2014年5月27日 (火)

あらためて「夢・志」を考える



【考える材料1】
夢を語ることが野暮になった?



夢や志はいまや死語、というか人をシラけさせる禁句になりつつあるのだろうか。私は企業内研修を生業とし、普段、さまざまに会社員、公務員たちと接してい る。研修の場で「みなさんの夢は何ですか?」などときいてみるのは野暮なことのように感じる。ほとんどの人は苦笑いをして「いまさら、なんでそんな質問 を?(それより、目の前にやらなきゃいけない仕事が山積している。きょうは、それをいかに効率的に処理するかのスキルを覚えさせてくれる研修じゃなかった の?)」といった反応だ。

だが、そこをあえてゴリ押しできいてみる───「あなたの夢は何ですか」と。「マイホーム」という返答は依然多 い。「田舎暮らし」とか「海外移住でのんびり」なども続く。そうした庶民派の夢に対し、「ITベンチャーを起業して一攫千金当てたい」といった野心派の夢 が少数出てくる。また、「発展途上国で学校をつくる」といった正統派の志もまれに遭遇する。いずれにせよ、社会人となって仕事を5年や10年、20年とや りだすと、夢や志を語る口は次第に閉ざされがちになる。

夢を語り合う場というのは、本来的には希望に満ちて明るい雰囲気になるはずだが、 どうもそうではない。大人にとって夢を口に出すことは気後れすることである。「あなたの夢は何ですか?」ときかれて、「特にありません」と言うのも体裁が 悪い。無難に「マイホーム」と答えてみれば、あぁ、自分は小市民的とか即物的とか思われてしまったかなと胸中にざわざわと残物が引っかかる。大言壮語を吐 けば、偽善的に聞こえたりしないか、理想主義者の戯言に聞こえたりしないかと、これまた気にかかる。ともかく、夢は敬遠したいテーマなのだ。

ちなみに、企業内研修をやっていて、特に20代に対して感じることだが、多くの彼らは夢や志を描くことからは遠い。が、「成長したい」という欲求は強い。正確には、「成長しないことへの焦り」を強迫的に感じている。ルーチン仕事の繰り返しで、新しいスキルや経験知が積み上がっていかないことに恐怖感があるのだ。逆に言えば、断片的にでも何か知識・技能が身につくことが普段の職場で起こっていれば、彼らはとても安心する。


「あなたの夢は何ですか?」という問いに無垢に反応できるのはいつくらいまでだろう。小学校低学年のころなら、「プロサッカー選手になってW杯に出る!」「宇 宙飛行士になりたい!」と素直に言えた。それがいつしか、中学生にもなると現実の社会と現実の自分がわかってきて、子どものころの純粋な無知さ加減を気恥 ずかしく思う。それ以降、他人の前では夢などということを口にしなくなる(もちろん、私を含め一般の多くの人間はということで、幼少のころから夢を抱き、 成就させる人間はいる)。

実は有能で意欲の高い人間が、「夢」という言葉を毛嫌いしている場合がある。「夢=現実味のない絵空事」「ドリーマー=現実可能性の低い願望に漂っているだけの人」というイメージを持っているからだろう。以前、研修で次のように言う受講者がいた───「僕は夢を語れと言われるのが嫌いです。夢追い人と思われたくないので。でも、目標は持っています。実行したい目標なら言えます」。

夢・志という言葉のとらえ方は人によって異なり、意味的な広がりがある。それを図にしてみた。

153a



図のタテ軸は「想いの強弱度」を表わしている。心理レベルでみれば、夢は「願望」という漠然とした状態から「決意」「覚悟」という段階に強くなっていく。行 動レベルとしては、最初は無垢な「熱中」から始まり(この段階では実現化に対する深慮はない)、次いで、現実化を考えた「模索」状態に入る。ある段階から 本格的な成就活動へと進み、最後は戦いとなる。当然、自分にかかるリスク負荷も「小さい」から「大きい」へと変化していく。

図のヨコ軸 は、夢を抱く意識が「閉じている」か「開いている」かである。夢には利己的なものと利他的なものと2つの性質がある。前者は「自分は何になりたい/何を手 に入れたい」という意識になるし、後者であれば「世の中や他者のために、自分をどう使っていきたいか」という意識になる。

図にはいろいろな夢の具体例を配置した。



夢にはこのようにレベル差や意識差があるが、いろいろあってかまわないと思う。ただ、そんな中で、「本物の夢」というべきものはあるのではないか。夢を「本物の夢」にするのは、

―――「ルビコン川を渡る」かどうかだ。

「ルビコン川を渡る」とは、不退転の覚悟で挑戦することを言う。ルビコン川とは、ユリウス・カエサルが、政敵ポンペイウスの手に落ちたローマを奪還するため に、自らの兵を率い、「賽(さい)は投げられた」と叫んで渡った川である。当時、兵軍を伴ってルビコン川を渡ることは国法で禁じられていた(つまり、カエ サルは川を渡った瞬間に罪人となるのだ)。

内に抱く想いが「ルビコン川を渡る」ほどの不退転の挑戦意志となったとき、それが「本物の夢」となる。それは次の古典的表現に通じる。

  事を成すための真の勇気は
  (前進のために)橋をつくることではなく
  (後戻りできないように)橋を壊すことである。

ちなみに私は、「本物の夢とは、不退転の明るい覚悟」だと思っている。



下の図は、夢・志なるものをカテゴリー的に表わしたものである。

153b



「夢」 という言葉にネガティブなニュアンスがあるのは、おそらく、夢をある種の言い訳にして、ずるずると人生を過ごしてしまう人がいたり、想いが気分的に浮き沈 みし、腰が引けた状態で願望をあれこれ言うだけの人がいたりして、そんな人たちを批評する気持ちから生まれているのかもしれない。


だが、 夢は強弱幅広い含みをもっていてもよいもので、夢のすべてにおいて「ルビコン川」を渡るべきということでもないだろう。ルビコン川の手前で(つまり覚悟を 決めない、リスクの小さい範囲で)、ささやかに抱く夢もけっして悪いものではないと思う。「手の届きそうなあこがれ」や「モラトリアム的夢想」は、世知辛 い日々に、やはり希望や張りや目標を与えるものであるからだ。また「できるところからの良心」的な夢は、利他的な活動をライフワークにすることでもあり、 尊い志であると思う。

とはいうものの私は、人生に一度はルビコン川を渡る挑戦を強く勧めたい。私自身、独立起業というルビコン川を渡ってほんとうによかったと思っている(いまだ奮闘は絶えないが)。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【考える材料2】

等身大の生活で十分に幸福だから、壮大な夢や志は必要ない


私は研修の中でも、「働くとは何か」といったテーマを扱う内容をやっている。そうした内省的な研修をやっていると、受講者の中から「働くことにそんなに夢や志が必要なのですか。働く意味や価値といった高尚なことを考えなくてはいけないのですか。それより、わたしは真面目に働いて家族を養 い、家庭生活を大切にしています。日常の身の丈の喜びがあるので、あえて仕事で夢を追ったり、仕事好きにならなくてもよいと考えています」といった声が出る。

こうした問いに対し、私は次の2つの観点で自分の考えを伝えている。

1つめに、
「夢を持っていない生き方が正しいか/正しくないか」は他人にきく問題ではない。むしろ自分自身にこう問うてみたらどうか───「夢を持っていない生き方を(自分が)美しいと思うか/美しくないと思うか」と。夢や志を抱くかどうかは、あくまで自分自身の生きる美意識の問題なのだ。

2つめに、
働き方・生き方は、人それぞれのサイズがあってよい。グローバルな舞台で大きなプロジェクトに関わっていくことを選んでもよいし、一地方にしっかりと根を張 り、自分の目と手の届く範囲できっちり仕事をまっとうしていくことを選んでもよい。「身の丈」というサイズの生き方は、実は、私自身も選んだ道である。起 業を決意したときに、けっして規模を追う事業はしない。外的な拡大より内的な進化・深化を追求したい。そのために等身大のビジネスでよいと腹を据えた。そ れはいまも変わっていない。

私たち自身が問うべきは、働く舞台のサイズではなく、働く意識が「利己に閉じているか/利他に開いているか」だ。

私は研修の中で『自分は何によって憶えられたいか』というワークをやっている。これは次のピーター・ドラッカーの書いた一節からヒントを得たものだ。───「私 が13歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、『何によって憶えられたいかね』と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながら こういった。『今答えられるとは思わない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ』」。 

ワークシートは次のようになっている。

  Q:
  私は50歳になったとき、
  「〇〇〇」によって/「〇〇〇」として、
  (周囲に・家族に・社会に)憶えられたい。



つまり、キャリアの集大成ステージに入る50代を想像して、そのときまでに自分の存在意義をどう打ち立てていたいかという長期視点でのおおいなる目的を考えるものだ。「〇〇〇」の中に自分の言葉を入れるわけだが、多くの人は手こずる。

そんな中、出てくる答えのひとつで私が耳を留めるのが───「私は“よきお父さん”として憶えられたい」だ。こういう答えは実はちらちらと発生する。

身の丈サイズの平安な生活は誰しも求めていいものである。だが、そのときに、意識が利己に閉じているか、利他に開いているかは、おおいに自問してほしい観点である。

たとえばとても子煩悩なお父さんAがいるとしよう。父Aはともかく家族と過ごす時間を少しでも多く取りたいと思っている。仕事の負荷がつらくなってくると、 「ワークライフバランスが大事」というひと言で、仕事を中途半端に仕上げて済ませる。その姿勢はチームにもあまりいい影響を与えていない。その中途半端な 仕事の尻ぬぐいも誰かがやっている(が、父Aはそのことを必ずしも気に留めていない)。ただ、家に帰れば、妻子にとって父Aは「すばらしいパパ」である。 父Aはこの幸せな私生活を維持するために、できるだけ仕事の負担はなくしたいと考えている。

他方、たとえば中学校で教諭をやっているお父 さんBがいたとしよう。父Bは勤務する学校の改革リーダーとして忙しい。担当の授業以外に、改革推進のための会議運営、PTAとの連絡、教育委員会や役所 との協議・折衝などに飛び回る。あるとき父Bは、電話口で目を真っ赤にして怒鳴っていた。組織の不条理な力と戦っている姿だった。土日は監督をしている部 活動の練習や試合にどっぷり付き合う。練習中にケガをした生徒が出れば、タクシーで運んだり、連日見舞いに行ったりした。また、地元のボランティア活動に も参加している。そんな忙しさの中でも、父Bは極力、自分の子どもたちと会話を楽しみ、ボランティア活動にも連れ出そうとした。子どもたちはもちろん父が 家にいないことをさみしく思ったし、もっと自分たちと遊んでほしいと思った。しかし、子どもたちは大きくなるにつれ、父の背中から何かを感じるようになっ ていた。

「家庭的なよき父」とはどんなものだろう。べったり家族サービスする父がそれなんだろうか。子どもというものは、しっかりと父をみているもので、確かに幼いころは物理的な接触時間の量が大切かもしれない。しかし、子どもはやがて、父親を一個の職業人、市民、人間としてみるようになる。目の前の男ははたして「社会的なよき父」なのだろうかという目線を持つのだ。そのとき、あなたは子どもに対し、どんな父の姿を見せるのが“美しい”と思うか。これもまた自分の生きる美意識に照らして、自身で評価すべき問題である。

153c


「子煩悩でよきパパになりたい」という思いをけっして否定するものではない。指摘したいのは、ひょっとするとその思いは、仕事という労役はできるだけ避けたい。自分が楽しめる時間がもっとほしい。利己の殻に閉じこもっていたい。そしてその解消先がたまたま子どもに向いているだけではないのか、ということだ。 お受験に熱心な母親についてもそれはいえる。自分の利己的な優越感・ブランド所有欲を子どもの高学歴獲得に差し替えてはいないか、ということだ。そうした 利己に閉じた意識の場合、欲求のはけ先をなくすと、自己は虚無に陥る。

等身大生活が悪いわけではない。利己が必ずしも悪いわけではない。ただ、それが掛け合わさって閉じた意識になるとき、なにやらよからぬことは起きてこないのか。そういった個人が集まってできる組織や社会はどうなのか。その観点で歴史を振り返りたい。

「自分は等身大の平和な生活で十分だ。けれどもこの身を使って何か世の役に立つことをしたい」といった他者や社会に向かって開いた意識の人は、壮大ではないかもしれないが、必然的に胸の内で夢や志が生まれ、その成就のための行動をすでにしている。強く穏やかな平和社会というのは、実は、そういった個人が多く集 まった環境をいうのではないか。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【考える材料3】
意味を探し当てたとき人間は幸福になる


「人間とは意味を求める存在である」―――こう言ったのは、第二次世界大戦下、ナチスによって強制収容所に送られ、そこを奇跡的に生き延びたウィーンの精神科医ヴィクトール・フランクルである。

フランクルが凄惨極まる収容所を生き延びた様子は、著名な作品『夜と霧』で詳細に述べられているが、彼自身、なぜ生還できたかといえば、生きなければならないという強い意味を持ち続けていたからだ。

彼は収容所に強制連行されたとき、間近に本として発表する予定だった研究論文の草稿を隠し持っていた。しかし、収容所でそれを没収され、燃やされてしまう。 そのとき彼には、なんとしてでもここを生き延びて、その原稿を再度書き起こし、世に残したいという一念が湧き起こった。

彼は戦後の著書『意味への意志』の中で次のように書く。

「(人間は)どうすることもできない絶望的な状況においてもなお意味を見るのであります」。

「未来において充たすべき意味へと方向づけられていた捕虜こそ、最も容易に生き延びることができたのです」。

「意味を探し求める人間が、意味の鉱脈を掘り当てるならば、そのとき人間は幸福になる。しかし彼は同時に、その一方で、苦悩に耐える力を持った者になる」。



夢や志――それは生きるうえでの強烈な意味と言い換えてもいいが――は、もちろん幸福という明るい未来に向かって躍動する力を与えてくれる。と、同時に、フ ランクルの指摘でも明らかなように、暗黒の苦悩の中においても、そこを耐え忍ぶ力を与えてくれるものでもある。その意味で、夢や志は私たちを二重に強くす る。



2014年5月11日 (日)

「ガマン・プッシュの力」と「ドリーム・プルの力」


◆人はつねに坂に立つ
フランスの哲学者、アンリ・ベルグソンは『創造的進化』のなかで次のように書いた。

「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。


私はこの言葉に接して以来、人は常に坂に立っており、その傾斜を上ることがすなわち「生きること・働くこと」だと考えるようになった。

たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけである。なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、高い緊張状 態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからだ。しかし生命は、そのエントロピーの傾斜に逆らうように、みずからを生成し、みずからが 見出した意味や価値に向かって創造する努力を発する。(物質にも自己組織化作用があり、形成を行うという論議はここではとりあえず考えない。本稿の以降の 議論にもつながってくるが、この「坂を上る」というのは、「物質的な形成」ということ以上に、「意味や価値に向かっての成就」を含ませている)

その「人はつねに坂に立つ」ことを図にしたのがこれである。

135a


◆坂を上っていくための2つの力
さて、職業人としての私たちは何かしらの職業をもち、日々、仕事をやっている。もちろん仕事をやるというのは創造的な作業であり、坂を上っていく努力である。そこでもう1つ、図を示そう。

135b


あなたが行う仕事の難度は図でいう三角形の傾斜角度である。難しい仕事であればあるほど角度は大きくなり、傾斜途中に立っている自分にかかる下向きの力は大きくなる。この下向きの力とは、その仕事の達成のために起きてくる障害やリスク、プレッシャーやストレスである。

こうした下向きの力、いわば「負の力」に対抗するために、私たちは「正の力」を出して踏ん張り、創造的態度をとろうとする。正の力には、「プッシュ型」と「プル型」と2つの種類がある。

1つは、その仕事をやらなくてはならないという義務感、責任感から生まれる力である。これは傾斜から落ちないように我慢や辛抱をし、自分で自分を押す力となる。これを「ガマン・プッシュの力」と名付けよう。

もう1つは、自分が描き出したイメージを成就させようとする力で、内面からふつふつと湧き起こるものだ。これはいわば夢や志といった目的イメージが自分を引っ張り上げてくれる力で、ここでは「ドリーム・プルの力」と名付ける。


◆「プルの力」を湧かせ坂を上る──そのときすでに幸福を得ている
もし、あなたに夢や志などの目的イメージがなければ、長いキャリア人生を送っていくのは消耗戦を覚悟しなくてはならない。なぜなら、「ガマン・プッシュの 力」のみで坂道を上がって行かなくてはならないからだ。自分にかかる負の力は、年次が上がるにつれ、職責が重くなったり、扶養家族が増えたりして、大きく なっていく。しかしその一方、自分の体力や知力は、あるときをピークに衰えていく。夢や希望の力は湧いてこない。傾斜から転げ落ちないよう、いつまで耐えられるか、不安はつきない。悪くすれば、「プッシュの力」を絞り尽くしたとき、メンタルを病むことも起こりえる。無情なことに、義務感や責任感が強い真面 目な人ほど、いったんメンタルを壊すと治癒に時間がかかる。

ところが、自分のなかで生き生きとした目的、成就したい理想のイメージを抱く ことができれば、そこから情熱というもう1つの力、すなわち「ドリーム・プルの力」を得ることができる。プルの力は、内面から発露として湧いてくるエネル ギーであり、無尽蔵である。年齢にも関係がない。

成果主義が厳しいとか、数値目標の達成プレッシャーがきついとか、昨今の職場は確かに人 を疲れさせる仕組みで覆われている。しかし、そんななかにあっても仕事を楽しんでいる人はたくさんいる。彼らは異口同音に、「やりがいがあったから」と か、「自分の決めた道だから」という内容の言葉を発する。これは「プルの力」を自然と湧き起こし、目的イメージからぐっと引っ張られたという状態だ。 「プッシュの力」は傾斜から落ちないように「自分を留める」のがせいぜいの役割だが、「プルの力」は、傾斜をぐいぐい上っていくのみならず、「自分らしく ある」「自分を拓く」ための燃料になる。

哲学者のアランは『幸福論』のなかで、

「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」


と書いた。アランは一貫して、幸福というものは、“幸福である”という静的に漫然とした状態では存在せず、意欲し、創造し、誓うことによってのみ起こり、存 続しうるものであると訴える(私はアランの考えを「行動主義的幸福観」と呼びたい)。この一文も、「笑う」という意欲と動作を起こすことが、幸福そのもの なのだという論である。

だから、「働くことの幸福」を得るには、“坂の上にある太陽”を見つけることだと私は言いたい。それを描き持つことができれば、すでに自分のなかには「プルの力」が生まれ、すでに坂を上りはじめている。その状態こそがまさに「働くことの幸福」を得ている自分なのだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

=人事・人財育成観点からの補足議論=

【補足1】
「目的」を遂げるための手段・過程として「目標」がある

目的も目標も志向する先を表わす言葉だが、語意に違いがある。目標とは単に「目指すべき状態(定量的・定性的に表される)・目指すべきしるし(具体物・具体像)」をいう。そして、そこに「意味(~のためにそれをする)」が付加されて目的となる。それを簡単に表せば次のようになる。

目的=目標+意味

プロ野球選手でいえば、「今年は打率3割を目指します」、「10勝以上をあげたい」、「伝説の〇〇さんのような選手になりたい」───これが目標である。目的というのは、その目標をクリアすることによって、「野球とともにある人生を送るため」「自己の能力を証明するため」「観ている人に感動を与えるため」と いったことになるだろう。

そうとらえると、目的のもとに目標があるという関係がみえてくる。すると目標は目的に向かう手段・過程であることもみえてくる。

たとえば、国内の大会で優勝した体操選手がヒーローインタビューで「いえ、これは一つの通過点ですから」と答えた。彼にとっては、国内で1位になることは単 に目標Aであって、その次に世界選手権で1位になる目標Bがある。さらにはオリンピックで金メダルを取るという目標Cまで胸のなかにある。そして、目標A もBもCも、すべては「強く美しい演技を通して自分もハッピーになりたい、人もハッピーにさせたい。それが競技者としての自分の存在意義である」という人 生のおおいなる目的につながっている。それを図化すると次のようになる。


135c_2



【補足2】
「目標による管理制度」はうまく機能しているか

目的は意味を含んだものである。目的は実現したい価値と置き換えてもいいだろう。人は、自分の行動に目的を持ち、意味や価値を体現する理想像を思い描くこと ができれば、すすんで目標を立て、成果を出したがる状態に変わるものだ。本文で述べた坂の例で言えば、それがたとえ厳しい傾斜であっても、登山家やロック クライマーのようにむしろそれを楽しんで上ろうとする。

したがって、個が真に自律的・主体的に働くために必要なものは目的である。目標が不要ということではない。目標は目的のもとに設定されこそ有効にはたらく。

昨今の職場では「目標による管理制度」が広がっている。しかし、ノルマ的な数値目標を課し、報酬制度と連動させることばかりに目がいっていて、目的の創造は おざなりになっているのがほとんどではないか。目標にだけ向かわせる働かせ方には、すでに限界がみえている。職場では「目標疲れ」さえ起きている。成果主 義の悪い側面だけが噴出している。

個々の能力開発目標にしても、単に業務処理の要請からくるスキルを部品的に1つ1つ習得させていく機械論(人材はスキルを寄せ集めてできる機械であるととらえる)的なやり方が一般的である。ここでも目的は不在である。実現したい意味・価値のために、全人的に仕事に没入するとき、人は強く豊かに統合的な成長を遂げる。

目的の創出は意味・価値を問う作業になる。この意味や価値を考え、描くことが、個人においても組織においても、大きなチャレンジになる。

個人において働く目的を考えるとは、「5年後の自分はどうなっていたいか」などの質問に代表されるような矮小なものではない。研修でこのような問いを盛り込 むことが多いようだが、無難に“置きにいく”答えしか出てこない。「職能3等級をクリアしてプロジェクトマネジャーについていたい」「〇〇の分野でトップ 10の成果を出せる研究者になっていたい」などの回答が悪いわけではないが、いっこうに思いが意味や価値の次元にもぐっていないし、結局のところ、組織の なかの一サラリーパーソンとしてどう振る舞うかの枠におさまっている。

私はみずから行う研修のなかでは、個々が一職業人・一人間として何の価値に献身できるのか、何の意味に魂を生き生きとさせることができるのかを内省・対話させる。価値観は多様であり、プログラムの進行には難しさもあるが、こういう正解のない哲学的な問いに真正面から取り組んでいく場こそマインドを醸成する研修にふさわしいと思っている。

また、会社が組織としてどんな目的を掲げるかも大きな問題である。昨今の職場には、「数値目標は溢れるが、目的がない」。会社の目的として、社是・社訓、企 業理念やコーポレート・バリューのようなものがある。ただ、社是社訓は古色蒼然とした単なるお題目になっているところもあるし、理念やバリューはあくまで 行動規範を示すに留まり、働く者に生き生きとした志向性・未来像を想い描かせるものにはなってはいない。

経営者のなかには、「業界シェア No.1をとる」「売上げ●●億円企業になる」といった旗を揚げるところもある。こうした数値的な到達点は本稿で繰り返し述べているように目標であって、 目的ではない。なぜシェアや売上額をそこまで伸ばすのか、そのことが社会や働く個人にどんな意味や価値をもってつながっているのか、それを肉声で語らない かぎり目的にはならない。それが経営者の覇権欲・野心を満たすためであれば、従業員は部品化してしまう。部品化し目的を持たない従業員は、与えられた業務目標をこなし、それに見合った金銭的報酬をもらえばいいと考えるだけの殺伐とした意識になる。そうした会社では、ヒトの定着が悪く、取っ替え引っ替え労働力を集めてこなくてはならない。

組織が目的を考えるとは、会社や事業の「存在意義」を経営者、管理職、従業員がともに考え創出することだ。「この世にあってもいい事業なのか、なくてもいい 事業なのか」、「なくてはならない会社なのか、ないほうがいい会社なのか」───こういった観点の対話がいったいどれくらいの組織で行われているか。

私はそういった意味で、組織のなかに「CPO」(チーフ・パーパス・オフィサー)なる最高責任者がいてもよいのではと思っている。ここの「P」は「purpose(目的・意義)」のほか、「philosophy(哲学)」の頭文字でもある。CPOの役割は、その組織にとって、そこで働く社員にとって、「この事業を世に行う意味は何か」「会社の存在意義は何か」「実現したい理念は何か」「働きがいとは何か」「経営と働く個人が共有できるビジョンはどんなものか」などについての論議や対話を起こすことだ。つまり「坂の上の太陽は何か」を問い、つくり出していく先導者である。

 

理想的には、経営者、管理職、従業員の一人一人が「P」を考え、「会社組織のP」と「各人のP」を重ね合わせていく作業ができることである。しかし実際のところ、経営者は会社という組織を存続させるための利益追求に忙しい。中間管理職においては、一職業人としての働く目的を(「生計を立てるため」という以外)明快に語れる人は少数派であり、彼らもまた「ガマン・プッシュの力」で坂道を耐えているという状況にある。ましていわんや、一般社員の多くは日々の雑多な仕事をモグラたたき状態でこなしている。だれしも「P」をしっかりと肚で考える暇(いとま)も術(すべ)も持っていないのである。

 

組織にとっても、働く個人にとっても、目的はその在り方を決める。目的をあやふやにしたまま、あやふやな在り方で、この世に存続することはできるかもしれない。ただ、それをあなたは「美しい」と思うかどうかだ(「正しい」かどうかの問題ではない)。坂の上にどんな太陽を昇らせるのか───恒常的に考えたい大切なテーマである。

 

 

 



2014年3月19日 (水)

新社会人に贈る2014 ~仕事は「正解のない問い」に自分なりの答えをつくり出す営み

Sakura1401



この春、新しく社会人となり、晴れて職業を持つみなさん、おめでとうございます。これから何十年と続く職業人生の出発にあたり、きょうは大きく2つのことをお伝えしたいと思います。

 1)「仕事の内容」は選べないが、「仕事との関わり方」は自分で決められる
 2)選択肢をつくり出し、「選べる自分」になっていくことが大事


◆「仕事との関わり方」の発展が自己を拡大・深化させる
みなさんはこの入社を勝ち取るために、それぞれに難しい就職活動を経られたと思います。なぜ就職活動が難しかったか。それは、就職が“正解のない問い”だからでした。高校受験や大学受験なら、正解値はあって、それを解く方法や記憶力を身につければ、おのずと結果は出ました。ところが希望の会社に入れてもらうためには、学力や学歴だけではどうにもならないところがあって、自分の全存在を懸けてアピールして、相手に受け入れてもらわねばならないのでした。「なんで自分が落ちたのだろう? なんであの人が内定をもらえたんだろう?」と、そんな疑問が何度も何度も自分を襲ったことでしょう。就職戦はそういった“正解のない問い”の一つでもあるのですが、これはほんの序の口にすぎません。いよいよ社会の現場で働くとなれば、すべてが“正解のない問い”の連続と言っていいでしょう。ましてやそこに理不尽さやつまらなさが加わることもあります。しかし同時に、働くことを通じて、これまでに経験したこともなかったような深い喜びや充実感を得ることもあります。“正解のない問い”に対する答えづくりは無限のおもしろさがあるのです。

さて、ともかく、みなさんは最初の会社に入った。これは言ってみれば、世の中にあまたある会社の中から「カタログ選び」をし、自分の潜在能力という資金で従業員になる権利を買ったにすぎません。肝心の「仕事をする」ことはいよいよこれから始まります。

みなさんは、新入社員研修が終わるやいなや、どこかの部署に配属され、担当業務が割り振られます。この瞬間から、みなさんには「仕事の内容」と「仕事との関わり方」という2つの問題が発生します。組織から雇われる生き方を選択した、いわばサラリーパーソンにとって、「仕事の内容」は選べません。人事権や業務命令権などによって、あなたのやる「仕事の内容」の大枠は組織が下すことになります。もちろん本人に多少の自由度はあって、仕事の創意工夫や方向感を出すことは自分がやれることですし、異動希望制度を通じて担当業務の変更を要求することもできます。ただ、やはり、あなたの「仕事の内容」の主導権は会社が握っていることを受け入れねばなりません。

しかし一方、これから詳しく述べる「仕事との関わり方」は、まったく本人の意志のもとに自由がきくものです。そして、この「仕事との関わり方」をどう発展させていくかこそ、「仕事の内容」よりも、職業人生にとって大きな影響を与えることになるのです。

私がここで触れたい「仕事との関わり方」には、3つの観点があります。

 1つめは「仕事の意識的拡張」
 2つめに「仕事への意味付与」
 3つめに「仕事のオーナーシップ」


◆「仕事を無事こなす」意識から「仕事をつくり出す」意識へ
まず「仕事の意識的拡張」について。私はおおまかに次のような段階でとらえます。

 〈ⅰ〉与えられた仕事を無事にこなす
 〈ⅱ〉与えられた仕事の中に改善点を見つけ、生産性を上げる
 〈ⅲ〉仕事をつくり出す
 〈ⅳ〉事業をつくり出す
 〈ⅴ〉雇用をつくり出す

みなさんは、ともかく最初の部署で懸命に仕事のイロハを覚えることに注力します。〈ⅰ〉段階であっぷあっぷの状態が半年や1年は続くでしょう。そこから次第に自分なりに担当業務への改善点が見えてきて、生産性を向上させようとする意識がはたらいてきます。それは自分の仕事に対し、目配り・手配りできる範囲が拡がったのです。これが〈ⅱ〉の段階です。

そしてさらに仕事との関わり方が進んでくると、自分がやるべき仕事をつくり出すようになります。所属する部署の課題、担当業務の課題が見えてきて、上司から言われずとも、新たにこういう動きをしよう、こういうアイデアを試みよう、既存にない方法を提案しよう、チームの中での自分の役割を拡げよう、何か目的をもったプロジェクトを立ち上げよう、といった働き方になります。これが〈ⅲ〉の段階です。この段階では、みずからの意志やアイデアを周囲に説明し、賛同者・協力者を得ながら仕事を動かしていくことが求められます。

そこからさらに意識が拡がると、事業を打ち立てるという格段に大きな単位の挑戦に心が動きます。形式的には、会社員の立場に留まって企業内の新規事業開発に携わる場合もあれば、会社をやめて独立起業する場合もあるでしょう。事業をつくり出すともなれば、リスクが格段に大きくなります。この〈ⅳ〉段階で働くには、秀でた知力や体力もさることながら、そのリスクに耐えうる精神力が不可欠です。特に独立起業の場合、失敗すれば、即、自身の生活が危うくなるのでなおさらです。

そして最後に、〈ⅴ〉段階として「雇用をつくり出す」がきます。もし、あなたがこのレベルにまでたどり着き働くとするなら、あなたの仕事意識はもはや自分だけの範囲であろうはずがなく、雇う人とその家族の経済的安定まで抱えねばなりません。その意味で、この段階で働く人というのは尊いものです。

自分が関わる仕事への意識をどこまで拡げていくか。これは各人が自由に設定できるものです。誰に言われるものでもありません、自分が決めるのです。私が企業現場で長年観察するところ、〈ⅱ〉段階止まりの人は多くいます。その中から〈ⅲ〉段階にいく人が何割か出てきます。そして一握りの人が〈ⅳ〉〈ⅴ〉へと上がっていきます。私はみなさんに、20代のうちに自分の仕事を能動的につくり出す〈ⅲ〉段階まで意識を拡張していけ、と申し上げたい。

なぜなら、〈ⅲ〉段階の意識で仕事と関わることで、仕事の深い喜びや持続的な成長が得られたり、それらの喜びを肚で知っている人たちと深いつながりができたりするからです。〈ⅱ〉段階止まりか、それとも〈ⅲ〉段階まで入っていくか、長き職業人生にあってこの差は天地雲泥の開きを生みます。〈ⅱ〉止まりの人には、「仕事は生計を立てるためにやるもので、言われた範囲のことはそこそこ頑張ってみるが、それ以上のことはやりたくない」「仕事におもしろみがないので、そこまで能動的になれない」「仕事以外の生活にエネルギーを使いたい」といったような、ある種の冷めた意識があるようです。

私はここで、「仕事好きになれ」と言いたいわけではありません。「一事が万事(いちじがばんじ)」と言いますが、仕事に冷めている人は、どこか人生にも冷めている人ではないでしょうか。仕事に手を抜く人は、生活でも手を抜いている人です。個人の趣味活動で第一級の楽しみ方をする人は、たとえ仕事が趣味をするための金稼ぎであっても、仕事をやはり第一級のやり方で処理しようとする人です。人がものごとに取り組む姿勢というのは一貫するものです。

また、いまの仕事がつまらないから能動的になれないという考え方に対して私は、〈ⅱ〉段階に留まっているから仕事がつまらないんでしょうと返答したい。〈ⅲ〉段階に上っていったなら、仕事の本当のおもしろさがにじみ出てきます。そしてその状態を続けていけば、おもしろい仕事を選べる自分に転換できるのです。“選べる自分になる”についてはこの後詳しく触れます。


◆仕事にどんな意味を与えられるか
「仕事との関わり方」の2つめの観点は「仕事への意味付与」です。みなさんは、最初に与えられる業務に対し、「これをなぜやるか?」「この業務は世の中の何につながっているか?」といったような意味を見出すことができるでしょうか。たいていは、「ともかく一人前になるためにやるしかない」「給料をもらうためには一生懸命やるだけだ」といったような状況が精一杯だと思います。ところがだんだん業務が一人前にこなせてくるころから、心に多少の余裕ができて、自分のやっている仕事に関し、「なんのため」という意味を考え始めることになるでしょう。

下の図は私が「働く動機の5段階」としてまとめたものです。ここで言う動機が、その仕事をやる意味とほぼ同じと考えてよいでしょう。誰しも「なぜその仕事をやるのか」と問われて、「食うため=お金を得るためだ」というのは当然あります。それは働く理由として最もベースにあるものです。ですが、古くから「人はパンのみに生きるにあらず」と言われるように、人は働くことにそれ以上の意味を見出そうとします。「お金」以降の動機を、私は「承認」「成長」「共感」「使命」ととらえました。

Photo



人が持つ働く動機は一つだけではありません。図に示した5つを複合的に持つものです。その複合具合は人さまざまです。最も抱くことが難しいのが5番目の「使命」です。「自分はこの仕事をやるために生まれてきた!」「これをやり遂げることが本望である!」「仕事を通じてこれを世の中に残していきたい!」といったような、仕事に何か強力な意味を与えることができる人は、実はそう多くはいません。試しに、職場で先輩社員や上司にきいてみてください。たぶん口ごもってしまう場合が大半ではないでしょうか。

「仕事にそんな高尚な意味なんて必要ない」と言う人もいます。そして実際、仕事に使命感などを抱かなくとも、仕事をうまく、楽しくやっている人はたくさんいます。ですが、そんなときに私は、ヴィクトール・フランクル(オーストリアの心理学者。第二次世界大戦下、ナチス・ドイツの強制収容所を生き抜き、そのときの体験を『夜と霧』に著した)が書き残した次の言葉を研修などで紹介しています。

「人間とは意味を求める存在である。意味を探し求める人間が、意味の鉱脈を掘り当てるならば、そのとき人間は幸福になる。彼は同時に、その一方で、苦悩に耐える力を持った者になる」。  ───『意味への意志』より



人間はどうしても自分のやっていることに意味を与えたくなる動物です。それは意味からエネルギーを湧かせたいためであるし、意味を満たすことによって自己の存在を太く感じたいからです。そして共通の意味のもとに人とつながりたいからです。「仕事に高尚な意味は不要」と言っている人の中には、実はボランティア活動に汗を流す人も多くいます。この問題の本質は、昨今の事業現場では各人が担当する業務があまりに細分化・専門化され、あまりに数値目標達成が重くのしかかっているために、自分の仕事に意味を与えづらくなっているところにあると私は分析しています。ですから人は決して意味を放棄しているわけではないのです。

また、昨今ではメンタルヘルス(心の健康)の問題が大きくなっています。やはり、自分の仕事に意味を見出している人は、見出していない人よりも、当然ストレスに強くなります。上のフランクルは、実は収容所に送られる直前、長年の研究成果を出版する計画があり、原稿まで書き上げていました。収容所に囚われたフランクルは、あの論文を世に出版するまで死ねるかという執念に近い意味を持ち続けました。だからこそ、あの凄惨な収容所を生き抜く精神エネルギーを得たのだと言います。彼が発した「意味の鉱脈を掘り当てた人間は、同時に苦悩に耐える力を持った者になる」は、そうした含みです。

みなさんはこれから何十年と働いていくにあたって、生命を取られるほどではありませんが、さまざまなストレスにさらされることになるでしょう。そのときに覚えておいてほしいのは、働く心の上で、最大の攻めであり、最大の守りとなるのは、仕事に意味を与えることです。その「意味」とは、先の「5つの動機」図でみたように「お金のために」というだけでなく、他の4つも含めて重層的に与えることが大事です。当面は仕事をこなすことだけに手一杯かもしれません。ですが、時間をかけながら、是非上のほうの段階まで仕事に意味付与ができるよう意識を鋭敏にしてください。


◆その仕事はどれだけ「自分ごとの仕事」ですか?
「仕事との関わり方」の最後の観点は「仕事のオーナーシップ」です。オーナーシップ(ownership)とは、「所有権」の意味です。「仕事のオーナーシップ」とは、平たく言えば、その仕事をどれだけ自分のものとし、責任感や当事者意識を持ってやっているか、そしてその結果として仕事全体に自分の味わいがどれだけ醸し出されるかということです。「えっ? 自分がやっている仕事は、もちろん自分のものであるはず」と、就労経験の浅いみなさんは思うでしょう。ところが、仕事を「自分ごと」としてやっている度合いは人によってかなり違うのです。

例えば、いま企業内での仕事は分業化され、個々に部分部分の仕事が振られてきます。その部分の仕事が合わさって、チームの仕事となり、会社全体の仕事となります。チームの仕事の最終的な責任はチームリーダーが、会社全体の仕事の最終的な責任は社長が負います。そのような中で、個人は与えられた仕事をするわけですが、「自分は言われたことはやっているんだから」と、あとのことは他人任せ・長任せのような意識の人が実は多い。そういう人は、往々にして、粗雑な仕事で後工程の人に迷惑をかけたり、全体の足を引っ張ったりします。あるいは、「全体の成績が上がらないのは上司・組織の問題だから自分には関係ない」「この事業に失敗しても、ま、会社のお金だし、しょうがないか。(自分の給料が出なくなるわけでもなし……)」としてどこか第三者的に傍観する。または批評や愚痴が口をついて出てくる。こうした意識の人は、仕事を「他人ごと」としてやっているのであり、そこには仕事を「自分ごと」として大事にするオーナーシップがないのです。

家を考えてみてもそうでしょう。賃貸物件に住んでいる人は、家の扱いがどこか雑になりますね。それは家が他人の持ち物だからです。ところが自分の家を買った人は、家を大事に使おうとします。そして、住まう家主の性格がより濃く家のたたずまいとして表れます。

私は11年前に会社勤めをやめ、独立起業しました。私にとって、日々の仕事や事業は、まぎれもなく“私のもの”です。自分の一挙手一投足が事業に影響を与えますし、コピー用紙1枚を使えば、確実に自分の稼ぎからその分のお金が減ります。だから私はいま、自分の仕事に対し、責任においても、経済的にも、100%オーナーシップを意識しています。と、言いますか意識せざるをえません。個人事業主として世の中に対峙していますから、一つ一つの仕事を決して「他人ごと」として適当にやり過ごすことはできないからです。

「雇われる生き方」を選択している会社員は、「仕事のオーナーシップ」度合いにかなりの開きが出ます。一般的には、役職が上がっていくほどこの度合いは高まるように見受けられます。ただ、管理職クラスでも会社にぶら下がり意識の強い人はいますし、役員クラスでも、仕事を会社の金を使って行うマネーゲームのような感覚で「他人ごと」としてやっている人もいます。逆に、若い社員でも、自分の役割をチーム全体の中で認識し、前工程・後工程のことを考えて、責任と自覚をもって「自分ごと」として仕事を全うしようとする人がいます。


◆「雇われない生き方」を志向すると日々の仕事景色ががらり変わる
私がこの箇所でみなさんにお伝えしたいことは、もちろん「仕事のオーナーシップ」意識を強めていけ、ということではありますが、もっと言えば、人生で一度は「雇われない生き方」をやってみようという気概を持て、ということです。「雇われない」とは、ここでは、起業する・自営すると考えてください。

いまの日本では、多くの人が、「職業を持つこと=雇われて給料をもらうこと」であるかのように思っています。ですから生計を立てるために、常に「どこかに雇われなければ」と働き口探しに神経をつかいます。しかし、実際は、専門職として独立したり、会社を興したり、自営で商売を始めたり、誰かに雇われずに生きていく道だってさまざまあるのです。私は米国の大学院に留学したとき、卒業後に起業する人が多いのをみて驚きました。「会社員に戻ろうなんてとんでもない。独立するために、こうして大学院に来て自己投資している」という血の気の多い30代がたくさんいます。米国のしぶとさはこういう「個の独立心」にあるんですね。ひるがえって日本は、みなが「雇われたい病」「雇われなければ不安症」に陥っているかのようです。

結果的に自営業開業や起業するかどうかは別にして、少なくとも、「好機あらば独立してやるぞ」という心の仕掛けを保つことで、日々の働く景色はまったく違ったものになります。

例えば、私は会社員最後の5年間、管理職にありました。もともと職人気質の私は、自分で物事をつくり出すことが好きで、組織を管理する仕事は好きになれませんでした。パソコン画面を前に労務管理や財務数値管理、プロジェクトの進捗管理、部下との面談、組織運営のための会議など。ところが、ある時期から独立しようという思いが立ち上がり、そこから意識ががらりと変わりました。「自分の会社をつくるときのために、この管理業務は不可欠のものだ。だからいまのうちに何でも吸収しておこう」となったのです。日々の仕事が、ヒト・モノ・カネの管理業務のノウハウを学ぶ格好の場に変貌した瞬間でした。そのように管理職であるないにかかわらず、「いつか独立しよう」という意志を持つ者は、毎日を漫然と過ごさなくなるのです。業務の一つ一つが深い意味を帯びてくることを実感するでしょう。

それだけでも「雇われない生き方」を志向することには絶大な効果があるのですが、実際に独立してみると、さらに次元の違う深い充実が得られる世界があります。それについてはきょうは割愛しますが、いずれにしても、目の前の仕事を「他人ごと」として処理し、労働力を切り売りして給料に換える生活はどこかさみしい。そこには、仕事を労役と感じている「閉じた自分」がいる。自分の仕事にオーナーシップを感じ、「自分ごと」として、仕事を「自分を開く」機会として持続していく。みなさんにはこれからの職業生活をそう送ってほしいと願うものです。


◆人生とは「“選択”が描く模様」である
冒頭申し上げたように、みなさんは当面、「仕事の内容」を選べるわけではありません。会社から言い渡される「仕事の内容」をただ引き受けてやっていくだけです。が、これまでみてきたように「仕事との関わり方」は自分がどうにでも決められるものです。ここはとても大事なポイントですから、しっかり頭に入れてください。

入社して1年や2年が経つと、「仕事の内容がつまらない」「仕事の内容が自分の能力とミスマッチである」「希望の仕事内容をさせてもらえない」などの不満がそこかしこで出始めます。転職を考える人も増えてきます。確かに人材紹介会社に登録すれば、「第二新卒の採用」ということで、いろいろな求人案件を紹介してもらえるでしょう。そして実際あなたは転職してもいいのです。しかし、そこで手にする自由は「小さな自由」です。私はもっと「大きな自由」を手に入れなさいと言いたい。

「仕事の内容」を選り好みし、すぐに居場所を変えようとする生き方は、早晩、行き詰まります。まずはどっしり腰を下げて、与えられた仕事と真正面から取り組むことです。そして、「自分の仕事をつくり出す」、「仕事に強い意味を与える」、「仕事を自分のものとして責任を持ち、自分の味わいを醸し出す」ことに専念すべきです。そうした「仕事との関わり方」において、自分らしさを強めていけば、おのずと成果が出、周囲からの信頼を得ることになるでしょう。すると、目の前には予想もしなかった選択肢がいろいろと見えてくるはずです。そのときの選択肢こそ、一段レベルの上がった、自分を確実に発展に導くものであり、そこに「大きな自由」が開けます。

人生は選択の連続です。そのとき人それぞれに「選択する力」の差があります。私はその「選択する力」を次の3つでとらえています。

 ・「選択肢を判断する力」
 ・「選択肢をつくる力」
 ・「選択を(事後的に)正解にする力」

1番目は、眼前にある選択肢のうちどれが最良のものかを分析・判断する力。2番目に、自分が選べる選択肢をつくり出す、増やす、呼び寄せる力。3番目に、自分が選んだ道をその後の努力で「これが正しかった!」と思える状況をつくる力。

ここでみなさんに強調したいのは2番目の力です。目の前の仕事にどんと向き合い、それとの関わり方を深めることが、巡り巡って選択肢を増やすことにつながります。「仕事の内容」を選り好みするだけの「選びにいく自分」は、じり貧になります。ですから、「いま・ここの仕事」をしっかりとやりきり、何かしらの結果を出す習慣をつけることです。日々その繰り返しです。でも、あるとき気づけば、「選べる自分」になっているはずです。そこで初めて、「仕事の内容」も選べるようになるのです。30代後半以降、会社の中で自分のやりたいことを伸び伸びとやっている人は、20代から30代前半にかけて、そうやって「仕事との関わり方」を深め、自分が求める選択肢を呼び寄せてきた人なのです。


◆どんな環境の中にも“正解はつくり出せる”

入社したてのころの「こんな仕事がしてみたい」という思いは大切にしてもいいものですが、その仕事は実は「ほんとうにやりたい仕事」「ほんとうの自分が成すべき仕事」ではないかもしれません。表面的なところをみて、あこがれているだけのことも多いからです。3年、5年、10年と働いて、選択肢を呼び寄せながら自分を発展させていく。その過程で見えてくる「やりたい仕事」がほんとうの仕事だと言えます。だから20代は希望の仕事ができないことで焦らなくていいのです。私自身も、いまでこそ教育の仕事をしていますが、30代半ばまで、まさか自分が教育の道で食っている、ましてやそれを天職と感じているなどとは夢にも思いませんでした。

米・コロンビア大学で哲学の教鞭を執るジョシュア・ハルバースタムは、『仕事と幸福そして人生について』の中でこう書いています。

「私たちは仕事によって、望むものを手に入れるのではなく、
仕事をしていくなかで、何を望むべきかを学んでいく」。



働くこと・仕事は、“正解のない問い”に対する自分なりの答えづくりだと冒頭に申し上げました。あらかじめの“正解がない”ということは、どんな環境の中にも“正解はつくり出せる”ことでもあります。正解とは、仕事をうまく効率的にやることに留まりません。その仕事に自分という存在の味わいを醸し出すこと。その仕事に没頭できる意味を付与すること。そして最後に「ああ、人生いろいろあったけど、結局自分はこの仕事と巡り会うことが必然だったのだ」と振り返られること。これが自分なりの正解をつくり出す戦いに勝利した証です。

ともあれ長く遠い職業人生が始まりました。当面は仕事に振り回されるばかりで大変かもしれません。しかし仕事は、学びの機会であり、成長の機会であり、人とつながる機会であり、社会に貢献できる機会でもあります。それらの機会を、給料をもらいながら体験できるのですからこんないいことはありません。どのみち、仕事は「しんどい」ものです。が、そこを「しんどいけど面白い」「厳しいけど充実している」に持って行けるかが大事です。そのために、きょうお話ししたことが役に立てば幸いです。

では、みなさんのご活躍を期待しています。いつかどこかでお会いしましょう!


Sakura1402




【過去のシリーズ記事】 * * * * *

〇新社会人に贈る2015 ~働くという「鐘」「山」はとてつもなく大きい

〇新社会人に贈る2014 ~仕事は「正解のない問い」に自分なりの答えをつくり出す営み

〇新社会人に贈る2013 ~自分の物語を編んでいこう

〇新社会人に贈る2012 ~キャリアは航海である

〇新社会人に贈る2011~人は仕事によってつくられる

〇新社会人に贈る2010 ~力強い仕事人生を歩むために




2014年2月28日 (金)

留め書き〈037〉~梅に生まれてくるのではない。梅と生きるのだ。

 

Tome037


以前、私は小説書きに挑戦した。

そのなかで一人の陶芸家を登場させ、
冬雨に打たれる老梅を前に、彼にこう言わせた───

「梅に生まれてくるのではない。梅と生きるのだ」と。


私たちはよく「親は選べないからね」などと言う。
つまり、生まれる先は自分の意図ではなく、誰かのもとに受動的に生を受けるという考え方だ。
英語でも、生まれるとは「be born」と受動態で表現される。
確かに私たちは、肉体的には、受動的に形質を受け取る。

しかし、それよりもっと奥の次元では、
私たちはそうした親元や、引き受ける形質や、環境を“みずから”選んで(より正確には引き寄せて)、
この世に出来(しゅったい)してきているのではないか。
つまり、漫然とくじ引き的に、人に生まれてきているわけではない。

ニッポンの誰それ夫婦のもとに、昭和という時代に、男として、
その両親の遺伝子によって想定される形質をあえて選んで、生まれ出ようという
エネルギーの志向性が『わたし(我)』の根源なのだ。

そして、この世に、心身を授かり、
『わたし(我)』は、かけがえのない『村山昇』として生ききろうとする。


最初の「梅」は一般名詞「a plum tree」にすぎない。
後の「梅」は、特定の独自性をもった「the plum tree」である。
生きるとは、
みずからの選択と、そのなかで最善の自己を開花させようとする奮闘である。



2014年2月27日 (木)

留め書き〈036〉 ~「へこみ」は「うつわ」



Tome036_2



打ちのめされたり、傷ついたり、落ち込んだりした状態を
俗に「凹(へこ)む」という。

凹んだ部分は器になる。
その器でなにかをすくうことも、なにかを受け容れることもできる。




* * * * *



ブッダやイエスの教えが、なぜ千年単位の時空を超えて人びとを抱擁するのか。
それは彼らが偉大な苦しみのなかに身を置き、光を発したからだ。

ガンジーやキング牧師の言葉が、なぜ力をもって私たちの胸に入り込んでくるのか。
それは彼らが深い深い闇の底から叫んだからだ。

ドストエフスキーが狂気的なまでに善と悪について書けたのは、
彼があるときは流刑の身となり、兵士となり、
またあるときは、てんかんを患い、賭博に明け暮れ、まさに狂気の淵でものを考えたからだ。

正岡子規があれほど鋭く堅牢な写実の詩を詠めたのは
病苦に悶絶し、命の火も絶え絶えになるなかにあって、
魂で触れることのできる堅い何かを欲したからだ。


東山魁夷はこう書いた───

「最も深い悲しみを担う者のみが、人々の悲しみを受け入れ慰めてくれるのであろうか」。   (『泉に聴く』より)



ヒルティは『幸福論』のなかでこう記す───

「ある新興宗教の創始者が、自分の教義の体系を詳しく述べて、これをもってキリスト教にかえたいというので、彼(タレーラン侯)の賛成をもとめた。すると、タレーランはこう言った、しごく結構であるが、新しい教義が徹底的な成功をおさめるにはなお一事が欠けているようだ、『キリスト教の創始者はその教えのために十字架についたが、あなたもぜひそうなさるようにおすすめする』と」。



人は、苦しんだ深さの分だけ喜びを感受できる。
また、ほんとうに悲しんだ人は、ほんとうに悲しんでいる人と、ほんとうの明るさを共有できる。
生きることの分厚さや豊かさといったものは、
こうした苦や悲といったネガティブにえぐられることによって獲得できる。
宗教が慈悲や愛を基底にしているのはこのことと無関係ではない。

いずれにせよ、
負を正に転換できる人間の力はすばらしい。

ほんとうの喜びは、ほんとうに苦しんだ人が手にできるのだ。



過去の記事を一覧する

Related Site

Link