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2012年6月10日 (日)

留め書き〈028〉~読書の3種類

Tome027

読書という名の深呼吸をしよう。
ふかくすえば、ふかくはける。
おおきくはけば、おおきくすえる。



今年、おかげさまで私は2冊著書を出版する予定がある。
うち1冊を今週脱稿することができた。
これについては、あと6月末に書店に並ぶのを楽しみに待つのみだ。
そして、もう1冊のほうの執筆を始める。

人の思考は、みずからが読んできたものに相応して、
大きくもあり小さくもある、深くもあり浅くもある。

だから、深い次元の本を求め、深く汲み取ろうと努力を続けていくと、
自分が書くものもじょじょに深さを得ていく。

また、大きな本を書こうという意欲をもてばもつほど、
大きな本と出会えるようになる。
(どんな本が真に大きな本なのかが見えてくるようになる)


本(=著書)とは不思議なものだ。
本は、その書き手の知識体系や観念世界、情念空間をまとめたものである。

読み手にとっては、自分の外側にある1つのパッケージ物なのであるが、
それがひとたび読書という行為を通じて、自分の内面に咀嚼されるや、
自分の新たな一部となって、
自分の知識体系・観念世界・情念空間をつくりかえる。
これが本の啓発作用というものだ。

その意味では、読書は飲食と同じ。
良い食事は、良い身体をつくり、動くエネルギーとなる。
良い読書は、良い精神をつくり、意志エネルギーとなる。

本は、自分の外側にある一つの縁であり、
それを摂取することによって自分の内側を薫らせるものだ。

* * * * *

読書の役割を、私は主に次の3つで考える。

   〈1〉啓発の読書
   〈2〉獲得の読書
   〈3〉娯楽の読書

1番めは冒頭触れたとおりだ。啓発とは「開き・起こす」ということである。
「啓発の読書」の開き・起こすメカニズムは図に示すとこんな感じだろうか。

Dokusho01

私たちは、まず本を開いて文章を読んでいく。
最初は①「著者の表現世界の中を泳ぐ」わけだ。
そうするうち、著者の伝えてくる内容が、自分にまったく新しかったり、
自分が既にもつ考え方と異なったりして、②「自分の中の知の体系に揺らぎが起こる」。

揺らぎを覚えた自分は、それを排除するか、
それを取り込んで、③「新しい知の体系を再構築しようとする」
そして、
④「その再構築した体系であらためて著者の書いていること
を咀嚼しようと試みる」

図に表れているとおり、啓発の読書によって2つの円が大きくなる。
1つは、②→③で、自分の中の知の体系が再構築され大きくなる。
もう1つは、①→④で、その本を咀嚼できる器が大きくなる。
最初、読んだときは①の器でしか読めなかったものが、
自分の中の知の体系が大きくなることで、④の器で読めるようになったのだ。

このように、啓発の読書の場合、
本が自分を大きくしてくれ、
大きくなった自分が、その本をより大きく読めるようになるという
相互の「拡大ループ」ができあがる。

ちなみに大事なことを加えておくと、
自分が読む本の大きさ・深さというのは、
自分の知の体系の大きさ・深さ(=図でいえば③の円)によって決まる。
だから、いくら良書・偉大な本であっても、
「なんだ、この程度か」と思う人と、
「やっぱりすごいな、この本は!」と思う人と、差が出る。
本というのは、あくまで、自分の読み取る器次第なのである。


次に、2番めの「獲得の読書」について。
獲得の読書とは、情報獲得、知識獲得、技術獲得のための読書をいう。
たとえば、
市場調査のためにさまざまな白書や購買データを読む。
新しい業務の知識を得るために、その分野の専門書を読む。
資格試験のために、技術の解説書や習得マニュアルを読む。

これらの読書は、図に示したように、情報・知識・技術といった固まり・断片を
1つ1つ集めて積んでいくものである。

その集積は、ヨコに広がったり、タテに重なったり、奥に伸びていく。
この集積ボリュームが複雑で大きい人を、博識とか達者と呼ぶ(「オタク」な人もそうだ)。

Dokusho02


最後、3番めの「娯楽の読書」について。
娯楽の読書は、自分を啓発しようとか、何か知識・技術を得ようとか、そういう
目的はなく、ただ、楽しみのために読む行為をいう。
極端に言ってしまうと、読了後に何かが残らなくてもいい、
その経過時間が心地よければいいというものだ。

娯楽とは、英語では「pastime」と書く。
まさに「時間を経過させる=ヒマつぶし」。

この場合の読書の様子は、図のとおり、刺激の上下を楽しむだけだ。
たとえば、サスペンス小説を読むとき、
ハラハラがあり、ドキドキがあり、最後にクライマックスを迎えて終わる。

私は読書をこのように3種類に分けるが、
すべての読書がきっちりこのいずれかに収まるとはいえない。
たいていは3つの混合である。
娯楽として小説を読んだとしても、その小説から啓発を受けて自分の知の体系
が広がることもあるだろうし、何かの知識が増えることもあるからだ。


さて、もっとも有意義であるが、もっとも力を使うのは、
言うまでもなく「啓発の読書」だ。
個人においても、社会全体においても、この読書に向かう意欲が弱まっていることを
感じるのは私だけではないと思う。

社会や時代をつくるものは、経済や文化、教育、政治、宗教などいろいろある。
しかし、その根本は、
個々人に宿る「エートス」ともいうべき、気風・精神性にある。
活き活きとした健全なエートスは「啓発の読書」なしには醸成されない。

個々人が古今東西の書物と一人向き合い、自分の内側を開き・起こさないかぎり、
経済、文化、教育、政治、宗教からの施策などは、うわすべりするだけで、
じゅうぶんな効果は出ない。

日本人はたいていが「読み・書き・そろばん」はできる。
しかし、読むことを通して、自分を耕し、強くすることができなくなっている。
パソコンやスマートフォンの普及で、仕事場でも電車の中でも、
「読む量」は減っていないという分析がある。
確かに「獲得の読書」「娯楽の読書」は、むしろ盛んになっている。
たが、「啓発の読書」は敬遠され、多くの人はそこから逃げたがっている。

良書を一冊手に取って、著者の表現した世界を鑑(かがみ)にして自分の世界を
豊かに掘り起こすという負荷作業がどこか面倒なのだろう。
世の中には、負荷なしに享受できる
心地よいだけのモノ・サービス・コンテンツは溢れている。
しかし、負荷を嫌ってばかりいたら、いつ負荷に立ち向かうというのか。

そうするうち、現実生活の悩みや苦しみ、不遇や事故などの負荷に遭遇して、
「もう生きるのいやだ」ということになるのだろう。

私はいま、この歳になって、石川啄木の『一握の砂』を読み返している。
あれだけの才能に恵まれながら、けっして報われることのなかった26年の生涯。
啄木の自身に懊悩し、時代を先駆け、運命に抗おうとし抗いきれない吐露を
彼の文字の中から汲み取れば汲み取るほど、私は力を得る。
『一握の砂』は物としては、500円前後で買える薄い文庫本である。
しかし、ここからは、ほぼ無尽蔵のものが耕せる。
読書とはなんと手軽で安上がりな、しかし偉大な心の鍛錬機会だろうか。

個人をよりよく変える、社会をよりよく変えるために、
「啓発の読書」は不可欠である。
だからこそ私は、事あるごとに、良書から力ある言葉を引用して、
多くの人を読書に誘いたいと思っている。



2012年1月17日 (火)

留め書き〈027〉~効率化の中で「即席もの」になるな

 

悪神のささやき───

人間というのは実に勤勉な動物であることよ。
太陽の巡りで1年に1回しか収穫できない作物を
ハウスをこしらえて2回の収穫にしてみたり
工場の中に水を流し、電灯を点けて10回にしてみたり。


24時間365日は動かないけれども、回転数を上げることでそれを何倍にも使う。
人間たちはそうして現在を圧縮することに成功したわけだな。

いや、それにしても、
パーソナルコンピュータの処理速度をどんどん上げていった先には、
自分たちが“ラクでヒマができる”生活があるはずじゃなかったのかい?
これまで1日かけてやっていた作業が半日になり、2時間になり、1時間になった。
そりゃめでたいことだが、はて、そこで浮いた時間は何処へ行った……?

さ、そこに置いてあるワインとチーズを食わせてもらうことにしようか。
ほほぉ、「10倍効率もの」か。
10年熟成のワインを1年でこしらえ、
10か月熟成のチーズを1カ月でこしらえたものなんだな。
いや人間の知恵は素晴らしい。
さぞ美味(うま)いにちがいない……。


* * * * * *

私たちはスピードを上げること、回転数を上げることで、
有限の時間に対し、生産性向上・効率というものを手に入れた。
だからこそ、戦後の日本は、人口増加にも対応できる消費財の量を供給することができ、
また、低価格を実現させて、国内外に売り、国富を獲得してきた。

時間を効率化して使うこと自体は問題ではない。むしろ奨励されるべきことだろう。
しかし、そこには常に「即席文化」を助長する力がはたらく。
そしてもっとも恐るべきは、
人間が時間を使うのではなく、時間に人間が使われるようになることだ。

高速回転しながら量をこなす生活は、はたして濃密に豊かなものなのか。
それとは真逆で、スカスカになっていやしないか。


高校生のとき、初めてラブレターを書いた。
何度も何度も推敲して書いた手紙を投函したその刹那から、
「明日届くのかな、あさって届くのかな」、
1日経てば、「きょう見てるかな、まだ未配達かな」、
2日経てば、「きょう見てるかな、彼女のお母さんが怪しんでいないかな」
などと、ヤキモキ思いを巡らせたものだ。


90年代初め、私はアップルの「マッキントッシュQuadra」を買って使っていた。
当時の写真画像処理ソフト「Photo Shop」は、今からするととても非力で、
ちょっとしたレタッチ処理でも、5分や10分、30分、ときには数時間を要した。
画面には、例の腕時計のアイコンが針を回しているのが映るだけで、
処理がいつ終わるのかは、まさにパソコンのみぞ知る、だった。
うまく処理してくれればいいが、辛抱強く待ったあげくに、
マシンがフリーズすることもざらだった。
けれど、その待っている時間は、過熱した頭を鎮めるのにちょうどいい小休止で、
熱いコーヒーをすすりながら過ごしたものだ。
すると、別のデザインアイデアや思考がふぅーっと湧いてきて、
結果的にそれがとても創造的な時間になるのだった。


うちの実家は三重県の片田舎にある。
地域の足として近鉄電車の支線が走っている。
運行本数は1時間に3本程度だ。だから1本を逃すと待ち時間が長い。
だが、子どものころを振り返るに、電車の待ち時間が長いと感じたことは少ない。
私は、いつも駅のホームから西に連なる鈴鹿山脈の稜線を飽きずに眺めていた。
山脈の稜線はギザギザに富んでいて形状が面白い。
日の入り時刻ともなればとても美しいシルエットを見せてくれた。


……「待つ」。
その時間が実は豊かな何かを育んでいたと感じるのは、私だけだろうか。
私たちは「待つ」ことを我慢しなくなった。

忙しいとは、心を亡くすと書く。
試しに、過去1年、3年、5年を振り返ってみてほしい。
高速回転で動き、量をこなしてきたけれど、そこに心はなかった……(愕然)
なんてことになりはしないだろうか。

私の人生時間の主人は、私である。

2012年も明けてすでに2週間が経った。この分でいくと、
間もなく進入学の春が来て、夏が始まり、気がつけば秋になっているだろう。
時間に使われないためには、
1日、1日、心をしっかり置き留めて進んでいくことである。

心を置き留めるとは、
スピードや効率化の流れに受動的に巻き込まれるのではなく、
立ち止まるべきときは、焦らずに立ち止まり、
待つべきときは、辛抱強く待ち、
1つ1つのやるべきことを「これでいいのだ」という自信のもとに、
自分の心のペースで動かしていくことだ。
そして5年、10年の時間レンジでどっしりと構えられる肚を持つことだ。

1日1日の中身をきちんと詰めていけば、
未来には相応のきちんとした果実が成るように人生はできている。

私は、効率的に作られたワインやチーズを食したいとは思わない。
よいものを食べたければ、1年待つことをするし、
10年かかるのであれば、それを楽しみに10年待つ。

そして何より大事なことは、
自分もひとつの生産物だとすれば、自分自身が即席ものにならないことだ。


Quote al


「未来について一番よいことは、それが1日1日とやってくること」
“The best thing about the future is that it only comes one day at a time.”

───エイブラハム・リンカーン(第16代アメリカ合衆国大統領)

 

2011年12月 9日 (金)

留め書き〈026〉~王国一賢い男か・王国一ハンサムな男か


Fln lv 01


悪神のささやき───


「ひとつ訊こう。いま魔法の杖があって、おまえさんは、
“王国一賢い男” にもなれるし、
“王国一ハンサムな男” にもなれる。
さぁ、どちらを選ぶかね?

ふふん、わたしなら、どっちを選ぶかだって?
そりゃ当然だろう。“王国一ハンサムな男”さ。

この世には、知性を理解する頭を持った人間よりも、
目を持っている人間の方がはるかに多いからね」。


                                         * * * * *

この悪神のささやきは、
『仕事と幸福、そして人生について』
(ジョシュア・ハルバースタム著、桜田直美訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
のなかで紹介されているウィリアム・ハズリット(19世紀英国の批評家)の
下の言葉を焼き直したものである。


「王国一賢い男になるよりも、王国一ハンサムな男になるほうが魅力的だ。
なぜなら、知性を理解する洞察力を持っている人間よりも、
目を持っている人間の方がはるかに多いからである」。


道を究めれば究めるほど、そこは細く深い世界になっていく。
必然、その世界を評価できる人間は少なくなる。

道を究めようとする者の最大の誘惑は、
「多くの人間に認められたい」という欲求かもしれない。

しかし、そうした欲求を満たしたいなら、道を究めるよりほかの術をとったほうがいい。
「大衆から人気を得る」というのは、また別のところの才能なのだ。

                                       * * * * *

江戸時代の文人、大田南畝(おおた・なんぼ)は、 『浮世絵類考』 の中で、
浮世絵師、東洲斎写楽についてこんな記述をしている。


「あまりに真を画かんとて
あらぬさまにかきなせしかば
長く世に行われず 一両年にして止む」


……あまりに本質を描こうと、あってはならないように描いたので、
長く活動できずに、1、2年でやめてしまった、と。

東洲斎写楽。寛政6(1794)年、豪華な雲母摺りの「役者大首絵28枚」を出版して、
浮世絵界に衝撃デビューした彼は、翌年までに140点を超える浮世絵版画を制作したものの、
その後、忽然と姿を消した。

Syarak cp東洲斎写楽のあの大胆な構図の「役者大首絵」は、現代でこそ、高い美術的価値が付いている(残念ながら最初に高い価値を与えたのは海外の国であるが)

ご存じのように、写楽の絵は、描き方がいびつ(歪)で、
あまりに歌舞伎役者の特徴をとらえすぎていた。
このことは、歌舞伎興行側・役者側からすれば好ましくないことだった。

彼らは「大スターのブロマイドなんだから、もっと忠実に、もっと恰好よく」を望んだ。
同時に、観客である庶民からもその絵は人気が出なかった。
お気に入りの役者のデフォルメされた絵など買いたいと思わなかったからだ。

版元の蔦屋重三郎は才能の目利きだったかもしれないが、
版元も商売でやっている以上、当然、多く売れるように仕向ける。
写楽に「もっと写実的に描けないか」と圧力をかけたことは容易に想像できる。

事実、「役者大首絵28枚」以降の写楽の絵はごく普通のものとなり、
明らかに生気を失くし、陳腐なものに堕ちていく。

写楽は非凡なる絵の才能を持ち、非凡なる絵を描いた。
無念なるかな、同時代の大衆はそれを評価できなかった。

写楽ほどの才能をもってすれば、
大衆好みのわかりやすい絵をちょこちょこと描いて、食っていくこともできたかもしれない。
しかし、それは自分をだますことになるという気持ちが強かったのだろう。

写楽のその後の人生は詳しくわかっていないが、
一説には、人知れず画業の道を貫き生涯を終えたとも。

                                         * * * * *
Md cap
アメリカの音楽産業は1960年代からオーディオ製品の普及に伴って、一気に拡大を見せる。
音楽レコードはもはや一部の金持ちの趣味品ではなくなり、大衆商品になりつつあった。その起爆剤になったのが、ロック音楽の台頭である。

1940年代からジャズ音楽界入りし、円熟の技が冴えるマイルス・デイビスもその渦中にいた。
以下は、『マイルス・デイビス自叙伝〈2〉』

 (マイルス・デイビス/クインシー・トループ著、中山康樹訳、宝島社文庫)
からの抜粋である。


1969年は、ロックやファンクのレコードが飛ぶように売れた年で、
そのすべてが、40万人が集まったウッドストックに象徴されていた。
一つのコンサートにあんなに人が集まると誰だっておかしくなるが、
レコード会社やプロデューサーは特にそうだった。

彼らの頭にあるのは、どうしたら常にこれだけの人にレコードが売れるか、
これまで売っていなかったとしたら、
どうやったら売れるようになるかだけだった。

オレの新しいレコードは、出るたびに6万枚くらい売れていた。
それは以前なら十分な数字だったが、この新しい状況となっては、
オレに支払いを続けるには十分なものじゃないと思われていた。

1970年に『フィルモア・イースト』で、
スティーブ・ミラーというお粗末な野郎の前座をしたことがあった。
オレは、くだらないレコードを1、2枚出してヒットさせたというだけで、
オレ達が前座をやらされることにむかっ腹を立てていた。
だから、わざと遅れて行って、奴が最初に出なければならないようにしてやった。
で、オレ達が演奏する段になったら、会場全体を大ノリにさせてやった。


『フィルモア』に出ていたころ、ロックのミュージシャンのほとんどが、
音楽についてまったく知らないことに気づいた。
勉強したわけでもなく、他のスタイルじゃ演奏できず、楽譜を読むなんて問題外だった。
そのくせ大衆が聴きたがっている、ある種のサウンドを持っているのは確かで、
人気もあればレコードの売り上げもすごかった。
自分達が何をしているのか理解していなくても、
彼らはこれだけたくさんの人々に訴えかけて、レコードを大量に売っている。
だから、オレにできないわけがないし、
オレならもっとうまくできなきゃおかしいと考えはじめた。


オレには創造的な時期ってものが、いつだってあるんだ。
「イン・ア・サイレント・ウェイ」から始まった数年間は、
1枚1枚のレコードで、まったく違うことをやっていた。
どの音楽も、すべて前よりも変わっていたし、誰も聴いたことがないことをやっていた。

だから、ほとんどの批評家連中が手を焼いたわけだ。
連中は分類するのが好きで、わかりやすいように、
自分の頭のどこか決まった場所に押し込んでしまう。
だからしょっちゅう変化するものは嫌われるんだ。
何が起きているのか一所懸命理解しなきゃならないし、
そんなこと連中はしたがらない。

オレがどんどん変化しはじめると、やってることがわからなくて、
連中はこき下ろしはじめやがった。
だがオレには、批評家が重要だったことなんか一度もない。

やり続けてきたことを、そのままかまわずにやり続けるだけだった。
今だってオレの関心は、ミュージシャンとして成長すること以外にないんだ。


1971年には、ダウンビート誌でジャズマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれて、
バンドもグループ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
オレはトランペット部門でも1位になった。

オレだって賞をもらってうれしいのは事実だが、
特別大喜びするような類のものじゃないってことも確かだ。
音楽の中味と賞は、関係ない。


(1986年に)オレはホンダのバイクコマーシャルにも出たが、
そのたった一つのコマーシャルが、オレの名前を広めるという意味では
今までにやったどんなことよりも大きな効果があった。

黒人も白人もプエルトルコ人もアジア人も子供も、
オレが何をやってきたかをまったく知らない、
オレの名前すら聞いたこともなかった連中が、

通りで話しかけてくるようになった。
チクショー、なんてこった! これだけの音楽をやり、たくさんの人々を喜ばせて、
世界中に知られた後に、オレを人々の心に一番強く印象づけたのが、
たった一つのコマーシャルだったなんて、クソッ。

今この国でやるべきことは、テレビに出ることだ。
そうすれば、すばらしい絵画を描いたり、
すばらしい音楽を作ったり、すばらしい本を書いたり、
すばらしいダンサーである誰よりも、広く知られて尊敬されるんだからな。

あの経験は、才能もなく、たいしたこともできない奴が、
テレビや映画に出ているというだけで、
スクリーンに現れない天才よりも、はるかに称えられ尊敬されるってことを
教えてくれた。


* * * * *

再度、悪神がささやく───


「道を究めるなんていう高尚な生き方もなるほどけっこうだ。
しかし、賢くたって、深い世界を知ったところで、食えなきゃしょうがない。
食えなきゃ敗者だ。
大衆にモテることさ。食うのがラクになるってもんだ。

もう一度訊こう。
おまえさんは、“王国一賢い男”にも、“王国一ハンサムな男”にもなれる。
さぁ、どちらを選ぶかね?」……



Fln lv 02



2011年12月 2日 (金)

留め書き〈025〉~100%当たる未来透視術


Tome025



自分の未来を確実に予見する方法!?
───自分でそのとおりに現実をつくってしまうこと!




ずっと以前、仕事で親しく付き合わせていただいた方で
プロ並みに手相占いができるSさんがいた。

Sさんは、占う側は「断定的にものを言ってはいけない」ということをよく口にしていた。
それは、占いがはずれたときに自分の信頼をなくすということではなく、
「相手に呪縛をかけてしまう」からだと言う。
占い師はよくよく、占う相手が、
自分の人生に対し受け身な人間なのか主体的な人間なのかを感じ取って、

伝える内容や言い方を選ばなければならない。
自分の人生の方向性は、占い師が決めることではなくて、自分が決めることだからだ。

自分の未来を確実に予見したいのであれば、
自分で理想とする姿を描き、
そのとおりに現実を押し進めていくことだ。

そのために「自分はこうする!」「自分はこうなる!」と周囲に宣言してしまう。
自分に逃げ道をなくして、ひたすら有言実行を目指す。
かくして予見は的中する。


そう腹をくくったなら、手相をみてもらったらいい。

手相はちゃんとその方向に変わっているはずである。




********
奈良にて「せんとくん」と初対面。
よくよく見ると、けっこうよくデザインされているキャラクターで、
「ゆるキャラ」のカテゴリーに入れられてしまうと、制作者側にとっては少々不本意なのかも。
(いや、逆に、喜んでいたりして)


Sentokun



2011年10月10日 (月)

留め書き〈023〉~悪神のささやき



Tome024 



       「人生の幸福なんてもんは、“鈍感さ”で決まるのさ。
       この世は鋭い人間ほど不幸を味わうように出来ているだろう。
       だから幸せになりたかったら、ゆめゆめ鋭い人間にならないことだね。
       幸福は絶対量じゃなく、充足度だからさ。
       高いものを求めれば求めるほど、現実との差で苦しみが増す。
       十の者が、殊勝にも百を求めるところから不幸は始まるんだ
       十の者が、六か七で満足していれば、それはもう幸福そのものさ。
       野心にしても、向上心にしても、程々に留めておくのが賢い生き方ってもんだ」。


* * * * *


アリやミツバチ、そして人間の社会には、 『2:8(ニ・ハチ)の法則』なるものがあって、
真面目に働く者が2割・テキトーに働く者が8割で社会が回っていくらしい。
ちなみに、アリの巣から2割の働き蟻を取り除くとどうなるか?───
すると不思議なことに、真面目な働き蟻が2割現れて巣全体が存続していくという。

……じゃ、いつまでもしぶとく、
テキトー組に居座っていたほうがラクに生きられる、そう考えたくもなる。

確かに、会社組織を見渡してみても、
問題意識が鋭敏で、仕事ができる人間にはどんどん仕事が集まってくる。
そのために、仕事で身体を壊すのは決まって、鋭敏なできる社員だ。
会社のテキトー族が過労で倒れることなど聞いたことがない。

組織内でヘタに向上意欲をもち、成長だ、変革だなとど責任感を背負って頑張るより、
叱られない程度・クビにならない程度に鈍くテキトーに立ち回る側にいたほうが
シアワセなサラリーマンライフを送れる───これが組織の中の処世術なのかもしれない。

“テキトー”という言葉が悪ければ、”ホドホド(程々)”という表現でもいいのだが、
いずれにせよ「ホドホドは身を助ける」という生き方が勝利を得ている現象を
私たちは少なからず目にする。

しかし、実際のところ、
「あいつは適当にやっていつもラクをする人間だ」とか
「うちの部長は保身的で何もせず、ただ部下を厳しく働かせるだけの上司だ」とか、
他人にそういうレッテルを貼って、人と自分を分断させることはあまり建設的ではない。
むしろ、これは「己心の対話」としてとらえたい。

『2:8の法則』の

「2」の方に回る生き方か、
「8」に回る生き方か。

「鋭く・上を目指して」の行動を起こすのか
「鈍く・テキトーに」の行動で流すのか───。

私たち一人一人は、
心の内で常にその綱引きをしながら一瞬一瞬、一日一日、一年一年を生きている。
私たちは誰しも、「強い自分」と「弱い自分」、
「打ち勝とうする心」と「流される心」の2つをもっているのだ。
そして、その両者の綱引きが、10年、20年という時間単位を経て、
各々の人生コース・生き方の模様が独自のものとして固まっていく。



→ 悪神のささやき 〈後編〉に続く



Yatsu rffl 
山梨県・小淵沢から蓼科方面へ「八ヶ岳エコーライン」を走る

 

 

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