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2011年7月 8日 (金)

留め書き〈022〉~芸術家を殺すな


 Tome023 
 

                            「よき描き手を殺すなんてことは簡単なことさ。
                            大勢が無視さえすればそれでいいんだ」


* * * * * * *

「豊かな暮らし」「成熟した社会」は、さまざまに定義ができるだろう。

私はその定義のひとつとして、
「絵を飾る暮らし」「芸術家を遊ばせる社会」を挙げたい。

量産消費財としてのモノが溢れる時代にあって、
モノには原価(コスト)・値段があり、機能・用益があり、
古くなれば新しく買い換えるという観念が私たちの頭にこびりついている。
そのために、モノを買うときには、
コストに見合った値段か、その機能は他品と比べてどうなのかを念入りに調べ、
買った後にはたいてい「やっぱり新しい商品はいいな。もっと買い換えようか」となる。

私にはたまたま画家の知人がいる。そのおかげで、
画家の個展を観にいき、絵を買い、絵を飾ることをしている。

絵とは不思議なモノで、
コストとは無関係に値がついているものであり
(そもそも絵にコストという概念を持ち込むことが誤り)、
機能・用益といえばおそらくインテリアとしてよさそうだとかそんなようなことだろうが、
実際はそれ以上の何かを感じて買っている。

よい絵はよい本と同じで決して古くならない。
自分の眼が成長すれば、それと一緒に味わいも深まってくる。

私たちは、絵の具の模様が乗った額布を買っているのではなく、
作者が美という真理に向かう過程での「もがきの跡」を買っているのかもしれない。
そのもがきというのは、
作者が長年努力して得た技術や、彼の揺れ動く魂を引き連れていて、
それがいやおうなしに絵に滲み出る(ときに、ほとばしり、舞い、薫る)。
その滲み出に感応してしまうとき、私たちは「ああ、いい絵だな」と息をこぼす。

いずれにせよ用益や値段では計れない、でも傍においておきたいモノ───それが画家の絵だ。
しかし、ある見方をすれば、
生活にあってもなくてもいいモノ───それが画家の絵でもある。
もっといえば、世の中にいてもいなくてもいい人種───それが芸術家だ。

しかし、量産消費財ばかりに囲まれた生活、芸術家の住まない世界はなんとも息苦しい。
「無用の用」ともいうべき絵や画家の生殺与奪の権を握っているのは、
ほかならぬ私たちひとりひとり。市井の生活者が(もちろん投機的な動機ではなく)、
「今度、本物の絵を部屋に飾ってみようか」と画廊に足を運ぶ風景がごく普通になる日本───

ふーむ、やってくるだろうか……(腕組み)。




Workingrm 
平田達哉「ながれ雲」(2010年)を飾る
 





2011年3月19日 (土)

留め書き〈021〉~乗り越えること



Tome021 


               困難それ自体には、人を強くさせるはたらきはさほどない。
               困難を乗り越えようとする過程で、人は強く、賢く、優しくなっていく。

 
  復興は日本人一人一人の強い気持ちから。
  がんばろう!東北・関東!



Sinsaiakari rr 
特に夜の時間帯の計画停電は、
ろうそくの灯りの中で普段考えないようなことを考えさせてくれる


 

2011年3月11日 (金)

留め書き〈020〉~太陽の偉大さ

Taiyo01 

Tome020 

 
 
                      太陽の偉大さは何だろう……?

                      一、途方もない光と熱であること
                      一、絶えず惜しげもなく豪勢に与え続けること
                      一、きょうも変わりなく東の地平から闇を破って昇ってくること




Taiyo01br 

立山連山の山の端が白々と明るくなり、日の出を待っていると、
雄山の頂上から一点の光線が走るや否や、
周辺の岩や草はたちまち長い陰を引き、きらきらと輝き出します。

写真を何枚か夢中で撮っているうち、
ものの数分も経てば陽はもうとっぷり山の上に出ています。
そして、日の出前まで凍えていた身体の
陽を受ける面だけがしっかり温まってきます。
太陽の熱量はすごいものだと感じるときです。


Taiyo02a 
Taiyo02br 

私は沖縄の3月の太陽が最も好きです。
真夏の猛々しい陽ではなく、
人間で言えばまだ思春期の、どことなくはにかみながら微妙で繊細で、
それでいてどこかに芯の入った勢いのある、そんな陽を全身で感じたくて
その時期に滞在することが多いです。



Taiyo03 

夕陽の写真を撮っている人であればよく知っていることですが、
空焼けは日没直後よりも10分~15分ほど過ぎたほうが美しい色が出ます。
偉人の多くは、死してなお著作などを通じて今の人びとに影響を与えます。
彼らのつくりだす空焼けを現代の私たちはじゅうぶんに観照したいものです。


                       * * * * *


Tome020ag 

2011年2月 5日 (土)

留め書き〈019〉~美はそれを見つめる瞳の中にある


Huyukodachi 


 Tome019 
 
“Beauty is in the eye of the beholder.”とは、英語にある表現だが、
一般的には「美は見る者の目に宿る」と訳されているらしい。
私は「美はそれを見つめる瞳の中にある」としたほうが好きだ。

春に爛漫と咲く桜は美しい。
白銀の冠を戴き雄大にそびえる富士の山は美しい。
これらは万人にわかりやすい美だ。

それと同じように、近所の雑木林を歩いて見上げる冬の木々の
魔女の手の甲に走る血管のような枝々も私は美しいと思う。
そして、地面に落ち、もはや脱色しカラカラに朽ちた葉っぱも美しいと思う。

美は、“属性”(事物が有する性質)ではない。
美は、他がそれを美しいと感受してはじめて美になるのだ。

ゴッホの絵は美しいだろうか?
……彼の生前は美しくなかったが、死後、美しくなった。

美は、受け取る側の感度・咀嚼力・創造力に任されている。
とすると、「美の生涯享受量」 (LGPB;Lifetime Gross Perception of Beauty)というのは、
個人個人で天地ほどの差が出てくるだろう。

私が興味を覚えるのは、
同時代の個人を比べて誰がLGPBが多いか少ないかということではない。
小林秀雄が、
「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。
常なるものを見失ったからである」と言ったように、
現代人のLGPBは、はたして過去の人びとに比べてどうなのかという点だ。

21世紀に生きる私たちは、科学技術の発達によって、
うんと絵を見、うんと音を聞き、うんと移動して旅をし、うんと豊かにものを食している。
しかしそれでもなお、私が異国のリゾートホテルで見る月は、
鎌倉時代の女房がふと庭木越しに拝んだ月ほどに味わい深いものだろうか。
ひょっとすると日本人のLGPB曲線は、ある時代をピークとして
現在では逓減カーブを描いているのではないかとすら思える。

美を感受し、咀嚼し、創造する瞳が弱ってくることは、美をつくる側をも弱める。
音楽にせよ、絵画、映画、小説にせよ、現在では大作が生まれず、
作品が小粒になったとそこかしこで言われる。
それは、つくり手が小粒になったというより前に、受け手が小粒になったからなのだろう。
いつの時代も「偉大な聴衆が、偉大な音楽家を育てる」のだ。
優れた芸術家を殺すことは訳のないことである。
───みんなが鈍感になりさえすればよいのだから。

私たちは瞳を磨かねばならない。
そのために必要なことは、もっと大きなもの、もっと高いものを求めることだ。
そして深くに心をもぐらせることだ。
表層の刺激ばかりに反応する生活は、瞳を疲れさせるだけになる。
瞳を閉じてこそ、美はすっとにじんで立ち現れてくる。



2011年1月16日 (日)

留め書き〈017-018〉~身で読む・心で読む


Tome017 
 
        「多読・速読」を自慢したがる人がいる。
        私は一人、「身読・心読」できればよいと思っている。


多読・速読が悪いわけではない。
多読・速読して情報を得ればよいだけの本も多い。

ただ、多読・速読を自慢する人は、
何か読書を身を飾るアクセサリーのように考えているのだろう。
それらをじゃらじゃら付けて、街を歩きたいのだろう。

読書のほんとうの意義は、読書量にあらず、読書術にあらず、
どれだけ「身で読めたか・心で読んだか」にある。
それは一人静かな作業である。
あえてさらに言えば、
その読書で得た栄養を、自分の行動・表現・仕事に変換して他者に指し示すこと
───これこそが、私の考える「よき読書人」の姿である。


Tome018 
 
       人びとは外に溢れる知識の摘み取りに忙しい。
       内なる大地を耕すことをほったらかしにして。



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