2008年11月10日 (月)

サラリーマンの「3鈍」

平均株価が下がり始めると、人は「景気後退」といい、
自分の周辺でリストラが出ると、「不景気」と眉をひそめる。
そして、自分がリストラされると、「恐慌だ!」と騒ぐ。


・・・こんなような言い回しを以前どこかで聞いたようなことがあります。
確かに私たちはいま、大変な時に突入しつつあるのかもしれません。
(過度に悲観するのは賢明ではありませんが)

私などのように個人で事業をやっている者にとっては、
すでに今年前半からその下降トレンドはしっかり身で受け止めていましたし、
そうでなくとも、
この好景気といわれたここ3、4年においてすら、
気を緩めることはありませんでした。

しかし、大企業に勤めるサラリーパーソンにとって
現況はさほど深刻なものとして感じられていないのではないでしょうか。
(深刻に受け止めろ、と言いたいわけではありませんが)

私も、90年以降のバブル崩壊とその後の経済低迷期を
大企業のサラリーマンとして過ごしましたが、
世の中が深刻な状況にあるという実感が薄かったのを覚えています。

メディアのニュースでは耳と頭に入ってきても、
自分の給料が激減するわけでもなく、
日々の業務量が減るわけでもなく、
失業の脅威にさらされるでもなく、
株で大損をしたわけでもなく(そもそも株を保有していないので)
資金繰りに駆けずり回るわけでもなく・・・

もちろん会社の経営者は、ことあるごとに
「えー、昨今の経済状況・市場は厳しさを増し、わが社も・・・」と
社内に向かってアナウンスするわけですが、
しもじもの従業員にはあまり刺さっていかない枕詞のようで
日々のことをやりこなすことで時を過ごしていました。

* * * * * * *

私は、5年前に、晴れてサラリーマン業をやめ、
独立して事業をやっていますが、だからこそいま、
サラリーマンのことがよくわかるようにもなりました。

サラリーマン、特に大企業のホワイトカラー(加えて公務員)は、概して
「守られた働き人」であると思います。
中小企業の経営者や従業員、独立自営業者、ブルーカラーの人びと、
ましてや非正規雇用の人びとは、景気の荒波をほぼ直接的に受けますが、
大企業は、その事業体自身が防波堤となっていて、
そこで従業員は守られます。
従業員個人が受けるのは、防波堤で緩和された波風ですみます。
(もちろん、場合によっては企業という防波堤自身が壊れるときもありますが)

雇用組織が防波堤の役目を果たして、
その中で比較的安心して働けることは、もちろん望ましいことです。
人は雇用の安定保障やら収入保障があってこそ、
仕事に集中でき、内容のあるいい仕事を生み出すことができます。

しかし、人間というものは、環境の恩恵を活かすこともあれば、
恩恵に甘えて怠けることもします。

「貧すれば鈍する」とは昔から言いますが、
同じように、サラリーマンにおいて、
「安すれば鈍する」ことが起きると私は観察しています。

つまり、安心・安穏とした守られた状態に身を置き続けるうちに、
働く意識がいろいろと鈍ってくるという症状です。
私はこれを「サラリーマンの鈍化病」と呼んでいます。
あるいは「キャリアの平和ボケ」といっていいかもしれません。

きょうは、その鈍化病のうち3つを寓話を交えて紹介したいと思います。
サラリーマン諸氏にとっては、多少、耳の痛い内容かもしれませんが、
寓話の紹介だと思って、気楽に読み流してください。

私が感じる「3つの鈍」とは、
1)変化に鈍くなる
2)超えることに鈍くなる
3)リスクを取ることに鈍くなる 
 です。


●鈍化病1【変化に鈍くなる】 “ゆでガエル”の話
生きたカエルを熱いお湯の入った器に入れると、
当然、カエルはびっくりして器から飛び出てくる。
ところが今度は、最初から器に水とカエルを一緒に入れておき、
その器をゆっくりゆっくり底から熱していく。
・・・すると不思議なことに、カエルは器から出ることなく、
やがてお湯と一緒にゆだって死んでしまう。


この話は、人は急激な変化に対しては、びっくりして何か反応しようとするが、
長い時間をかけてゆっくりやってくる変化に対しては鈍感になり
やがてその変化の中で押し流され、埋没していくという教訓である。


窓際族とかリストラ組とか、それは嫌な言葉ではあります。
私はいま、会社(雇用組織)とも、そこで働く従業員ともニュートラルな立場で
人財教育サービスを行う身ですので、客観的に物事が見られるわけですが、
窓際やリストラを生む原因は、会社側にもありますし、働く個人側にもあります。

しかし、根本的には、働く個人が、働く意識を常に鋭敏にさせて
自己防衛・自己発展させていくしか、この手の問題の解決はないと思っています。
だから、私は、
「サラリーマンよ、ニブ(鈍)リーマンになるな。
環境の変化を感じつつ、変えない自分の軸を持って、自分を変えていけ
と勇気づけるしかない。

ゆでガエルは、保守・安穏・怠惰・安住の行く末の象徴として
肝に銘じておきたい話だと思います。


拙著『ピカソのキャリア ゆでガエルのキャリア』は、
この話をモチーフにして書き上げました。



●鈍化病2【超えることに鈍くなる】 “ノミの天井”の話
ノミの体長はわずか数ミリだが、体長の何十倍もの高さを跳ぶことができる。
ビーカーにノミを入れておくと、当初、
ほとんどはビーカーの口から元気よく跳び出ていってしまう。
しかし、ビーカーにガラス板でふたをしておくとどうなるか。
ノミは何度もガラスの天井板にぶつかって落ちてくる。
これをしばらく続けた後、ガラス板をはずしてみる。
すると、ノミは天井だった高さ以上に跳ばなくなっており、
ビーカーの外に跳び出ることはない。


確かに組織にはガラスの天井がさまざまな形で存在します。
暗黙の制度であったり、経営幹部や上司の頭ごなしの圧力であったり、
あるいは(これが最もおそろしいのですが)自分自身で限界を設ける姿勢であったり。。。

ですが、サラリーマンは、結局のところ
自分の時間と労力をサラリーに換えている職業であり、
組織から言われた範囲で失敗なくやっていれば、
給料は安定的にもらえる(ことに慣らされる)。
だから自分を超える、枠を超える、多数決を超えることをしなくなる

「なぜ、超えることをしないのか?」と問えば、
「組織がこうだから」「上司がこうだから」など批判や愚痴をこぼすだけ。
それはまさに鈍化病の症状です。

・・・さて、ちなみに、上のノミの天井話には続編があります。

いっこうにビーカーの口から出なくなったノミたちを
再び外に跳び出るような状態に戻すにはどうすればよいか?


―――普通どおり跳べるノミを1匹そのビーカーに混ぜてやること。
(ナルホド!)

*注)
なお、ゆでガエルとノミの天井の話は、ビジネス訓話としてよく用いられるものですが、
科学的に根拠があるかは定かではありません。



●鈍化病3【リスクを取ることに鈍くなる】 “落とした鍵”の話
ある夜遅くに、家に帰る途中の男が、
街灯の下で四つんばいになっているナスルディンに出くわした。
「何か探し物ですか?」と男が尋ねたところ
「家の鍵を探しているんです」とナスルディンが答えた。
一緒に探しましょうということで、二人が四つんばいで探すのだが、見つからない。
そこで、男は再び尋ねる。
「ナスルディン、鍵を落とした正確な場所がわかりますか?」
ナスルディンは、後ろの暗い道を指し示した。
「向こうです。私の家の中」。
「じゃあ一体なんでこんなところで探しているんです?」
と男は信じられないといった口調で尋ねた。
「だって、家の中よりここのほうが明るいじゃありませんか」。
                 ―――(『人を動かす50の物語』M.パーキン著より抜粋)

ナスルディンはなんともトンチンカンな人間だと思いませんか。
しかし、これはサラリーマンのひとつの姿をよく表していると思います。

自分が求める解はたぶん向こうの
「暗い・未知の・想定外の展開を覚悟しなければならない・リスクのある所」
あるかもしれない―――こう思いつつも、
サラリーマン組織にいると、
「適当に見えている範囲で・既知の・想定の範囲内で済む(予定調和の)・リスクのない所」
で、仕事をやろう(やり過ごそう)とします。

サラリーマン鈍化病の3つめは
「リスクテイクして何かをつかみ取る」ことをしなくなることです

その暗い未知のゾーンで、もがけば何かつかめるかもしれないことはわかっていても、
混乱や葛藤や迷路を背負い込みたくない。
傷つくことの怖さ、見えないことの不安、もがくことの煩わしさ、
やっても所詮ムダという冷めた達観、などがあるのでしょうか。

そのくせ、酒の場では、「ここは俺のいる場所じゃない!」と大見栄を切ったりもする。
しかし、翌日には、
また、街灯の下で鍵を探す(探すふりをして忙しく振舞う)・・・。

何事も見えている範囲で、リスクを負わず、
組織が求める想定内の結果を出すことで、
身を忙しくし、仕事をやっている気になる。
しかし、永遠に真に自分が求めているものを見出すことはない。
・・・それでも、給料は毎月きちんと振り込まれ、生活は回っていく。
だから、余計にサラリーマンはリスクを取らなくなる・・・。(沈黙)

* * * * *

ちょっとサラリーマン業を揶揄しすぎかもしれませんが、
私は、サラリーマンの味方です!
だからこそ、どういう「働き観」を持って仕事に臨んでいけばいいのか
それを一緒に考えましょうというのが私の生業ですから。

2008年11月 6日 (木)

●セミナー案内● 若年層の高い離職率を考える

きょうは私が登壇するセミナーのご案内をひとつさせてください。

「新卒入社の3割が3年で最初の会社を辞めてしまう」―――
いわゆる「3年3割離職問題」に対し、
人事部・経営側は何ができるか、というテーマです。

それに対し、私は、
働く「マインド・観」の醸成こそ根っこの解決である
という内容で話をします。

以下、セミナー案内文を掲示します。
ご関心のある方は、どうぞお越し下さい。

****セミナー詳細情報******

Photo

INSIGHT NOW! セミナー
『働く意義とは!?「意識・心」から考える若年層の離職』
~マインドとメンタルに訴える根本解決法を体感する

08年12月2日(火)13:30-17:30
ぷらっとホーム株式会社 セミナールーム
(東京都千代田区外神田1-18-13 秋葉原ダイビル9F)

【セッション1】
「部下を潰さない・辞めさせない行動科学式コミュニケーションメソッド」
― 部下に悪性ストレスをかけずに、本来の力を発揮させるには? ―
講師 阿部 淳一郎(INSIGHT NOW! ビジョナリー)

【セッション2】
働く「マインド・観」の醸成こそ根っこの解決
~自律した個として強いプロフェッショナル人財を育てるには!?
講師 村山 昇 (INSIGHT NOW! ビジョナリー)

****************

2008年11月 2日 (日)

偶発を必然化する力―――秋の読書4冊

◆人生・キャリアはJazzだ
ジャズ音楽の醍醐味は、そのアドリブ(即興)にあります。
ジャズにおいては、とりあえず楽譜はあるものの
ミュージシャンたちはたいていその場その場の雰囲気でアドリブを仕掛けていく。

ジャムセッションで、演奏メンバーは何の曲をやるかは分かっていますが、
それをどう弾いて、結果、どう仕上がっていくかは、
本人たちにも想像がつかない。
当日の聴衆の雰囲気によっても左右されるでしょうし、
誰か1人が弾いたアドリブの一節が他のメンバーに引火し、
それがどんどん大きくなり、これまでにない演奏になる場合もあるでしょう。
ジャズの演奏の出来不出来は、もう演奏してみないと分からないわけです。

そして、演奏してみた結果、初めて
本人たちも「俺たちがやりたかったのはこういう演奏だったのだ」とわかる。

考えてみれば、人生もキャリアもジャズと同じようなものです。
自分の能力や意志、体力、経済力といったものを統合的に組み合わせて、
自らの生き様・働き様といった作品をこしらえていく。
しかし、ことはすべて型どおり、予定通りには進まない。
運や縁といった偶発のいたずら要素も大きい。
ですから、人間は毎日の生活を即興演奏しているともいえる。

アドリブとは「逸脱の創造行為」ととらえてもいいでしょうが、
この逸脱という試みは、基本的な演奏技術を習得し、
演奏の場数を豊富に経験した上で、
「偶発」に下駄を預けることの妙味を知っている者こそがやると、
すばらしいアウトプットを誕生させることができる。

私は、自分が行っているキャリア研修で
「人生やキャリアも、ある部分、
アドリブを意図的に楽しむという“行き当たりばったり”でいいんですよ

と言っています。

ただし、
その上で、納得のいく生き様・働き様を表現していくためには、
もろもろの基礎力やイマジネーションがあってこそ、と付け加えています。
自分の意志も能力も経済力も脆弱なままでは、
逸脱を十分な創造人生までに変換することはできません。


◆「ハプンスタンス・アプローチ」~偶発を楽しめ!
キャリアは「計画された行き当たりばったり」でよい、とする研究成果を出したのは、
「Planned Happenstance Theory」 を提唱した
米スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授です。

教授によれば、
キャリアは100%自分の意のままにコントロールできようものではなく、
人生の中で偶然に起こるさまざまな出来事によって決定されている事実がある。
そこでむしろ大事なことは、
その偶発的な出来事を主体性や努力によって最大限に活用し、チャンスに変えること、
また、想定外な出来事を意図的に生み出すように積極的に行動することだ
という論旨です。

そのために、各人は好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心を持ち、
失敗を許容するおおらかさを持つことが重要だといいます。
これらを教授は「ハプンスタンス・アプローチ」
(偶発を肯定的に利用しチャンスに変える)と名づけていますが、
変化の激しい時代を生きる上で、この心の持ち様はとても有効だと思います。


ジェラート・パートナーズのH.B. Gelatt博士は、同じような観点から
意思決定の方法論として
「Positive Uncertainty」 (不確実性を肯定的に受け入れる)
という概念を提唱しています。


◆「セレンディピティ」~迎えに行く偶然
科学の世界では、偉大な発見が偶然の失敗や何気ない所作から生まれることが多い。
しかし、果たしてそれは、
偶然だったのか、それとも必然だったのか・・・?

「チャンスはその心構えをした者に訪れる」。
Chance favors the prepared mind.


これは、フランスの細菌学者ルイ・パスツールの言葉。
ノーベル賞を受賞する科学者たちが頻繁に引用することでもつとに有名です。

2002年同物理学賞受賞の小柴昌俊博士も
著書『物理屋になりたかったんだよ』の中でこう述べています。
「たしかにわたしたちは幸運だった。
でも、あまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、
と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、
それを捕まえるか捕まえられないかは、
ちゃんと準備をしていたかいなかったかの差ではないか、と」。

そこで、西洋の言葉には「セレンディピティ」という便利な一語がある。
“serendipity”とは、オックスフォード『現代英英辞典』によれば、
「楽しいものや思いがけないものを偶然に見つけること。あるいはその才能」とある。

セレンディピティの研究でいくつかの著書がある澤泉重一氏は、
偶然の中から何かを察知する能力として、
セレンディピティを「偶察力」と名づけています。

氏はまた、人生には「やってくる偶然」だけではなく、
「迎えに行く偶然」があるといいます。
つまり後者は意図的に変化をつくり出して、そこで偶然に出会おうとする場合をいう。
その際、事前に仮説をいろいろと持っておけば、何かに気づく確率が高くなる。
基本的に有能な科学者たちは、こうした習慣を身につけ、
歴史上の成果を出してきたと氏は分析します。

パデュー大学のラルフ・ブレイ教授によれば、
セレンディピティに遭遇するチャンスを増やす心構えとして、
「心の準備ができている状態、
探究意欲が強く・異常なことを認識してそれを追求できる心、
独立心が強くかつ容易に落胆させられない心、
どちらかというとある目的を達成することに熱中できる心である」としている。
(澤泉重一著『セレンディピティの探究』より)


◆哲学は偶然性をどう考えるか
偶然性は哲学の世界においても大きなテーマであり続けてきました。
『偶然性と運命』(木田元著)は、
幾人もの哲学者たちがそれをどうとらえてきたかをわかりやすく解説してくれます。

マルティン・ハイデガーは、独自の時間論の中で偶然をとらえます。
人間は、現在を生きるとき、未来や過去をも同時に生きている。
つまり、外的で偶然的なものとしか思われない現在のこの出逢いが、
あたかも自分のこれまでの体験の内的展開の必然的到達点であるかのように
過去の体験が整理しなおされ、未来に向かって意味が与えられる。
ハイデガーはこれを<おのれを時間化する>と表現しました。

また、日本の九鬼周造は、運命を
「偶然な事柄であってそれが人間の存在にとって非常に大きい意味をもつ場合」
と定義づけ、運命とは偶然の内面化されたものであるとします。

また、ヴィルヘルム・フォン・ショルツは必然化された偶然を
「運命の先行形態としての偶然」と言い、
カール・ビューラーはそうした必然化されたときの感覚を
『ああ、そうか!(アハ)体験』(Aha-Erlebnis)と呼んでいます。

ゲオルク・ジンメルは、
「事象を同化していくほどの生の志向をもたないばあいには、
自然性に流されて生きることになり、 <運命より下に立つ>ことになるし、
内部から確固としてゆるぎない生の志向をもつ者は
<運命より上に立つ>ことになる」と言及している。


◆運命決定論と運命努力論との間(はざま)で
「人生においては何事も偶然である。
しかしまた人生においては何事も必然である」とは、
哲学者の三木清の言葉です(『人生論ノート』)。

なぜなら、「生きることは“形成”すること」であるがゆえに、
人間は、偶発や失望を必然や希望に変換し、形成しなおすことができるからだと、
三木は言いたいのだと思います。

例えば、人生、紆余曲折を経て、ある地点にたどり着いたとき、
来し方を振り返ってみると、
「ああ、あのときの失敗はこういう意味があったのか」、
「あのときの出来事は起こるべくして起こったのだな」
といった思いにふけるときがあります。
それがつまり、自分が偶発を必然に変えることができたということでしょう。

人間の運命に関しては、
何かの力で先天的に決められているとする運命決定論と
後天的な意志と努力でどうにでもなるとする運命努力論との
二元的な考え方がありますが、
実際のところ、その2つの間の無限のグラデーションなのだと思います。

まァ、すでに凡人・凡才として生まれ出てしまっている私にとっては、
先天的なこの凡運をいかんすることもできないので、
おおいに偶然を必然化することに注力し、
最大限自分をひらいていこうと思っています。
ひらく伸びシロは、見通せないほど広大にあると思います。


Photo
【推薦読書】
・『その幸運は偶然ではないんです!』J.D.クランボルツ/A.S.レヴィン著(花田光世/大木紀子訳/宮地夕紀子訳)ダイヤモンド社
・『セレンディピティの探究』澤泉重一・片井修著(角川学芸出版)
・『偶然性と運命』木田元著(岩波書店)
・『人生論ノート』三木清著(新潮社)

2008年10月13日 (月)

結果とプロセス―――どちらが大事か?

今年も日米ともにプロ野球のリーグ戦が終わりました。
そしてそれぞれの国では、
日本シリーズ、ワールドシリーズのチャンピオンシップをかけ
トーナメント戦が始まっています。

今年の記録といえば、米シアトルマリナーズ・イチロー選手の8年連続200安打や、
読売巨人軍の13ゲーム差をひっくり返しての優勝などいろいろありました。

また、記録より記憶に残るといえば、
オリックスバッファローズ・清原和博選手の引退でしょう。

いずれにしても、勝ち負けという結果を厳しく問われる仕事に生きる
プロスポーツ選手たちの働き様・生き様は
私たちホワイトカラー族にもさまざまなことを考えさせてくれます。
今日は、「結果とプロセス」をテーマに書きたいと思います。

* * * * * * *

働いていく上で、そして自分をつくる上で、
「結果」と「プロセス」のどちらが大事か?―――これは難しい問題です。
結論から言えば、どちらも欠くことはできない大事なものです。

しかし、「真に人をつくるのは」と問われれば、プロセスだと思います。
結果は確かに人を自信づけ、歓喜をもたらしてくれます。
しかし、その一方で、人を惑わしたり陥れたりもします。
「結果はウソを言うときがあるが、プロセスはウソを言わない」
言い換えてもいいかもしれません。

このあたり、イチロー選手の語録には
深く噛みしめるべき内容がありますので、いくつか紹介します。
(イチロー選手のコメントは、いずれも日本経済新聞紙上で掲載されたもの)

・「結果とプロセスは優劣つけられるものではない。
 結果が大事というのはこの世界でこれなくしてはいけない、
 野球を続けるのに必要だから。
 プロセスが必要なのは野球選手としてではなく、人間をつくるうえで必要と思う」―――。

これは一般のサラリーパーソンについてもまったく同じことが当てはまります。

会社員であれば組織から与えられた事業目標、業務目標があり、
それを成果として個々が達成することで、会社が存続でき、給料ももらうことができる。
また、自分の能力よりも少し上の目標を立て、それを達成することで自分は成長する。

ただ、そうした結果を出すことが絶対化すると、
周囲との調和を図らない働き方や不正な手段を用いた達成方法を生み出す温床となる。
また、働く側にとっては、それが続くと、早晩、消耗してしまう。
結果至上主義は多くの問題をはらんでいます。

イチロー選手はこうも言います。

・「負けには理由がありますからね。
 たまたま勝つことはあっても、たまたま負けることはない」。


・「本当の力が備わっていないと思われる状況で何かを成し遂げたときの気持ちと、
 しっかり力を蓄えて結果を出したときの気持ちは違う」―――。

これはつまり、結果が出た(=勝った・記録を残した)からといって
有頂天になるな、結果はウソを言うときがあるぞ、
というイチロー選手独自の自戒の言葉です。

プロセスが準備不足であったり、多少甘かったりしたときでも、
何かしら結果が出てしまうときがときにあります。
そうしたときの結果は要注意です。
そこで天狗になってしまうと、次に思わぬ落とし穴にはまってしまうことが往々にして起こります。
結果におごることなく、足らなかったプロセス、甘かったプロセスを見直し、
次に向け気を引き締めてスタートすることが必要です。


こう考えてくると、「結果」をめぐる問題点は、どうやら二つありそうです。
一つは、「結果を出せ!」とか「結果を出さなくてはならない」といった強要や自縛がはたらくと、
結果主義はマイナスの面が強く出る。

もう一つは、たまたま「結果が出てしまう」ことで、本人に慢心が起こる。
この点に気をつければ、「結果を出すこと」は働く上で重要な意識になるでしょう。

むしろ、結果を求めないプロセスは、惰性や無責任を生みます。
また、結果が出ることによってこそ、それまでのプロセスが真に報われることになります。

要は、結果とプロセスはクルマの両輪であって、
どちらを欠いてもうまく前に進むことはできません。
そして、駆動輪になるのは、言うまでもなく、
日々こつこつと努力を重ねるというプロセスのほうです。

2008年10月 5日 (日)

芯のある「これでいい」という行き方

<秋・小淵沢発>
A

今年も初秋の小淵沢に来て、仕事をしています。
(難航している次の著作原稿もいよいよ仕上げ段階です)
先週は秋雨前線の停滞と台風の影響で雨模様が続いていましたが、
台風の通過以降、すばらしい晴天が続き、空の高さを感じます。
陽が指すと、俄然、小金色に輝く田んぼの風景が雄大に迫ってきます。

◆「テコ」が肥大化し、その逆利き力によって振り回される
さて、私が滞在している部屋のテレビは、先週から、
米国議会の金融安定化法案否決を発端とする金融市場の混乱のニュースを
しきりに報じています。

『メディア論』を著したマクルーハンは、メディアを「身体の拡張」と言い表しました。
例えば新聞やラジオは耳の拡張であり
テレビは目の拡張といった具合です。
この論を敷衍して言えば、
科学技術は人間の諸機能を拡張する。
そして欲望も拡張する
――――そう考えられます。

そして、ついに人間は禁断の果実である
「カネがカネを生むシステム」に手をつけ、
膨張する金欲をみずから統御できなくなってしまっているように思えます。

確かに「テコ」は便利な道具ですが、
その蜜の味をしめると、「テコ」を用いることが中毒になり、
「テコ」をどんどん肥大させていく回路に入る。
そして、今度は逆利きしたテコの力によって人間が振り回されることになる。

◆「効率的な人生」・・・とは何か気持ち悪い
私が企業勤めを辞めたのは5年前。
最後の会社は国内最大手の一角のIT企業でしたが、
そこでは、日々、管理職として、
利益追求、生産性向上、効率性追求、シナジー、レバレッジ、スピードなどを
一種、信仰のように「是」であり、「善」であると思い込み、
自身でも行動し、もちろん部下にも推奨していました。

ところが、自分個人の仕事を始めてからは、あの日々のことを
「なーんだかなー・・・」と思い出す心境に変わりました。

今の私は、
利益追求?・・・んんー、利益は“ツイキュー”するもの?
そう思うと仕事がギスギスする。利益は一生懸命やった後のゴホウビと思えばいい。

生産性?効率性?・・・今の自分は働くことと生きることがかなり重なっているので、
「生産性の高い人生」・「効率的な人生」って何か気持ち悪い。

シナジー?レバレッジ?スピード?・・・今の自分の仕事は、
1本1本、手作り醸造のワインを売っているのと同じ。
シナジーを生かしたワイン製造、レバレッジの利いたワイン製造、
スピード製造のワインなどを目指そうとは思わない。

Photo 私は今、作家の司馬遼太郎さんが生前におっしゃっていた
「知足」(足るを知る)という言葉をしみじみ感じています。
私は世に言う成功者でもありませんし、
羽振りよく儲けているわけでもありませんが、
自分の働き様、生き様に対し、「これでいい」という腹の据わりがあります。

過剰にテコを用いずとも、今の等身大の行き方の中から、
十分に成長や納得、自信を得ることができると感じています。

◆「無印良品」的行き方
「これでいい」という行き方に関し、少し唐突な材料を引き合いに出します。
それは「無印良品」です。

私は「無印良品」的な行き方に非常に共感を覚えます。
なぜかといえば、 「無印良品」こそ、
「これでいい」を意志をもって体現しているブランドだからです。

その見方は、グラフィックデザイナー・原研哉さんの
著書『デザインのデザイン』(岩波書店)で得ました。

原さんの論旨をかいつまむと、

・突出した個性や美意識を主張するブランドでは
 「これがいい」「これじゃなきゃいけない」というような強い嗜好性を誘発する。

・しかし、無印良品は逆の方向を目指している。
 すなわち、「これがいい」ではなく「これでいい」という満足感のうちで
 最高レベルのものをユーザーに与えること。


・「これがいい」という嗜好を鮮明に示す態度は「個性」という価値観とともに
 いつしか必要以上に尊ばれるようになった。
 しかし、「が」は時として執着を生み、不協和音を発生させる。
 結局のところ人類は「が」で走ってきて行き詰まりをみせている。

・僕らは今日、「で」の中にはたらいている「抑制」や「譲歩」、あるいは
 「一歩引いた理性」を評価すべきである。
 「で」は「が」よりも一歩高度な自由の形態ではないだろうか。

そういう「で」の次元を創造し、明晰で自信に満ちた「これでいい」を実現すること
 それが無印良品のヴィジョンである。


・無印良品は、「素」あるいは「簡素さ」の中に新しい価値観や美意識を生み出す。
 それは「省略」というより、「究極のデザイン」を志向している。

・また、無印良品の思想は、いわゆる「安価」に帰するものではない。
 それゆえ、最低価格ではなく、豊かな低コスト、
 最も賢い低価格帯を実現していくことを目指す。

◆マッチョゲーム・チキンレースからの離脱
私自身は厭世家でもありませんし、自由資本主義の否定者でもありません。
むしろ、ビジネスを楽しむ人種です。
そして、こと創造性に関しては貪欲です。
常に自分の事業のサービス開発には情熱を燃やしています。

ただ、何でもカネとモノの量的尺度に還元するゲームからは
おさらばしようとしているだけです。
そして実際、カネやモノを追うマッチョゲーム、チキンレースから離れて
すごく気がラクになりました。

保有株をすべて売り払ってからは、株価に気をもむことはありません。
年収がサラリーマン時代に比べてどうだとか、
去年と比べてどうだとかはいっさい考えません。
仕事が1ヶ月なかったとしても、焦ることもしません。
他人の成功話や儲け話を聞いても、嫉妬することもありません。
自家用車が12年目を迎えても、まだ乗り続けようと思います・・・などなど

もっぱら考えるのは、
もっと顧客に満足してもらえる教育プログラムは何なのか、
もっと意味のある啓発コンテンツを著せないか、
もっとサービス自体がよきメッセージ性を発することはできないか、
などです。

そして、それらが、ある値段で世の中のどなたかに買っていただける。
そして、値段ではなく、コンテンツやサービスの内容自体で顧客とつながり合い、
その輪が広がっていく。
そして、その輪の一人一人に自分が助けてもらいながら事業を続けることができる。
お客様から「ありがとう」を言っていただき、
私も「ありがとうございます」と言える。

――――そんな「これでいい」という行き方が今の私です。

芯のある「これでいい」という行き方を
人類の一人一人が自覚をもって実践すれば、
世の中の随分のことが解決するように思います。

それにしても、八ヶ岳の南麓に広がる黄金の絨毯は、
全世界を巡る金融危機などどこ吹く風で、
頭を垂れた稲穂がカサカサと音を立てながら揺れています。

B

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