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2010年6月

2010年6月25日 (金)

模範モデルは「江頭2:50」「高田純次」


今週、私のお客様である大手広告代理店で
新入社員向けにキャリアスタートアップ研修を行った。

まだ社会人としての就労経験もなく、現場配属されてもいない新入社員に対し、
何をキャリアに関して研修することがあるのかと思われる方も多いかもしれないが、
実はこのタイミングに行っておくことの意義は大きい。

理由は2つ。
1つめは、短期的な配属辞令ショックを和らげるために。
2つめは、キャリア形成はマラソンであるという中長期に立った意識をもってもらうために。

まず、1つめについて。
これは人事担当の方がもっとも心配されるひとつだが、
新入社員研修を終えていよいよ各自に配属辞令を伝えるときに、
希望通りの配属にならなかった者のモチベーションがガクンと落ちる。

もちろん新入社員たちは、配属は会社が決定権をもってやることを承知しているし、
数年後のジョブローテーションによって次のチャンスがあることも伝えられている。
しかし、ショックはショックだ。
エネルギー満々だった人間ほど、希望が通らなかったことでマイナスエネルギーも強くなる。

そんなショックを緩和するためにも
キャリアについての基本意識をこの時点で醸成させておいたほうがよい。

私が彼らに伝えているコアメッセージは、
 ○「キャリア形成はラグビーである」
   つまり、イレギュラーバウンドする楕円球を相手にする戦いであること
 ○「キャリア形成において最も重要な力は“状況創造力”である」
   その偶発に跳ねた球を、いかに自らの「想い」の実現に向けて必然にしていくか

―――このことをもっともよく言い表しているのが、
次のルー・ホルツ(米・アメリカンフットボールコーチ)の言葉だ;

   「人生とは10パーセントの我が身に起こること、
    そして90パーセントはそれにどう対応するかだ」。


次に2つめについて。
仮に配属が希望通りだったとしても、
想像していたのと仕事内容が違った、職場環境に馴染めない、上司との人間関係が合わないなど、
配属後に遭遇する想定外の出来事はたくさん出てくる。

しかしそんな違和感や想定外は誰にでも起こるのだから、
それを適当に乗り越えていくのが社会人だろうと、すでに大人になった我々は考える。
しかし、そう簡単に本人任せに放置できないところが昨今の新入社員の人材管理だ。

彼らは短気(すぐに結果を得たがる・見たがるという意味で)である。
また、彼らの周辺には情報が溢れている。それは例えば、
第二新卒の求人情報や、年収査定情報、成功した転職事例集といったものだ。
これらは多分に広告宣伝としての一面的な欲求喚起情報であるのだが、
はやる心の彼らにとっては、リアルな脱出情報になる。

いつまでもコンフォートゾーン(心地よい居場所)に留まっていられた学生時代から
突然、違和感のある環境に縛りつけられたのである。
ましてや、業務目標のプレッシャーがきつくなりはじめるや、
「ここは自分に合っていないんだ。早めにゲームをリセットしてやり直さなきゃ、負け組になってしまう」
などといった感覚に陥り、あっさりと転職カードを切ることもしばしば起こる。

そんなことを想定して、彼らには入社時から、
「キャリアは何十年とかけて完走するマラソンである」ことを告げてあげねばならない。
キャリアを中長期の目線で考えたとき、その最初の節目は3年だろうと思う。
自他の経験を総合すると、
丸3年というのは重要な長さで、1年間でもだめ、2年間でもだめ、
丸3年を超えると不思議とみえてくる世界・得られる深さというものがある。

まず3年留まって何かの結果を出す。
それができずに居場所を変える人は、おそらく他に移っても同じ繰り返しになる確率は高い。
私が発するメッセージは次の言葉に代弁される。

   「転職は、今いる会社で実績を積み、『伝説』をつくってからでも遅くはありません。
    いや、実績を積んだときはじめて、転職するもしないも自由な身になれるのです」。
                                      ―――土井英司 『「伝説の社員」になれ!』

   「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
    そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」。
                              ―――小林一三(阪急グループ創設者)

いずれにしても、こういったことを入社時に耳に入れ、意識づけしておくことは
個人・組織双方にとってメリットがあると思われる。
こういった意識づけは人事部がやってもいいし、経営者が直接やってもいい、
現場の上司がやってもいいし、あるいは私のような外部講師がやってもいい。
ただし、真正面からしっかりとやることだ。
一人一人のかけがえのないキャリアを大事に思って対話モード(命令・通達モードではなく)でやることだ。

* * * * *

さて本記事の後半は、
今週のその新入社員研修で何とも可笑しかったエピソードを紹介したい。

私は研修プログラムの中に「あこがれモデルを探せ」という個人ワークを設けている。
これは自分の今後1年の目標立てを行うための下地ワークとなるもので、
世の中にある商品やサービス、事業、または人物で、
「模範・あこがれ・理想」になるモデルを探してみようというものだ。

ワークシートは3つに分けられていて、
1番目の欄には、そのモデルを挙げる。
2番目の欄には、なぜそのモデルを模範・あこがれ・理想として考えるのかを書く。
3番目の欄には、そのモデルを見習って現実の仕事で自分はどうしたいかを書く。

記入例として私が提示したのは、
 〈1〉i-pod/i-phone/i-pad
 〈2〉人の物真似じゃないから。独自のスタイルを世の中に提案しているから
 〈3〉私も世の中に物真似じゃない独創的な教育プログラムを提案したい

あるいは、
 〈1〉坂本竜馬
 〈2〉大きな視野に立って薩長同盟を実現させたから
 〈3〉業界を変えるような視野に立って、業界全体のレベルが向上するような協業を進めたい

……とまぁ、模範解答として端正なことを示しておいた。
で、個人に15分程時間を与えて考えてもらう。
そして、グループ4名ほどで書いたことを各自シェアリングしあう。
私は各グループを回りながら、シェアされているモデルを耳にする。

すると、さすが、広告代理店を目指して入社してきた新人君たち。
耳にしたのはとても意外というか、聞いてみればさもありなんというか、そんなモデルだった。

ある女性新入社員は、
「あたしのあこがれモデルは、なんつっても江頭2:50!」
 (間髪を入れず、「あー、いいよねー、エガちゃん」と他社員)
「彼って、ああ見えて、相当アタマいいですよ。って言うか、タレントとしての生き残り方、悟ってます。彼の名言に“1本のレギュラー獲るより、一瞬の伝説芸”とかあるし。彼のエッジの利かせ方見習いたいです」

また、別の女性新入社員は、
「私の模範モデルは高田純次さん です。あのチョー楽観主義なところが魅力的だし、見習いたい点です」。

……いや、まったくもう、傍で聞いていて笑ってしまった。
(特に女性が言い放っているところが余計に今風だなと)
しかし、これも立派な回答である。
何もお行儀のよい優等生な答えを私は求めていない。
彼らがそれをモデルとして、何かしらベクトルを引き出すことができるのなら、それは重要な模範となる。
(ただし、その個人の引き出すベクトルと、組織の求めるベクトル合わせが次に必要となるが)

新入社員研修は他でもいくつかやっているのだが、
この種類の回答には遭遇したことがなかったので余計に面白かった。



ちなみに高田純次さんの本は数々出ていて、私は結構好んで読んでいます。いいです。

 

2010年6月18日 (金)

創造的に逸脱する力~『Kind of Blue』ライナーノーツから


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NHK教育テレビで放映中の『坂本龍一~スコラ/音楽の学校』
それはそれはとてもよくできた番組で、毎回学ぶべきことがたくさんある。
(多くの人に勧めたい番組です)

もちろん音楽についても学べるのだが、
私は教育方法論の角度から多くのことを学ばせてもらっている。
一度きりのテレビ番組ではなく、
恒常的に全国津々浦々でこうした学びの場ができないものか―――それを考える。

さて、その番組で、Jazz音楽の歴史をやる回があったのだが、
そのときにマイルス・デイビスの名盤『Kind of Blue』 (1959年)の紹介があった。
(番組ではその中の代表曲『So What』を教材に使っていた)
番組が終わり、CD棚からそのアルバムを取り出し久しぶりに聴いてみた。

で、アルバムの中に入っているライナーノーツにふと目をやると、
ピアノでこのアルバムに参加しているビル・エヴァンスが小文を書いているではないか。
このアルバムは大学生のころから聴いていて(当時はLP盤だったが)、
そのころも多分このエヴァンスの文章を目にしていたとは思う。
しかし、きょうのきょうまで素通りで読んでいた。

いま、この“IMPROVISATION IN JAZZ”(ジャズにおける即興性) と題された小文を読むと
何ともびんびんと響いてくる。
エヴァンスの言っていることに対し、
ようやく私の受信機レベルが受け入れ可能状態になったのだろう。
名文や名著の類は、
受信側の心に準備ができたときはじめて、行間から光が射してくるものである。


エヴァンスの書き出しはこうだ……

  “There is a Japanese visual art in which the artist is forced to be spontaneous. He must paint on a thin stretched parchment with a special brush and black water paint in such a way that an unnatural or interrupted stroke will destroy the line or break through the parchment. Erasures or changes are impossible. These artists must practice a particular discipline, that of allowing the idea to express itself in communication with their hands in such a direct way that deliberation cannot interfere.

  The resulting pictures lack the complex composition and textures of ordinary painting, but it is said that those who see well find something captured that escapes explanation. ”

  「芸術家が自発的にならざるを得ない日本の視覚芸術がある。芸術家は薄く伸ばした羊皮紙に特別な筆と黒い水彩絵の具を使い描かなければならない。その際、動作が不自然になったり中断されたりすると、線や羊皮紙が台無しになってしまう。線を消したり変えたりすることは許されない。芸術家は熟考が介入することのできない直接的な手法を用いて、手とのコミュニケーションによりアイデアにそれ自体を表現させるという特別な訓練を受けなければならない。

  その結果生まれる絵は通常の絵画と比べて複雑な構成や質感を欠くが、見る人が見れば、説明の要らない何かを捉えていることが分かるという」。    (訳:安江幸子)


エヴァンスは紙という二次空間に筆を打ちつけていく書と、
時間という流れの中に旋律を放っていくジャズ音楽と、
どちらも後戻りのできない即興性に、その芸術的な妙味を見出している。

即興とは、適当や出鱈目(でたらめ)とは違う。
「創造的逸脱による個の表現」であって、そこには


  ①創造を司る基本技術の習熟
  ②逸脱の勇気
  ③そして何度やってもそこに貫通する個のスタイル

がある―――それが即興だ。

私は「キャリアとは何か・働くとは何か」を教える職業に就いてから
「キャリア形成はジャズ音楽に似ている」と言ってきたが、
その角度で読むと、このエヴァンスの小文はびんびんと響いてくる。

ジャズ音楽や書を 「単発・即興性」 の芸術とするなら、
クラシックの交響曲演奏や油絵は 「反復・重層性」 の芸術と言っていいかもしれない。

前者は原則、一筆書きで作品を仕上げ、やり直しがきかない。一発勝負の世界だ。
逆に後者は、入念に何度もリハーサルをやったり、下書きを描いたりし、
音を重ね、色を重ね、筆を重ね作品を組み立ててゆく。
時間と空間を往ったり来たりできるので大作も可能になる。その意味で反復・重層的なのだ。
これはどちらがいい・悪いという問題ではない。
どちらを意志的に選んで作品づくりをするかという問題だ。

人生やキャリアも言ってみれば、
“生き様・働き様”という一つの壮大な作品づくりであるが、
その創作過程は、「ジャズ・書」的にやるか、「交響曲・油絵」的にやるかの選択だといえる。

会社員として組織の中で働き、ある程度軌道に乗った事業の下で担当仕事を任されるのは、
「交響曲・油絵」的である。
指揮者に相当する中心者がいて、各自が役割を負い、各自が大小の業務を重ねていって、
漸進的に事業を競争力のあるものにしていく。このとき多少の失敗も許容される。

しかし、私のように個人で独立して新規に事業を始めると、そうはいかない。
自分の一挙手一投足が、即、事業に影響する。
下手をやっても後からの重ね修正はできないし、組織が守ってくれるわけでもない。
私にとっては、一回一回の研修プログラム、
一度一度のコンサルティング、一冊一冊の著作、一片一片の記事が勝負作品になる。
そこで評価されないと、次はない。

五年後にきちんと事業を安定化できているのか、それはわからない。
一年後、この商売を無事続けていられるかさえもわからない。
(無計画に事業・キャリアを進めているというわけではなく)

しかし、常に一瞬先の未知で白紙の空間に、
自分の信ずるところのサービスを打ちつけていく―――それしか仕事がない。
そういった意味で、いまの自分のキャリアは「ジャズ・書」的である。
自身がそういう状況にあるからこそ、
余計にジャズ音楽に惹かれ、エヴァンスの文面に過剰に反応してしまうのだとも思う。


再び彼の文章を引用すると……

  “Group improvisation is a further challenge. Aside from the weighty technical problem of collective coherent thinking, there is the very human, even social need for sympathy from all members to bend for the common result. This most difficult problem, I think, is beautifully met and solved on this recording.”

  「グループ・インプロヴィゼーションは更なる難問である。全体における重要な技術的な問題とは別に、全メンバーが共通の結果を目指すべく心を一つにしなければならないという、非常に人間的で社会的ですらある必要性がある。この最も難しい問題は、思うに、この作品においては非常に美しく対応され、解決されている」。

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一人のアーティストの即興創作ですら容易ではないのに
それが複数のアーティストの協働となると難度が増すことは明らかだ。

このアルバムに限って言えば、
「いやぁ、参加アーティストがマイルスにエヴァンス、
そしてコルトレーンにキャノンボール・アダレイでしょ、
そりゃいいものが出来るに決まってる」と思われるかもしれない。
しかし、そういった超一級のタレントが集まったときほど簡単にまとまるものではない。

そういえばその昔、『WiLL』という共同ブランドプロジェクトがあった。
トヨタ自動車や花王、アサヒビール、松下電器産業(現パナソニック)、近畿日本ツーリストなど
錚々たる企業が取り組んだが、案の定、うまくいかなかった。
(取り組みには敬意を表したいが、ビジネスにおける協働は、いかんせん損得勘定や立場の違いが壁となる)

結局のところ、複数の手による即興芸術の要は、
エヴァンスの指摘するように
「the common result(共通の結果)」に対する「sympathy(共感)」なのだ。
しかし、そのsympathyという言葉の美しさとは対照的に、
実際メンバーたちがやっていることは “殴り合い” である。

というのも、例えば『Kind of Blue』の演奏収録において、指揮者はいない。
もちろんマイルスはリーダー的な存在だが、
いざ演奏が始まれば彼はトランペットの演奏に集中するだけで、
他のプレイヤーにどうやれこうやれとは指図などしない。他も同じだ。
あるのは、音が現在進行形で弾き出されていく中で、
各プレイヤーが、ときにキーやコードを“創造的に逸脱”して、
他のプレイヤーに仕掛けたり呼び込んだり、その研ぎ澄まされた感性の殴り合いなのだ。

しかもマイルスは、何を演奏するかを示唆した“草案(sketches)”を
本番収録の数時間前に持参しただけである。
どの曲もいまだかつて完奏されたことがないものだ。
そこには事前の熟考や擦り合わせ、事後の塗り重ねなどない。出たとこ勝負の掛け合いである。

ジャズや書は言ってみれば「ハイリスク・ハイリターン」の創作である。
神がかり的な名作が生まれ出る一方、駄作も山積みされる。
それに対し交響曲演奏や油絵は「ローリスク・シュア(手堅い)リターン」かもしれない。
リハーサル練習や下書きなどによって失敗のリスクを減らし、完成状態に目途をつけ、創作がスタートする。

* * * * *

いま日本の働き手に強く求められるのは、ジャズ的な即興的創造の力ではないか。
即興的創造の力で重要になってくるのは、次の3つである。
  ①創造を司る基本技術の習熟
  ②逸脱の勇気
  ③個のスタイルを貫通させる意志

日本人が主としてやっている働き方は、
「組織の力で没個性的に、型にはめて、枠の中で、根回しをして、中心者に従いながら」である。
それは、ジャズ的な即興創造とは反対のものばかりである。

折しもW杯サッカー(南アフリカ大会)がたけなわだが、
ほんとうに強いチームというのは、
例えばブラジルとかイタリアとか、あるいは組織的と言われるドイツでさえも、
このジャズ的な即興的創造の力によって、最終的に勝利をつかみ取る。

現代サッカーは、戦略・戦術の研究、データの分析などによって
相手のよいところを消し、守備的にはどこも互角に戦えるようにはなってきている。
しかし、最後、試合に勝つためには誰かが球をゴールに突き刺さねばならない。
組織で固めたセオリーをどこかで破る個の動きこそ試合の分岐点をつくるのだ。

私は、サッカーにおいて攻撃は、ジャズセッションだと思っている。
球のゆくえによって状況が刻々と変わる時空間で、複数のプレイヤーが、
瞬間瞬間に予測をし、判断をし、肉体を操る筋書きのない即興的創造を行っているのだ。

球を保持しているプレイヤーは次の仕掛けを閃光のごとく考える。
球を保持していないプレイヤーはスペースに走り込む気配を放ってパスを呼び込む。
彼らは感覚と肉体を研ぎ澄ませて目に見えない殴り合いを(味方同士で)やっている。
“the common result”である「勝利」という栄光に「sympathy」を持ちながら。

私もサッカー少年だったのでよくわかるのだが、
守備の固い敵陣のペナルティーエリア近辺から、独り切り込んで局面をつくることは
ほんとうに難しいことだし、何よりも怖い。

茶の間のファンが、
「なんでそこでパスするんだよー」とか「逃げるな、シュートを打て」とか、
「だから日本は決定力がないんだよ」とか、そうコメントすることは簡単だ。
しかし、そう批評する個人も、例えば自分の職場で難しい状況に遭遇したときに、
独り勇気をもって局面を打開する創造力があるだろうか。

創造的な逸脱をするには相当な勇気が要る。
勇気だけではダメで、そもそもの基本ができていなくてはならない。
そして、最後まで自分の信ずるスタイルを依怙地なまでに貫くことも大事だ。

スポーツにせよ、ビジネスにせよ、私生活にせよ、
先行きの予測できない不安定な状況に身を置いても自分をしっかりと保ち、
流れの中から状況を、しかも個の表現としてつくりだす、そしてそれを面白がる
―――そんなたくましきマインドがいまの日本人(特に若い世代)にもっともっとほしい。

日本人は古来、形式を重んじ、型や枠に沿って行動するところに美意識を見出してきた。
しかし、伝統芸能の世界で口にされる 「守・破・離」 という言葉が示すように、
「守」は修行のほんの第一段階でしかない。
師は弟子たちに、あくまで「破り離れよ」と教えているのだ。
「破・離」とは、予定調和の創造的破壊、既定路線からの創造的逸脱にほかならない。

創造的に逸脱するたくましさを涵養するために、
社会ができること、家庭ができること、学校ができること、職場ができることは何だろう?
―――たぶんその答えもまた型どおりの教育方法ではだめなのだろう。
そのために、教育サービスづくりを生業とする私も創造的逸脱を楽しみながら
アイデアを生み出し実行していきたいと思っている。


2010年6月13日 (日)

留め書き〈011〉 ~本閉じて思考のさざ波立てり


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上の言葉は、
米国の作曲家アーヴィン・バーリン(Irving Berlin、1888-1989)の名曲

  “The song is ended but the melody lingers on.”
                    (歌終わりて、旋律残れり)

にならって書いたものだ。


  “The book is closed but the thoughts ripple on.”
    (本閉じて、思考のさざ波立てり)

よい書物というものは、閉じた後に判る。
自分の内に思考のさざ波が立ち、アタマの中をざぶんざぶんと反復する。
波はおさまるどころか、どんどん増幅され、いよいよ眠れなくなってしまう。

同じように、力ある言葉も、放たれた後にこそ真価が顕われる。
  “The words are thrown off but the spirit lives on.”
    (言葉放たれて、言霊生き続けり)

また、言葉は種として心に落ちて、そこで思想の大樹として大きくなることもある。
  “The words are put and the meaning grows on.”
    (言葉落ちて、意味育ちゆけり)


よい本、よい言葉を摂取することは人生の楽しみであるとともに重大事である。
そして、みずからも読み手の内に波を起こせる本、種となる言葉を創造したいと願う。



2010年6月 9日 (水)

目標に働かされるキャリア vs 目的に生きるキャリア



  「目標」と「目的」の違いは何でしょうか?
  私は次のような定義をしています。

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  ここで「3人のレンガ積みの話」を紹介しましょう。

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  さて、彼ら3人それぞれの「目標」・「目的」は何でしょう?

  目標とは、簡単に言えば「成すべき状態」のことです。
  それらはたいてい、定量・定性的に表わされます。
  ですから、レンガ積みとして雇われている3人の男の目標は同じです。

  それに対し、目的とは、そこに「意味」の加わったものです。
  3人は同じ作業をしていますが、そこに見出している意味は違います。
  目的が天と地ほど異なっています。

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  目標をもつことは働く上で必要なことです。
  しかし、中長期のキャリアにおいて、しばしば「目標疲れ」することが起こります。
  それはたぶん、その目標が他から与えられたものだからです。
  もし、その目標に自分なりの意味を付加して、目的にまで昇華させたなら、
  「目標疲れ」は起きません(もしくは、ぐんと軽減されるはずです)。
  むしろ、大きな意味を付加すれば付加するほど、大きなエネルギーが湧いてきます。


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  中長期のキャリアで、
  最大の防御(=疲弊から身を守ること)であり、かつ、
  最大の攻撃(=意気盛んに働くこと)は、 「目的」を持つことなのです。

  いまスライドに2つの働き様A、Bを示しました。

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  働き様Aは、いまやっていることが目標に向かっている形。
  この場合、目標達成が最終ゴールとなり、
  目標が達成されたか達成されなかったか、のみが関心事になります。

  一方、働き様Bは、いまやっていることが目標に向かいつつ、もうひとつその先に目的がある形。
  この場合、最大関心事は目的の完遂、言い換えれば、意味の充足であり、
  目標達成はそのための手段・プロセスとしてみなされるにすぎません。

  ---さて、あなたはどちらの働き様でしょうか?


  で、働き様Bの形をもっと掘り下げて考えてみましょう。
  目的は、現実の自分にいろいろなものを向けてきます。
  ひとつには、「意味・意義」を還元します。
  「いま自分のやっていることは何のためなのか?」それを問うてきます。

  もうひとつには、「やり方」を問うてきます。
  「目的を成就するためにそんなやり方でいいのか?」
  「原点となる目的を忘れるな。いまの方向は修正したほうがいいんじゃないか」など。

  そして、現実の自分に「エネルギー」を充填してくれます。
  人間は意味からエネルギーを湧かせる動物だからです。

   「人間とは意味を求める存在である。
   意味を探し求める人間が、意味の鉱脈を掘り当てるならば、そのとき人間は幸福になる。
   彼は同時に、その一方で、苦悩に耐える力を持った者になる」。

                             ―――ヴィクトール・フランクル『意味への意志』より
             (フランクルはナチス軍下の捕虜収容所を生き延びたオーストリアのユダヤ人精神科医)


  目的をもった人間の働き様はこんなような形になります。

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  ―――そうです、円環の形です。


  さてさらに、その働き様に時間軸を加えてみてみます。
  働き様Aは、毎期毎期、会社からの目標をクリアすべく働きます。
  上司と面談をして目標を設定し、期末ごとにそれができたかできなかったかの査定があり、
  賞与が決まり、年収が決まり、それを繰り返していくキャリアの形になります。

  キャリアステージのレベルは年次とともに多少は上がっていくかもしれません。
  「係長になれた」「課長になれた」「部長になれた」・・・しかし組織の役職によるキャリアステージは
  会社を辞めてしまえば消失してしまう時限のものです。

  ……そして、定年を迎える。
  何かしら業務上の目標があったことが当たり前だったサラリーマン生活から一転、
  自分自身の今後の人生の目標・目的はまるっきり白紙の状態です。
  はてさて、それを、自分で設定しなければならないのですが・・・

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  一方、働き様Bはどうでしょうか。
  Bは、いまやっていること→目標→目的が円環になっていますから、
  それがどんどんスパイラル状に膨らんでいき、
  働きがいやら朗働感やらが増幅されるキャリアになります。

  そして、時間の経過とともにライフワークのようなものが見えてきて、
  しっかりとした意味の下、定年後にやりたい選択肢もちゃんと創造できているはずです。

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  事業組織で働いて給料を得る以上、
  組織からの目標は一つの契約であって、受け入れるのが当然のものです。
  目標があるからこそ成長できることも多々あります。
  ですから私のように自営業であっても、きちんと目標を立てて自らを律しています。

  問題は、何十年と続く職業人生にあって、
  他人の命令・目標に働かされ続けるのか、
  それとも自分なりの意味・目的にまで昇華させて、そこに生きるのか―――この一点です。
  この目に見えない一点の差が、40歳、50歳になったとき、とんでもなく大きな差になっているものです。



2010年6月 2日 (水)

努力が報われる人生とは ~グランジュテはいつ起こる?



NHK教育テレビで『グラン・ジュテ~私が跳んだ日』という番組がある。
さまざまな女性の職業人生を追っているヒューマン・ドキュメンタリーで
私は観るたびにいろいろにエネルギーをもらっている。

『プロジェクトX』のように壮大なドラマ仕立てでなく、
『情熱大陸』のように超有名人を扱っていない。
どちらかといえば普通の人が職業人生を切り開いていく物語で、
自分と等身大のスケールで観ることができる。
だから余計に現実味を帯びたエネルギーをもらえる。

「ロールモデル不在」とそこかしこで言われる日本社会だが、
こういった番組はそんな中で多くに視聴を勧めたいものだ。
登場する彼女たちの生き様・働き様はロールモデルにじゅうぶんになりえる。
(特に中学生くらいからどんどんみせたらいいと思う)
(今の子供たちは、想いにひたむきな生き方、志に向かう真剣な大人の姿をあまりに目にしていない)

番組タイトル名のグラン・ジュテとは、「大きな跳躍」という意味だ。
(バレエの専門用語から取っているという)
毎回登場する主人公は、さまざまなきっかけや出来事によってその世界に入り、苦労や忍耐を重ねる。
小さな成功に有頂天になるときもあるが、
その後長く続く、ほんとうの試練にさらされて、次第に天狗鼻も削り落とされてゆく。
その下積みのようなプロセスを番組はていねいに追っている。

その下積みの間の心理変化や、主人公のあきらめない心の持ちようこそが、
この番組の一番の肝である。私もそこに強い関心を置く。

番組のタイトルどおり、番組の後半では、そうした苦境を乗り越え、
主人公には晴れて「グラン・ジュテ」の瞬間が訪れる。
そこから彼女たちは、仕事のステージががらりと変わり、成功へのキャリアストーリーが始まる。
それはもう番組作り上の華のようなもので、
また視聴者にとっては必ずあってほしいカタルシスのようなもので、
「あぁ、よかった、よかった」となる。

―――しかし私たちは、この番組をあらかじめ「グラン・ジュテ」があることを
知っているからこそ安心して観ていられる。
番組は必ずハッピーエンドで終わってくれるのだ。
(だからこそ、番組化された)

さて問題は、現実の自分自身の人生・キャリアに引き戻したときである。
自分がいま報われない環境にあったり、
苦境やどうしようもない停滞に陥っていたりするとしよう。
……この下積み状態はいったいいつまで続くのか?
どこまで努力し耐えたら、みずからの「グラン・ジュテ」が訪れるのか?

いや、ひょっとすると、
現実の自分の人生・キャリアには「グラン・ジュテ」などは起こらないかもしれない。
努力が結果として報われない人生など、周辺にいくらでも転がっているのだ……。

さて、きょうはそんなことを前置きとしながら、
「努力が報われる人生とは何か」を考えてみたい。

◇ ◇ ◇ ◇

下の図は、投じる努力とそれに反応する変化を表したものだ。


Granjt01 
 

〈比例変化〉とは、自分の投じた努力に比例して変化がきちんと起こる状況である。
例えば、語学のような習い事の場合、
始めたばかりのころは、勉強量に応じて語学が上達していく。

次に〈逓減変化〉とは、努力に対する変化の度合いが徐々に小さくなっていく状態である。
何事もある程度のレベルに上達してくると、何か「カベ」のようなものにぶち当たり、成長が鈍る。
そんなときのことをさす。

そして3番目に〈非連続的変化〉
私たちはときに、努力しても、努力しても、状況になかなか変化が表れない期間を経験する。
しかし、それでも努力を止めなかったとき、
ふと、突然にジャンプアップの変化が起きるときがある。

私は留学経験があるのでわかるのだが、
アメリカに住んで最初はどうしてもヒアリングに難がある。
しかし、3ヶ月後くらいに、すぅーっと耳に通ってくる
(英語の場合は、頭の中で翻訳プロセスを通さず、ダイレクトに英語でものを考える)
状況が起こる。これは自分の言語能力のレベルがぽんと変わった瞬間である。
これが非連続的変化だ。

さて、冒頭に触れた「グラン・ジュテ」(大きな跳躍)―――
これはまさに3番目の非連続的変化をいう。


また、私はグラン・ジュテを 「過冷却」 の現象にもなぞらえる。

過冷却とは、『ウィキペディア』の説明によれば、
「物質の相変化において、変化するべき温度以下でもその状態が変化しないでいる状態を指す。
たとえば液体が凝固点(転移点)を過ぎて冷却されても固体化せず、
液体の状態を保持する現象」。

水を例にとると、水を常温からゆっくり静かに冷やしていく。
すると、摂氏0度になっても凍らず、マイナス何度という液体の水となる場合がある。
この状態を過冷却という。
しかし、このとき、振動などの物的刺激を与えると、一瞬のうちに水は凍結化する。

つまり、人生におけるグラン・ジュテの直前というのは、
過去からの努力の蓄積が、とうに変化を起こしてもよいくらいの量を投じられているにもかかわらず、
現象として変化が起きていない―――そんな「過冷却」状態であるわけだ。

そこで神様は、彼(女)にきっかけを与える。
何かの事件であったり、出会いであったり。  で、見事、跳躍が起こる。

頭ではこうした人生の原理を説明することはできる。
しかし人生というものは、そう簡単な話ではない。
なぜなら、私たち一人一人がする努力を
計量機をにらめっこしながらちゃんと帳簿につけてくれる神様がはたしているのかどうか
―――それこそ神のみが知ることだからだ。

下図を見てほしい。
私たちは現在から一瞬先の未来のことは予測できない。


Granjt02 
 
 
パターンAのように、あとどれくらいのタイミングで、
どれくらいの努力をつぎ込めば、グラン・ジュテが起きてくれるかはわからない。
1年後か5年後か、いや、場合によっては明日なのかもしれない。

いや、ひょっとすると永遠に来ないかもしれない・・・(パターンB)

いや、そう考えている矢先、
まったく努力などしない隣の能天気人間が、あっさりと成功を収めてしまうことだってある。
(パターンC)

*ちなみに、Cの場合のジャンプアップは、
グラン・ジュテというより 「ラッキー・リープ」(幸運な跳躍) と名づけるべきものだ。
ラッキー・リープした人間は、跳躍した分の中身が伴っていないので、
事後にそこを埋める努力をしないと、身を持ち崩すことが多い。

◇ ◇ ◇ ◇

さて、ここから本記事の大事な結論に移ろう。
私たちは、物事を自分の理想に近づけようと努力をする。
特に仕事上の目標や人生の目的(夢や志)を達成するためには、
相当大きな、そして継続的な努力を要する。
しかし、その努力が “結果として” 報われるがどうかは、残念ながら誰にもわからない。

血のにじむような努力をした人でも、それが報われなかった事例を
私たちは周りで多く目にしている。
かといって、この世の神様は非情だと嘆いてみてもしょうがない。
(たぶん神様は非情的でもなく、逆に同情的でもない。人間の情に関係なく、因果に透徹なだけだ)


Granjt03 

そうしたことを前提として、大事なことが2つある。

○ひとつめ:
努力の結果の形が最終的にわからないにしても、
結果を出してやるという執念で努力をする。
つまり 「人事を尽くして天命を待つ」 の気構えで事に当たること。
結果に執念を持たない努力は惰性になる。

○ふたつめ:
その努力が “プロセス” として報われるようにする。
このことは少しわかりにくいので説明しよう。


Granjt04 

努力の報われ方には2種類ある。
一つは、 「結果として報われる」 こと。
つまりその努力の後に、何かしら意図する形・現象が得られること。
もう一つは、 「プロセスとして報われる」 こと。
これは、その努力という行為そのものが自分への大きな報酬となっていて、
結果いかんに関わらず、すでにやっている最中で報われている状態をいう。

例えば、私たちが何かのボランティア活動に汗を流したとしよう。
そのとき、私たちはその行為の結果に拘泥しない。
それをやったことによって、どれだけの人に有難うを言われたとか、
多少のお礼金をもらえたとか、そういったことは主たる関心ではなく、
ともかく自分が意義を感じた行為をやったことに対し充足感を覚える。
これがプロセスとして報われている姿である。

だから、大事なことの2つめは、努力しようとする行為に意味を付与することだ
そこに意味を見出しているかぎり、それは「やりがいのある努力」になり、
結果がどうあれ自分は報われる。

大切な私たちの時間と労力である。
くれぐれも、やることに意味を与えず(つまり、いたしかたなくそれをやり)、
しかも結果が何も出なかったというような「最悪の努力」は避けなければならない。

結局、自分のキャリア・人生を「努力が報われる」ものにしていくための根本は、
やっていることに意味を与えること、
あるいは、やっていることを意味あるようにつくり変えていくこと、に行きつく。

意味を感じていれば、まず、プロセスとして報われる。
そして、努力の継続もできる。
自分の感じている意味が、ほかの人も感じられるような意味であれば、
彼らからの共感や応援も加わる。
そうこうしているうちに、自他供の努力の質と量が臨界点を超え、
グラン・ジュテはいやおうなしにやってくる!(くるものと信じたい)。

神様は同情的でも非情的でもないが、意地悪ではないのだから。
いや因果に透徹な神様であればこそ、
しっかりとした因をつくれば(神様を動かすことができ)、必ずグラン・ジュテは起こせる!




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