2009年1月 1日 (木)

「ありがとう」と「覚悟」を心に!

011c2009年が明けました。

百年に一度と言われる経済危機が昨年後半に世界を覆い尽くし、
2009年は、世界がそれを乗り越えるための新しいルールと秩序を
生み出すことができるのか、それが問われる大きな一年になりそうです。

巷では、昨年の景気が急降下しただけに、
元旦からの初詣客も各地でごった返していると聞きます。

しかし、私はこのイベントとしての初詣に「なんだかなー」と思っている一人です。
一つには、寺社の商業主義めいたもの。
そしてもう一つには、参拝客の「祈りの姿勢」にあります。

もちろん商業主義に走らないまっとうな寺社もありますし、
ほんとうに真摯な信仰心で詣でる人はいます。
私自身も仏教に帰依する一人ですが、
それでもこの一億総初詣イベントには「う~ん」とうなってしまいます。

きょうは、特に「祈り」について書こうと思います。

◆請求書的祈り・領収書的祈り
仏教思想家のひろさちやさんは、祈りには種類があることをこう表現します。

「宗教心というと、今の日本人はすぐに御利益信仰を思い浮かべますが、
神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。
ああしてください、こうしてくださいとまるで請求書をつきつけるような祈りを、
私は『請求書的祈り』と名付けていますが、

本物の宗教心というのは、
“私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました”という
『領収書的祈り』なんです」。

               ――――『サライ・インタビュー集 上手な老い方』より

私が一億総初詣に「なんだかなー」と思ってしまうのは、
その多くが『請求書的祈り』になっていやしないかと思うからです。
しかも、そこには「500円玉でも投げ入れて、これをきいてもらおう」なんていう
「賽銭」が飛び交っている。

もし、これで、本当に願いがかなってしまうのなら、
私はその神仏は、逆に、あやういものだと思います。

◆職人の心底に湧く「痛み」
さて、このブログのメインテーマは「働くこと・仕事」ですので、
ここからはその要素も合わせながら「祈り」を考えたいと思います。
「祈り」について、私が著書でよく引用するのが次のお二人の言葉です。

西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った
知る人ぞ知る宮大工の棟梁です。彼は言います―――

「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、
きちんと天に向かって一直線になっていますのや。
千三百年たってもその姿に乱れがないんです。
おんぼろになって建っているというんやないんですからな。

しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。
塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、
鉋をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。
これが檜の命の長さです。

こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。
千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。
・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、
自然に対する人間の当然の義務でっせ」。
 
                         ―――『木のいのち木のこころ 天』より

もう一人は染織作家で人間国宝の志村ふくみさんです。
淡いピンクの桜色を布地に染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るのですが、
春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、
あのピンク色は出ないのだといいます。秋のころの桜の木ではダメなのです。

「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。
桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、
その時期に切って染めれば色が出る。

・・・結局、花へいくいのちを私がいただいている、
であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、
いただいたということのあかしが、、、。

自然の恵みをだれがいただくかといえば、ほんとうは花が咲くのが自然なのに、
私がいただくんだから、やはり私の中で裂の中で桜が咲いてほしい
っていうような気持ちが、しぜんに湧いてきたんですね」。
 
                         ―――梅原猛対談集『芸術の世界 上』より

◆いかなる仕事も自分一人ではできない
仕事という価値創造活動の入り口と出口には、インプットとアウトプットがあります。
ものづくりの場合であれば、必ず、入り口には原材料となるモノがくる。
そして、その原材料が植物や動物など生きものであれば、
その命をもらわなければなりません。

古い言葉で「殺生」です。

そのときに、アウトプットとして生み出すモノはどういうものでなくてはならないか、
そこにある種の痛みや祈り、感謝の念を抱いて仕事に取り組む人の姿を
この二人を通して感じることができます。

毎日の自分の仕事のインプットは、決して自分一人で得られるものではなく、
他からのいろいろな生命、秩序、努力によって供給されています。


例えば、いま私はこうして原稿を書いていますが、
まずは過去の賢人たちが著した書物が私に知恵を与えてくれています。
また、この原稿をネットにアップしようとすれば、
ネット回線の維持・保守が必要であり、
ブログサイトをきちんと運営してくれる人の労力がいります。

さらに、こうして考えるためには、私の頭と身体に栄養が必要で、
昼に食べた雑煮(そこには出汁にとったカツオや鶏肉、そして餅の原料となるコメ)が
その供給をしてくれています。
それら、カツオやら鶏やらコメの命と引き換えに、
この原稿の一文字一文字が生まれています。
だからこそ、古人たちは、食事の前後に
「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせた。


そんなこんなを思い含んでいけば、
自分が生きること、そして、自分が働くことで何かを生み出す場合、
他への恩返し、ありがとうの気持ちが自然と湧いてくる―――
これこそが祈りの原点だと思います。

◆「よい仕事」とは?
物事をうまくつくる、はやくつくる、儲かるようにつくることが、
何かとビジネス社会では尊ばれますが、
これらは「よい仕事」というよりも「長けた仕事」というべきでしょう。

「よい仕事」とは、真摯でまっとうな倫理観、礼節、
ヒューマニズムに根ざした「祈り」の入った仕事をいうのだと思います。

私たちは、いつの間にか、生きることにも働くことにも、
効率やスピード(即席)、利益ばかりに目がくらんで、
大事な祈りを忘れている。
(ましてや、祈りにも効率や即席を求めるようになった)

普段の仕事現場で、自然の感覚から仕事の中に「祈り=ありがとう」を込められる人は、
おそらく「よい仕事」をしている人で、幸福な仕事時間を持っている人です。

これらをないがしろにして、
「さ、正月だ、初詣だ、お祈りだ、仕事が繁盛しますように(賽銭・柏手:パンパン)」
というのは、どうもなぁ、と私には思えてしまうのです。

◆祈りの三段階
宗教学者の岸本英夫氏は著書『宗教学』の中で、信仰への姿勢を三段階に分けています。
それは、「請願態」、「希求態」、「諦住態」です。

1番めの請願態とは、先の請求書的祈りと同じく、
神や仏、天、運といったものに何かをおねだりする信仰の姿勢です。

2番めの希求態は、信仰の根本となる聖典に示されているような生活を実践して、
真理を得ようとする求道の姿勢です。

そして3番めの諦住態とは、信仰上の究極的価値を見出し、
その次元にどっしりと心を置きながら、普段の生活を営んでいく姿勢をいいます。

私たちは、自分たちの祈りがついつい請求書的になっていることに気がつきます。
「もっと給料を上げてほしい(これだけ頑張ってんだから)」、
「もっと自分を評価してほしい(この会社の評価システムはおかしいんじゃないか)」、
「上司が変わればいいのに(まったくもう、やりにくくてしょうがない)」、
「宝くじが当たりますように(会社を辞めてもいいように)」などなど。

こうした祈りは、自分の中にエネルギーを湧かせることはなく、
むしろエネルギーを消耗させるものです。
祈りの質を、本来のものに戻していかなければなりません。

信仰も仕事も一つの道と考えれば、
大事な姿勢というのは2番目の希求態と3番目の諦住態です。

その2つのエッセンスを一言で表現すれば、「覚悟」です。
信仰にせよ仕事にせよ、祈りは「他からこうしてほしい」とせがむことではなく、
「自分は何があってもこうするんだ」という覚悟であるべきです。


080もし、祈りがそうした(ある目的下の)覚悟にまで昇華したとき、
おそらくその人は、嬉々として、たくましく、
いかなる困難が伴ったとしても
強く働いているはずです。

2009年は、多くの人にとって、
決してラクではない一年になるでしょう。
ですが、そういうときこそ、
「ありがとう」と「覚悟」を抱くことが大事なのだと思います。




←多摩川の向こうに富士山のシルエットと名月
元日という特別な1日ですが
2009年の365分の1日が終わった

2008年12月 8日 (月)

ホンダF1撤退と「ゲームの三達者」

ホンダ(本田技研工業)が、12月5日付けで、F1の撤退をアナウンスしました。
世界最高峰のレースに参戦し勝つことは、
二輪・四輪を問わず、ホンダの創業以来、DNAレベルに強く染み付いたものですし、
さまざまな先行投資、裾野の広い関係者への影響を考えても
そう簡単に、そしてかくも火急に決断できることではありませんが、
よくぞ福井社長はそれを下したと思います。

F1に注いできた経営資源や人材を
環境関連などの新しい分野に振り向けるということですが、
その新しい分野の開発および製品化で
21世紀の「ホンダらしさ」をおおいに発揮してほしいと思います。

ホンダという企業のアイデンティティは、本田宗一郎さんのころから、
一にも二にも「独創性」(=人のものまねをしないこと)だったと思います。
であるならば、
ガソリン1リットルで100km走る乗用車とか
太陽電池で時速100km出せる乗用車とか
あるいはロボットだとか、
そういうことでナンバーワンになる、オリジナルなものを製品化するということで
今後もホンダがホンダらしくあり続けることが十分に可能なのではないでしょうか。

私は、実家が三重県の鈴鹿市に程近いところでF1レースは嫌いではありませんが、
それでも最近は、
このように物質をぜいたくに使い廃棄する興行イベントは
旧感覚・旧価値観のマッチョレースだと思うようになりました。

だから、むしろ日本のものつくりの雄であるホンダには、
F1レースというような
ヨーロッパの上流階級と旧時代のクルマ好きがつくったレースとはおさらばし、
全く異なった次元・発想のレース、あるいは市場をつくって、
そこで独自性や存在感を出してほしいと切に願います。

F1というレースの枠組みは、はっきり言って、もう古いです。
そんな中で、一等賞を目指す必要はもうないと思います。

『ホンダ・フィロソフィー』の中にある
「社会からその存在を認められ期待される企業になる」ことについて、
社会の私たちは、もはやホンダに期待することは、F1で優勝してくれではなく、
他のもっと大きな枠組みで何か人類の益となる画期的なことを成し遂げてくれ、なのです。

* * * * *

ゲームには“三人の達者”がいます。

○第一の達者:
「枠の中の優れた人」=「優者」・「グッド・プレーヤー」

これは、決められたルールの中で優秀な成績をあげる人です。

○第二の達者:
「枠を仕切る人」=「胴元」・「ルール・メーカー」「ゲーム・オーナー」

これは、ゲームのルールを決め、元締めをやる人です。

○第三の達者:
「新たな枠をつくる人」=「創造者」・「ニューゲーム・クリエーター」

これは、そのゲーム盤の外にはみ出していって、
全く違うゲームをつくってしまう人です。


日本人は民族のコンピテンシーとして、
「ものつくりの民」であり、
決められた枠の中で、一番の人を模倣して研究し、
やがて一番になることが得意です。
つまり、第一の達者タイプです。

一方、アングロサクソンやユダヤの民族は
「仕組みづくりの民」であり、
第二の達者、第三の達者としてコンピテンシーを発揮します。

* * * * *

01年9月11日のアメリカ同時多発テロ、そして今回の金融危機と
世界史的な時間軸でみれば、大きな時代が区切りを迎え、
次の新しい時代が始まろうとしています。
(どんな秩序になるかまったく見えませんが)

そんな大きな次の時代に、
ホンダに限らず、他の日本企業が、
そして日本という国自体が、そして個々の日本人がチャレンジすべきは
枠をはみ出し、枠をつくり出すコンピテンシーを養うことだと思います。

第一の達者を追求するだけでは、
もはや日本は世界経済の中ではうまく立ち行かなくなるでしょう。
日本人は狡猾さや政治力に欠けるので、第二の達者には永遠に向きませんが、
第三の達者にはなれると思います。

そういった意味では、
ホンダも、他者がこしらえたF1という枠組みの中での優等生から
みずから枠組みをこしらえることへの
一つの跳躍を試されているといえます。

私も、みずからの事業で、既存の枠組みからはみ出す努力を続ける決意です。

2008年12月 4日 (木)

選択力 ~仕事を選べる人・選びにいく人

Aさんのもとには彼の才能と人柄を頼って、
日々、いろいろな仕事・仕事相談が舞い込む。
そして、彼はその中から自分がワクワクできる仕事を悠々と選ぶことができる。
(つまらない案件だと思えば、それを断ることもできる)

一方、Bさんは自分に都合のよい条件の仕事を探し回っている。
三度目の転職を考えているのだ。
「まったく、世の中にはイイ仕事なんてありやしない」と愚痴混じりに
ネット上の膨大な求人情報をさまよう。

◆カタログ上の仕事情報は急増している・・・だが
ピーター・ドラッカーは『断絶の時代』の中でこう述べています。

「先進国社会は、自由意志によって職業を選べる社会へと急速に移行しつつある。
今日の問題は、選択肢の少なさではなく、逆にその多さにある。
あまりに多くの選択肢、機会、進路が、若者を惑わし悩ませる」。


確かに、この指摘は一面で正しい。
しかし、一面で正しくないともいえます。

つまり、カタログ上の職業や職種、あるいは求人は過去に比べ増えている。
WEBや分厚い冊子に載る就職情報・求人情報は日常、溢れるほどあり、
そういった意味では、ドラッカーの言うとおり、
私たちは、その種類の多さに、“いったんは”惑い、悩む。

しかし、よくよく自分の適性やら条件やらに当てはめていくと、
「これも×」、「あれも×」・・・となっていき、
ついには自分が選べるものがみるみるなくなっていく。。。
そして、残った数少ないものに応募し、面接するのだけれども、
結果は「不採用」・・・

カタログの中には、無数の選択肢が目まぐるしく記載されているのに、
自分はどこからもはじかれてしまう・・・
そんなBさんのような人が世の中には多くなっている。

とはいえ、広い世間には、それとは真逆の人もいる。
Aさんのような人です。
彼のもとには、仕事が向こうから寄ってくる。

◆「仕事を選びにいく回路」に留まっているかぎりジリ貧になる
―――この二人の選択肢の差が、私の言う「選択力」の差です。

選択力とは、厳密に言えば、
「選択肢を増やし、結果的に“選べる自分”になる力」です。

Bさんのように、都合のよいものだけを追っかける働き方をしている人は、
そもそも選択肢を増やすことをしない。
既存の選択肢に自分が擦り寄り、あれこれ選り好みしているだけなので、
早晩、ジリ貧になる。
すなわち、「選びにいく自分」がそこにいる。

ところがAさんは自分の抱く目的の下に、
いろいろな形で行動で仕掛け、自分をひらいている人です。
おそらく、何かしら「仕事の世界観」をもっているのでしょう。
その世界観がいろいろなヒト・仕事・機会・ときにはカネを引き寄せることになる。

自分の仕事の世界観をつくるには、
明確な目的を抱き(=自分が働く方向性・イメージ・意味を腹に据え)、
自分の道を“限定”していくことです


自分を目的に沿って限定することが、
逆説的だが、実は、選択肢を広げることにつながっていく。

Photo


今の世の中は、専門バカといわれようが、オタクと呼ばれようが、
そんな小さな隙間分野に固執して大丈夫かと言われようが、
自分の決めた目的の下に、粒立った一個の仕事人になることが
「選択力」を高めることにつながる。

「選べる自分」になるのか、「選びにいく」自分になるのかの分岐点は、
理屈をこねず、怠け・甘え・臆病を排し、
ひとたび腹を据えて、目的(当初はあいまいでもよい)を設定し、
そこにがむしゃらに動くかどうかです。

それを実証してみたいなら、
何かに3年間しがみついて、こだわって、没入してみること。
―――すると選択肢が自分のところに寄って来るのがわかるでしょう。

多少の勇気と不屈の心さえあれば、「選べる自分」に人生転換することができる。
特別な能力は必要ない。

私は毎朝メールボックスを開けるのが楽しみです。
きょうも既知・未知の誰かから、
何かしらプロジェクトの提案メールが来ているかもしれない。
「選べる自分」になると、未来がワクワクする。


●【補足の話】
阪急グループ創業者である小林一三の言った有名な言葉:

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
 そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」。


豊臣秀吉が織田信長の下足番からのし上がり、
ついには天下を取った話は有名です。

小林は著書『私の行き方』の中でこう補足する。

「太閤(秀吉)が草履を温めていたというのは
決して上手に信長に取り入って天下を取ろうなどという
考えから技巧をこらしてやったことではあるまい。

技巧というよりは草履取りという自分の仕事にベストを尽くしたのだ。
厩(うまや)廻りとなったら、厩廻りとしての仕事にベストを尽くす、
薪炭奉公となったらその職責にベストを尽くす。

どんな小さな仕事でもつまらぬと思われる仕事でも、
決してそれだけで孤立しているものじゃない。
必ずそれ以上の大きな仕事としっかり結びついているものだ。


仮令(たとえ)つまらぬと思われる仕事でも完全にやり遂げようとベストを尽くすと、
必ず現在の仕事の中に次の仕事の芽が培われてくるものだ。
そして次の仕事との関係や道筋が自然と啓けてくる」。


要は、生涯、下足番になり下がるも、
それを極めて次のステップに自分を押し上げるも、
すべては本人の心持ち次第ということです。

演劇の世界に「小さな役はない。小さな役者がいるだけだ」という言葉もある。
切り替えて言えば、
「小さな仕事はない。仕事を小さくしている働き手がいるだけだ」ということになる。

2008年12月 1日 (月)

「余命一年 行動リスト5」

Ochiba 週末、近所の雑木林を
カメラを持って散歩した。

足元にはさまざまな色や形の枯れ葉が落ちている。
枯れ葉の上をカサカサと歩くのは何とも気持ちがいい。

すると、目の前に、はらりと一枚
葉っぱが落ちた。

手にとって見ると、
葉全体はつやを保っている。
植物にも体温があると思うのだが、
そのわずかな体温も残っているように感じる。
葉の裏に走る葉脈は、細かな一筋までまだみずみずしい。
ついさっきまで枝にくっつき、
幹から養分をもらい生きていたが、
いまはもう土にとけて還るしかない。

私は、こうしたとき、いつも
吉田兼好の『徒然草』第四十一段を思い出す。
第四十一段は「賀茂の競馬」と題された一話である。

五月五日、京都の賀茂で競馬が行なわれていた場でのことである。
大勢が見物に来ていて競馬がよく見えないので、
ある坊さんは木によじ登って見ることにした。

その坊さんは、
「取り付きながらいたう眠(ねぶ)りて、
落ちぬべき時に目を覚ますことたびたびなり。
これを見る人、あざけりあさみて、
『世のしれ者かな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありて眠(ねぶ)らんよ』と言ふに・・・」


つまり、坊さんは木にへばり付いて見ているのだが、
次第に眠気が誘ってきて、こっくりこっくり始める。
そして、ガクンと木から落ちそうになると、はっと目を覚まして、
またへばり付くというようなことを繰り返している。

それをそばで見ていた人たちは、あざけりあきれて、
「まったく馬鹿な坊主だ、あんな危なっかしい木の上で寝ながら見物しているなんて」
と口々に言う。

そこで兼好は一言。
「我等が生死(しゃうじ)の到来、ただ今にもやあらん。
それを忘れて物見て日を暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」。


―――人の死は誰とて、今この一瞬にやってくるかもしれない
(死の到来の切迫さは、実は、木の上の坊主も傍で見ている人々もそうかわりがない)。
それを忘れて、物見に興じている愚かさは坊主以上である。

* * * * * *

医療技術の発達によって人の「死」が身近でなくなった。
逆説的だが、死ぬことの感覚が鈍れば鈍るほど、「生きる」ことの感覚も鈍る。

仏教では、人の命を草の葉の上の朝露に喩える。
少しの風がきて葉っぱが揺れれば、朝露はいとも簡単に落ちてしまう。
そうでなくとも、昇ってきた陽に当たればすぐに蒸発してしまう。
それほどはかないものであると。

仮に現代医学が不老不死の妙薬をつくり、命のはかなさの問題を消し去ったとしても、
人の生きる問題を本質的に解決はしない。
なぜなら、よく生きるというのは、どれだけ長く生きたかではなく、
どれだけ多くを感じ、どれだけ多くを成したか、で決まるものだからだ。


この一生は「期限付き」の営みである。
その期限を意識すればするほど、どう生きるかが鮮明に浮き立ってくる。
哲学や宗教は「死の演習問題」ともいわれ、
真の哲学や宗教であれば、確かに人類に果たす役割は大きい。

私は、大病こそないが、生来、からだが強くない。
たぶん、太平洋戦争以前の時代に生まれていれば、確実、早死しただろうと思っている。
だから、40歳以上の命は天から延ばしてもらっているものとして
(偽善的に聞こえるかもしれないが)
人のために何かしたいと思い、教育という道で脱サラした。

* * * * * *

私が行っている研修プログラムの一つに、
『余命一年:行動リスト5』というのがある。

つまり、自分の余命があと一年だと宣告されたと仮定して、
何を行動し完了すべきか、その上位5つを挙げるというものだ。

受講者は真剣に考える、そして生きることが新鮮な意味を帯びてくる。

「いつかくる死」で漫然と生きるのではなく、
「いつ死がきても悔いはない。目的の下にやり切っている。
そして、今日一日を生きられたことに感謝する」
―――そんな心持ちが強いキャリア・強い人生をつくると思っている。

最後に、いま読んでいる本から補足的に:

「目的とは、単なる概念ではない。生き方である。
人生は“すること”でいっぱいで、
“やりたいこと”が何であるかに耳を傾ける余裕もなかった」

(ディック・J・ライダー『ときどき思い出したい大事なこと』)

2008年11月16日 (日)

ピーター・F・ドラッカー『仕事の哲学』

こうしてキャリア教育に関わる仕事をしていると、
よく人から質問されることがあります。

「村山さんは、ご自身のキャリアについて悩まないのですか?」と。
答えはもちろん―――「おおいに悩んでいます!」、です。

自身のキャリアをどうするか、どう拓いていくかは、
生涯にわたって継続する一大問題です。
数学のように一発明解の公式があるわけでもなく、誰しも常に悩みながら、
自分なりの正解(納得のいく状況)をつくり出していくものです。

私は「人財教育コンサルタント」であって、「キャリアコンサルタント」ではないので、
個人のキャリア形成について職業的に相談にのることはありません。
ただ、個人的にはよく相談されることはありますし、
こうしたコラムでもそれに関連したことは書きますので、
そうしたときには古今東西の名著を引き出して、
考えるヒントを差し出してあげるというスタンスをとっています。

さて、そうした名著の中で、私が最もよく引用する一人が、ピーター・ドラッカーです。
彼はご存知のとおり「経営学の父」と呼ばれ、
20世紀の産業・社会に大きな影響を与えた米国の経営学者です。
『現代の経営』『経営者の条件』など、生涯に約30の著作を残しました。
残念ながら、数年前、95歳でこの世を去りました。

私にとって印象深いエピソードは、
彼が最晩年、ある人に「これまでで最高の著作は何ですか?」と質問されたときに
「次に著す一冊だ」と答えたことです。



Photo_2 さて、きょう紹介する滋養本は、
ドラッカー名言集『仕事の哲学』(上田惇生編訳、ダイヤモンド社)です。

彼の著作はもちろん経営なかんずくマネジメント、そして社会生態学がメインテーマですが、
いろいろと読み進めていくと、キャリアや働くことを考える上で、非常に含蓄の深い言葉の数々に出合います。
本書はそんな言葉をていねいに集めてくれています。
この本の中でピンとくる言葉にぶち当たったら、その引用元の著書を本格的に読んでみることがいいと思います。



* * * * *

―――「最初の仕事はくじ引きである。最初から適した仕事につく確率は高くない。しかも、得るべきところを知り、向いた仕事に移れるようになるには数年を要する」。 
<『非営利組織の経営』>

―――「社会は一人ひとりの人間に対し、自分は何か、何になりたいか、何を投じて何を得たいかを問うことを求める。この問いは、役所に入るか、企業に入るか、大学に残るかという俗な問題に見えながら、実はみずからの実存にかかわる問題である」。 
<『断絶の時代』>

誰しも最初の就職先、最初の配属先がそのまま天職になることは極めて稀です。
多くの人間は迷ったまま就職をし、
「この方向でよかったのだろうか」と迷ったまま働き続ける。
そうした意味で、このドラッカーの言葉は、
キャリア路線が定まらない悩めるビジネスパースンたちに安心感を与えてくれます。

ですが、そこで安心しきってもいけない。
彼は私たちに、得るべきところを知り、
数年のうちには向いた仕事を手に入れなさいよと言っています。
そしてその際、
自分は何者でありたいか、何をしたいのかをよく自問自答しなさいとも言っています。


―――「人は精神的、心理的に働くことが必要だから働くだけではない。人は何かを、しかもかなり多くの何かを成し遂げたがる。みずからの得意なことにおいて、何かを成し遂げたがる。能力が働く意欲の基礎となる」。 
<『現代の経営』>

―――「みずからの成長のために最も優先すべきは、卓越性の追求である。そこから充実と自信が生まれる。能力は仕事の質を変えるだけでなく、人間そのものを変えるがゆえに、重大な意味を持つ」。 
<『非営利組織の経営』>

仕事が面白くない、職場がつまらない。
こういうとき、私たちは往々にして仕事をやらされている、
働かされていることに気がつきます。
仕事が面白くないのは会社や環境のせいと思って、ずるずると1年、2年が経っていきます。
これでは、キャリア・人生にとって極めて大事な20代、30代の時間がもったいない。

そこで意識を転換してみてはどうでしょうか。
やらされ感のあるどんなつまらない仕事にも、自分なりの卓越性を求めてみる、
あるいは、何か成し遂げるテーマをその仕事に付加する。
そして、そのために新しい能力を積極的に吸収していく。

このほんの小さな意識転換が、自分の内にある成し遂げたい本能を刺激し、
仕事や職場への向き合い方が変わる。
いま目の前にある、そのなにげない仕事が金色のチャンスに変わる可能性は小さくないのです。


―――「問題の解決によって得られるものは、通常の状態に戻すことだけである。せいぜい、成果をあげる能力に対する妨げを取り除くだけである。成果そのものは、機会の開拓によってのみ得ることができる」。 
<『創造する経営』>

問題解決ばかりに注視するだけで、機会を創造し、
リスクを負って仕掛けることを忘れたマネジメントを
ドラッカーは随所で警告しています。
これはキャリアづくりにおいても同様のことがいえます。

現状自分はこうだから、ああだからと弱点やハンディキャップの面ばかりを気にして、
それを克服してからでないと何もできないかのように気構える人は多いものです。
確かに弱み克服のための努力は大事ですし、
不足・不備の状況を補い、改善するのも大事です。

しかし、その意識のみにとらわれていたら、
人生300年あっても何か手ごたえのあることを成し遂げることはできないでしょう。
何かを成し遂げるには、チャンスを見つけ出し、
多少の欠陥があってもそこに飛び込むことでしか可能になりません。

そのチャンスを成就する過程で、
自分の弱みも克服できたり、不足分を補うこともできたりします。
私個人もサラリーマンから独立する際は、足りないものだらけでした。
しかし、今では、自分が見出した機会から得たもので、
おつりがくるくらい成長させてもらっています。


―――「今さら自分を変えようとしてはならない。うまくいくわけがない。自分の得意とする仕事のやり方を向上させることに、力を入れるべきである」。 
<『明日を支配するもの』>

自分は自分でいいと腹を据えれば随分のことがラクになるものです。
自分の「得意」を、自分の「想い」に乗せていくこと---
力強くキャリアをひらいていくための公式はそれに尽きると思います。

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