1) 仕事/キャリア Feed

2009年9月18日 (金)

「自分の登るべき山」はどこにある!?

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夏を仕事で忙しくしていたら、すでに稲穂は頭を垂れるほどに実り、
時を測ったかのようにヒガンバナ(曼珠沙華)が畦に咲く



私は時々気分転換で
地元の公立図書館の学習室に行って仕事をするときがあります。
社会人学習室は簡単なブース形式になっていて
机や椅子の使い心地はいいし、空調もほどよいので平日でも利用者が多い。

そんな中の常連に、
いかにも「俺は年季の入った司法試験浪人だ!」張りの男性がいます。
机の上には六法全書やら専門書やら参考書やらを何冊も積み上げて
いつも大学ノートに何かを書き込んでいる。(居眠りも多いが)
いつぞやは鉢巻きをして勉強に臨んでいました。
歳格好からすると、すでに5浪や6浪くらいはしていそうな貫禄(?)です。

私が「浪人」で思い出すのは、予備校時代の「東大浪人」でしょうか。
私も1年間予備校に通いましたが、そこには「東大以外は大学にあらず」として
2浪3浪中の先輩受験生がまたぞろいました。
私はその後、運よく慶応大学に入りましたが、驚いたのは、
一応、慶応大学に入学しておき、籍だけ置いて、
もう1年東大受験に専念する幽霊学生がクラスに何人もいたことです。

また、世の中には「ミュージシャン目指してます」とか
「人気芸人になりたいんです」ということで
定職に就かずアルバイトで食いつないで
そのための活動をやり続ける人たちがたくさんいます。

「司法試験合格」にしても
「東大合格」にしても
「ミュージシャンになる」、「人気芸人になる」にしても、
(各自の抱く内面の動機=“何のために”という自問はともかくとして)
これらはひとつの夢であり、目指すべきひとつの目標です。

私はそうした夢や目標をもつことは極めて大事だと思っているし、
(研修でもその重要性を言っている)
初志貫徹のために挑戦を続ける姿には敬意を表したい。

しかし、同時にそうした人たちに対し、
本記事で以下に述べることも頭の中に併存させてほしいと願うものです。


なぜなら上記のような人たちの中で、ある割合の人たちは
夢を言い訳にしてほんとうの実り多き人生を逃していたり、
その目標に向かってただチャレンジしている風だけのことに
満足してしまっているかもしれないからです。


◇ ◇ ◇ ◇

では、本論に入ります。

まず指摘したいことは、キャリア形成には
「意図的につくりにいくキャリア」
「結果的にできてしまうキャリア」の2種類があることです。

前者は、「医者になろう」とか「宇宙飛行士になろう」とか、
明確な目標を定めて、意図的に計画してステップを踏んで
ついにそれを獲得していくものです。

後者は、医者になろうと思って医学の勉強をしていたが
薬学の研究のほうに興味が湧いて、結果的に新薬の研究者になったとか、
医者になったものの、文芸の才能に目覚めて小説家になってしまったとか
(例えば、北杜夫氏や渡辺淳一氏、マイケル・クライトン氏など)、
必ずしも計画的ではなかったが、当初とは違う選択が途中でひらめいて、
もがいて奮闘して、振り返ってみたらその道で食っていた、
そんなようなタイプのものです。

もちろんこの2つのタイプは、シロかクロかというものではなく、
誰しもこの両者の混合でキャリアをつくっていきます。
ですから、状況に合わせてこの両者の取捨選択や、
バランスをうまくとることが肝要なのです。

「意図的につくりにいく」キャリアに固執した場合の欠点として、
「俺はこれになるしかない!」といった絶対無二の目標を立ててしまうがゆえに
他の選択肢が目に入らなくなり、自分の才能を限定してしまう恐れがある、
または、いったん他の道に進んで、
そこから迂回して当初の目標に辿り着くという可能性をなくしてしまう、

などが考えられます。

図1は、そのことを表現したものです。
1021cp01

キャリア形成の途上、私たちの目前には、
月々日々、年々、大小さまざまな分岐点が現れてきて、
その都度、複数の選択肢が立ちます。
そして、あるものを選択して進んでいく。
あるいは、意思や努力に反してある方向に転がってしまう、そんなことの図です。

例えば、いま自分がA点にいて、
D点という山の頂を「意図的につくりにいくキャリア」として目指しているとしましょう。
B点までは何とかうまく来て、
次にC点に上ってゴールに到達したかったのですが、
そこで失敗をしてしまい、不本意ながらX点に落ちてしまいました。

ここでモヤモヤ、ウジウジとD点という夢が捨てられなくて
モラトリアム状態、夢を言い訳状態にして、時間を浪費してしまうことは
上に述べたとおり「意図的につくりにいくキャリア」の欠点になります。

しかし、そこで頭の切り替えをして、
自分の能力や価値観の再編成を行い、他の活路を見出そうともがく努力が大事です。


その結果、Y点を経由して、
Z点という当初とは違う山の頂に上り詰めることも可能になるのです。
(そしてZ点を経由して尾根伝いにD点に行けるチャンスも芽生えるかもしれません)

そのときあなたは、遠くにD山を眺めながらこう思うでしょう。
「Zという山もまんざらではない。むしろこの山こそ自分が求めていた山だ」、
「C点を目指したときの失敗は自分には十分に意味があったのだ」、
「あの出来事は起こるべくして起こったに違いない」・・・。

この想いに立てたときこそ、まさにあなたが偶発を必然に転換し、
「結果的にできてしまうキャリア」を最大限のものにした瞬間です。


◇ ◇ ◇ ◇

キャリアづくりにおける選択肢や出来事には、あらかじめの正解値はない。
その後の行動で、それを結果的に「正しかった」と確信できる状況にできるかどうか
―――それこそが最重要の問題なのです。

アメリカンフットボールの名コーチとして知られるルー・ホルツはこう言いました。
「人生とは、10%の我が身に起こること。
そして残り90%はそれにどう対応するかだ」。


もうひとつ、画家パブロ・ピカソの言葉―――
「着想は単なる出発点にすぎない
着想を、それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。
仕事にとりかかるや否や、別のものがぼくの画筆の下から浮かびあがるのだ。
・・・描こうとするものを知るには描きはじめねばならない」。


私はここで絶対的な目標を立てるな、全ては柔軟的であれと言って、
「意図的につくりにいくキャリア」の欠点だけを強調するつもりはありません。
ひとつ決めた道を何が何でもやり遂げるという生き方は素晴らしいものです。
逆に「結果的にできてしまうキャリア」を偏って肯定すると
今度は漂流するキャリアという現象をまねく危険性が出てきます。

私が本記事で主張したいことは、
・各自が「自分の登るべき山」をもつことは必須である
・しかし「自分の登るべき山」はそれひとつのみではないかもしれない
・キャリアを拓くためのもっとも重要な力は「状況を創出するたくましさ」である
  (計画する力は二の次のものである)
・状況を創出しようと奮闘する過程で見えてくる山が真の山であることが多い
・そう構えれば「自分の登るべき山」はそこかしこに無限に存在する
・そして死ぬ間際に「自分の登った山」(ひとつかもしれないし、複数かもしれない)を
 充実をもって振り返る
 ――それが「幸せのキャリア」(「成功のキャリア」ではない!)である


◇ ◇ ◇ ◇

最後に理解の補足・おさらいとして、図を加えます。
図2をみてください。
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あなたは、キャリアの途上で、当初目指したD山もZ山も登頂がかなわずに
(それは意志・努力が足りなかったのか、運命のいたずらなのか分からないが)、
P点に落ちてしまった(P点に退く形にしかならなかった)。
あなたはともかく気落ちしています。

さて、あなたはもうこの世に登るべき山など見出せないのでしょうか?
これまで果たせなかったD山やZ山を恨めしく思いながら生きていくのでしょうか?
もう山なんぞこりごりだと言って適当に自分をごまかして過ごしていくのでしょうか?

・・・まぁ、そうすることもできるでしょう。
(そして、実際、そういう人は多い)

しかし、私が本記事で訴えたいことは、「もがいてみよう!」ということです。
どうもがいたらよいかは次回の記事で書きますが、
ともかくもがくことで、いったん、
Q点のような少し見晴らしのきく場所に辿り着くことができる(図3)。
そして、そこから、実はいろんな次の山が見えてくる。
それはR1という山かもしれないし、R2かもしれない、R3かもしれない、
・・・無限の種類のR山がありうる。
(P点に沈んでいた時には想像もつかないようなR山が)
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結果的にR山を登ってしまった人にとっては、過去のP点の自分を悠然と振り返られる。
逆に、P点でもがくことをせず、妥協の人生に流れた人は、
ついぞR山の可能性が無限に広がっていたことに気づくこともなく生きていく。

最後に、本記事のタイトル:「自分の登るべき山」はどこにある!?
に対する答え―――そこかしこに無限にある!


◇ ◇ ◇ ◇
思い出した補足をもうひとつだけ。
私がかつて大学で講義をしたときに学生に伝えたことです。

冒頭の「何がなんでも司法試験合格」「何がなんでも東大」のように
就職の際の会社選びにしても
「何がなんでも三菱商事」とか「何がなんでも三菱東京UFJ」など
世間の決めたランキングに依って、ブランド品を欲しがるように就職先を志望する。
その発想に揶揄と親ごころの助言を込めて、
私は冒険家・植村直己さんの次の言葉を紹介しました。

「私は五大陸の最高峰に登ったけれど、
高い山に登ったからすごいとか、厳しい岸壁を登攀したからえらい、
という考え方にはなれない。
山登りを優劣でみてはいけないと思う。
要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、
登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う」。

                        
 ―――植村直己『青春を山に賭けて』

2009年8月19日 (水)

自己価値スロープ


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今年の夏は、夏らしくない。
写真の入道雲は8月7日に撮影したものですが、
後にも先にもこうした入道雲はこの日っきりみかけることがなかった。




人生が長くなった。
会社勤めであれば、一般的に60歳で定年退職を迎える。
いまの60歳は若い。

仮に貯蓄や年金でリタイヤ後の生活に金銭的な不自由がなかったとしても、
毎日が趣味の日、毎日がレジャーの日、毎日がのんびり休息日・・・なんていう人生は
はたして面白いだろうか?
あるいは、死ぬ間際に心底それでよかったと思えるだろうか?

誰の言葉か忘れたが、
「毎日が休日というのは、ある一つの地獄の定義である」とある。

実際のところ、私たち庶民のほとんどは、
経済的に60歳以降も働かなければならないだろうし、
精神的にも働いた方が健全であることは間違いない。

しかし、問題はそのとき選択肢がどれだけ目の前にあるか、だ。

団塊の世代が定年退職を迎え、再就職に回る姿がテレビなどでよく紹介される。
元の会社で再雇用される人は幸運な部類だが、
それとて契約社員扱いで給料は退職前と比べて激減する条件に
本人が愕然とする場面がほとんどだ。

定年に限らず、私たちはどこかひとつの会社を退職して、
一個人の働き手となった瞬間から、労働市場の中で自分の価値を厳しく問われる。


働き手として自分の価値が十分に高ければ、好条件での引く手はいくつも出てくる。
逆に自分の価値が低ければ、選択できる手は少なくなる。
自分の価値を値踏みされるのが嫌なら、自分で商売を始めるしかない。

サラリーマンでい続けると、こうした自分の価値に対して意識が鈍感になりやすい。
自分の価値に早くから意識を高くもち定年を迎えるのと
意識をもたずに定年を迎えるのとでは、それこそ愕然とする差が出る。
働き手として自分の価値―――それは主に知識や技能といった能力資産、人脈、自律意識、
就労観、人徳、健康などによってつくらるが―――は、一朝一夕には高められない。

だから、
60歳になって世間の客観的評価に愕然としなければならない現実を避けるための闘いは
実は今のこの時点から始まっている。

そこできょうは「働き手としての自己価値」について私見を紹介したい。

自己価値を語る前に、仕事には2つあることを押さえたいと思う。
それは「代替される仕事」と「代替されない仕事」である。
前者は言いかえれば「誰でもやれる仕事」、後者は「あなたでしかやれない仕事」である。
両者の境界線は必ずしも明確に線引きはできないが、
私たちが日々行う仕事は、たいてい、この2つの要素の混合である。

両者の特徴としては図にあげたようなものだ。
Cslope01

で、まず、「代替される仕事」ばかりをやり続けていく人はどうなるか。
図に示した通り、人材価値は年齢とともに低下していくのみとなる。
Cslope02

同じ定型業務をやる20代Aさんと30代Bさんではどちらが人材価値が高いだろうか?
それは、若くてこれからの発展性もあるAさんのほうが
高い人材価値があるとみなされる。
Bさんはいくら否定しても労働市場というのはAさんに高い価値を置く(残念ながら)。


次に、「代替されない仕事」に挑戦し、それを行い続けていく人はどうなるだろうか?
図のように、人財価値は年齢とともに向上していく。
Cslope03

基本的に「代替される仕事」はラクである。
(やらされ感、労役感があって、ツライものではあるが)
一方、「代替されない仕事」はシンドイ。なぜなら坂を上るような負荷があるからだ。
負荷というのは、
創造する意志、未知の世界に足を踏み込む勇気、リスクを取る覚悟、
転んでも起き続ける執念、批判への忍耐、周囲を説得する努力
などをいう。

図のように代替されない仕事によって人財価値は右肩上がりに増大していくが、
その上り傾斜(IR傾斜)は、そのまま負荷の坂を表わすと思ってよい。
つまり負荷の坂を上ることと、人財価値を向上させることはセットなのである。


さて、一個一個の働き手の自己価値は次のような数式で表わされる。

自己価値=人材価値+人財価値

私たちは、就職したてのころは主に「代替される仕事」を任される。
そして、職業人として成長してくるにしたがって「代替されない仕事」をやり出すようになる。
徐々に「代替されない仕事」の割合を増やしていくと、自己価値は増大していく。
しかし、「代替されない仕事」の割合を増やさないまま、
「代替される仕事」を繰り返していると、自己価値は低下していく。
Cslope04

いまや、真面目に言われた通りの仕事をこなすだけでは
(仕事でラクばかりを考える人・ズルをする人は言うに及ばず)
一生を通じて雇われにくい状況が生じている。

大企業勤めや公務員はいったん雇われてしまえば、現役の間は雇われ続ける確率は高いだろうが、
定年後は確実、労働市場から冷徹に評価されるときがやってくる。

働く人生は長い。この先何十年と続く。
働きたくても働けない―――そんなことを回避するために、
そして
どうせ働くなら、働きたいところで働きたい―――それを叶えるために、
日頃、大小のことで、
自分にしかできない仕事=「代替されない仕事」をやる習慣を身に付けるのが最大の方策だと思う。

その習慣は坂を上るような負荷のかかることだが、ここを逃げたらダメだ。
自分の価値を右肩上がりにしている人は、
自分が不断の努力でその上り傾斜を上る人なのだ。

2009年7月25日 (土)

楽観主義は身を救う

「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」
   

                                              ―――仏哲学者・アラン


私は主に企業に勤めるビジネスパーソンたちと日頃、仕事で接しています。
彼らの多くが「仕事がツライ」と口にします。
この「ツライ」には、千差万別あります。
能力のキャパと仕事の要求がミスマッチでツライ場合もあれば、
嫌で嫌でしょうがない仕事を任されてツライという場合もある。
仕事に何らかの面白みを感じていてツライと思いながらも頑張れる場合もあれば、
まったくの怠け根性でただツライツライと愚痴っている場合もあります。

また、私は直接の接点はありませんが、
世の中には不幸にしてフリーター人生を余儀なくされ、
日々、本当にツライ3K仕事をして糧をつないでいる人もいるでしょう。

私はこの「仕事のツライ」に対して個人ができうる最大の処方箋は
楽観主義を持つことだと思っています。

(もちろん、企業や社会が制度面で解決しようとする努力は複合的に必要です)

つまらない、
生きるためにしょうがない、
どうせ俺の人生はこんなもの、
所詮、会社や世の中はそんなもの、
といった悲観主義を分母にしたツライは、早晩自分の心身を痛めていくのが確実です。

一方、
そこに何か面白みを見つけてみよう、
働くことでいろんなことが勉強できる、
この方向で頑張れば何かが見えてくるはず、
この仕事には意味を感じているから、
など楽観主義を分母にしたツライは、自分を成長回路に乗せてくれます。

ちなみに私がここで言う楽観主義とは、
状況を気楽に構えながらも「最終的にはこうするぞ」という意志を含んだ姿勢のことです。
ですから楽天主義とは異なります。
楽天主義とは、意志のない気楽さです。根拠のない安逸と言ってもいいかもしれません。
(別名:能天気)

いずれにせよ、
悲観主義をベースにするか、楽観主義をベースにするかで
仕事のツライは、天地雲泥の差が出ます。
(5年後、10年後、20年後の差は決定的です!)

だから、私は楽観主義を声高に勧めたいのです。

では、楽観主義と悲観主義の分岐点はどこにあるか―――
それは冒頭のアランの言葉にもあるとおり、
目の前の状況を
意志的にとらえるか、それとも、感情で流されるか、
にあります。

自分に言い訳をつくって、他に責任を転嫁して、感情に流されるのは簡単なことです。
しかし、そこをあえて、未来的な意志の下に
状況をポジティブに建設的に解釈しなおしていく。そして行動していく。
この微妙な心持ちの差が、一刻一刻、一日一日、一年一年と積み重なって
結果的に悲喜こもごもの人生模様になるんだと私は思います。

* * * * *

ものごとを楽観的に構えるとは、いろいろな方法や思考法があるでしょう。
私は次のように
仕事というものに対して意識を拡げてみてはどうかと言っています。

○例えば、仕事は「ゲーム」だと考えてみる。
ゲームはある種の勝負事ですが、遊び心をもって楽しんでやるものです。
現在、仕事上で目の前に抱えるトラブルや困難は、
ゲームを面白くするためにゲームメーカーが仕組んだ障害物だととらえてみる。

テレビゲームを1面1面クリアしていくように、
1つ1つの問題を解決して、「よーし、次の面はどんな面だ」と待ち受けることができれば、
仕事のストレスは軽減され、質さえ変わる。

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○また、仕事は「絶好の学び機会」だと解釈してみる。
仕事はさまざまに私たちに“解”を出せと求めてきます。
しかし、解がすんなり出せる公式はありません。
だからこそ、無上の学習機会なのです。学習は成長でもある。

しかも、給料をもらいながら、こうした学習と成長ができるのです。
有り難い話ではないですか。

○さらに、仕事は「趣味・アート」だととらえてみる。
今は一個人の趣味活動やスタイルが消費者の心をつかまえて、
そのままビジネスになりうる時代です。

自分の興味・テイスト・スタイル・凝った技能を仕事に付加してみる。
好奇心をエネルギーに変えて、
「こんなこと考えてみました」とか「こんなふうにつくってみました」と、
自分表現のアウトプットを上司や組織に提案してみる。
思わぬところから、「お、それいいね」と反応が起こり、
一気に仕事が面白くなるかもしれない。

「趣味ゴコロ? 自分のスタイルを付加する? そんな努力したって所詮ムダ」
とシラけて何もしない状態こそ、悲観主義者です。
楽観主義者は、そこでこそ行動を起こす人なのです。
確かにそんなヘタなことをしてみても、容易に周囲が称賛してくれるわけでもないでしょう。
しかし、誰か一人でも反応してくれれば、そこから何かが開けることは十分にあることなのです。
人生の転機とは実際そのような些細な一点から生じるものです。

* * * * *

下の図は、私たち一人一人が常に傾斜に立っていることを示したものです。
(ベルグソンの箴言を図化したものでここでも紹介しています)

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この世の中は、残念ながらと言いましょうか、思慮深きと言いましょうか、
私たちに下向きの(精神的)引力を四六時中はたらかせています。
言いかえれば、
私たちは気を緩めれば、いつでも下に転がるような摂理の中に身を置いているのです。

この傾斜という負荷に対し、抵抗をやめることは基本的にラクです。
しかし、そのラクの先に楽園はありません。
逆に、私たちは「仕事」という傾斜を上っていく努力をする限り、
何らかの成長や喜びを得ることができます。
(しかし、その努力の先に楽園が必ず待っているわけでもありません。
これがこの世のトリッキーなところです。
しかし、その傾斜を上ろうとする過程こそが幸福であると私は思っています)


仕事という傾斜に対し抵抗をやめれば、
そこには「労役」という別の世界が待ち受けています。
この世界に入り込んでしまうと、ほんとうにツライです。
ネガティブ回路が増幅して脱出も難しくなります。

昨今、社会問題として大きく取り上げられるワーキングプアの問題などは、
この労役の回路から抜け出せない人びとの問題でもあります。
(これは個々人の意識・努力の要因だけでなく、社会制度の要因も考えねばなりません)

その仕事を労役にしないために、
そして現状の仕事をよりよい仕事にするために、
私たちは力強い意志的な楽観主義というものを持ちたい。

もちろんそれだけで、難しく入り組んだ個々の仕事問題が解決できるわけではないが、
楽観的意志を持つことが全ての始まりとなる。
労役への引力に身を任せるな、抵抗せよ、と言いたいのです。

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2009年7月17日 (金)

価値創造回路の広がりと深み

前回の記事では、
仕事とはインプット→スループット→アウトプットのプロセスで
価値を創造していく行為だと言いました。
そして自分が持つもろもろの能力や意志は
その価値を創造する回路みたいなものだとも言いました。

きょうはその回路をさらに詳しくみていきます。

◆「みて」→「かんがえて」→「かく」の流れ
まず、価値創造回路を上から平面的にみたのが下図です。

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自分の中の回路は、おおむね3つの部屋に分かれて広がっていると私はみます。
(といっても実際はこういう間仕切りはなく能力として渾然一体としています)

さて、上流では主に、これから仕事を成そうとするモノやコトの情報や状況を
自分の回路に取り込むための能力が使われます。

例えば、私たちが何かモノを加工する場合、まず、原材料になる素材を入手します。
そして、その素材の状態を「みたり」、「ふれたり」して、
どういう加工方法、工程がいいかの判断材料にします。
また、お客さんがどういうモノに仕上げてほしいかの要望を「きき」ます。

一方、自分が何か知的業務で情報を加工する場合には、
やはり素材となる基情報を「よんだり」「きいたり」して、
どういう情報にまとめていくかの材料にします。

このように、仕事という価値創造は、まず、認知や摂取、受信からスタートします。

次に、その自分が取り込んだものを「わかったり」、「かんがえたり」、
そして「きめたり」、「おぼえたり」するという中流過程があります。
わかりやすくいえば、理解や編集、決定、記憶のステップです。

そして、下流過程として、「かく」「いう」「だす」「つくる」などの、
製作、表現、発信があります。
ここで自分の回路から出されたものが、
アウトプットとして他人の目に触れる形になります。

なお、ここで上流、中流、下流といっていますが、
回路の中でさまざまな能力がはたらく流れは、上流から下流への単調な一方通行ではなく、複雑に行ったり来たりするのが常です。

◆「見る」と「観る」の深さの違い
以上が、自分の中の価値創造回路を上から平面的にみたものです。
では次に、この回路を斜めから眺め、立体的にとらえていきましょう。

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この図のエッセンスは、
私たちの「みる」や「かんがえる」といった行為には深さがあるということです。

例えば、私たちが何かを「みる」場合、
単純に目に映る対象を「見る」こともあるし、
その目に映る対象の奥に、何かの原理や原則を「観る」こともあります。

例えば、普通人はリンゴが木から落ちるのを「見る」だけですが、
ニュートンはそこに万有引力を「観た」わけです。


同じように、単に情報を耳に入れるだけなら「知る」ですが、
それをみずからの経験や他者からの助言などと照らし合わせ高度な情報に精錬させれば、
それは「識る」「智る」になります。
情報はその接し方によって、データにも知識にも知恵・叡智にも変容します。

また、「かんがえる」にも深さがあります。
物事の表層をなぞるだけの「考える」もあれば、
その奥底の本質まで「なぜだ?なぜだ?」と探りを入れて洞察する「考える」もあります。

「つくる」も深みにさまざまあるものの代表格です。
安易に他を真似て「作る」レベルもあれば、
これまでにない独自の発想で「創る」レベルもあります。

また、職人の世界では、ものを加工する場合、
実に多くの技を状況に応じて使い分けします。

例えば、腕の立つ金属加工の職人たちの間では、鉄を「けずる」場合、
「削(けず)る」、「挽(ひ)く」、「切(き)る」、「剥(へず)る」、
「刳(く)る」、「刮(きさ)ぐ」、「揉(も)む」、「抉(えぐ)る」、
「浚(さら)う」、「舐(な)める」、「毟(むし)る」、「盗(ぬす)む」など、さまざまあります。


一般素人であれば、一緒くたで削ることしかできないことも、
職人は一段深いレベルで多種多様な能力を発揮し、「けずり分ける」のです。

◆「知る-わかる-できる-教える」のレベル差
さらには、上流・中流・下流といった部屋の壁をまたいだレベル差も考えられるでしょう。
「知る」→「わかる」→「できる」→「教える」がそのひとつです。

例えば、陶芸について何らかの能力があるといった場合、
焼きものの製法や歴史を「知る」というレベルが第1、
第2レベルは、なぜその製法がよいのかという化学的、実践的な裏づけまで「わかる」というものです。
そして、第3として、実際、自分でロクロを回して、窯で焼くことが「できる」レベルとなり、
第4に、それらすべてを他人に「教える」ことができるとなります。

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◆自分の回路を広げるために
私たちは優れた仕事をしようと思えば、
自分の価値創造回路をふくらみをもったものにしなくてはなりません。

この回路は、これまでみてきたように平面的な広がりと立体的な深みを持っています。
ある仕事を成すために、能力を多種多様に組み合わせよう、
足りない能力があれば習得して自分に増やそうというのは、
回路の平面的な面積を広げようとする努力です。

また、能力を深い次元ではたらかせてみたいというのは、
回路に立体的な深みを出そうという努力です。

こうした、広がりへの張力、深みへの引力を自分に与えてくれる源泉は何でしょうか?

それこそが、働きがいであり、夢や志です。
人はその仕事の中に、充分な意味や意義、
無償でも楽しみたいとする興味・関心、使命感にも似た目的意識があれば、
自発的努力を惜しみません。

そのとき、誰に言われることもなく、自然と「見る」から「観る」へ、
「知ろうとする」から「識ろうとする」へ、
「ぼーっと聞く」から「研ぎ澄まして聴く」へ、
「文句の出ない程度に作る」から「他人があっと驚くほどのものを創り出す」へと
自分の中の価値創造回路を「縦・横・深」に膨らませることができるのです。

「好きこそものの上手なれ」とはまさにこのことを言い表したものでしょう。

私はこうも言えると思っています。
―――山(夢/志)高ければ裾野広し。山高ければ谷深し。

*詳細の議論は、拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で。

2009年7月10日 (金)

仕事とは 価値創造:その3種類

◆価値の創造としての仕事
前記事では、仕事を平面的な広がりの中でとらえてみましたが、
きょうは仕事を動的な変化でとらえます。

仕事とは、どのような行為をいうのでしょうか。それを示したのが下の図です。
3

仕事とは要するに、自分が取りかかろうとするコトやモノに対し、
当初の状態(Before)から、その後の状態(After)で、
いかに変換をし、価値を創造するかです。

その価値の創造には、図に示した通り3つのパターンがあります。つまり、

〈1〉 A→A+ (=その価値を増やす)
〈2〉 A→B  (=別のものにつくり変える)
〈3〉 0→1  (=新しく何かを生み出す)


厳密にはどんな仕事もこれら三つの混合ですが、仕事によってその割合が異なります。
例えば、営業の仕事というのは、主に売上げを増大させることですから〈1〉型です。
また、業務改善プロジェクトは〈2〉型の仕事です。
研究開発の仕事はもちろん〈3〉型となります。

また、働く個人によっても、〈1〉を強みとする人や、〈2〉が得意な人、
〈3〉がからっきしダメな人、といったような差が出ます。

◆自分の中の価値創造回路:能力と意志
私たちは、価値創造という仕事を、どのように成しているのでしょうか。
それを簡単にしたのがこの図です。
Photo

仕事は広い意味での生産活動あるいは情報処理活動といえます。
生産にしても情報処理にしても、まず原料やデータを仕事の行為者である自分に
インプット(Input)することが必要です。

私たちは、インプットのための基本動作として、みる、しる、きく、よむ、ことをします。

そして、次に私たちは、それをわかったり、かんがえたり、きめたりする。
コンピュータ技術の世界では、この段階をスループット(Throughput)という言葉を使います。

こうして自分の考えがまとまると、最後にアウトプット(Output)のための動作に入る。
かく、いう、つくる、だす、などです。

このように、私たちは、何か仕事を行なう場合には、
自分の持っている能力や意志をさまざまに駆使して、
インプット→スループット→アウトプットのプロセスで価値を創造していく。
このとき、自分の能力や意志は、いわば価値創造のための回路としてはたらいているわけです。

次回で詳しく述べますが、自分の持っているこの回路のよしあしが、
自分の仕事のレベルを決定づける
ことになります。
すなわち、この回路の中にどれだけ質のよい多様な能力が詰まっているか
(例えば、「みる」にしても、「見る・視る・観る」と能力の広がり・深さが異なるものがある)、
そしてどれだけ強い意志(これは回路を動かすバッテリーとなる)で活発に動いているか、です。

◆感謝の念に表れるよい仕事の思想
仕事について、もうひとつ触れておきましょう。
それは、仕事の“思想”です。

西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った
知る人ぞ知る宮大工の棟梁です。彼の言葉を紹介します。

「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、
きちんと天に向かって一直線になっていますのや。
千三百年たってもその姿に乱れがないんです。
おんぼろになって建っているというんやないんですからな。

しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。
塔の瓦をはずして下の土を除きますと、
しだいに屋根の反りが戻ってきますし、
鉋をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです。

こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。
千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。

・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、
自然に対する人間の当然の義務でっせ」。


                                                          ―――(『木のいのち木のこころ 天』より)


仕事という活動の入口と出口には、インプットとアウトプットがある。
ものづくりの場合であれば、必ず、入り口には原材料となるモノがくる。
そして、その原材料が植物や動物など生きものの場合、その命をもらわなければならない。
古い言葉でいえば「殺生」です。

そのときに、アウトプットとして生み出すモノはどういうものでなくてはならないか、
そこにある種の痛みや祈り、感謝の念を抱いて仕事に取り組む人の姿を
西岡さんを通して感じることができます。

「よい仕事」とは、物事をうまくつくる、早くつくる、効率的につくることではない。
それは「長けた仕事」というべきものです。
「よい仕事」とは、「よい思想」に根づいている仕事のことです。
思想というと何か堅苦しいことのように聞こえるかもしれませんが、
要は、真摯でまっとうな倫理観、道徳観、ヒューマニズムをベースにすることで、
それがもう充分な思想となる。

毎日の自分の仕事のインプットは、決して自分独りで得られるものではなく、
他からのいろいろな生命、秩序、努力によって供給されている。

であるならば、自分の仕事のアウトプットも、他への恩返しの気持ちで、
価値を増加させた形で生み出し、送り出してやらねばならない。

自分のアウトプットが、今度は他の仕事(=価値創造活動)のためのインプットとなり、
世の中全体(宇宙・自然界全体といってもいい)で「環」になっているからです。

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*詳細の議論は、拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』で。

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