい臆病ではありませんか。
確かに最初は照れくさい部分があるでしょう。
しかし、働くことを上司と部下が真正面から論議することは当然のことといった雰囲気で
勇気をもって始めてください。
対話が習慣・文化となれば、もはやよそよそしいものでなくなるのです。

○「忙しくて時間がない」
……部下との対話は彼らの動機付けであり、育成であり、組織の文化づくりであり、
活性化であり、これらは中間管理職としての業務そのものです。
業務そのものが忙しくてできませんというのはどういうことでしょうか。

○「対話するエネルギーが湧かない」
……世の部課長が疲れていることは知っています。
対話には相当のエネルギーが要るのでこれ以上しんどいことをやりたくないのは当然でしょう。
ですが考えてみてください。対話のない冷めた組織を率いていくのと、
対話によって活性化した組織を率いていくのと、
結果的にどちらが使うエネルギーの量と質が自分にとってよいものなのかを。

○「どう対話していいか方法がわからない」
……おそらく方法がわからないのではなく、語るべき何かを持っていないのでしょう。

○「何を語っていいかがわからない」
……おそらくご自身の内に
仕事・働くことに関する確固とした観や哲学が打ち立てられていないのでしょう。

○「堅苦しい対話ではなく、酒の席でいつも気持ちを聞いてやってるので大丈夫」
……飲みュニケーションはときに有効です。
が、酒の力を借りなければ本音が言い合えない組織は問題ですし、
部下のすべてが酒席を好むわけではありません。

○「コーチングを勉強して、それをうまくやれればと思っている」
……コーチングはときに大事な技術です。
しかし、「答えは君の中にある」という投げかけに頼って逃げようとしていませんか? 
コーチングは部下の持つ「1」を掘り起こしてあげる手伝いです。
対話は「1+1=3」の共創作業です。
コミュニケーションの種類が違います。
上司が自分の「1」をぶつけられなくてどうするんです。
上司がぶつけないかぎり、「3」は生み出されないのです。

○「経営者が魅力的な戦略もビジョンも出さないから、対話の材料がない」
……経営者がダメだからと理由づけしているあなたの下には、
たぶん「うちの部長・課長がダメだから」とやる気を起こさない部下が何人もいることでしょう。

部課長たちがこうして部下との対話を逡巡している間に、
職場のギスギス化はどんどん進んでいます。
「仕事・働くこととは何か?」という根っこにある大きな問いを上司も部下も放置すればするほど、
職場は「所詮、カネ稼ぎのための辛抱場所」という殺伐とした空気が濃くなっていきます。
ギスギス化の要因を成果主義の導入や経済のグローバル化による利益主義と
片付けることは簡単です。
しかしマクロからああだこうだ言うだけでは事態は改善に向かいません。
ミクロ、つまり一人一人に語りかけることからのアプローチが絶対的に必要なのです。

◆部課長の対話する力――それは組織にとって重大な分岐点である
企業を強くする源は何でしょうか? 
技術力、資本力、事業理念、経営者の指導力、組織風土、優秀な人財を集めること……
それはさまざまに考えることができますが、
私は「部課長の対話力」を無視してはならないと思っています。

企業を強くするものを源まで突き詰めていくと、
「働くことは厳しいけど奥が深い。もっと働くことにチャレンジしよう」という
個々の働き手のアクティブな就労意識と、
「この事業を通し社会で求められる存在になる」という組織の理念意志が相互に絡み合う状態です。
この個と組織の有機的反応を促進するのが、ほかならぬ「対話」です。

部課長がよき対話を起こしている組織は、
仕事の厳しさを個人の成長と組織の発展に変えていくことができます。
逆に対話をなくした組織は、個がどんどん心に余裕を失くし、
自分のことで精一杯になります。結果、組織は砂漠化し弱体化します。
その分岐点に存在するのは間違いなく部課長なのです。

「仕事とは何か?」を部下と真正面から対話すること―――
部課長はこれを腫れものに触るような感じで避けるのではなく、
勇気をもって仕掛けねばなりません。
個と組織を強くするための「部課長の対話力」―――このテーマにつき
以降数回にわたって考察していきます。


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