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2011年11月

2011年11月24日 (木)

仕事のなかに「祈り」はあるか


Shosoinex
奈良国立博物館


◆正倉院宝物がもつ時空を超える力
今月初旬、奈良出張に合わせ、
折しも開催中の第63回『正倉院展』(奈良国立博物館)を観てきた。
私は平日の夕刻、閉館1時間前に行ったのだが、
それでも大勢の人で、どの展示ブースも黒山の人だかりだった。
(土日は入場待ちで90分ほどの行列だったという)

私は小学校の時から、奈良県へは遠足やら社会見学やらで何度も行ったが、
大人になってからの奈良はほとんど初めてといっていい。
大人になってから観る寺院や仏像、そしてこうした宝物(ほうぶつ)工芸品は
何とも新鮮で、驚きの再発見が絶えない。

展示物を観て感嘆するのは、その生々しさである。
1200余年を超えても、その物自体が発する息が聞こえてきそうな感じだ。
色、紋様、形状、構造、素材の質感、細部に至る技……
それらは現代のデザインと比較しても、まったく古臭くないどころか、啓蒙的ですらある。

天平文化がもつ大陸文化への憧憬と初々しさの残る国風文化との融合具合が Shoso tck03
えも言われぬ表現となって造形され、一品一品、
いま、21世紀に生きる私たちの目の前にある。
古人は何とも素晴らしい贈り物をしてくれたものだと
感謝をする。


さて、
これらの宝物は、なぜ、いまだ私たちを魅了する力をもっているのだろう───?
確かに、1200余年という時間が横たわっていることはある。
そして、ものづくりの卓越さもある。
(制作のための化学知識や技術は7世紀にしてすでに驚くべき水準をもっていた)

しかし、それ以上に私が感じたことは、作り手の「祈り」である。
一点一点の物からは、単に技巧的に美しく見せるという以上に、
人の真剣さや敬虔さ、畏怖の気持ちからしか醸し出てこないような美のオーラがあるのだ。

作り手は、
天皇という天上の存在を想い、
あるいは、仏(ほとけ)という最上の境地を想い、
一筆一筆、一刻一刻、一織一織に祈りを込めて作り、奉献した。

私は、作り手が制作という仕事のなかに無垢な「祈り」を込めたところが、
これらの宝物に時空を超える力を与える見逃してはならない要素だと思う。

◆「ゲームとしての仕事」/「道としての仕事」
さて、ひるがえって、
現代のビジネス社会に働く私たちには、仕事に「祈り」があるだろうか。

「仕事に、イノリ?」───
多くのビジネスパーソンにとってこれは突拍子のない問いかもしれない。

私たちはあまりにゲーム化され、巨大システム化されたビジネスのなかで働いているので、
競争や駆け引きに注力しなければならないし、
効率化や利益の最大化に長けなければならない。
そして、大きな組織・大きななシステムの部分を断片的に任されているので、
個人は、自分がどう組織や社会に貢献しているのか、
お客様とどうつながっているのかが、ますますわかりにくくなっている。
どうも私たちは「祈り」から遠い世界で働いているのだ。

仕事をカテゴリー分けするなら、
ひとつには「ゲームとしての仕事」がある。
ある種のルールと限られた資本の下で得点(お金)を取り合う───
企業もサラリーマン個人も、そんな「ゲームとしての仕事」に労力を注ぐ。
(そうして存続のための利益や給料を得ていく)

他方で、「道としての仕事」がある。
もちろん、私たちは生きるために稼がなくてはならないが、
それを第一の目的とするのではなく、
その道を究めることを最上位の目的に置く───
そうした意識で働いている人たちもまた世の中には少なからずいるのだ。

サラリーマンであっても、ある割合、「道としての仕事」を行うことはできる。
例えば、NHKのテレビ番組『プロジェクトX』はその一例かもしれない。
多少演出仕立ての面はあるだろうが、
彼らは自らの仕事を道として究めようと奮闘した。
あれを他人事と見過ごしてはいけない。
誰にも、目の前の仕事をあのように「プロジェクトX」化させることはできるのだ。

丸ごとの自分を没入できるプロジェクトを得た人は仕事の幸福人である。
仕事の幸福は、道を究めようとする過程にある。
絶え間なく精進するその過程において、
私たちは、自らがつくり出すその時点での最良の作品と対面できる。
道を同じくする師や同志との出会いがある。
そして何よりも、道のはるか先に見え隠れする「大いなる何か」を少しずつ感得し、
そこから大きな力を得ることができる。

その次元になると、不思議と人間は、小我にわずらうことが少なくなってくる。
道のもとに自分を十全にひらきたいと欲するようになる。
他者や社会のために自分の能力を使いたいと願うようになる。
それがつまり「祈り」ということだ。

◆「自己実現」とは何か?
私はここで、何か「シューキョー(宗教)」の勧誘をしているわけではない。
スピリチュアルな体験への案内をするつもりもない。
ただ、人間はそのようにできているということを言いたいだけだ。

小説家にせよ、画家、音楽家にせよ、彼らは、
「何かが自分に降りてきて、書かされた」とか、
「自分は“いたこ”状態だった」というようなことをよく口にする。
そうした無我の没入状態を、
心理学者のミハイ・チセントミハイは「フロー」と名付けたし、
アブラハム・マスローは「至高体験」と呼んだ。

マスローが出たところで、
彼が普及させた言葉───「自己実現」について、ここで触れておこう。
「自己実現」は、何でもかんでも自己中心的に、
「なりたい自分になる」「やりたいことをやりたいように表現する」というものでない。
マスローは、自己実現とは「最善の自己になりゆくこと」だとし、
こう付け加える───


「自己実現の達成は、逆説的に、
自己や自己認識、利己主義の超越を一層可能にする。
(中略)
つまり、自分よりも一段大きい全体の一部として、
自己を没入することを容易にするのである」。

                                                         ―――アブラハム・マスロー『完全なる人間』(誠信書房)


彼は、自己実現、つまり、最善の自己になりゆく先には、

自己を超越した感覚、大きな摂理につながる境地があると言っている。
自己実現とは、悟りのような宗教的体験のなかで行われるのだ。
したがって、彼は自己実現をする人は愛他的で、献身的で、社会的となり、
物事を統合的に包容できると言及している。

このことを2人の芸術家の言葉で補ってみたい。


「実用的な品物に美しさが見られるのは、
背後にかかる法則が働いているためであります。
これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。
他力というのは人間を超えた力を指すのであります。
自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、
凡(すべ)てかかる大きな他力であります。
かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。
なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。
これに反し人間の自由を言い張る時、
多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。
自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。

                                                                                                               ───柳宗悦『手仕事の日本』(岩波書店)



「少年時代から、自然を観察していることが多かった私は、
この世のすべてを生成と衰退の輪を描いて、永劫に廻ってゆくものとして捉えていた。
その力の目的や意義については何もわからないが、
静止でなく、動きであるために、根源的な力の存在を信じないではいられなかった。
一切の現象を、その力の発現と見る考えは、青年時代を通じて変らなかったようだ。
そのことが、あの失意と悲惨のどん底の時にも、
私を挫折させなかった原因の一つであろう。
(中略)
私は、いま、波の音を聴いている。
それは永劫の響きといってよいものである。
波を動かしているものは何であろうか。
私もまた、その力によって動かされているものに過ぎない。
その力を何と呼ぶべきか私にはわからないが───」。

                                                                                                            ───東山魁夷『風景との対話』(新潮社)


こうした言葉を「シューキョー臭い」「年寄り臭い」と思う人がいるかもしれない。
特に血気盛んな20代、30代は、
「何が他力だ。俺は自力でいく!」とか、
「“生かされる自分”って何か気持ち悪い。自分には自分の意思がある!」、
「摂理? 摂理のために自分は働いているんじゃない」、
といったふうになるかもしれない。私がまさにそうだった。

そう突っ張る人は、突っ張るほどの元気があって大いにけっこうである。
その元気さで、「MYプロジェクトX」なる仕事に没頭するといい。
それが結局、柳や東山の言葉に到達する近道になる。

◆祈りは心の震えの発露である
誰しも、本当に死にものぐるいで仕事に取り組んだとき、
深く意義を感じて職業に献身するとき、
「大いなる何か」につながる感覚、抱かれる感覚は必然的に生じる。
そのとき、「祈り」も湧いてくる。

この「祈り」は、
賽銭を投げて「宝くじが当たりますよーに」(ぱんぱん:柏手)の類の祈りとは違う。
そんなお気楽で都合のいい「おねだりの祈り」ではない。
震える心の奥底から湧き出す「やむにやまれぬ決意の祈り」だ。

「ゲームとしての仕事」が幅をきかせるビジネス社会にあって、
私は、そんな純粋な発露の祈りのもとに仕事に向かえる人が
一人でも多く増えればいいなと願うものです。

最後に、ゲーテ『ゲーテ全集1』(潮出版社)から───


「教えてほしい。いつまでもあなたが若い秘密を」
「何でもないことさ。つねに大いなるものに喜びを感じることだ」。


2011年11月21日 (月)

寝る前の30分間はテレビを消そう

Todaiji 01
奈良公園から東大寺大仏殿の金色の甍(こんじきのいらか)を望む




◆「孤の時間」をつくれ


「我々が一人でいる時というのは、
我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。
或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いて来ないものであって、
芸術家は創造するために、
文筆家は考えを練るために、
音楽家は作曲するために、
そして聖職者は祈るために一人にならなければならない」。

───アン・モロウ・リンドバーク『海からの贈物』


多くの現代人が無くしているもののひとつに、「孤の時間」があります。

ここで言う「孤の時間」とは、自分一人になって何かを思索する時間です。
(一人になって漫然とダラダラ過ごす時間ではありません)

特に若い人ほど、孤独な時間を怖がるようです。
あるいは、一人でいるのを何か友だちのないカッコ悪いこととしてとらえがちです。
しかし、孤の時間を豊かに持つことは、
友人・知人を多く持つことと同様に、人生にとって大切なことです。

歴史上のあらゆる偉業や名作には、
たとえそれが複数の人間の手で成されたものであっても、根本は、
一人の人間の「孤の時間」の中で芽生え、醸成され、決断された思考や意志が
決定的に必要だったのです。

「孤の時間」を持つために、私は2つのことを勧めています。
1つは、散歩すること。
もう1つは、夜寝る前の30分間はテレビを消して、
古典名著とか偉人伝とか大きな規模の本を読むことです。
週1日でも2日でも、こうしたことを習慣にしてみると、
3ヵ月もすれば自分が何か変わってくるのがわかるでしょう。
そしてそれは5年、10年、20年の時間でみると、
人生コースを変える大きな力になります。

思索といっても、眉をひそめながら何かを考え込むことでなくていいんです。
想いや願い、アイデアを自由に伸び伸びと巡らせることです。
何か答えを見つけようとするのではなく、
自分の思考空間が広がっている、深まっていることを楽しむことです。
そして静寂さを滋養に変える体験をすることです。
こうした祈りにも似た作業、思想の深呼吸をする暇(いとま)をもつことがいまの日本人には必要です。


◆「人とほんとうにつながる」ってことは何だろう


「僕らはたいてい、部屋にいるよりも、
人と交わっているときの方がずっと孤独である」。

                                      ───ヘンリー・デイヴィッド・ソロー『森の生活』


私たちは誰しも、人とつながりたい、つながりあっていたい、と願う。
だからパーティーへ行く、宴会も出る、集まりにも加わる、
ミクシィもやる、フェイスブックもやる、ツイッターもやる。

けれど、つながりの拡大に比例して
いっこうに気持ちがどっしりしてこないのはなぜでしょう。
それはそのつながりや交わりがほんとうのものでないからかもしれません。

じゃぁ、「ほんとうのつながり」って何だろう───?

それは少し月並みの答えになりますが、
「深いところで強くつながる」こと。

じゃぁ、「深く強くつながる」ためにはどうすればいいのだろう───?

それは「深く強く自分を突き出す」こと。

そのヒントは─── “Only is not lonely.”

「Only is not lonely.」は、
糸井重里さんが主宰するウェブサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』の表紙ページに
掲げられているコピーです。

「オンリー(唯一)であることは、必ずしもロンリー(孤独)ではない」
というメッセージには、味わい深いものがあります。
糸井さんはこう書いています───


「孤独」は、前提なのだ。
「ひとりぼっち」は、当たり前の人間の姿である。
赤ん坊じゃないんだから、誰もあんたのために生きてない。
それでも、「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」が、
リンクすることはできるし、
時には共振し、時には矛盾し、時には協力しあうことは
これもまた当たり前のことのようにできる。 (中略)

「ひとりぼっち」なんだけれど、

それは否定的な「ひとりぼっち」じゃない。
孤独なんだけれど、孤独じゃない。

───糸井重里「ダーリンコラム」(2000-11-06)より


個性のない人たちが群れ合って、尖がった個性や出るクイを批評し、
つぶすということが組織や社会では往々にして起こります。

また、孤独を怖がる人たちが、
やはり孤独を同じように怖がる人たちと、不安しのぎの結び付きをすることもあります。

しかし同時に、
「オンリーな人」たちが、深いところでつながって互いを理解し合い、
強く創造し合うということも起こります。
オンリーな存在として一人光を放とうとするとき、
真の友人が不思議と何処からか寄ってきます。
そしてオンリーであることを研ぎ澄まそうと一所懸命にもがいていると、
いつしか同じ志のネットワークのなかに自分がいることに気づきます。
こうしてオンリーは決してロンリーではなくなるのです。

残業の日々が続き、ふと帰宅途中に、月明かりの下で触れた街路樹の木肌のやさしさを
どうしようもなく文字にして書きつけたくなったとき、その人は、
宮沢賢治の詩とつながるかもしれません。
そしてそこでは、現代の物質文明をある距離から見つめ、
自然や宇宙からインスピレーションを感じている人たちが結び付きあっています。

周囲に蔓延する「しょうがない」「変わるはずがない」といったあきらめの空気のなかで、
一人立ち上がって事を起こそうと戦うとき、その人は、
マハトマ・ガンジーやキング牧師の生き様とつながるかもしれません。
そしてそこでは、世の中をよりよくしたいという情熱を持ち、
けれども多くの人の内にある保身主義、悲観主義の手ごわさを痛感している人たちが
心を通わせあっています。

大衆的な人気取りの芸術、権威に守られた芸術に抗うように
一人反骨の創造の炎を燃やそうとするとき、その人は、
岡本太郎の言葉とつながるかもしれません。
そしてそこでは、認められようが認められまいが、
自分の叫びを形に表そうとする人たちが勇気を与え合っています。

私たちは、深く強く自分自身を突き出すとき、
同じように深く強く生きた人たちと、時空を超えてピーンと交信ができます。

「あぁ、この人も自分と同じように、いや自分以上に、苦悩したんだ。

そして頑張ってる」───
こうした心の対話ができる関係が、“ほんとうにつながる”状態をつくる。

孤独は孤立を意味しない。
むしろ真の孤独を知った人どうしは、深く強く結ばれる。
そのために、私たちは、孤独にものを考える時間が必要です。

さて今晩、寝る前の30分間、テレビを消してみてはどうですか───。



Kofukuji 01
早朝に興福寺五重塔を歩く

 

 

2011年11月 7日 (月)

優れて抽象的な思考は 優れて具体的な行動を生む

Susuki hara


◆「具体的にわかりやすく」という危い傾き
私は企業の現場で研修を行ったり、本を書いたりすることを生業としている。研修担当者や出版社の編集者と内容について討議をするとき、いつもせめぎ合いになるのが、どこまで抽象的にやって、どこまで具体的にやるかという問題だ。
「本当に重要なことは抽象的にならざるをえないし、抽象的に考える習慣をつけさせることが真に受講者や読者のためになる。いや、それを超えて、組織や社会をよくするためのものになる」という(憂いを含む)思いの私。それに対し、「明日からの職場で活かせる具体的な行動例を示してやらないと受講者の満足度が上がらないんです」、「値段に見合う実効的なハウツー情報がないと本っていうのはなかなか売れていかないんです」と担当者・編集者。
もちろんその抽象と具体のバランスを取ってよい内容に仕上げるのが私の仕事なので、その努力は惜しまないつもりだが、昨今では、バランスを取りようもなく、何でもかんでも具体化の方向に傾いていっているという危惧を覚える。

例えば、私は部課長クラスの管理職に向けた「個と組織を強くする対話力研修」をやっているが、この研修の意図は、部下と仲よしになる会話術を教えることではない。対話という協働作業をするために、管理職自らがどんな「観」を醸成し、何を語るべきかを自問させることにある。そして、そこから部下とともに共有できる目的をどう構築できるのかを考えさせることにある。

いみじくも、ピーター・ドラッカーが 「どのように話すかという問題が意味を持つのは、何を話すかという問題が解決されてからである」 (『プロフェッショナルの条件』より)と書いたように、部下と話すテクニックは二の次、三の次問題なのである。だから私は、「よい仕事とは何か」「よい協働性とは何か」「よい組織とは何か」「残業は是か非か」「自律的であるとはどういうことか」「転職は会社への裏切りか」「金儲けは目的か手段か」など、抽象度の高いテーマで討議課題を与え、受講者の観を揺さぶり、各自が語るべき何かをつかみ取れるよう仕向ける。

しかし、受講者の研修後アンケートとなると「面白い論議はできたが、実際の職場にどう結び付けていいのかわからない」という意見がぽつぽつと出る。そのため、プログラムの中に、「部下のやる気を引き出す上司のフレーズ集」とか「部下との個別面談のしかた」といった即効的な実践アイデアものを挿入することになる。すると、如実にアンケートの満足度スコアはアップする。ただ、私はこうした対症療法的なハウツー情報はあくまで付録程度に留めることにしている。

◆顧客の望むものばかりを与えるのが顧客本位ではない
確かに、もっと具体的な策を紹介する方が受講者の受けはよくなるのはわかっている。実際のところ、研修市場を見渡してみても、そうした上司のコミュニケーション術に特化した研修商品のほうが花盛りである。また、書店の棚を見ても、上司の褒め言葉集や朝礼での話ネタ集など、直接的、即効的なテクニック本が売れ筋だ。人は(私も含めて)、面倒くさがりだし、ラクをしたいし、早く効果が出るものを手に入れたいものだ。抽象的なことを考え、至らない自分を内省し、曖昧な中から答えを自分でつかみ取ることは、面倒で、しんどい。効果が出るともわからない。それに第一、退屈である。それよりも、1日の研修時間、1冊の本の中で、さっさと具体的な技術を整理した形で与えてほしい───それが顧客の多数派の声だ。

研修後のアンケートの数値評価や本の販売部数は、ある意味、大衆人気を推し測るテレビの視聴率に通じるところがあって、その数値獲得をいたずらに追うと本質を見失うときがある。特に研修のような教育サービスの場合はそうだ。だから教育事業に携わる私は、顧客が望む口当たりのいいものばかりを与えるのが顧客本位ではないと肝に銘じている。親が子にする躾のように、ときに子が嫌がったとしても、親の愛情として施したい、施さなければならない、というのが教育の大事な側面である。
末梢のコミュニケーションテクニックだけを網羅的に披露する部課長への研修は、真に人をリードできる部課長を育てない。抽象的にものを考える力を養わないかぎり、いつまでたっても状況に適した自分独自の手段を生み出す能力は身につかないからだ。他人の借り物のテクニックで済ませようとする部課長が増えれば増えるほど、大事な抽象論議や対話は職場からなくなる。そうした配下で働く部下もまた抽象的に考え、答えを見出す訓練を受けないから、末梢のテクニック頼りになる。

◆「抽象的である」はネガティブではない
そこにきてまた、中間層に位置する研修の担当者や出版社の編集者も「アンケート数値が下がるから」とか「本の販売部数が上がらないから」と、ますます抽象的な内容を避けるなら(サラリーマンとしての彼らの評価はそうした数値によってなされることが多いのが事実だ)、ビジネス現場の「もっと具体的に、もっと即効的に」というアンバランスな流れは加速していく。しかし、そうした「わかりやすさ信仰・功利的な技術志向」の行き過ぎは、人びとの思考回路をどんどん短絡的にしていく罠がある ことを認識しなくてはならない。

「その話は抽象的だ」は、昨今ではネガティブな意味で使われることが多い。しかし、人間が抽象能力をなくしたら、それこそ大変なことになる。物事を分けることも、類推することも、応用することもできなくなる。数学で考えることもできなくなる。抽象化は人類が発達させたきわめて重要な能力のひとつである。結局、「抽象的」がネガティブなニュアンスになったのは、人びとの抽象化能力の低下によって下手な説明しかできなかったり、受け手のほうの抽象化能力が拙いために高度な抽象を解釈できなかったりするための結果だともいえる。
私たちは、振り子を戻すためにも、人間が持つすばらしい能力である抽象的思考力を掘り起こす必要がある。逆説的ではあるが、優れて抽象的な思考ができる人は、優れて具体的な行動ができる人なのである。後半はそのことについて触れよう。

* * * * *

◆「事業とは何か」を定義せよ
私が一般社員向け研修、管理者向け研修でやっている演習がある。それは「事業とは何かを定義せよ」というものだ。この演習の狙いは、その人が事業という活動を具象的に定義するのか、それとも抽象的に定義するのかを確認するものだ。

具象的な定義というのは、誰もが明瞭に理解できる「形態・外に表れるもの」に着目して概念を限定するものである。したがって、その定義は輪郭線ではっきりと描かれたようになる。他方、抽象的な定義は、洞察によって曖昧にとらえられる「本質・内に潜むもの」で概念を限定する。したがって、その定義には“にじみ”や“ぼかし”といった不明瞭なものが出る。しかし、この「にじみ・ぼかし」こそ、抽象的定義の奥深さになる。具象的定義には解釈を広げる余地が少ないが、抽象的定義には読み手の能力によっていかようにでも解釈を広げ深める余地が残されるからだ。ちなみに、抽象の「抽」は「抜く・引く」という意味で、「象」は「ようす・ありさま」のことをいう。


さて、演習に戻ろう。事業のもっとも単純で明瞭な定義は、「事業とは□□□の製造・販売である」といった表現だ。空欄には自社の取扱商品を入れればそれで済む。これは個別具体的で万人に理解しやすい言い方である。しかし、事業とは何かと問われて、このような答えしか思い浮かばない人は、実は事業についてあまり深く考えていない。外側から見えていることを直接的な単語ではめているだけで、事業の本質は何だろうかと、目に見えない内側に迫っていっていないからである。

辞書的な表現になると、もう少し一般化が進んで、 「事業とは一定の目的と計画とに基づいて経営する経済的活動」 (『広辞苑』)となる。しかし、これもまだどちらかというと具象的な定義である。

では抽象度を上げていくと、どんな定義になってくるのか。繰り返しになるが、抽象とはそのものが内包する重要な性質に目を向け、引き抜いてくることである。例えば、事業の重要な性質を利益獲得だと見る人は、 「事業とは物・サービスを通じての利益獲得活動である」 という定義をするだろう。

 

それに対し、いや違う、利益よりも上位に顧客の獲得がある。だから 「事業とは顧客獲得活動である」 と考える人も出てくる。さらに、いや待てよ、顧客を獲得するための肝は顧客満足を与えることなんだから、 「事業は顧客満足の創出である」 のほうがより本質に近いのではないか、そんな人も出てくるかもしれない。
あるいは別の観点から 「事業とは価値の提供である」 との定義が起こるかもしれない。ちなみに、かのピーター・ドラッカーは 「事業とは、市場において知識という資源を経済価値に転換するプロセスである」 (『創造する経営者』)と定義した。


Aisk-zu1


◆定義化でつかんだ本質の度合いに応じて実行手段が決まる
「事業とは何か」を定義することに唯一無二の正解値はない。しかし、定義するにあたってどれだけ抽象的に考え、どれだけ事業の本質に迫っていったかは重要なポイントになる。なぜなら、その定義でつかんだ本質の度合いに応じて、実際の事業の実行手段や仕事のやり方が決まってしまうからである。
例えば、「事業とは利益獲得活動である」と定義した人は、そこから実行手段を考えるときどうなるか。「利益=売上-コスト」なのだから、自分たちの事業にとってやるべきは「売上増大」か「コスト削減」であると考える。さらに「売上増大は、販売量アップか販売単価アップ、販売回転率アップ」なのだから、その策を練ろうということになる。また「コスト削減は、原材料費で削ろうか、販売費で削ろうか、人件費で削ろうか」などといった発想に落ちていく。この考え自体は誤りではない。むしろ事業を行う上での正攻法である。しかし、そこから出てくる策は独創性の面で凡庸なものに留まる可能性は高い。その定義には、独創性を生む抽象的な“にじみ”が少ないからである。では、その抽象的な“にじみ”というのは何を生むのか、次の事例で考えたい。

◆伝説のサービスは抽象的な思考から生まれ
2011年3月に起こった東日本大震災、東京ディズニーランドはこのとき、ひとつの伝説を生んだ。同年5月16日付の『日経ビジネスオンライン』は、「3.11もブレなかった東京ディズニーランドの優先順位」と題した記事で次のように伝えている───「アルバイト歴5年のキャストHさんは、当日のことを思い出す。『(店舗で販売用に置いていたぬいぐるみの)ダッフィーを持ち出して、お客様に“これで頭を守ってください”と言ってお渡ししました』。彼女は会社から、お客様の安全確保のためには、園内の使えるものは何でも使ってよいと聞いていた。そこで、ぬいぐるみを防災ずきん代わりにしようと考えたという」。

これは従業員個人のとっさの判断と行動だ。こうした見事な事例ははたして偶然の産物だろうか。いや、私は必然の結果だと思う。何による必然かといえば、従業員に対し普段から抽象的に仕事・事業を考える力を育んでいた企業文化の必然だと言いたい。

つまり、東京ディズニーランドにとって事業とは、 「“夢と魔法の王国”にふさわしい顧客満足を創出すること」 である。この事業定義は抽象度が高い。にじみやぼかしがある。しかしこの曖昧な部分を1人1人の従業員が理解を深め、理念的なものとして組織全体で共有するとき、各々の従業員は柔軟な解釈をもって具体的な行動に落とすことができる。だからこそ、あのような文字どおり劇的なサービス行為が生まれたのだ。
日々、想定不能な出来事が起こる接客現場にあって、顧客満足を創出するための具体的行動をマニュアルで網羅することはとうていできない。できたとしても賢いやり方ではない。一番のやり方は、顧客サービスの本質を抽象的に考えられる従業員を増やすことだ。優れて抽象的に考えることは、優れて具体的な行動に結びつくからだ。

◆抽象的に「一」をつかめば、10にも100にも具体的応用ができる
「顧客に最上のサービスを提供すること」を事業の最上位概念に置く米国高級百貨店のノードストロームもまた、伝説には事欠かない企業だ。───ある顧客が「タイヤを返品したい」と言ってきた。それを受けた担当者は、にこやかに応対し、すぐさま品を受け取って返金をしたという。同社ではタイヤを扱っていないにもかかわらず。
いまでも同社では、例えば、顧客が5年間履き続けた靴を店に持ってきて、それが擦り減ったから代金を返してほしいと言った場合、その客にお金を渡すかどうかは販売員の判断に委ねられている。ジェームズ・ノードストローム共同会長はこう言う。「従業員が仕事に励むのは、自分がこうすべきだと思った方法で仕事ができる自由と、自分が顧客だったらこう扱われたいと思う方法で顧客に尽くす自由があるからだ。従業員のインセンティブを奪い、ルールで縛るなど、もってのほかだ! 彼らの創造力が潰れてしまう」(『ノードストロームウェイ~絶対にノーとは言わない百貨店』)。

リッツ・カールトンもまた、顧客満足の創出をホテルという場を用いて行う事業者である。同社のクレド(事業の理念や使命、哲学を明文化したもの)にはこうある───「リッツ・カールトンでお客様が経験されるもの、それは感覚を満たすここちよさ、満ち足りた幸福感、そしてお客様が言葉にされない願望やニーズをも先読みしておこたえするサービスの心です」。このクレドの行間にはそれこそたっぷりのにじみがある。従業員はこのにじみを普段から深く咀嚼し、お客様との出合いがしらの状況で具体的な接客行為に落とすことをやっている。同社の従業員が優れているのは、正確には「接客術」ではない。リッツ・カールトンのサービスがどうあるべきかを、「抽象的に把握する力」が優れているのである。

本当に大事な人財教育というのは、末梢の具体的な行動をいくつも覚え込ませることではない。従業員たちはそうした理解が容易な具体的なものを欲しがるだろうが、そればかりでは思考が受け身になるだけだ。育むべきは、抽象的に大本の「一(いち)」を考えつかもうとする習慣なのだ。大本の「一」をつかんだ者は、そこから独自に10通りも100通りも具体的な行動に変換することができるようになる。これが「自律的な個」というものだ。そして、そんな個が集まれば「自律的な組織」になる。自律的な組織は、監督者がいちいち細かなことに口出しをしなくても、現場のそこかしこで勝手に素晴らしい創発を起こす。だから、経営者や監督者が、従業員や部下に促すべきは、「もっと抽象的に考えろ」なのだ。

◆「本田技術研究所は人の気持ちを研究するところである」
補足になるが、松下幸之助や本田宗一郎は、事業に対しどんな定義の感覚をもっていたのだろう。松下は『実践経営哲学』の中でこんな言い回しをしている─── “事業は人なり”といわれるが、これはまったくそのとおりである。(中略)私はまだ会社が小さいころ、従業員の人に、「お得意先に行って、『君のところは何をつくっているのか』と尋ねられたら、『松下電器は人をつくっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくっているのです』と答えなさい」ということをよく言ったものである。
また、本田は1960年(昭和35年)に本田技術研究所を分社独立させたとき、創立式典で次のように語ったという─── 私は研究所におります。研究所で何を研究しているか。私の課題は技術じゃないですよ。どういうものが“人に好かれるか”という研究をしています(ホンダ広報誌『Honda Magazine』2010年夏号より)。

「松下電器は人をつくるところである」「本田技術研究所は人の気持ちを研究するところである」───これらの定義は抽象的であると同時に主観的である。定義は客観的であるべきだと誰もが思いがちである。しかし主観による定義が悪いだろうか。確かにサイエンス(科学)の世界は厳格に客観性を求める。しかし、経営や事業、仕事といったアート(技芸)の要素を多分に含み込む人の営みの世界では、主観性はおおいに許される、いや、むしろ積極的に奨励されるべきではないか。


会社では頻繁に会議が行われている。しかし、私が感じるのは、会議の場に分析や批評が溢れはするが、ついぞ「自分たちはどうするんだ」とか「自分たちは事業をこう定義する」といった肚から出る主観的な意志が立ち現われてこない。結局、対前年何%増といった事業計画上の数値目標だけが、客観性・合理性を帯びた金科玉条として組織の中を跋扈することになる。

「拙くてもいい、粗くてもいい。もっと抽象的に、もっと主観的に、仕事を通しての自分の叫びを表現してみろ!」私が経営者・上司なら、そう発破をかけるだろう。ちなみに私は、自分が行う事業を次のように定義している─── 「働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる学びの場を提供する事業」。そして自分の目指したい姿は 「働くとは何か?について第一級の翻訳者になること」。




この記事は、ビジネス雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)
2011年秋号39号に連載中の
「曖昧さ思考トレーニング」の一部を整理したものです。



Tamagawa heri
多摩川の散歩にて


 

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