「いただきます」は “生命を”いただくこと
このところの東京はさすがに本格的に冬が来たとあって
明け方は霜が降りるまで冷え込むようになった。
朝から冷たい雨が降って、鈍曇りの日中、気温は1ケタ台。
そんな日に近くの畑で撮ったのが上の一枚だ。
野菜の種類には詳しくないので名前は分からないが、
凛としたその青菜は、凍える中でも生命力を漲らせ鉛色の空に葉を広げていた。
生長の具合からすると間もなく土から引き抜かれ、出荷されるのだろう。
そして私たちはこれらの野菜を店頭で買い、食する。
そのとき私たちは、単にその野菜の成分・栄養価を食しているのではなく、
その野菜の“生命(いのち)”を食している。
言いかえれば、他の生命と引き換えに、自分の生命を継続させている。
このことは、生きている間じゅう、ずっと心に留めておきたい真実だ。
私たちは、食前に「いただきます」と言うことを教わった。感謝の心を表すために。
もちろんその感謝は、
食材となる動物や植物を育ててくれた生産者への感謝がある。
そして運んでくれた人・加工してくれた人・売ってくれた人への感謝がある。
また、料理してくれたお母さんか誰かへの感謝がある。
あるいは、食べ物を買うお金を稼いでくれたお父さんか誰かへの感謝もあろう。
しかし、もっとも忘れてならないのは、
生命をくれた動物や植物に対しての感謝である。
中国の田舎に行った知人から聞いた話だが、
彼は滞在先の家庭で晩ご飯の手伝いをすることになった。
家の人から頼まれたのは、裏庭で飼っているニワトリを絞めること。
結局のところ、彼はどうとも手伝うことはできず、
ただただ家のお父さんが事も無げに絞めるのを見るだけだった。
さっきまで粗暴に逃げ回っていたニワトリが、いまは、
くてっと地べたに倒れるだけである。
その口を開けた醜い形相が目に焼き付いて、
その晩は何とも鶏がおいしくなかったそうだ。
私も同じような経験がある。
あるアウトドアのイベント(炭焼き会)をやっていたときのことだ。
協賛者の方から、大きなビニール袋に入れた活けイワナだったかヤマメだったかの
粋な差し入れがあった。全部で30匹ほどいて、
それを串刺しにし、炭火で焼いて皆で食べることになった。
私ともう一人のスタッフが、次々に生きた魚を取り出して竹串に刺していく。
小振りで弾力のある身と、はち切れんばかりに動くエネルギーを掌で感じながら、
口から串を入れる。串が喉元を通り過ぎて、
手応えのある腸(はらわた)に入ろうとするとき、魚は「キュッ」という音をあげる。
時おり、串の入れる角度を誤ると入りが悪くなり、
再び串を喉元に戻して入れ直すのだが、
魚は一度目よりは小さいが二度目の「キュッ」という音をあげる。
それは断末魔の声であるにちがいなかろうが、それは今も耳に焼き付いている。
全部で十何匹を引き受けたが、途中で慣れるというようなことはなく、
1匹1匹に祈りめいた念をかけながら串刺ししていた。
(小魚の殺生でこうなのだから、戦場での人間同士の殺生は想像を絶する)
(と同時に、屠殺を生業としている人のことを思いやる)
アメリカの昔の映画では、食事前にテーブルで祈りを捧げるシーンがよく出てくる。
これは時代を問わず、宗教を問わず、失ってはいけない精神だと思う。
食前に「いただきます」の念を込める、
ご飯茶わんのお米を最後の一粒まできちんと食べる、
これらは生命をくれたコメに対する最低限の感謝の行為なのだ。
もっと言えば、その吸収したエネルギーで「よい仕事」をアウトプットすること、
これこそが最大の感謝である。
コメもみずからの生命が、人間様のよい仕事に変換されれば本望だろう。
だから私も、
今晩食べたブタや大根、ニンジン、昆布などに最大限の感謝をしようと
この原稿を一生懸命書いている。 -合掌-
(続く)