c)留め書き 〈A Drop of Thought〉 Feed

2010年11月11日 (木)

留め書き〈016〉~自分はどれほどの人財か



Tome016 
 
  自分が社長になったとしたら、
  自分自身を社員として雇いたいか……!?

  自分がどれほどの人財かを知りたいなら、この問いを自分に発してみるといいだろう。



 
 

 

 

2010年9月21日 (火)

留め書き〈015〉~「選択の正しさ」について


France02 
南フランスにて(99年)



Tome015 

    「“正しい選択をした”人が幸せになる」のではない。
    「その選択を事後の努力によって“正しいものにした”人が幸せになれる」のだと言いたい。



私たち一人一人は、常に分岐点にいて、
各々の人生・キャリアは、数限りない選択の連続でつくられていく。

そのとき、
それら無数の選択は、厳密に言えば、選択された時点では、
正しいとも、正しくないとも、どちらでもない。

もちろん、より正しいと思うことを事前に選択するのではあるが、
本当の勝負はその後から始まる。
将来のある時点で振り返ってみて、
「あぁ、あのときの選択は決して間違っていなかった」と思えるように、
事後的に状況をつくっていく---それこそが要なのだ。

選択は「点」であるが、
その後の状況創造は「線・面・立体」である。
仮に「点」の打ちどころを間違えたとしても、
「線・面・立体」で修正していくことは十分可能だ。

さらに言えば、
日頃の「線・面・立体」をきちんとつくっていけば、
その先に訪れる次の選択(=点)は、かなり精度の高いところに打つことができる。
意志と努力の人は、そうやって自らの選択の正しさを強め、
中長期に自らを「想い」の方向に着実に進めていく。


France01 
南フランスにて(99年)

 

 

2010年9月 9日 (木)

留め書き〈014〉~「願い」が「怒り」に変じたら本物だ



Mishagaike01r 
長野県・奥蓼科 御射鹿池にて 



Tome014 

    真剣な願いは「叫び」になる。
    真剣な望みは「祈り」になる。
    真剣な想いは「誓い」になる。
    そして、大きな夢や志は、ときに「怒り」によって成し遂げられた。



願望や想いは、それが真剣であればあるほど、
大きければ大きいほど、
開いていれば開いているほど、
叫びや祈り、誓いといったものに変容していく。
逆に、自分の内から湧いてくるものが、叫び・祈り・誓いになってくれば、
それは本物だ。すでに容易に砕けるものではなくなっている。

また、願望は怒りにも変じる。
それは感情的な怒りというより、理性の怒りだ。
例えばガンジーやキング牧師といった人たちがあれらのことを成し遂げた底流には、
静かで透明でとてつもなく大きな怒りがあったのではないか。

それはあからさまに自分に向けられる抵抗や妨害、嫉妬、誤解、無視などへの怒り。
どこからともなく現れてきて漂う無気力や冷笑、あきらめ、恐怖、保身主義などへの怒りだ。
この怒りは正義の裏返しでもある。

仏像にも「忿怒(ふんぬ)の形相」をしたものを多く見かける。
あれは悪鬼を追い払い、
弱い衆生の心を叱咤激励するための慈悲の次元から発せられる怒りの相だ。

本当に真剣に事の成就のために闘おうとすれば、ときに怒らねばならない。
岡本太郎は「怒り」についてこう書いている。


 「眼にふれ、手にさわる、すべてに猛烈に働きかけ、体当たりする。
 ひろく、積極的な人間像を自分自身につかむために。
 純粋な衝動である。
 そんな情熱が激しく噴出するとき、それは憤りの相を呈する。
 だから、私は怒る。また、大いに怒らねばならないと思っているのだ。

 私は今日、憤るという純粋さを失い、怒るべきときに怒らないことによって、
 すくみ合い、妥協し、堕落している一般的なずるさと倦怠が腹立たしい。
 世の中が怒りを失っていることに、憤りを感じるのだ。

 ところで、私は怒りといったが、早のみこみしてもらいたくない。
 同じ怒りといってもさまざまな質、広さ、その段階があるからだ。
 たいていの場合は、日常のウップンだ。
 足をふまれたとか、あいつ変なことを言いやがったとか、目つきがわるいなど
 ……たわいない。

 そして自分の小ささや弱みにふれられたときなど、インにこもる。
 だがそういう個人の、腹の虫の問題ではない。
 人間として、人間に対する憤り。
 もっと壮烈で、ひろくて、純粋なヤツを私はけしかけるのだ」。

                                                    ---『眼 美しく怒れ』より




Mishagaike02 
御射鹿池は東山魁夷さんの名作「緑響く」のモチーフであると言われている

2010年8月 1日 (日)

留め書き〈013〉~リベンジ根性


Tome013 
 
     素晴らしく生きてみせる!---それが最も痛快なリベンジだ



きょう(2010年8月1日付)の日本経済新聞『私の履歴書』で、
プロ野球元ヤクルト・西武監督の広岡達朗さんの連載第1回目を読んだ。

1954(昭和29年)の巨人軍入団当時、プロの世界は理不尽な徒弟制であり、
選手は一人一人が自分の技術を売り物にする一国一城の主で、他人に関心はないし、
ましてや他人に教えるなんてことはとんでもないという雰囲気が支配的だったこと、
そして新人に対しては、いじめに等しい仕打ちもいろいろあったこと、が回想されている。
そんな中で、広岡さんは、

  「結局はたくさんの人の力を借りて、道を切り開いていくことになるが、
  『屈辱を受けても、自分はその人より正しい人間であるという信念を持って、
  見返すべく努力、勉強していく』
というのが、私の人生のテーマの一つになった」

と書いている。また、

  「川上(巨人軍の大先輩にあたる川上哲治)さんには、自分でまいた種とはいえ、
  引退してからベロビーチキャンプでの取材を拒否されるなど、冷たく扱われた。
  だが、それを『それなら巨人を破って日本一になってやる』というエネルギーに
  変えて頑張ることができた。
  時間がたった今、自分につらく当たった人、球団にはむしろ自分が発奮する手助けを
  してくれた、と感謝している。川上さんにも、もちろん何のわだかまりもない」。

さらに、

  「初めてコーチになった70年から2年間の広島時代には実に貴重な体験をした。
  なかなか伸びなかった選手が根気よい指導で成長してくれたのだ。
  正しく教育すれば、必ず人間というものは育つ---。
  これが自分の宝物になった」。

* * * * *

この世を生きていく中で、
理不尽や不平等、悪意や冷笑、偏見や無視で自分の行く手を邪魔されることは何度でも起こる。
裏切りや画策、あるいは失恋に遭って、茫然自失となるときもある。
「あいつのせいで俺は報われなかった」とくさってみてもしょうがない。
ましてや、逆ギレして悪さに走るのは愚弱の姿である。

自分を押し上げていくには反骨心が必要だ。
倒れても倒れても起き上がってくる負けじ魂が必要だ。
いまにみていろ!というリベンジ根性が必要だ。

本当に悔しいなら、
本当にあいつらに仕返しをしたいなら、
素晴らしく生きる姿を見せてやることだ。
立派な生き様を見せつけてやることだ。

急ぐことはない。
10年、20年をかけてやればよい。
長い年月が経ち、自分が大きく生まれ変われば変わるほど
彼らへの衝撃は大きくなる。

それこそが、最良の、そして最も痛快なリベンジだ。


Italia01 
イタリア・シエナにて(95年)

 

2010年7月 1日 (木)

留め書き〈012〉 ~運・鈍・根

Tome012


最初に「運・鈍・根」という言葉を聞いたのは20代初めのころだったろうか。
私はこの言葉を何となく好きになれなかった。
何か苦節何十年という演歌歌手が口にする人生訓のようで、
血気盛んで(勘違いに)自信家だった自分には地味過ぎたからだ。

運なんかをあてにするより実力だろう。
鈍なんて野暮ったい。知性も感性も鋭敏でなくちゃ。
根気、根気って、根気にしがみつくより、方法論を変えたらどう?
・・・と、まぁ、それはそれなりに理屈は通っているのだが、
いま思うと、若気の至りの解釈だったかもしれない。

しかし40も後半になって、ようやくこの「運・鈍・根」の三文字が
味わいのあるものとして咀嚼できるようになった。

私はいま、「運・鈍・根」を「生(活)かされる自分・愚直・信念」として受け留めている。

私は20代、30代、狩猟的に働く舞台を変えた。
会社員として4度の転職、そして海外留学と、環境の変化を能動的に楽しんだ。
仕事への想いは強かったが、信念と呼べるものではなかった。
しかし、40歳で独立して、時を経るごとに信念が出来あがってきた。
そしてそれは職業人としてのアイデンティティーの根っことなった。
教育事業という大地に自分を植え付けることにより、何か安定感を得た。

独立後、確かに市場の変化や顧客の要望に敏感でいようとはする。
しかし、それよりも重要と考えるのは、ある種、鈍感になって、
自分がやるべきだと思うことを愚直に掘り進んでいくことだ。
そして「これが自分の信ずる形だ。どうだ!」と言って、市場・顧客に差し出す。

そうして、「根」に「鈍」に、もがいているとどうだろう……
差し出した仕事に共感いただける方や応援してくれる仲間などができてくる。
下からは押し上げられ、上からは引っ張り上げられ、
何か自分の歩むべき道がすぅーっと開けてくる。
そして、その道の上で「生(活)かされる自分」を自覚する。
それこそがひとつの「運」のはたらきなのだろう。

「生(活)かされる自分」とは、決して受動的な姿ではない。
そこにはむしろ“大きな我”“開いた我”がいる。

もし人生の重大事として「運・鈍・根」を語る人がいれば、その人はきっと、
信念の下に生き、
愚直に何かを求め、
生(活)かされる自分をじゅうぶんに意識している人だと思って間違いない。



 

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