2008年4月26日 (土)

自律と他律 そして“合律的”働き方


◆働くマインド/観はパソコンでいうOS(プラットフォーム)

私は人財育成研修の中でも、特に

「自律的に働くマインド/観を醸成する」という観点からサービスを行なっています。


「自律的に働くマインド/観」は、言ってみれば、

1人1人の職業人のキャリア(仕事人生)を構築する基盤、

つまり「プラットフォーム」となるべきものです。


各人の持つ諸々の知識や能力・資質は、パソコンに当てはめれば、

上層にあるアプリケーションソフトのようなもので、

それらを生かすも殺すも、そのベースではたらくOS

きちんとインストールされていなくてはなりません。


そのインストールは、最終的には各人が各様にみずからの手で

やらなくてはならないのですが、

「仕事とは何か?」「働くとは何か?」「自律的とは何か?」

「儲けるとは何か?」「そう働く目的とは何か?」「会社・組織とは何か?」・・・

などの根本的な問いを

これまで、親も発してこなかったし、ましてや学校も発してこなかった、

会社に入った今も、経営者や上司が発してくれることは

ごくまれな状況となっている。


だから、よほど自己啓発的な人間か、

よほどよき上司、よき人生の師に出会った人間、

もしくは良質の仕事経験を得た人間でなければ、

「自律的に働くマインド/観」は醸成が難しい。


せめて、若年職業人のうちに、

そうした「自律的に働くマインド/観」醸成のための

きっかけとなる材料を与えられれば・・・

これが私の提供するサービスの基本的な想いです。


さて、そうしたことを狙いとした研修プログラムの中で、

受講者に醸成を促したい核概念は、

・「自立と自律」の働き方

・「自律と他律」の働き方  です。


前者の「自立と自律」の違いについては、

おおよそ新卒入社3年目くらいまでに腹で押さえたい概念です。

これに関しては、前回触れていますので、そちらの記事を参照ください。


で、今回は、後者について述べたいと思います。

以下に触れる「自律と他律」の働き方の特長、および“合律的”な働き方は、

入社5年目くらいには醸成しておきたい概念です。


* * * * * * * * *


◆自律は善で、他律は悪か

さて、自律・他律は字のごとく、


「自律的」=自分自身で“律”を設け、

それによって判断・行動するさま

「他律的」=他者が設けた“律”によって、判断・行動するさま


ですが、さて、“律”とは、何でしょうか?

律とは・・・

「ある価値観や信条にもとづく規範やルールのこと。

さまざまな事柄を判断し、行動する基準となるもの」をいいます。


したがって、もう少し分解して言うと、

自律的とは、自分が正しいと思うルール・やり方を用いて

意志的・能動的に事に臨む態度を意味し、

他律的とは、他者が決めたルール・やり方を用いて、

追従的・受命的に事に望む態度を意味する といってよいでしょう。


一般的に、だから自律的な働き方は善で、

他律的な働き方は悪だと意識されがちです。

しかし、私は、そうばっさり切り捨てて、認識してもらいたくはありません。


03004a_3 1つの軸に、自律的な働き方と他律的な働き方、

もう1つの軸に、望ましい点と望ましくない点を置くと、

4つのマトリックスができます。


誰しも、「自律的×望ましい点」と「他律的×望ましくない点」は

すぐに思い浮かべることができます。

ですが、よくよく考えると、

「自律的×望ましくない点」と「他律的×望ましい点」も

いくつか意識することができます。


例えば、自律的は、

過剰に自律がはたらくと、自己中心的な暴走や逸脱を生みます。

自律的働き方が、いつしか“我律的”働き方に陥るわけです。

若年層社員で、自律意識過剰の人間ほど、

自分の適当な判断でトラブルを起こしてしまったり、

「こんな古臭い会社やってられるか」といってプッツン切れて、

簡単に転職に走るケースはよくあります。


また、他律的な働き方は、時に、効率的でミスの少ないものです。

もしその会社組織が、過去から営々と築き上げてきたノウハウを持っている場合は、

ヘタに個人が独断で勝手に動くより、

組織の持つ暗黙知・形式知に従って(=他律的に)淡々とスピーディーに

仕事をやるほうがいいでしょう。

組織が持つ伝統の知を従順に利用することは、賢明な手でもあるのです。

(ただ、これに安住し慢性化させると、他律的の望ましくない面がじわり表出してきます)


いずれにしても、私たちが自律・他律を考える上で重要なのは、

自律が善で、他律は悪と単純に意識づけするのではなく、

自律的働き方にも、よい面と悪い面があり、

他律的働き方にも、消極的な他律と、積極的な他律があることを

押さえることだと思います。


* * * * * * * * *


◆自律と他律を高い次元で止揚する「合律」

そして、ここからがきょうの記事で最も重要な論点になるのですが、

働き方は、自律的と他律的の2分法を超えて、

新しい意識概念を登場させるべきだという考えです。



自分の日ごろの仕事を振り返った場合、

その仕事は、必ずしも自律で行なわれたか、

あるいは他律かという両極の2つで分けられるものではありません。

実際にはその中間形態が存在します。


つまり、ある仕事をやろうとするとき、

組織や上司はこう考え、こう行なうようにと命令してくる(=他律的な)流れと、

それに対し、

「いや、自分はこう思うので、こうしたい」とする(=自律的な)流れが生じます。


そして、結果的には、自分と上司なり、組織なりが討議をして、

双方が納得する流れをつくりだして、対処する場合です。

この自分と他者の間に生み出された新たな第三の流れは、

自律的でもあり、同時に他律的でもあります。

その第三の流れは、

双方の律を“合した”という意味で、「合律的」と呼んでいいかもしれません。

また、自律的な“正”の考えに対し、他律的な“反”の考えがあって、

その2つを高い次元で止揚する“合”と考えてもいいでしょう。

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◆働く個々人が合律的に振る舞う組織は変化適応に強い

合律的という止揚の形態は、とても大事な律の持ち方です。


事業組織は、常に環境の変化にさらされていて、

その環境適応・環境創造のために、新しいやり方を生み出していかねばなりません。

その際、誰がそれらを生み出していくのか?――――

もちろん、それは経営者および個々の働き手にほかなりません。


しかし、彼らが過剰に自律的(時に我律的)に考え出し、行動する選択肢は

往々にしてハイリスクであるし、全体がまとまるにもエネルギーが要る。

(存亡の危機にある組織が、起死回生の一発を狙って行なう

経営者の超我律的選択肢は例外的なものと考えるべき)


そんなとき、自律と他律の間で、止揚的に(決して「中庸的に」ではない!)

第三の選択肢を創造していくことは、

最も現実的で、かつ成功確率の高い変化対応策を生み出すことにつながっていきます。


強い会社・変化対応に優れた組織というのは、

経営者が合律的なマネジメントを実行するということは当然ですが、

やはり、現場の個々の働き手が、合律的な考えをし、

合律的に振舞うということが決定的に重要だと思います。


冒頭、入社3年目くらいまでの若年層社員には、

“自立する働き方”から“自律する働き方”にシフトアップさせることが

大事だといいましたが、

この自律、他律を超えて、“合律的”に働くという意識と行動が大事になってくるのは、

入社5年目くらいからだと思います。

(もちろん、一部分、早熟な人財もいるでしょうが)


組織の中堅クラスが、合律的な働き方をして、

その組織の骨格となる文化とダイナミズムを創出する―――――

私はいくつもの強い事業組織をみてそう思います


他方、自律的なヒトはどんどん他社に流出し、

他律的なヒトが組織に居残る―――――

これが停滞する組織の姿のように思います


次回は、この合律的働き方を発展させて、

組織文化と組織風土の違いについて書こうと思います。



*なお、自律と他律、合律の詳しい論議は、

拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』

ご参照いただければ幸いです。

2008年4月25日 (金)

「自立」と「自律」の違い


私は「自律的な働き方とは何か?」「自律と自立の違いは何か?」を説明するのに、

 


3+5=●
●+●=8

 


の2式を用いています。

 


〈閉じた質問・閉じた業務〉

3+5=●は、いわゆる「閉じた質問」です。
誰が答えても、正解は「8」。
閉じた質問において、回答者が要求されることは、

 

  ・きっちり四則演算(というスキル)を習う
  ・速く、正確に答えを出す
  ・そして量をこなす

 

閉じた質問において、回答者は「処理作業」を行い、
個性を求められることはありません。
これは日ごろの業務で言えば、定型の仕事をこつこつやる、
または、過去の方法を踏襲して無難に仕上げる仕事ではないでしょうか。

 


〈開いた質問・開いた業務〉

 

一方、●+●=8は、「開いた質問」です。
答える人によって、「2,6」「4,4」・・・と様々出てくる。
開いた質問において、回答者が要求されることは、

 

  ・四則演算(というスキル)を習得しているのは前提として
  ・与えられたゴール(=8)に対して、自分なりの組み合わせを考える
   (なぜその組み合わせなのかの理由も付けて)

 

開いた質問においては、回答者は「創意工夫+判断作業」を行い、個性が求められる。
これは日ごろの業務で言えば、
やることのミッション・ゴールは決められているが、
そこにどういう方法・過程でたどり着くか、
効率・効果性も合わせて実行する仕事だと思います。

 


〈さらに開いた質問・業務〉

 

さて、●+●=○を、さらに開いた質問と呼びましょう。
この場合、回答者は、右辺(=○:ミッション・ゴール、たどり着く先)
も自分自身で設定する、
そして、それを実現するための左辺(●+●:プロセス、実現方法)も
自分で考えて、実行するという形です。

 

さらに開いた質問において、回答者は「課題発見+目的設定+創造+判断作業」を行い、
より強い個性+やりきる力が求められます。
これは日ごろの業務では、
過去のやり方に安住せず、新しいアプローチで、
新しい商品・サービスを生み出し、新しい顧客をつくりだす仕事だといえます。

 


* * * * * * * *

 


自立と自律の区別は、世の中で明確にされているわけではありませんが、
私は次のように解釈しています。

 


「自立」は、
・self-standing(自力で立つことのできる)
・他に依存しないで、自分でやっていける
・主に経済的自立、技能的自立をいう

 


他方、「自律」は、
・self-directing(自分で方向付けできる)
 つまり、自力で立った後は、自分が決める方向に進んでいけるということ
・“律”とは、規範やルールのこと。

 

つまり、自らの価値観を持って、そしてまた組織全体の価値観との整合性を図りながら、
目的と手段をつくり出し、進んでいける。
そして他にもはたらきかけることができるということ。
したがって、意識的な自律をいう


こんなことから、私は、上の数式をメタファーとして、

 

  ・3+5=●は、自立レベル
  ・●+●=8は、半自律レベル
  ・●+●=○を、自律レベル

 

 

だと研修で説明しています。

 

キャリアとは何か?働くとは何か?仕事とは何か?―――といった曖昧模糊とした問いに対し、
学術的なキャリア論はある種の回答を与えてくれますが、
どうもハラにストンと落ちてこないところがあります。

 


だから私は、何かの比喩を用いて、
「原理・原則をイメージさせる」ことを重要視しています。
この数式を用いた暗喩(メタファー)もそのひとつです。
ちなみに、この数式の暗喩を発展させて
現在、研修で行なっている「レゴブロック」のゲームプログラムが出来上がりました。
それについては、別の機会に詳しく書こうと思います。

 


小林秀雄『人生の鍛錬』


私は、17年間のサラリーマンキャリアの中で、

7年間、ジャーナリズムの世界に身を置きました。

ビジネスメディア出版社で、ビジネス雑誌の編集・記者をやり、

来る日も来る日も記事の企画、取材、執筆に明け暮れました。


ビジネス雑誌の編集は、ある意味、刺激に溢れ面白い仕事でした。

しかし、経済のバブルが増長中であれば、経済をあおる記事を書き、

バブルがはじければ、誰が悪いんだと犯人探しの評論記事を書く。

しかし、当時の私を含め、現場の人間たちは、

時代の流れを忠実に記事に表現しているだけと、

「ジャーナリズムとは何か?」という本質論についての内省はほとんどありませんでした。


また、自分のいた出版社ではありませんが、

人のゴシップや醜聞を、偏向や悪意で書き立て、

ぎょうぎょうしい見出しで売らんかなとする媒体の数々・・・。


「ペンの正義」にあこがれて

メディア・ジャーナリズムの世界に転職した私でしたが、

どうも現場は、「ペンの横暴」が跋扈している。

そんな業界の性質にネガティブな思いがどんどん大きくなっていた折、

次の小林秀雄の文章に接しました。


・「自分の仕事の具体例を顧みると、

 批評文としてよく書かれているものは、

 皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、

 はっきりと気附く。

 そこから素直に発言してみると、

 批評とは人をほめる特殊に技術だ、と言えそうだ。

 人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、

 批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ」。



真の批評とは、対象物を肯定的に包容する中から生まれる―――

この大海原のごとき精神に、私ははっとしました。

そして、それまで書いてきた自分の記事を振り返りながら、

自分のジャーナリストとしての小ささに、ただただ、身の縮こまる思いでした。


で、私は、そのビジネス出版社を辞める決意、

正確には、ジャーナリストを辞める決意をいたしました。


前置きが長くなりましたが、

小林秀雄は私にとって、キャリアの分岐点をつくってくれた特別な人です。


きょうは、

『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』(新潮社編、新潮新書)

を取り上げます。


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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

小林秀雄(1902-1983)は、

“近代日本の批評の父”ともいうべき批評家・評論家です。

その高邁・明晰な文章は、その後の作家や芸術家、政治家などに大きな影響を与えました。


小林は、生涯、非常に多くの批評・評論を書き残しています。

ですので、どれか1片、どれか1冊をとなると私も紹介ができないのが

正直なところです。

そこで、きょうの1冊―――『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』です。


これは小林の主だった言葉を、時代順に新書サイズに収めたものです。

どれもこれも、小林の透徹した思想を凝縮した珠玉の言霊ですが、

まず、一通り読んでみて、

自分が気に入った言葉が見つかれば、

その元となった著作をしっかり読んでみる。

それがいいと思います。


小林秀雄の著作であれば、地元の公立図書館に行けば、

たいてい全集が揃っているはずです。

私もそうやって、少しずつ、小林秀雄全集を読み進めています。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


私が小林秀雄から教わることは、まず、人の基本動作を再認識して深めることです。

例えば、


・「考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、

 物と親身に交わる事だ。

 物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、

 そういう経験をいう」。


・「表現するとは、

 己を圧(お)し潰(つぶ)して中味を出す事だ、

 己の脳漿(のうしょう)を搾(しぼ)る事だ」。


・「歌は読んで意を知るものではない。歌は味わうものである。

 ある情から言葉が生まれた、

 その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ」。

・「書物が書物には見えず、

 それを書いた人間に見えて来るのには、

 相当な時間と努力とを必要とする。

 人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、

 読書の技術というものも、其処以外にはない」。


日々働く上で、こうした基本動作を

漫然とやるか、深い認識の下にやるかで、

5年後、10年後の差は驚くほどついてくるんだと思います。

小林の言葉はそのことを気づかせてくれます。



小林の批評が、重く鋭い力を持つのは、

おそらく文明視座的な時間軸を持つからだと私は思います。

四半期(4ヶ月)ごとの数字の増減ばかりに視座を奪われる現代社会にあって

正常な意識を覚醒してくれる言葉が数々あります。


・「古代人の耳目は吾々に較べれば恐らく比較にならぬ位

 鋭敏なものであった。

 吾々はただ、古代人の思いも及ばぬ複雑な刺戟を受けて

 神経の分裂と錯雑とを持っているに過ぎない」。


・「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、

 無常という事がわかっていない。

 常なるものを見失ったからである」。

・「未だ来ない日が美しい様に、

 過ぎ去った日も美しく見える。

 こうあって欲しいという未来を理解する事も易しいし、

 歴史家が整理してくれた過去を理解することも易しいが、

 現在というものを理解するは、

 誰にもいつの時代にも大変難しいのである。

 (中略)

 あらゆる現代は過渡期であると言っても過言ではない」。

・「能率的に考える事が、合理的に考える事だと

 思い違いをしているように思われるからだ。

 当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。

 (中略)

 考えれば考えるほどわからなくなるというのも、

 物を合理的に究めようとする人には、

 極めて正常な事である。

 だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう」。



また、小林の根強い人気は、

その懐の深い厳父のまなざしがあるからだと思います。

結局、冒頭の彼自身の言葉が指し示すように、

批評・評論は冷血な言いっぱなしではなく、

根底には愛情や敬い、肯定する心があるからです。


・「勇ましいものはいつでも滑稽だ」。


・「後悔などというお目出度い手段で、

 自分をごまかさぬと決心してみろ」。


・「感傷というものは感情の豊富を言うのではなく

 感情の衰弱をいうのである。

 感情の豊富は野性的であって、感傷的ではない」。


・「悧巧(りこう)に立ちまわろうとしている人を傍でみている位

 冷々(ひやひや)するものはない」。


・「自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、

 最も逆説的な自己陶酔の形式だ」。


・「自信というものは、いわば雪の様に音もなく、

 幾時の間にか積もった様なものでなければ駄目だ。

 そういう自信は、昔から言う様に、お臍(へそ)の辺りに出来る、

 頭には出来ない」。


・「確かなものは

 覚え込んだものにはない。

 強いられたものにある」。


2008年4月24日 (木)

上司と部下は「Big Picture」を見晴らせ!


広大な暗黒の宇宙空間に、

青き水を満々とたくわえ、緑を生やし、白い雲が得も言われぬ模様を編みながら

ぽっかりと浮かぶ惑星「地球」。

残念ながら、この地球上で人間同士の争いが絶えたことはありません。


ですが、例えば、もし、

ナゾの巨大隕石が1年後に地球に衝突確実となったら・・・


たぶん、争いは止み、私たち人類はみな「一地球人」として、

一致結束するだろうと思います(思いたい)。


むかし、何かのコマーシャルで次のようなコピーがあったのを記憶しています。


――――One world under the sun.

(世界はひとつ。みんな同じ太陽の下)


* * * * * * * * * *


◆モザイク的に集められた集団に何が必要か?

会社という組織内には、

いろいろな考え方のいろいろな人がいます。

そして、基本的には、配属は人事部(会社側)による任命ですから、

どんな上司、どんな同僚・先輩・後輩社員と一緒に仕事するかは

ほとんど自分で選択する場面はありません。


どこの会社の、どこの職場も、

おおよそモザイク的にたまたま集められた人間による集団です。


事業を日々進めていくにあたって、

トラブルは起こってくるわ、課題は山積だわ、怠ける人間は出てくるわ、などで

基本的に職場の人間関係は不安定で壊れやすく、

ほおっておいて好転することはまずありません。


特に、上司と部下の関係は、容易に感情論争になりやすく、

冷めたものになりがちです。

また、経営側と従業員側との関係も、容易にミゾができやすく

対立構図になりがちです。


こうした組織内の人間関係を、

相互に安定的かつ和合的なテンションで維持していくにはどうすればよいか―――

これはずっと以前から会社組織における重要なテーマの1つであり続けてきました。


そのテーマに対する解の1つが、皆で「第三点を共有する」ことだと思います。


◆2点より3点が安定する

従業員同士にせよ、上司と部下にせよ、経営側と従業員側にせよ、

不機嫌な二者間で閉じていると、

何かと硬直化して前に進んでいこうとするエネルギーがうまく出てきません。

そんなとき、互いが共同して見つめられる第三点を設定して、

そこに意識を開いていくわけです。


「この方法は、顧客のためになるのか?」

「このサービスは、会員に何を提供するものなのか?」

「この問題を、ユーザーの立場で考えるとどうなるか?」

「この取引システムは、取引先にとってもメリットがあるのか?」

「この考え方は、社会通念に照らし合わせてどうなのか?」


第三点としてお互いが見つめなくてはならないのは、

何よりも顧客です。そして、取引先であり、社会です。


顧客や取引先、社会の前では、

従業員であれ、上司であれ、経営者であれ、立場に関係なく、

皆、パートナーです。


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上司と部下が、また従業員側と経営側が、互いに感情論でにらみ合い、

不機嫌な平行線を描くとき、

結局、こういった第三点に開いた問いを発して、

駒を進めていくしかありません。


◆部下が大人にならねばならないときもある

ま、とはいえ、現実の組織の中には、

大人になってくれない上司や経営層もまたぞろいて、

部下や従業員のほうが大人にならねばならないときも往々にしてあります。


そんな時は、「忍」の一字でこちらが大人になりましょう。

大人げない上司や経営層をみて、それを反面教師とすれば

それもまた1つの学習機会だったということです。

私もサラリーマンを17年やって、

「あんな上司・役員にはならないでおこう」といった反面教師材料を

たくさん持っています。


いずれにしても、

良好な上司/部下関係をベースとして強い組織を形成しているところは、

必ず当事者たちが担当仕事の意味や意義を、

第三点として設定して共有しています。


その様子は次のコピーのように言えるかもしれません。


―――――“One team under the vision.”

(チームはひとつ。みんなそのビジョンの下)

2008年4月19日 (土)

「成功」と「幸福」は別ものである <下>


◆成功は消費される 

成功と幸福は別ものであることについて、3回に分けて書いてきました。


前々回・前回と、「成功」を何かネガティブなものとして

扱ったような感じですが、そうではありません。

働く上で、成功することは当然、目指すべきことです。

最初から失敗でよいなどということでは、何事も成し遂げられません。


しかし、成功は取り扱いにおいて、注意が必要ということです。


1つには、成功は他者との比較相対、

あるいは点数による勝ち負けで決まることが多く、

自分の持つ個性本来の評価の結果ではないこと。

したがって成功は、多分に俗的な手垢の付きやすいものになります。


もう1つには、

1回きりの成功の上にあぐらをかいていると、

次の大きな失敗を呼び込むことがおおいにあること。


ヒルティが『幸福論』に記す下のことは、頭に焼き付けておくべき至言です。


・「人間は成功によって“誘惑”される。

  称賛は内部に潜む傲慢を引き出し、富は我欲を増大させる。

  成功は人間の悪い面を誘い出し、不成功は良い性質を育てる」。

・「絶えず成功するというのは臆病者にとってのみ必要である」。

さらに1つには、成功は一過性のものであり、消費されること

成功は歓喜・高揚感・熱狂を呼びますが、

それは揮発性のもので長続きしない。

幸福が与えてくれる持続的な快活さとは対照的です。


イギリスの作家スウィフトが、

「歓喜は無常にして短く、快活は定着して恒久なり」と言ったのは、

まさにこのことです。



◆成功や失敗は糟粕のごときものである

結局、成功を自分の中でどうとらえればいいのか――――

私は、渋沢栄一の次の言葉が心にピシッときます。


「成功や失敗のごときは、

ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである。

 
現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、

それよりもモット大切な天地間の道理をみていない、

かれらは実質を生命とすることができないで、

糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである、

人はただ人たるの務を完(まっと)うすることを心掛け、

自己の責務を果たし行いて、

もって安んずることに心掛けねばならぬ」。


        ―――――『論語と算盤』より



渋沢栄一は、江戸・明治・大正・昭和を生きた

“日本資本主義の父”と呼ばれる大実業家です。

第一国立銀行はじめ、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、

秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、

サッポロビールなど、渋沢が関わった企業設立は枚挙に暇がありません。


実業以外にも、一橋大学や東京経済大学の設立に加わったり、

東京慈恵会や日本赤十字社などの創設を行なったりと、

その活躍の幅は非常に広い。


彼のそうした仕事の数々からすれば、

「渋沢財閥」を形成するには充分な金儲けができたにもかかわらず、

渋沢はそうしたものにはいっこうに関心がなく、

亡くなるまで、財産めいたものは残さなかったといいます。


だからこそ、上の言葉は、説得力をもってズシンと腹に響いてきます。



◆気がつけば「幸福である」という状態

さて、3回にわたって、

幸せのキャリアとは?仕事の幸福とは何だろう?と考えてきました。


結局、それは渋沢の言う“丹精”込めて励みたいと思える仕事

(=夢や志、大いなる目的)をみずからつくりだすこと

そして、その仕事を理想形に近づけていく絶え間ない過程に身を置くこと

にほかならないと思います。


もしそうした仕事、および過程に没頭し、自分を発揮することができれば、

もうそれこそが幸福であり、一番の報酬なわけです。


成功や失敗というものは、その過程における結果現象であり、通過点に過ぎない。

成功や失敗には、獲得物や損失物を伴うが、

そんなものは、真の仕事の幸福の前では副次的なものに思えてくるでしょう。


幸福は、それ自体を追ってつかめるものではない。

自分が献身できる、自分に意味ある何かを、自分でこしらえて、

そこに没頭する。

・・・そしてある時点で、振り返ってみて、

「あぁ、自分は幸せだったんだな」と気づく――――

それが、幸福の実体に近いものなのでなかろうか、

そう私は考えています。




*なお、こうした論議は

弊著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で詳しく行なっています。

そちらも是非ご覧ください。

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