« 2009年4月 | メイン | 2009年6月 »

2009年5月

2009年5月30日 (土)

本を著すことについて

【軽井沢発】
軽井沢で仕事キャンプを張って4日目。
2日目から雨、雨、雨。きょうも雨。
観光で来たのなら空をうらめしく思うところでしょうが、
私の場合、集中仕事なので、外への誘惑がなくむしろ踏ん切りがつきます。

窓を少し開けると、雨しずくが葉っぱやら地面に当たる音、
そしてときどき聞こえる野鳥の声が、心地よく仕事への集中力を増してくれます。

さて、今年の秋か冬ごろに1冊本を出せればと思い、まとまった読書をしています。
まず、本を書くには、切り口が必要ですが、
その切り口のスタートは、自分自身に「よい問い」を発することです。

書き手にとって、「よい問い」をすることが、本づくりの3分の1。
そして、「よい答え」を持つことが3分の1。
最後に、「よく書き上げる」ことが3分の1だと思います。
(出版社さんにとっては、並行して、よいパッケージに作りこむ、
よいマーケティング&セールスをするという仕事があります)

で、その「よい問い」を発するために、
現状のことをさまざまな視点から見つめなくてはなりません。
そのために、INPUTのための読書をします。
(もちろん、INPUTは読書だけでなく、仕事現場での直接的な情報感受・獲得が欠かせませんが)

ここ1週間で読んだ本といえば、
『なぜ社員はやる気をなくしているのか』、『「雇用断層」の研究』、
『人間らしい「働き方」・「働かせ方」』、『他人を見下す若者たち』、『オレ様化するこどもたち』、
『働きすぎの時代』、『職場はなぜ壊れるのか』、『不機嫌な職場-なぜ社員同士で協力できないのか』、
『その上司、大迷惑です。困った上司とかしこく付き合う傾向と対策』、
『ギスギスした職場はなぜ変わらないのか』などなど。

・・・いや、ほんとうに、いまの職場は壊れかけています。
ヒトも壊れかけています。
その嫌な流れが拡大することはあれ、健全なほうに転換していかない要因は何なのか?


もちろん、企業側(雇用側)の問題もあるでしょうし、
働き手側(上司にも、部下にも)の問題もあるでしょう。
社会や家庭にも問題となるものもあるでしょう。

私は、これらの問題の要因を論(あげつら)うだけの本にはしたくない。
その一番根っこにあるところの要因は何かを特定した上で、
この嫌な流れが改善に向かうためには何が必要なのかこそを書きたいと思っています。
そのための「よい問い」を見つけることが、現時点で最重要のことです。

* * * * *

さて、そんな中、腹応えのある本を読んでいます。
「よい問い」があり、「よい答え」が展開され、
「よく書き上げ」られている著作です。

ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』 (東洋経済新報社)がそれです。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」
―――著者はこの「問い」を置くことからスタートしています。
この問いは、読み進めていくと解るのですが、
表面的な問いではありません。人間の根本を見つめようとする問いです。
その意味で、「よい問い」なのです。

そして、「よい答え」が解き明かされていきます。
著者は、資本主義を暴走させたのは、
強欲な企業・経営者、巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたち
ではない(根本的な意味で)と言います。

それは、「消費者」「投資家」として力を持った私たち一人一人なのだ―――
一人一人の力は小さいかもしれないが、
「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって
巨大な力を生み、資本主義の箍(たが)をはずすほどのプレッシャーをかけている。

しかし、その「消費者・投資家」としての欲望が増せば増すほど、
「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと
押しやられていく皮肉な現象を起こしている。


これがライシュ氏の答えです。
まえがきにこうあります。

「私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。
日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、
よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。
現在進行している超資本主義では、
市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、
民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。
個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、
現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。
そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、
それを決断していかねばならない。
その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。


この「よい問い」に対する「よい答え」を、
300ページ超にわたり事実を積み上げながら「書き上げて」いきます。
文章というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、
ここにはロバート・ライシュという人物の高いレベルの良識さ・明晰さと、
そしてこのことを社会に発せずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができます。
その意味で、「よく書き上げられた」本です。

実際のところ、ライシュ氏は、ハーバード大学の教授であり、
クリントン政権下では労働長官を務めた人物です。さらには、
ウォールストリートジャーナル誌で「最も影響力のある経営思想家20人」の1人に選ばれるほどですから、
よい本を著して、こういった論点を世に問うというのは、
当たり前といえば、当たり前なのですが、
日本において、こうした立場にある人が、どれだけこうした論議を押し出せるのか
と考えてみると、非常に残念に思います。

(本書についての感想は改めてアップしたいと思います)

* * * * *

私が起業したとき以来の問題意識は、
一人一人の働き手の「仕事観・働き観」をしっかりまっとうにつくることが
個々人のよりよいキャリア・人生をつくることにつながる、
そしてそれは、よりよい組織・社会をつくることにつながる
―――
というものです。

その点で、今のこの暴走する資本主義の進路コースを修正し、
世界が継続的に維持発展できるようにするためには、
一人一人の欲望に関する意識を変えねばならないというライシュ氏の主張には
私は大いに賛同します。

次に著す本は、この本のように、
大きな「よい問い」を発し、
根っこに横たわる「よい答え」を見出し、
力強く説得力をもって「書き上げる」ことを自分に課したいと思います。

Baob

2009年5月27日 (水)

「楽(ラク)」と「楽しい」

あるテレビ番組を観ていたら、
タレントの清水國明さんがこのようなことを言われていた―――

「田舎暮らしは楽しいけど、決してラクやないんです。
逆に、都会暮らしはラクですけど、楽しくないですねぇ」。


つまり、田舎に住むと、スーパーや病院、駅などが遠くにある。
電車だってすぐに来ない。
生活はクルマがないと始まらないが、大雪が降れば、雪かきから始めなければならない。
いろいろなことが不便で、そりゃもうラクではないというのです。

しかし、その不便さがかえって楽しいし、人とのつながりもできる。
だからこそ田舎は楽しい。
その一方、都会は何でも揃って、すべてのものが近くにある。
けれど、生活が何か楽しくない、のだそうです。

「楽(ラク)」と「楽しい」は、同じ字を使うが、含んでいるものは違う。

「ラク」は、効率(省力や要領)を求めるが、
「楽しい」は、必ずしも効率を求めない。
ときに、「楽しい」は、無駄や苦労を求めるし、
手間ヒマこそが楽しみを与えることは世の中にたくさんある。

ちょっと考えてもみてください。
あなたが死ぬ間際に、家族に向かってこう自慢できますか?

―――「私の人生は、実に“効率的でラクな人生”だった」と。

それよりも、
「私の人生は、確かに無駄は多かったし、苦労も多かった。
でも楽しかった。みんな、ありがとう!」
と言えたほうが、どれだけいいでしょう。

ラクばかりを追い求める仕事・人生は、スカスカになりますよ。


【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□その仕事は効率化の名のもとに要領だけで形を整えたものではないだろうか?
□あなたには、無様(ぶざま)な失敗の連続や修羅場をくぐり抜けてようやくまとめあげた仕事経験がどれくらいあるだろうか?それらは苦しかったけど楽しかった経験だろうか?
□自分が本当に「楽しい」と思える仕事はどんな仕事だろうか?

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□働き手に「楽しい仕事」を与えるとはどういうことだろうか?
□あなたの組織では、「ラク」(=効率化)を追求するあまり、「楽しさ」を失っていないだろうか?


* * * * * *

きょう軽井沢(長野県)入りし、5日間、集中的に書きもの仕事をやります。
5月末のこの時期の山はほんとうに生命が満ち溢れていて、
そこに身を浸していると、自分の内にある同じ生命の源も共振し、
エネルギーが呼ばれて出てくる感じがします。

そのエネルギーは、情報を智慧に変える大事なもの。
冬の間に溜め込んだ情報を整理し、編集し、
智慧として芽吹かせ、花と咲かせるには恰好の季節です。

でも、あいにくきょうは曇り空。浅間山のやさしい稜線と対面できず残念。
(明日からの天気予報も晴れが望めず)

きょうの昼飯は、
『峠の釜飯』(言わずと知れた「おぎのや」さんのです)と、
ツルヤさん(これも軽井沢ならではのスーパー)で見つけたPB品のりんごジュース。
(ストレート100%なのでたぶん期待していい!)

Photo

2009年5月16日 (土)

4つの「キョウソウ」:競争・狂走・競創・共創

私はかねてから次のように考えています――――

ゴッホとゴーギャンは競争したわけではない。
ピカソとマチスも競争したわけではない。
彼らはただ、たくましく競創し、おおいに共創しただけだ、
と。


さて、
「キョウソウ」について考えてみると、次の四つのパターンが見えてきます。

1【競争】
いまや世の中の多くのことが「競争」原理で動いています。学校もビジネスも社会も。
なぜなら、競争というシステムには、互いの成長・前進を刺激し、
怠惰や馴れ合いを防ぐというはたらきがあるからです。

けれども、競争には悪い面もあります。
競争はたいてい、数値化した評価で優劣や勝ち負けを判定するので、
高い数値の獲得のみがいつしか目的化されるおそれがあります。

特にビジネスは、利益(お金)という数値の奪い合い競争ですから、
人間の金銭欲が前面に出て、ビジネス本来の意義や目的が見失われることが容易に起こりえます。
私たちは競争を容認しつつも、目的のはずれた競争には
翻弄されないように注意しないといけません。

1a 2【狂走】
競争が過激になると「狂走」になります。
バブル経済が膨らむ過程などはその典型です。
「みんなが投機で儲けてるんだから、自分もやらなきゃ損!」という心理が万人に広まり、
株や不動産は実体価値を離れて値が高騰しはじめます。
「上がるから買う、買うから上がる」という狂走回路ができあがるわけです。

・・・狂走の行く末はいつも破たんです。
狂走を無意味なチキンレースだと見破り、狂走には参加しない意思と賢明さを持つべきです。

3【競創】
競い合うことは悪ではありません。
競うなら互いの創造性を競おうという意識を持つことです。つまり「競創」です。

競創においては、数値による優劣の評価や勝ち負けなどは関係ありません。
ゴッホとゴーギャン、ピカソとマチスは同時代の芸術家として、
おおいに競創したわけですが、彼らは、
互いの独自性や芸術性を刺激し合い、リスペクトし合っただけで、
蹴落とし合ったり、何か評判・得点で勝ち負けをつけようとしたわけではありません。

4【共創】
ゴッホとゴーギャンは競創関係にありながら、同時に、「共創」もしていました。
二人は共に後期印象派の流れを創造したのです。
共創とは、タレントを持った個人同士が一緒になり、
個人の枠を超えた何かを創造することをいいます。


私たちは、個人においても組織においても、「競争」を是としながら、
それを「狂走」回路に変質させていかない、
できるだけ「競創」や「共創」回路に開いていくことが大事な観点だと思います。

【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□あなたが「競争」疲れしているのはなぜだろうか?
 (限られたパイを奪い合うゼロサムゲームの中で「狂走」回路にはまっていないか?)
□蹴落とし合いではなく、創造の刺激合いをしているだろうか?
□タレントの結び付き合いで、何か大きなものを「共創」する喜びを知っているか>

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□ゼロサムゲームの中で、働き手を相対評価で操りすぎていないだろうか?
□チキンレース的なビジネスの「狂走」回路にストップをかける勇気を持てるだろうか?
□競合他社とともに時代をつくるという「共創」意識の大局観に立てるだろうか?



2009年5月13日 (水)

醸造する仕事

Mtfuji
(*沖縄・那覇行きの機中より写す)


1785年、ドイツの大詩人フリードリヒ・シラーが『歓喜に寄せて』と題した詩を書き起こす。
1793年、23歳のベートーヴェンは、その詩に出会い、そこに曲をつけようと思いつく。
1824年、『ベートーヴェン交響曲第9番』初演。
(ベートヴェン54歳、着想から完成まで31年の熟成期間を要した


日本でもお馴染みベートーヴェン第九の合唱曲『歓びの歌』は、
シラーの詩を元にしている。

23歳のベートーヴェンはすでに音楽家として頭角を現し始めていたが、
やはり巨人シラーの詩には、まだ自分自身の器が追い付いていないとみたのだろうか、
それに曲をつけられず、年月が過ぎていった。

結局、楽曲化まで30年以上を要するわけだが、
ベートーヴェンはその間、そのことを忘れていたわけではないだろう。
むしろ、常に頭の中にあって、
シラーの詩のレベルにまで自分を高めていこうと闘っていたのだと思う。

『英雄』を書き、『運命』を書き、『田園』を書き、
やがて耳も悪くなり、世間ではピークを過ぎたと口々に言われ、
そんな中、ベートーヴェンは満を持して、
自身最後の交響曲として、『歓喜に寄せて』に旋律を与えた。

私は、こうした生涯を懸けた仕事に感銘を受けると同時に、
自分にとってはそれが何かを問うている。
何十年とかけてまで乗り越えていきたいと思える仕事テーマを持った人は、幸せな働き人である。
それは苦闘でもあるが、それこそ真の仕事の喜びでもあるはずだ。


一角の仕事人であろうとすれば、
「時間×忍耐×創造性」によってのみ成し得る仕事に取り組むべきだと思う。

いまのビジネス現場は、なにかと効率・スピードを求める仕事術ばかりを強要する。
すばやく機転を利かせて、キレのある処理をすることが「優れた仕事」だと奨励する。

「優れた仕事」というのは、「鋭の力」によってなされるばかりではない。
むしろ「鈍の力」によってこそ、偉業・大作・名品は生まれる。


科学の発見、研究論文、事業の構築、絵画、建築、工芸、音楽などにおいて
後世の人間に影響を与えるものは、すべて
つくり手の生涯を懸けた「時間×忍耐×創造性」によってなされたものだ。

誰が、効率的にスピーディーに作ったワインやチーズを美味しいと思うだろうか?
「即席でない仕事」「熟成・醸造の仕事」は、カッコイイ!
さて、あなたのライフワークテーマは何だろうか?


【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□日々、業務を処理することだけで忙しくしていないだろうか?
□おぼろげながらでも、ライフワークとしたいテーマ・方向性を持っているか?
□そのテーマ・方向性に関する本や人びとと出会って、熱を保持・増大させているか?

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□「鋭の力」と同様、「鈍の力」を育む観点を持っているだろうか?
□事業の目線を未来に開き、それに携わる従業員の成長も同時に考えてやっているだろうか?
□大きな仕事、優れた仕事、ライフワークといったことについて、自身の言葉でみなに語っているだろうか?


*詳細の議論は
拙著
『ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80』にて

2009年5月12日 (火)

“気”を旋律として起こす

Yoyomacd 私なりに「作曲」の定義をしてみると、
「“気”を旋律・詞として起こすこと」。

そして、それが楽器・肉声によって音に変換されたものを「音楽」と呼ぶ。

流行歌のほとんどは、恋愛ソング(恋唄)ですが、
これは男女間の恋心や失恋感情、嫉妬といった“気”を旋律・詞に起こしている。

童謡は、子供の好奇心という“気”を具体的にとらえて、唱として表現している。

モーツァルトの楽曲は、
自然界の躍動の“気(精霊と言ってもいい)”を旋律として表現している。

ベートーヴェンの楽曲は、
人間の苦悶や創造性、生きる歓びといった“気(魂のほとばしりと言ってもいい)”に
旋律を与え、可聴化している。

だから、作曲する者にとって、まずもって大事なのは“気”を感じること。
どんな“気”をモチーフにするかによって、その曲の性質もスケールも決まる。
(さらには、旋律化・歌詞化の技術によって、その曲の巧拙が決まる)

一方、その曲を聴く者にとって、「私はその曲が好きだ」という場合、
そのサビの部分のメロディが気にいってるとか、
そこの歌詞のワンフレーズがぐっとくるとか、具体的には、そういうことになるのでしょうが、
根本的には、その曲が汲み取った“気”に感応しているのだと思う。

私が最近、仕事をしながら聴くBGMとして流すことが多くなったのが、この2枚。
・『The Cello Suites Inspired by Bach』/YO-YO MA
・『月夜浜』/Acoustic Parsha


この2枚は、その曲が表現しようとする“気”がとてもよい。
(ただし、これは私がよいと感応しているのであって、万人が感応するわけではなさそう)

20世紀を代表するチェリスト・指揮者であったロストロポーヴィチが
いみじくも「バッハの音楽は、森・草木を観るようだ」と表現したように
バッハは、この宇宙・自然が遍在して持つ叡智を楽譜化するという創造を行ったと私は感じている。
そして、YO-YO MA氏の演奏によって、それが耳に届けられる。

この曲をBGMにして仕事をするとき(今もまさにスピーカーから流れている!)、
私は、森の中で、創造の神の“気”にチューニングするかのごとく、頭をはたらかせることができる。

Tukyocd 2枚目の『月夜浜』もまた、沖縄の“気”を素晴らしくとらえているように感じます。

こうした音楽を生み出してくれたアーティストの方々に敬服と感謝(合掌)

過去の記事を一覧する

Related Site

Link