1) 仕事/キャリア Feed

2010年6月 2日 (水)

努力が報われる人生とは ~グランジュテはいつ起こる?



NHK教育テレビで『グラン・ジュテ~私が跳んだ日』という番組がある。
さまざまな女性の職業人生を追っているヒューマン・ドキュメンタリーで
私は観るたびにいろいろにエネルギーをもらっている。

『プロジェクトX』のように壮大なドラマ仕立てでなく、
『情熱大陸』のように超有名人を扱っていない。
どちらかといえば普通の人が職業人生を切り開いていく物語で、
自分と等身大のスケールで観ることができる。
だから余計に現実味を帯びたエネルギーをもらえる。

「ロールモデル不在」とそこかしこで言われる日本社会だが、
こういった番組はそんな中で多くに視聴を勧めたいものだ。
登場する彼女たちの生き様・働き様はロールモデルにじゅうぶんになりえる。
(特に中学生くらいからどんどんみせたらいいと思う)
(今の子供たちは、想いにひたむきな生き方、志に向かう真剣な大人の姿をあまりに目にしていない)

番組タイトル名のグラン・ジュテとは、「大きな跳躍」という意味だ。
(バレエの専門用語から取っているという)
毎回登場する主人公は、さまざまなきっかけや出来事によってその世界に入り、苦労や忍耐を重ねる。
小さな成功に有頂天になるときもあるが、
その後長く続く、ほんとうの試練にさらされて、次第に天狗鼻も削り落とされてゆく。
その下積みのようなプロセスを番組はていねいに追っている。

その下積みの間の心理変化や、主人公のあきらめない心の持ちようこそが、
この番組の一番の肝である。私もそこに強い関心を置く。

番組のタイトルどおり、番組の後半では、そうした苦境を乗り越え、
主人公には晴れて「グラン・ジュテ」の瞬間が訪れる。
そこから彼女たちは、仕事のステージががらりと変わり、成功へのキャリアストーリーが始まる。
それはもう番組作り上の華のようなもので、
また視聴者にとっては必ずあってほしいカタルシスのようなもので、
「あぁ、よかった、よかった」となる。

―――しかし私たちは、この番組をあらかじめ「グラン・ジュテ」があることを
知っているからこそ安心して観ていられる。
番組は必ずハッピーエンドで終わってくれるのだ。
(だからこそ、番組化された)

さて問題は、現実の自分自身の人生・キャリアに引き戻したときである。
自分がいま報われない環境にあったり、
苦境やどうしようもない停滞に陥っていたりするとしよう。
……この下積み状態はいったいいつまで続くのか?
どこまで努力し耐えたら、みずからの「グラン・ジュテ」が訪れるのか?

いや、ひょっとすると、
現実の自分の人生・キャリアには「グラン・ジュテ」などは起こらないかもしれない。
努力が結果として報われない人生など、周辺にいくらでも転がっているのだ……。

さて、きょうはそんなことを前置きとしながら、
「努力が報われる人生とは何か」を考えてみたい。

◇ ◇ ◇ ◇

下の図は、投じる努力とそれに反応する変化を表したものだ。


Granjt01 
 

〈比例変化〉とは、自分の投じた努力に比例して変化がきちんと起こる状況である。
例えば、語学のような習い事の場合、
始めたばかりのころは、勉強量に応じて語学が上達していく。

次に〈逓減変化〉とは、努力に対する変化の度合いが徐々に小さくなっていく状態である。
何事もある程度のレベルに上達してくると、何か「カベ」のようなものにぶち当たり、成長が鈍る。
そんなときのことをさす。

そして3番目に〈非連続的変化〉
私たちはときに、努力しても、努力しても、状況になかなか変化が表れない期間を経験する。
しかし、それでも努力を止めなかったとき、
ふと、突然にジャンプアップの変化が起きるときがある。

私は留学経験があるのでわかるのだが、
アメリカに住んで最初はどうしてもヒアリングに難がある。
しかし、3ヶ月後くらいに、すぅーっと耳に通ってくる
(英語の場合は、頭の中で翻訳プロセスを通さず、ダイレクトに英語でものを考える)
状況が起こる。これは自分の言語能力のレベルがぽんと変わった瞬間である。
これが非連続的変化だ。

さて、冒頭に触れた「グラン・ジュテ」(大きな跳躍)―――
これはまさに3番目の非連続的変化をいう。


また、私はグラン・ジュテを 「過冷却」 の現象にもなぞらえる。

過冷却とは、『ウィキペディア』の説明によれば、
「物質の相変化において、変化するべき温度以下でもその状態が変化しないでいる状態を指す。
たとえば液体が凝固点(転移点)を過ぎて冷却されても固体化せず、
液体の状態を保持する現象」。

水を例にとると、水を常温からゆっくり静かに冷やしていく。
すると、摂氏0度になっても凍らず、マイナス何度という液体の水となる場合がある。
この状態を過冷却という。
しかし、このとき、振動などの物的刺激を与えると、一瞬のうちに水は凍結化する。

つまり、人生におけるグラン・ジュテの直前というのは、
過去からの努力の蓄積が、とうに変化を起こしてもよいくらいの量を投じられているにもかかわらず、
現象として変化が起きていない―――そんな「過冷却」状態であるわけだ。

そこで神様は、彼(女)にきっかけを与える。
何かの事件であったり、出会いであったり。  で、見事、跳躍が起こる。

頭ではこうした人生の原理を説明することはできる。
しかし人生というものは、そう簡単な話ではない。
なぜなら、私たち一人一人がする努力を
計量機をにらめっこしながらちゃんと帳簿につけてくれる神様がはたしているのかどうか
―――それこそ神のみが知ることだからだ。

下図を見てほしい。
私たちは現在から一瞬先の未来のことは予測できない。


Granjt02 
 
 
パターンAのように、あとどれくらいのタイミングで、
どれくらいの努力をつぎ込めば、グラン・ジュテが起きてくれるかはわからない。
1年後か5年後か、いや、場合によっては明日なのかもしれない。

いや、ひょっとすると永遠に来ないかもしれない・・・(パターンB)

いや、そう考えている矢先、
まったく努力などしない隣の能天気人間が、あっさりと成功を収めてしまうことだってある。
(パターンC)

*ちなみに、Cの場合のジャンプアップは、
グラン・ジュテというより 「ラッキー・リープ」(幸運な跳躍) と名づけるべきものだ。
ラッキー・リープした人間は、跳躍した分の中身が伴っていないので、
事後にそこを埋める努力をしないと、身を持ち崩すことが多い。

◇ ◇ ◇ ◇

さて、ここから本記事の大事な結論に移ろう。
私たちは、物事を自分の理想に近づけようと努力をする。
特に仕事上の目標や人生の目的(夢や志)を達成するためには、
相当大きな、そして継続的な努力を要する。
しかし、その努力が “結果として” 報われるがどうかは、残念ながら誰にもわからない。

血のにじむような努力をした人でも、それが報われなかった事例を
私たちは周りで多く目にしている。
かといって、この世の神様は非情だと嘆いてみてもしょうがない。
(たぶん神様は非情的でもなく、逆に同情的でもない。人間の情に関係なく、因果に透徹なだけだ)


Granjt03 

そうしたことを前提として、大事なことが2つある。

○ひとつめ:
努力の結果の形が最終的にわからないにしても、
結果を出してやるという執念で努力をする。
つまり 「人事を尽くして天命を待つ」 の気構えで事に当たること。
結果に執念を持たない努力は惰性になる。

○ふたつめ:
その努力が “プロセス” として報われるようにする。
このことは少しわかりにくいので説明しよう。


Granjt04 

努力の報われ方には2種類ある。
一つは、 「結果として報われる」 こと。
つまりその努力の後に、何かしら意図する形・現象が得られること。
もう一つは、 「プロセスとして報われる」 こと。
これは、その努力という行為そのものが自分への大きな報酬となっていて、
結果いかんに関わらず、すでにやっている最中で報われている状態をいう。

例えば、私たちが何かのボランティア活動に汗を流したとしよう。
そのとき、私たちはその行為の結果に拘泥しない。
それをやったことによって、どれだけの人に有難うを言われたとか、
多少のお礼金をもらえたとか、そういったことは主たる関心ではなく、
ともかく自分が意義を感じた行為をやったことに対し充足感を覚える。
これがプロセスとして報われている姿である。

だから、大事なことの2つめは、努力しようとする行為に意味を付与することだ
そこに意味を見出しているかぎり、それは「やりがいのある努力」になり、
結果がどうあれ自分は報われる。

大切な私たちの時間と労力である。
くれぐれも、やることに意味を与えず(つまり、いたしかたなくそれをやり)、
しかも結果が何も出なかったというような「最悪の努力」は避けなければならない。

結局、自分のキャリア・人生を「努力が報われる」ものにしていくための根本は、
やっていることに意味を与えること、
あるいは、やっていることを意味あるようにつくり変えていくこと、に行きつく。

意味を感じていれば、まず、プロセスとして報われる。
そして、努力の継続もできる。
自分の感じている意味が、ほかの人も感じられるような意味であれば、
彼らからの共感や応援も加わる。
そうこうしているうちに、自他供の努力の質と量が臨界点を超え、
グラン・ジュテはいやおうなしにやってくる!(くるものと信じたい)。

神様は同情的でも非情的でもないが、意地悪ではないのだから。
いや因果に透徹な神様であればこそ、
しっかりとした因をつくれば(神様を動かすことができ)、必ずグラン・ジュテは起こせる!




2010年4月10日 (土)

「働くこと」の問題雑考〈下〉~仕事を意味・価値から語れ

Nanohana 


2007年夏に刊行した拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』のまえがきで、
私はこう書いた。

「小さな飢え」と「大きな渇き」;

私たちは、
衣食足りて「働く」を知る――――ようになったのでしょうか?

確かに、平成ニッポンの世をみると、“小さな飢え”はなくなったように思えます。
しかし、私たちの目前には変わって、“大きな渇き”が現われはじめたのではないでしょうか。
次のような内なる問いに対して、明確な答えが得られないという渇きです。

・自分は何のために働くのか?

・食うためには困らないが、このままこの味気のない仕事を何十年も繰り返していくと思うと、
気分は曇る。かといって、今の自分に何か特別やりたいものがあるわけでもない・・・

・仕事は本来苦しみなのか、それとも楽しみなのか?

・今の仕事は刺激的で面白い。
しかし、これはゲームに興じている面白さと同じような気がする。
仕事に何か大きな意味とか意義を持っているわけではない。
これは健全なことなのか?

成功することと幸せであることとはイコールなのだろうか? 

つまり、仕事で成功したとしても、人生が不幸ということが起こりえるのか? 
また、仕事で必ずしも成功しなくても、幸せな人生を送ることは可能なのか?

・メディアの文字に踊るキャリアの勝ち組とは何だろう? 
成功者とは誰のことだ?

天職にめぐり合うことは、運なのか努力なのか?

・働きがいが大事なのはわかるが、理想の働きがいを追っていたら、
就職口はほとんどなくなるのが現状だ。
所詮、
働くとは、妥協と我慢を強いられるものなのか?

・利己的に、反倫理的に儲ける個人・企業が増えてきたら世の中はどうなるのだろうか?
また、自分自身がそういう“うまい汁”の権益を持った身になったら、
果たして自身の欲望を制御し、利他的、倫理的に振舞えるだろうか? 
しかし考えてみるに、欲望は成長や発展のために必要なものではないか?

・仕事はよりよく生きるための手段なのか、それとも仕事自体が目的になりえるのか?
・・・等々。

一人ひとりの内面から湧き起こってくるこうした「職・仕事」をめぐる“大きな渇き”は、
無視することのできない“大きな問い”です。
私たちは、みずからが働くことに対し、意味や意義といった“答え”が欲しい。
なぜなら人間は、みずからの行動に目的や意味を持ちたがる動物だからです。
ましてや、その行動が苦役であればなおさらのことです。
また、これら“大きな問い”は、同時に、私たちに課せられた“大きな挑戦”でもあります。
なぜなら、働くことは、

・生活の糧を稼ぐ「収入機会」であるばかりでなく、
・自分の可能性を開いてくれる「成長機会」であり、
・何かを成し遂げることによって味わう「感動機会」であり、
・さまざまな人と出会える「触発機会」であり、
・学校では教われないことを身につける「学習機会」であり、
・あわよくば一攫千金を手にすることもある「財成機会」だからです。


……この本を出したころは、景気に力強さがあったころで、
製造業の現場では旺盛に派遣労働を取り込んでいたし、
WEB上には転職案件も溢れていた。
世の中あげて人手不足感が強く漂っていた。
そして起こった08年8月のリーマンショック。
一転して、世は人員過剰・人員削減の流れに。

失職した人たちにおいては、最低限の生活保障が問題となり、
居残った人たちにおいては、業務量の急増による疲労やメンタルヘルスが問題となる。
いずれにしても、
働く個人も、雇い主も、行政も、ネガティブソーンの対症療法に振り回される現状が続いていて、
いっこうに「大きな渇き」「大きな問い」「大きな挑戦」に関心が上がっていかない。

私たち労働者は(宿命的に)意識に上げる優先項目として、次のTOP2がある。

 1)「労働条件」(いかに多くの給料を得られるか、いかに好ましい環境で働けるか)
 2)「仕事術」(いかに効率的に仕事を処理する技術を身につけるか)

私たちは、「いかに」(HOW)ということばかりに頭とカラダが占領されていて、
ついぞ「何がやりたいのか」(WHAT)や
「なぜそれをやるのか」(WHY)を掘り起こす時間をもたない。
「働く目的・働きがい」を求める内面の声は、
「生キテイクタメニハ ショウガナイダロ」というもうひとつの声にいとも簡単に押し殺されてしまう。

科学技術の進歩が人間をいろいろな労務・苦役から解放するにしたがい、
「働くこと」に関する論議は、当然、
意味論・価値論の領域に移っていくのが自然だと思われた。
しかし、私たちの論議は、
いまだ労働条件をどうする、仕事の効率化をどうする、のような外側の問題に終始する。

そんな中で、
人類古来からの大きな自問;「人はパンのみに生きるのか?」
という内側の問題に入っていくきっかけとして、
「モチベーション」という言葉が職場に普及してくるというのはひとつのよい流れである
―――このことは前回の記事で述べたとおりである。

私たちは、「働くこと」をもっともっと意味の側面から、価値の側面から、質の側面から
語り合う必要がある。
それは自分たちを、働くことに苦しむネガティブゾーンから引き上げるために、
そして同時に、働くことを楽しむポジティブゾーンでおおいに躍動するために、
必要である。

語り合うのは、もちろん働く個人が、であるが、
私は、仕事上で、上司がもっと語れ、人事部がもっと語れ、経営者がもっと語れと言っている。
しかし、上司や人事、経営者は、部下・従業員に「働くとは何か?仕事とは何か?」を語らない。
(語れない、語ることが怖い…いろいろある)
(だから、私は部課長に強く訴える本をいま書いている。今夏出版の予定)

そこで、以下に、私たちが「モチベーション」と同様、
「働くこと」を意味・価値・質のレベルで語るために
日頃から意識の棚に上げた方がよいと思われる言葉や概念をいくつか挙げる。


●【QWL;クオリティ・オブ・ワーキングライフ】
これを「労働生活の質」と直訳してしまうと、
ニュアンスの冷めたものになってしまうのだが、
QWLとは要は、
「人間らしい仕事生活の質」とはどんなものか?
「自分らしい職業人生のあり方」とはどんなものか?
「自分が納得できる働き様」とはどんなものか?
―――といったことを自分に問うものである。

私たちの「働くこと」が、量に支配され続ける中で、
質を考えることは当然のことなのだが、意外とできないことなのだ。

ちなみに、この言葉は「QOL」(クオリティ・オブ・ライフ)から派生している。
QOLは医療現場で使われ始めた。
例えば、
ガンなどの末期治療で、延命を目的に身体がボロボロになるまで薬剤投与を受けることが普通になっているが、
むしろそれは自分の理想にそぐわない、自分の尊厳がおびやかされる、
あるいは社会が人間らしい存続と思わない状態にしてしまうことがしばしば起こる。
これを「QOL」の低下と表現する。
患者によっては、「QOL」の維持を優先して、最小限度の治療に留め、
余命を限りなく有意義に送るという選択をするケースも増えている。

私たち働き手も同様に、自らの仕事生活に「クオリティ」という目線を入れるべきだ。
私は7年前、大企業の管理職を辞めて独立した。
独立後の平均年収はいまだサラリーマン時の最後の年収額を超えられていないが、
それでも「QWL」は比べようもなく改善し、
経済的報酬以外の素晴らしいものを多く手に入れている。

QWLを維持する・高めるために、何かを犠牲にする、我慢することは当然ある。
しかし、トータルでみて、生活・人生の質がどう変わるか、
これが大事な判断になる。


●【ディーセントワーク;Decent Work】
これはILO(国際労働機関)のスローガンにもなった言葉である。
直訳すれば、「まともな仕事」とか「人間らしい仕事」になる。
つまり、全世界を見渡すと、まだまだ
「まともな仕事」「人間らしい仕事」でない労働が蔓延しているのが現状であって、
だからこそILOは、これをスローガンに掲げなければならなかった。

いずれにせよ、“decent”(名詞形は:decency)という単語の中には、
人間としての尊厳や誇り、品位、輝きのようなものを含んでいる。
先ほどのQWLにしても、このディーセントワークにしても、
ややネガティブゾーンからの脱却として使われる言葉なのだが、
私はより積極的な意味合いとして使われることを願っている。

働く個人が、それぞれに「自分にとっての“decency”」を最大化する。
そして組織や経営者は、
その各々の“decency”を最大化するような働かせ方をする。


●【サステイナブル;持続可能な】
「サステイナブル(sustainable)」とは、最近では地球環境問題を語る際によく出てくる。
もちろん地球の存続は大事だが、その前に、
「このままのペースで働くあなたが、いつまで持ちこたえられますか?」
―――と私は尋ねたい。

そう、「サステイナブル」の観念が必要なのは、あなた自身の人生なのだ。

20代はいろいろとカラダやアタマに無理がきく。
しかし、自分なりの目的観ややりがいを持たずに残業の日々を送っている生活は
30代か40代に必ず大きな健康障害を引き起こす。…「必ず」!

いったん倒れてしまうと、そこからの職場復帰、そして定年までの再疾走は
とても辛いものになる。
さらには、50や60で定年退職したとしても、その後の人生はまだまだ続く。
(これからの時代、定年は明るいゴールではないかもしれない)

いまのビジネス社会の働き方・働かせ方の問題は、
短距離競走を、繰り返し繰り返しやっていることである。

キャリア・人生は短距離競走ではなく、マラソンである。
(マラソンよりトレッキングと言ってもいいかもしれない)
自分なりの表現で、完走できることが、ほんとうの勝利といえる。
だから留意すべきは、「サステイナブル」なのだ。


●【ハードの報酬/ソフトの報酬】
仕事の報酬にはいろいろとある。
私はそれを2つの考え方でとらえている。
それが「ハードの報酬」と「ソフトの報酬」だ。

ハードの報酬とは、目に見えやすい報酬のことで、
 ・給料や賞与など金銭的なもの
 ・昇進や昇格など職位・名誉的なもの である。

ソフトの報酬とは、目に見えにくい報酬で
 ・その仕事成就によって習得できた能力や経験知、充実感、自信
 ・その仕事成就によって得た人脈や信頼関係
 ・その仕事成就によって受け取った顧客からの感謝の気持ち
 ・以上の報酬を土台として手にする次のもっと大きな仕事機会

私たちは、もっとソフトの報酬の重要さを語るべきだ。
なぜなら、ソフトの報酬を受け取り、それを再度いろいろに組み合わせることで、
次のもっと大きな仕事機会を手にすることができ、
そこでまた、ハード/ソフトの報酬を獲得し、
そしてまたそのうちのソフトの報酬をいろいろに組み合わせ、
次のもっと大きな仕事機会を得て……
というように、
自分と機会が拡大再生産する回路がつくられるからだ。

私たちは、ハードの報酬、特に金銭的報酬に躍起になる。
もちろん、いたずらに安働きする必要はないので、
もらえるものはもらっていいのだが、カネは1回きりものだ。
カネで次のもっと大きな仕事機会が買えるわけではない。

「年収○○%アップの転職!」という文字がWEB上に踊る。
私は研修で、血の気のはやる若い世代の人たちに次の2点を言っている。
 ・今の仕事・組織が与えてくれている「目に見えない報酬」をよーく見つめ直すこと
 ・人材紹介会社は転職斡旋をビジネスとしてやっていること

また会社や上司も「若い連中がすぐにやめていく」と嘆く前に、
自社・自部署が、どれだけのソフト的な報酬、つまり
「成長報酬」、「意味報酬」、「機会報酬」を提供できているか、
それを彼らに堂々と語れるようでないとだめだ。


●【ワークライフブレンド】
「ワークライフバランス」は、先ほどのQWLを維持する上でとても大事な実践だといえる。
しかし私は、 「ワークライフバランス」はどちらかというと“守り”の形であると思う

「ワークライフブレンド」、つまり
仕事と生活の掛け合わせ的な和合が、より積極的な形だと思っている。

詳しくは下の過去記事を:
ピカソはワークライフバランスを求めたか!?


●【共通善;common good】
私は「共通善」という言葉を、意外にも、経営書で目にした。
それは『美徳の経営』野中郁次郎著・紺野登著(NTT出版)である。
この本のまえがきで、著者は
経営はすでに質の時代に入っていて、
新たな時代に求められる経営の資質は「共通善を志向する卓越性の追求」だとしている。

企業の事業目的にせよ、個人の「働きがい」にせよ、
利己に100%閉じてしまうことはいろいろな意味で危うい。
ある部分、利他に開いたほうが最終的にはうまくいく(いくものであってほしい)。

となれば、誰しも「共通善」を意識するようになる。
では「共通善」とは具体的にどんなことか―――
それは大いに思索や討論を要する哲学の問題である。

組織体や個人によって、それぞれの「共通善」を志向する答えがあるだろうと思う。
それを考えるプロセスこそ、
「働くこと」の問題に意味論・価値論を取り込んでいることにほかならない。

私は過去の記事で「社会的起業マインド」の話題に触れたが、
社会的な意義や使命をもつ事業を起こしたいとする熱が高まっているのも、
言ってみれば「共通善」を志向する高まりであると受け取れる。

→参考記事:
志力格差の時代〈下〉~社会的起業マインドを育め


●【バリュー・ステートメント】提供価値宣言
職業人として自己紹介するとき、次の文のカッコ内にどんな言葉を入れるだろうか?

―――「私は〈         〉を売っています」。

このカッコ内には、自分が売っている直接のモノやサービスではなく、
「提供価値」を入れてほしい。
例えば、私なら、「私は〈研修サービス〉を売っています」ではなく、
「私は〈向上意欲を刺激する学びの場〉を売っています」とか
「私は〈働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる理解〉を売っています」となる。

これと同様に、我が社紹介もやってほしい。
あなたの会社は、その事業を通して何の価値を世の中に売っているのだろうか?

―――「我が社は〈       〉を売っています」。

→参考記事:
提供価値宣言;「私は~を売っています」


●【アクティブ・ノンアクション;active non-action】
この言葉の意味は、
月々日々、忙しく動き回っているが(=アクティブ)、
その実、大した価値あるものを残していない(=ノンアクション)状態。
つまり
「不毛な多忙」。

同類語として、
“busy idleness”(あくせくしながらも結果として何もしないこと:多忙な怠惰)。

多忙であることは必ずしも悪ではない。問題は「何に忙しいか」だ。
残業もすべてを一絡げにして悪だとはいえない。
意味のある残業や、やる価値のある残業はある。

ほんとうに大きな仕事をしようと思ったら、
お行儀よく定時の範囲で終えられるはずがない。
自分がほんとうに意味を感じた仕事に没頭し、気が付けば残業していた―――
そんなときは、本人もぐんぐん成長している。
そうした残業は大事な時間だし、
会社側も喜んでお金をつけてやればいい。

しかし、意味のない残業、やる価値のない残業もある。
生産性の低い「ダラダラ残業」、残業代目当ての「ズルズル残業」は言うまでもないが、
最もやっかいなのが「仕事に使われ残業」である。
この手の残業は、意味がないわけでもないし、
やる価値がないわけでもないので、いろいろな言い訳を伴って常態化してしまうのだ。

自分の目的や意味を持たず、ただただ業務責任を果たすために、
あるいは時間を仕事で埋めて、ある種の安心感、「仕事やってるゾ感」を得るために
残業を慢性化させる―――これが「仕事に使われ残業」だ。

いずれにせよ、忙しさを考えることは、やはりそこに意味や価値を問うことなのである。

→参考記事:
『アクティブ・ノンアクション』不毛な多忙



Otchan 
(今年も桜の季節が早足に去っていく。 おっちゃん、気ぃつけていってな)

2010年4月 7日 (水)

「働くこと」の問題雑考〈上〉~「モチベーション」概念の普及

Pinkdrive02

外来語に乗せた概念の普及―――
「マネジメント」しかり、 「リーダーシップ」 しかり、 「イノベーション」 しかり……。
(たいていは、『HBR(ハーバード・ビジネス・レビュー)』あたりが仕掛け人)

で、いよいよ次は「モチベーション」

もちろんビジネスの現場ではすでにこの言葉は人びとの口々に上がっているのだが、
その頻度ほどには「モチベーションとは何か?」が議論されていないし、
そもそも「自分のモチベーションはどこにあるか?」といった根っこの自問に、各々が答えられてもいない。

そんな「モチベーション」概念の普及に加速をつけそうなのが、
ダニエル・ピンク氏が昨年末に刊行した
『DRiVE : The Surprising Truth About What Motivates Us』である。
(翻訳版は間もなく出版されるとのこと)

アル・ゴアのスピーチライターをしていたピンク氏は、
これまでも『Free Agent Nation』や『A Whole New Mind』など
トレンドセッター的な志向で著述を重ねてきた。

そして彼が今回、キーボードを走らせたのが「モチベーション」である。
相変わらず流行りの表現で事を切り出す能力は逸品で、
この著作のバズワードは、

○Motivation 3.0
○Type X vs Type I
○The Three Elements; Autonomy, Mastery, Purpose

「モチベーション3.0」に関しては、先日発売になった『週刊東洋経済』誌にも特集が組まれていた。
ピンク氏は、モチベーションを3段階の進化でとらえる。
(原著では、オペレーションシステムのアップグレードという表現で書いているが)

・モチベーション1.0=生物的に生き残ろうとする動機
・  〃  2.0=賞罰(アメとムチ)による外発的動機:Type X の働き方
・  〃  3.0=自分の内なる声による内発的動機:Type I の働き方

そして、モチベーション3.0・Type I の働き方の時代にあって大事な要素は、
「自律性」「卓越性の追求」「大きな目的」 だと指摘する。

私はこの本を彼の以前の著書と同様に面白く読ませてもらったのだが、
根本的には、モチベーションを時系列的に3つでざっくりとらえたそのざっくりさ加減に不満を覚えている。
(まあ、ベストセラーになるものは、そうした論の思い切りよさ・単純さがないといけないものだが)

人びとの働く動機は、そもそも時系列進化ではなく、
空間的まだら模様としてとらえられるべきだと思う。
(これはマズローの五段階欲求も同様だ)

つまり、大昔のキツい労働現場であっても、
「3人のレンガ積みの訓話」が示す通り、 
食うためにレンガを積んでいる人間ばかりではなく、
大聖堂(あるいはピラミッド)建築のために働くという人間は少なからずいただろう。

また、一人の人間の中で、「パンを得るため」、「後世に残る仕事に貢献したいから」
という働く理由は複雑な模様を描いて心の中で混合している。

つまり、モチベーション1.0も2.0も3.0も、
歴史上いつも同時進行だったし、
かつ、一人の人間の中でいつも同居しているのだ。

とはいえ、最終的に著者の主張したいこと、時代が向かうべき方向性に関しては、
私は大いに賛同する。
これからのすべての働く人間に重要な3つのことは
―――「自律性・卓越性・大目的」だ。

健全なモチベーションはこの3要素によって湧いてくるし、
それをベースに働いている個人・組織は、
ますますこれらを補強する善循環がはじまる。

「モチベーション」という概念が普及し、
モチベーション喚起の重点を内発的なところにシフトしていこうとする意識が普及することは、いい流れである。
「働くこと」の問題が、本格的な、意味論・価値論に入っていくためには、
こうした概念が社会の下地に敷かれることが不可欠である。

次回は「QWL(Quality of Working Life)」「ディーセントワーク(Decent Work)」など
働くこと・仕事生活の「クオリティ」について触れます。


【補足考】
●ピンク氏の『DRiVE』のセミナービデオはこちら

●ピンク氏はモチベーションを「内発的/外発的」という軸だけで切り取ったが、
私はそれに加えて「利己的(自分に閉じる)動機/利他的(他者に開く動機)」も
見逃してはいけないと思っている。
参考記事はこちら 

●内発的動機の理解を深めるために:
心理学者チクセントミハイの「フロー」理論
参考記事はこちら 

●動機・行動心理に関する理論書はさまざまあるが、その中でよいと思うのは:
『仕事と人間性-動機づけ・衛生理論の新展開-』
フレデリック・ハ-ズバ-グ著、北野利信訳
(東洋経済新報社)

●また、リンクアンドモチベーション社は
モチベーションをエンジニアリングし、商用サービス化するという試みをしている。
『モチベーションエンジニアリング経営』
小笹芳央著、勝呂彰著
(東洋経済新報社)

2010年4月 2日 (金)

新社会人に贈る ~力強い仕事人生を歩むために

Sakuratree 
(東京都・武蔵野公園にて)


 1■きょうこれからの一日一日が、十年後、二十年後をつくる


まず、福沢諭吉の『学問のすすめ』から。この名著について残念なところは、おおかたの人が「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という一節だけをなまじ習ったがゆえに、それ以上のことを求めないことです。

この本で福沢は「お天道様は平等である」というような博愛主義のことをメインに言いたかったのでありません。この本は、 「独立の気概を持て」「飼われた痩せ犬になるな」という指南書なのです。

福沢が真に言いたいことは、その直後から記してあります。つまり、お天道様(宇宙の摂理のようなもの)は平等に人間の個体を造るのだが、世の中を見渡すに、賢い人もいれば愚かな人もいる、貧乏もいるし金持ちもいる、貴人もいれば下人もいる……結局この差はどこから生じてくるのか?

―――それは、「学ぶ」か「学ばないか」の差によって生じる。

先天的な運・不運ではない、後天的な努力・意志こそが、その人の生きる有り様を決定する。人は生まれながらに富貴なのではない、人の働きが富貴であれば、その人は結果的に富貴になる。これが福沢の最も言いたかったことです。具体的には次のように言っています。

 ○「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。
  ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、
  無学ならん者は貧人となり下人となるなり」

 ○「天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うる」

 ○「そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、
  やすき仕事をする者を身分軽き人という」

新社会人となられたみなさんは、とりあえず最初の会社に入った。
その会社は、第一志望だったかもしれないし、失意の結果そこに行かざるをえなかった会社かもしれない。しかし、会社や職業に貴賎貧富の別はない(ないと見るべき)。要は、そのスタート時点から、どのように努力と意志を持って働いていくか、どんな難しい仕事に進んでチャレンジしていくかで、最終的に自分のキャリアと人生は決まる。勤める人は、三年、五年、十年とかけて、ビジネスパーソンとして貴人となり富人となっていくし、勤めない人は、ビジネスパーソンとして貧人となり下人となっていくのです。

私は研修の仕事でいろいろな規模・業種の民間会社、公務員組織をみています。そして私自身も40代後半になりましたので同期の世代を観察していますが、ほんとうに十年、二十年レンジの変化というものは、きっちりとその人の内面を反映するようになります。こわいものです。


2■あせらない。「いま・ここで」勝たなければ、どこに場所を変えても勝てない

○「最初の仕事はくじ引きである。
 最初から適した仕事につく確率は高くない。
 得るべきところを知り、向いた仕事に移れるようになるには
 数年を要する」。

       
―――ピーター・ドラッカー『仕事の哲学』



最初の会社、最初の配属先、最初の上司は、ドラッカーの言うとおり「くじ引き」のようなものです。すんなり自分に100%フィットするものなどありえません。むしろ違和感のあることだらけが現実というものです。

しかしその違和感を克服していこうとする努力・能力こそが、長き職業人生を渡っていく上でとても大事な要素です。(仕事を処理する業務知識や専門スキルよりも大事である)

つまり、状況が求めているように自分を変えていく、あるいは、状況を自分に合うように変えていく―――こうした、いわば「状況創造力」「状況対応力」を自ら育むことによって、自分のキャリア・人生を力強く歩んでいけるのです。これなくしては、青い鳥探しのキャリアとなってしまい、漂流の人生になってしまいます。

私は転職を否定しません。私自身も転職を何度かしました。しかし、転職は何かに向かう途中の手段として決断するほうが有効なものであって、それ自体を目的化すると、往々にしてよからぬ結果をもたらします。

ですから短気を起こして「なんとなく雰囲気が違うんで転職」「ともかく嫌だから転職」は引き留めてください。また「能力と配属がミスマッチだ」なんて、自分勝手に言い訳をこしらえないことです。社会人になってまだ日も浅いうちに、どれだけ自分の適性や能力が分かるというのでしょう。その仕事や、その市場や、その組織が持っているポテンシャルをどれだけ掘り起こしているのでしょう。

まずは3年。
この節目まで踏ん張り、もがき、納得の実績を勝ち取るまでは軽々しく動かないことです。
もちろん、あなたの目の前には転職の“自由”があります。第二新卒採用だとか、いろいろな転職紹介情報がWEB上にあると思います。しかし、その選択肢の“自由”は、小さな自由です。

○「転職は、今いる会社で実績を積み、
 「伝説」をつくってからでも遅くはありません。

 いや、実績を積んだときはじめて、
 転職するもしないも自由な身になれるのです」。

      ―――土井英司『「伝説の社員」になれ!』


そう、土井さんがこう指摘するように、
1つの実績や伝説をつくってから得るキャリアの選択肢のほうがはるかに大きくなるのです。つまり“大きな自由”は、いまいるその場所で何かの結果を出す後にやってくる。

とはいえ、与えられた仕事は、当面、つまらないかもしれない。苦手な内容かもしれない。そして、それが未来永劫に続くのではないか、と思えるかもしれない。そんなときはこの言葉を思い出してください。

 ○「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
  そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」。
               ―――小林一三(阪急グループ創業者)

人生長い目で見て、ダメな人は、やはり仕事をダメなまま流してやる人です。頭角を現す人は、些細な仕事を大きな仕事へとつなげていく人です。
要は、下足番のままになり下がるのも、それを極めて次の大きなステップに自分を押し上げていくのも、すべては本人の「状況創造」「状況対応」次第ということです。それなりの難度の仕事にチャレンジして、ある結果を出すためには、まずは3年という月日がかかる。そんな時間単位を念頭に入れながら、しぶとく明るく頑張ってください。


3■意味を見出せ。目的の下に生きよ

入社してからしばらくは担当業務を一人立ちしてこなせるようになるために知識やスキルを覚えることに忙しい日々が続く。そしてある程度仕事がこなせるようになると、組織から目標が与えられ、その目標達成に向かって忙しくなるはずです。そして自分の知識・スキルが習熟してくるにしたがって、目標レベルも高くなり、ますます忙しくなるでしょう。……こうして、20代、30代というのは、実はあっという間に過ぎ去るものです。

忙しく働くというだけなら、それは簡単なことであるし、自慢にもなりません。アリやミツバチだって忙しいんです。問題は―――「何に(何のために)忙しくしているのか?」です。

しかし、この「何に忙しくしているのか?」という問いに対する答えは、多くの人が持っているわけでありません。試しに、職場の先輩や上司に訊いてみてください。明快な返事が返ってくる方が少ないと思います。

 ○「目的とは、単なる概念ではない。生き方である。
  人生は“すること”でいっぱいで、
  “やりたいこと”が何であるかに耳を傾ける余裕もなかった」。
  
―――ディック・J・ライダー『ときどき思い出したい大事なこと』

そう、これは「働く目的」の問題です。
目的とは何でしょうか? 目標とどう違うのでしょうか?目的は、目標+意味のことです。

いまのビジネス社会に生きる働き手たちは、日々、「すること」でスケジュールが埋まってはいるものの自分が意味を抱いて「やりたいことは何か」と自問する時間をほとんど設けません。ですから、自分の内面から起こる「目的」を見出さないまま、外側から設定される「目標」に引っ張られる形で走っているのです。

外からの焚きつけで走り続けていると、誰しも消耗します。
ニュースで耳にしていた「働き過ぎ」や「過労死」「うつ」の社会問題がいずれ直接的に理解できるときがくると思います。何十年と続く職業人生にあって、他人の命令・目標に働かされるのか、自分の見出した意味・目的に生きるのか―――この差は大きい。

多忙であることが悪なのではありません。労役的に多忙であることが悪なのです。自分の夢・志の下に多忙であるなら、それは本望です。

 ○「人間とは意味を求める存在である。
  意味を探し求める人間が、意味の鉱脈を掘り当てるならば、
  そのとき人間は幸福になる」。
          ―――ヴィクトール・フランクル『意味への意志』

* * * * *


では新社会人へ贈るメッセージ3点をまとめます。

各々が入った会社の規模や業界、初任給など、外見は千差万別であるが、スタート地点として本質的な差はない。ほんとうの勝負はこれからである。

とりあえず3年、自分なりの結果を出すことに専念する。想定外の環境に遭遇することはしばしば起こるが、そこで大事なことは状況創造、状況対応することである。決して安易に居場所を変えるという選択に走らない。つまらない仕事はない。仕事をつまらなくしている自分がいるだけである。つまらないと思える仕事も、実は大きな仕事につながっている。日本一の下足番になってやる!という気概を持て。

忙しさに流される生き方をしない。「働く目的」を見出そうとする意識を常に持つ。そのためにいろいろなことを見聞する、試す、挑戦する。いろいろな人に出会いにいく。いろいろな本を読む。意味や目的というのは、行動の中で見えて、固まってくるものであり、人の生き様や情熱によって伝染したり、補強される場合がほとんどだから。

最後に言葉を2つ;

 ○「人は努めている間は迷うものだ」。
               ―――ゲーテ『ファウスト』

 ○「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ」
                  ―――岡本太郎『強く生きる言葉』


Good Luck !
そしていつかどこかでお会いできることを願って。


Sakuratr02 
(東京都・武蔵野公園にて 2)

 
* * * * *

【合わせて読みたい記事】

〇新社会人に贈る2015 ~働くという「鐘」「山」はとてつもなく大きい

〇新社会人に贈る2014 ~仕事は「正解のない問い」に自分なりの答えをつくり出す営み

〇新社会人に贈る2013 ~自分の物語を編んでいこう

〇新社会人に贈る2012 ~キャリアは航海である

新社会人に贈る2011~人は仕事によってつくられる


 

2009年10月25日 (日)

「私は~を売っています」

Susuki01 
多摩川にて

◇ ◇ ◇ ◇
冒頭、次のシートを見てください。
私が研修でやっているワークのひとつです。
さて、あなたはこの空欄にどんな言葉を入れるでしょうか―――?
(これに関する解説は本記事の後半部分で)

Wrk01 

◇ ◇ ◇ ◇

「還元論」と「全体論」という考え方が科学の世界にあります。

還元論は、物事を基本的な1単位まで細かく分けていって
それを分析し、物事をとらえるやりかたです。
人間を含め、自然界のものはすべて、
部分の組み合わせから全体ができあがっているとみます。

例えば西洋医学などは基本的にこのアプローチで発展してきました。
胃や腸などの臓器を徹底的に分析することで、
さまざまな治療法を開発するわけです。

他方、胃や腸など臓器や細胞をどれだけ巧妙に組み合わせても、
一人の人間はつくることはできない
全体はそれ一つとして、意味のある単位としてとらえるべきだ
というのが全体論です。
東洋医学は主にこのアプローチです。

この2つの立場は、どちらがよいわるいというものではなく、
バランスよく双方を取り入れて扱っていくのが賢明なやり方です。
しかし、現代文明は何かと還元論に偏重してきています。

何事も論理的に分解をして、分析的に、定量的に、デジタル的に、科学的に考えるのが
何かカッコイイ、合理性に満ちたアタマのよいやり方だという認識が広がっています。
私たちはビジネス現場ではもちろん、
日常生活までそうした還元論的な思考を進んで強要しようとしています。

しかし、
直感(直観)的に統合をして、俯瞰的に、定性的に、アナログ的に、
信念的に考え行動することも
同じように大事なことであり、必要なことなのです。
(たとえ、合理的でなく、非効率であり、ときに不格好であったとしても)

◇ ◇ ◇ ◇

さて、私が携わっている人事・組織・人財教育の世界の話に入ります。
昨今の事業組織が、そしてビジネス世界がどんどん煩雑化するにしたがって、
一人一人の働き手たちは、
自分を、そしてキャリア(仕事人生)をたくましくひらくことができず、
ますます狭いほうへ狭いほうへ追いやられていく―――そんな状況が生まれています。

その大きな理由として、「還元論」的な価値観に基づく方法論の偏重があると思います。

例えば、私たちは優秀な人財をとらえる場合に全人的にとらえようとせず、
部分的な知識や技能の集合体としてとらえるようになっています。
つまり、「人材スペック」なるものをこしらえ、
細かな知識要件、技能要件を設定して、
どのレベルでどれくらいの項目数をクリアしているかによって、
その人物を評価し管理しようとする。

また、MBO(目標管理制度)×成果主義の普及も
一人の働き手を分解的に、定量的に行動させる促進剤としてはたらいています。

その結果、働き手は、その人材スペックの要求項目にみずからをはめ込み、
その枠組みに合わせて成長すればいいという考え方になる。
一職業人として伸び伸びと何か一角(ひとかど)の人物になろうなどという
おおらかな心持ちで我が道をゆく人間はどんどん少なくなるわけです。

そのくせ会社側は、若手従業員に対し、
「5年後どうなっていたいか?」とか
「この先10年間のキャリアプランは?」などと問い詰めたりする。
従業員が答えられるとすれば、せいぜい
「人材スペックのマトリックス表にありますとおり、
3等級の要件a、要件d、要件fの、レベル2+をクリアして、課長になることです」
―――そんな程度のものでしょう。

「キャリアパス」なんていうのは、そんな中から生まれてきた概念です。
組織側が、働き手のキャリアの道筋をいくつか用意してやって、
そこん中から適当に選んで、なぞって上がっていけ―――
まぁ、サラリーマンの世界が「スゴロク」に喩えられるのも、うなずけるところです。

しかし、こうしたキャリアパスを用意してやるやり方も、すでに行き詰っています。
30歳半ばを超えてくる働き手にはこれまで管理職というポストを与えて
なんとか彼らの居場所と道筋を確保できていたのですが、
昨今は、
・管理職のポストが用意できない(組織が右肩上がりで成長していないから)
・そもそも彼らが管理職になりたがらない
・彼らは専門職として等級(そして給料)を上げていきたがっている
・しかし、あまりに細分化された専門職に対し、
 組織はそれほど多様なポストやパスを用意できない
・人材スペックの枠組みを離れ、既成のキャリアパスなどに頼らないぞという
 たくましくキャリアをひらく意識習慣ができていない働き手はオドオドするばかり

◇ ◇ ◇ ◇

で、冒頭のワークに戻ります。

Wrk01

さて、みなさんはこの空欄に何という言葉を入れたでしょうか?

自分は自動車メーカーに勤めているから、
『私は 「クルマ」 を売っています』

自分は介護事業会社に勤めているから
『私は 「介護サービス」 を売っています』

―――というような答えを私は求めていません。
右上に「私の提供価値宣言」としているところがミソでして、
この空欄には、自分が仕事を通じて提供したい「価値」を考えて、書いてほしいのです。
実は、この「提供価値」を考えることが、
職業人としての自分のアイデンティティを確認し、
それを基軸にしてキャリアをひらいていくという原点になるのです。
そしてこれは自発的な「宣言」なのです。

実際の研修では、この提供価値宣言をいきなりやるのは大変ですから、
私は事前作業を1ステップ入れることにしています。
次のシートを見てください。
「5つの自己紹介」という質問シートです。
この5つの質問を経て、提供価値を考えることを誘(いざな)っていきます。

Wrk02 

私個人の例でやってみますと、

1:【勤務先】 (ここは雇用されている会社名がきます)
・私は 「キャリア・ポートレートコンサルティング」 に勤めています。

2:【雇用形態】 (ここは正社員とか契約社員とかフリーランスとかですね)
・そこで私は 「事業主」 として働いています。

3:【職種】 (具体的な職種がきます)
・そこで私は 「人財教育コンサルタント」 をやっています。

4:【業務内容】 (担当業務を書きます)
・日々の私の仕事は 「人財育成研修を開発し実施する」 ことです 。

―――と、ここまでは誰しも簡単に書く事ができます。
さきほど触れた、「私は何を売っているか」という設問に対し、
大方の人は、4番目の設問の答えを書いてしまいがちです。
しかしそれは業務の客観的な説明であって、提供価値を宣言しているものではありません。

次の5番目の設問は、自分の言葉で噛み砕いた主観的な意志の造語をしなければなりません。
私は自分自身の提供価値を次のように考えています。

5:【提供価値】
・私は仕事を通し、
「向上意欲を刺激する学びの場」 
 を売っています。あるいは、
・私は仕事を通し、 「働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる理解」 
 を売っています。または、
・私はお客様に 「働くことに対する光と力」 
 を届けるプロフェッショナルでありたい。

この問いを通して考えさせたいことは、
私たち一人一人の働き手は、
目に見えるものとして具体的な商品やサービスを売っていますが、
もっと根本を考えると、その商品やサービスの核にある「価値」を売っているということです。

例えば、
保険商品を売っているというのは、根本的には、「安心」を売っているとも言える。
また、新薬の基礎研究であれば、
その仕事を通して、「発見」を売っている、あるいは、
「その病気のない社会」「健康」を売っているととらえることができます。
会計レポートの作成は、取締役に対し、
「正確さ・緻密さ・迅速さによる判断材料」を売っているのかもしれません。

その他、スポーツ選手であれば、
彼らは「感動」や「ドキドキ」「勇気」を売る人たちでしょう。
コンサルタントは「知恵・情報」や「解決」を売っています。
料理人は、「舌鼓を打つ幸福の時間」を売っています。
コメ作りの農家の人は、「生命の素」を売るといっていいかもしれません。

いずれにせよ、5問目の欄には、主観的で意志的な言葉が入ります。
この言葉づくりを、時間をかけてじっくりやらせることが
一人一人の働き手たちを全人的に目覚めさせます。

細分化された人材スペック項目に合わせて、そこに自分をはめ込んでいくアプローチ
とはまったく正反対のアプローチが、この提供価値宣言です。
なぜなら、この宣言によって
「自分は何者であるのか?(ありたいのか?)」、
「丸ごとの自分を使って何の価値を世に提供したいのか!?」が打ち立てられる。
で、そのために、いまの自分はどんな知識、能力を新規に習得せねばならないか、
補強せねばならないか、あるいはどういうキャリアチャレンジを起こした方がよいか、
などの思考順序になるからです。

その宣言をまっとうするために、
いまの仕事のやり方・方向性でいいのか、
いまの会社がいいのか、会社員でやっていたほうがいいのか、
日本に住んでいた方がいいのか、業界を変えた方がいいのか・・・
そんな発想がたくましく湧いてくるわけです。
そういう発想のもとでは、もはや会社側が用意する規定のキャリアパスなど意味をもたなくなる。
白紙の未来カンバスに、まったく自由に絵を描かざるを得なくなる。
で、もがいてもがいて切り拓いた道が、結果的に自分のキャリアパスになる―――
そういうたくましい働き様、生き方に転換するのです。

◇ ◇ ◇ ◇

最後に追加のワークをひとつ。
次のシートの空欄にみなさんはどんな言葉を入れるでしょうか――?

Wrk03 

これは先程の提供価値宣言の発展形です。
自分の存在価値宣言を一言で表現するワークです。
私自身のサンプルを紹介すると、こういう表現になります。

・私は「“働くとは何か!?”の翻訳人」として生きる。

このワークは言ってみれば、自分の現下の人生の「最上位の目的」を
キャッチコピー的に表現することです。
私は「“働くとは何か!?”の名翻訳人」になることを8年前に決意した後、
それを実現するために
サラリーマンからの独立、コンサルティングサービスの研究、
ビジネス著書の出版、教育心理学の勉強、人事(HR)業界での人脈づくり、
など新規の知識習得や技能磨きをやってきました。

これらはすべて上の一大目的の下の手段であり、
実現のための最適解と思われる行動だと思ったからです。
私はいま、小説を一本書いていますが、これもその目的を果たすために閃いたものです。

人は、全人的に投げ出すに値するものをこしらえれば、
部分でやるべきことはいかようにでも見えてくるし、やれるものです。
ですから、大目的に対し情熱を燃やしているかぎり行き詰まりがない。

働く個人も組織も経営者も、
偏重した「還元論」ではなく、「全体論」の視点に寄り戻しをかけて、
働くこと・キャリアを今一度見つめ直す時期にあると思います。

Susuki02

過去の記事を一覧する

Related Site

Link