2008年5月 7日 (水)

人財の離職と根付きの問題<3> 安すれば鈍する


3回連続で触れている「ヒトの離職と根付きの問題」ですが、

きょうはその最終回、3番目について書きます。


1)すべては“働くマインド”という意識基盤をつくりなおすところから

2)人財はリテンション(保持)からボンディング(絆化)へ

3)安すれば鈍する:野ガモを飼いならすな


* * * * * * * *

さて、冒頭、話が脱線しますが、写真の話をさせてください。

私は雑誌の編集に長く携わったこともあって、写真には関心があります。

写真集もさまざまに観ます。

私が先般、米国のアマゾンで購入したのは、

犬のラブラドールレトリーバーの写真集です。


その写真集は、ペットとしてかわいい、甘~い犬の写真集ではありません。

「猟犬・ラブラドールレトリーバー」の姿を撮った

凛々しくもたくましい写真集です。


その写真集は、北米の大自然の山中で猟師に同伴するレトリーバー犬を

写しています。

レトリーバー犬とは、その名のとおり、

猟師が射止めた野鳥をすぐさま探し出し、

猟師のもとへくわえて持ってくる(retrieve)ことを習性づけされて

配合された犬種です。

猟師が遠くの空に銃を構え、一羽の鴨に狙いを定める、

そして、その銃口が火花を散らそうとする瞬間、

その脇で、じっと銃の向く空の先を見つめるレトリーバーの姿は

とても美しいものです。

眼光は集中して鋭く、2つの耳は前方に向け大きく尖り、

銃声が鳴り響くその刹那に全速で走り出せるよう全身の筋肉は

エネルギーに満ちている。


そして、鴨の落ちた草むらの中に突進していく姿、

池の中に躊躇なく飛び込むその躍動的な姿。

そして、射落とされた鴨を探し当て、猟師のもとに、口を血で汚しながら

くわえて戻ってくるその勝ち誇った顔・・・。


私は、この写真集を観て、

レトリーバー犬本来が持つ美しさを知りました。

やはり、生き物は、本性を輝かせている姿こそ見応えがあるものだと。


その点、過剰に愛玩的に飼われているレトリーバーたちの

目の死んでいること、身体のだれていること、

本性がくすんでいることといったら・・・

(まぁ、それはイヌ本人はいかんともしがたく、飼い主・飼い方によるものですが)


* * * * * * * *


◆組織にポジティブに根付くヒト・ネガティブに根付くヒト

さて、本題に入ります。


組織におけるヒトを考える場合、

離職(流動)も問題ですが、その根付き(定着)も問題です。

離職については前回、前々回で触れていますので、

今回は、根付きについて触れます。


私たちは、組織の中のヒトの根付き方に2種類あることを知っています。


一つには、組織に安住し、成長を止め、保身で根を張ってしまうヒト

もう一つには、組織の価値・ワークスタイルの体現者して

どっしりと根を下ろすヒト


前者はネガティブな根付き、後者はポジティブな根付きです。


ヒトを中長期レンジで雇用保持するという人事方針は、

それ自体望ましいものではあります。

ヒトは雇用され続けるという生活の基礎部分が安定・安心してこそ、

心を落ち着かせ、忠誠心をもって力を出すことができます。

しかし、それは同時に、いつしか安穏・安住を生じさせ、

怠惰・保身を生むことにもつながりかねません。


つまり、“安”(安らか)という状態は、

ヒトをその後、善悪両面どちらにも導く可能性をもっています。

しかし、私は、これまでいろいろな組織とその働き手に接してきましたが、

経験上、どちらかというと、

“安すれば、鈍する”という現象をより多くみてきました。


もっと正確に言えば、“安のみ”の状態では、ヒトは、

鈍になり、惰になり、滞になる、といったネガティブな方向に

堕しやすい事実があるのです。


◆安穏・安住を排するための競争原理・・・その結果は

“安のみ”では、ヒトがダレてしまう・・・

したがって、中長期に“悪い根付き”をしてしまう。


そのために、組織は何が必要だったか。

―――――そう、「競争原理」の導入が必要だったわけです。


競争という刺激、緊張感、そしてある種のリスクは、

確かにヒトがダレることを防止するものです

したがって、

「安+競」の環境では、ヒトは“よい根付き”をするように思えます。


しかし、昨今の成果主義はうまく機能していない。

それは、なぜか?


その理由は、今回のこの文脈で整理すると、

一つに、成果の判断基準が単純に定量化された数値になりがちだったこと。

一つに、そこでの競争は、限られた原資(パイ)の中での

ゼロサムの奪い合いであったこと。

一つに、「敗者は去れ」のごとき雰囲気によって、「安」の部分が脅かされたこと。

一つに、その成果主義導入の意図や目的が労使で共有されなかったこと


つまりは、質の悪い競争、大いなる目的のない競争によって、

ヒトが“よく根付く”どころか、

ヒトが疲弊して、心が離散していくという真逆の結果を生んでしまったわけです。



◆経営者の自覚・働く個の自覚

文章が長くならないうちに、私の結論から申し上げましょう。


ヒトを“よく根付かせる”ためには、

「安+競+覚」の3要件を満たすことです


まず、「安」(=働き手に安心と信頼を与える雇用方針・システム)をベースとして、

適切・適度な「競」を敷く。

この場合の「競う」とは、個々に対し、

定量的な比較相対の競争を強いる評価処遇“制度”ではなく、

「競創・共創」ともいうべき組織“文化”をいいます


つまり、個々が相互に刺激し合いながら創造性を組織全体で

膨らませていくという「競い合い・つくり出しあう風土」です。


そしてその「競」を適切・適度に活性化するために、「覚」が要る。

「覚」とは、自覚、すなわち「自らを覚る」ことです。


経営・組織側は、事業上の哲学・意志を明確に自覚し、

メッセージを発しなくてはなりません。


他方、個々の働き手は、その哲学・意志・メッセージに対し、

自分の価値観や想いとどうすり合わせ、

共有していくかを自覚せねばなりません。


結局、ヒトが悪い根付きをしたり、逆に離散したりするのは、

“安”のみ、“競”のみで、

“覚”が欠落しているがゆえの結果であるように思います。


公務員のすべてを非難するわけではありませんが、

公務員という職種は、本来的に、組織に保身的・依存的に

悪く根付いてしまう傾向性をはらんでいます。


なぜなら、絶対的な“安”(国からの雇用保障)に守られ、

職場には“競”もなければ、

「良心に基づく公僕」であるといった“覚”も希薄化しているからです。


また、その逆の振り子として、

ヒトを動かすのに競争原理を持ち込んだ民間企業もさえません。


私は、いくつかの企業で、成果主義導入における

精巧な評価処遇システムをみてきました。

それらシステムは、実に、綿密に設計されています。

ジョブの分解のしかたと係数処理の方法、評価ポイントの区分けとレベル毎の記述、

原資の配分表、考課者の留意項目、等々。


しかし、こうした制度を「設計屋さん」にいくら精密に組んでもらったところで、

所詮、それを用いる労と使の双方で、

「なんのため」という“覚”がなければ、

「立派な箱をつくって、魂入らず」です。

“競”をあおるだけの制度は機能しないことの証となりました。


簡潔にまとめると、

“安”のみでは、ヒトは“鈍”する。

“競”だけでは、ヒトは“耗”する。

しかし、根底に“覚”があれば、ヒトは“鋭”となり、“活”する。

そして、ヒトはその組織によく根付く。  ・・・・ということでしょうか。


* * * * * * * *


IBM社の教訓:野ガモを飼いならすな

最後に、IBMの伝説的な経営者であるトーマス・ワトソン・Jr.の言葉を紹介しましょう。

彼はIBMに必要な人財について、よく「野ガモ」の寓話を用いました。

この寓話は、デンマークの哲学者キルケゴールが説く教訓です。


「ジーランドの海岸に、毎年秋、

南に渡る野ガモの巨大な群れを見るのが好きな男がいた。

その男は親切心から、近くの池で野ガモたちに餌をやるようになった。

しばらくすると、一部のカモは南へ渡るのが面倒になり、

男の与える餌を食べてデンマークで冬を越した。


やがて、残ったカモはますます飛ばなくなった。

野ガモの群れが戻ってきたときには、輪になって歓迎したが、

すぐに餌場の池に引き返した。

3、4年も経つと怠けて太ってしまい、

気づいたときにはまったく飛べなくなっていた。


キルケゴールの説く教訓は、

野ガモを飼いならすことはできるが、

飼いならされたカモを野生に戻すことは決してできないというものである。

飼いならされたカモはもうどこへも行くことはない、

という教訓を付け加えてもいいだろう。


私たちは、どんなビジネスにも野ガモが必要なことを確信している。

そのためにIBMでは、野ガモを飼いならさないようにしている」。


*以上、『IBMを世界的企業にしたワトソンJr.の言葉』朝尾直太訳

(英治出版)より



人財の離職と根付きの問題<2> 保持から絆化へ


前回から引き続いて、ヒトの離職と根付きの問題に触れます。

この問題で、組織の人事に関わる方々へのメッセージは下の3つでした。


1)すべては“働くマインド”という意識基盤をつくりなおすところから

2)人財はリテンション(保持)からボンディング(絆化)へ

3)安すれば鈍する:野ガモを飼いならすな


今回は2番目の項目についてです。


◆広がる「リテンション」のニュアンス
ところで、

人事の分野で「リテンション」という言葉はすでに一般化されてきました。

と、同時に、意味が拡大化されてきているようにも思えます。


リテンションとは、本来、

保持したい特定の人財、例えば、ハイパフォーマーや

競合他社に引き抜かれてはまずい高度な専門知識人など、

といったターゲットを設定し、

彼らに物理的報酬なり心理的報酬なりを用意して、

その流出を防ぐ施策をいいます。


ところが、現在では、

そのリテンションの対象が全社員まで広がり、

ともかく「うちは離職率が高いな。人の採用にも高いコストが

かかってるんだ、何とかせい!」などと、

社長や役員から発破がかかって、


「はてさて、社員の引き留めに何か手を打たねば

(自分の職責が問われるゾ・・・)」といった現場担当者から

にじみ出る雰囲気も感じられます。


いずれにしても、リテンションという言葉は、

限定的人財の留保施策から

従業員を広く辞めさせない諸施策へと含みを拡大しつつあります。


◆3年で3割は今に始まったことではない

で、後者の部類に属すると思われる、例の「3年で3割が離職」問題ですが、

私はまず、その統計数値自体に

オドオドする必要はないのではないかと思っています。


「3年で3割が離職」は、周知のとおり

厚生労働省の『平成17年版 労働経済の分析』の中で詳しく指摘されています。


それをみると、大卒の採用者について、

入社後3年目までに辞めていく数値は、

10年前でもやはり30%弱あったわけです。

ここ数年、急に離職率が高まったということではありません。


しかも、同分析書の中の他の部分で紹介されているとおり、

そうした若年層労働者の転職動機として、

「もっと収入を増やしたい」は少なからずの回答率(25%程度:第2位の回答)

に上っていますし、

また、働く目的については、

「自分の能力をためす生き方」が減少する一方、

「楽しい生活をしたい」が大幅に増え(37%程度)、

第1位の回答となっています。


これらの回答をする人たちをひっくるめて、

功利的だとか、快楽的だとかの決めつけはできませんが、

そういう時代特性、ジェネレーション特性があるのだということを含めて考慮すると、

3割が辞めていくという数値は、驚くべき値ではなく、

自然現象として起こってしまう率なのかもしれません。


ましてや、転職紹介ビジネスは高度化し、情報流通量も格段に増えました。

しかも、人手不足が深刻化している社会情勢です。

当面、3年目の離職率3割台継続は必至でしょう。

(人によっては、早晩40%を超えるという分析予想もあります)


しかし、背景・要因はともあれ、人財が流動化するということは、

新しく人財を採りなおすという新陳代謝のチャンスの面もあります。

第二新卒の転職市場が活況を帯びているのもそのためです。

だから「3年で3割が・・・」という数値だけをみて、

それを問題視するのはあまり意味がないと思います。


加えて、ヒトが辞めないで、組織に長く根付くことが全面的にいいことなのか、

これも両面の議論があります。

詳しくは、次回触れますが、同じ根付くにしても、

よき人財が根付くのは歓迎ですが、

どこにも行きようのない市場価値の低い人材が、

保身・依存心で根付くことは歓迎できません。


そう考えると、ヒトのフローの問題へのアプローチとして、

「離職率が高いのでそれを下げよ=辞めていこうとする人間をリテンションせよ」

という茫漠としたテーゼではなく、


「いかにして、採るべきは採り、育てるべきは育て、

離すべきは離し、留めるべきは留め、出すべきは出すか」という

明確な意志を伴ったテーゼへと変換する必要があります

◆心的引力によってヒトを留める

その際、その組織には“明確な意志”の基軸となるものが要ります。


・・・・それは経営者を発信源とする理念・哲学であり、

それが浸透した結果の組織文化です。


株式会社をはじめとする事業営利組織は、荒波をゆく船に譬えられます。

乗船人員のキャパシティは有限ですから、

誰を乗せるかは重要問題です。

そして誰を降ろすのかも、同様に重要問題です。


乗船の適格要件の最もベースに置くべきは、その組織が持つ理念や文化を

理解し、納得し、共感・共振できるかどうかではないでしょうか。


ヒトを物理的報酬や心理的報酬で、囲い込む・引き留めるのは、

決して怠ることのできない方策ではありますが、

それらは本来、対症療法的な二の次の策です

与える報酬の切れ目が縁の切れ目となることも往々にしてあります。

根本の策は、共感・共振といった“心的引力”(=絆)によって、

留まってもらうことでしょう。


ここで私が用いる「絆」とは、

働く個と組織の間に生まれる信頼や尊敬、安心、互恵、恩義といった

心持ちの相互形成をいいます。


働き手側からの平易な言葉で表現すれば、

・「私を活かしてくれる会社(だから有り難い)」

・「私をこうやって育ててくれる環境(って、ほかにそんなにない気がする)」

・「仕事の要求は厳しいが、きちんとそれをわかってくれている会社」

・「会社の目指すところに共感が持てるし、

  それを仕事としてやれるのは誇り・楽しみである」

・「この経営者の下でやれるなら本望」

・「人生のある期間を共にする“場”として、この会社なら納得できる」・・・・


このような絆に裏打ちされたヒトは、よい根付きをする人財になるはずです。

また、仮に、転職その他で組織を離れることになっても、

その後、そのヒトは、やはり直接・間接的にその組織に貢献しようとするはずです。



◆人財輩出企業は自らの人的宇宙を形成する

絆化ができずに従業員が辞めていくことを人材「流出」といいます。

絆化ができている従業員が辞めていくことを人財「輩出」といいます。


IBMやリクルート、アクセンチュアなどは人財輩出企業として有名ですが、

それら企業にとって

ヒトが辞めていくということ自体は大きな問題ではなさそうです。


ヒトを人財として気前よく世の中に輩出する企業には、

また多くのヒトが入ってくる

という逆説的な循環がそこにはあるからです。


また、そこを“巣立った”人財たちは、ネットワークを組み、

“実家”あるいは“母校”的な存在の元の組織を中心に、

“ヒューマン・コスモス”(人的宇宙)を形成します


そしてそのヒューマン・コスモスは、元の組織、

そして業界を動かす大きな力となっていくでしょう。


ヒトの離職や定着の問題をとらえるとき、

ヒトを囲いや縄(=報酬や制限)によって、

地べた(=組織内)で保持する(=リテンション)という発想枠を

一段大きくしてはどうでしょうか。


つまり、個と組織の間で絆化(=ボンディング)がなされることによって、

個々の人財は、みずからの発露によって、

その組織の心的引力圏内に自然と留まる


あるヒトは地べた(組織内)に留まり、

またあるヒトは地べたから離れ、別空間(組織外)で留まるかもしれない。


そして彼ら人財たちは互いに人的宇宙を形成し、

その組織を有形無形に助けるという発想枠です。


私がイメージする「ヒトの観点から優れた会社」というのは、

やたら塀や柵で囲ってヒトを居付かせている様子ではなく、

ある恒星を中心として個性ある惑星があまた周回し、

ふくよかな宇宙空間を形成している姿です。


ヒトが離れていく数、根付く数への対症療法ではなく、

ヒトの離れ方、根付き方に深慮を配り、

根本の体質改善を図ることだと思います。


次回は、ヒトの離職と根付きの問題の3番目

「安すれば鈍する:野ガモを飼いならすな」についてです。



2008年5月 6日 (火)

人財の離職と根付きの問題<1>


◆なぜ若手が簡単に辞めていくか

人事・人財育成担当者の共通の悩みのひとつは、

人財の流動化に伴う若手従業員の離職率の高さ

(=ヒトの根付きの悪さ)問題です。


・「入社1年、2年でいとも簡単に辞めていく」

・「3年で3割離職のほか、中途入社者の定着もよくない」

・「育ち盛りの4年目以降も、なにかソワソワしていて、

  いっこうに根付くような安定感がない」

・「異動希望制度や公募制度も持っているが、

  離職止め効果に一部の効き目しかない」

・「彼らの行動変容・思考変容をもたらすには、

  若手の研修にスキル習得・知識吸収ではない“何か”を

  施さなければならないと思う」・・・等々。


ヒトの離職と根付きの問題は、深く悩ましいものですが、

私が人事担当の方々にセミナーで話していることの要点は下の3つです。


1)すべては“働くマインド”という意識基盤をつくりなおすところから

2)人財はリテンション(保持)からボンディング(絆化)へ

3)安すれば鈍する:野ガモを飼いならすな


これらを以降3回に分けて書きたいと思います。



“働くマインド・観”の醸成がほったらかしの状態

まず私は、個々の働き手がキャリアを形成していく要素を

3つの層に分けて考えます。

(実際は3つに明確に分離できる層ではなく、

虹のように多色がグラデーション的に構成されるようなものですが)


【第1層】知識・技能(スキル):“HAVE”要素

【第2層】行動特性(コンピテンシー)・態度・習慣:“DO”要素

【第3層】マインド・観:“BE”要素


入社3年目や5年目にかけては、誰しも第1層、第2層は育ち盛りです。

仕事の場数を踏み、知識・技能研修を受けつつ伸びていく。


しかし、第3層という働く意識の地盤はなかなか形成されず、

それがぜい弱なまま、時が過ぎるのがおおかたの3年目、5年目でしょう。


たまたま、影響力のある上司の下で働くことができたり、

経営者の強烈で明確な哲学によって直接・間接に感化を受けたり、

自己啓発で自分なりの働く思想的なものを醸成したりして

第3層を形成することのできる人は、世間ではごくマイナーな存在です。


第1層、第2層は、他者からの教育が可能ですが、

第3層は、“自育”が原則です。

しかし、その自育を促してやるのは、組織側・経営側の問題です。


組織側は、とりあえず若手従業員が業務をこなしてくれるように

1層・2層への教育には手を施しますが、

3層に関しては、個人の問題であると放置しがちになります


一方、働く本人たちも、知識やスキルが一人前についてきたこと、

あるいは、ただ多忙に働いていることだけで、

何か仕事のできるプロになったんだという勘違いを起こし、

マインド・観への自問をしようとしない


それでも、1層・2層に関して、自分の棚卸しをし、

現職での仕事成果をそこそこに語ることができれば、

人手不足の昨今、情報をいろいろに集めて、人材紹介会社のドアをたたけば、

年収アップの転職がすんなり状況がある。


今の若い働き手の職選び・キャリア行動を観察してみると、

意志的・思惟的な基盤づくりへの進行がみられず、

功利的・反応的な“気分”によって流動し、

それをますます先鋭化させ(させられ)ている現状が感じられます。

(この傾向は、大人を含め世の中全体がそうなっているのですが)


◆組織と個が価値・目的の共有を図っているか

下図に「働く個」と「雇用組織」の理想状態を描いてみました。

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個は、みずからの第3層を自律的に醸成し、

他方、組織は、従業員の第3層の自育を促す形で、

双方の価値・目的を共有化することが理想形となります。


ところが、現状は下のとおり

個々の第3層の醸成がおざなりになったままなので

個と組織の間での価値・目的の共有化がなされず

双方の結びつきは極めて脆弱な状態になっています。

060032p

そして、揺らぐ働き手たちは、

外部の雑多な転職情報の風に吹かれ、

あるいは、現職・現環境への不満や不安に対し辛抱がきかず、

安易に転職カードをきってしまうわけです。



組織内にカッコイイおじさんがいるか

したがって、揺らぐ若年層従業員たちの離職(安易な転職)を減らし、

人財として組織に根付かせるためには、

個々における第3層の醸成が必須です。


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第3層は、自育が原則ですから、

まずもって個々の働き手がそのための行動を起こすことが求められます。

(そのきっかけを与える研修を開発するのが、まさに私の事業でもあります)


しかし、個の意識醸成のみでは不十分です。


組織側は、働く自律マインドの醸成を個々に促すよう

経営者や現場のマネジャーたちは、

肉声で「働くことの意義・思想・哲学・ビジョン」を語らねばなりません。


また、中高年社員たちがカッコよく働いているロールモデルが

社内のそこかしこに存在せねばなりません。

「年次が上がって、ああいうサラリーマンにはなりたくないよな」

と思われる人ばかりの組織に、

誰が永く勤めたいと思うでしょうか。

転職市場で自分が売れるうちに、どこかほかへ移ってしまおうとするのは

無理のない話です。


また、人財配置や異動の制度、処遇制度、育成システムなど、

制度・施策面の充実は言うに及びません。


そして忘れてはならないのは、

この組織は、働く1人1人とともに、

価値と目的をきちんと共有化していきたいという「姿勢」を示すことです。


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ヒトを根付かせ、人財として成長させていくには、

これら4つの要件に手を打ち、循環させてこそと感じます


すなわち、「個の意識」が変われば、その「組織文化」は変わる。

そして、その組織文化は、新しい「制度や施策」を生み出す。

そして、その制度・施策は、「個の意識」をさらに変えていく。

同時にその間、個と組織は、価値や目的の共有化を進め、深めていく。


ヒトが浮気性にどんどん流動していく、

そのやっかいな問題を解決するには、即効性のある妙策はなく、

実に地味で、中期的・継続的な手配りがあるのみではないでしょうか。



<補足>ヒトをないがしろにする組織の構図


最後に補足です。


世の中には、ヒトを大事にしない組織も多いようで、

下の図のような構造になっている企業も少なからず存在します。


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つまり、

その組織の主目線は、売上・利益にあり、

その数値越しに、株主と顧客がいます。


そして、個々の働き手のマインド醸成などには関心を示すことなく、

働き手の能力のみを、売上・利益創出のための部品か何かととらえる。

そして個々の働き手の目線は、目先の成果目標に向かされる

・・・そんな組織です。


多少、いじわるな見方ですが、

実際このような構図になってしまっている組織は多いものです。


さて、次回は、

「人財はリテンション(保持)からボンディング(絆化)へ」

について書きます。



2008年5月 1日 (木)

組織文化と組織風土の違い


さて、前回、このカテゴリーでは、

自律的働き方、他律的働き方、そして第三の「合律的」働き方

について書きました。

きょうは、その発展形で、組織文化/風土について考えてみたいと思います。



「赤福」よ、おまえもか!

昨年、2007年の1年を表す言葉は「偽」。

メディアのニュースでは、

心無い企業・団体・組織による偽装が次々明らかになりました。


中でも、三重県出身の私にとって、赤福の一件は実にショックでした。

新興の成金ブランドならいざ知らず、

信頼しきっていた伝統の老舗ブランドなだけに。。。


しかし、考えてみるに、

老舗で、業界地位がゆるぎなく、

オーナー家の強い支配経営であればあるほど、

こういった問題が起きやすくもあります。


つまり、

オーナー家の歴代経営者は、

自らの律が支配的かつ成功的な状況が永く続くことで

いつしか自律の悪い面である「我律」(=俺様ルール)の上に

あぐらをかいてしまいます。

「我律」はいつも、結果的に自己中心的な逸脱・暴走を招きます。


また、その下で働く従業員たちは、

何かおかしい、世間感覚とズレていると感じつつも

いつしか他律的に陥り、経営トップのやり方に従順になっていきます。

(おそらく、途中で勇敢に意見する人もあったかもしれませんが、

やむなく去っていったのだと思います)


真に強い組織、優れた組織というのは、

組織のトップも個々の構成員も、

自律と他律を超えて、「合律」という第三の行き方を志向する組織であると

前回の記事で書きました。


その文脈で赤福の一件をとらえるならば、

株式会社赤福という事業組織において

オーナー家の経営者は、

自分の律をゆがんだ形で押し進め、

社会の律(=他律)との間で“合律”を図らなかった。


また、関連する従業員も

いつしか事なかれ的に他律に流れてしまい、

製造者としての自らの良識や知恵(=自律)に照らし合わせて、

経営層との間で“合律”という創造的な行動をとらなくなっていた。


そうした状況が、次第に硬直した組織風土となり、

赤福という閉鎖的な空間の中で、

経営者や従業員に一種の重力となって作用していた。

そして問題は、世間ににじみ出た。

――――そのように私はみます。


こうした状況は、赤福に限ったことではなく、最近問題となった

石屋製菓(「白い恋人」の製造元)にしても、ミートホープ社にしても

同じような構図が見出せると思います。



文化は「手で耕すこと」・風土は「勝手に漂うもの」

確かに、赤福という商品自体には、300年の歴史や文化があります。

しかし、だからといって、

自動的に株式会社「赤福」という事業組織に、

それに釣り合う“組織文化”があるのでしょうか? 

――――そうとは限りません。


なぜなら今回のような一件は、

組織文化が引き起こしたのではなく、

組織風土が引き起こした、いわば風土病の一種だからです。


「組織文化」と「組織風土」はよく似通った意味で使われますが、

本記事のここからは、

これら両者の違いについて、私なりの解釈を書きたいと思います。


まず、両者の違いを図にまとめてみました。


03005

文化と風土の違いは、実は英語表記で考えると明確です。

文化は“culture”、「手で耕す」という意味です。

風土は“climate”、これは「天候」の意味です。


つまり、文化は、耕すという意志的・肉体的な努力が必要なのに対し、

風土は、人間の努力のあるなしに関わらず、

何かしらそこに漂い覆うものです。


また、文化は意志的であるがゆえに、

その中核には理念・哲学といった価値が必要で

(たいていは組織の中心者が強く設定します)、

個々の構成員はそれに対し、

共感・共振をもって積極的に受け入れようとする。

その結果、組織全体は、熱を帯び、動的に

ある種の方向性とスタイルを持って、外界の変化に対応しながら成長を志向する。


そこには、組織の中心者と個々の構成員が、

自律と他律をわきまえ、

合律という第三の行き方をつくり出していこうとする動きが

当然のごとく起こっている。

組織が持つこうした志向性・志向様式・帯熱を、

私は「組織文化」と考えます。



他方、「組織風土」は、成り行きで形成されてしまうものです。

風土の形成には、組織の中核となる理念や哲学めいたものは必要ありません。

風土は、多分に雰囲気的で散漫としたものです。

その際、風土それ自体は、善でも悪でもない。


ただ、もし、その組織に“有利なご都合・既得権益”のようなものがある場合、

組織の中心者は、それを「我律」として張り、

構成員たちは消極的「他律」として、

それを受け入れる(決して共感・共振はしていない)ときがあります。


こうした空気が組織を硬直的に覆って、

一種の重力として組織員の行動に歪みを生じさせ、習慣化したとき、

それは「風土病」となる。


私が、赤福の一件を、風土病と言ったのはこうした考えによるからです。



◆風土から文化への昇華ステップ

風土と文化は、きっちり明確に分けることはできませんし、

実際の企業は、風土面と文化面を混合して持っていることが

現実の姿であろうと思います。


しかし、私も仕事でさまざまな事業組織をみてきましたが、

独自に明瞭で強い組織文化を持っているところは数少ない気がします。


組織文化を形成するためには、

1)基軸となる価値(理念/哲学)を据える

2)その価値に対して、個と全が共振して、熱を帯びる

3)その価値を具現化した志向性・志向様式を共有する


これら3つのステップがざっくり必要になりますが、

1番目はどこの組織でも簡単にできます。

(組織が掲げる理念・ビジョン・バリューの表明はホームページに溢れています)

要は、2番目以降がうまく動き出すかです。


そのための第一歩は、

組織のトップ、および、個々の構成員が、

自律と他律を超えて、

合律的な創造解をつくり出そうとする意識から始まります。


赤福の名の由来は、「真心を意味する赤心慶福」だと聞きました。

経営者は我律を見直し、

そして関連した従業員は他律を排し、

何がお客様にとって「赤心慶福」であるのかという合律の目線から

謙虚な出直しを期待したいところです。




2008年4月28日 (月)

春の草々に想う ~生命の息吹と働きがいの創造

09003


沖縄に仕事場を移した春キャンプから東京に戻り、

いつもどおりの都会の生活が始まった。

多摩川沿いのサクラ並木も花を散らした後は、

おどろくほど速く木々たちが新緑葉を広げ、

いまでは空を充分に隠すほど、生い茂る姿になった。


私は東京の調布市に住んでいますが、

調布は都心・新宿にこんなに近いにもかかわらず、

田畑が住宅地のそこかしこにあるのがいいところです。

で、昼前、コンビニに買い物にいく途中、

いつもの田んぼの脇を通りました。


すると、ついこないだまで、枯れ藁の冬のさみしい平地だった景色が

一変しているのに気がつきました。


一面、雑草やら、オオバコ、タンポポ、ポピーなど名前を知っている花々やら、

ともかく草々で覆い尽くされています。

蝶も舞い、ツバメも飛び交い、

まぁ、本当に生命の息吹く季節なのだなぁと

ふと立ち尽くして見入ってしまいました。


◆生命の本質は「息吹き生成しようとする意志・努力」

かくも短い間に、緑に覆われた景色を見て、

私はホイットマンの『草の葉』の詩を思い出します。


見えない芽の群、数かぎりなく、うまく隠され、

雪や氷の下に、暗黙の下に、

四角や丸のどんな小さなところにも、

萌え出ようと、精妙で、繊細なレース網状をなし、

極微のすがたで、生まれないままの、

子宮のなかの赤んぼたちのよう、

潜伏し、抱きしめられ、密生し、眠っている、

数億万もの、幾兆万もの待ち受けている芽また芽の群、

(大地のうえ、大海のなか――全宇宙――九天の星々に、)

ゆっくり追い迫り、着実に前へ進み、

果てしもなく現れ出てきて、

絶えまもなくもっと多く、

永久にさらに多くの芽がと、

背後で待っていて。


  ――――『対訳 ホイットマン詩集』(木島始編:岩波文庫)より



“生命”とは、とてつもなく不可思議なもので、

そのエネルギーは、この広漠たる宇宙空間にあまねく潜在しており、

何処何時でも、その息吹く機会を待っている、否、欲している。


いかなる環境であれ、環境に抵抗し、環境に順応しながら、

息吹き、生成しようとする意志・努力――――

これが生命の本質でないかと私は思います。


フランスの哲学者・ベルグソンは、これを

「生命には、物質の下る坂を

さかのぼろうとする努力がある」と言いました。


* * * * * * * * *

◆生命の発露をなくす現代ビジネス社会

さて私は、日々、企業のキャリア研修で演台に立ちますが、

そこで感じることは、少なからずの人が

働くこと、生活することに疲れている、重い感じを引きずっている、

あるいはまた、

給料もらって働くって所詮こんなもんさと冷めている―――

ということです。


そこには、生命の“発露”がない。

何か現代ビジネス人は、生命力豊かに生きているのではなく、

生命力をしぼませて生きながらえている

―――そんな印象です。

(もちろん、溌剌と活き活き働いている少数の人たちもいますが)


私の行なうキャリア教育プログラムは、一種、独特なアプローチで、

「働くとは何か?」「よりよく働くためにどうすればよいか?」

といったことをテクニック論ではなく、

心持ちレベルでたくましく醸成しようとするものですが、

今の私のプログラム開発上、最大の課題は、

「働きがいの創造」を各自にどうさせればよいかということです。


私は、一人一人の働き手が、

生命の息吹きを取り戻し、よりよく働くためには、

「働きがい」を自分の内に創造することが唯一根本の手立てだと

確信するからです。


「働きがい」は、抗し難い情熱です。

どんな小さな隙間からも、噴き出してくるマグマです。

困難そうであろうが、

多くのリスクや面倒さ、手間がかかりそうであろうが、

無視されようが、見返りがなかろうが、いじわるされようが、

やむにやまれぬ想いがふつふつ湧いてきて、やらずにはおられない何か

―――それが「働きがい(のある仕事)」です。

“魂の叫び”といってもいいでしょう。


* * * * * * * * *

◆働きがいは無尽蔵のエネルギーを湧かせる

私個人はおかげさまで、自分なりの働きがいを具体的なレベルでこしらえ、

イメージできる状態になりました。

それが、独立開業という決断を促しもしました。


働きがいの下に身を置くとき、

智慧と力が無尽蔵に湧いてくるのが実感できます。

きょうの田んぼに見た、あの萌え出でる一面の草のように。


まずもってサラリーマン時代と、朝がまったく違います。

以前は本当に朝起きるのが辛かった。

今では、「きょうも1日、未知の1ページを描くことができる!」と

さっそうと起床することができます。


朝風呂の中では、アイデアやらイメージやらが湧いてきて、

忘れないうちに、脱衣所に置いてあるメモ帳に書き込むことが普通です。


きょうのこのブログにしても、日曜の夕方から深夜にかけて

風呂もまだ入らずに書いています。

だれが読んでくれるとも知れない、原稿料が出るわけでもない、

でも、書かずにはおられない。

その湧出するエネルギーはどこからやってくるのか?

・・・それは「働きがい」(そう働く意味・意義)です。


働きがいをより強く、より具体的に創造できたことで、

私はより快活に、より健康になりました。


大企業のサラリーマンを辞めて、以前より苦労や不安定さは増しましたが、

働きがいの下で働くことで、

それらを乗り越える勇気やら面白みを充分に湧かせることが

できるようになっています。

そういった意味で、私は齢40も半ばになりますが、

萌え出でるエネルギーで青春の真っ盛りにいます。


生命は本来的に「最大限に生き切ろう」とする意欲を持っています。

もし私たちが、なんとなく生き切っていない、

半端にしか生きていないような気がする、と感じているなら、

それは生命本来の性質を十全に謳歌していないということです。

それでは、この奇跡の確率で生まれ出た人の生がもったない。


働きがいにせよ、生きがいにせよ、

この「かい(甲斐)」を創造できるかどうかは、

その人の人生にとって、最重要の分岐点になると思います。


働きがい・生きがい・夢/志の創造については、

別の機会に詳しく書くつもりです。



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