6) 人財育成ビジネスへの視点 Feed

2011年11月 7日 (月)

優れて抽象的な思考は 優れて具体的な行動を生む

Susuki hara


◆「具体的にわかりやすく」という危い傾き
私は企業の現場で研修を行ったり、本を書いたりすることを生業としている。研修担当者や出版社の編集者と内容について討議をするとき、いつもせめぎ合いになるのが、どこまで抽象的にやって、どこまで具体的にやるかという問題だ。
「本当に重要なことは抽象的にならざるをえないし、抽象的に考える習慣をつけさせることが真に受講者や読者のためになる。いや、それを超えて、組織や社会をよくするためのものになる」という(憂いを含む)思いの私。それに対し、「明日からの職場で活かせる具体的な行動例を示してやらないと受講者の満足度が上がらないんです」、「値段に見合う実効的なハウツー情報がないと本っていうのはなかなか売れていかないんです」と担当者・編集者。
もちろんその抽象と具体のバランスを取ってよい内容に仕上げるのが私の仕事なので、その努力は惜しまないつもりだが、昨今では、バランスを取りようもなく、何でもかんでも具体化の方向に傾いていっているという危惧を覚える。

例えば、私は部課長クラスの管理職に向けた「個と組織を強くする対話力研修」をやっているが、この研修の意図は、部下と仲よしになる会話術を教えることではない。対話という協働作業をするために、管理職自らがどんな「観」を醸成し、何を語るべきかを自問させることにある。そして、そこから部下とともに共有できる目的をどう構築できるのかを考えさせることにある。

いみじくも、ピーター・ドラッカーが 「どのように話すかという問題が意味を持つのは、何を話すかという問題が解決されてからである」 (『プロフェッショナルの条件』より)と書いたように、部下と話すテクニックは二の次、三の次問題なのである。だから私は、「よい仕事とは何か」「よい協働性とは何か」「よい組織とは何か」「残業は是か非か」「自律的であるとはどういうことか」「転職は会社への裏切りか」「金儲けは目的か手段か」など、抽象度の高いテーマで討議課題を与え、受講者の観を揺さぶり、各自が語るべき何かをつかみ取れるよう仕向ける。

しかし、受講者の研修後アンケートとなると「面白い論議はできたが、実際の職場にどう結び付けていいのかわからない」という意見がぽつぽつと出る。そのため、プログラムの中に、「部下のやる気を引き出す上司のフレーズ集」とか「部下との個別面談のしかた」といった即効的な実践アイデアものを挿入することになる。すると、如実にアンケートの満足度スコアはアップする。ただ、私はこうした対症療法的なハウツー情報はあくまで付録程度に留めることにしている。

◆顧客の望むものばかりを与えるのが顧客本位ではない
確かに、もっと具体的な策を紹介する方が受講者の受けはよくなるのはわかっている。実際のところ、研修市場を見渡してみても、そうした上司のコミュニケーション術に特化した研修商品のほうが花盛りである。また、書店の棚を見ても、上司の褒め言葉集や朝礼での話ネタ集など、直接的、即効的なテクニック本が売れ筋だ。人は(私も含めて)、面倒くさがりだし、ラクをしたいし、早く効果が出るものを手に入れたいものだ。抽象的なことを考え、至らない自分を内省し、曖昧な中から答えを自分でつかみ取ることは、面倒で、しんどい。効果が出るともわからない。それに第一、退屈である。それよりも、1日の研修時間、1冊の本の中で、さっさと具体的な技術を整理した形で与えてほしい───それが顧客の多数派の声だ。

研修後のアンケートの数値評価や本の販売部数は、ある意味、大衆人気を推し測るテレビの視聴率に通じるところがあって、その数値獲得をいたずらに追うと本質を見失うときがある。特に研修のような教育サービスの場合はそうだ。だから教育事業に携わる私は、顧客が望む口当たりのいいものばかりを与えるのが顧客本位ではないと肝に銘じている。親が子にする躾のように、ときに子が嫌がったとしても、親の愛情として施したい、施さなければならない、というのが教育の大事な側面である。
末梢のコミュニケーションテクニックだけを網羅的に披露する部課長への研修は、真に人をリードできる部課長を育てない。抽象的にものを考える力を養わないかぎり、いつまでたっても状況に適した自分独自の手段を生み出す能力は身につかないからだ。他人の借り物のテクニックで済ませようとする部課長が増えれば増えるほど、大事な抽象論議や対話は職場からなくなる。そうした配下で働く部下もまた抽象的に考え、答えを見出す訓練を受けないから、末梢のテクニック頼りになる。

◆「抽象的である」はネガティブではない
そこにきてまた、中間層に位置する研修の担当者や出版社の編集者も「アンケート数値が下がるから」とか「本の販売部数が上がらないから」と、ますます抽象的な内容を避けるなら(サラリーマンとしての彼らの評価はそうした数値によってなされることが多いのが事実だ)、ビジネス現場の「もっと具体的に、もっと即効的に」というアンバランスな流れは加速していく。しかし、そうした「わかりやすさ信仰・功利的な技術志向」の行き過ぎは、人びとの思考回路をどんどん短絡的にしていく罠がある ことを認識しなくてはならない。

「その話は抽象的だ」は、昨今ではネガティブな意味で使われることが多い。しかし、人間が抽象能力をなくしたら、それこそ大変なことになる。物事を分けることも、類推することも、応用することもできなくなる。数学で考えることもできなくなる。抽象化は人類が発達させたきわめて重要な能力のひとつである。結局、「抽象的」がネガティブなニュアンスになったのは、人びとの抽象化能力の低下によって下手な説明しかできなかったり、受け手のほうの抽象化能力が拙いために高度な抽象を解釈できなかったりするための結果だともいえる。
私たちは、振り子を戻すためにも、人間が持つすばらしい能力である抽象的思考力を掘り起こす必要がある。逆説的ではあるが、優れて抽象的な思考ができる人は、優れて具体的な行動ができる人なのである。後半はそのことについて触れよう。

* * * * *

◆「事業とは何か」を定義せよ
私が一般社員向け研修、管理者向け研修でやっている演習がある。それは「事業とは何かを定義せよ」というものだ。この演習の狙いは、その人が事業という活動を具象的に定義するのか、それとも抽象的に定義するのかを確認するものだ。

具象的な定義というのは、誰もが明瞭に理解できる「形態・外に表れるもの」に着目して概念を限定するものである。したがって、その定義は輪郭線ではっきりと描かれたようになる。他方、抽象的な定義は、洞察によって曖昧にとらえられる「本質・内に潜むもの」で概念を限定する。したがって、その定義には“にじみ”や“ぼかし”といった不明瞭なものが出る。しかし、この「にじみ・ぼかし」こそ、抽象的定義の奥深さになる。具象的定義には解釈を広げる余地が少ないが、抽象的定義には読み手の能力によっていかようにでも解釈を広げ深める余地が残されるからだ。ちなみに、抽象の「抽」は「抜く・引く」という意味で、「象」は「ようす・ありさま」のことをいう。


さて、演習に戻ろう。事業のもっとも単純で明瞭な定義は、「事業とは□□□の製造・販売である」といった表現だ。空欄には自社の取扱商品を入れればそれで済む。これは個別具体的で万人に理解しやすい言い方である。しかし、事業とは何かと問われて、このような答えしか思い浮かばない人は、実は事業についてあまり深く考えていない。外側から見えていることを直接的な単語ではめているだけで、事業の本質は何だろうかと、目に見えない内側に迫っていっていないからである。

辞書的な表現になると、もう少し一般化が進んで、 「事業とは一定の目的と計画とに基づいて経営する経済的活動」 (『広辞苑』)となる。しかし、これもまだどちらかというと具象的な定義である。

では抽象度を上げていくと、どんな定義になってくるのか。繰り返しになるが、抽象とはそのものが内包する重要な性質に目を向け、引き抜いてくることである。例えば、事業の重要な性質を利益獲得だと見る人は、 「事業とは物・サービスを通じての利益獲得活動である」 という定義をするだろう。

 

それに対し、いや違う、利益よりも上位に顧客の獲得がある。だから 「事業とは顧客獲得活動である」 と考える人も出てくる。さらに、いや待てよ、顧客を獲得するための肝は顧客満足を与えることなんだから、 「事業は顧客満足の創出である」 のほうがより本質に近いのではないか、そんな人も出てくるかもしれない。
あるいは別の観点から 「事業とは価値の提供である」 との定義が起こるかもしれない。ちなみに、かのピーター・ドラッカーは 「事業とは、市場において知識という資源を経済価値に転換するプロセスである」 (『創造する経営者』)と定義した。


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◆定義化でつかんだ本質の度合いに応じて実行手段が決まる
「事業とは何か」を定義することに唯一無二の正解値はない。しかし、定義するにあたってどれだけ抽象的に考え、どれだけ事業の本質に迫っていったかは重要なポイントになる。なぜなら、その定義でつかんだ本質の度合いに応じて、実際の事業の実行手段や仕事のやり方が決まってしまうからである。
例えば、「事業とは利益獲得活動である」と定義した人は、そこから実行手段を考えるときどうなるか。「利益=売上-コスト」なのだから、自分たちの事業にとってやるべきは「売上増大」か「コスト削減」であると考える。さらに「売上増大は、販売量アップか販売単価アップ、販売回転率アップ」なのだから、その策を練ろうということになる。また「コスト削減は、原材料費で削ろうか、販売費で削ろうか、人件費で削ろうか」などといった発想に落ちていく。この考え自体は誤りではない。むしろ事業を行う上での正攻法である。しかし、そこから出てくる策は独創性の面で凡庸なものに留まる可能性は高い。その定義には、独創性を生む抽象的な“にじみ”が少ないからである。では、その抽象的な“にじみ”というのは何を生むのか、次の事例で考えたい。

◆伝説のサービスは抽象的な思考から生まれ
2011年3月に起こった東日本大震災、東京ディズニーランドはこのとき、ひとつの伝説を生んだ。同年5月16日付の『日経ビジネスオンライン』は、「3.11もブレなかった東京ディズニーランドの優先順位」と題した記事で次のように伝えている───「アルバイト歴5年のキャストHさんは、当日のことを思い出す。『(店舗で販売用に置いていたぬいぐるみの)ダッフィーを持ち出して、お客様に“これで頭を守ってください”と言ってお渡ししました』。彼女は会社から、お客様の安全確保のためには、園内の使えるものは何でも使ってよいと聞いていた。そこで、ぬいぐるみを防災ずきん代わりにしようと考えたという」。

これは従業員個人のとっさの判断と行動だ。こうした見事な事例ははたして偶然の産物だろうか。いや、私は必然の結果だと思う。何による必然かといえば、従業員に対し普段から抽象的に仕事・事業を考える力を育んでいた企業文化の必然だと言いたい。

つまり、東京ディズニーランドにとって事業とは、 「“夢と魔法の王国”にふさわしい顧客満足を創出すること」 である。この事業定義は抽象度が高い。にじみやぼかしがある。しかしこの曖昧な部分を1人1人の従業員が理解を深め、理念的なものとして組織全体で共有するとき、各々の従業員は柔軟な解釈をもって具体的な行動に落とすことができる。だからこそ、あのような文字どおり劇的なサービス行為が生まれたのだ。
日々、想定不能な出来事が起こる接客現場にあって、顧客満足を創出するための具体的行動をマニュアルで網羅することはとうていできない。できたとしても賢いやり方ではない。一番のやり方は、顧客サービスの本質を抽象的に考えられる従業員を増やすことだ。優れて抽象的に考えることは、優れて具体的な行動に結びつくからだ。

◆抽象的に「一」をつかめば、10にも100にも具体的応用ができる
「顧客に最上のサービスを提供すること」を事業の最上位概念に置く米国高級百貨店のノードストロームもまた、伝説には事欠かない企業だ。───ある顧客が「タイヤを返品したい」と言ってきた。それを受けた担当者は、にこやかに応対し、すぐさま品を受け取って返金をしたという。同社ではタイヤを扱っていないにもかかわらず。
いまでも同社では、例えば、顧客が5年間履き続けた靴を店に持ってきて、それが擦り減ったから代金を返してほしいと言った場合、その客にお金を渡すかどうかは販売員の判断に委ねられている。ジェームズ・ノードストローム共同会長はこう言う。「従業員が仕事に励むのは、自分がこうすべきだと思った方法で仕事ができる自由と、自分が顧客だったらこう扱われたいと思う方法で顧客に尽くす自由があるからだ。従業員のインセンティブを奪い、ルールで縛るなど、もってのほかだ! 彼らの創造力が潰れてしまう」(『ノードストロームウェイ~絶対にノーとは言わない百貨店』)。

リッツ・カールトンもまた、顧客満足の創出をホテルという場を用いて行う事業者である。同社のクレド(事業の理念や使命、哲学を明文化したもの)にはこうある───「リッツ・カールトンでお客様が経験されるもの、それは感覚を満たすここちよさ、満ち足りた幸福感、そしてお客様が言葉にされない願望やニーズをも先読みしておこたえするサービスの心です」。このクレドの行間にはそれこそたっぷりのにじみがある。従業員はこのにじみを普段から深く咀嚼し、お客様との出合いがしらの状況で具体的な接客行為に落とすことをやっている。同社の従業員が優れているのは、正確には「接客術」ではない。リッツ・カールトンのサービスがどうあるべきかを、「抽象的に把握する力」が優れているのである。

本当に大事な人財教育というのは、末梢の具体的な行動をいくつも覚え込ませることではない。従業員たちはそうした理解が容易な具体的なものを欲しがるだろうが、そればかりでは思考が受け身になるだけだ。育むべきは、抽象的に大本の「一(いち)」を考えつかもうとする習慣なのだ。大本の「一」をつかんだ者は、そこから独自に10通りも100通りも具体的な行動に変換することができるようになる。これが「自律的な個」というものだ。そして、そんな個が集まれば「自律的な組織」になる。自律的な組織は、監督者がいちいち細かなことに口出しをしなくても、現場のそこかしこで勝手に素晴らしい創発を起こす。だから、経営者や監督者が、従業員や部下に促すべきは、「もっと抽象的に考えろ」なのだ。

◆「本田技術研究所は人の気持ちを研究するところである」
補足になるが、松下幸之助や本田宗一郎は、事業に対しどんな定義の感覚をもっていたのだろう。松下は『実践経営哲学』の中でこんな言い回しをしている─── “事業は人なり”といわれるが、これはまったくそのとおりである。(中略)私はまだ会社が小さいころ、従業員の人に、「お得意先に行って、『君のところは何をつくっているのか』と尋ねられたら、『松下電器は人をつくっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくっているのです』と答えなさい」ということをよく言ったものである。
また、本田は1960年(昭和35年)に本田技術研究所を分社独立させたとき、創立式典で次のように語ったという─── 私は研究所におります。研究所で何を研究しているか。私の課題は技術じゃないですよ。どういうものが“人に好かれるか”という研究をしています(ホンダ広報誌『Honda Magazine』2010年夏号より)。

「松下電器は人をつくるところである」「本田技術研究所は人の気持ちを研究するところである」───これらの定義は抽象的であると同時に主観的である。定義は客観的であるべきだと誰もが思いがちである。しかし主観による定義が悪いだろうか。確かにサイエンス(科学)の世界は厳格に客観性を求める。しかし、経営や事業、仕事といったアート(技芸)の要素を多分に含み込む人の営みの世界では、主観性はおおいに許される、いや、むしろ積極的に奨励されるべきではないか。


会社では頻繁に会議が行われている。しかし、私が感じるのは、会議の場に分析や批評が溢れはするが、ついぞ「自分たちはどうするんだ」とか「自分たちは事業をこう定義する」といった肚から出る主観的な意志が立ち現われてこない。結局、対前年何%増といった事業計画上の数値目標だけが、客観性・合理性を帯びた金科玉条として組織の中を跋扈することになる。

「拙くてもいい、粗くてもいい。もっと抽象的に、もっと主観的に、仕事を通しての自分の叫びを表現してみろ!」私が経営者・上司なら、そう発破をかけるだろう。ちなみに私は、自分が行う事業を次のように定義している─── 「働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる学びの場を提供する事業」。そして自分の目指したい姿は 「働くとは何か?について第一級の翻訳者になること」。




この記事は、ビジネス雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)
2011年秋号39号に連載中の
「曖昧さ思考トレーニング」の一部を整理したものです。



Tamagawa heri
多摩川の散歩にて


 

2011年8月21日 (日)

「知っている」が学ぶ心を妨げる

Nyudokumo 


企業で研修を行うと、

たいてい主催の人事部(人材育成担当)は受講者(社員)に事後アンケートを取ります。
そのアンケート結果は、研修プログラムの開発者であり講師である私にとっては、
いわば成績表のようなもので、高い評価であれば励みにし、
意見やクレーム・批評のようなものがあれば改善要求書ととらえて参考にします。
いずれも見るのは楽しみです。

しかし、そんな中で、残念な感想というのがあります。
それは例えば───

「わかりきった内容のことが多かった」
「どこかで聞いたような話だった」
「1日拘束されてやるほどの情報量がなかった」
「理論的に目新しいものではない」
「実際の業務には使えない」 ……といった類のものです。

もちろん私も、このような声が出ないように一生懸命プログラム改良をして
努力を重ねるわけですが、このような類の感想はどうしても出てしまうのです。
その理由は「知識が学ぶ心を妨げている」からです。
きょうはそのことについて書いていきましょう。

私が行う『プロフェッショナルシップ(一個のプロであるための基盤意識醸成)研修』は
仕事やキャリア形成に関わるマインド・観を涵養する内容ですので、
いわゆる知識習得・実務スキル習得ではありません。
マインド・観といった基盤意識をつくるために
働く上での原理原則の観念をさまざまに肚に植え付けていただくこと、
そして大いに思索・内省の脳を動かしていただくことが内容です。

私は「観念が仕事をつくり、観念が人をつくる」と確信しています。
さらには、観念は価値を生み出す基となるものであり、
観念は人を結びつけるものであるとも確信しています。
例えば私が紹介する観念は───

「心が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる」。 (星稜高校野球部・山下智茂監督の指導書き)

あるいは、
「悲観は感情に属し、楽観は意志に属する」。 (アラン:仏哲学者)

または、
「チャンスは心構えをした者に微笑む」。 (パスツール:科学者)


これらわずか一文に表された観念を肚に落としてもらうために、

ワークをやり、ゲームをやり、ディスカッションをやり、
1日とか2日とかの研修プログラムをこしらえます。

原理原則を含んだ観念というのは、古典的な言い回しです。
当然それらは一読して当たり前の内容であり、
新規性のある情報や理論は含んでおらず、地味で説教じみたものです。

そんなとき、
「心が変われば運命が変わる? まぁ、教訓としてはそうだよね」、
「ああ、その言葉、聞いたことある、知ってる。(で、それが何?)」、
「チャンスは努力しないと来ないってことでしょ。はいはい、わかってます。
(で、明日から使えそうな具体的ハウツーは何か教えてくれるの?)」
……受講者の中で「知識狩り」「ハウツー情報狩り」の人の感想はこうなりがちです。

知識を狩るにしても、ハウツー情報を狩るにしても、
それはひとつの好奇心の表れでもありますから、
まったく悪いというつもりはありません。
しかし、自分の外側にある新奇のものばかりの収集・消費に忙しく、
自分が既に持っている内側のものの耕作・醸成を放置していることが
私は残念だと言いたいのです。

私たちはあまりに知識所有教育を受け、情報優位社会に生きているので、
「ああ、それなら知ってるよ」と思ったとたん、
それ以降の「考えること」をしなくなります。
そして、もっと知らない知識・もっと目新しい情報を欲しがるのです。

ここで、小林秀雄を引用しましょう。
下の箇所は小林が小中学生に語った『美を求める心』に出てきます。


「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。(中略)言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです」。


小林は、言葉が美を見る心を奪ってしまうと言います。

それと同じように、私は、知識が学ぶ心を奪ってしまうと思います。
つまり、「ああ、アランのその言葉なら知ってるよ。『幸福論』に出てくるやつでしょ」と、
自分がそれを知識としてすでに持っていると認識するや、
その人はもうその言葉に興味をなくします。
その言葉の深い含蓄を掘り起こし、自分の生きる観念の一部にしようという心を閉じるのです。

知識狩りに忙しい人は、新奇のものを知ることに興奮を得ていて、
ほんとうの学び方を学ばない。
ハウツー情報狩りに忙しい人は、要領よく事を処理することに功利心が満たされ、
物事とのほんとうの向き合い方を学ばない。

しかし、人生とはよくできているもので、
こうした情報狩りに忙しい人も、ハウツー情報に忙しい人も、
いつかのタイミングで古典的な言葉に目を向けるときが必ず来ます。
誰しも、悩みや惑い、苦しみに陥るときがあるからです。
人は何か深みに落ちたときに、
断片の知識や要領のいい即効ワザだけでは自分を立て直せないと自覚します。
そんなとき、自分に力を与えてくれるのが古典的な言葉です。
その言葉を身で読んで、強い観念に変えて、その人は苦境から脱しようとします。

そういうことがあるから、
私は古典的な言葉を通して、大事な観念を研修で発し続けます。
いまはピンとこないかもしれないけれど、
その人の耳に触れさせておくということが決定的に大事です。

自分の外側には、無限の知識空間があり、そこを狩猟して回るのは興奮です。
他方、自分の内側には、無限の観念空間があり、そこを耕作することは快濶です。
狩猟の興奮を与えるコンテンツ・サービスは世の中に溢れていますが、
耕作することの快濶さを与えるものは圧倒的に少ない。
私はその圧倒的に少ないほうに自分の仕事の場を置きました。

お客様に買っていただくことが難しい商売ですが、
私自身にとっては、その仕事こそが自らの観念空間を耕作することでもあり、
そこから無上の快濶さを得ることができるので、今後も喜んで続けようと思っています。

〈追記〉
3・11以降の日本がどうなるかを考えるとき、
日本人がこの耕作にどれだけの振り返りをみせるかはひとつの重要なポイントになると感じます。
人を強くするのは多量の知識ではなく、健やかな観念です。
興奮は一時的な刺激反応ですが、快濶は持続的な意志活動です。
日本人の1人1人が、「知ること」を超えて、「掘り起こすこと」に喜びを見出していくなら、
日本はひとつ強くなれると思います。

 



 

2011年5月31日 (火)

人づくりは「親心」から ~人財育成担当者の心得


先週末、台風2号が近づく中、大阪の企業で研修をやってきました。

今回の研修のご依頼をいただいたのは
会社の人事部(人財開発部)ではなく、労働組合からでした。

「働くこととは何か?」は労働組合にとっても、本命中の本命のテーマ。
その企業では、会社(人事部)が行う研修体系の中にキャリア教育関連のものがなく、
ならば組合でそれをやってあげたい、という背景からです。

入社3年目の組合員(社員)数十名が全国から研修所に集まり、
1泊2日のうち、2日目を私の研修プログラムにあてました。

「キャリアマインド研修」
~“仕事・働くことって何だろう”をレゴブロックで考える

と題した研修は、
概ね、企業の人事部から依頼される場合と同じプログラムで組んだのですが、
今回は少し“ゆるめ”でつくりました。
というのは、人事部主催の研修というのは、どうしても業務の一環ということもあり、
研修設計への要請として「成果物を出させるようにしてください」、
「目標を書かせるような欄をつくってください」、
「5年後のありたい姿を記入させてください」のような事項が出てきます。

まぁ、それ自体は悪ではありませんが、どうしても受講者からすると構えてしまう。
その点、今回は組合主催ということもあり、
そんな成果物の提出・目標記入ワークなどは一切省きました。
その分、とてもリラックスしてプログラムを終えられたような気がします。

「働くとは何か?」という人生の問題は、多分に個人の価値観の領域ですから、
会社側は社員がどんなことを書くのかを知りたがるのは理解できますが、
何かと“吸い上げる”のはかえって逆効果な場合があります。
それに会社側の悪いクセとして、
何事も「計画的に目標を持って」ということをよしとする考え方が支配しています。
もちろん事業はそうでなければなりませんが、
個人のキャリアについては、「プランド・ハプンスタンス理論」のようなものがあるとおり、
偶発性が無視できないものです。

私は「よいキャリア形成」というのは、
計画のあるなしではなく、「想い」のあるなしだと思っています。
ですからプログラムも、働くことの「想い」(ベクトルやイメージ、そして意味)を
肚に据えることを重点的にやっています。
だから、私個人は(キャリア研修はスキルトレーニングではないので)
受講者の提出物を設けるとすれば、感想文だけでいいと思っています。
会社側はその感想文から伝わってくる「熱」(もちろん熱い感想文もあれば、冷めたものもある)
をいろいろと感じるだけで十分なような気がします。

さて、それにしても、
今回の研修がとてもいい雰囲気の感じで終えられた一番の理由は、

この企画をした労働組合の委員長、書記長、運営委員の方々の
“思い”ではなかったと思いました。

もちろんこの合宿研修の目的は、組合への理解というものが第一にあるわけですが、
それ以上に、
2日目の研修で「仕事・働くこと」について何かしら感じ取っていってほしい、
今後この子たちがたくましく一職業人として育っていってほしい、といった
「親心」にも似た思いがいろいろなところににじみ出ていたということでしょうか。

彼らの親心めいたものは、
この研修の依頼をいただいた最初のメールからすでに私は感じ取っていました。
研修の意図や背景、そして、どう私のプログラムを知り、
なぜ私のプログラムを選んでいただけたのか、などを丁重にメールでくださり、
そこには手作りで予算は限られているが、
少しでも組合員のためによい会を開催したいという真摯な思いが詰まっていました。

* * * * *

人財育成、つまり「人づくり」をやる側のもっとも大事な基本は、
やはり「このように育ってほしい」という“親心”なのだなと再認識しました。

私のところには、研修依頼の問い合わせメールがさまざまに舞い込みます。
たいていは人事部の人財育成/人財開発担当者からです。
私のやっているプログラムが「仕事・キャリア・働くとは何か」、
「自律したプロフェッショナルとはどういうものか」といった
マインド・観醸成のものだけに、特に分かりやすいのですが、
おおよそ最初のメールでその担当者の親心具合がわかります。

メールの内容で、キャリア関連の研修をやりたいが、
資料はあるか、実績企業はどこか、料金はいくらか、といったように、
いかにも研修の外側の部分だけを問い合わせてくるような場合、
担当者の親心はあまりないように思います。
で、実際、そういった担当者にお会いしてみても、
何か機械的に数社の情報を集め、比較して依頼先を決めているようなことが多い。

親心のある担当者は、最初のメールで、自身の問題意識や動機を必ず語ります。
これこれこういう問題意識や動機があって、
それに見合うプログラムを探していたところ、
ここ(私のサイト・私の書籍)にたどり着いたので問い合わせします、といったような。
親心のある担当者であればあるほど、
実際にお会いして話したときに、その問題意識や動機をめぐって話は尽きなくなります。


さて、人財育成担当者は総じて仕事熱心な人が多いのですが、
仕事熱心が必ずしも親心の大きさにつながっていない場合も多いと私はみています。

人財育成担当者の中には、人事を「戦略」で熱心に語る人がいます。
こうした人は、どことなくヒトを戦略のための素材・資源とみる傾向があって、
個々の人間の有り様をあまり気にかけない傾向性があります。

また、人事を「制度」で熱心に語る人がいます。
制度設計にとても関心が強い人は、
ヒトを「スペック(人材要件)」でとらえる傾向性が強くなります。
スペックを細かく記述して、個々の生の人間をそのスペックにはめ込んで、
組織総体の人づくりを考えようとします。

また、人事を「知識・理論」で熱心に語る人がいます。
「今年の管理職研修は、サーバント・リーダーシップをやろう」とか
「コンティンジェンシー理論をやろう」とか、
「モチベーション理論なら、最新のこの先生に来てもらおう」とか、
そういった理論系コンテンツに傾倒する人ほど、
自社の社員をどんな人財に育てたいのかを、自らの言葉とイメージで保持していません。

人をつくるということに対して「親心」のある方は、
戦略を超え、制度を超え、知識・理論を超え、
豊かにふくらみをもって「こういう人財になってほしいな」という包容力・愛情があります。
それは30分ほども話をすればわかります。
その包容力・愛情が、研修プログラム選びの真剣さになります。
その真剣さが、最初の問い合わせメールに自然とにじみ出てくるものなのです。
そして最終的には、研修の場の空気にも影響を与え、
組織全体の人づくりにも影響を与えていきます。

私は、もっともっと「親心」をもった人事担当者が増えていくことを願っていますし、
そうした担当者に多く出会っていくことが楽しみでもあります。




 

2011年1月10日 (月)

「働くことを切り拓く力」の脆弱化を考える 〈下〉


◆キャリアを形成する5つの要素:CROSS
人はどういう意識で職業を選び、どう仕事を発展させ、実績を生み、
何を目指して進んで、キャリアを形成していくのだろうか。
―――それにつきひとつの考察を試みたのが図1である。


Crcross01 


私はキャリア形成の要素として次の5つをあげる。

 1) 能力を豊かにする 〈enriching CAPABILITY〉
 2) ロールモデルを持つ 〈having a ROLE MODEL〉
 3) 機会を見出す 〈finding an OPPOURTUNITY〉
 4) 意義を与える 〈giving SIGNIFICANCE〉
 5) 1~4を統合する 〈SYNTHESIZE〉

この5つの要素を交差させるところで、私たちは職業選択をし、
仕事を発展させ、実績をつくり、方向性を決めてキャリア形成を進めていく。

次に図2はその5要素を詳しく示したものである。
1~4の要素はそれぞれに段階がある。
この段階を経て統合されているほどその人は強いキャリア形成を行っていることになる。

Crcross02 


〈1〉能力〈CAPABILITY〉の形成要素
誰しも「能力がある」「適性がある」という分野で職業選択をし、仕事したいと思う。
これは第一段階として当然のことだ。
しかし、キャリアをつくっていく上でもっと重要なことは、
図に第二段階として示してある「能力の展開」が行えるかどうかだ。これはつまり、
環境が変わっても自分の能力を応用展開させて、きちんと成果が出せるかどうかを言う。

会社組織で働いていると、人事異動や転勤はつきものだ。
そして市場環境の変化にも直面する。
そうしたときに、自分のベース能力を変形させる力を持っていないとすぐに行き詰まる。
行き詰まったときに、「これは人事配置のミスだ」とか
「適性の向かない環境に回されてモチベーションが上がらない」とか不満を漏らして、
くさるか、短気を起こして転職するか、これはキャリアを切り拓く力の弱い人の姿である。

また、大学生の就職活動にしても、何かと適性、適性と言う。
適性診断やら自己分析やらで被験者の適性をタイプ分けし、
そこから選択すべき職業・職種を教える。
あれは一種の「占い師」の宣告になる危険性があり、
学生の思考をいたずらに呪縛するもので、私は必ずしも有益だとは思わない。

以前、元の会社の後輩社員から相談を受けたことがある。
彼は大学時代に広告研究会で活躍していた人間である。
そのクリエイティブ能力から、長年、広告部に配属されていたのだが、
組織の大変更で営業部隊の最前線へ。

くさりかけていた彼に私は「営業だから非クリエイティブと決めつけないで、
クリエイティブのレンズを通して営業を見たら存外面白いかもしれないよ」と伝えた。
その後1年半ほどして、彼は営業部隊でPOPやリーフレットを作成したり、
納入取引先のウェブサイトのデザインを支援したりするクリエイティブチームを起こし、
そこのリーダーにおさまったとの連絡を受けた。
彼はたくましく新境地を拓いたのだ。

能力は大事だし、適性も大事だ。
しかし、キャリア形成にとってもっと大事なことは、能力を展開する力である。
環境への不満を言い出したらきりがない。
「自分の居場所はここじゃない」とすぐに逃げ出す人はキャリアを拓けない。
そもそも自分に100%フィットする仕事環境などないと心得るべきなのだ。
そしてまた、自分の潜在能力や本当の適性はどこにあるか
本人も気づいていないときは
意外に多い。

環境・状況に応じて、能力を変形させる、あるいは自分を変える、
逆に、環境や状況を好ましいように変えていく―――そういった意識を
上司も組織も、大学の就職支援カウンセラーも伝えていくべきなのだ。


〈2〉ロールモデル〈ROLE MODEL〉の形成要素
私たちはよりよく働くため、そして力強くキャリアを進んでいくために方向性が要る。
方向性を持つことの最初のきっかけは「あの人のような仕事がしたい」という
模範やあこがれを持つことである。
「学ぶ(まなぶ)」という語は、「真似る(まねる)」から来ていると言われるとおり、
人を真似ようとすることから方向性が出てくるのである。

強くキャリアを歩んでいる人は、意識するしないに関わらず、
必ずどこかの時点で模範やあこがれの人物に出会っていて、
その人物の働き方・働き様(ざま)・生き様(ざま)から理想のイメージをつくり出している。
その理想のイメージは、強烈な1人の人間から得ている場合もあれば、
複数の人間の合成の場合もある。
そしてその理想イメージが十分大きく堅固になったとき、
それは「夢・志」と呼ぶべきものになる。

キャリア形成の力が弱い人は、全般的に他の人間の働き様への関心が薄く、
そこから何か自分なりの理想イメージを引き出す力も弱い。
漫然とイメージ無しに働き過ごしている。
せいぜいあこがれるとすれば、「○○の仕事はラクに儲かっていいなぁ」くらいだ。

「働くことを切り拓く力」を養うために私たち大人ができることは何か。
それはロールモデルをたくさん見せることだ。
自らの夢や信念に生きた姿をどんどん後進世代に語っていくことだ。
ロールモデルならそこかしこにある。
図書館には過去の偉人たちの自伝がいくらでも並べてある。

大人になってもう一度、野口英世やキュリー夫人、二宮尊徳など学級文庫に
ラインナップされた人たちの本を読んでみていただきたい。
子供のころとはまったく違った気づきがあるだろう。
そうした気づきを大人は子供たちにどんどん語るべきだ。
難しい話はいらない。―――
「すごいねぇ、こういう生き方」、
「お父さん(お母さん)は、こんな生き方が美しいと思うな」、
「信念を持ち続けることが大事なんだね」、
「こういう状態になったら、あなたならどうしたかな?」
……そんな語りかけでよいと思う。

また、そうした偉人でなくとも、
テレビのヒューマンドキュメンタリー番組では、
一つの仕事に献身するさまさまな働く姿が紹介されている。
新聞や雑誌にもそうした記事はたくさんある。
そんなときに「表に見えないところにはこんな仕事もあるんだね、面白いねぇ」、
「さすが、第一級のプロの仕事は違うね。感動するね」などと会話を持ちかけてほしい。

親や学校の先生がこうした語りかけをすることこそ、最良のキャリア教育であると思う。
「働くことを切り拓く力」を養うのに何か特別な理論やメソドロジーが要るわけではない。
働き方、働き様、生き様は、結局のところ、人の生きる姿からしか学べないのだ。

企業組織における人財育成においても同じである。
ロールモデルたるべき人物の仕事ぶりから、
個々の社員が有形無形に何かを引き出し、
組織文化や組織のDNAを継承させていくことに成功しているのが本田技研工業である。

同社の社史『語り継ぎたいこと~チャレンジの50年』 (ウェブ上に公開されている)は、
会社創業期からの群像物語である。
ここには、本田宗一郎や藤沢武夫はもちろんだが、
一課長や一技術者の話までふんだんに紹介されている。
この社史が社員にとって非常に有益なのは、会社の歴史的出来事が書かれているからではない。
スーパーカブの発売にせよ、マン島レースでの優勝にせよ、CVCCエンジンの開発にせよ、
そこに関わった人物がどう考え、どう失敗し、どう決断し、どう振舞ったかが
肉声を交えて書かれているから有益なのである。

この項目の冒頭で、ロールモデルから得るものは、 “方向性” であると書いたが、
もうひとつ忘れてならないものがある。―――それは “熱” である。
キャリアをたくましく切り拓いていくためには、心に熱を帯びていなくてはならないのだ。
方向性を持ち、熱を帯びたとき、ようやくその先に夢や志は見えはじめてくる。


〈3〉機会〈OPPOURTUNITY〉の形成要素

私たちは環境と時代の中に生きている。
だから自分を大きく活かしていくためには、
環境が自分に求めるものは何か、時代が要請するものは何かということに
常にアンテナを張っておく必要がある。

環境とは、広くは社会全般であり、具体的には自分が働く組織、関わる業界や市場である。
時代には、過去はどうなってきた、現在にどんな課題がある、そして未来をどうすべきか
という3つのフェーズがある。
私たちは、環境や時代に合わせるのが精一杯なところがある。
あるいは環境と時代の中に自分の居場所を確保することで満足してしまうこともある。
しかしそれはまだ「働くことを切り拓く」姿ではない。

環境や時代といった文脈を感受し順応することから、一歩踏み込んで、
「だから次に、ここにはこういうチャンスがあるはずだ!」と、
あるリスクを負って未来を自分の意志の方向にもっていくような挑戦姿勢、
それこそが切り拓くというキャリア形成のあり方だ。

そうした果敢に機会を創造する精神はどうやれば涵養できるのだろう。
私はこれに関しても特別な教育メソドロジーや訓練は必要ないと思っている。
これはいわば “精神の習慣” の問題なのだ。
精神の習慣は日ごろの積み重ねからつくられる。
さきほどロールモデルの箇所で触れたとおり、
偉人や第一級の生き方をしている人びとについて、家庭で学校で組織で語り合えばよい。
彼(彼女)は、その人生の大きな分岐点に立ったとき、どんな勇気ある行動をしたかを。

また、マスメディアは往々にして、
何か突飛で話題性のある結果を出した人をヒーローとして
おもしろオカシク紹介するだけであるが、もっと
真摯に社会的に意義のある仕事をする人びとの、地味だが腹応えのある奮闘プロセスを
(視聴率・閲読率を失わないような)上等な方法を考え紹介する努力もしてほしい。

リスクを取って未知の世界に踏み込み、チャンスをつくり出そうとする生き方が
そこかしこで語られ、賞賛され、奨励されること―――これが日常の中で普通になったとき、
日本人の「働くことを切り拓く力」は強められ、それが精神の習慣として定着する。


〈4〉意義〈SIGNIFICANCE〉の構成要素

何かに興味・関心を抱く。そして興味・関心を強めた分野で職業を持つ。
これは職業選択において大前提だ。興味・関心のない職をやることは不幸である。
興味・関心は職を得る前から自然発生的に抱く場合もあるだろうし、
後付けで興味・関心を湧き起こす場合もあるだろう。
それは男女の結婚と同じである。結婚前から恋愛しているときもあれば、
見合いによって互いを知り、事後的に恋愛感情が芽生えて結婚に至るときがあるように。
いずれにしても「~が好き」「~に興味がある」というのは必要条件である。
しかし、このことで十分であるとは言えない。

よく「好きを仕事にしなさい」と言われる。
私はそこには落とし穴があると思っている。
なぜなら「好き」は、いとも簡単に「飽きた」「嫌になった」に変化するからである。

好きを仕事にということで趣味の分野で独立起業したものの、
実際は、そのことが好きであるという愛好者の目線と、
それを商売としてやる経営者の目線はかなり違っているために、
うまくいかなかったという事例を私は多く知っている。
情熱(一時の熱病のこともある)や思い込みで突っ走るというのは、
実は不安定な状態であるのだ。―――では、どんな状態が一番良いのか?

それは、 「~が好き×~のため」 を仕事にすることである。

「~のため」というのは、その仕事に意味・意義を与えることをいう。
例えば、家族を養うためとか、この技術を発展させるためとか、
社会からこの病気をなくすためとか、そういった仕事の理由である。
「好き」にこうした理由が掛け合わさるとき、その仕事は安定度を増す。

そしてもちろん、その「~のため」が内から湧いて外に開いていればいるほど、
(つまり内発的で利他的な理由であるほど)
自分の仕事・キャリアは力強く、スケールを増して動いていく。


〈5〉統合〈SYNTHESIS〉の形成要素
そして最後の5つめの要素は、以上述べてきた〈1〉~〈4〉を統合することである。
この統合して考える、そして行動に変えることが、
キャリアをたくましく拓くために最も重要な作業となる。

子供たちに仕事というものに具体的関心を持たせるために、
『キッザニア』 (キッズシティージャパン運営)という仕事体験テーマパークや
『13歳のハローワーク』 (村上龍著、幻冬舎)などの職業カタログ本がある。
いずれもすばらしく練られた内容であるが、
これを子供に見せて、あとは子供本人の興味に任せるままでは、
彼らの内に「働くことを切り拓く力」を育むことにはつながっていかない。

例えば、
子供が上のような体験パークや書籍で「消防士」という仕事に関心を持ったとしよう。
子供の好奇心は純粋で強いので、こうしたメディアのインパクトによって
「消防士が絶対いい!」と熱望することはよく起こる(誰しもこういう経験はあったはず)。
しかし、たいていこれは熱病のようなもので、中学校に上がり、高校生になり、
大学で就活をするころになると、「消防士」になりたかったことを懐かしく思うようになる。

しかし、ごく限られた中に、子供のころのそうした想いを実現させる例もある。
それはその後本人が、「消防士が好き」というフェーズから、
消防士という仕事にはどんな社会的役割があって、
だから「~のために消防士になりたい」という心理フェーズに移行したり、
消防士になるにはどんな能力や適性が必要かを学び、そのための準備を怠りなくしたり、
実際の消防士の人の具体的な働き方を見聞して、それを自分の将来の姿に重ねたり、
消防士という仕事の可能性やチャンスを頭の中で大きく巡らせたり、と
そうした統合作業を継続させ、ついにはほんとうにその職業を手に入れてしまうのである。

この統合は、あいまいな思考や思索を具体的な志向や行動に変えていくという
受験勉強で正解を当てるという類の作業とはまったく異なるものである。
しかし、この統合をやり始めると、
統合の過程の中から、どんどんエネルギーが湧いてきて、
そのエネルギーがさらに統合を進め深めるという善循環が起こる。
そうすると「働くことを切り拓く力」がどんどんついてくる。
もちろん、その統合の作業をうまくやらせるためには、
本人以外、家族や先生、その他の人の支援や刺激が不可欠なのだ。

職業の種類をいろいろ見せて、「さぁ、興味あるものを見つけなさい」というのは、
最初の取っ掛かりとしては大事であるけれど、それのみで終えてはいけない。
また、診断ツールか何かで「あなたに向いているのはデザイナーです」とか、
ポンと答えを与えるのは、有害である。
この即便性こそ、子供の考える作業を省き、統合から遠ざけ、拓く力を弱めている。
しかし現実は、人びとの受けがいいので、
事業者はこういう即便なサービスを巧みに商業化する。
そして、ますます人びとはそれに乗っかってくる―――問題解決は簡単ではない。

以上説明してきたように、
私自身は、キャリアを形成する要素としてこの5つ「CROSS」をあげる。
なお、「CROSS-ing」モデルと「ing」を付けてあるのは、
5つの要素の交差点でキャリアは形成されていくわけだが、
それは刻々に変化していく、絶え間ない努力による“進行形の所産”であることを
表したかったからだ。


◆日常のすぐそこにある誰しものキャリア教育

キャリア形成の「CROSS-ing」は子供にも、
就職活動する大学生にも、そして社会人にも当てはまる。
「働くことを切り拓く力」が弱いとは、つまり、
「CROSS-ing」が “やせて” いる ということだ。
下図は、前々記事で紹介したネット通販会社を志望する大学生T君の例を示したものである。

Crcross03 


図を見てわかるとおり、すべての形成要素が “か細い”。
シューカツテクニックをにわか仕込みでやったとしても
多少の見た目は改善されるかもしれないが、肝腎な部分は強くならないだろう。
切り拓くという精神の習慣ができていないからである。
働き様・生き様といったファジー(あいまいで形式化されないもの)なものを
ファジーなまま受け取り、咀嚼し、感動し、
具体的な自分の行動に変換することを奨励されてこなかったからである。
(これは本人にも、周囲にも、社会にも原因がある)
では、「CROSS-ing」を“豊かに強く”とはどんな状態か。その一例を下に示した。

Crcross04 


こうしたたくましい「CROSS-ing」ができる精神の習慣をつくることこそ、
キャリア教育の役割である。そしてそれは、
キャリア教育者だけがやればよいということではなく、
親がやり、先生がやり、上司がやり、経営者がやり、メディアがやり、
社会がやらなくてはならない。

働くことって面白いなと嬉々と語ること、
仕事を通して夢に向かう真剣な目を見せること、
未知の世界に挑戦する人を讃えること、
成功・失敗という結果でなく、努力のプロセスに関心を寄せること、
改めて野口英世の自伝を読んでみること、そして彼の生き方について対話すること、
自分はなぜこの職業を選び、続けるのかを言葉にし、発すること、
―――そうしたことが世の中のそこかしこに満ちていくことが、
何よりのキャリア教育になるのだ。

私たちは、
お勉強のできる子、業務をうまく処理できる社員をつくることには躍起だが、
「働くことを切り拓ける」人間を育むことはおろそかなままである。
しかし中長期にみて、個人に、家庭に、組織に、社会に重い影響を与えてくるのは、
「働くことを切り拓く力」のほうである。
それを大人たちはきちんと意識しなくてはならない。


* * * * * *

Butszobk 

年末に仏像の写真集を見る。
子供のころはこうした仏像の顔がコワイと思っていた。
夢に出てきそうなのであまり凝視もできなかった。
しかし、いま大人になって見ると、惚れ惚れと見入ってしまう(ほどの素晴らしい創造である)。

仏像の中にはこうした憤怒の形相を持つものが少なくない。
これは慈悲の心からくる怒りである。
仏法は、人間の生命境涯(魂レベルでの)が、仏性に染まるか、魔性に染まるか、
その自己との戦いのなかで前者に向いてゆけと教えるものと私は理解している。

いわばその仏性陣営で、魔の側に付くな!目覚めよ、衆生! 魔を追い払ってやる! 
と我々を守ってくれているのがこうした明王や天たちなのだ。
明王や天は具体的にそういうものがいるわけではなく、
生命境涯の状態、あるいはそれが起こす作用のようなものである。
それは自分の外にある場合もあるし、自分の内にある場合もある。
そしてそれを形相として表すとこうなる、というのが仏像彫刻である。
やさしく言えば、仏像は、心の状態、精神の作用を具体的な形に表現したものなのだ。

優れた仏像は、それを彫る仏師の技能だけでは作ることができない。
仏師がその心になっていなくてはならない。
仏像の完成度はそのまま仏師の技と心の完成度でもある。
私は仏像を見るとき、仏像とともに、仏師のことを想う。


2011年1月 9日 (日)

「働くことを切り拓く力」の脆弱化を考える 〈上〉



◆ネット検索…「命」!

昨年9月、大学4年生でまだ就職内定をもらっていない学生たちと話す機会があった。
すでに就職戦のヤマ場は終わり、不安な気持ちで日々を送っていた彼らだった。
いまやネット上で初期の選考プロセスが行われる時代である。
ネットを通じての応募は手軽だが、そのために
「40社申し込み/40社不戦敗」などという状況が簡単に起こる。

学生たちは、興味関心のあるワードで検索をかけて候補企業を見つける。
検索ワードも、上位志望の選考から外れるにしたがって、
だんだん自分の気持ちとは逸れはじめるが、
もはや「拾ってくれるところならどこでも」という心境になる。

就職課に相談に行っても、職員はていねいに話を聞いてくれるものの、
自分のやりたいことなどいまだはっきりせず、
「もっと発想を広く持って検索をかけてみれば」と促されるのみだ。
そんなこんなで検索とネット申し込みを繰り返すうちに、2カ月が過ぎ、3カ月が過ぎ、
やがて検索に引っ掛かってくる候補がゼロになる。
 
「毎日検索かけてるんですが、なかなかもう新しい案件が出てこないので……」とS君。
夏以降、S君は実質休戦状態となった。
大学4年生の残りの期間を卒業研究をちょこちょことやり、アルバイトをやり、
日々、検索を続けながらやるせない時間を過ごしているという。
S君に限らず、候補とする企業が検索にかからなくなったら、
もうそれ以降どうしてよいかが分からず、
就活が即、どん詰まりになってしまう人は実際のところとても多い。

こうした状況を、不景気だからしょうがない、と済ませることはできない。
そして同時に、「就活力」などという一種のスキルのあるなしの問題でとらえることも
事を矮小化することになる。
職を得る力は、一個一個の人間の「生きる力」の根本に関わる問題なのだ。
そしてそれは国の趨勢に大きく影響していく。


◆職選びが「カタログショッピング」になった
いまの大学生にとって職業選択は、
言ってみれば「カタログショッピング」のようなものになっている。

つまり、
ネット上のカタログには新卒者向けの「職業」という商品がたくさん掲載されていて、
そこに検索をかけて絞り込み、「あれがよさそう、これがよさげ」と物選びをする感覚だ。
まさに、ネット通販サイトでお気に入りの雑貨を探し当て、買い物するのと同じ。

サラリーマン就職するとは、ある見方をすれば、
自分の能力と時間を資金として、
会社員という職業を買いにいく行為だと言ってもいい。

で、今年の場合、その「お仕事カタログ2010」に記載された商品は
いずれも在庫数が僅少で、欲しいと思った人全員が購入できる状況ではないのだ。

運よく商品を購入できた人は「やれやれ」だが、
商品を購入できなかった人は、代替品を求め、条件をゆるくして検索を繰り返す。
どこの商品も「完売」となり、検索をかけてももはや該当商品が出てこなくなったら
カタログショッパーとしてはお手上げ、買い物を中止するしかない。

ショッピングなら、たとえ物が買えなかったとしても済ませられるかもしれない。
しかし、就職においては、自立するための職業が得られないのだ。これは重大問題だ。
人は職業を得てはじめて、生活を立てられ、家族を持てる。
そしてその職業を通して自己の可能性も開発できる。
衣食住・医の根本は、職を保つことによって可能になる。
一個一個の人間がきちんと職を保つことは、
地域・国の和を保つためにも欠かせない。

学生の内定率が低下しているという現象は小さからぬ問題ではあるが、
私が危惧するのはもっと奥に進行する問題だ。

大事な職業選択をカタログショッピング的にやることしかできない、
検索でかからなくなったからもうどうしたらいいか分からない、
そうして漂流している学生が世の中のそこかしこに増え、蓄積し、
層を形成し、歳をとっていく。
当の学生本人たちは何もふざけているわけではない。彼らなりに真面目でさえある。
だから問題は根深い。

文明の発達とともに、社会の平和とともに、生きる力が脆弱化するという指摘は、
いまに始まったことではないし、日本だけの問題でもない。
(かく言う私だって、明治時代の40代に比べればひ弱もひ弱だ)
しかし、社会をあげて死守しなければならない生きる力のレベルというのもあるだろう。
その死守すべきレベルがいよいよ侵されようとしているのだ。


◆意欲をどう湧かせ何をして働いたらよいか分からない人間を生む社会
T君は、マーケティング専攻で、卒業研究はネット通販事業に関するテーマだという。
ネット通販会社はもちろん、eマーケティング関連やITシステム関連の会社などを
数十社受けたがまったくダメで、その後、
小売業、ホームページ制作会社などにも範囲を広げていったが結局内定は取れなかった。

「マーケティングのどこが面白い?」
「ネット通販事業ってどんな可能性がある?」
「例えば第一志望の楽天に入社できたら何がしたかった? 
逆にいまの楽天に課題があるとすればどこだと思ってる?」
「ウェブサイトの制作スキルがあるって言ってたけど、
どんな会社のウェブサイトがすごい?」―――などをT君に穏やかに訊いてみる。
いずれも明快な返答は返ってこない。声もまったく小さい。
確かに、ここでよい返答ができているなら、どこかで内定を得ていただろう。

T君はまったく素直な子である。挨拶もできる。
こちらの言うことに集中もしているようだ。私のカップにお茶も注いでくれる。
しかし、「何をやりたいか」「なぜやりたいか」「どうしたいか」という問いに対しては、
頭がモヤモヤするだけで、返答が言語になって出てこない。

「じゃ、休みの日は何してるの?」……
友達としゃべってるとか、映画とかゲームとか、そんな返答だった。
「最近観た映画の中で面白かったのは何?」……
少しの間、考えているようではあるのだが、これと言って特に、と彼は口ごもってしまう。

話を切り替えて、
「映画やゲームなどもどんどんネット上で売られていくね。
そうしたコンテンツだってネット通販の時代になるね。関心はある?」……と訊くと、
は、はぁ、とうなずくだけである。

T君は内定がとれない場合、卒業を延期して再度、新卒予定者として就活するという。
ただし、親からの経済的支援が十分に得られないため、東京のアパートを引き上げ、
実家の京都に戻っての就活となるらしい。

地元のハンバーガーチェーンでアルバイトでもしながら、というT君に私は、

「京都に帰るのなら、農業だって選択肢のひとつかもしれないよ。
農業と言っても、それを支える仕事の種類はたくさんある。
君のところは京都でも栗や黒豆で有名な場所だし、志ある生産者はたくさんいるはず。
そんな生産者の人たちに産直通販用のウェブサイトを作ってあげたらどう? 
例えば地元のJA(農協)とかに、
マーケティングのお手伝いさせてください!って手紙を書いて売り込むのも手なんだよ。
JAは表立って求人を出していないかもしれないけれど、
ネット検索にかかる仕事だけが、この世の中の仕事じゃないんだ。
選ぶ選択肢がなくなったんなら、選択肢をつくり出すことを考えなきゃね。
アルバイトをやるにしても、マーケティング経験と仕事の実績ができるわけだから
そっちのほうがずっといいんだ。正職員の道だって開けるかもしれないし」。
……T君は、やはり、は、はぁ、とうなずくだけである。

T君の発想を刺激したり、考えを掘り起こすのを手伝ったりしようと
私はいろいろと話しかけてはみるのだが、どうも反応が薄く弱い。
T君は不真面目でも、怠け者でもない。
ただただ、自分の考えをどう起こしていいのか途方に暮れるのである。
自分の想いというものを湧き立たせることができず口ごもるのである。
そんな自分に対しT君は、
「くそー、じゃぁこうやってやる!」と発奮するのではなく、
「考えがいつまでたってもうやむやで情けない」と自己嫌悪になるのである。

私は何か不思議な生き物と遭遇している気分になった。
厳しい言い方だが、経営者の目線に立ったとき、
私自身、彼らを雇いたいとは思わなかった。

こういうことをつらつらと書いて、私は彼らを貶める意図はまったくない。
伝えたいのは、
意欲をどう湧かせたらいいかがわからない生き物を
平成ニッポンは社会全体としてつくりだしている事実である。

意図して怠けている者に対し、意欲を湧かせるのはむしろ簡単なことかもしれない。
いま問題なのは、素直で従順で、できれば頑張りたいと思っているのだが、
どう意欲を湧かせていいか分からない人間に対し、意欲を湧かせることなのだ。
きちんと職に就いて働きたいと真面目に思っているのだが、
何をどう真面目に自己を活かして働くことができるか分からない人間に、
職を与えなければならないことなのだ。


◆問題の根っこは「働くことを切り拓く力」の脆弱化

昨今、学校現場においても企業現場においても、
「キャリア教育」の重要性への認識が拡大しはじめている。
もちろん新しい教育分野なので、
あちこちでまだまだ試行錯誤が続いている(私もその一人だ)。

現状をながめるに、
多くのものがどうも対症療法的なアプローチであったり、表面的で形式的であったり、
商業ベースに乗りやすい形のサービスが先行するのはいたしかたないにしても、
ものによっては、問題をさらに深刻化させているものもある。

問題解決は、
「シューカツ」テクニックを磨かせて限られた求人椅子を奪い取れということではない。
自己診断ツールで自分の適性をタイプ分けし、この職種を狙えと指南することでもない。
キャリアデザインシートの「Will・Can・Must」の空欄を埋めさせ、
「強み/弱み」を棚卸しさせ、「10年後のありたい姿」を書かせる作業でもない。

問題の根っこは、「働くことを切り拓く力」の急速な脆弱化にあるのだ。

「働くことを切り拓く力」とは―――
働くことについて関心を持つこと、
具体的な職業について意欲を起こすこと、
職業を得ること、そして生計を立て家族をきちんと持つこと、
仕事で直面する失敗や成功を通して自分を成長させていくこと、
正解のない問いに対し答えをつくり出していくこと、
選択肢が与えられるのを待つのではなく、選択肢そのものをつくり出していくこと、
職業をまっとうすることで人生の基盤をつくり今生の思い出を残していくこと、
夢を描くこと、志を立てること―――
などについて自律的に力を湧かせることだ。
「働くことを切り拓く力」とは、ほぼ「生きることを切り拓く力」に等しい。

戦後間もない昭和の人びとには、まだこの切り拓くたくましさが十分にあった。
町のそこかしこにある古くからの個人商店の多くは、
戦後、職がなくてやむにやまれず開業した人たちの生業の姿である。
実のところ、サラリーマンという就労形態は人類の歴史上とても日が浅い。
(『オーガニゼーション・マン』というW.H.ホワイトの名著を読むと面白い)
サラリーマンに就くことが大多数ではなかった終戦後、
ともかく「俺は八百屋をやる」「自分は床屋だ」「保険の外交員だ」と
たくましく自分の商売を始め、不器用ながら人生を切り拓いてきた人は多い。


◆「安定した勤め人になることが目的」になった

現在の日本では、大多数が「勤め人」 (=組織に雇われるサラリーパーソン) を選ぶ。選びたがる。
そして、自営業で苦労した親たちも子供を勤め人にさせたがる。
いまや大多数の就職意識が「安定した勤め人になることが目的」になっていて、
その他の選択肢を考えず、求めなくなった。
(リタイヤ後、さらに天下って組織にぶら下がり続けようとする醜い大人もいる)

そして現れてきた現象が、
ネットに上げられた求人情報をカタログショッピング的に選び、
採用が得られなければ、次の求人情報が上がるまで受動的に待つしかない、という姿だ。
目に見える選択肢、ネット検索にかかる求人情報だけからしか
職選びの発想や行動ができない……そうして大事な20代、30代が過ぎてゆく。
少なからずが、「就職できないのは社会のせいだ」「雇用を増やさない企業が悪い」
といった勘違いな不満を溜めながら。

私はここで勤め人という選択肢が悪い、ネットで求人を探すことが悪い
と言いたいわけではない。それはあくまで手段なのだ。
働くという人生の一大事において、
多くの人間が手段の中にどんどんと自分たちを矮小化させている、
そしてそこに商業主義のビジネスが入り込む、そうして
すべてのことが「働くことを切り拓く力」の脆弱化の流れを加速させている、
そのことを指摘したいのだ。
米国もまたサラリーパーソンが大多数を占める国になった。
しかし、米国にはまだ「アメリカンドリーム」という伝統的スピリットが息づいていて、
個々の「働くことを切り拓く力」はかろうじて芯の強さを保っている。

日本には残念ながらそういうたくましき精神的なレガシーはない。
勤勉であることも、手先が器用であることも、
「働くことを切り拓く力」の脆弱化という大きな潮流の中ではいかにも非力である。

私が言うキャリア教育とは、「働くことを切り拓く力」を養う啓育にほかならないが、
これは社会全体で多面的・多重的に手をかけていかねばならない問題である。
親が、学校が、職場が、そして教育者が、メディアが、
きちんと意識的に取り組んではじめて、潮流を変えることができる。

そのための着想ヒントとして、
次回は、私が講演や講義で用いている「キャリア形成のCROSS-ingモデル」を
紹介しながら私見をまとめる。

(→次回に続く)


 

 

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