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2010年9月 2日 (木)

小哲夜話~“low aimer”の満足か“high aimer”の不満足か

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 白馬八方尾根にて

 「ここの景色でもう満足」という人間に
 それ以上、山を登らせることはできない。

 一方、「もっと上にはもっといい景色がある」と信じている人間は登山を続ける。
 しかし、体力を使いリスクを負って上がったとしても、
 そこで実際もっといい景色が得られるかどうかはわからない。


* * * * *

山は、登る者にさまざまな楽しみを与えてくれる。
たとえ山頂まで登りきらずとも、途中途中で十分に自然を満喫させてくれる。

いまAさんは、5合目まで登ってきた。
そこには視界の開けた場所があり、ふもとの村も見渡せる。心地よい風も通る。
Aさんは木陰に腰を下ろし、
「ここまでの景色でもう満足」と弁当を広げはじめた。
満腹になったAさんはもう下山のことしか頭にない。

一方、Bさんは、高い位置に登れば登るほど視点が変わって、
もっと景色を楽しめることを知っている。

だから5合目で休憩をとった後、登山を続ける。
しばらく上がっていく間に、急に天候が悪化してきた。
霧が周囲を覆い、景色などさっぱり見えなくなった。
Bさんにとってその山は初めてだったので、6合目まできたのか、7合目まできたのか
感覚的にもさっぱりわからなかった。
雨も降り出し、やむなく下山することに。。。

ふもとの村に下りると、Aさんが温泉に浸かり、すっかりくつろいでいた。
「いやぁ、こんな天気になってしまい残念でしたねぇ」
---まったく悪気なく声を掛けてくるAさんに

Bさんは「いやー、お天道様ばっかりは恨むわけにもいきませんから…」と
答えるのが精一杯だった。

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……さて、今夜は「幸福感」ということを考えたいのだが、
冒頭の話において

はたしてAさんのほうが幸福なのだろうか、それともBさんのほうが幸福なのだろうか?

つまり、Aさんは5合目までを望み、5合目の景色を楽しんだ。
だから、Aさんの望みの満たされ度は10割だ。

一方、Bさんは頂上(10合目)を望み、5合目以上の景色は楽しめなかった。
その意味では、満たされ度5割である。
そのうえ悪天候でズブ濡れになって体力は消耗するわ、危険にもさらされるわ、という
ネガティブなおまけ付き。

単純に、望みがどれだけ満たされたかという指数でみるかぎり、
満たされ度10割のAさんはより幸福であり、
満たされ度5割のBさんはより幸福でない、といえる。

もちろん、もし、この日ずっと天候がよかったなら、
Bさんは頂上まで登り、満たされ度10割となって、Aさんより幸福になれたかもしれない。
しかし、それはあくまで「タラ・レバ」の話。
登山は常に、一歩一歩上ろうとするたびに、体力消費と諸々のリスクが増えることを覚悟しなければならない。

* * * * *

この問題は言ってみれば、

「low aimer」(=低い目標設定者)の満足と、
「high aimer」(=高い目標設定者)の不満足と、どちらが幸福なのか、
そしてまた、あなたはどちらの生き方を選ぶか、という問いだ。

この問いは、J・S・ミルが投げかけたあの有名な言葉;
「満足した豚よりも不満足な人間、満足した愚か者よりも不満足なソクラテスであるべきだ」を思い出させる。

私たちは組織で働いていると、しばしば次のような法則を目にする。つまり、
――― 「仕事ができる人ほど仕事は集中する」。
仕事ができてしまう人は、仕事量の増加とともに、目標も常に上へ上へと移動している。
だから、常に目標と現実の自分とのレベルギャップにプレッシャーやストレスが付いて回る。
そしてカラダを壊すこともときに起こる。

自分が“仕事ができる組”に入ってしまうと、
「仕事を叱られないレベルでやり過ごし、無難に雇われ続けている人間はいいなー」
と思えてくる。

いっそ自分に能力とか、向上意欲とか、責任感とか、野心とかがなく、
“仕事をそこそこやり過ごし組”になれたらなー、むしろシアワセなのになーと思う。
そのように不満足な「high aimer」は、
満足した「low aimer」をみて、ときどきうらやましくなる。

その一方、満足した「low aimer」は、不満足な「high aimer」を見て、
何をあんなにしゃかりきに頑張ってばかりいるんだろ、
といった不思議な面持ちで彼らを眺める。

余談だが、あの働き者生物の代名詞である蟻(アリ)の世界にも、
「怠け蟻」というのがいて、集団の何割かは働かない蟻が占めるそうだ。


さて、幸福感は実に多面的で語ることが難しいのだが、
ここで私の考えたことを5つにまとめる。

□1:リスクを負った努力は中長期できちんと報われる
人生は1回限りの勝負ではない。長い間の勝負の連続である。
プロ野球なら1試合は9イニングあり、年間では144試合ある。
相撲なら1場所15番あり、年間では6場所ある。
人生やキャリアは、もっともっと長く多くの勝負の積み重なりで形成されてゆく。

Bさんはその日たまたま頂上に行けなかった(=負けた)。
確かにその1回の勝負は負けだったかもしれない。しかし、
たぶんBさんは翌日か、次の機会かもしれないが、その山の頂上に必ず立つだろう。
Bさんはそうやって自分なりに勝ちを積み重ねる人だ。
そういう“心の習慣”を持った人は、中長期的にきちんと幸福を得る。
どういった幸福かといえば、
自らの成長を楽しみ、多少の障害などにへこたれない強い心身を持つ、という幸福だ。

「high aimer」というのは、high aimであるがゆえに不満足に陥るのが宿命である。
しかし、 「高いところに矢印を向けている」 その心の習慣こそが、
最終的には人生の高台に自らを導くことになる(と私は信じたい)。


□2:意味が満たされていれば幸福である
Aさんの満たされ度は10割。Bさんの満たされ度は5割―――
だからAさんのほうが相対的に幸福ではないか、さきほどはそう考えた。
しかし、
この「満たされ度」は、
目標に対し何合目までが達成されたかという物理的な尺度である。

だがここで尺度を変えて、意味的な満たされ度を考えるとどうだろう。
Bさんは登山に対し登頂を目指すことに一番の意味を感じている。
だから、それを決行した。たまたま悪天候で途中下山したが悔いはない。
自分の見出した意味に対して10割の行動をとったBさんは、決して不幸ではないし、
不機嫌になる必要もないのだ。

……とはいえ、しかし現実的に、人間というものは目に見えるもので満たされないと、
ついつい幸福感は縮んでしまう悲しい性(さが)を負っている。
ふもとに下り、リスクを負わなかった人間(=Aさん)が
ゆったりと温泉に浸かっている姿を見、
Bさんが不機嫌になったのも無理はない。


□3:知足者富(足るを知る者は富んでいる)
さて今度は、栗拾いに行ったPさんとQさんの話をしよう。
2人は1時間ほど山の中にいて栗拾いをし、
Pさんは20個ほど採れたのでこれで十分だと思い、山から引き上げてきた。
一方、Qさんは、タダなんだからもっともっとということで、さらに1時間拾い回り、
結局50個集めてきた。「日が暮れなきゃ、もっと採れたのに」と悔しそうだ。

さて、この話において、
Pさんは「low aimer」の満足で、
Qさんは「high aimer」の不満足ということになるだろうか?

……いや何か違う気がする。これは言ってみれば、
「modest wanter」(控えめな欲求者)の満足と
「more wanter」(もっともっとの欲求者)の不満足ととらえたほうがよさそうだ。
(*ちなみに、“aimer”や“wanter”はここだけの造語で正式な英単語ではない)

そう、2人の「欲求の容れ物」の違いの話だ。

「modest wanter」が持つのは、ceramic pot(陶器)である。
手で持てる大きさでしっかりと出来ていて、
ときに器に満たしたものを他人に注いで分けてやることもできる。

一方、「more wanter」が持つのは、balloon bag(ゴム風船の袋)である。

詰めても詰めてもどんどん膨らんでいくので満ちることをしらない。
また、ところどころにすぐ穴が開いて中身が漏れ出すので、
いつもそのことを神経質にみていなくてはならない。

「high aimer」の不満足―――これは一種、健全なものだ。
では、「more wanter」の不満足―――
これは「欲張り」という一種の悪癖といっていいかもしれない。

 そこで例題―――
  「現年収400万円じゃやってられないよ。
  20代のうちに2000万円稼ぐ仕事に就いてみせる!」

  という人間がいたら、彼(彼女)は、「high aimer」の不満足なのだろうか?
  それとも「more wanter」の不満足なのだろうか?

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□4:「low aimer」とは誰のことだ!?
冒頭の山登りの例では、一応、Aさんを「low aimer」、Bさんを「high aimer」とした。
だが、このとき私たちは、
「5合目までで満足」としたAさんを意気地のない「low aimer」として揶揄できるだろうか?

high/lowは相対的なものである。
Bさんが「high aimer」であるのは、あくまでAさんとの比較においてだ
では、エベレスト級の山にチャレンジする登山家から比べれば、Bさんはどうなのだろう。
そうなればBさんだって「low aimer」なのだ。

職場で向上意欲をもって頑張っている人でも、
壮絶な人生の戦いをした歴史上の偉人から比べれば、やはり「low aimer」なのだ。

だから、私たちはAさんを一概に揶揄できないし、見下してもいけない。
それどころか、Aさんは5合目からの帰り道で、
道端に咲く一輪の花をじっと深く観ていたかもしれないのだ。
山の喜びは、何も登頂だけにあるとは限らない。
むしろ登頂ばかりを目指して、足元にある自然からの感動をすっ飛ばしているなら、
それこそBさんは不幸人である。


□楽観主義でいこう!(能天気ではなく)
で、今夜の結論―――Aさんがいいとか、Bさんがいいとか、
そんな小難しいことを考えず能天気にいこう! 能天気人はいつもの世も幸福だ。
……そう言いたいところだが、ひとつ訂正したほうがよいと思う。
それは「能天気」を「楽観主義」に変えること。

能天気と楽観主義とでは含んでいることがまったく違う。
フランスの哲学者アランが 「楽観は意志に属する」 と言ったとおり、
楽観主義には
物事をプラス思考で期待的に見ていきながら、
どこかに「最終的にはこうするぞ」という意志がある。

そのおおらかな意志があるからこそ、どんな状況にも強くいられる。

ところが、能天気というものは、意志のない気楽さである。
根拠のない安逸といってもよい。

だから最終的には自分に無責任な態度である。
周囲の人に迷惑をかけることもしばしば起こる。

 「どんなに豊饒で肥沃な土地でも、
 遊ばせておくとそこにいろんな種類の無益な雑草が繁茂する。
 精神は何か自分を束縛するものに没頭させられないと、あっちこっちと、
 茫漠たる想像の野原にだらしなく迷ってしまう。
 確固たる目的をもたない精神は自分を失う」。
                              ―――モンテーニュ『エセー』

能天気はその場は明るくやり過ごせるかもしれないが、
モンテーニュの言うとおり、

確固たる目的(=意志)を持たないがゆえに、最終的にはだらしなく野原をさまよい、
そして自分を失うことにつながりかねない。
だから能天気ではなく、楽観主義がいいのだ。

楽観主義には意志がある。
その意志は、aim(目標)を生む。そのaimはhighでもlowでもなく、自分なりのaimだ
その意志は、そのaimに意味を与える
その意志は、際限なく膨らむゴム風船にモノを詰め込む欲求ではなく、
自分の想いを形にした器をこしらえようとする作陶意欲である。
こしらえた器に満ちるものを他に分けてあげることも、また意志のうちのひとつである。

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自分は職業人として、どんな器をつくり、あるいは自分自身がどんな器であり、
どれだけのものを人に注いでいるか、を考えるとちょっと気が引き締まる

 

 


 

 

2010年3月30日 (火)

「働く動機の成熟化」の先にあるもの

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吉野梅郷(東京都・青梅市)にて


きょうの日経本紙夕刊のスポーツ面に
男子フィギュアスケートの高橋大輔選手の囲み記事があった。

高橋選手は将来のことについて
「スケートアカデミーみたいなものを作ってみたい。
僕はコーディネーターで、スピン、ジャンプとかそれぞれを教える専門家をそろえて……」
と語ったようだ。―――とても素敵な夢だなぁと思う。

それを読んで、ちょうど2年前、
プロ野球の読売巨人軍、米大リーグ・パイレーツで活躍した桑田真澄選手のことも思い出した。
彼の引退表明時のコメントは次のようなものだった。

「(選手として)燃え尽きた。ここまでよく頑張ってこられたな、という感じ。
思い残すことはない。小さい頃から野球にはいっぱい幸せをもらった。
何かの形で恩返しできたらと思う」。
……その後、彼は野球指導者として精力的に動いていると聞く。

人は誰しも若い頃は自分のこと、自分の生活で精一杯で、
自分を最大化させることにエネルギーを集中する。

しかし、人は自らの仕事をよく成熟化させてくると、
他者のことを気にかけ、他者の才能を最大化することにエネルギーを使いたいと思うようになる。

端的に言ってしまえば、
働く動機の成熟化の先には「教える・育む」という行為がある。
(教える・育むとは、「内発×利他」動機の最たるものだ)

→内発動機/外発動機、利己動機/利他動機に関してはこちらの記事を参照


高橋選手や桑田選手も、一つのキャリアステージを戦い抜け、
その先に見えてきたものが「次代の才能を育む」という仕事であるのだろう。

GE(ゼネラル・エレクトリック)のCEOとして名高いジャック・ウェルチも
自分に残された最後の仕事は人材教育だとして、
企業内大学の教壇に自らが頻繁に立っていた。

プロ野球の監督を長きにわたってやられてこられた野村克也さんも
「人を残すのが一番大事な仕事」と言っている。

こうした人々に限らず、一般の私たち一人一人も例外ではない。
それぞれの仕事の道を自分なりに進んでいき、
その分野の奥深さを知り、いろいろな人に助けてもらったことへの感謝の念が湧いてきたなら、
今度はその恩返しとして、
その経験知や仕事の喜びを後進世代に教えることに時間と労力を使いたいと思うようになる。
それが自然の発露として起こってきたなら、
その人の働く動機は、よく成熟化してきた証拠だ。

世の中の多くの人が、そういう成熟化をして、
それぞれの分野で「教える人・育む人」が増えれば、日本はまだまだ面白くなると思う。

少子高齢化は問題だが、
リタイヤを迎えた元気な人たちが、「私は~の専門知識を教えたいんです」とか、
「私は~の技能を伝えるのがうれしいんです」といって、
そこかしこに、いろんなボランティア的な先生たちが世の中に増えてくれば、
それは社会にとって大変なメリットになる。
(そういった意味で、人生の先輩にあたる団塊の世代の人たちの動向を私は興味深く見守っている)

いずれにせよ、教えるという行為は、親や教育者だけがやるものではない。
すべての人間が本能的に持つ行為であり、深い喜びを与えてくれるものである。
教えること・育むことの欠けた人生はどこかさみしい。
あなたの働く動機が、今後、よく成熟化し、
教えること・育むことに自分自身を使いたいという流れが起きますように (祈)。


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吉野梅郷(東京都・青梅市)にて〈2〉

2009年5月27日 (水)

「楽(ラク)」と「楽しい」

あるテレビ番組を観ていたら、
タレントの清水國明さんがこのようなことを言われていた―――

「田舎暮らしは楽しいけど、決してラクやないんです。
逆に、都会暮らしはラクですけど、楽しくないですねぇ」。


つまり、田舎に住むと、スーパーや病院、駅などが遠くにある。
電車だってすぐに来ない。
生活はクルマがないと始まらないが、大雪が降れば、雪かきから始めなければならない。
いろいろなことが不便で、そりゃもうラクではないというのです。

しかし、その不便さがかえって楽しいし、人とのつながりもできる。
だからこそ田舎は楽しい。
その一方、都会は何でも揃って、すべてのものが近くにある。
けれど、生活が何か楽しくない、のだそうです。

「楽(ラク)」と「楽しい」は、同じ字を使うが、含んでいるものは違う。

「ラク」は、効率(省力や要領)を求めるが、
「楽しい」は、必ずしも効率を求めない。
ときに、「楽しい」は、無駄や苦労を求めるし、
手間ヒマこそが楽しみを与えることは世の中にたくさんある。

ちょっと考えてもみてください。
あなたが死ぬ間際に、家族に向かってこう自慢できますか?

―――「私の人生は、実に“効率的でラクな人生”だった」と。

それよりも、
「私の人生は、確かに無駄は多かったし、苦労も多かった。
でも楽しかった。みんな、ありがとう!」
と言えたほうが、どれだけいいでしょう。

ラクばかりを追い求める仕事・人生は、スカスカになりますよ。


【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□その仕事は効率化の名のもとに要領だけで形を整えたものではないだろうか?
□あなたには、無様(ぶざま)な失敗の連続や修羅場をくぐり抜けてようやくまとめあげた仕事経験がどれくらいあるだろうか?それらは苦しかったけど楽しかった経験だろうか?
□自分が本当に「楽しい」と思える仕事はどんな仕事だろうか?

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□働き手に「楽しい仕事」を与えるとはどういうことだろうか?
□あなたの組織では、「ラク」(=効率化)を追求するあまり、「楽しさ」を失っていないだろうか?


* * * * * *

きょう軽井沢(長野県)入りし、5日間、集中的に書きもの仕事をやります。
5月末のこの時期の山はほんとうに生命が満ち溢れていて、
そこに身を浸していると、自分の内にある同じ生命の源も共振し、
エネルギーが呼ばれて出てくる感じがします。

そのエネルギーは、情報を智慧に変える大事なもの。
冬の間に溜め込んだ情報を整理し、編集し、
智慧として芽吹かせ、花と咲かせるには恰好の季節です。

でも、あいにくきょうは曇り空。浅間山のやさしい稜線と対面できず残念。
(明日からの天気予報も晴れが望めず)

きょうの昼飯は、
『峠の釜飯』(言わずと知れた「おぎのや」さんのです)と、
ツルヤさん(これも軽井沢ならではのスーパー)で見つけたPB品のりんごジュース。
(ストレート100%なのでたぶん期待していい!)

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2009年5月16日 (土)

4つの「キョウソウ」:競争・狂走・競創・共創

私はかねてから次のように考えています――――

ゴッホとゴーギャンは競争したわけではない。
ピカソとマチスも競争したわけではない。
彼らはただ、たくましく競創し、おおいに共創しただけだ、
と。


さて、
「キョウソウ」について考えてみると、次の四つのパターンが見えてきます。

1【競争】
いまや世の中の多くのことが「競争」原理で動いています。学校もビジネスも社会も。
なぜなら、競争というシステムには、互いの成長・前進を刺激し、
怠惰や馴れ合いを防ぐというはたらきがあるからです。

けれども、競争には悪い面もあります。
競争はたいてい、数値化した評価で優劣や勝ち負けを判定するので、
高い数値の獲得のみがいつしか目的化されるおそれがあります。

特にビジネスは、利益(お金)という数値の奪い合い競争ですから、
人間の金銭欲が前面に出て、ビジネス本来の意義や目的が見失われることが容易に起こりえます。
私たちは競争を容認しつつも、目的のはずれた競争には
翻弄されないように注意しないといけません。

1a 2【狂走】
競争が過激になると「狂走」になります。
バブル経済が膨らむ過程などはその典型です。
「みんなが投機で儲けてるんだから、自分もやらなきゃ損!」という心理が万人に広まり、
株や不動産は実体価値を離れて値が高騰しはじめます。
「上がるから買う、買うから上がる」という狂走回路ができあがるわけです。

・・・狂走の行く末はいつも破たんです。
狂走を無意味なチキンレースだと見破り、狂走には参加しない意思と賢明さを持つべきです。

3【競創】
競い合うことは悪ではありません。
競うなら互いの創造性を競おうという意識を持つことです。つまり「競創」です。

競創においては、数値による優劣の評価や勝ち負けなどは関係ありません。
ゴッホとゴーギャン、ピカソとマチスは同時代の芸術家として、
おおいに競創したわけですが、彼らは、
互いの独自性や芸術性を刺激し合い、リスペクトし合っただけで、
蹴落とし合ったり、何か評判・得点で勝ち負けをつけようとしたわけではありません。

4【共創】
ゴッホとゴーギャンは競創関係にありながら、同時に、「共創」もしていました。
二人は共に後期印象派の流れを創造したのです。
共創とは、タレントを持った個人同士が一緒になり、
個人の枠を超えた何かを創造することをいいます。


私たちは、個人においても組織においても、「競争」を是としながら、
それを「狂走」回路に変質させていかない、
できるだけ「競創」や「共創」回路に開いていくことが大事な観点だと思います。

【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□あなたが「競争」疲れしているのはなぜだろうか?
 (限られたパイを奪い合うゼロサムゲームの中で「狂走」回路にはまっていないか?)
□蹴落とし合いではなく、創造の刺激合いをしているだろうか?
□タレントの結び付き合いで、何か大きなものを「共創」する喜びを知っているか>

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□ゼロサムゲームの中で、働き手を相対評価で操りすぎていないだろうか?
□チキンレース的なビジネスの「狂走」回路にストップをかける勇気を持てるだろうか?
□競合他社とともに時代をつくるという「共創」意識の大局観に立てるだろうか?



2009年1月 1日 (木)

「ありがとう」と「覚悟」を心に!

011c2009年が明けました。

百年に一度と言われる経済危機が昨年後半に世界を覆い尽くし、
2009年は、世界がそれを乗り越えるための新しいルールと秩序を
生み出すことができるのか、それが問われる大きな一年になりそうです。

巷では、昨年の景気が急降下しただけに、
元旦からの初詣客も各地でごった返していると聞きます。

しかし、私はこのイベントとしての初詣に「なんだかなー」と思っている一人です。
一つには、寺社の商業主義めいたもの。
そしてもう一つには、参拝客の「祈りの姿勢」にあります。

もちろん商業主義に走らないまっとうな寺社もありますし、
ほんとうに真摯な信仰心で詣でる人はいます。
私自身も仏教に帰依する一人ですが、
それでもこの一億総初詣イベントには「う~ん」とうなってしまいます。

きょうは、特に「祈り」について書こうと思います。

◆請求書的祈り・領収書的祈り
仏教思想家のひろさちやさんは、祈りには種類があることをこう表現します。

「宗教心というと、今の日本人はすぐに御利益信仰を思い浮かべますが、
神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。
ああしてください、こうしてくださいとまるで請求書をつきつけるような祈りを、
私は『請求書的祈り』と名付けていますが、

本物の宗教心というのは、
“私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました”という
『領収書的祈り』なんです」。

               ――――『サライ・インタビュー集 上手な老い方』より

私が一億総初詣に「なんだかなー」と思ってしまうのは、
その多くが『請求書的祈り』になっていやしないかと思うからです。
しかも、そこには「500円玉でも投げ入れて、これをきいてもらおう」なんていう
「賽銭」が飛び交っている。

もし、これで、本当に願いがかなってしまうのなら、
私はその神仏は、逆に、あやういものだと思います。

◆職人の心底に湧く「痛み」
さて、このブログのメインテーマは「働くこと・仕事」ですので、
ここからはその要素も合わせながら「祈り」を考えたいと思います。
「祈り」について、私が著書でよく引用するのが次のお二人の言葉です。

西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った
知る人ぞ知る宮大工の棟梁です。彼は言います―――

「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、
きちんと天に向かって一直線になっていますのや。
千三百年たってもその姿に乱れがないんです。
おんぼろになって建っているというんやないんですからな。

しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。
塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、
鉋をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。
これが檜の命の長さです。

こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。
千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。
・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、
自然に対する人間の当然の義務でっせ」。
 
                         ―――『木のいのち木のこころ 天』より

もう一人は染織作家で人間国宝の志村ふくみさんです。
淡いピンクの桜色を布地に染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るのですが、
春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、
あのピンク色は出ないのだといいます。秋のころの桜の木ではダメなのです。

「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。
桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、
その時期に切って染めれば色が出る。

・・・結局、花へいくいのちを私がいただいている、
であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、
いただいたということのあかしが、、、。

自然の恵みをだれがいただくかといえば、ほんとうは花が咲くのが自然なのに、
私がいただくんだから、やはり私の中で裂の中で桜が咲いてほしい
っていうような気持ちが、しぜんに湧いてきたんですね」。
 
                         ―――梅原猛対談集『芸術の世界 上』より

◆いかなる仕事も自分一人ではできない
仕事という価値創造活動の入り口と出口には、インプットとアウトプットがあります。
ものづくりの場合であれば、必ず、入り口には原材料となるモノがくる。
そして、その原材料が植物や動物など生きものであれば、
その命をもらわなければなりません。

古い言葉で「殺生」です。

そのときに、アウトプットとして生み出すモノはどういうものでなくてはならないか、
そこにある種の痛みや祈り、感謝の念を抱いて仕事に取り組む人の姿を
この二人を通して感じることができます。

毎日の自分の仕事のインプットは、決して自分一人で得られるものではなく、
他からのいろいろな生命、秩序、努力によって供給されています。


例えば、いま私はこうして原稿を書いていますが、
まずは過去の賢人たちが著した書物が私に知恵を与えてくれています。
また、この原稿をネットにアップしようとすれば、
ネット回線の維持・保守が必要であり、
ブログサイトをきちんと運営してくれる人の労力がいります。

さらに、こうして考えるためには、私の頭と身体に栄養が必要で、
昼に食べた雑煮(そこには出汁にとったカツオや鶏肉、そして餅の原料となるコメ)が
その供給をしてくれています。
それら、カツオやら鶏やらコメの命と引き換えに、
この原稿の一文字一文字が生まれています。
だからこそ、古人たちは、食事の前後に
「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせた。


そんなこんなを思い含んでいけば、
自分が生きること、そして、自分が働くことで何かを生み出す場合、
他への恩返し、ありがとうの気持ちが自然と湧いてくる―――
これこそが祈りの原点だと思います。

◆「よい仕事」とは?
物事をうまくつくる、はやくつくる、儲かるようにつくることが、
何かとビジネス社会では尊ばれますが、
これらは「よい仕事」というよりも「長けた仕事」というべきでしょう。

「よい仕事」とは、真摯でまっとうな倫理観、礼節、
ヒューマニズムに根ざした「祈り」の入った仕事をいうのだと思います。

私たちは、いつの間にか、生きることにも働くことにも、
効率やスピード(即席)、利益ばかりに目がくらんで、
大事な祈りを忘れている。
(ましてや、祈りにも効率や即席を求めるようになった)

普段の仕事現場で、自然の感覚から仕事の中に「祈り=ありがとう」を込められる人は、
おそらく「よい仕事」をしている人で、幸福な仕事時間を持っている人です。

これらをないがしろにして、
「さ、正月だ、初詣だ、お祈りだ、仕事が繁盛しますように(賽銭・柏手:パンパン)」
というのは、どうもなぁ、と私には思えてしまうのです。

◆祈りの三段階
宗教学者の岸本英夫氏は著書『宗教学』の中で、信仰への姿勢を三段階に分けています。
それは、「請願態」、「希求態」、「諦住態」です。

1番めの請願態とは、先の請求書的祈りと同じく、
神や仏、天、運といったものに何かをおねだりする信仰の姿勢です。

2番めの希求態は、信仰の根本となる聖典に示されているような生活を実践して、
真理を得ようとする求道の姿勢です。

そして3番めの諦住態とは、信仰上の究極的価値を見出し、
その次元にどっしりと心を置きながら、普段の生活を営んでいく姿勢をいいます。

私たちは、自分たちの祈りがついつい請求書的になっていることに気がつきます。
「もっと給料を上げてほしい(これだけ頑張ってんだから)」、
「もっと自分を評価してほしい(この会社の評価システムはおかしいんじゃないか)」、
「上司が変わればいいのに(まったくもう、やりにくくてしょうがない)」、
「宝くじが当たりますように(会社を辞めてもいいように)」などなど。

こうした祈りは、自分の中にエネルギーを湧かせることはなく、
むしろエネルギーを消耗させるものです。
祈りの質を、本来のものに戻していかなければなりません。

信仰も仕事も一つの道と考えれば、
大事な姿勢というのは2番目の希求態と3番目の諦住態です。

その2つのエッセンスを一言で表現すれば、「覚悟」です。
信仰にせよ仕事にせよ、祈りは「他からこうしてほしい」とせがむことではなく、
「自分は何があってもこうするんだ」という覚悟であるべきです。


080もし、祈りがそうした(ある目的下の)覚悟にまで昇華したとき、
おそらくその人は、嬉々として、たくましく、
いかなる困難が伴ったとしても
強く働いているはずです。

2009年は、多くの人にとって、
決してラクではない一年になるでしょう。
ですが、そういうときこそ、
「ありがとう」と「覚悟」を抱くことが大事なのだと思います。




←多摩川の向こうに富士山のシルエットと名月
元日という特別な1日ですが
2009年の365分の1日が終わった

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