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2011年7月

2011年7月29日 (金)

十分暗くなれば人は星をみる


Natsu yzora 


朝晩の散歩を日課にしていると、季節の移り変わりにいやおうなしに敏感になる。

太陽の位置と角度が日一日と変わるので、地球の公転具合がよくわかる。
でも、自分がもし天動説の時代に生きていたなら、
この空の太陽や星の動きをみて、地動であることを感づいただろうか―――。

不思議なことに、冬から春にかけての変化は、朝のほうがよくわかる。
逆に、夏から秋にかけての変化は、夕方のほうがよくわかる。
7月も末になり、セミが鳴き出したきょうこのごろ、残暑の波はまだまだこれからだが、
夕暮れの多摩川にはすでに秋の気配が忍び込んでいる。

私は、燃える西の空が紅から茜に無限のグラデーションで変わっていく時間帯も好きだが、
むしろ夕焼けが色落ちするのに合わせて、
東の空から墨汁を含んだ藍鉄色が勢力を増して空を覆ってくる様子を
じっとたたずんでみているのも好きだ。
やがてその藍鉄色の中に月や一番星が浮かんでくる。

「星」が出てくる言葉で私が心に留めているものは、


   「十分暗くなれば、人は星をみる」。
    “When it is dark enough, men see the stars.”  
────Ralph Waldo Emerson


この言葉はサラリーマン時代から何となく書き留めていたのだが、

リスクを負わず安定した会社員生活をやっているときにはあまりぴんとこなかった。
そして独立して8年間が経ち、
折々にこの言葉の奥深さが感じられるようになった。

大企業のご威光と資金力のもと、白昼の明るさの中で豪勢に仕事をやっていたのとは一転、
独立すると辺りはすーっと暗く恐ろしく静かになる。
大企業の名刺でつながっていた人たちは音沙汰がなくなり、
不安定やら、不透明やら、不遇やら、不発やら、不調やら、不信やら、不得やら、不具やら
が身の周りを覆い、独り丸裸で野宿をするような環境になる。

まずは衣服になるものを探さなきゃ、火を起こさなきゃ、
食うものを手当てしなきゃ、雨風をしのぐ小屋をつくらなきゃ、と日々の仕事に没頭する。
そんなときに空を見上げると星がぽつりぽつり薄く輝いているのが見える。

個人として独立して何の信用も実績もない状態になると
かえって本当の友人、本当の協力者、本当の共感者が見えてくる。
暗いなかでこそ、人はものがよく見えるし、よく見ようとする。
そして見えてきたものの美しさやありがたさがよくわかる。

まぁ、そうして見えてきた星の美しさは美しさとして、
自分としてはいつまでも夜空を眺めているわけにはいかないので、
いつかは自分が星となり、あるいは太陽となって
夜を終わらせる気概をもって仕事に向かっている。

さて、2つめの言葉───


    「目を星に向け、足を地につけよ」。
     “Keep your eyes on the stars, and your feet on the ground. ”
                          ────Theodore Roosevelt


これの変形判で思い出したのが、
「しばしばつまずいたり転んだりするのは、星を見ながら走っているから」。
最後にもうひとつ───


   「星をつかもうとして手を伸ばしてもなかなかつかめないかもしれない。
    だが、星をつかもうとして、泥をつかまされることはないさ」。
    “When you reach for the stars, you may not quite get one,
     but you won't come up with handful of mud either. ”   ────Leo Burnett


レオ・バーネットは1950年代の米国消費社会を牽引した広告クリエーターの大物。

彼の言葉で気に入っているもうひとつは、

“I am often asked how I got into the business. I didn’t. The business got into me.”
「よく訊かれるんだ、どうやってビジネスに入り込んだのかって。
いやぁ、俺は入り込んじゃいないよ。ビジネスが向こうから入り込んできたんだ」。

バーネット自身はすでに他界したが、
「レオ・バーネット・カンパニー」という広告代理店はいまなお健在。
同社のウェブサイトは一見の価値あり。


 

2011年7月20日 (水)

You, imagine !


昨日、アカデミーヒルズ(東京・六本木)のセミナーに参加しました。

「Power of Social Business:世界を変えるソーシャルビジネスの力」
と題されたセミナーのメインスピーカーは、
バングラデシュでグラミン銀行を創設し、
2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏でした。

第1部のユヌス氏の講演が終わり、
第2部は一橋大学院の米倉誠一郎教授が入って質疑応答。
そこで面白かった場面を紹介しましょう。
(会場のやりとりはすべて英語でしたので、厳密でない部分もありますが)

会場から3番目か4番目くらいにあがった質問で
「ユヌスさんの先ほどのお話で、
誰しもが社会起業家(ソーシャル・アントレプレナー)になれるとありましたが、
私たち1人1人はどうすることが大事でしょうか?」
と、そんなような意味の質問が出された。

それに対し、ユヌス氏が答えたことは───
“Imagine. Imagine the world you want to change.”
「想像することです。あなたが変えたいと思う世界を想像してください」。

その一言が発せられたときに、横にいた米倉教授が、
質問者の男性のほうに腕をすっと伸ばし、人差し指を突き出して
“You, imagine ! ” (あなたが、想像するんですよ)
“And you and you, and you.” (そして、あなたも、あなたも、あなたもね)
と、会場のあちこちの聴衆に向かって、人差し指を突き出しました。
……この米倉教授の突っ込みというか、フォローというか、見事な所作でした。

そう、想像するのは、ほかの誰でもない、私たち1人1人なのです。
私たち1人1人が、きちんと理想の姿を想像することからよき変化は起こるのです。
ややもすれば、こういう大きなことを成し遂げた人のセミナーへ行くと、
「ああ、いい話が聞けたなぁ。でも自分とはどこか別次元のことだなぁ」
と、無意識に距離を置いてとらえていることが多い。
それに「You can change the world」なんていうフレーズは、
流行り歌にも出てきて、耳触りはいいけれど、すぐに頭から抜けてしまう言葉でもある。

そんなときに、
“You, imagine !  And you and you, and you.” という覚醒の指差しはとてもよかった。
会場の雰囲気も「あ、あっ、そうか、自分が、なんだ」という空気が流れ、
なごやかな笑いが起こりました。

私の好きな言葉に、ウォルト・ディズニーの次のようなものがあります───

「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」。
(If you can dream it, you can do it.)

想い描かなければ、何も始めることはできないのです。


 

2011年7月15日 (金)

新連載スタート  「曖昧さ思考」


以前、本ブログで「ソリッド思考・ファジー思考」を書きました。

この記事を発展させ、「曖昧さ思考トレーニング」として、
ビジネス雑誌『THINK!』 (東洋経済新報社) で連載を始めることになりました。

THINK 11smr 
                『THINK!』 2011年夏号38号


この連載のリード文で私は次のように書いています―――

  「分析的に論理的に、具体的な解決に向かって直線的に、明瞭さをもって考えることは重要である。しかし、綜合的に直観的に、抽象的な問いに向かって非直線的に、曖昧さをもって考えることは、それと同じくらい、いやそれ以上に重要である。なぜなら、本質的なことはいつも曖昧さの奥に潜んでいて、それをつかみ取るには後者の思考が不可欠だからだ。本連載はそうした曖昧さを相手としながら、曖昧さをもって強く考えることを訓練するシリーズである」。


私は企業の研修現場で(これは学校の教育現場でも同じだと思いますが)
もうほんとうに人びとの抽象的に考える力がどんどん弱っていることを痛感します。

私たちは大人になるにしたがって、
「子どものころの受験教育には問題が多かったな。
記憶力試しの学習、型にはめこんで解を導きだす学習ばかりでなぁ」……
などと批判をこめて回顧します。
しかし、その当人たちが職業人となりビジネス現場に出てどうなるか。

やはり学ぼうとすることは、もっぱら業務処理のハウツー(技能・知識)であり、
自腹を切って読もうとする本は、
能率・即効性を謳う直接的・具体的な実用書に偏ります。そのために書店には
「○○するための成功法則」
「速習!3分で読める財務諸表」
「7日間で人生を変える●●魔法の習慣」といったようなタイトル本が並びます。

また、ロジカルシンキングやフレームワーク思考が流行りですが、
その習得ぶりを観察していると、本来の目的を外れて、
ただ単にものを単純化して能率的にラクに情報を処理するという姿に陥っている
ところがあります。

書店に並ぶマニュアル的実用書、ロジカルシンキング、フレームワーク思考が
悪いと言っているのではありません。
世の中あげて、
具体的に効率的にものごとを処理するのが“賢い人間”“デキる人間”とされ、
内省とか、観を研ぎ澄ませるとか、曖昧な大きな問いに頭を巡らせるとか、
そういった抽象的思考がいっこうに見向きがされず、奨励もされず、
読解に力の要る骨太の本がますます書店から姿を消しています。
私が言いたいのはバランスです。

抽象的に曖昧に考える力を鍛えて本質に迫っていけばこそ、
具体的に明晰に考える力も真に生きてきます。

昨今の具体的・明晰的思考は、
物事をラクに考え、効率的に流したいという心理や
少し理知的でカッコイイという心理と合わさっていることが多く、
表層的な術の部類になっているように見受けられます。そう考えると、
結局、職業人となってやっている学びも「お受験勉強」と本質的には変わりがない。

私はキャリア教育という分野から企業研修の現場に入り、
「なぜこの仕事をやるのか? なぜこの会社なのか?」
「働くことの目的(意味)は何か?」
「よい仕事の“よい”とはどういうことか」
「自律的とはどういう状態か? 自立的とどう違うのか?」
「プロフェッショナルの“プロフェス(profess)”とは何を宣誓することか?」
「あなたの仕事観の“観”はどのようなものか?」……
といったような、まさに曖昧模糊とした大きな問いを受講者に投げかけています。

これらの問いには唯一無二の「正解値」がなく、当然、答えが出る公式もありません。
こうした働き方(様)・生き方(様)に関わる問いは、
価値・意味、思想・哲学の次元にまで思考を上げていくことを求め、
抽象的な霧のなかで漂流することを強要します。

私が曖昧に抽象度を上げて考えることのもっとも大事だと思う点は、
その過程が「本質をつかむ」作業にほかならないということです。
本質は常に曖昧さのなかに潜んでいます。
曖昧に考える力がなければ、本質は永遠につかめません。

人生・キャリアを生きていくにせよ、
複雑で難度の高い仕事をするにせよ、
本質をつかめるかどうかは決定的に重要です。
そのために今回このような企画をやってみようということになったのです。
『THINK!』編集部もその意義と試みを大いに評価していただきました。

さて、連載の第1回目は

「なぜいま曖昧さ思考なのか~思考を抽象化しなければ独自で強い発想は生まれない」

として総論的な考察から始め、
その後4回にわたり
「曖昧に考える力」を養う誌上演習を行います。

 ・第2回:曖昧なことを「定義化する」
 ・第3回:曖昧なことを「モデル化する」
 ・第4回:曖昧なことを「比喩化する」
 ・第5回:曖昧なことを「マンダラ化する」

是非、誌面でお会いしましょう!


 

2011年7月 8日 (金)

留め書き〈022〉~芸術家を殺すな


 Tome023 
 

                            「よき描き手を殺すなんてことは簡単なことさ。
                            大勢が無視さえすればそれでいいんだ」


* * * * * * *

「豊かな暮らし」「成熟した社会」は、さまざまに定義ができるだろう。

私はその定義のひとつとして、
「絵を飾る暮らし」「芸術家を遊ばせる社会」を挙げたい。

量産消費財としてのモノが溢れる時代にあって、
モノには原価(コスト)・値段があり、機能・用益があり、
古くなれば新しく買い換えるという観念が私たちの頭にこびりついている。
そのために、モノを買うときには、
コストに見合った値段か、その機能は他品と比べてどうなのかを念入りに調べ、
買った後にはたいてい「やっぱり新しい商品はいいな。もっと買い換えようか」となる。

私にはたまたま画家の知人がいる。そのおかげで、
画家の個展を観にいき、絵を買い、絵を飾ることをしている。

絵とは不思議なモノで、
コストとは無関係に値がついているものであり
(そもそも絵にコストという概念を持ち込むことが誤り)、
機能・用益といえばおそらくインテリアとしてよさそうだとかそんなようなことだろうが、
実際はそれ以上の何かを感じて買っている。

よい絵はよい本と同じで決して古くならない。
自分の眼が成長すれば、それと一緒に味わいも深まってくる。

私たちは、絵の具の模様が乗った額布を買っているのではなく、
作者が美という真理に向かう過程での「もがきの跡」を買っているのかもしれない。
そのもがきというのは、
作者が長年努力して得た技術や、彼の揺れ動く魂を引き連れていて、
それがいやおうなしに絵に滲み出る(ときに、ほとばしり、舞い、薫る)。
その滲み出に感応してしまうとき、私たちは「ああ、いい絵だな」と息をこぼす。

いずれにせよ用益や値段では計れない、でも傍においておきたいモノ───それが画家の絵だ。
しかし、ある見方をすれば、
生活にあってもなくてもいいモノ───それが画家の絵でもある。
もっといえば、世の中にいてもいなくてもいい人種───それが芸術家だ。

しかし、量産消費財ばかりに囲まれた生活、芸術家の住まない世界はなんとも息苦しい。
「無用の用」ともいうべき絵や画家の生殺与奪の権を握っているのは、
ほかならぬ私たちひとりひとり。市井の生活者が(もちろん投機的な動機ではなく)、
「今度、本物の絵を部屋に飾ってみようか」と画廊に足を運ぶ風景がごく普通になる日本───

ふーむ、やってくるだろうか……(腕組み)。




Workingrm 
平田達哉「ながれ雲」(2010年)を飾る
 





2011年7月 3日 (日)

高台から自分を見つめるもう一人の自分をこしらえよ


故・長沼健さんは、往年のサッカーファンなら誰しも知る日本代表選手であり、
日本サッカー協会会長としてもご活躍された方である。
その長沼さんが書かれた
『十一人のなかの一人~サッカーに学ぶ集団の論理』 (日本生産性本部)の中に、
“ボールから一番遠いとき、何を考え何をしているか”という一節がある。


  「一試合で一人の選手がボールに直接関係している時間は、
  
合計してもわずか二分か三分といわれている。一試合が九〇分だから、
  ボールに関係していない時間が八七分から八八分という計算になる。
  ボールに直接関係しているときは、世界のトップ・クラスの選手も、
  小学校のチビッコ選手も同じように緊張し集中している。
  
技術の上下はあっても、真剣であることに変わりはない。
  ボールに直接関係していない時間の集中力が、トップ・クラスの連中はすごいのだ。
  逆にいえば、ボールに直接関係していないときの集中力のおかげで、
  いざボールに関係するときの優位を占めることができるし、
  もっている技術や体力が光を帯びることになるわけである。

  サッカー選手の質の良否を見分ける方法は比較的簡単だ。
  
ボールから遠い位置にいるとき、何を考え、どういう行動をとるかを見れば、
  ほぼその選手の能力は判断できる」。


* * * * *

ところで、いま、心理学の一分野である「メタ認知」の本を何冊か読んでいる。
メタ認知とは、自分が認知していることを認知することで、
いわば、現実に考え行動している自分を、
もう一人の自分が一段高いところから観察することをいう。

世阿弥は「離見の見」 (りけんのけん)・「目前心後」 (もくぜんしんご)と言った。
つまり、能をうまく舞うためには、
舞台を俯瞰できる場所に(想像上の)視点を置き、自分自身の舞いを客観的に眺めよ、
目は前を見ているが、心は後ろに構えておけ、と指南するのだ。
優れた舞いは、現実に舞っている自分と、
それを監視し冷静にコントロールするもう一人の自分との共同でなされるという奥義である。
世阿弥の伝えたことが、今日の心理学でいうメタ認知にほかならない。

メタ認知は、実は日ごろの仕事現場にも不可欠な能力である。
例えば、会議や商談などで「空気を読んで」適切な発言をすること。
これができるには、
その場の状況の流れを客観的な位置から感じ取るメタ認知能力が必要になる。
また、何か悪い出来事やストレス負荷のかかる状況に接したとき、
それをネガティブな思考回路にくぐらせず、ポジティブな解釈で対処するのも
メタ認知レベルの作業である。

さらには、他社の成功事例から学ぶケーススタディは、
その本質の部分を抽出して、自社に応用するという抽象化思考を行っているわけだが、
これもメタ認知活動のひとつである。
同様に、いま流行のクリティカル・シンキング(批判的思考)も、
視点を一段上げ、そこから情報の矛盾や真偽を明らかにしていくという点でメタ認知的である。

私は自分が行っているキャリア教育プログラムの中で、
「セルフ・リーダーシップ」というセクションを設けている。
セルフ・リーダーシップとは、みずからがみずからを導く(=自導)ことであるが、
これを説明するのに私は、
「現実の世界で迷い、悩み、揺らぐ自分を、
大いなる目的を覚知したもう一人の自分が導く状態」としてきた。
これはまさに、
セルフ・リーダーシップのためにはメタ認知能力が不可欠であることを言っている。

さて、冒頭の長沼さんの言葉。
結局、優れたプレーヤーというのは、
ボールが自分のところに回ってきたときだけ、
局所的・分業的に高度な技術を発揮できればよいと考える人間ではなく、
ボールがどこにあろうが、ピッチ全体を見渡す視点からゲームを眺め、
大局的な判断から献身的に、ときに犠牲的に動き回る人間のことだと言いたいのだろう。
やはりこれも、高台にいる想像上のもう一人の自分が、
ピッチでプレーする現実の自分と常に高速でやりとりをしながら、
瞬間瞬間にベストと考えるプレーを行っている姿である。

スポーツにせよ、芸術にせよ、そしてビジネス現場の仕事にせよ、
高台から自分を見つめるもう一人の自分をこしらえることは、きわめて重要な能力となる。
では、その高台のもう一人の自分をこしらえるためには、
具体的にどんなことが必要になるのか―――それは次の3つのことがあげられる。

1つめに、飽くなき向上心をもって理想の自分像を思い描くこと。
2つめに、関わるプロジェクトに関し、
大きな目的(何を目指すのか+なぜそれをやるのか)を持つこと。
3つめに、たとえ部分的に関わっていることでも、
全体の責任を担うという責任者意識、当事者意識、オーナー意識を持つこと。

これら3つを意識した高台のもう一人の自分は、
現実の自分を叱咤激励し、自分が予想もしなかった高みに引き上げてくれるにちがいない。





Skytree yakei 
「東京タワー」も「東京スカイツリー」も、
多くの東京都民にとっては“あえて”行こうと思わなければなかなか行かない場所。
ところが先日たまたまJR総武線の錦糸町駅に降り立ったら、なんと目の前にそびえていた。
東武線でしか行けないイメージがあり、少し遠いのかなぁと思っていたのだが、
錦糸町からでもこうして見られるのだから、ことのほか近いことを実感。
(写真はロッテシティホテルから)


 

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