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2013年1月

2013年1月19日 (土)

一を投げかけ十を考えさせる哲学絵本


   1月もすでに半ばを過ぎました。プロ野球の選手たちは自主トレーニングを始め、身体づくりを本格化させています。2月からのキャンプに、ダレた身体でいくことはできません。私も研修仕事が少なくなる1~3月は、大事な春キャンプのシーズンです。ここでの仕込みが1年のよしあしを決めるといってもいいでしょう。スポーツ選手にとっての筋力トレーニングが、私にとっては読書。


   私はもはや多読主義ではありません。「選読」「深読」を重んじます。良質のものを選んで、深く読む。この歳になってくるとそうしたやり方がいいのでしょう。ベテランの選手も、若い頃のように量にまかせてがむしゃらにやる段階から、質を考え量を絞り込む段階に進むのと同じです。

   幸いなるかな、ものを考える作業においては、歳とともに「結晶化」能力というものが発達を続けるので、若い頃に得た断片的な知識が、いまになってさまざまに再編成・再構築され、自分の認識世界が広がっていく、それが面白いところです。昔さっぱり読めなかった古典が、ふぅーっと読めるようになる。難しかった書物の書き手の伝えたいことが、行間から鮮明に立ち上がってくるようになる。良書とは、ある意味、読み手の力量に応じていかようにでも「解釈の発見」を与えてくれるものと言っていいかもしれません。

   また、読むことが成熟化してくると、本の内容の理解というより、その本の書き手がどこまでの懐の深さで書いているかもみえてくるようになります。「この著者は、ここをやさしく書いているけれども、この書き方は、実はその奥のことを深く知っていないと書けない書き方である」とわかるようになるのです。そのようにして、成熟化した読み手は、書き手の「人の器」を同時に読み取ります。ですから、書を読むとは、人を読むことでもあります。

   本を通して人を読むことをしはじめると、その著者がどんな動機で本を書きたかったのか、その文章に結実するまでにどんな思いを内面で繰り広げたのか、などを感じ取ることに面白さを見出すようになります。ですから、ほんとうに読書とは、人格との出会い、思想との出会い、熱との出会いになるわけです。

   さて、そんななかで、きょう紹介したいのは、フランスの哲学博士であるオスカー・ブルニフィエの哲学絵本シリーズです。彼の絵本はいくつかが翻訳書として出版されていますが、そのどれもが、グラフィック・アーティストたちとのコラボレーションで制作されたユニークなものとなっています。グラフィックのテイストに関しては、個人の好みもあるでしょうが、哲学的教育書が新しい表現に挑戦するという意味では、すばらしい成果であると思います。ブルニフィエ博士による文面は、彼の内面に湛えるものを鋭く凝縮した一行一行になっていて、「やさしいけどふかい」ものになっています。


Brenif 01
こども哲学 『いっしょにいきるってなに?』
オスカー・ブルニフィエ(文)
フレデリック・ベナグリア(絵)
西宮かおり(訳)
朝日出版社







「ぼくたち、みんな平等?」───

ちがう。運のいい子と
わるい子がいるもん。

そうだね、でも……

運って、自分でそだてるもの?
それとも、空からふってくるもの?

ツキがあっても、にがしちゃう
ってこと、ない?

運のいいやつ!って、思っちゃうのは、
やきもちのせいじゃない?

ほんとに運だけ?
努力や才能は、関係ないの?



Brenif 02
こども哲学 『よいこととわるいことってなに?』
オスカー・ブルニフィエ(文)
クレマン・ドゥヴォー(絵)
西宮かおり(訳)
朝日出版社







「おもったことはなんでも口にすべきだろうか?」───

ううん、だって、ほんとのこと
言ったら、けんかになること
だってあるでしょ。

そうだね、でも……

それがほんとうのことなら、
けんかくらいしてもいいんじゃない?

うそをついたり、だまっていたりしても、
けんかになることだってあるよね?

どうして、ほんとうのこと言われて、
いやな気持ちになったりするんだろう?


Brenif 03
こども哲学 『よいこととわるいことってなに?』
オスカー・ブルニフィエ(文)
クレマン・ドゥヴォー(絵)
西宮かおり(訳)
朝日出版社







「ひとにやさしくしようとおもう?」───

しなきゃ。でないと、
みんなにきらわれちゃう。

そうだね、でも……

きみがだれかにやさしくするのは、
きらわれるのがこわいから?

好きなのに、
やさしくできないことってあるよね?

みんなに好かれなきゃ
いけないのかな?

きらわれないためなら、
なんでもする?



Brenif 04
はじめての哲学 『生きる意味』
オスカー・ブルニフィエ(文)
ジャック・デプレ(イラスト)
藤田尊潮(訳)
世界文化社





生きる意味は
やりたいことをやり
自分にとっていいと思えるところに行くことだ
と考えるひとがいます

他のひとは
生きることは
決まりに従い
責任をもつことだと思っています

生きることは退屈で
なにも変わったことがなく
ひとはいつも同じことばかりしている
と考えるひとがいます

他のひとは
生きることは刺激的で
おどろきにあふれ
ひとはなんでも創り出すことができる
と思っています。

人生とは 仕事をして収入を得て
社会的な地位をもつことだ
と考えるひとがいます

他のひとは
がんばりすぎて ひとは自分の人生を無駄にしている
働くことで 自分の時間を失っている
と思っています

生きる意味は
どんなにばかげたことであっても
自分の夢を実現しようと努力することにある
と考えるひとがいます

他のひとは
生きる意味は 現実をそのまま受け入れ
毎日をあるがままに生きることだと思っています

Brenif 05



   これらブルニフィエ博士の一言一言は、「一を投げかけて、十を考えさせる」問いとして優れたものだと思います。そしてこの本のどこを読んでも、これらの問いに対する答えはありません。「えっ、これだけの本?」と思ってしまう読者は、答え(あるいは答えの出し方)を与えられることにあまりに慣れてしまった人でしょう。しかし、これこそが哲学なのです。

   哲学とは、そもそも「philosophy=智を愛する」の訳語です。「学」の文字が体系的な学問を思わせる部分がありますが、何か根源的なことを考える、そのプロセス自体がphilosophyです。その意味で、この本は立派に哲学本なのです。

   私が掲げる次の出版プロジェクトは、こうした哲学の絵本を大人向きにつくること。仕事・働くことについて、ほんとうに大事なことの「一を投げかけて、十を考えさせる」絵本を構想中です。表現もこれまで世の中になかったものを考え出すつもりです。そのためのたっぷり刺激と滋養を得る2013年の春キャンプ。一日一日の仕込みがやがて大きく実を結ぶことを楽しみにして。






2013年1月13日 (日)

仕事とは「望むべきことを彫刻していく営み」

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「私たちは仕事によって、望むものを手に入れるのではなく、
仕事をしていくなかで、何を望むべきかを学んでいく」。

   ───ジョシュア・ハルバースタム 『仕事と幸福そして人生について』




   私が研修の中でよくやるディスカッションテーマの1つが───

      「お金を得ることは、働くこと(仕事)の目的か?」である。

   ありふれたテーマのようだが、実際、このことについてしっかりと討論をする機会は日常ほとんどないように思う。だから、研修でじっくり時間をとってグループでやってみると、実に熱くなるし、さまざまな考え方が出るので面白い。各グループに結論を発表させるのだが、おおかた、グループで統一の見解は形成されず、「こんな意見も出ましたが、一方でこんな意見もあり、なかなかまとまらず……」のような発表になる。いや、それでいいのだ。このテーマについて、もしすんなり統一見解が出せるようなら、この人間社会はそれだけ薄っぺらなものだという証拠になってしまう。金に対する意識や欲の度合いが人により千差万別だからこそ、この人間社会は複雑で奥が深いとも言える。

   だからこの問いに唯一無二の正解はない。講師である私ができることは、古今東西、人は労働とお金(金銭的報酬)、あるいは金欲についてどう考えてきたかを、偉人や賢人たちの言葉を紹介しながら、個々の受講者が自分にもっとも腹落ちする答えを見つけてもらうことだ。各自が「きょうからもっと働こう」「もっと稼ごう」と思える解釈を引き出せたなら、このディスカッションは成功だ。

   私が引用する偉人・賢人たちの言葉はさまざまあるが、その1つが冒頭に掲げたハルバースタムのものである。米・コロンビア大学で哲学の教鞭を執る人物だけあって、実に味わい深い表現だと思う。

   ここには2つの仕事観が描かれている。1番目は「望むものを手に入れる」ことが目的化した働き方だ。この目的は、必然的にお金を多く得たいという欲望と直接結びついている。「働くこと」はその手段として置かれる。
   2番目の仕事観は、「何を望むかを学んでいく」ことが目的となっている。このとき、学んでいくプロセスはまさに「働くこと」そのものに内在しているので、「働くこと」は手段ともなり目的ともなる。そのプロセスに没頭して面白がる、気がつくと、お金がもらえていた。それがこの仕事観の特徴だ。


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   私自身、最初メーカーに就職し、次に出版社に転職をした。メーカーにいるころは、ヒット商品を出すことに熱中し仕事に励んだ。出版社に移ってからは、よい記事を書き、よい雑誌をつくることに専念した。多忙でストレスもあり、きつい仕事でもあったが、面白がれる仕事をして給料がもらえるなら幸せなことだといつも思っていた。

   ただ、20代から30代半ばまでは、自分が望むべきもの、つまり夢や志、働く大きな意味のようなものはなかなか見つけられなかった。いろいろ見えてきはじめたのは30代の終わりころ。いくつかの出来事が重なり、「自分が望むべき道は教育の分野である」との内側からの声がしっかり聞こえてきた(それはいま振り返ると、必然の出来事だったように思う)。

   2番目の意識に立つ人にとって、働くことは、いわば「自分が何を望むべきか」を“彫刻する営み”となってくる。日々の大小の仕事は一刀一刀彫っていく作業である。最初は自分でも何を彫っているのかはわからない。しかし、5年10年と経っていくうちに、じょじょに自分の彫るべきものが見えてくる。途中まで何となくAを彫っていたつもりだったが、途中からBに変えたということが起こってもいい。

   ミケランジェロは、石の塊を前に、最初から彫るべきものの姿を完全に頭に描いたわけではない。一刀一刀を石に入れながら、イメージを探していくのだ。彫ろうとするものを知るには、彫り続けねばならない。そして彫りあがってみて、結果的に「あぁ、自分が彫りたかったものはこれだったのか」と確かめることができる。

   研修でのディスカッションを聞いていて気づくことは、いまの仕事がつまらない、やらされ感がある、労役的であると思っている人は、1番目の「仕事観X」に傾く。仕事は我慢であり、ストレスであり、その憂さ晴らしにせめて何かいい物を買いたい、何か楽しい余暇を過ごしたい。そのためにはお金が要る。そういった心理回路だ。人生の喜びの見出し先は働くことにはなく、お金を交換して得られる物や余暇に向いている。
   逆に、仕事自体が面白い、仕事を通して何か社会に貢献していきたいというような想いを持っている人は、2番目の「仕事観Y」に近さを感じる。もちろん若い社員たちは十分に高い年収を得ているわけではないから、経済的に裕福とはいえない。ローンや子どもを抱えていればなおさらだ。しかし、そんななかでも、仕事観Yを強く抱いている人は意外に多い。ただ、自分の「望むべきこと」(=夢や志、意味的なもの)がすぐに見えてこないことに焦りや不安を感じるのだ。仕事観Xのもとでは、お金さえ用意すれば、望む物と即座に交換でき満足が得られることとは対照的である。


   「仕事観X」と「仕事観Y」とを比べて、どちらが良い悪いということではない。誰しもこの両方を持ち合わせている。その強さの割合が個人によって異なり、人生のときどきの状況によって変化するだけだ。ただ、働く意識の成熟化という観点で言えば、仕事観Xから仕事観Yに移行するのが成熟化の流れなのだろう。エイブラハム・マズローの概念を借りれば、「生存欲求」から「自己実現欲求」への移行だ。

   平成ニッポンの世に生まれ合わせた私たちにとって、仕事観Xにどっぷり浸かって生涯を終えるのはなんとも残念だと思う。仕事観Yのもと、自分の望むものが何かを彫刻していく喜びをしっかりと味わいたいものだ。ただし、喜びとはいえ、それは真剣な戦いである。





2013年1月12日 (土)

留め書き〈030〉~生き方の選択としての職業


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彼は15年間のサラリーマン生活をやめて、土地を借り、一農夫になった。
それは「働き口」の選択ではなく、
「生き方」の選択をしたからだった。




先日、都心である中華料理店に立ち寄り一人食事をしていた。
横のテーブルには、団塊の世代らしき男性3人が、紹興酒をちびりちびりやりながら話をしている。
どうやら3人は同じ会社の同僚らしく、
間近にやってくる定年後の再雇用契約について語り合っている。

「あの給料だと小遣いが減る」「外回りの営業に回される」
「貸与されるパソコンが古くて使いにくいらしい」などと、

会社に恨みがましく愚痴を連ねていた。
雇われ根性が染みついたサラリーマンの成れの果ての会話はこんなものかと、
気分が悪くなった。

このような意識の大人が、社員として、親として、市民として伝染させる悪影響は計り知れない。

不景気の時勢であるから、「働き口」を見つけることが難しいときではある。
ただ、幸運にも何かの「働き口」にありついたとして、
そこにしがみつくだけの意識でいてよいものか。

いったん仕事を得たなら、そのなかで、能力を上げ、人とのつながりを築き、興味を拡げていく。
リスクを負って、既存の殻を破っていく挑戦を続ける。
そうして自分が選べる進路の幅を拡げていく。
それをしなければ、
いつまでも「働き口」に使われるだけの身になる。

私たちは、保身という名の怠慢・臆病を排し、
みずからの職業を「生き方」の選択として昇華させていきたい。


2013年1月 8日 (火)

学校の先生と自律を考える~『21世紀教育セミナー』より


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平成24年度第3回 『21世紀教育セミナー』
「まずは自分から ~自律的に振る舞える職業人になるには」

◇主催:広島県立教育センター
◇日時:平成24(2012)年12月26日
◇場所:東区民文化センター
◇参加者:県内公立の小中高校の校長、教頭、教諭はじめ約230名
(*写真提供:広島県立教育センター)



過日、広島県立教育センターからの依頼を受け、講演を行いました。きょうはその内容の一部を要約して紹介します。

* * * * *

「自律的である」とはどういうことか───。自律の「律」とは、ある価値観や信条にもとづく規範やルールのこと。さまざまな事柄を判断し行動する基準(羅針盤)となるもの。このことから「自律的」とは、自分自身で律を設け、それに従って判断・行動する状態。その反意である「他律的」とは、(自分で律を設けることはせず・できず)他者が設けた律に従って、判断・行動する状態をいう。


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なぜ、いま、職業人の人材育成の観点から、「自律性」を重要視する声が大きくなっているのか───。1つには、経営者や上司から見て、一人一人の社員が受け身的である、仕事をつくり出せない、目の前の物事に対し独自の価値判断ができないなど、他律的な傾向が強まっているという実感があり、そこから要請が出ていること。これは、直接的・ミクロ的な見方で、私は、もう1つ間接的・マクロ的な見方から、「自律性」を鍛えることの重要性を指摘したい。

日本人は、よく言えば「和をもって尊し」、わるく言えば「長いものに巻かれろ」の精神風土のなかで生きている。日本人の傾向性として、

   1)「フワフワと立ち上がってくる他律」に寄っていき協調的に(角を立てずに)やりたい
   2)「権威が決めて下ろす他律」のもとで能動的に(ただ真面目に)やる

という面がある。基本的に日本人は「他律」ベースでやりたい、できるだけ「自律」を押し出さずに事を済ませたいと思っている。「他律的真面目な民族」といってもよい。

戦後の高度成長期の日本は、「フワフワと立ち上がってくる他律」にせよ「権威が決めて下ろす他律」にせよ、その律にはあまり間違いはなかったし、迷いもなかった。向いている先は、個も組織も、地域も国も、欧米キャッチアップであり、貿易・技術立国によって豊かになろうというような価値観だった。だから、「他律的・真面目さ」でどんどん突き進めばよかった。そして、ある程度、皆がハッピーになったという事実がある。
だが、昨今、身を取り巻く他律は漂流を始めた。他律をベースにしていた個々も、当然、方向感を失っている。権威もまた明快な答えを示せないばかりか、さまざまな失策や不祥事などが明るみに出た。

いままさに、他者の律をあてにしていては、どこにも進めない状況になってきた。「自らの律」を押し出すことをおっくうがっていた個々が、いよいよそれをやらねば、物事が展開しない状況になってきている。そうした背景から「自律的になる」ということが重要になってきた。


さて、話をもう少し根っこのところに移して、次の問いを発してみたい───「そもそも、自律的は望ましくて、他律的は望ましくないのか?」。スライドに示したような4つの空欄を考えたときどうだろう。これは私が企業内研修で行っているディスカッションテーマだが、よくよく考えると、自律的にも望ましくない点があるし、他律的にも望ましい点はある。

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たとえば自律的な行動はそれが行き過ぎると、独善的、自己中心的になる危うさがある。俺様流に事を進めことは、自律というより「我律」と言っていいものだ。しかし、そういった欠点があるものの、自律的に振る舞うことは、創造性を生み、責任感を養い、リスクを負う勇気を湧かせるなどという点で、はるかに大きなメリットがある。

他方、他律的のよい点は、他者が営々と築いてくれた知恵を敬い、協調的にそれを使うところだ。私たちは遭遇する1つ1つの出来事に対し、すべてに独自の評価や判断をしていたらキリがないし、効率的ではない。多くのことは他律に従って処理していくことのほうが賢明だ。しかし、すべてのことを他律に依っていたら、物事に向き合う意識や観は脆弱化していく。他律的な個、他律的な個が多く溜まる組織は、環境変化のなかで生き延びていくことが難しくなる。いわゆる“ゆでガエル”になってしまう。


自律にも他律にも一長一短がある。他者の律も、自分の律も完璧ではない。重要なのは、両者の律を「合して」、つねに「よりよい律」を生み出していこうとする運動を起こすこと。

「止揚(アウフヘーベン)」という概念がある。「正」と「反」がぶつかって、より高次な「合」が生まれる。それと同じように、自律と他律を超えたところに、「合律」を生み出していくことが大事。


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自律はともすると「我律」ともいうべきワガママに陥る危険性があると指摘したが、「よい自律」というのは、本来的に、他律を受容しつつ、合律を目指す志向性をもっている。


律というものは、個人の内に、組織の中に、世の中に、流動的に変容しながら存在し、人の判断や行動に影響を与える。律が進化するためには、他律と自律の2つのぶつかり合いが要る。どちらか一方のみでは、決して高次に上がっていく進化は起きない。

強い組織を観察すると、必ずそこかしこに自律的な個がいて、常に組織の既存のやり方・考え方・規範(=他律)に対し、「現状のやり方でいいのか」「ここを改善しよう」「もっと違う考え方ができるはずだ」というふうに自律の目線を入れている。そこから個と組織の協働による止揚によって新しい「合律」が生まれ、律は一段進化する。そしてその律は新しい他律として組織に流布するが、今度もまた、自律の目線にさらされ、そこでまた合律がなされ……というふうに、止揚サイクルが力強く回っていく。こういうサイクルを学校の職場でも起こす必要があるのだろう。


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ともあれ、「自律した強い個」をつくることがすべての起点となる。「自律した強い個」は
「自律した強い集団」をつくる。「自律した強い集団」は個人の「自律心」をますます強くするようにはたらく。この好循環が組織における人材育成の理想である。
教師も一人の職業人として、「自律した強い個」であらねばならない。「他律的に真面目で熱心」という状態を超えて。学校の先生方は、「一クラス・一科目の主」として独立性が強く、教師同士互いに干渉しあわない空気が強いと聞く。であるならば、学校という職場において、もう少し、一人一人の職業人として啓発し合い、「自律した強い個」という観点の人材育成意識も必要ではないかと思う。


個と組織の関係性において、個(主体)が変われば組織(環境)が変わるし、逆に、組織(環境)が変わることで個(主体)が変わることもある。両者は相互に影響を与えあっている。

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他律的な意識の人間が多い組織は、個々が「環境が変わらなければ自分は変われない」という空気になってしまう。そのときに組織側はショック療法として制度改革(成果主義導入など)をしたり、トップを交代させたりするが、あくまでそれらは外側からの一時的な刺激である。根本的に大事なことは、個々の働くマインド・仕事観に迫っていき、自律心を育むことである。内側からの持続的なはたらきかけが(これこそがまさに教育であるが!)、真の解決になる。

松下幸之助も次のように言っている。───

「私は一人がまず、めざめることが必要であると思います。一人がめざめることによって、全体が感化され、その団体は立派なものに変わっていき、その成果も非常に偉大なものになると思います」。




私自身、20代から30代はメーカーと出版社で働き、そのころによもや自分が将来、教育の分野で生業を立てるとは夢にも思わなかった。41歳で独立を決意したとき、自分を後押ししたのが次の中国の古い言葉である。―――「一年の繁栄を願わば穀物を育てよ。十年の繁栄を願わば樹を育てよ。百年の繁栄を願わば人を育てよ」。
皆様は人を育てる部分の根っこのところをやっていらっしゃる。まさに百年の繁栄の基盤をつくる尊い仕事。まずはお身体を大事にされ、自らの自律と子どもたちの自律を育むすばらしき職業人としてご活躍されんことをお祈り申し上げる。

* * * * *

その他、この日の講演では、
・「自立」と「自律」の違い
・「自立」と「自律」、そして「自導」へ
・「小さな自律」と「大きな自律」
・広島県福山市立山野中学校でのキャリア教育特別授業(平成24年7月実施)の紹介
なども盛り込みました。


【講演を終えて】
   昨今、民間企業における人材育成では、重要観点として「自律」ということが頻繁に取り上げられています。このことは、実は公務員の世界も同じです。行政業務を行う役所の職員から、学校で教育を行う教諭まで、「自律的に働く意識」の醸成は重要度の高い課題となっています。
   一般市民・子を学校に預ける立場からすれば、「えっ、学校の先生ともあろう人たちが、自律的に働いていないの……?」と感じてしまいますが、考えてみれば、学校の先生の働く環境は、民間企業社員のそれに比べ、はるかに強く自律を封じ、他律に従わせるものです。教育現場は、法律や規制、「○○に準拠」といった枠や重しでがんじがらめです。一人一人の教諭が、ヘタに自律的に判断・行動をし、事故や間違いでも起こそうものなら、社会的制裁は容赦がありません。ですから、どうしても「他律的に無難に」という意識への傾斜が強まります。もちろん勇気を持って自律的に働く先生は大勢いるでしょう。しかし、教育仕事に「真面目で熱心である」ことと「自律的である」ことは必ずしも同じではありません。「真面目で熱心だが他律的」という先生が実は多く存在しているとも考えられます。少なからずの教諭たちが他律に留まる意識が慢性化しているとすれば、それを放置してよいわけはありません。
   学校の先生方は2つの側面から「自律」を考える必要があります。1つは自らが自律した職業人になるために、そしてもう1つは生徒たちの自律心を涵養するために、です。

  Kouen 02  そうした意味で、広島県内の教育関係者の皆様とともに、今回、「自律」について考える時間を共有できたことはとてもよい機会でした。私自身も日頃から、民間企業の従業員を対象に「キャリアの自律マインド」を醸成する教育プログラムを実施している身であり、一度その内容を異なった分野の方々にぶつけてみたかったというのもあります。

   ともかくも、お集まりいただいた先生方のこれからのご活躍をお祈りするとともに、このような機会を設けてくださった広島県立教育センターの藤本秀穂副所長、重岡伸治部長、宮崎喜郎指導主事に厚く御礼申し上げます。





2013年1月 7日 (月)

「よく生きろ。それが最大の復讐だ」を超えて

 

“Live well. It is the greatest revenge.”
  (よく生きろ。それが最大の復讐だ)

 

   ───どこで書き留めたか、誰が言ったかは忘れてしまったが、かなり昔の手帳に記して以来、私の心のなかにどすんと居座っている言葉の一つである。

   人間の行動エネルギーで、復讐心や怨念、もっと言い方を和らげれば、見返し心や反骨心から出るエネルギーは馬鹿にならないほどの大きさで持続する。このエネルギーは、ときに人を暴走させるし、ときに成長させもする。

   私自身、これまでの人生を振り返ってみると、実はこの「リベンジ心」によるエネルギーを主たる源泉にしてやってきたのかとも思える。
   幼少期から実家は経済苦の連続で、夜中に借金取りが怒鳴り声を立てて来るような状態だったので、お金持ちの家庭から「あそことはあまり付き合わないように」と言われ、子ども心に「なにクソ!」と思って勉強したのを思い出す。また、生来ひどく痩せているために身体コンプレックスがあり、それを打ち消すために自分が秀でたものを何か見つけようと懸命だった。20代終わりには過酷な大失恋をし、その悔しさを晴らすためにがむしゃらに仕事をした。41歳で独立起業をしてからは、米粒のような事業に対し、外側だけの判断で無視や軽視があり、あるいは少し成功でもしようものなら嫉妬も妨害も受ける。それによって「いまに見ていろ!」の反骨心でここまで頑張ってきたように思う。

   そんな過程において、冒頭の「よく生きることが最大のリベンジである」という言葉は、ある意味、私を正しく鼓舞してくれた。だから、この言葉には感謝している。

   ……ところが昨年あたりだろうか、この言葉を読み返したときに、以前ほどの力強さを感じないことに気がついた。「リベンジ(復讐)」という語彙が、自分の気持ちにしっくりこないのだ。そして、今年の元旦を迎え、なにげなく岡本太郎さんの本を再読していたら、こんな一文に目が止まった。なるほどそうかと、自分の気持ちの変化に合点(がてん)がいった。

「人生は、他人を負かすなんてケチくさい卑小なものじゃない」。

                                               ───岡本太郎『強く生きる言葉』



   いや、まさにそのとおり! すでに私のなかには、過去の些細な出来事のわだかまりやら引っ掛かりやらはすっかり削げてしまっているのだ。岡本流に表現すれば、もはや自分は「他人に復讐しようなんてケチくさいちっぽけな」理由で、日々の仕事に打ち込んでいるわけではない。私は見返し・復讐といった次元から解放され、もっと大きな開いた理由を持って働いている。そう合点がいったとき、なにかすっと抜けた気持ちになり、これも何か一つの成長なのだなと思った。

   喩えて言うなら、石炭という復讐心を燃やして、黒煙を上げながら地べたをズリズリと進んでいた小さな機関車が、いまや、太陽からの光(=大きな開いた目的)を燦々(さんさん)と受け、それを無尽蔵のエネルギーに変えて自由に大空を飛ぶ飛行機に変身したかの成長だ。

   「成長」を考えるとき、人にはいろいろな成長がある。できなかったことができるようになる。これは腕前(技術)が上がった成長である。見えなかったものが見えてくる。これは観(もののとらえ方)が深まった成長である。そして、不自由だった自分を自由にできる。これは境涯(自分がいる次元)が高まった成長である。私もこの歳になると、2番目、3番目の成長を感じられることが特にうれしい。




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