6) 人財育成ビジネスへの視点 Feed

2010年9月20日 (月)

「Design Thinking」という人財教育 〈下〉


Risona02r 

(→前記事から続く)
米国スタンフォード大学『d.school』の「d」とはデザインのことである。
ビジネス・スクールの「b.school」に対抗するものだ。
ここでは物事をクリエイティビティ、デザインの思考から横断的・統合的にとらえ、
イノベーションを事業の変革・創出、社会起業、行政の世界に展開できる人財をつくりだすことを
目的にしている。

『d.school』のウェブサイトをみると、その先行ぶりに驚かされる。
この『d.school』のコアコンセプトは「Design Thinking」(デザイン思考)である。
以下、そのサイトの「Our Vision」のページの記載を簡単に書き出してみる。


〈私たちのビジョン〉
 ○“We believe great innovators and leaders need to be great design thinkers.”
 (偉大な革新者・指導者は、偉大なデザイン思考者である必要があると私たちは信じる)

 5年前、私たちはスタンフォードのなかに、デザインの場所『d.school』をつくろう
 という夢を持ってスタートした。そして、
 『d.school』は、各学部(エンジニアリング、医学、経営、人文学)で学ぶ学生と教官とを
 つなぐ“ハブ”のようなものになり、
 大きな問題を解決するために「デザイン思考」を学び合い、協働する場所になった。


 ○“We believe design thinking is a catalyst for innovation and bringing new things into the world.”
 (デザイン思考は、イノベーションと新しいことを世の中にもたらす触媒であると私たちは信じる)

 『d.school』は、デザイン思考の“プロセス”を学ばせることに焦点を当てている。
 教室で出される課題を解決するプロセスでは、
 エンジニアリングやデザインの世界から方法論を引き出したり、
 そしてそれらを、人文学から得たアイデアや、社会科学から得た思考道具、さらには
 ビジネスからの洞察と組み合わせたりすることが要求される。
 そのプロセスは、各学問分野から集まったチームメイトたちを
 共通の目的の下につなげる、言わば“糊(のり)”のようなものになるだろう。

 デザイン思考は、行うこと(doing)によって最もよく学ぶことができる。
 デザイン思考のプロセスにおいて大事なことは、
 熱意を持ち、人と協同して、いち早く試作品をつくり、フィードバックを得て、
 また試作を繰り返す―――そういう態度である。
 この『d.school』で重要なことは、
 あなたが「どう行うか」であり、「結果を出すこと」ではない。
 なぜなら私たちは、イノベーターを育てることに主眼を置いており、
 特定のイノベーションを獲得することではないからだ。


 ○“We believe high impact teams work at the intersection of technology, business, and human values.”
 (高い効果をあげるチームは、テクノロジー、ビジネスおよび人間の価値の交差する場で働くと私たちは信じる)

 『d.school』はスタンフォードの諸研究活動を結び付け、
 異なるバックグラウンドをもった人びとによる多様性のあるチームを結成させる。
 私たちのクラスでは、“multidisciplinary”のアプローチが取られており、
 例えば「哲学の観点を取り入れたコンピューター科学」のように
 複数の学問分野をミックスさせた形で鍛錬が行われる。


 ○“We believe collaborative communities create dynamic relationships that lead to breakthroughs.”
 (協働的な集団は、活動的な関係性をつくり、そしてそれがブレイクスルーを導くと私たちは信じる)

 『d.school』は、常にキャンパス内と産業界から横断的に人を集め、
 異なる観点を取り入れている。これこそがこの場を活気づかせている要因である。
 私たちの文化は、平板なアイデアを超えるために、
 (たとえそれが不便なことであっても)素早く徹底的に
 相互で協働的にアイデアを出し合うことにある。
 積極的なコラボレーション―――これが『d.school』のイノベーションを生む文化の基である。


大学教育のみならず、行政も企業現場も、“専門分化”が問題となっている。
スピード化や効率化を求め、すべてを細分的に分業化してきた結果、
全体を見失い、タコツボ化や縦割り化、分断化の弊害が顕著になってきた。
そのため、世は「新しい統合」のあり方に関心を集めている。
その「新しい統合」のあり方は、社会、組織のみならず、一個人にも当てはまる。
一個人が「全人的」に自分の存在を使う、活かすことがますます求められている。

そうした「新しい統合」への教育分野のチャレンジとして、
この『d.school』はとても野心的である。
開設されている科目も面白いものが並んでいる。

 - Design Thinking Bootcamp
 - Entrepreneurial Design For Extreme Affordability
 - Cross-Cultural Design
 - Personal and Interpersonal Dynamics
 - Prototyping Change in Entrepreneurial Firms
 - Transformative Design
 - From Play To Innovation
 - Media + Design
 - Designing Liberation Technologies
 - Designing for Sustainable Abundance
 - Creativity and Innovation

各科目のカリキュラム概要はウェブサイトに上がっているので
興味のある読者の方は見ていただきたいのだが、
全体に共通する特徴は、先ほどのビジョンのところにあったとおり
“multidisciplinary”(複合的な分野の鍛錬)であること、
そして米西海岸シリコンバレー地域特有のベンチャー精神が脈打つこと、
さらにはそのベンチャー精神の向けどころがソーシャルビジネスであることだ。

例えば私が最も感心したのは、
2番目の「Entrepreneurial Design For Extreme Affordability」である。
うまく訳せないのだが「極めて資金的に可能な起業のデザイン」というような科目である。

同科目の導入部分には次のような一文がある。
 「農業用の灌漑網を整備するには何十万ドルも費用がかかる。
 送電線を張り巡らせるには何百万ドルもの資金が要る。
 しかし、30ドル以下の送水ポンプや電灯を供給することで
 貧困への問題を再考できるとすれば、それは極めて“値ごろ感のある”ものだ」。

発展途上国の貧困問題を考えると、その解決のための方策の規模が大き過ぎて、
誰しも気が遠くなり、現実味のある思考と行動が鈍る。
しかし、この科目は、そうした貧困を救うための起業は十分に可能であり、
しかも莫大な資金でなく30ドル以下のモノからでも始められることを学ぶものである。

これまでに実際、このクラスでは、
簡単に安く作ることのできる農業用の送水ポンプや
太陽電池を用いたLED電灯をメーカーと一緒に開発して現地に普及させている。
科目の案内にはこうある―――

 What's our mission?  To treat the poor as customers, not as charity recipients.
  (私たちのミッション;それは貧困の人びとを施しを受ける人としてではなく、
  お客様としてとらえること)

貧困に陥る地域の人々にも購入することのできる“値ごろのモノ”を供給し、
彼らの自立的生活を助けるビジネスをデザインする。
それがこの「Entrepreneurial Design For Extreme Affordability」という科目だ。

* * * * *

私はかれこれ16年前に「情報デザイン・情報の視覚化」を学びに米国に留学した。
当時、出版社に勤め、私費留学したいので休職させてほしいと会社に要請したのだが、
会社の人間は誰しも「情報のデザイン???を勉強しに???」のような感じだった。
私は情報のネット流通や電子書籍の時代を見越してその勉強が必要だと直感したのだが、
国内にはそれに適合する科目を設置する教育機関はなかった。
米国にはすでにいくつかの大学が取り組んでいて、その中から結局私はシカゴにある
イリノイ工科大学のInstitute of Designのマスターコースに入学した。

いまでは「情報デザイン」と検索すればいろいろと出てくるし
美術系大学ではそのコースや科目を設置するようにもなった。
また「図で考える」というような本もさまざまに刊行されている。

時代の変化、時代の要請に教育があっぷあっぷで後追いしているのが日本の現状だ。
それこそ日本の教育界には、横断的統合的にデザイン・シンキングをして、
時代が要請する教育プログラムをいち早くプロデュースできる人間が求められている。
米国がその点でいつも先進的活動的でいられるのはなぜか?―――
私は(自身の留学時代の観察も含めて)次の4要因が揃っているからだと思う。

 〈1〉教育を柔軟的かつ革新的に創造できる「学びの作り手」たちがいる
 〈2〉アクティブな「学び手」がいる
 〈3〉教育プログラム・サービスを支える「パートナー企業」がいる
 〈4〉多様な修学経験をキャリア価値として評価する「文化」がある

まず1番目、「学びの作り手」とは教育者、教授たちに限らない。
米国の特に大学院の現場では、産業界のリーダー(CEOたち)や
行政からのプロフェッショナルらがどんどん入ってきて教育サービスの作り手に回る。
『d.school』の場合、「デザイン・シンキングの学校を作ろう!」と提唱したのは、
米国で最も有名なデザインファームのひとつIDEO社の創業者デイビッド・ケリー氏だったし、
巨額の創設資金を提供したのが元SAP CEOのハッソ・プラトナー氏だ。
私には、学外からのこうした人物たちが純粋な熱意を持って、
アイデアを出し、カネも出し、手も出しながら、
理想の学び舎をつくろうとしている光景が容易に想像できる。

そして2番目、アメリカ人は良くも悪くも、キャリアパスが短期で変わることが多い。
それは社会全体が終身雇用を前提にしていないこともあるのだが、
その分、就職と修学を交互に繰り返すという行動習慣も生まれる。
次の職を見つけるまで、また大学に戻って何かを学ぼうというのはごく普通の感覚だ。
その意味で、米国の大学は再就職意欲に燃える人たちが集うアクティブな場なのである。
日本などは、いったん会社に入り定年まで安定的に雇われてしまうと、
ついぞ大学には縁がなくなる。
これはある意味、日本の大学を弱くする一因でもある。

そして3番目、企業の協力だ。
先ほど紹介した貧困国を救うための送水ポンプやLED電灯のプロジェクトには
協力企業が付いている。
米国が新種の教育プログラムを立ち上げることを積極的にできるのは、
産学が活発に結びついていることによる。
もちろん企業側は事業の種を見つけることを目的としているのだが、
将来的に儲けられそうかどうかは別にして、
そういうことを面白がる、社会的使命と感じるという企業・経営者が多い。

最後に4番目、これは2番目とも関連するのだが、
キャリアに意欲的なアメリカ人は生涯のうちで就職と修学とを往復する。
途中途中でどんな修学経験をしたかというのは、
職務履歴と同様に自分のキャリア価値を表す重要な事項になる。
どんなにマイナーでどんなにヘンテコな学問でもそれを修学すれば、
それはひとつの立派な個性・自律性として評価しようとする社会全体の文化がある。
当然、再就職の際に、人材採用側もそうした評価眼で見てくれる。
(特定の大学・学位・資格に人気が集中し、そこに評価する眼も集中する―――
そんなところが日本にはないだろうか)

私もいま教育ビジネスに身を置いている。
もちろん時代の要請を感知し、先取りするようなプログラム開発をやりたいと思っている。
(いまだ発展途上ではあるが)キャリア教育プログラムを
『プロフェッショナルシップ研修』として開発したのは、
私なりの「理の人・目の人・愛の人」育成への解のひとつである。
いずれにせよ、商品・サービスというものは、「よい顧客」によって鍛えられる。
今後もよい顧客企業・受講者と結びつきながら、よいものを提供していく決意である。


【関連読書】
デザイン思考が世界を変える』ティム・ブラウン著(千葉敏生訳)早川書房

 




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「リゾナーレ」は、オリベッティ社のタイプライターのデザインなどで知られる
イタリア人建築家マリオ・ベリーニ氏の設計によるものです。

開業時(たぶん20年ほど前)、なにかの建築誌で
「建築が実際に出来上がってみてどう思うか」との問いに、ベリーニ氏は
「まだ終わっていないよ。蔦(ツタ)が伸びるまではね」というような答え方をしていた記事を思い出します。
確かに建ったばかりのころはコンクリートの寒々しい印象があったのですが、
今では柱や壁面に蔦が不規則に伸び、味わい深い趣きを与えるようになりました。
静的な建造物に、「蔦が織りなす自然のリズムの生長」という面積・時間を取り込んで作品とする
ベリーニ氏の
企てに、今さらながらいたく感心します。

読書や散歩をしていて発想が湧きやすい場所というものがありますが、私にとってここはその一つです。

開業のころからたびたび訪れていますが、一時期は閑散とした状況になったものです。
ですが最近は、経営が星野リゾートに変わり、その再生によって見事に活気が戻りました。
経営の力というものをまざまざと見たという感じです。

そして軽井沢の「丸山珈琲」も小淵沢に進出 (Welcome!)




「Design Thinking」という人財教育 〈上〉


Risona01 
リゾナーレ(山梨県・小淵沢町)にて



先日「こうきしん」さんのブログを拝見していたら、
今年から桑沢デザイン研究所が新しいコースを開校したという記事に遭遇した。
そのコースの名は、
『STRAMD スーパー戦略デザイン経営専攻』。
グラフィックデザイン界では大御所的な存在の中西元男さんや内田繁さんが
中心となって開設したという。

触れこみとしては、デザイン学校がつくったニュービジネススクールだ。
ビジネス・経営の教育は何もMBAを与える経営学大学院に限ったことではない。
アート・デザインの分野から経営を学ばせることもおおいにありである。
経営学の教育にどっぷり浸かった人間たちがマネジメントを占有するのではなく、
アート・デザインをバックグランドにした人間たちがマネジメント層に進出してくることで、
ビジネス・経営は新しい展開をみせるだろうし、現況の偏った流れを修正できる可能性も出てくる。

ダニエル・ピンクは、2005年に出した著書
『ハイコンセプト~「新しいこと」を考え出す人の時代』
(原題:“A Whole New Mind”)でまさにそのことを論じていて、今後、
アートやデザインの感覚・能力を持った者こそがビジネス現場で重要な役割を演じると主張する。

彼の論点を少しだけ引き出すと、
「情報の時代」はすでに「コンセプトの時代」に入っており、
この時代には左脳主導ではなく、右脳主導の資質を身につけることが重要である。
それを「6つの感性」としてまとめると;

 1)機能だけなく「デザイン」
 2)論議よりは「物語」
 3)個別よりも「全体の調和」
 4)論理ではなく「共感」
 5)まじめだけでなく「遊び心」
 6)モノよりも「生きがい」

……確かに、これらは経済・経営・商学系の教育では直接教えない要素ばかりだ。
その一方、これらはアート・デザイン系の教育とは直接的に馴染みやすいものである。

デザインとは、狭義には「意匠」(=装飾的考案)であるが、
いまではその意味が相当に広がりをみせている。
ちなみに1989年「デザインイヤー基本構想」に記された定義は次のようなものである。

 「 『デザイン』とは、人間の創造力、構想力をもって生活、産業、環境に働きかけ、
 その改善を図る営みと要約できます。
 つまり、人間の幸せという大きな目的のもとに、想像力、構想力を駆使し、
 私たちの周囲に働きかけ、
 様々な関係を調整する行為を総称して『デザイン』と呼んでいます。
 従って、『デザイン』は、私たちの日常生活を支える基本的な思想であると同時に、
 生活を基軸として技術、産業、地域、社会、国際社会を結ぶ重要なきずなとしての役割を
 果たすことが期待されているといえましょう」 
                        (「89年デザインイヤー基本構想」デザインイヤー・フォーラム事務局編)

デザインを上のような営みととらえれば、
デザインはもはやデザイナー、アーティスト、建築家だけの専門作業ではない。
1人1人のビジネスパーソン、1人1人の経営者、1社1社の企業が行うべき創造的挑戦である。

そうした流れも踏まえ、いよいよデザイン学校の中にビジネススクールができた。
(中西元男さんと桑沢デザイン研究所には賞賛を送りたいと思います)
中西さんは、開校記念のシンポジウムで「4つの人」を挙げた。


 市場のメカニズム
   ↑
 ・「数の人」 (売上、利益、規模メリット…)
 ・「理の人」 (理念、政策方針、行動指針…)
 ・「目の人」 (美、文化、感性価値…)
 ・「愛の人」 (人間愛、地球愛…ユニバーサル、エコロジー、サステナブルデザイン…)
   ↓
 社会のメカニズム


現状、ビジネス・経営は「数の人」が支配する世界となっている。
それに対し、中西さんは、本課程で「理の人・目の人・愛の人」を育て、
ビジネス界に輩出していきたい旨を語っている。
カリキュラムをみると、その強い狙いと意志をもって開校したことがよく伝わってくる。

私個人は、たまたま、2つの大学院(ビジネススクールとデザインスクール)を
経験しているので複眼的に見られるのだが、
現状のMBA教育は「数の人」養成のための偏りのあるプログラムだと思う。

リーマンショックの原因となったマネー資本主義の暴走や環境問題の深刻化を考えるにつけ、
誰しもが、このまま「数の人」にグローバル経済のマネジメントを任せていいのか、
という疑心暗鬼がある。
だからそのカウンター勢力として「理の人・目の人・愛の人」の台頭が
ビジネス・経営をどう変えていくことができるのか、私たちが期待を抱くのはその点だ。

しかし、ことはそう簡単ではないかもしれない。
ビジネスは基本的に「陣取り合戦」であり、
そこを貫くのは経済原理(損か得か)である。
ここで皆は、生きるか・生き残れないかの戦いをやっている。

一方、アート・デザインは「表現活動」であり、
そこにあるのは個々の主観的な美の価値である。
美しいか・美しくないかが問われるものの、
美しくなくとも生き残ることはできる(むしろ美しさ追求は生き残りに負担をかける)。

強力で明快な経済原理に比べ、個々の主観的な美的価値はいかにも脆弱であいまいだ。
「美でメシが食えるか」と言われてしまえば黙することしかできない。
しかし、私たちは美(善を行うことも美に含まれる)を取り戻さねばならない時に来ている。

もとより中西さんは「4つの人」として区分けしたが、
これは一人の人間が内包する4要素でもある。
数の価値に偏重した私たち現代人の一人一人が、その内に、
理の価値、美の価値、愛の価値を増幅させ、
トータルなバランスを取ることができるのか、それが問われていると言ってもよい。

ふり返ってみれば、松下幸之助や本田宗一郎など超一級の経営者は、
数の人であるのみならず、理の人、美の人、愛の人であった。
私たちの理想は、一人の人間が、その内で数・理・美・愛の価値を統合させながら、
「善」を行う志向と能力を備えた人である。
そんな人を育む教育とはとても難しいものだ。

この桑沢デザイン研究所の『STRAMD スーパー戦略デザイン経営専攻』には先行例がある。
米国スタンフォード大学の『d.school』である。
(国内では東京大学に『i.school』というのが開設された)
次回記事はこの『d.school』について詳しく書こうと思う。

 

2010年6月25日 (金)

模範モデルは「江頭2:50」「高田純次」


今週、私のお客様である大手広告代理店で
新入社員向けにキャリアスタートアップ研修を行った。

まだ社会人としての就労経験もなく、現場配属されてもいない新入社員に対し、
何をキャリアに関して研修することがあるのかと思われる方も多いかもしれないが、
実はこのタイミングに行っておくことの意義は大きい。

理由は2つ。
1つめは、短期的な配属辞令ショックを和らげるために。
2つめは、キャリア形成はマラソンであるという中長期に立った意識をもってもらうために。

まず、1つめについて。
これは人事担当の方がもっとも心配されるひとつだが、
新入社員研修を終えていよいよ各自に配属辞令を伝えるときに、
希望通りの配属にならなかった者のモチベーションがガクンと落ちる。

もちろん新入社員たちは、配属は会社が決定権をもってやることを承知しているし、
数年後のジョブローテーションによって次のチャンスがあることも伝えられている。
しかし、ショックはショックだ。
エネルギー満々だった人間ほど、希望が通らなかったことでマイナスエネルギーも強くなる。

そんなショックを緩和するためにも
キャリアについての基本意識をこの時点で醸成させておいたほうがよい。

私が彼らに伝えているコアメッセージは、
 ○「キャリア形成はラグビーである」
   つまり、イレギュラーバウンドする楕円球を相手にする戦いであること
 ○「キャリア形成において最も重要な力は“状況創造力”である」
   その偶発に跳ねた球を、いかに自らの「想い」の実現に向けて必然にしていくか

―――このことをもっともよく言い表しているのが、
次のルー・ホルツ(米・アメリカンフットボールコーチ)の言葉だ;

   「人生とは10パーセントの我が身に起こること、
    そして90パーセントはそれにどう対応するかだ」。


次に2つめについて。
仮に配属が希望通りだったとしても、
想像していたのと仕事内容が違った、職場環境に馴染めない、上司との人間関係が合わないなど、
配属後に遭遇する想定外の出来事はたくさん出てくる。

しかしそんな違和感や想定外は誰にでも起こるのだから、
それを適当に乗り越えていくのが社会人だろうと、すでに大人になった我々は考える。
しかし、そう簡単に本人任せに放置できないところが昨今の新入社員の人材管理だ。

彼らは短気(すぐに結果を得たがる・見たがるという意味で)である。
また、彼らの周辺には情報が溢れている。それは例えば、
第二新卒の求人情報や、年収査定情報、成功した転職事例集といったものだ。
これらは多分に広告宣伝としての一面的な欲求喚起情報であるのだが、
はやる心の彼らにとっては、リアルな脱出情報になる。

いつまでもコンフォートゾーン(心地よい居場所)に留まっていられた学生時代から
突然、違和感のある環境に縛りつけられたのである。
ましてや、業務目標のプレッシャーがきつくなりはじめるや、
「ここは自分に合っていないんだ。早めにゲームをリセットしてやり直さなきゃ、負け組になってしまう」
などといった感覚に陥り、あっさりと転職カードを切ることもしばしば起こる。

そんなことを想定して、彼らには入社時から、
「キャリアは何十年とかけて完走するマラソンである」ことを告げてあげねばならない。
キャリアを中長期の目線で考えたとき、その最初の節目は3年だろうと思う。
自他の経験を総合すると、
丸3年というのは重要な長さで、1年間でもだめ、2年間でもだめ、
丸3年を超えると不思議とみえてくる世界・得られる深さというものがある。

まず3年留まって何かの結果を出す。
それができずに居場所を変える人は、おそらく他に移っても同じ繰り返しになる確率は高い。
私が発するメッセージは次の言葉に代弁される。

   「転職は、今いる会社で実績を積み、『伝説』をつくってからでも遅くはありません。
    いや、実績を積んだときはじめて、転職するもしないも自由な身になれるのです」。
                                      ―――土井英司 『「伝説の社員」になれ!』

   「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
    そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」。
                              ―――小林一三(阪急グループ創設者)

いずれにしても、こういったことを入社時に耳に入れ、意識づけしておくことは
個人・組織双方にとってメリットがあると思われる。
こういった意識づけは人事部がやってもいいし、経営者が直接やってもいい、
現場の上司がやってもいいし、あるいは私のような外部講師がやってもいい。
ただし、真正面からしっかりとやることだ。
一人一人のかけがえのないキャリアを大事に思って対話モード(命令・通達モードではなく)でやることだ。

* * * * *

さて本記事の後半は、
今週のその新入社員研修で何とも可笑しかったエピソードを紹介したい。

私は研修プログラムの中に「あこがれモデルを探せ」という個人ワークを設けている。
これは自分の今後1年の目標立てを行うための下地ワークとなるもので、
世の中にある商品やサービス、事業、または人物で、
「模範・あこがれ・理想」になるモデルを探してみようというものだ。

ワークシートは3つに分けられていて、
1番目の欄には、そのモデルを挙げる。
2番目の欄には、なぜそのモデルを模範・あこがれ・理想として考えるのかを書く。
3番目の欄には、そのモデルを見習って現実の仕事で自分はどうしたいかを書く。

記入例として私が提示したのは、
 〈1〉i-pod/i-phone/i-pad
 〈2〉人の物真似じゃないから。独自のスタイルを世の中に提案しているから
 〈3〉私も世の中に物真似じゃない独創的な教育プログラムを提案したい

あるいは、
 〈1〉坂本竜馬
 〈2〉大きな視野に立って薩長同盟を実現させたから
 〈3〉業界を変えるような視野に立って、業界全体のレベルが向上するような協業を進めたい

……とまぁ、模範解答として端正なことを示しておいた。
で、個人に15分程時間を与えて考えてもらう。
そして、グループ4名ほどで書いたことを各自シェアリングしあう。
私は各グループを回りながら、シェアされているモデルを耳にする。

すると、さすが、広告代理店を目指して入社してきた新人君たち。
耳にしたのはとても意外というか、聞いてみればさもありなんというか、そんなモデルだった。

ある女性新入社員は、
「あたしのあこがれモデルは、なんつっても江頭2:50!」
 (間髪を入れず、「あー、いいよねー、エガちゃん」と他社員)
「彼って、ああ見えて、相当アタマいいですよ。って言うか、タレントとしての生き残り方、悟ってます。彼の名言に“1本のレギュラー獲るより、一瞬の伝説芸”とかあるし。彼のエッジの利かせ方見習いたいです」

また、別の女性新入社員は、
「私の模範モデルは高田純次さん です。あのチョー楽観主義なところが魅力的だし、見習いたい点です」。

……いや、まったくもう、傍で聞いていて笑ってしまった。
(特に女性が言い放っているところが余計に今風だなと)
しかし、これも立派な回答である。
何もお行儀のよい優等生な答えを私は求めていない。
彼らがそれをモデルとして、何かしらベクトルを引き出すことができるのなら、それは重要な模範となる。
(ただし、その個人の引き出すベクトルと、組織の求めるベクトル合わせが次に必要となるが)

新入社員研修は他でもいくつかやっているのだが、
この種類の回答には遭遇したことがなかったので余計に面白かった。



ちなみに高田純次さんの本は数々出ていて、私は結構好んで読んでいます。いいです。

 

2010年5月23日 (日)

「人財」と書きますか? 「人材」と書きますか?



Two jinzai
 



最近、名刺交換をすると、 「人財開発部」 とか 「人財育成担当」 とか、
“人材” という表記ではなくて、
“人財” という漢字を当てる会社が増えてきたように思う。
これは、それだけヒトが重要だと認識する組織が増えてきた流れであるのだろう。

私たちの家の中には、火事などで消失してしまいたくない物がたくさんある。
成長と共に使い慣れてきた箪笥、思い出の詰まった写真アルバム、
海外で買ってきたお気に入りの食器、プレゼントでもらった置時計、
新品のスーツ、最新機種の大型液晶テレビ、データを蓄積したパソコン……
これらはみんな「家財」である。
財(たから)の価値がある。

同様に、組織で働くヒトは、大事な「財」である。
だから「人財」と書きたい。
「人財」という表記は、ヒトを大切に思いたいという意思表明なのだ。


何年か前に、あるビジネス雑誌の企画で人事担当者の座談会をやったことがある。
(私は司会者をやらせていただいた)
出席者の一人として日本では有数の大手企業の人事部長が来られていた。

私は、各出席者が人事に関わる人間として
「人材と人財の違い」についてどうとらえているかを訊いてみた。

すると、その人事部長は、
「いやー、そんなことは考えたこともなかったなぁ」と前置きし、
少し考えながら、
「みんな若いうちはどんな能力があるかわからないわけだから、
その後何に化けるかわからないという意味で “材” なんだと思う。
だけど、いつまでも “材” でいられると困るんだけど」―――というようなコメントをされた。

確かに、本来的には「人材」とは、そういう意味合いを含んでいるのだろう。
(材には「才」=能力の意味があると漢字辞典に記載があった)
それはそれで納得のいく返答だったが、
私は、その人事部長がどこかヒトに無頓着な様子がして、それがとても気になった。


これは英語表記でも同じことが言える。
日本でも一般化している「HR」とは “Human Resource” のことだ。
これは、ヒトを “資源” とみている。

このとらえ方の下では、ヒトは使い減ったり、
適性がよくなかったりすれば取り替えればよいという発想になる。
そして経営者は、多様なヒト資源をどう組み合わせて、
いかに最大の成果を出すかをひたすら考える。
ヒトは「材」という考え方に近い。

その一方で、 “Human Capital” という表記も増えてきた。
これは、ヒトを “資本” とみる。

この場合、ヒトは長期にわたって価値を生み出すものであり、
生産のための貴重な元手ととらえる。
したがって、経営者は一人一人に能力をつけさせ、
そのリターンをさまざまに期待する発想をする。
すなわち、「人財」の考え方だ。

ヒトを大切に考えるかどうかは、
実はこうした些細な表記文字によって推しはかることができる。



 

2010年3月 2日 (火)

個と組織の自律性~パタゴニア社に学ぶ

【沖縄発】
Okinawa sea
自然は「環」である。
どんな夜もやがて明けて朝が来るし、
どんな冬もやがて春になる。
私は3月の海、しかも日の出前の海が好きである。
穏やかな淡い青の奥に
やがて来る烈日の夏に向かってすでにエネルギーをためつつある
そんな春の海が好きである。  (沖縄・恩納村にて)


* * * * *

今日のビジネス社会においては、
個人にとっても、組織にとっても「自律性」が重要なテーマになってきている。
自律性については、本サイトでも次のような記事で触れてきた。

○「自律」と「自立」の違いについて
○自律と他律 そして“合律的”働き方
○自立から自律へ、そして自導「セルフ・リーダーシップ」へ 〈上〉
○『ヒポクラテスの宣誓』:プロの原義とは?

きょうは「自律性」を考える補足として、一冊の本を紹介したい。
その本の中には、自律的な個人・自律的な組織のひとつの模範がある。

社員をサーフィンに行かせよう-パタゴニア創業者の経営論-』
(原題:Let My People Go Surfing)
イヴォン・シュイナード著(森摂訳)、東洋経済新報社

米・パタゴニア社はアウトドアスポーツ愛好者の間では多くが知る道具・衣料メーカーである。
本社はカリフォルニア州の太平洋を望むベンチュラにあり、
日本支社は神奈川県鎌倉市にある。
いずれも社員がサーフィンに行きやすいロケーションであることがミソだ。
さて、この本の「日本語版への序文」を少し長いが引用する。
(部分的に省略した。太字は村山による)

◇ ◇ ◇

私たちの会社では、本当に社員はいつでもサーフィンに行っていいのだ。もちろん、勤務時間中でもだ。平日の午前11時だろうが、午後2時だろうがかまわない。いい波が来ているのに、サーフィンに出かけないほうがおかしい。私が「社員をサーフィンに行かせよう」と言い出したのには、実はいくつか狙いがある。

第一は「責任感」だ。私は、社員一人一人が責任を持って仕事をしてほしいと思っている。いまからサーフィンに行ってもいいか、いつまでに仕事を終えなければならないかなどと、いちいち上司にお伺いを立てるようではいけない。もしサーフィンに行くことで仕事が遅れたら、夜や週末に仕事をして、遅れを取り戻せばいい。
そんな判断を社員一人一人が自分でできるような組織を望んでいる。

第二は「効率性」だ。自分が好きなことを思いっきりやれば、仕事もはかどる。午後にいい波が来るとわかれば、サーフィンに出かけることを考える。するとその前の数時間の仕事はとてもはかどる。たとえば、あなたが旅行を計画したとすると、出発前の数日間は仕事をテキパキやるはずだ。机に座っていても、実は仕事をしていないビジネスマンは多い。彼らはどこにも出かけない代わりに、仕事もあまりしない。仕事をしているふりだけだ。そこに生産性はない。

第三は「融通をきかせること」だ。サーフィンでは「来週の土曜日の午後から」などと、前もって予定を組むことはできない。もしあなたが真剣なサーファーだったら、すぐに出かけられるように、
常日頃から生活や仕事のスタイルをフレキシブルにしておかなければならない。

第四は「協調性」だ。パタゴニアには、「私がサーフィンに行っている間に取引先から電話があると思うので、受けておいてほしい」と誰かが頼むと、 「ああ、いいよ。楽しんでおいで」と誰もが言える雰囲気がある。そのためには、誰がどういう仕事をやっているか、周囲の人が常に理解していなければならない。

第五の狙いは「真剣なアスリート」を多く会社に雇い入れ、彼らを引き止めることだ。なぜ、真剣なアスリートを多く雇いたいのか。それは、私たちの会社は、アウトドア製品を開発・製造し販売しているからだ。自然やアウトドアスポーツについては、誰よりも深い経験と知識を持っていなければならない。

結局、「社員をサーフィンに行かせよう」という精神は、私たちの会社の「フレックスタイム」と「ジョブシェアリング」の考え方を具現化したものにほかならない。この精神は、会社が従業員を信頼していないと成立しない。これを私なりにMBAと呼んでいる。「経営学修士」ではなく、「Management By Absence(不在による経営)」だ。いったん旅行に出ると、私は会社には一切電話しない。そもそも携帯電話もパソコンも持っていかない。もちろん、私の不在時に彼らが下した判断を後で覆すことはない。社員たちの判断を尊重したいからだ。
そうすることで、彼らの自主性がさらに高まるのだ。

◇ ◇ ◇


…どうだろう、私はここに「自律的な個人と自律的な組織」のひとつの模範をみる。

読者の中には、
「これは特殊な会社の事例だ」「企業プロパガンダの施策ではないか」
「うちの事業サービスでは従業員が職場を離れることなど非現実的」
「大企業組織ではそもそも無理」などといった感想があるかもしれない。

いや、ここで着目してほしいのは、パタゴニア社の「やり方」ではなく「考え方」だ。つまり、

自律的な組織のみが自律的な個人を育むことができる
 そして自律的な個人が、その組織をより自律的に強めていく。

自律性とは知識や技能とは別次元のものである
 それは心の構え様であり、習慣、文化でもある。

・自律的な個人と自律的な組織の間で強力なエンジンとして回転しているのは
 経営者の思想である。

私はこれらの考え方をこそ多くの組織は真剣に取り込む必要があると思う。
(やり方は組織それぞれに適合したものがあるにちがいない)


組織・人事の世界では、ひところ、というか今でもなお、
社員のキャリアの自律性を高めるためには「ポータブルスキル」を身につけさせることだ
という考え方がなされる―――これは誤りだ。

「会社を越えて持ち運び可能なスキルを持てば、どこの会社でも雇ってもらえる=自律的」
という解釈なのだろう。これは自律的という意味を矮小化している。

先の二番目にあげたとおり、自律性は、知識や技能の習得の問題ではない。
いくら知識を豊富に持っていても、いくら技能に長けていても、
・みずからの判断を下せない
・みずからの仕事をつくり出せない
・みずからのキャリアを拓いていけない働き手は多く存在する。
自律的であるとは、みずからの「律」(=規範・価値観)に基づいて
判断し、つくり出し、拓いていこうとする心(働くマインド)の構え様の問題なのだ。

自律性は心の構え様であるだけに、他人がテクニック的に教えることはできない。
本人がみずからの内に醸成するしかない。
他者ができるのは、その醸成の刺激づけや範を示すことである。
だから、自律性の強い組織からは、自律的な人財が育ち輩出する流れができる。
(逆に他律的な組織では、他律的な働き手が居つき、自律的な働き手は流出する)
そして自律を促す経営者の思想や理念は、そこに組織文化を生み、求心力を生む。

力強い個の力強い組織をつくるためには、まず「自律性」の涵養からはじめなくてはならない。
プロ野球監督としていくつものユニフォームを着た野村克也さんも次のように言う。
―――「しつけの目的は、自分で自分を支配する人間をつくること」
(『野村の流儀』より)

そのために、パタゴニア社のシュイナード社長は
「社員をサーフィンに行かせよう」という方法をとった。
さて、みなさんの組織では、どんな取り組み・仕掛けがなされているだろうか。
あるいは、組織の中心者は「自律性」ということに対し、どんな思想・理念を現場の一人一人に発しているだろうか。

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