c)留め書き 〈A Drop of Thought〉 Feed

2013年7月19日 (金)

留め書き〈033〉~「深み」と「高み」

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「深み」は、独り負荷に耐えているときにつくられる。

「高み」は、なにか事を成し遂げたときに感じられる。





私はメーカー時代に商品開発を担当していたこともあって、
アイデア手帳を何冊か身の周りに置いている。
当初は思いついたアイデアを書き殴っていたのだが、
いつのころからか(たぶん独立して精神的なプレッシャーの質が変わったころから)、
アイデアより、その時々の心境や想い、決意、悲しみ、喜びの断片を書くことが多くなった。

それをたまに読み返すと、
ああ、ここは結果が出ずに自分が下のほうにもぐっている時期だなという箇所もあれば、
難しい仕事をやりきり、すがすがしさに満ちている箇所もある。

総じて、
「深み」は忍耐強い思索とともに形成され、
「高み」は果敢な行動とともに感得されるように思う。


「紺碧の母なる海の深み」
「雪渓を抱く雄々しき峰の高み」を合わせ持つ人間は、大きい。




2013年4月18日 (木)

留め書き〈032〉~静かだが、深く広く響いていく声


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ほんとうに大事なことは静かに語られる。
静かに語られたほんとうに大事なことは、聴く者一人一人の内に深く沁みていく。
そして時空を超え、確かな波となって広がっていく。

静かだが、深く、広く、響いていく声。

私はそんな声を聞き取りたいと思っているし、
発したいと思っている。
そのために“人間の器”をつくる鍛錬が日々ある。



作家・城山三郎さんが座右の銘にしているのが───

  「静かに行く者は 健やかに行く。
  健やかに行く者は 遠くまで行く。」

だそうだ。私もこの言葉にじんとくる。
この言葉を自分なりに展開してみたのが、上の留め書きである。


オペラ歌手のあの力感と美に満ちた歌声はあの躯体(くたい)あってこそ。
“静かだが、深く、広く、響いていく声”を発するには、
それにふさわしい“人間の器”を要する。


自分の器はどうだろう? ……まだまだ精進せねば。


2013年2月24日 (日)

留め書き〈031〉~素の能力・素の人間

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お金をたくさん稼ぐ能力というのは、言ってみれば、
何かスポーツで得点を上げるのがうまいことに似ている。

だから、金持ちになることが特別すごいことではなく、
たとえば歌が上手である、すばらしい絵が描ける、
ものづくりがうまいことも
それに負けないくらいすごい能力なのだ。

そうした能力に恵まれながら、
得点競争に興味がなく、能力を換金化することに無頓着で
ひたすら他者を喜ばせることだけでおおらかに満足する
そんな豊かな人が世の中にはたくさんいる。


アランは『幸福論』のなかでこう書く───

「古代の賢者は、難破から逃れて、すっぱだかで陸に上がり
『わたしは自分の全財産を身につけている』と言った」。

 

仮にいま自分が、無人島のように、年収という得点獲得競争のない世界、
能力を換金化しようのない世界に放り込まれたとき、
いったい素の自分にどんな能力があるのだろうか。

素の人間としてどんな魅力があるのだろうか。
そして何よりも、生き物としてそこで存続していけるのだろうか。
その想像は少し自分をどきっとさせてくれる。


2013年1月12日 (土)

留め書き〈030〉~生き方の選択としての職業


Tome030

彼は15年間のサラリーマン生活をやめて、土地を借り、一農夫になった。
それは「働き口」の選択ではなく、
「生き方」の選択をしたからだった。




先日、都心である中華料理店に立ち寄り一人食事をしていた。
横のテーブルには、団塊の世代らしき男性3人が、紹興酒をちびりちびりやりながら話をしている。
どうやら3人は同じ会社の同僚らしく、
間近にやってくる定年後の再雇用契約について語り合っている。

「あの給料だと小遣いが減る」「外回りの営業に回される」
「貸与されるパソコンが古くて使いにくいらしい」などと、

会社に恨みがましく愚痴を連ねていた。
雇われ根性が染みついたサラリーマンの成れの果ての会話はこんなものかと、
気分が悪くなった。

このような意識の大人が、社員として、親として、市民として伝染させる悪影響は計り知れない。

不景気の時勢であるから、「働き口」を見つけることが難しいときではある。
ただ、幸運にも何かの「働き口」にありついたとして、
そこにしがみつくだけの意識でいてよいものか。

いったん仕事を得たなら、そのなかで、能力を上げ、人とのつながりを築き、興味を拡げていく。
リスクを負って、既存の殻を破っていく挑戦を続ける。
そうして自分が選べる進路の幅を拡げていく。
それをしなければ、
いつまでも「働き口」に使われるだけの身になる。

私たちは、保身という名の怠慢・臆病を排し、
みずからの職業を「生き方」の選択として昇華させていきたい。


2012年9月22日 (土)

留め書き〈029〉~待つのではない。満たすこと


   私たちは、「他者からの評価」を過剰に気にする時代に生きています。

   職場では、組織・上司からの評価がある。もちろんその評価を励みすることはありますが、おおかたは、ストレスになることが多いものです。

   また、プライベートの生活でも、フェイスブックで何人とつながっているとか、ツイッターで何人のフォロワーがいるとか、個人ブログの閲覧数が1日に何人来たとか、そうした定量評価が常時気になります。自分の発信に対し、「いいね!」ボタンの反応が数多く出れば一喜し、少なければ一憂する。人によっては、もはや、「いいね!」をもらい続けなくては、精神が安定しない、「いいね!」をもらいたいがための発信になっている場合も多い。

   私たちの少なからずは、そんな「評価不安症」に陥っています。そしてまた、定量的に表示される数値がすなわち、人とのつながり度合いを示すものとみなす傾向性が強まっています。私はそんななかで、次のメッセージを伝えたいと思います。




Tome029

 

「待つ」のではない。「満たす」ことだ。

「評価される」という受動的な喜びに期待をかけるより、
「意味を満たす」という能動的な喜びによって、溌剌(はつらつ)と前を向いていればよい。
───そう構えれば、どれだけ心がどっしりするか。

* * * * *

そうするうち、その意味を共有できる人たちが、
一人二人と周りに集まってくる。
そう多くはなくとも、そのつながりこそ、それからの人生の宝になる。

独り漂うのでもない。
仲間に入れてもらい群れるのでもない。
不特定多数が渦を巻く熱狂の一分子になって泡沫を繰り返すのでもない。

同志(とも)と語り合い、動き合う充実。
「想い」が人を呼び、「意味」が人を結び付ける。
そのなかで自分が強く深く変わっていく。
そして、「より強い想い」「より深い意味」を抱いていく。


   補強として、岡本太郎さんの言葉を記します。

 


「人に認められたいなんて思わないで、己を貫くんだね。でなきゃ、

自分を賭けてやっていくことを見つけることは出来ないんだ」。


「相手に伝わらなくてもいいんだと思って純粋さをつらぬけば、
逆にその純粋さは伝わるんだよ」。



「他人が笑おうが笑うまいが自分で自分の歌を歌えばいいんだよ」。

「ひとつ、いい提案をしようか。音痴同士の会を作って、そこで、ふんぞりかえって歌うんだよ。それも、音痴同士がいたわりあって集うんじゃだめ。得意になってさ。しまいには音痴でないものが、頭をさげて音痴同好会に入れてくれといってくるくらい堂々と歌いあげるんだ」。

───以上、『強く生きる言葉』より





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