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2012年12月

2012年12月20日 (木)

この世界は無数の「仕事」による壮大な織物である


   かのアイザック・ニュートンは言った───

      「私が人より遠くを眺められたとすれば、それは巨人の肩に乗ったからである」。

つまり、自分より過去に生きた人たちの偉大な知識を土台にしたからこそ、自分の仕事・業績はあったのだと。


   「仕事」をひとつ定義するとすれば、「事前(Before)→事後(After)で何らかの価値を創造すること」となるだろうか。そう考えると、仕事にはたとえば、

○ 「A→A±」〈増減〉もあるし、
○ 「A→B」〈変形〉もあるし、
○ 「0→1」〈創出〉のようなものもある。


   いずれにせよ、仕事は時間的にみれば「I N P U T→T H R O U G H P U T( T H R U P U Tと略)→OUTPUT」の流れでなされている(図1)。


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   たとえば、椅子をつくる仕事は、木材が原材料としてINPUT(投入)されると、つくり手の能力や意志・身体といったTHRUPUT(価値創造回路)にかかり、椅子がOUTPUT(産出)されるといった具合に。

   それで仕事というものは、一人で閉じてできるものではない。たとえば、職人が椅子をつくるとき、手にする木材は誰かが木を切って運んでくれたものだし、工作機械も誰かが設計し、製造し、販売してくれたものだ。また、職人が学んできたモノづくりの知識は、過去の職人たちからの贈りものである。そして、当然ながら、そうした仕事をするには健康な身体がいる。そのためによく食べる。食べるとはすなわち、動植物の生命を摂取するということだ。だから職人の仕事のINPUTは、実はほかから提供されるさまざまなOUTPUTで成っている。
   これは同時に、その職人のOUTPUTが次に誰かのINPUTになるということでもある。その斬新な椅子のデザインはほかの椅子職人のインスピレーションを刺激するかもしれないし、その椅子を購入した人がそこに座ってベストセラー小説を書くかもしれない。そう考えると、仕事というのはずっと連鎖していくイメージが生まれる(図2)。このとき、仕事は経時的変化であるとともに、無数の仕事が空間的な広がりをもって複雑につながり合うことにもなる。


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   そして、この連鎖のイメージを巨視的に発展させていくとどうなるか。私は次のようなイメージにたどり着く───この世界は、無数の個々が無限様に成す「INPUT→THRUPUT→OUTPUT」の価値創造連鎖による壮大な織物である。それを表現すると図3のようになる。


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   地球という惑星が特異なのは、1つには、青い水と空気があり生物が存在していること。そしてもう1つは、生物のなかの1種類である人間が、個々それぞれに「仕事」という一糸で価値創造という織りものを日々刻々行っているということである。きょうの私のこのアウトプット記事も、世界を織り成す一糸となり、次の誰かの仕事のインプットになるやもしれない。






2012年12月18日 (火)

モラルジレンマ ~「Aは正しい/Bも正しい」の間で


Kirekoku cover   きょうは、先月刊行した『キレの思考・コクの思考』から、モラルジレンマについての演習を紹介する。


◆演習:ボックス・ティッシュ開発
   次にあげるケース(事例)は、私が研修で使用しているもので、実際の市場で起きていることを一部取り込みながら創作したものである。ケースを読んで、後の問いについて考えてほしい。


   ===〈ケース〉===

   あなたは製紙会社A社に勤めていて、ボックス(箱入り)・ティッシュの商品開発を担当しています。A社は、スーパーやドラッグストアなどでよく見かけるボックス・ティッシュ「5箱パック」製品で業界トップシェアの位置を確保しています。ところが、最近B社が急速に売り上げを伸ばし、A社を追い抜く勢いになってきました。
   なぜかというと、B社の低価格戦略品が消費者の支持を集め、急速にシェアを拡大しているからです。現在、店頭では次のような状況で2社の製品が並んでいます。

     A社製品=5箱パック:358円
     B社製品=5箱パック:298円

   両社の製品は外箱のデザインこそ違え、5個パックの大きさはほぼ同じ。消費者はティッシュ自体の品質に大きな差を感じていません。となれば、そこに付けられた値札の差額は、デフレ・不景気下の消費者にとってみれば、歴然と大きなものです。「5箱パックが300円を切った!」ということで、消費者は一気にB社製品に手を伸ばしているわけです。


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   しかし、ここにはからくりがあります。B社が投入してきた戦略品は、同じ「5箱パック」としながら、1箱に詰めるティッシュの枚数を減らし、紙の品質をわずかに落とし、そこで低価格を実現させているのです。
   従来、業界では標準として、2枚を1組のティッシュとして、1箱に200組400枚を詰めていました。それをB社は、160組320枚にしたのです。1箱に何枚のティッシュが入っているかという表示は、箱の裏面に小さく表示があるだけで、多くの消費者はその点に気づかないのが現実です。つまり、実際はこういう比較数値になります───

     A社=5箱パック:358円
      (1箱400枚入り×5箱=総計2000枚:1枚あたり0.1790円)

     B社=5箱パック:298円
     (1箱320枚入り×5箱=総計1600枚:1枚あたり0.1863円)・紙品質やや劣

   そうこうしているうちに、B社は次の策を打ってきました。今月発売した新商品のパッケージには「エコ×エコ」とデザインされた目立つシールが貼ってあります。説明表示を読むと、「箱の高さを数ミリ小さくし、外箱に使う紙資源を少なくしました!」とあります。
   さて、客観的に考えて、ほんとうに「エコ×エコ」=経済的で省資源なのはどちらでしょうか? 確かに店頭価格はB社のほうが安い。しかし、ティッシュ1枚あたりで考えると、A社のほうが安いのです。しかも品質的にも上です。経済的なのはA社です。

   次に、ほんとうに省資源なのはどちらでしょうか。B社が小さくしたという箱の高さはわずか数ミリです。その分の資源の節約は実際に効果的なものなのでしょうか。
   A社が調査したところ、外箱を数ミリ薄くしただけでは、箱用紙、印刷インク、物流コストについて大きな節約効果は出ません。もし、同じ1600枚の販売で考えるなら、「1箱320枚×5箱」より「1箱400枚×4箱」で販売するほうが、節約効果が大きいとの結果です。
   結局、B社がやっていることは、1箱に400枚詰められる技術があるにもかかわらず320枚に留め、A社と見た目のボリューム感はほぼ同じにしながら、分かりにくいように中身の質と量を落とし、低価格で訴える戦術です。しかも、そこにもっともらしい社会性のある宣伝文句を加えるというしたたかさ。

   こうしたB社の猛追を受けて、A社の1位陥落は時間の問題となってきました。もちろん、A社内では盛んに議論が交わされています。「うちも枚数と品質を落とした低価格品で対抗すべきだ」という声もあれば、「業界のトップ企業として、そしてもっとも信頼される上位ブランドとして、安易に見せかけのエコ競争・低価格競争に走ってはならない。多少の割高感が出たとしても、何がほんとうに経済的か、省資源的かを訴え、自分たちの理念を軸にした商品開発を堅持すべきだ」という声もあります。
   また、ネット上の口コミサイトを探ると、ほんとうに経済的で省資源的であるのは、「1箱400枚入り」のものだという消費者の意見が少しずつではあるが増えている気配もあります。しかし、おおかたの口コミは、「5箱パックで298円!」だとか「無名ブランド品で198円ものが出た!」など、もっぱら安売り情報が主となっています。

□問1:
自社(A社)は、ボックス・ティッシュ5箱パック分野において、B社と同じような仕様(枚数減・品質低)で競合品を出すべきでしょうか? 

□問2:
問1についての判断をした理由は何ですか?
(自分がどんな視点・価値的判断軸を持って考えたか、もしそれが複数あった場合は、どんな優先順位で考えたかなどを説明してください)

□問3:
もしあなたが、製紙業界とはまったく関係のない一消費者・一市民だとしたら、問1の判断を支持しますか?


◆私たちは「マルチロール」な存在である
   このケースを考えるとき、個人の頭のなかでも、そして組織内の議論においても、さまざまな視点・価値的判断軸が出てくるだろう。たとえば、「安さを追求した商品を出すことが消費者のためである」「シェアを取る=数量を押さえることが事業の根幹である。シェアトップの座を奪われることは、組織の士気に影響する」「数量の論理・利益至上主義のみで進める事業は長続きしない」「地球環境を守ることは一地球市民としての義務である」「目先の競争のためにブランドイメージをゆがめてはならない」など。こうした多様にある価値的判断によって、「正しいこと」はいくつも存在する。
   私たちはこうした正解値のない問題に対し、具体的な事実やデータを把握し、論理的に分析をし、客観的に対応法を考える。しかし、そうやって追いこんでいっても、切れ味よい答えがなかなか出てこない。それは、私たち個人が、「マルチロールな(複合的な役割を持つ)」人間だからだ。

   たとえば、自分がどこかの会社に勤め、何か事業を企てている場合、私たちは「一企業人」としての側面を持つ。一企業人であるかぎり、事業の拡大を狙うし、組織が永続するために利益を追求する。競合会社を蹴落とすために手段を尽くすし、より多くの消費者を取り込もうとするだろう。一企業人としての自分は、行政・法律の制限、消費者団体の意見、メディアの批評、株主の圧力、取引先との関係性、地域・社会の動き、社内の目など、いろいろなものに囲まれている。これら外部の力と複雑にやりとりをしながら物事を動かしていく。
   と同時に、私たちは「一人間」としても存在する。つまり、家に帰れば、誰かの親であり、あるいは子であり、市民であり、地球人であり、消費者であり、良識人である(図2)。


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   ボックス・ティッシュのケースにおいて、もしあなたが「安さで太刀打ちできる製品を出して、何が何でもトップシェアを維持すべきだ」と考えるのは、一企業人としての価値的判断だ。しかし同時に、一人間としてのあなたの心の奥からはこのような声が聞こえてくるかもしれない───「資源のムダを知りながら、それを脇に置いて価格競争に明け暮れていいのか。子どもたちの世代に少しでもきれいで豊かな地球を引き渡してあげるのが、大人の責務ではないのか」と。ここにモラルジレンマ(道徳的価値の葛藤)が生じる。
   チェスター・バーナードが『経営者の役割』のなかで、「組織のすべての参加者は、二重人格――組織人格と個人人格――をもつ」と記述したように、事業現場におけるモラルジレンマはこの二つの人格の間の揺れ動きにほかならない。組織の目的を優先させるのか、個人の動機に根ざすのか、その力学が複雑になればなるほど私たちは悩み悶える。

◆現実の自分を高台から見つめる「もう一人の自分」をつくれ
   では、この「組織人格」と「個人人格」の葛藤を超えて答えを出すためにどうすればよいのか。それには、高台から現実の自分を見つめる「もう一人の自分」をつくることだ。その「もう一人の自分」は、単なる客観を超えたところで、「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な主観を持っている存在である。モラルジレンマに遭遇したとき、その彼(彼女)が現実の自分を導いていく───これが最善の形である(図3)。


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   ちなみに、その自己超越的な「もう一人の自分」について、能楽の大成者である世阿弥は、『風姿花伝』のなかで「目前心後」という言葉で表している。世阿弥によれば、達者の舞いというのは、舞っている自分を別の視点から冷静に見つめてこそ可能になる。そのために、「目は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」と。つまり、前を向いている実際の目と、後ろにつけている心の目、この両方を巧みに使いこなすことが重要であるとの教えである。なお、世阿弥は同様のことを「離見の見」とも言い表している。

   もちろん、「もう一人の自分」の導いた判断が、ビジネス的成功の観点からまずい結果に終わり、一企業人としては失敗者の烙印を押されることもあるかもしれない。だが、その判断は「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な次元から出てきたものだから、本人に悔いはないはずである。心身へのダメージは比較的軽く済むだろう。むしろ恐れるべきは、「高台のもう一人の自分」をつくることができず、二つの人格の間で、自己喪失したり、自己欺瞞に苦しんだりする日々を送ることだ。

   バーナードが著した『経営者の役割』はすでに経営の古典的教科書の一つになっているもので、1938年の刊行である。同書が、経営者が直面すべき道徳性について少なからずの紙幅を割いているのは、担当する業務が経営のレベルに上がっていけばいくほど、個人は道徳的緊張と価値観の乱立にさらされることとなり、人格の崩壊や道徳観念の破滅が起こるリスクが高まるからだ。実際、当時から経営現場ではそれが数多く起こっていた。
   昨今の職場でも、メンタルを病む人間が増えていることが社会問題化している。実は、「キレの思考」ができる人間ほどそのリスクが高くなる。物事が客観的に見えすぎるがゆえに、自分の論理が、事態収拾のためにどんどん捻じ曲げられ、破綻していくことに精神が耐えられなくなるのだ。
   また、企業の不正事件もあとを絶たない。高度な専門能力をもった担当者が、巧妙な手口で組織に利益を誘い込む。その担当者は、自分のなかの「組織人格」が肥大化し、組織の論理・組織の都合だけで違法な手段を実行してしまう。それはもはや一市民・一良識人としての「個人人格」の制御が失われ、組織の僕(しもべ)と化した知能ロボットのように見える。

   私たちはマルチロールな(複合的な役割の)存在である。もし、モノロールな(単一的な役割の)存在であれば、物事の思考はラクになる。が、その分、判断も経験も人生も薄っぺらになるだろう。幸いなるかな、私たちは多重的に複雑な役割を担った存在である。そのときに大事なことは、「自分は何者であるか/ありたいか」の主観的意志を持つことである。ただ、この主観的意志は客観を超えたところの主観である。世阿弥が言うところの「我見」ではなく「離見の見」である。さて、あなたはこのボックス・ティッシュ開発においてどんな意思決定をするだろうか───?




2012年12月 8日 (土)

大人になってからの「学ぶ場」は楽しい


Tbtws02   私は基本的に企業内研修を生業としていて、オープン型のセミナーはあまりやらないのですが、今回は知人である図解改善士・多部田憲彦さんからの依頼を受け、90分のワークショップを受け持つことに。

   師走の土曜9時半から集まった方々は約40名。男女問わず、さまざまな分野からの参加をいただき(中には、沖縄から参加いただいたご夫妻もいらっしゃいました!)、みなさんと楽しい学びの時間を創造・共有させていただきました。
   こうしたオープン型(広く一般から参加募集を行い、参加料をいただく形式)の勉強会が、企業内研修と最も異なる点は、参加者が自分の意思で“自腹を切って”やってくることでしょうか。企業内研修は、社員が人事部が設定した研修に業務として受講するもので、受講費も自己負担はありません。ですから受講態度の面で、明らかに最初から学び意欲の低い人がある程度混じってきます。
   その点、きょうのようにオープン型の勉強会は、学びモチベーションの高い方たちばかりですから、とても雰囲気がよい。私からの講義の時間もさることながら、受講者同士で個人ワークの回答を交換するときの様子や、グループワークの発表時間は、それはそれは意欲に満ちた空気に包まれます。
   私は、学びの刺激によって紅潮した受講者の顔々や、意見交換のはずむ声を周辺で見聞きするとき、「あぁ、大人になってからの学びはかくも楽しいものなんだな」と再認識します。

   子どもの学びは、小学校までは純粋に好奇心に根ざした楽しいものだったのに、いつしか中学、高校となるうちに、受験対策のためのテクニック習得作業となり、「学びの楽しさ」が失われていってしまう。
   そして、どこかに就職して社会人となっても、職場での学習といえば、業務処理のための知識・技術習得が第一優先にきます。たいていはビジネスで勝つための売上アップ術だったり、交渉術だったり、ともかく攻撃型・効率化型の学びが多いものです。

Tbtws01   そんな激流の中で、はたと立ち止まり、自分のほんとうの興味・関心に耳を傾ける。そしてそこから「これが学びたい」という声が聞こえてくる。で、会社の直接的な業務処理とは異なった次元の理由で、勉強会やセミナー、スクールに行って、学ぶ場に訪れる。自腹でも惜しくないと思える。休日の朝でも早起きして行こうと思える───そうやって求める「学びの場」は何ともすがすがしい。

   私は社会人になってから2つの大学院(一つは米国留学、もう一つは国内)に行きました。いずれも何百万円という私費を投じて入学したものです。しかしそれはほんとうに自分が学びたいと思ったことなので、お金のことなど問題ではありませんでした。自律的・自発的に勉強するテーマを選び出し、教授や同僚学生の力を借りながら、自分の知識体系をつくっていくという経験は、そのときになってようやくできたものです。

   いずれにしても、大人になってからの学び、学びの場に足を運ぶことは楽しい。

   私はきょうのワークショップで、あえて「明日からの仕事に即効で役立つ図解スキル」という角度では内容を組みませんでした。「仕事という概念を絵でどう表現するか」という、抽象曖昧だけれども根本的な問いを立てて、みなさんどう考えますかと投げかけをしました。「大人になってからの学び」は、こういった根っこに横たわる大きな問いに対して、皆が洞察を深めあうことがふさわしいと思っているからです。
   そしてその期待に違わず、参加者のみなさんからはとてもよい絵がさまざまに出てきました。いつもながら思うのですが、こうした勉強会をやって一番勉強できるのは、教える側(=講師)。きょうもたくさんことを学ばせてもらいました。

Tbtws03
「図解思考ワークショップ」風景
12月8日:東京・コクヨ品川オフィスにて






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