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2009年12月28日 (月)

ゲーテ『ゲーテ格言集』

私はちょっとした贈り物として本を差し上げることがよくあります。
これまで、いろいろな本を贈ってきましたが、
その中でもっとも数多く使ってきたのがこれです。

『ゲーテ格言集』 (高橋健二訳、新潮文庫)ゲーテ表紙

いま私の手元にあるものは、平成19年発行の第112刷(定価:400円)です。たぶん今はさらに増刷され、定価も変わっていると思いますが、それにしても初版が昭和27年ですから、威風堂々のロングセラーです。

わずか400円、薄い文庫本でありながら、
私はこれを“宝石”を贈っていると思っています。
ここに収められたゲーテの言葉の数々は、まさに不壊の宝石であって、その言葉を心に取り込んだ人の心を飾ります。
また、ゲーテの言葉の宝石は心を飾るだけでなく、力を湧き出してもくれます。

人生には、調子のいいとき、わるいとき、楽しいとき、苦しいときがありますが、
そのいずれの状況においても、この本を開いて、さーっと目を通すと、
そのときの自分の琴線に触れてくる言葉が必ず見つかります。
そして、そこから力を得て、その状況を乗り越えてゆく。

20代ではピンとこなかった言葉が、30代のある日突然に、すーっと見えてくる。
30代では素通りさせていた言葉が、40代になって初めて、ずっしり重く響いてくる。
古典たりえる偉大な本というのは
生涯を通じて、汲めども汲めども尽きない奥深さをもったものですが、
ゲーテの書き残したものはまさにそのひとつにちがいありません。

ゲーテの『ファウスト』をいきなり読んでみろと言われても、
多くの人にとってそれは難解すぎる。
だから、こうした名言集を最初に読んでみるというのは入門書として好適です。
実際、私もこの『ゲーテ格言集』を読んで、そこから出典元である『ファウスト』やら『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、『ゲーテとの対話』(エッカーマン)などの読書にさかのぼっていきました。

さて、ここからゲーテの言玉をいくつか拾ってみましょう。

「考える人間の最も美しい幸福は、
 究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである」。

「内面のものを熱望する者は、すでに偉大で富んでいる」。

「才能は静けさの中で作られ、性格は世の激流の中で作られる」。

「自分に命令しないものは、いつになっても、しもべにとどまる」。

「人は努めている間は迷うものだ」。

「人間は現在を貴び生かすことを知らないから、
 よりより未来にあこがれたり、過去に媚びを送ったりする」。

「君の胸から出たものでなければ、人の胸をひきつけることは決してできない」。

「世の中では、人間を知るということでなく、
 現在目の前にいる人より利口であるということのほうが関心事である」。

「批評に対して自分を防御することはできない。
 これを物ともせずに行動すべきである。
 そうすれば、次第に批評も気にならなくなる」。

「真に行為する人間を作るものは、才能や、あれこれのことに対する技能ではない。
 性格は人格にもとづくものであって、才能にもとづくものではない」。

「悪趣味な者に技術が結びつくと、これより恐ろしい芸術の敵はない」。

「見識の代わりに知識を持ち出す人々がある」。

「『なぜ、私は移ろい易いのですか。おお、ジュピターよ』と、美が尋ねた。
 『移ろい易いものだけを美しくしたのだ』と、神は答えた」。

・・・どうですか、これらの言葉がどれだけ今の自分に響いてくるでしょうか?
強く響いてくるなら、それだけ今、自分が強く生きようとしているんでしょう。
深く沁み込んでくるなら、それだけ今、深く物事を考えようとしているんでしょう。
大きな人の大きな言葉は、
自分の強さ、深さに応じて光と力を与えてくれるものです。

ゲーテ紙面1 



ゲーテ関連では、加えて、次の本もお勧めします。
『ブッデンブローク家の人々』『魔の山』『ヴェニスに死す』などの名作を残した
ノーベル文学賞作家トーマス・マンが語るゲーテの本です。
偉人が巨人を語ったほんとうに内容の濃く重い一冊です。

『ゲーテを語る』
トーマス・マン著(山崎章甫訳)岩波文庫

Goethe wo kataru















* * * * * *
Yosegaki
【追記】
過日、立命館大学でキャリアデザインに関する講演をやりました。 
そして、その運営にあたっていただいた同大学経済学部「キャリアデザインプロジェクト」のスタッフ一同から、寄せ書きが届きました。
当日の講演の受講者の感想を切り貼りしてくれたもので、内容は私にとってとても勇気づけられるものでした。


スタッフ16名のみなさんに感謝の意を込めて、
後日、私は『ゲーテ格言集』を16冊贈りました。

スタッフのみなさん、どうもありがとう!

Ritsuphoto

2009年6月 6日 (土)

『エピソードで読む松下幸之助』

Photo 地方への出張の際、いつも電車の中で読める本を持参しますが、たいてい私は手軽サイズの新書にしています。きょうの一冊は、先日の出張で読んだ新書です。

『エピソードで読む松下幸之助』
PHP総合研究所 編著

松下幸之助の著書はたくさんありますが、
これは自身が書いた本ではなく、
第三者によって編纂された幸之助にまつわるエピソード集です。

当時の幸之助と、彼を取り巻く周辺の人びととのやりとりやら、ハプニングやらを通して
経営者・松下幸之助、人間・松下幸之助の像がだーっと音を立てて眼前に現われてきます。

エピソード集という、いわば間接照明による松下幸之助の描写は、
ことのほか立体的に像を浮かび上がらせるもので、
これまで自分の中にあった幸之助像が、少し変化した分もあり、
強まった分もあり、ともかく、面白く一気に読める内容テンコ盛りでした。

気に入ったエピソードをいくつか紹介してみると、

◆金沢出張所の開設:
昭和の初め、金沢に出張所を開設するにあたり、幸之助は誰を責任者にするか考えた。
頭に浮かんだのは入社2年ほど経った二十歳を過ぎたばかりの店員であった。
幸之助は本人を呼んで伝えた。
「金沢へ行って、どこか適当なところを借りて店開きしてほしい。
資金は一応三百円用意した。これを持ってすぐ行ってくれたまえ」。

突然の社命に若い店員は驚いた。
「そんな大役が務まるでしょうか。
二十歳を過ぎたばかりで何の経験もありませんし・・・」

「必ずできるよ。考えてもみてみい、
あの戦国時代の加藤清正や福島正則などの武将は、みな十代から大いに働いている。
若くして自分の城を持ち、家来を率いて、民を治めている。
明治維新の志士にしても、みな若い人ばかりやないか。
大丈夫や、きっとできるよ」。


◆伸びる余地はなんぼでもあるよ:
昭和8年ごろのこと、幸之助が博多の九州支社を訪ねた。
支店長は、ナショナルランプのシェアの優位状況を得々と説明したのだが、
そのとき、つい口がすべって、今後の売上げを伸ばすのは非常に苦労だと付け加えた。

聞き終わった幸之助はこう言った。
「きみ、ご苦労さんやな。しかし、昨夜わしが別府駅に着いて改札を出たら、
各旅館の番頭さんがたくさん出迎えに出ていた。
みんな、それぞれの旅館名の入ったロウソクの提灯(ちょうちん)を持っている。
あのロウソクを電池ランプに替えたら、たいした数になるで」。


◆もう一杯おかわりを:
昭和40年代の初め、松下電器では業務用炊飯器の試作品を完成させた。
技術者たちは、試作品で炊いたご飯を幕の内弁当に詰め、重役会に臨んだ。
重役たちの反応はいまひとつ盛り上がらない。

しかし、そんな中、一人だけおかわりをした人がいた。
「この炊飯器のご飯、おいしいな。もう一杯おかわりを」 ―――
普段は食の細い松下幸之助、その人だった。

◆経営者の孤独:
戦後まもなくの話。社員の中に非常に気性が激しく、喧嘩早い者がいた。
その社員は、ある日仕事のことで大喧嘩をし、自分のむしゃくしゃする気持ちを
幸之助にきいてもらわねばすまなくなって、その日の夜遅くに幸之助の所に押しかけた。
彼は、胸にたまっていたうっぷんやら不満やらをあらいざらいぶちまけ、
話しているうちにぽろぽろ泣けてきた。

幸之助は、それをじっと聞いていて、言った。
「きみは幸せやなぁ。それだけ面白うないことがあっても、
こうやって愚痴をこぼす相手があるんやから。
ぼくにはだれもそんな人おらへん。きみは幸せやで」。



―――これらを美談すぎるととらえる向きもあるでしょうが、
それにしても、時代を超えて人の心に触れてくるエッセンスがここにはあります。
この本は経営学というより、人間学の本なのでしょう。
いずれにせよ、
松下幸之助とともに時代を築いてきた社員たちは幸せな働き手だったと思います。

世の中には、リーダーシップとは何か?を学問的に論じる研究がたくさんありますし、
リーダーシップ養成の研修サービスもいっぱいあります。
(私もそれに関わる人間です)
そして、たくさんの人たちがこれらを学習します。

ですが、いくらリーダーシップの要件定義、能力定義などを分析し、頭に入れたところで、
「この炊飯器のご飯、おいしいな。もう一杯おかわりを」―――
の一言が自然体で出ないかぎりにおいては、真に人はついてこないのでしょう。
(権威の上で、あるいは給料をもらう範囲ではついてきますが)

リーダーシップの核心の一つは、
「この人に何が何でもついていこう」と思わせる“人たらし”的な人間的魅力なんだな
ということを再認識させられた一冊でした。

2009年6月 4日 (木)

『暴走する資本主義』〈続〉:パンとサーカスとサイコロと

前回のエントリーでまとめたように、
『暴走する資本主義』の著者ロバート・B・ライシュ氏は、
今のこの歪(いびつ)に暴走を始めた資本主義の進路コースを修正し、
世界が継続的に維持発展できるようにするためには、
一人一人がマクロの視点で、自分たちが依って立つ経済システムを見つめなおす意識を持つことが大事だと訴える。

そして、
「消費者・投資家として私」が、際限のない欲望をうまく自制し、
よき「市民・労働者」として、よき民主主義を蘇生させるよう動くことだと主張する。
そのバランスを能動的に賢くとることができれば、
強い資本主義と活気ある民主主義を同時に享受できるとしている。


私が人財教育事業で起業したとき以来の問題意識は、
一人一人の働き手の「仕事観・働き観」をしっかりまっとうにつくることが
個々のよりよいキャリア・人生をつくることにつながる、
そしてそれは、よりよい組織・社会をつくることにつながる―――
というものです。

その点で、私はライシュ氏の主張に大いに賛同します。
とにもかくにも、
今のビジネス社会において、個々の働き手の中で、そして事業組織の中で
「働くことの思想」が脆弱化している、あるいは自問を怠っているように思います。

「働くことの思想」とは、簡単に言えば、
仕事・労働について日ごろからさまざまに思索を巡らせ、
自分なりの“解釈・答え”を持つことです。

例えば、自分は何のために働いているのか?というのはその人の根本思想です。
「3人のレンガ積み」の話で言えば、
自分にとっての“大聖堂”は何なのか、がきちんと答えられるということです。
(→“大聖堂”に関してはこちらの記事を)

また、「金儲けは目的か手段か?善か悪か?」といった問いに対して、
あなたは何と答えるでしょう?
この質問を自分の部下から受けた時、
あるいは自分の子どもから受けた時を想像してみてください。
すぐに、具体的に説得性をもって答えられるでしょうか?

働くことの思想を普段から強く持っている人は、
この問いに対する回答をすでに持っているはずです。
(→ちなみに私はこんな答えを持っています)

そして、今回の書評で中心テーマとなっている資本主義。
私たちのほとんどは、資本主義を生まれた時から当然のものとして受け入れています。
単純な比較で「資本主義=○、共産主義=×」と半ば反射的にとらえています。
そこには、確たる思想があって、資本主義を是としているわけではありません。
ただ何となく「共産主義は怖そうだから」とか「資本主義は自由だからいい」
といった程度の感覚で支持しているにすぎないのではないでしょうか。

しかし、今回明らかになったように、
資本主義は、私たちの大事な民主主義を脅かしているのです。

ライシュ氏もそうですし、もちろん私もそうですが、
資本主義なんかやめちまえ!といっているのではありません。
おそらく、このシステムを土台にしてしか、当面、地球上の数十億人の経済は
回っていかないと思います(中国も事実上すでにこのシステムの上に乗っかっている)。

資本主義は基本的には優れたシステムです。
しかし、人間の欲望をエンジンにして稼働するところが問題なのです。
ですから、私たちには、それを賢く扱うための「思想」が要る。
言うまでもなく、一個一個の人間の中にそれが不可欠なのです。

アンドレ・コント=スポンヴィル氏が『資本主義に徳はあるか』の中で言ったように
資本主義のメカニズムは、それ自体、道徳的でも反道徳的のものでもない。
結局、それは経済を行なう人間に任されている。

(→関連記事はこちら)

だから、私たち一人一人の思想いかんで、
資本主義は“ノアの方舟”にもなれば、“泥船”にもなる。


* * * * *

思想なり哲学なり叡智なり、人間の賢さというのは
少なからずの人が指摘するように時代が下ってもさほど進化してはいない。
(科学技術文明の発達ともあまり関係がない)
特に、欲望の扱いに関しては、人類は古くから惑わされっぱなしです。
古今東西、宗教は、欲望をどうコントロールするか、そして死をどうとらえるか―――
この二大テーマを扱ってきたともいえます。

資本主義が個々の欲望をベースにするところから、
その「暴走→暴落→規制→新たな暴走」というサイクルは過去から営々と続いてきました。
そのサイクルが止まないのは、
人間がいまだ欲望をうまくコントロールできていない証左だともいえます。

渋沢栄一の『論語と算盤』は、昭和3年(1928年)の刊行ですが、
ここには現在と同じくマネー獲得を狙って投機に明け暮れる投資家や事業経営者たちが
あちこちで言及されています。
そして『論語』の思想で滔々と諭す渋沢の様子がみてとれます。

また、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著した
マックス・ヴェーバーは(執筆した1904年時点で)、
「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、
営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、
今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、
スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」
と書いています。

つまり、経済がその本来の意味である“経世済民”からはずれて、
もはやマネーの多寡を競い合う体育会系ゲームになり下がったと言っているわけです。

そもそもケインズも、
私は資本主義より優れた経済システムを知らない。
しかし、人びとの中に生まれる「貨幣愛」こそが問題である、と吐露しています。

資本主義が回り始めてこのかた、
人びとの欲望がそのシステムの箍(たが)をはずし、
いくつもの「●●恐慌」やら「●●ショック」を引き起こしてきました。
しかし問題は、暴走→暴落→規制→新たな暴走の規模が肥大化していることです。

* * * * *

私たちの考え方と行動いかんによって、資本主義が泥船化するかもしれないという大事な分岐点にあって、
私たちは相変わらず、目先の知識やスキル習得ばかりに目がいき、
組織から振られた短期業務目標の達成に忙しい。

肉体労働、知識労働の別にかかわらず、
組織の歯車となって一人一人の労働者が働かされる構図は
チャップリンが映画『モダンタイムズ』で描いたころとさして変わってはいない。

スーパーで1円を節約する主婦が、
あるいは昼食で100円200円を浮かせたサラリーマンが、
FX取引で「きょう1日で5万円の儲けが出た」とか「レバレッジで2000万円の損失が出た」と口にする風景は、
どうも何かを見失っているように思う。

「生活防衛のための投資の何が悪い!」という気持ちもわかりますが、
それは前記事で触れた明石の花火大会歩道橋事故で言えば、
肘を立てて我さきに強引に逃げようとしている姿にも映る。
橋全体が崩れるかもしれないという状況にもかかわらず・・・。
(そういうことに気づいたので、私個人はマネー投資をいっさいやっていません)
(もちろん投資マネーはある部分、企業・産業を興すために必要なことも理解しています)


「パンとサーカス」は、詩人ユヴェナリスが用いた風刺句です。
西洋ではよく知られた比喩ですが、要は、
民衆はパン(=食糧)とサーカス(=適当な娯楽)さえ与えられていれば
為政者に文句を言わず、日々適当に暮らしていくということです。

今の日本を見ると、問題山積ではあるものの、
パンはそこそこ手に入るし、
ストレス発散や憂さ晴らしをするサーカスもさまざまある。
加えて、パソコンや携帯から手軽な操作で、マネーを増やす投資(投機)手段もいろいろ出てきた。
「給料が増えないんなら、カネにカネを生んでもらおう」と
投資商品を買い、日々の相場数値に一喜一憂する。

意地の悪い風刺画家であれば、こうした状況を
パンとサーカスに満足し、サイコロに夢中になっている人びとを描くのではないでしょうか。
もちろん人びとが乗っているのは、泥船です。

繰り返しになりますが、
私は厭世家でも、マネー投資否定者でもアンチ資本主義者でもありません。
むしろ“強い資本主義”と“活気ある民主主義”の両方を望む者です。
そして経済を本来の大義である“経世済民”として、その健全な発展を望む者です。

そのために「働くことの思想」を一人一人の人間の中に涵養していくことが
不可欠だというのが本記事の主張です。―――私の起業動機もまさにそこにあります。

歴史を振り返ってみると、
よき時代には、必ず「よきエートス(道徳的気風)」が充満しています。
エートスはどこからか漂ってくるものではなく、
個々の人間の内側から湧き起こってくるものです。


私たちは一個の自律した職業人として、
パンとサーカスとサイコロで日々を送るのではなく、
各自の胸の内に“大聖堂”とは何であるかを求めて働いていきたい。


【お勧めしたい関連読書】
・アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』
 (小須田健/C.カンタン訳、紀伊国屋書店)
・渋沢栄一『論語と算盤』(国書刊行会)
・野中郁次郎/紺野登『美徳の経営』(NTT出版)
・内山節/竹内静子『往復書簡 思想としての労働』(農山漁村文化協会)
・杉村芳美『「良い仕事」の思想』(中央公論社)
・塩見直紀『半農半Xという生き方』(ソニーマガジンズ)
・西村佳哲『自分の仕事をつくる』(晶文社)
・ディック.J.ライダー『ときどき思い出したい大事なこと』
 (ウィルソンラーニングワールドワイド監修、枝廣淳子訳、サンマーク出版)




Taue
軽井沢から戻ってきたら、調布ではすでに田植えが終わっていた
今年も瑞穂の風景がやってくる (農家の方に感謝)

2009年6月 1日 (月)

『暴走する資本主義』:一個一個のビジネス人に問う本質論

Scaptlsm きょうは前回のエントリーで紹介した
ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』
<原題:“Supercapitalism”>
(雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社)
の詳しい感想を書きます。

* * * * *

本題に入る前に、先日テレビのニュースで取り上げられていた事故について触れたい。
それは、兵庫県明石市で2001年7月に起きた「明石花火大会歩道橋事故」です。
市民花火大会に集まった見物客がJR朝霧駅南側の歩道橋で異常な混雑となり、
「群衆雪崩」が発生。11人が死亡、247人が負傷した事故です。

遺族は、その警備・安全体制に問題があったとして
管轄の明石警察署元副署長らを訴え続けているのですが、
10日ほど前、
「業務上過失致死傷容疑で書類送検され、
3回にわたり不起訴になった当時の明石署副署長(62)の処分を不服として、
遺族側は、神戸検察審査会に3回目の審査を申し立てた」
とのニュースが流れた。

私は、この事故については、遺族の方々の心が収まる形で終結し、
今後同じような事故を他でも起こさないことを願うばかりです。

さて私には、この事故と、きょう紹介する『暴走する資本主義』とが
ある部分、重なって見えます。
以降、本題に沿って、明石事故を分解してみたい。

明石事故において、着目する点は3つあります。

1点目に、安全面での警備体制・規制がなされていなかったこと。
例年、人がごった返し、かねてから安全面での問題が指摘されていたにもかかわらず、
混雑を規制する計画も、当日の警察官出動もなかったという。

2点目に、被害者は主に過度の圧迫による死傷です。
歩道橋に溢れた人びとの一人一人は、もちろん事故を起こす意図などない。
ましてや誰かを圧死させようなどという殺意があるわけでない。
第一、一人の人間は他人を圧死させるような強い力を持ち合わせていない。
しかし物理的には、歩道橋にいた一人一人の自己防衛の行動が重なり合わさって、
ある箇所に力として集中し、たまたまそこにいた個人が圧迫被害を受けた。
(特に子どもや女性など力の上での弱者が被害者になりやすいという)

3点目に、したがって、当時、あの歩道橋にいた一人一人が
知らず知らずのうちに(物理的な意味での)事故の加担者となり、
かつ、誰もが、被害者になりえた状況にあった。


* * * * *

さて、そんなことを頭に置きながら、
ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』の内容に移ります。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」
―――著者はこの問いを置くことからスタートしています。
この問いは、読み進めていくと解るのですが、表面的な問いではありません。
現象の本質、そして人間の根本を見つめようとする問いです。

そして、その答えが解き明かされていきます。
著者は、資本主義を暴走させたのは、
根本的な意味で、強欲な企業・経営者、あるいは
巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたちではないと言います。


それは、「消費者」「投資家」として力を持った一般の私たち一人一人なのだ―――
これが著者の主張する重要な観点です。

つまり、一人一人の力は小さいかもしれないが、
「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって
巨大な力を生み、資本主義を歪な形に走らせるプレッシャーをかけている。

例えば、ウォルマートは今日、米国で最大規模の収益を上げ、最多の従業員を雇用し、
日々、何千万人という消費者を招き寄せる圧倒的に強い小売企業となった。
そしてここ数十年間、目覚ましい勢いで株価を押し上げ、株主に報いてきてもいる。

それを可能にしているのは、
ウォルマートのサプライヤーに対する過酷で非情な交渉力です。
ウォルマートは「1セントでも安く買いたい」という個々の消費者の購買意思を集結させ、
あたかもその消費者団体の代表として仕入れ先と値引きの交渉を行う。

ウォルマートが収益を上げるためにやっている過酷なことは、外側だけに限らない。
内側に対してもギリギリまで削りに削る。
詳細の数値は本書に出ているので省きますが、ウォルマートの従業員・パートタイマーの
労働待遇(給料や福利厚生、年金保障、健康保険手当など)は厳しい。

しかしだからといって、ウォルマートのCEOは、
非情だとか残酷だとかのレッテルを張られる筋合いのものではない。
彼は、ビジネスという競争ゲームのルールに従って、
最大限の成果(収益獲得)を出そうと本人の能力を発揮し努力している
に過ぎないのです。


仮に、サプライヤーや従業員に温情をかけてウォルマートの値引き率が鈍ってしまえば、
1セントでも安く買い回る消費者は、そそくさと他のチェーン店に移ってしまうでしょう。
そして、収益が悪化傾向をみせるやいなや、株価が下がり始め、
少なからずの投資家たちがワンクリックで株を売り払う流れが強まる。
そして、株の下落は加速する。
四半期ごとの成績を厳しく問われるCEOは、交代を迫られるはめになる。

そうした背後でプレッシャーをかける投資家とは誰なのでしょう?
直接的にはもちろん、その株を保有する株主です。
そして間接的には、年金ファンドや保険商品、投資信託商品を通じて、
薄く広く「あなた」自身も、そこに関わる当事者の一人である可能性が高いのです。

私たち一人一人には、多面性があります。
「消費者」であり、(広い意味での)「投資家」でもある。
そしてまた同時に、「労働者」であり、「市民」でもある。

70年代以降、「消費者としての私」、「投資家としての私」は、飛躍的にその立場が強まった。
より有利な(=得をする)選択肢を求めて、動ける方法が格段に多くなったのです。

しかし、その「消費者」「投資家」としての利得欲望が増せば増すほど、
「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと
押しやられていく皮肉な現象を起こしているのが昨今の状況です。


そうした資本主義の歪みを矯正するのが、民主主義・政治の役割なのですが、
もはや暴走する資本主義にのみ込まれてしまって機能しなくなっている。

著者は、ワシントン(=米国の政治)が、いまや
企業という利益団体から雇われるやり手のロビイストたちで動かされている現状を
具体的に書き連ねています。
公益や社会の真に重要な問題を訴える市民団体や非営利組織などは、
団結力や資金力に乏しいので、
その訴えがワシントン上層部に届く前に雲散霧消していく場合がほとんどだと言及しています。

「消費者」や「投資家」としての私たちは、
ネットショッピングやネットの株取引、ネットの検索などを利用して、
ワンクリックで自分の意思を即座に完結させることができる手段を持った。
そして、それらはグローバルにつながり統合されることで、巨大なパワーとなる。

その一方で、「労働者」「市民」としての私たちは、
意思を世の中に伝える手段はきわめて限られており、脆弱なままです。
一労働者・一市民として、
「このままじゃいけないので反対しよう」「何か役立つことをしたい」と思ったところで、
それを実行し、ましてや同じ考えの人びとを束ねて大きな運動にするには
気の遠くなるような努力と時間が必要になります。

ライシュ氏は、序章でこう書いています。

私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。
日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、
よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。
現在進行している超資本主義では、
市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、
民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。
個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、
現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。

そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、
それを決断していかねばならない。
その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。


著者は、序章でこうした結論を述べた後、
残りの300ページ超にわたり事実を一つ一つ積み上げながら、
資本主義が暴走を始める根本のメカニズムを書き解いていきます。

もちろん、その列挙する事実が偏向的だとか、決め付けだとかの声は出てくるでしょうが、
力強い主張の本というのは、一本の背骨の入った図太い解釈から成り立つものです。

文章や解釈というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、
ここにはロバート・ライシュという人物の高いレベルの良識さ・明晰さと、
そしてこのことを社会に問わずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができます。

実際のところ、ライシュ氏は、ハーバード大学の教授であり、
クリントン政権下では労働長官を務めた人物です。さらには、
ウォールストリートジャーナル誌で「最も影響力のある経営思想家20人」の1人に選ばれるほどですから、
よい本を著して、こういった論点を世に問うというのは、
当たり前といえば、当たり前なのですが、
日本において、こうした立場にある人が、どれだけ同じように賢者の論議を押し出しているのか
と考えてみると、非常に残念に思います。

いずれにしても、本書は、ビジネスに関わるすべての人に課したい良書です。
そして、これは米国だけの問題ではなく、
日本を含め、経済体制を問わず全世界の国々が共有すべき問題を扱っています。

私は個人的に、今回の金融危機による世界同時不況が、
あいまいなまま、あいまいな感じで景気持ち直しにつながらないでほしいと感じています。
このまま中途半端に進んでいけば、早晩、歪んだ形の資本主義は、
もっと大きなダメージを世界規模でもたらすと危惧するからです。

私たちが全世界的に持続可能な社会をつくるために、
国の境界を越えて経済体制や仕組みづくりを変えていく、
そして、自ら所属する組織の在り方を変えていくのは当然ですが、
その根本は、やはり一個一個の人間が、どう変わっていくかということに行き着きます。

百年単位の時間軸の視座に立てば、
個々の人間の叡智、勇気、行動が問われる大事なタイミングなのだと思います。

2009年4月12日 (日)

岡本太郎『強く生きる言葉』

私は日ごろ、企業の従業員や公務員に向けて
“一個のプロであるための意識基盤”をつくる研修
(「プロフェッショナルシップ研修」と名づけている)をやっているわけですが、
そこで重要視しているのが
「個として強くなる」というメッセージ、そしてプログラムです。

もちろん企業や官公庁の事業は組織体で行う規模のものが多く、
チームプレー・協働性が大事であることは言うまでもありませんが、
根っこのところの個人が強いか強くないかは
結局、組織パフォーマンスに大きく影響している重大問題です。

日本のサッカーが世界レベルで強くなっていくためには、
組織力や戦略・戦術面での強化だけではもはや限界があることがわかっています。
1対1で強い選手を育成していくことが今後の必須課題であるのと同じように
企業現場、行政組織現場においても
一個の職業人として強いプロフェッショナルを育てていくことが
優れた商品・サービス創出、
ひいては国力にもつながっている問題だと思います。



Photo_3 一個の職業人として仕事とどう向き合うか―――
それを学ぶためには、
独り仕事と格闘している人間の精神性や観を学び取るのが有効です。

私はそんなとき、芸術家の著作を好んで読みます。
きょうはその中のひとつ
岡本太郎『強く生きる言葉』(イースト・プレス刊)とその姉妹本である『壁を破る言葉』を紹介します。

岡本さんは比較的多くの著作を残されていますが、
この本は、そうした著作の中から、特にオーラを放つ言葉を厳選してあるので
岡本太郎の命の激しさを感得するには格好の本だと思います。

* * * * *

「財産が欲しいとか、地位が欲しいとか、
あるいは名誉なんていうものは、ぼくは少しも欲しくはない。
欲しいのはマグマのように噴出するエネルギーだ」。


「いつも自分自身を脱皮し、固定しない。
そういうひとは、つねに青春をたもっている」。


「芸術とトコトンまで対決し、あらゆる傷を負い、猛烈な手負いになって、
しかもふくらみあがってくれば、これこそ芸術だ」。


私にとっての岡本太郎のイメージは、もはや人間というより、
人間の形をとっている“生命力の放出体”というイメージです。
言葉自体からエネルギーが噴出しているので、読み手も感応して同じくエネルギーを湧かせることできる。
元気の萎えたときの岡本節は実に良薬(強壮剤?)といった感じです。

* * * * *

岡本さんは、コンプレックスや自己嫌悪といった“逃避行為”を極端に嫌った人でした。
たぶんご本人も幼少のころから、そうした感情との葛藤・超克があったんだろうと思います。

・「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ」。
・「ひとつ、いい提案をしようか。音痴同士の会を作って、
そこで、ふんぞりかえって歌うんだよ。
それも、音痴同士がいたわりあって集うんじゃだめ。得意になってさ。
しまいには音痴でないものが、頭をさげて音痴同好会に入れてくれといってくるくらい堂々と歌いあげるんだ」。


・「人間というものは、とかく自分の持っていないものに制約されて、
自分のあるがままのものをおろそかにし、卑下することによって不自由になっている。
自由になれないからといって、自己嫌悪をおこし、積極的になることをやめるような、
弱気なこだわりを捨てさらなければ駄目だ」。


・「ひとが「あらいいわねえ」なんていうのは、
「どうでもいいわね」と言ってるのと同じなんだよ」。


* * * * *

そして、岡本さんは生涯「若さ」を貫いた人でした。
保身・現状満足・老いに徹底抗戦した人でした。

・「自分という人間をその瞬間瞬間にぶつけていく。
そしてしょっちゅう新しく生まれ変わっていく、
エネルギーを燃やせば燃やすほど、ぜんぜん別な世界観が出来てくる」。


・「自分から出た瞬間に、作品はすでに他者。
それはぼくにとって、もはや道ばたの石っころと何もかわらない」。
・・・「芸術家の情熱は何も作品に結晶するばかりではない。
作品の以前と以後。そしてまた創られた自己の作品をのりこえるという意思。
それをひっくるめて創造だ
」。


・「熟したものは逆に無抵抗なものだ。
そこへいくと、未熟というものは運命全体、世界全体を相手に、
自分の運命をぶつけ、ひらいていかなければならないが、
それだけに闘う力というものを持っている」。


・「むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、
現在を侮辱し、おのれを貧困化することにしかならない」。


* * * * *

そして最後にこの一言。

・「女性が身を売るというと、そこにはセックスが介在するけど、
男だってこの世の中に生きていくためには、みんな生活のために身を売っているじゃないか。
精神的にも肉体的にもね」。


・・・いや、実にキツイ、岡本さんの一撃ではないですか。
パンを得るために、身も魂も売り払っているサラリーマンが世の中にどれだけ多いか。
内なる心の叫びのままに、それを仕事としている人がどれだけ少ないか---
そういうことですね。


Shinme
(桜の花と入れ替わりに新葉が日に日に大きくなる)

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