6) 人財育成ビジネスへの視点 Feed

2009年6月21日 (日)

『一徹理視』 ~3年ジョブローテーション再考

Terata01

手元にビジネス雑誌『THE 21』09年6月号(PHP研究所発行)がある。
この中の、キッコーマン・茂木友三郎会長のインタビュー記事が面白かったので紹介します。

茂木会長のコメントを要点だけ抜き出すと、


毎年、新入社員に「いつでも会社を辞められる人間になれ」という言葉を贈る。
いつでも辞められる、どこにいっても働けるぐらいの人材でないと、
社内で思い切ったことができない。
自分の意見もおっかなびっくりでしか言えない、また、
上から睨まれて、クビにされるのが困ると思ってしまう人材に、
会社に長くいてもらってもいいことはない。


要は、“スペシャリティー”をもて、ということ。
スペシャリティーとは、「社内でこの問題はあいつに任せれば安心だ」とか、
「この問題に関してはアイツにはかなわない」というようなレベルではない。
「業界の中で、キッコーマンのアイツはスゴイよ」とか、
「キッコーマンにはあいつがいるからウカウカできないぞ」といった
業界内で名前が轟(とどろ)くようなスペシャリティー


(企業では3年ぐらいでジョブローテーションをさせるのが一般化している。
そんな中でスペシャリティーを磨くのは容易ではないが、との問いに・・・)


これはもうとんでもない話。
一つの仕事を3年しかやらないなんてナンセンス極まりない。
そもそも3年サイクルのローテーションは、エリート官僚のための制度だった。
官僚の中のトップ5%くらいの人間が、そうやっていろいろな仕事をかじって、
全体をみる経験をしていく。
企業に入ってくる多くの大卒者はエリートでもなんでもない。
そんな人材が、短期間でグルグル仕事を変わるなんてことは意味がない。
3年ぐらいではとてもスペシャリティーなんて身につかない。
その世界では、まだまだ下っ端にすぎない。


私の理想論としては、最低でも一つの仕事を10年間やる。それくらいの経験が大事。
30歳までに一つの仕事。
そして40歳までにもう一つの仕事。
その二つの仕事でスペシャリティーになれば、どこへいっても通用する人間になる。


(40歳までに二つの仕事しか知らないのでは世界が狭すぎないか、との問いに・・・)

そんなことはない。
スペシャリストになると、仕事のコツや勘どころがみえてくる。
それはどんな仕事にも応用が利く。
40歳以降は、それまでに培った自分なりの“仕事の仕方”を全部の仕事に応用していけば、
どんなジャンルの仕事もこなせる人間になる。


* * * * *

能力開発・キャリア形成における時間レンジのとらえ方はいろいろあるでしょうが、
私は、3年・5年・7年・10年に重要な区切りがあると感じています。
3年は、その分野の「基本習得」に必要な期間。
5年は、その分野の「深耕」に必要な期間。
7年は、その分野に「根を張るため」に要する期間。
そして10年は、その分野の「プロフェッショナルとして自立・自律するため」に要する期間。

私も、茂木会長の持論には賛同します。
ジョブローテーション制度により、
言ってみれば「一畑三年」で、次々に異なる部署に動かされるのでは、
基本が身に付きはするものの、深耕や根を張るところまではいかない。
(この深耕や根を張るところでの負荷が、実は、人間を成長させる機会でもある)
ましてや、プロフェッショナルにはいつまでもなりきれない。
仮に、そうした中で、うまく仕事をやりこなしていく人間がいたとしても、
それは、やはり「組織内ジェネラリスト」「組織内エキスパート」の域を出ない。

ですから、20代と30代をかけて
「一畑十年×2ラウンド」 ―――という発想は、傾聴に値します。
組織が骨のあるプロフェッショナルを育てるには、10年レンジでのとらえ方が見直されるべきです。

たしかに、3年ほどでローテーションさせる制度にはメリットも多い。
ですが、最近、人事の方々とこの話をすると、

・ジョブローテーションの制度を謳わないと、新卒募集の人気に悪い影響が出る
・本当にミスマッチ配属なのか、本人の適応力のなさ・短気なのかは判別できないが、
 モチベーションをなくした社員に対してローテーションは一つの刺激剤にはなる
・実際、3年を待たず、職場をかわりたがる社員が増加している


など、ローテーション制度が、本来もっていたポジティブ要因ではなく、
ネガティブ要因によって支持される傾向が強まっているようにも思えます。

* * * * *

私は、仕事上でいろいろなキャリアの姿を研究してきて、
そしてまた、ビジネス雑誌記者時代から幾百もの第一級の仕事人を観察してきて、
あるいは、自分自身が、
メディアの世界で情報編集畑の仕事を10年、
教育畑の仕事を10年やってきて、思い浮かんできた言葉(造語)があります。
それは―――

『一徹理視』
一つを徹すれば、理(ことわり)を視(み)る


つまり、一つのことを徹していけば、
全体に貫通する筋道・法則のようなものが視えてくる、ということです。

そしてこうした道筋・法則のようなものが視えてくると、変化が怖くなくなる。
自分の変えない信念や軸ができているので、
変えるのは技術や適応方法でよい、というように腹が据わるからです。

しかし、一つに徹するという「経験×時間」がなく、環境を頻繁に変える人は、
そもそも変えてはいけない信念・軸が醸成されず、
技術や適応方法を変えることに右往左往し、不安がる日々が延々続く。
(たぶん定年まで、そして定年以降も)

だから私は、働く個人に向けても、そして人事関係者の方々に向けても、
「十年一単位」という仕事期間を、もっと再考すべきだと投げかけたい。

* * * * *

最後に補足してもう1点。
この雑誌のインタビューで、茂木会長は、
リーダーシップを学ぶにはどうすればよいかとの問いに、
「小さい会社を経営してみるのがいちばんです。
企業の責任者というポジションを一度体験してみる。
人と組織はいかにすれば動くかということがよくみえてきます」と答える。

とすると、茂木式・経営プロフェッショナル人財の育て方というのは、
・20代から30代にかけて、「一畑十年」を2つの分野でやらせる
・そして、小さい組織でもよいので経営者の経験をさせる
ということになるでしょうか。

「2つの分野を10年ずつ+経営者経験」―――
単純なようですが、実はこの要素で十分な育成方法・育成思想たりえると思います。

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3ヶ月後には、立派な実をつけた黄金の稲穂に。
---「寺家ふるさと村」(横浜市青葉区寺家町)にて

2009年5月11日 (月)

職業人としての成長:「個として強くなる」

Utree02 

私は、職業人としての成長の一つで、あまり語られないが重要なものとして

「個として強くなる」

ということを常に強調しています。
(最新著
『ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80』では、
そのテーマをまるごと一章に立てたほど)

福沢諭吉の『学問のすすめ』は、実際、読んでみれば、学問のすすめというより
「独立自尊のすすめ」と言ったほうがいいくらいのもので、
それだけ、日本人という民族は、古来、一個人にしろ、一国家にしろ
「個として立つ」ことを苦手としてきている。

平成のビジネス社会にあって、「個として強くなる」とは具体的にどういうことか―――
それはさまざまに指摘することができるでしょうが、
例えば、私は次のように考える。

(会社名・役職を取り外し)一職業人として、自分が何者であるかを語ることができる
□日々に出くわすさまざまな情報・状況に対し、「自分はこう思う・自分はこうする」と押し出すことができる。
 それにつき他と論議ができる。そして建設的に持論を修正できる。
□どのように振られた仕事であっても、それを「自分の仕事」に変換して、主体的に実行できる
□自身の信念のもとにリスクを背負うことを厭わない
□反骨心や負けじ魂が強い
□我を狭く閉じて突っ張るのではなく、我を突き抜けたところで全体性を感じている
□自身を懸けることのできる大きな仕事テーマをもっている
□一人でいる時間を設け、大事に使っている
□独自性追求の心を失わない
 (そして、同様に独自性を追求している他人に対し、リスペクトできる)
独自であるがゆえの孤独を知っている。そしてそのために、真の友・同志を持つ


さて、このうち、最後の2項目に関わる「独自性・孤独」についてさらに書きます。
私がここで引用したいフレーズはこれです。

Only is not lonely.

「Only is not lonely.」とは、糸井重里さんが主宰するウェブサイト
『ほぼ日刊イトイ新聞』の表紙ページに掲げられているコピーです。

「オンリー(独自・唯一)であることは、必ずしもロンリー(孤独)ではない」―――
このメッセージには、噛みしめるほどに味わい深いものがあります。
糸井さんはこう書いている。

「孤独」は、前提なのだ。
「ひとりぼっち」は、当たり前の人間の姿である。
赤ん坊じゃないんだから、誰もあんたのために生きてない。
それでも、「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」が、
リンクすることはできるし、
時には共振し、時には矛盾し、時には協力しあうことは
これもまた当たり前のことのようにできる。 (中略)

「ひとりぼっち」なんだけれど、
それは否定的な「ひとりぼっち」じゃない。
孤独なんだけれど、孤独じゃない。


―――糸井重里 「ダーリンコラム」(2000-11-06)より


個性のない人びとが群れ合って、尖がった個性や出るクイを批評し、つぶす
ということが組織や社会では往々にして起こる。
しかし同時に、「オンリーな人」たちが、深いところでつながって互いを理解し合い、
協力し合うということもまた起こっている。

逆説的だが、オンリーな存在として一人光を放てば放つほど、
真の友人や同志ネットワークを得ることができる。
独自性を追求する人の孤独は、決して孤立を意味しないのです。

「孤独を知る」ことは、職業人としての成熟とともに深くなる。
自分がどれほどの孤独を知り得ているかは、
「Only is not lonely.」という言葉を、どれだけ味わい深く咀嚼できるかで判定できるでしょう。

能力的な伸長・習熟のみが職業人の成長ではない。
一個のプロフェッショナルとして屹立できるか―――これも見逃してはいけない観点だと思います。


【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□「個として強くなる」という成長意識を抱いているだろうか?
□具体的にどうなることが「個として強くなる」ことだろうか?
□自分を貫き、独自性を高めていくことで孤独を感じたことはあるか?
□孤独を突き抜けたところで、同様の孤独を感じ持っているタレントと出会ったことがあるか?

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□人財育成において「一個の職業人として強くさせる」という観点を持っているか?
□「個として強い」人財を、異端児として問題児扱いしていないだろうか?
□経営者や上司はある種の孤独を感じている人間であるが、
 その次元から、組織内にいる孤独者の琴線に触れるようなメッセージを発しているだろうか?


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平成のビジネスパーソンたちよ、
仕事・キャリアに行き詰ったら、書を持って森に出よう! (長野県諏訪郡原村にて)

2009年4月13日 (月)

“知識・技能でっかち”ばかりを育てていないか!?

Think4 間もなく発売になるビジネス雑誌『THINK!』 (東洋経済新報社)の掲載誌が届いた。
同誌での連載「強い個・強いキャリアをつくるセルフ・リーダーシップ」は、今号で最終回(4回目)を迎えます。

今回の企画テーマ「セルフ・リーダーシップ」つまり「己を導く能力」の背景には、
今の企業の研修は“知識でっかち・技能でっかち”ばかりを育てていやしないかという目線があります。

知識や技能ばかりが肥大化した働き手は
業務を効率的にこなすことに長けはするものの
自分の中長期の職業人生をどこに導いていっていいかに優れるわけではない。

また、知識や技能ばかりが肥大化する働き手を
「プロフェッショナル」と呼ぶことにも私は抵抗がある。

今回の本文ではこう書きました:

「これからの時代に求められるプロは、
頭と手が異様にデカくて、首以下の身体がヒョロヒョロに描かれている、
あのお決まりの宇宙人のイラストのようなものではなく、
しっかりとした腹を持ち(=観をつくり)、
ハートに熱を帯び(=おおいなる目的を抱き)、
強い二本脚で闊歩するという
健やかにバランスのとれたイメージでとらえるべきだと思います。
すなわち、プロを語る際には、「高い専門性」のみではなく、
「全人的に×個として強い」かどうかという重層的な観点が必要となるでしょう」。


Think 人財教育からみた「プロ論」です。
是非、書店で本号を手にとって見てください。
(特に、人事に関わるプロの方々に!)

それにしても、『THINK!』誌の藤安編集長にはとてもお世話になりました。
この場を借りて御礼申し上げます!

2008年6月10日 (火)

「プロフェッショナルシップ」という人財育成の観点

◆「キャリアデザイン」が矮小化していないか
私は、いわゆる“キャリア教育”を研修化することを生業としています。
しかし、キャリアは、人の働き方・働き様・働き観に関することであり、
それを“教育する”という言葉が醸すニュアンスは、どうも気持ちが悪い。
だから、その言葉の使用はなるべく避けるようにしています。

で、通じのいい言葉に「キャリアデザイン」というのがあります。
組織・人事の世界で、
「当社はキャリアデザイン研修をやっています」といえば話が早い。
しかし、私はこれも極力避けています。
なぜか?―――――

それは、「キャリアデザイン」という概念・言葉が、最近、
矮小化の方向に引きずられているのを感じるからです。

「キャリアデザイン」が語られはじめた当初、
その言葉は、全人的かつ統合的に、職業人の営為を考察し、
そのよりよきマネジメントを方法論に落とし込もうとする
それなりの膨らみと新しい光を帯びたものでした。

ですが、そもそも「デザイン」という言葉自体が
かなりのレベル幅で意味が拡散したのと同様、
キャリアデザインもそうなることを宿命的づけられたように思えます。

◆「働くとは何か?」の核心に迫っていかない「キャリアデザイン研修」
人事の育成担当者の方々との会話で
キャリアデザインのことが話題に上がると、
「ああ、キャリアデザインですねー、ええ、大事でしょうけどねー・・・」
直接的な言葉にはしませんが、彼らの内に
遠まわしにネガティブな思いを含んだ反応を私はしっかり感じ取っています。

このような反応が起こっている背景には、
安易に設計されたキャリアデザイン研修の増加があります。

 ・学術的なキャリア理論の紹介(紹介に留まる)
 ・自己分析(何らかの自己診断テスト・強みと弱みの棚卸し等)
 ・計画表づくり

これら3点セットで1日研修。

これらの研修要素が悪いとは言いません。
(私も要素としては取り入れています)
確かにこれでキャリアデザインの何たるかは、“ある程度”理解させることができるかもしれません。

しかし、
いくら学術的なキャリア理論を紹介しても、
いくら精巧な診断ツールで自己分析させても、
いくら自分の強み・弱みをSWOT表に記入させてみても、
いくら丁寧に5年後、10年後のキャリアプランを立てさせてみても、

「よりよく働くとは何か?」「たくましくキャリアをつくっていくとは何か?」
の核心部分にはいっこうに迫っていかない。

おそらく、この核心部分に迫っていかないモヤモヤ感が、一種の不満感となり、
先の人財育成担当者たちの声になっているのではないでしょうか。
「キャリアデザイン研修」なるものは、いま、
お手軽な「キャリア教養講座」へと拡散してしまっているように私には見えます。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

◆「つくりにいくキャリア」と「できてしまうキャリア」
「5年後のあなたはどうなっていたいですか?」、
「5年後のキャリア目標とその実行プランを立ててみましょう」―――――
キャリア研修でよく行なわれるこの手の質問やワークは、有意義ではあるが、
使い方によってはまったく意味のないものになる。

確かにキャリア形成は、計画を立て、そのとおりに進めていくのが大事である
という面があります。
しかし、キャリア形成は、人生という旅の一部であり、
旅には不測の出来事や想定外の道にはずれることが往々にして起こるように
そう易々と計画し得る営みではない。
計画し得ないからこそ、人生は奥深いし、面白い。
人生から、偶発による“ゆらぎ”の作用をなくしたら、
それは初速度と打ち出し角度の数値さえ与えれば、計算によって着地点が決まる
物理運動になり落ちてしまう。

私は、キャリアづくりはJAZZ音楽に似ていると思っています。
JAZZ演奏は、即興性を基とするがゆえに、
一瞬先の空白の未来に向かって、一音一音、
演奏者が全身全霊を込めて仕掛ける、その連続により曲が成立します。
JAZZの名演奏というのは、
その日の演奏メンバーの調子と聴衆のノリが見事に反応し合った場合に、
“結果的”に生じます。
JAZZにおいては楽譜どおりに演奏しても何も面白くないのです。

個々のキャリア形成も同じです。
そこには、「意図的につくりにいくキャリア」と
「結果的にできてしまうキャリア」
の両方の面があります。

もちろん子供の頃に「宇宙飛行士になりたい」とか「医者になりたい」とか、
具体的に夢や目標を立てて、着実にその進路上で駒を進めていく人たちはいます。
しかし、同時に、
「当初Aの山を目指していたが、登っているうちにBの山になっていた。
Bの山もまんざらではないよ。
でも、もしかしたらこの先、また別の山が見えてくるかもしれない」
という人もいます。むしろ、こちらのほうが世の中では多数でしょう。

例えば私自身のキャリアも、後者の典型例です。
私は、大学卒業後、「新しいモノを創造して世の中に提案したい」という想いから、
メーカーに就職をし、商品開発・マーケティングの分野でキャリアをつくっていきました。

しかし、20代後半から
働く想いが「価値のある情報を創造し世の中に届けたい」という方向に変わり、
結果、出版社に転職をし、
そこからジャーナリズム分野でのキャリアをスタートさせます。

そして、30代半ばからは、さらに想いが
「人の向上意欲を支援する情報・サービスを創造したい」という方向性に変化し、
人財教育の分野にキャリアチェンジを図りました。

私はいま、とても満足のいくキャリアを進行中ですが、
現在、自分が教育分野で仕事をするなんぞは、決して予想できなかったことです。
20代や30代前半のころ、
いくら自己分析をして、キャリアのプランシートを書かされたとしても、
教育の「きょ」の字も出るはずがない。

私のいまあるキャリアは、意図的につくりにいったものではなく、
むしろ、結果的にこうなってしまったものだからです。

だから、いま、キャリアデザイン研修なるものでやられている
自己分析やキャリアプランシート作成が、
分析のための分析ワーク、
プランのためのプランワークであるならば、それは意味がないと思うのです。

◆キャリア形成は「計画のあるなし」ではなく、「想いのあるなし」が要
私は研修で、「キャリアはある意味、行き当たりばったりでいい」と言っています。
それくらいオープンマインドでいたほうが、キャリアはどんどん開くからです。
想像のつく範囲で、こぢんまりと計画を立てて、
それで安心安住することは、結局、
自分の可能性を狭めることにつながりかねません。

「想定の範囲内に収まっている自分の未来」など何が面白いか、です。
(ポジティブな意味で)
「5年後の自分はどうなっているのか予想がつかないのが楽しみ」
というくらいの人生のほうが健全であるとも思います。

しかし、このことは、無防備に漫然と運任せにキャリアを過ごしてよい
と言っているのではありません。
力強いキャリア形成には、決定的に「目的」が必要です。
しかし、いきなり目的を明確に得ることのできる人はそう多くありません。
ですから、まずは「想い」を持つことからはじめればよいのです。

「想い」とは、“方向性と像”です。
当初は漠然とでも構わないので、自分が進みたい方向性を持つ。
その方向性でいろいろと行動で仕掛けると、だんだんその先の像(目標イメージ)が
見えてくる。そして、その見えてきた像は、方向性を修正し、強化する。
すると、像がまた、より鮮明になってくる。
そして、そのうちに、自分の中でそれを目指す意味も伴ってくる。

「目的」=「方向性×像」+「意味」

という分解式を私は使っていますが、
これらの要素は、互いに連鎖しながら、あいまいから明確化の流れをつくっていく。
この式の中で、最初の重要な一歩は、方向性=「想いを持つこと」です。

評論家の小林秀雄は『文科の学生諸君へ』の中でこう述べています。
 「人間は自己を視る事から決して始めやしない。
 自己を空想する処から始めるものだ」
と。

キャリアをたくましく拓くためには、
小林の言うように、「己を空想(妄想でもいい)すること」です。
その空想が、現実の自分をいかようにでも引っ張り上げてくれるからです。

また、その空想を実現化しようとするとき、自分の中で、
過去に培った知識・技能を新しい角度で再構築しようとし、
不足している知識・技能をどんどん吸収していこうとする意欲が湧き起こる。
この未知の世界へ開いていく能動的なダイナミズムこそ
キャリア形成の核心部分のひとつです。

こうした部分を欠いたまま、
自己分析やプランシートの作成それ自体を目的化して作業させる、
そんなキャリアデザイン研修が増えている点を、私は指摘したいのです。

・自分の「想い」はどこにあるか
・「想い」を描くにはどうすればよいか
・「想い」を体現するとはどういうことか
・「想い」を仕事に変えている人は周囲にいるか
・個人の「想い」と、組織の「想い」をどう重ねることができるか・・・等々、
こうした「想い」に関することを研修プログラム化することは、非常に難しい作業ですが、
ここを正面から照射しないものは、やはり不充足プログラムだと思います。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

◆プロとしての働く基盤意識「プロフェッショナルシップ」
ヤンキースの松井秀喜選手の母校である星陵高校野球部の部室には
次のような指導書きが貼ってあると聞きました。
 「心が変われば行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。
 習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。

これはまさに、一般のビジネスパーソンにもそのまま当てはまることです。

冒頭、私は、キャリアは人の働き方・働き様・働き観に関することだと書きました。
そして、キャリアは「想い」を持った後の奮闘の結果、
何かしらできてしまうものでもあると書きました。
ですから、つまるところ、キャリア教育とは、
日々の働くことに向き合う「意識づくり」の啓育である――――
それが、私の今の認識です。

私は、プロフェッショナルとしての働く基盤意識を「プロフェッショナルシップ」と
名づけています。

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このプロフェッショナルシップ(Ⅱ)は、
各自の専門性能力(Ⅰ)がうまく発揮されるベースとなるもので、
具体的には、プロとして働く基礎力、態度、習慣、マインド、価値観が含まれます。
また、Ⅰ・Ⅱによって成された行動や仕事実績、あるいは習慣といったものが、
中長期に蓄積することにより、キャリアが形成(Ⅲ)されます。

先の星陵高校の指導にあった「心を変える」とか「習慣を変える」の
“心・習慣”の部分を、すなわち私は“プロフェッショナルシップ”と考えます。
キャリア教育を施すにしても、各種の専門技能訓練を行なうにしても、
この基盤意識の醸成をないがしろにしては、その効果が限定されるでしょう。
また、効果が歪むことすら起こりえます。

キャリアデザイン研修なるものの矮小化問題は、
キャリア形成の部分だけを切り出して、基盤意識の部分に手を入れることなく、
技巧的に取り装った研修メニューのみが施されることに原因があります。
(これは技能訓練にも同様の問題があります)
(だから、技能でっかち、知識でっかちの人間ができあがる)

私は、キャリア教育はそれのみを切り出すのではなく、
プロフェッショナルシップという基盤意識を醸成するプログラムの一部として
それを扱うことが最も自然であり、いきいきとした効果が出ると考えています。

プロフェッショナルシップという概念の具体的な内容を
私は下図のように考えています。

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・自立性/自律性/自導性とは何か
・指導性/協働性と/育成性とは何か
・変革性/創造性/賢慮性とは何か

こうしたことを腹で理解して、原理原則イメージとして意識の基盤に置くこと、
その文脈の中で、キャリア形成をとらえる――――
私の展開しようとするキャリア教育の考えはそういうものです。

いずれにしても、ビジネス社会が複雑化するにつれ、
働く人びとの漂流観、喪失感、不安感、倦怠感は増し、
同時に、不正や不祥事などモラルハザードの問題も増しています。
働き方・働き様・働き観にまつわることが混迷している状況下、
「働くこと」の教育は、もっともっと切磋琢磨されたサービスが多角度で立ち上がり
世の中に提案されることを当事者として願っています。

2008年5月 7日 (水)

人財の離職と根付きの問題<3> 安すれば鈍する


3回連続で触れている「ヒトの離職と根付きの問題」ですが、

きょうはその最終回、3番目について書きます。


1)すべては“働くマインド”という意識基盤をつくりなおすところから

2)人財はリテンション(保持)からボンディング(絆化)へ

3)安すれば鈍する:野ガモを飼いならすな


* * * * * * * *

さて、冒頭、話が脱線しますが、写真の話をさせてください。

私は雑誌の編集に長く携わったこともあって、写真には関心があります。

写真集もさまざまに観ます。

私が先般、米国のアマゾンで購入したのは、

犬のラブラドールレトリーバーの写真集です。


その写真集は、ペットとしてかわいい、甘~い犬の写真集ではありません。

「猟犬・ラブラドールレトリーバー」の姿を撮った

凛々しくもたくましい写真集です。


その写真集は、北米の大自然の山中で猟師に同伴するレトリーバー犬を

写しています。

レトリーバー犬とは、その名のとおり、

猟師が射止めた野鳥をすぐさま探し出し、

猟師のもとへくわえて持ってくる(retrieve)ことを習性づけされて

配合された犬種です。

猟師が遠くの空に銃を構え、一羽の鴨に狙いを定める、

そして、その銃口が火花を散らそうとする瞬間、

その脇で、じっと銃の向く空の先を見つめるレトリーバーの姿は

とても美しいものです。

眼光は集中して鋭く、2つの耳は前方に向け大きく尖り、

銃声が鳴り響くその刹那に全速で走り出せるよう全身の筋肉は

エネルギーに満ちている。


そして、鴨の落ちた草むらの中に突進していく姿、

池の中に躊躇なく飛び込むその躍動的な姿。

そして、射落とされた鴨を探し当て、猟師のもとに、口を血で汚しながら

くわえて戻ってくるその勝ち誇った顔・・・。


私は、この写真集を観て、

レトリーバー犬本来が持つ美しさを知りました。

やはり、生き物は、本性を輝かせている姿こそ見応えがあるものだと。


その点、過剰に愛玩的に飼われているレトリーバーたちの

目の死んでいること、身体のだれていること、

本性がくすんでいることといったら・・・

(まぁ、それはイヌ本人はいかんともしがたく、飼い主・飼い方によるものですが)


* * * * * * * *


◆組織にポジティブに根付くヒト・ネガティブに根付くヒト

さて、本題に入ります。


組織におけるヒトを考える場合、

離職(流動)も問題ですが、その根付き(定着)も問題です。

離職については前回、前々回で触れていますので、

今回は、根付きについて触れます。


私たちは、組織の中のヒトの根付き方に2種類あることを知っています。


一つには、組織に安住し、成長を止め、保身で根を張ってしまうヒト

もう一つには、組織の価値・ワークスタイルの体現者して

どっしりと根を下ろすヒト


前者はネガティブな根付き、後者はポジティブな根付きです。


ヒトを中長期レンジで雇用保持するという人事方針は、

それ自体望ましいものではあります。

ヒトは雇用され続けるという生活の基礎部分が安定・安心してこそ、

心を落ち着かせ、忠誠心をもって力を出すことができます。

しかし、それは同時に、いつしか安穏・安住を生じさせ、

怠惰・保身を生むことにもつながりかねません。


つまり、“安”(安らか)という状態は、

ヒトをその後、善悪両面どちらにも導く可能性をもっています。

しかし、私は、これまでいろいろな組織とその働き手に接してきましたが、

経験上、どちらかというと、

“安すれば、鈍する”という現象をより多くみてきました。


もっと正確に言えば、“安のみ”の状態では、ヒトは、

鈍になり、惰になり、滞になる、といったネガティブな方向に

堕しやすい事実があるのです。


◆安穏・安住を排するための競争原理・・・その結果は

“安のみ”では、ヒトがダレてしまう・・・

したがって、中長期に“悪い根付き”をしてしまう。


そのために、組織は何が必要だったか。

―――――そう、「競争原理」の導入が必要だったわけです。


競争という刺激、緊張感、そしてある種のリスクは、

確かにヒトがダレることを防止するものです

したがって、

「安+競」の環境では、ヒトは“よい根付き”をするように思えます。


しかし、昨今の成果主義はうまく機能していない。

それは、なぜか?


その理由は、今回のこの文脈で整理すると、

一つに、成果の判断基準が単純に定量化された数値になりがちだったこと。

一つに、そこでの競争は、限られた原資(パイ)の中での

ゼロサムの奪い合いであったこと。

一つに、「敗者は去れ」のごとき雰囲気によって、「安」の部分が脅かされたこと。

一つに、その成果主義導入の意図や目的が労使で共有されなかったこと


つまりは、質の悪い競争、大いなる目的のない競争によって、

ヒトが“よく根付く”どころか、

ヒトが疲弊して、心が離散していくという真逆の結果を生んでしまったわけです。



◆経営者の自覚・働く個の自覚

文章が長くならないうちに、私の結論から申し上げましょう。


ヒトを“よく根付かせる”ためには、

「安+競+覚」の3要件を満たすことです


まず、「安」(=働き手に安心と信頼を与える雇用方針・システム)をベースとして、

適切・適度な「競」を敷く。

この場合の「競う」とは、個々に対し、

定量的な比較相対の競争を強いる評価処遇“制度”ではなく、

「競創・共創」ともいうべき組織“文化”をいいます


つまり、個々が相互に刺激し合いながら創造性を組織全体で

膨らませていくという「競い合い・つくり出しあう風土」です。


そしてその「競」を適切・適度に活性化するために、「覚」が要る。

「覚」とは、自覚、すなわち「自らを覚る」ことです。


経営・組織側は、事業上の哲学・意志を明確に自覚し、

メッセージを発しなくてはなりません。


他方、個々の働き手は、その哲学・意志・メッセージに対し、

自分の価値観や想いとどうすり合わせ、

共有していくかを自覚せねばなりません。


結局、ヒトが悪い根付きをしたり、逆に離散したりするのは、

“安”のみ、“競”のみで、

“覚”が欠落しているがゆえの結果であるように思います。


公務員のすべてを非難するわけではありませんが、

公務員という職種は、本来的に、組織に保身的・依存的に

悪く根付いてしまう傾向性をはらんでいます。


なぜなら、絶対的な“安”(国からの雇用保障)に守られ、

職場には“競”もなければ、

「良心に基づく公僕」であるといった“覚”も希薄化しているからです。


また、その逆の振り子として、

ヒトを動かすのに競争原理を持ち込んだ民間企業もさえません。


私は、いくつかの企業で、成果主義導入における

精巧な評価処遇システムをみてきました。

それらシステムは、実に、綿密に設計されています。

ジョブの分解のしかたと係数処理の方法、評価ポイントの区分けとレベル毎の記述、

原資の配分表、考課者の留意項目、等々。


しかし、こうした制度を「設計屋さん」にいくら精密に組んでもらったところで、

所詮、それを用いる労と使の双方で、

「なんのため」という“覚”がなければ、

「立派な箱をつくって、魂入らず」です。

“競”をあおるだけの制度は機能しないことの証となりました。


簡潔にまとめると、

“安”のみでは、ヒトは“鈍”する。

“競”だけでは、ヒトは“耗”する。

しかし、根底に“覚”があれば、ヒトは“鋭”となり、“活”する。

そして、ヒトはその組織によく根付く。  ・・・・ということでしょうか。


* * * * * * * *


IBM社の教訓:野ガモを飼いならすな

最後に、IBMの伝説的な経営者であるトーマス・ワトソン・Jr.の言葉を紹介しましょう。

彼はIBMに必要な人財について、よく「野ガモ」の寓話を用いました。

この寓話は、デンマークの哲学者キルケゴールが説く教訓です。


「ジーランドの海岸に、毎年秋、

南に渡る野ガモの巨大な群れを見るのが好きな男がいた。

その男は親切心から、近くの池で野ガモたちに餌をやるようになった。

しばらくすると、一部のカモは南へ渡るのが面倒になり、

男の与える餌を食べてデンマークで冬を越した。


やがて、残ったカモはますます飛ばなくなった。

野ガモの群れが戻ってきたときには、輪になって歓迎したが、

すぐに餌場の池に引き返した。

3、4年も経つと怠けて太ってしまい、

気づいたときにはまったく飛べなくなっていた。


キルケゴールの説く教訓は、

野ガモを飼いならすことはできるが、

飼いならされたカモを野生に戻すことは決してできないというものである。

飼いならされたカモはもうどこへも行くことはない、

という教訓を付け加えてもいいだろう。


私たちは、どんなビジネスにも野ガモが必要なことを確信している。

そのためにIBMでは、野ガモを飼いならさないようにしている」。


*以上、『IBMを世界的企業にしたワトソンJr.の言葉』朝尾直太訳

(英治出版)より



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