2008年5月23日 (金)

ソロー『森の生活』ほか


【信州・小淵沢発】

新緑萌え出ずる5月、初夏キャンプで小淵沢に来ています。

仕事キャンプでは企画練りとか原稿執筆の仕事が主になるのですが、

そのために本をどっさり持ってきて、

森の中で読むことが多くなります。


私の場合、もちろん、経営関連やら人事・組織関連やらの本・雑誌を

読むことは多いのですが、山にこもる場合は、

古典書とか、他の分野の名著を読むようにしています。

きょうはその中から、これまでに何度も読み返してきた本を紹介しましょう。

いずれも、山・田舎を創造的な拠点して

いい仕事を成した(成されている)人たちの名著です。

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1●ソロー『森の生活~ウォールデン』(佐渡谷重信訳、講談社)


ヘンリー・D・ソロー(1817-1862)は米国の思想家で、

エマソンやホイットマンらとともに、19世紀半ばに起こった

いわゆる「アメリカ・ルネッサンス」の中心人物の1人です。

この著書は、彼の2年3ヶ月におよぶ森(コンコードのウォールデン湖畔)での

一人暮らしの記録をまとめたものです。

当時、急速に進む科学技術と資本主義経済が

人々の暮らしを劇的に即物的・快楽的な性質に変えつつある中にあって、

人間が獲得する真の安堵や幸福は何か、その答えを求めるために彼は山にこもり、

彼独自の見事な文体で考えを著しています。


ソローは決して

俗世をすてて山にこもったという批評家・厭世家ではありません。

山にこもるからこそ、人間本来が持つ霊感が呼び覚まされ、

急速に変わりゆく都市の文明を

客観的に英知をもって見つめることができるのだと考えた人です。


むしろソローは骨太な啓蒙家、実践家です。

2年間の山生活を終えた後は、街を拠点に積極的に講演活動などをしています。

そして、有名な税の不払いによる拘置事件。

これは後に、ガンジーのインド独立運動や、

キング牧師の市民権運動などに思想的な影響を与えました。


山にこもる生活=のんびりスローライフではまったくないのです。

彼は、山に入って、闘っていたのです。


この本で私の好きな箇所のひとつは、「住んだ場所とその目的」の章にある

“朝”について書き記したところです。


「私が玄関と窓をことごとく開けたまま坐っていると、

東雲(しののめ)きたる頃、目にとめることのできない、

ましてや、その姿すら想像できない一匹の蚊が、

かすかに戦慄(わなな)きながら、私の部屋の中を飛んでいく。

(中略)

それはまさしく、ホメーロスの鎮魂歌(レクイエム)であった。

蚊みずからが己の怒りと放浪をうたいながら、

空を切り、天を駆け巡る<オデュッセイアー>であり、

<イーリアス>それ自身であった」。


・・・・この一節はまだまだ続くのですが、

ソローは、日の出が夜の闇を破り、曙の下に目覚める瞬間こそが

最も崇高な時であることをうたっています。


「工場のベルによってではなく、

天体の音楽の調べと大気を満たす香りにつつまれ、

新たに貯えられてきた活力と精神が心のうちから高められたときに

やがて目覚めてゆく。

前の晩に眠りについた時よりも、

さらに高い生活へと目覚めてゆく。

・・・・

ヴェーダの経典には『すべての知恵は朝に目覚める』とある。

詩歌も芸術も、人間の最も美しく、記念すべき活動は

この朝の刻限に始まる」。


この本のあとがき部分で、翻訳者の佐渡谷氏が紹介しているように

ホイットマンは「ソローはとらえどころのない驚くべき男であるが、

彼は土着の力の一つ、つまり、一つの真実、一つの運動、

一つの激動を代表している。(略)

ソローはエマソンの人格的偉大さややさしさをもっていないが、

一つの力だ」だと評しています。


まさにこの本を読むと、確実に一つの力を感じます。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
AM・リンドバーグ『海からの贈物』(吉田健一訳、新潮文庫)


加速度的に変化する科学文明・都市文明から一歩身を離し、

自然の中の簡素な小屋で豊潤な思索の生活を行なう。

それを山で行なったのはソローですが、一方、島で行なったのは、

このアン・モロー・リンドバーグ(1906-2001)です。


この名を聞いてピンとくる人は少ないでしょうが、

あの大西洋単独横断飛行をしたチャールズ・リンドバーグの夫人です。

彼女自身も女性飛行家の草分けとして活躍し、

その後作家活動や社会活動に人生を捧げた凡ならざる人です。


この本は、彼女が一人、ある離島の浜辺の小屋に2週間滞在し、

リンドバーグ夫人であるということ、母親であること、職業人であることを

離れて、一女性、一人間として思索したことを書き綴っています。


「やどかりが住んでいた貝殻は簡単なものであり、

無駄なものは何もなくて、そして美しい。

大きさは私の親指くらいしかないが、

その構造は細部に至るまで一つの完璧な調和をなしている。

・・・・・

浜辺での生活で第一に覚えることは、

不必要なものを捨てるということである。

どれだけ少ないものでやって行けるかで、

どれだけ多くでではない。

・・・私は貝殻も同様の、屋根と壁だけの家に住んでいる。

・・・私の家は美しいのである。

そこには殆ど何も置いてないが、

その中を風と日光と松の木の匂いが通り抜ける。

屋根の、荒削りのままになっている梁には蜘蛛の巣が張り廻らされていて、

私はそれを見上げて初めて蜘蛛の巣は美しいものだと思う」。


ここからはLean but Rich」(質素だが豊か)ともいうべき

成熟した精神をもつ者の観がみてとれます。

また、この本から得るべきメッセージは、「独りになる」ことの重要さです。


「我々が一人でいる時というのは、

我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。

或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いて来ないものであって、

芸術は創造するために、

文筆家は考えを練るために、

音楽家は作曲するために、

そして聖職者は祈るために一人にならなければならない」。

その他にも、

「女はいつも自分をこぼしている。

子供、男、また社会を養うものとして、女の本能の凡(すべ)てが女に

自分を与えることを強いる。・・・・

与えるのが女の役目であるならば、

同時に、女は満たされることが必要である。

しかし、それにはどうすればよいのか」。―――――と、

また別の大きな問題に思索をめぐらせていきます。


この本は文庫本にして120ページ、文字級数も大きめで

分量はさほどのものではありませんが、内容はとても濃く、

広い世界の思索に読者を誘ってくれます。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』

V・ミヒュエルス編、岡田朝雄訳、草思社)


ヘッセ(1877-1962)は、言わずと知れたドイツの詩人・作家であり、

1946年にノーベル文学賞を受賞しています。


「土と植物を相手にする仕事は、

瞑想するのと同じように、魂を解放させてくれるのです」と、

ヘッセは後半生を自分の庭で過ごし、

庭という自然・小宇宙を通して、人間と人生を見詰めることをしました。


この本は植物や自然、庭に関するヘッセの遺稿や書簡を整理したものです。

ですから、多くの文章は、自分の庭の四季の出来事を書いています。

しかし、そのところどころで力強いメッセージが行間からふつふつと湧いています。


「私は木を尊敬する。

木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。

そのような木は孤独な人間に似ている。

何かの弱味のためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、

ベートーヴェンやニーチェのような

偉大な、孤独な人間に似ている。

その梢には世界がざわめき、

その根は無限の中に安らっている。

しかし、木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、

その命の全力をもってただひとつのことだけを成就しようとしている。

それは独自の法則、

彼らの中に宿っている法則を実現すること、

彼らの本来の姿を完成すること、

自分みずからを表現することだ。

・・・・

木は、私たちよりも長い一生をもっているように、

長い、息の長い、悠々とした考えをもっている。

木は私たちよりも賢い。

私たちが木の語ることに耳を傾けないうちは。

しかし木に傾聴することを学べば、そのときこそ私たちの短小で、

あわただしく、こどもじみて性急な考えが

無類のよろこばしさを獲得する」。


この本は、どのページのどの小片をつまみ読んでも

楽しく深い思索ができる本です。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

加島祥造『LIFE』 PARCO出版)


加島さんは、翻訳家、詩人、墨彩画家、タオイストと多面でご活躍されている方です。

現在は、長野県伊那谷に独居中とのことです。

私は、朝日新聞の紙面で、彼のライフスタイルが紹介された記事を読み、

以降、何冊かの著書を拝見させてもらっています。


私自身、西洋思想よりも東洋思想を軸にものを考えることをしていますので、

タオイズム(老荘思想)もまた馴染みやすいものです。


加島さんのいいなぁと思うところは、

何か目にやさしい明るさや、痛快さがあるところです。

まぁ、老荘思想やら老子道徳経やらというと、

何か抹香臭~い、薄暗~いイメージがあるわけですが、

不思議と加島さんの本からは、それが伝わってこないんですね。


たぶんそれは、加島さんの人柄と、

英米文学の翻訳家として培われた文章技法によるものだと思いますが、

いずれにしても最新著の『求めない』もベストセラー中で、

多くの現代人の心をつかんでいるようです。


「花は 虫のために咲く

虫は喜び 花の願いに報いる

人はたヾ 見ているだけだ」


「ひと粒ひと粒が 幾百年と生きて 巨木になる力を

なかに宿して ただ小さく ころがっている」

「草木の 行き先は大地 水の行き先は海

いずれも 静かな ところだ」


「高い山の 美しさは 深い谷が つくる」


この本はこうした詩を加島さんが筆でしたためたものをまとめてあります。

それらは額装して部屋のあちこちに掛けたいようなものです。

わずかな単語で綴られたそれらの一句一句は

Less is More」(より少ないことは、より多いこと)を感じさせます。


山の中の滔々とした時間に身を浸しながら、

一句一句味わって詠んでいくことで、

身体の芯からエネルギーが湧き起こってくる感じがします。

人生には、こうした漢方のような薬膳本が大事だと思います。



2008年5月22日 (木)

創造拠点としての田舎

【信州・小淵沢発】


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八ヶ岳中央農業実践学校から初夏の八ヶ岳を望む

5月の連休明けから、高原は本格的な緑の季節に入る。

このころになると私は山に行きたくなってしようがない。

山の空気に身を浸して、そのまま身も心も溶かしてしまいたいと思うのです。


去年は軽井沢に滞在して、いくつかの仕事を片付けましたが、

今年は小淵沢と蓼科に拠点を押さえました。

春の沖縄で仕込んだ単行本の企画が進み、

今回はその本文の執筆に勤しみたいと思います。


滞在宿の窓を開けると、新緑薫る爽やかな風と音が遠慮がちに

部屋の中にあふれてくる。

BGMは特に必要ありませんが、私は時々、

PCのハードディスクに落としてあるヨーヨー・マのバッハを流します。

旧ソビエトの指揮者・ロストロポーヴィチは、

「バッハの音楽は、まるで草木をみるようだ」と語りましたが、

まさに今、そのことがよくわかります。


◆「複眼」を持った生活

私も会社勤め時代の最後は、

東京の湾岸エリア・豊洲の高層ビルで働いていました。

オフィスフロアからは遠くにレインボーブリッジを見渡すことができ、

また業界特性から最新のIT情報に囲まれながら、

戦略を練り、交渉ゲームをし、数々のパーティーにも顔を出し、

さも、カッコヨク、ビジネスパーソンをしていました。


しかし、そんな会社人生活をやめ、独立して5年。

今では、そんなカッコイイ仕事場環境ではなくなりました。


自宅オフィスのある東京・調布は、田んぼの中にあり、

ちょうど今時期は、カエルの鳴き声とともに仕事をしていますし、

今回のように山に仕事キャンプに出れば、

山の陽射しや雨、枝葉のざわめきとともに仕事をしています。


しかし、仕事の分野が特段変わったわけではありません。

豊洲にいたころも人財育成分野の仕事ですし、今もその分野の仕事です。

こうして郊外や田舎に仕事場を移してやっているものの

顧客のほとんどは首都圏にいて、営業や研修実施があればそこに出向きます。

仕事の意識も競争の中心地である東京に向いています。

それはそれで、私にとって、緊張感のある気持ちのいいものです。


ただ、それが常態化すると、気持ち悪くなるんでしょうね。

息が詰まってくる。


東京(都会)は、「刺戟と効率のスピード」・「処理と競争」の世界です。

一方、田舎(地方)は、

「退屈と自然のリズム」・「思索と耕作」の世界です。

(退屈とはポジティブな意味で使っています)


今の私は、この2つを適宜組み合わせながら働くことで

カッコヨクはないけれど、

平静で快活な生活を手にすることができています。

(完成型にはまだほど遠いですが)


「東京で仕事を発散し、田舎で仕事を仕込む」――――この2種類の生活が、

私に「複眼」を持たせ、ものが立体的によく観えてくるんだと思います。


東京だけの生活は単眼的で見失うものが多い。

だから、山や島にこもって、仕事の思索と耕作をする機会を持つ。


◆田舎こそ「鍛錬・創造・攻めの場」

一般的に田舎は、都会で疲れた心身の癒しの場、消費レジャーの場、

あるいはリタイヤ後の安住の場としてみられることが多い。

しかし、私にとっての田舎は、

思考鍛錬の場であり、創造の場であり、

現役の仕事をバリバリやる攻めの拠点でもあります。


喧騒とした都会に縛られることなく、

田舎のたおやかさ、おおらかさを取り込む生活。

また、田舎の保守風土に引き込まれることなく、

都会の変化刺戟を受け取る生活。

私のハイブリッド・ライフはまだまだ始まったばかりです。

2008年5月11日 (日)

自立から自律へ、そして自導「セルフ・リーダーシップ」へ <下>

前回から2回にわたって
・職業人の内的成熟過程「自立→自律→自導」
・自導=「セルフ・リーダーシップ」
について触れています。

前回、リーダーシップには、どうやら
・外(他者)に向けたリーダーシップ<outward leadership>と、
・内(自己)に向けたリーダーシップ<inward leadership>の
2つがありそうだと書きました。
そして、後者を特に「自導:セルフ・リーダーシップ」として考察しています。

◆自分を導くもう1人の自分
セルフ・リーダーシップについては、これまで、
一般的なリーダーシップ(outward leadership)ほどに多くが語られてきた
わけではありませんが、
『7つの習慣』で有名なスティーブン・R・コヴィー氏は
その「第二の習慣」<目的を持って始める>の中で、
“自己リーダーシップ(personal leadership)”として打ち出しています。

セルフ・リーダーシップをとらえる上でミソとなるのは、
「何が」己を導くのかということです。
それはおおいなる目的(夢/志、大義なるもの)であり、
抗し難く湧き起こってくる“内なる声”、“心の叫び”であり、
それを覚知したもう一人の自分でもあります。

セルフ・リーダーシップなる言葉を使わずとも、過去から賢人たちは
そのようなことに言及してきました。

例えば、世阿弥は『花鏡』の中で、 「離見の見」 と言っています。

つまり、演者自身の目線は「我見」 、観客の目線は「離見」
舞いを究めるには、我見・離見を越えて第三点から見晴らす「離見の見」
を持たねばならないという考えです。
「離見の見」とは、現実の自分を冷静に見下ろすもう一人の自分をこしらえ、
それが導き役を果たすという発想であり、
まさにセルフ・リーダーシップに通じるものです。

アーティストの世界はこれが顕著です。
パブロ・ピカソの言葉に、
 「着想は単なる出発点にすぎない・・・
 着想を、それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。
 仕事にとりかかるや否や、
 別のものがぼくの画筆の下から浮かびあがるのだ・・・
 描こうとするものを知るには描きはじめねばならない」。

同じく画家、中川一政は自身の著書『腹の虫』でこう書いています。
 「私の中に腹の虫が棲んでいる。
 山椒魚のようなものか海鼠のようなものかわからないが棲んでいる。
 ふだんは私はいるのを忘れている」。

ピカソにしても中川にしても、
描いているのは現実の自分の手と筆であるが、
それを操り、絵の完成に導いているのは、
別の何か、もう一人の自分、あるいは「腹の虫」だというのです。

また、リクルート社の企業メッセージは「Follow Your Heart」。
これもまた、内面から湧き出る心の声に、自分を従わせていきなさいというものです。

いずれにしても、仕事を成す、自分を成すうえで、
セルフ・リーディングの重要性は、各所でさまざまに語られてきました。

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◆自立=船・自律=コンパス・自導=地図
さて、今回触れたセルフ・リーダーシップに関わることを私なりに
まとめてみた図が下です。

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私は、職業人の内的成熟を3フェーズに分けます。

●1:「自立」フェーズ
まず、自らを職業人として「立たせる」段階です。
知識や技能を習得し、一人立ちして業務を処理できるようになる、
そして、自分の稼ぎで生計を立てられるようになるというのがこのフェーズです。
養うのは「才気」。
能力を「持つ」、生活を「保つ」が基本動詞です。
反意語は「依存」です。

●2:「自律」フェーズ
自分なりの律を持って、自分を「方向づけ」できる段階です。
律とは、倫理・道徳観、信条・哲学、美学・型(スタイル)のようなもので、
仕事に独自判断と個性を与えられるようになるのがこのフェーズです。
養うべきは、物事のright or wrongを判別して、選択できる意志です。
「決める」、「動く」が基本動詞。
反意語は「他律」です。

●3:「自導」フェーズ
自らが描いた目的によって、自らを「導く」ことのできる段階です。
目的とは、「目標像+その意味・意義」のことです。
このフェーズの特徴は、
想いとか、夢/志、使命を覚知したもう1人の自分が自分の内にいて、
それが現実の自分を導くということです。
必要なのは、「勇気」であり、「覚悟」です。
基本動詞は、「描く」「(リスクを負って)踏み出す」「拓く」。
反意語は「受導・漂流・停滞」。

なお、私たちはこの3フェーズを時系列的に成長していく場合と、
同時並行的に深め合う場合と両方あると思います。

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◆自導は、自立・自律の再構築を促す
航海のアナロジーを用いるとすれば、
自立は「船」=知識・能力を存分につけて自分を性能のいい船にする
自律は「コンパス」=どんな状況でも、自らの判断を下せる羅針盤を持つ
自導は「(目的地を描いた)地図」=自分はどこに向かうかを腹決めする

おそらく、20代は自立と自律が大事になる期間でしょう。
そして、30代に入ると、自律・自導が大事になります。
さらに、30代後半からは、いかに自導を強めるかで
その後のキャリア・人生が決まってくると思います。

30代前半までは、自立・自律がなされていれば、
つまり自分という船がしっかりできていて、羅針盤も持っていれば
会社組織の与えてくれた地図(=「受導」の状態)に従って、
それなりに仕事人生は回っていく。
しかし、それは結局、他人の都合で描かれた地図の上
行ったり来たりさせられているにすぎない。

だから、その人には、真の活気が湧いてこない。働く発露がない
そうこうしているうちに、嫌な目的地に行かされる場合も出てくるし、
組織の用意する地図自体がうやむやになってくる場合も出てくる。
そして、自立もし、自律もしているビジネスパーソンが、
30代後半から漂流、停滞を始めてしまう。
真面目であればあるほど、うつを病んでしまうことにもなる・・・。

だから、自導が大事なわけです。
ひとたび、自分の中に大いなる目的を持てば、
エネルギーが無尽蔵に湧き上がってくる。

そして、その目的地(当初は目的方向・目的イメージでもよい)に合わせて、
船体はこれで大丈夫か、船体を補強する必要があるぞ、とか、
もっと精度のいいコンパスを持ったほうがいいぞ、とか、
自立や自律を補強する意識も生まれてくる。

このポジティブでアクティブな状態がまさに
目的を覚知したもう一人の自分が、現実の自分をリードする状態なわけです。

◆キャリア形成の要は「空想力」だ
キャリアをたくましく拓くためには、
「己を空想(妄想でもいい)すること」が第一です。
その空想が、現実の自分をいかようにでも引っ張り上げてくれるのです。
その空想を実現しようとするとき初めて、
既得の知識・技能の再構築が起こり、
新規の知識・技能の獲得に向けてもりもりと意欲が湧き起こる。

例えば私自身、この人財教育分野の仕事は新参者です。
私のコアスキルは何かと問われれば、
以前は、商品開発、情報の編集といった分野でした。
しかし、7年前、「教育」をライフワークにしようと腹を括った瞬間から、
すべてが変わりました。
過去に培った知識・技能は、教育の角度で再構築され、
不足している知識・技能を新たにどんどん吸収していきました。
新しい目的の下に、新たな自立と自律の編成が自分の中で起こったのです。

そしていま、日々の仕事をするにあたって、
自分の描いた理想とする教育サービス像、理想とする研修事業者像が
自分を導いてくれているという実感です。

こうした自分の実感もあり、
職業人教育において、もっともっと強化すべきは、
業務処理のための知識伝授や技能修得ではなく、
実は、「想いを描く能力」ではないのかと思う昨今です。

最後に、ウォルト・ディズニーの言葉:

 「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」――――。

夢を描く人は、自己をリードできる。
しかし、夢を描かない人は、自己をリードできない。
自己をリードできないから、どこにもたどり着けない。
それでは人生が“もったいない”と思う。

自立から自律へ、そして自導「セルフ・リーダーシップ」へ <上>


◆「自律的」では不十分である!

私が行なっている人財研修事業のコアサービスは、

『キャリアの自律マインド醸成研修』と名づけているものです。

大小いろいろと手を入れて、かれこれ5年間続けてきました。


日々の“働く”にあたって、

「自立」とはどういうことか、

「自律」とはどういうことか、

そして、それらを越えて「合律的」働き方とは何か、等々を、

理屈の理解ではなく、「行(ぎょう)」として腹に落ちるように

研修プログラムを組んできました。


企業の研修分野において、

従業員を「自律的」働き方のできる人財に育てよう、という流れは

現在、誰も否定する人はいません。


これはこれで、その通りだと思います。

だから、私も働き手の自律心を涵養するサービスを今後も続けていきます。


ただ、ここにきて、それでは不十分であることに

私自身、気づき始めています。


企業の研修の現場に立つと(とくに大企業の場合はそうですが)、

5年目以上の社員の中には、

自律心がある程度確立されていて、自律的にちゃんと働ける人が

少なからず見受けられます。


彼らは、自律的に自らの判断基準で状況を判断し、

自分で行動を起こすことができます。

上司に対しても、組織に対しても意見を言うことができるし、

担当仕事の目標設定や納期、品質もきちんと自己管理ができます。

すでに部下を持って、彼らを動かしたり、

そうでなくとも後輩の面倒をみたりするなど、協働意識もあります。


しかし、そんな自律的な彼らであっても、「何かが足りない」・・・

かけがえなく働く一職業人として、確かに「何かが足りない」、

というか「何か満たされていない」ように思える・・・


◆天安門で戦車の前に立つ青年が示すもの

それが何なのかが、ぴーんと来たのは、

『リーダーシップの旅』(野田智義・金井壽宏著)

の中の一節を読んだときでした。

その箇所を抜き出してみると、


・・・・・・・・・

「皆さんはリーダーと聞いて、どんな人をイメージされますか?」

すると、未だ三十代と思しき白人男性が立ち上がって答えた。

「天安門広場で戦車を止めようとして一人で立ちはだかった、

名も知れぬ若い中国人の男性」。

(中略)

あの(天安門の)青年はきっと特別な人間でも、エリートでもないだろう。

自分が戦車を止めることで実現されること、

その何かを見てみたいと思い、

たった一人で足を踏み出したに違いない。

「他の人が見ない何かを見てみたい」という意志をもつあらゆる人の前に、

リーダーシップへの道が開けていることを、

彼の行動は示しているのではないか。

・・・・・・・・・・


著者の一人である野田さんは、

リーダーシップの原点が、

この天安門で戦車の前に立った一青年の姿にあるという。


青年が命を賭してその行動に出たのは、“内なる叫び”に従ってのことである。

それは、自らの内なる叫びによって、自らを導いたといってもいい。

そして、その勇気ある行動は、他の人びとを感化し、

結果的に、他の人びとを導くこととなる。


つまり、リーダーシップとは、

「リード・ザ・セルフ」を起点とし

「リード・ザ・ピープル」、「リード・ザ・ソサイアティ」と変化していく。

こういう段階的成長のうちに、

自己をリードする人は、結果的に他者をリードする人になる。


□ □ □ □ □ □ □ □ □

◆足らないのは“内なる声”によって「自らを導く」力

私が、研修の現場で、自律的に振る舞える人たちに

「何かが足りない」と感じていたのは、

つまるところ「セルフ・リーダーシップ」なのだと強く思いました。


「セルフ・リーダーシップ」とは、

他者を導くリーダーシップではなく、

自分自身を導くリーダーシップのことを言います。


セルフ・リーダーシップをここでは、「自導」という言葉で書き表しましょう。

さて、「自律的」であることと、「自導的」であることは、

多少重なりはあるものの別ものであるように思います。


自律的に働く人は、自分の律(規範やルールあるいはスタイル)を持って、

業務上、さまざまに出くわす出来事に対し、

自分なりに判断し、自分なりに行動をする人です。


一方、自導的に働く人は、

自らの“内なる声”を聞き取ることができ、

働く目的(目標像+その意味・意義)を描き抱いています。

そして、その目的によって、自らを導くように、

働き、キャリアを形成していく人です。


だから、自律的ではあるが、自導的でない人は存在します

つまり、日ごろ大小の業務は巧みにやりこなせるけれども、

中長期の自分をどこへ導いていっていいか分からない人は多い。

また、経営側(他者)から出される理念や方針に対しては

いろいろと批評や意見を加えられても、

自分自身の夢や志なるものをふくよかに語ることのできない人は多い。


譬えて言うなら、

自分という船をしっかり造って(=自立)

羅針盤もきちんと持っているが(=自律)

さて、どこに自分自身を導いていっていいのかが分からない、見えない。

つまり、目的地を描いた地図を持っていないのです(=自導でない)



◆職業人としての内的成熟過程「自立→自律→自導」

私は、職業人としての内的成熟過程を

「自立から自律へ」と2段階で考えていました。

(自律から斜め方向へ「合律」という半ステップも設定しましたが)

しかし、自律のその先に「自導」というもう1段階を加えた方がよさそうです。


なぜなら、十分、自律的な人であっても、

・中長期のキャリアという海原の中で漂流してしまうことがある

・働くことに真の活気がない。身体の奥底から湧き出でる輝きがない

・“うつ”になることだってある

からです。


ですからこのビジネス社会、事業組織にあって、育成すべきは、

自らを立たせ、自らを律することのできる人財であり、かつ、

自らを導くことのできる人財であると確信しています。


□ □ □ □ □ □ □ □ □

さて補足的に、私なりに整理した図を掲示しておきます。


Pict1

次回は「自立→自律→自導」、「セルフ・リーダーシップ」について

さらに考察を深めたいと思います。



2008年5月 8日 (木)

サラリーマンは“ニブリーマン”になるなかれ!


R薫風心地よい5月のGW最終日、

私はぶらり自転車で近所の味の素スタジアムに行き、

当日券を買ってJリーグの試合観戦をしました。

(FC東京vs名古屋グランパスエイト戦:結果は0-1)


私はサッカー観戦をちょこちょこやりますが、

いつも気になるのが、リザーブ(控え)の選手たちが、

華やかな緑のピッチの脇で、試合中、幾度もダッシュを繰り返しながら

身体を温めて準備している様子です。


彼らに出場機会があるかどうかはまったくわからない。

むしろないことのほうが多い。

出られたとしても、後半残り10分くらいのときかもしれない。

場合によっては、チームがリードしている情勢で、

少しの時間稼ぎのための交代だってある。


しかし、そんなわずかな出場でも、チャンスはチャンス。

リザーブの選手にとっては、死活問題です。


◆サッカーの思い出:補欠選手のはがゆさ

私も小学生のころ、サッカー少年でした。

練習は真面目でしたが、万年補欠で、

ついぞレギュラーのポジションは得られずじまいでした。


いつも出場は、後半30分あたりから。

その交代とて戦略的なものでなく、監督のおはからいによって、

「村山は練習真面目だしな、ちょっと行ってこい」みたいな、そんな感じでした。


モチベーションという言葉は、子供のころは知りませんでしたが、

補欠選手として「やる気」を自分の中に維持するのは

ほんとうに苦しかったという記憶だけ残っています。


「きょうも人情交代だろうなぁ」と思うと、朝起きるのがおっくうになる。

母親が弁当を豪勢に作ってくれればくれるほど申し訳ない気がする。

試合を補欠席でみていて、レギュラー選手の巧さに「やっぱすごいなー」

と劣等感を覚えるのと同時に、

レギュラー選手がヘマをすると「俺なら、ああするのに、コンチクショー」

とアタマに血が上る。

試合後の昼食時、レギュラー選手たちは試合の内容をあれこれ談議して

盛り上がる。その横で、補欠組は、黙々と弁当を食う・・・


だから、私は、ピッチの脇で黙々と身体を温め、

「俺を出せ。俺を使え」と無言のアピールをしている選手たちの気持ちが

少なからずわかります。

しかも、彼らには生活がかかっている。


◆目の前の仕事は「チャンス」に溢れている

さて、話を「働くこと」に移しましょう。


平成のビジネスパーソンたちは、「働くこと」のチャンスに

どれだけの感謝と、それを面白がる心持ちでいるでしょうか?


過酷なプロスポーツ選手ほどではありませんが、

ビジネス現場での1つ1つの業務や仕事、プロジェクトは

ある意味、勝負事であり、

ストレスやプレッシャーと戦いながら、

より高いパフォーマンスや結果を出していかねばならない有給の任務です。


仕事は、実にさまざまなチャンス(機会)を私たちに与えてくれます。

つまり仕事は、

・自分の可能性を開いてくれる成長機会であり、

・さまざまな人と出会える触発機会であり、

・何か事を成し遂げることによって味わう感動機会であり、

・学校では教われないことを身につける学習機会であり、

・ひょっとしたら自分も有名になれる名声機会であり、

・あわよくば一攫千金を手にすることもある財成機会でもある。

◆「チャンス」への感覚が鈍くなるサラリーマン

私は17年間のサラリーマン生活をやめて、5年前に独立しました。

独立後、劇的に意識が変わるのが「お金」と「チャンス」への向き合い方です。


会社で宮仕えをしている身であれば、給料は安定的に支払われますし、

仕事は何かしら自動的に振られてきます。

したがって、サラリーマンにどっぷり浸かっていると、

どうしてもカネとチャンスに対して意識が鈍化しがちになります。


その点、自営業で、独り世の中に対峙すると、

いやがうえにもカネとチャンスに対して意識が先鋭化してきます。


よいチャンスの獲得は必然的にカネを呼んできますから、

特にチャンスは決定的に重要だと認識するようになります。


サッカーの話を再度すれば、

日本代表としてピッチに立てるのは11人だけです。

欧州リーグでプレーする実力選手ですら代表に選ばれない場合もありますし、

代表に選ばれたとしても試合に出られない場合も多々あります。


残り数分で交代という出場でもかなり幸運と思わなくてはなりません。

実力があっても、仕事ができない、仕事舞台にすら立てないというのが

厳しいプロスポーツの世界です。


ですから、チャンスを得たことに自然と感謝の念が湧き、

過酷なプレッシャー下でも「楽しんでやろう」とするのが、

真のプロフェッショナリズムの心情だと思います。


深い次元の仕事の「楽しみ」「喜び」とは、

感謝や自負心、使命感から生まれます。


◆小さな仕事はない。仕事を小さくしている人間がいるだけ

さて、会社員のみなさんの目の前には日々、大小さまざまに

会社側から仕事が振られてきます。

些細な雑務、ヤボ用、単純作業、外回り、いやな上司からの無理難題・・・

どれだけその仕事がつまらなくても、会社員は幸せな類です。


なぜなら、

すくなくとも、ピッチの上に立って、それが行なえるという状況なのですから。

ある意味、労せずして、レギュラーポジションを確保している身です。


小さな役はない。

小さな役者がいるだけだ。


とは、演劇の世界の言葉ですが、

そのつまらない仕事を活かすも殺すも、結局は自分次第です。


与えられた仕事に対し、

それをチャンスだと認識しなおし、

どれだけ深い次元で「楽しむ」ことができるか――――


仕事を深く「楽しむ」ことができれば、おのずと

・いい成長

・いい出会い

・いい感動

・いい学び

・いい評判

・いい収入

「ごほうび」として待ち受けていることでしょう。


同じ会社員でも、チャンスに鈍い「ニブリーマン」となるか、

それともチャンスに感謝してそれを深く楽しむことができる

「ビジネス・プロフェッショナル」となるか・・・

すべては自分の心持ちひとつ。



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