4) 組織と個人・人とのつながり Feed

2008年8月 5日 (火)

『蟹工船』を超えて ~働く個と雇用組織の関係

小林多喜二の『蟹工船』が今再び売れているというので、読んでみた。
確かに、その過酷な労働現場の描写や人物の表現は
息詰まるほどリアルなイメージを呼び起こす。
搾取する側(=資本家)と搾取される側(=労働者)の単純明快な対立構図、
そして最後のダメ押しとして、国家権力が資本家側につくというオチ。

まさにプロレタリア文学の直球作品ですが、確かに、
「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」――――
小説の最終部分に出てくる労働者のこの悲痛な叫びは、
そのまま、現代のある層の労働者にも当てはまる吐露でもあるように思えます。

『蟹工船』しかり、また『女工哀史』しかり、そこで描かれているように
資本家が“雇用”をある種の権力にして
経済的弱者である労働者の生殺与奪を握り、彼らを使い回すことは、
古くて新しい問題です。

◆資本家・企業家は必ずしも人格者ではない
これは、悪徳資本家を追放し善良な労働者を守れというような
単純に階級闘争の図式に落とし込めばよい問題ではありません。

これは、誰の中にも潜む人間の欲望のコントロールに関する問題です。

私たちが認識すべきは、
資本家や企業家、経営者が、必ずしも聖人君子、高邁な人格者でないことです。
(これは同じように、労働者も、必ずしも聖人君子、高邁な人格者ではない)

私はビジネス雑誌の編集を7年間やり、
さまざまな企業人を直接インタビューするなどして観察してきましたが、
彼らはむしろ我欲、自己顕示欲の強い俗人であることがほとんどです。
人間のバランスとしては(良くも悪くも)歪んでいます。
歪んでいるからこそ、それがパワーとなって成功を得るわけでもあります。
(利益獲得競争のビジネス世界では、バランスのいいお人よしは成り上がれない)

そして、成功してカネやら既得権益やらを手に入れると、
ますます欲望が増長して、暴走する可能性を大きくする。

マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で
「精神のない専門人、心情のない享楽人」と表現しているのも、
まさに資本主義ゲームの盤上で我欲を増長させ跋扈する不逞の輩のことです。

渋沢栄一や松下幸之助、本田宗一郎といった
どこまでいっても自ら抑制の利く哲人企業家は極めて例外的な存在でしょう。

◆私欲を暴走させない方策
ならば、不当な過酷労働、不幸な労働者搾取はどう防げばよいか―――?

自律的な処方箋としては、
資本家や企業家、経営者自身が高い理念、倫理観を抱くこと。
そして企業も、組織理念の中に従業員主役の思想を抱くこと。
(労働組合のスローガンとは異なる角度で)

他律的な処方箋としては、
法律の規制、報道メディアによる指摘・糾弾、バイヤー側の不買運動などがあるでしょう。

ともかく、企業家は高邁な人格者とはかぎらないわけですから、
(また、当初はそうであっても、過剰な成功が彼を狂わせるときもあるので)
自律、他律、個人、組織、社会とさまざまな方位から、
統合的に正しい経営の道を進んでいけるよう
彼を導いてやるしか方策がないのだと思います。

◆働き手よ、成り下がるな!
そして、最後は、やはり、働く側本人の生きる姿勢こそ決定的です。
そうした過酷な労働現場に身を置かなければならなくなった状況は、
人それぞれにあるでしょう。
人生はもともと不平等ですし、理不尽ですし、運不運が左右します。
しかし、不遇があれ、不幸があれ、幸福をつかむ人はたくさんいます。
結局、成り上がるも、成り下がるも、自分の意志・努力次第なのです。
(そう言えるほど、平成ニッポンの世は、人類史からみれば最良の時代のひとつです)

だからこそ、一人でも多くの働き手が、
「蟹工船」的な職場を選択肢として排除できるようになるほどの
技能と就労意識を持つようキャリア教育の分野で何かしらの貢献ができないか――――
それが私の事業目的のひとつでもあります。

◆キツネとタヌキの化かし合い?
さて、ここからは広く「働く個(従業員)と雇用組織(会社)の関係」を考えます。

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私は、両者の関係は、象徴的に図のような3つの極があると感じています。
1つめは、冒頭触れたように、
会社が労働者に過酷な労働を強い搾取するという「蟹工船」の極。
2つめは、逆に、
従業員が組織に依存べったりで自らの保身に浸る「ぶらさがり」の極。

私はキャリア教育研修の現場で、働き手側のいろいろな就労意識に接していますが、
ほんとうにひどい依存心、保身・安住意識、怠慢さ加減を目にすることもしばしばです。
(私が経営者であったらなら、その場で説教のひとつでもしたくなるような人はたくさんいます)

この「蟹工船」と「ぶらさがり」の2つの極は、
いずれも従業員と会社のネガティブな関係です。
でも、世の中には、このネガティブゾーンの関係は実は多いと思います。

会社側は、できるだけ労働者を効率的に安く多く働かそうとし、
労働者側は、できるだけ安全にラクをしようとする・・・・・
まさにキツネとタヌキの化かし合いです。

会社と従業員は、この2つの極の間のどこかで折り合い、
両者とも「しょーがねぇなー」という冷めた感じで雇用・被雇用関係を維持していく。
その会社に組織員が共感を呼ぶ事業理念がない、あるいは、経営者自身に魅力がない、
したがって、結果的に組織全体に求心力のない会社は往々にしてこうなりがちです

◆企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
そんな中、会社と従業員がポジティブな関係を築こうとするところもあります。
3つめの極「活かし活かされ」がそれです。
ここでは、
会社は働き手を「人財」として扱い、働き手は会社を「働く舞台」としてみます。
両者間では事業理念の共有がなされ、たいてい、
魅力的な経営者が求心力を創造しています。

私は、その典型を、本田宗一郎の次のような言葉の中に見出します。

 「“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。
 
それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、
 こんな楽しい人生はないんじゃないかな。

 そうなるには、一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。
 石は石でいいんですよ。ダイヤはダイヤでいいんです。
 そして監督者は部下の得意なものを早くつかんで、伸ばしてやる、
 適材適所へ配置してやる。

 そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
 企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
 舵を取るもの 櫓を漕ぐもの 順風満帆 大海原を 和気あいあいと
 一つ目的に向かう こんな愉快な航海はないと思うよ」。

  ---『本田宗一郎・私の履歴書 ~夢を力に』 “得手に帆を上げ”より

◆根本は一個人の欲望のコントロールの問題
経営者も働く個人も、
ある理念の下で健全に挑戦意欲を湧かせ、その好循環を図る。
これが働く個と雇用組織の“よい関係”が生まれる構図です。

経営者(企業家、資本家含め)は、私腹を増長するために労働者をいいように使う、
あるいは、
労働者は、自らの保身欲のために組織にいいようにぶらさがる、
これが働く個と雇用組織の“醜い関係”が生まれる構図です。

結局、こうした問題の根っこにあるのが、欲望のコントロールの問題なのだ
と申しあげたのはまさにここです。
経営者であれ、企業家であれ、資本家であれ、一介の労働者であれ、
一個人として欲望のコントロールを賢く行なえるかどうか――――
宗教・哲学が地盤沈下している現代ですが、
やはりそこからの解と行(ぎょう)を求めなければいけないと思います。

2008年6月27日 (金)

「道」としての経営・「ゲーム」としての経営

いまや朝青龍関をめぐる横綱品格論議は、世間を二分するほどの話題になりました。
街の声は、
「結局、真剣に反省していないんじゃないの。横綱として問題あり」というものと、
「やっぱり強い横綱がいればこそ場所が盛り上がる」というものとで、
完全に分かれています。

私個人の中でも、
やはり横綱たる者、相応の品格を備えてほしいという思いと、
多少破天荒で逸脱したキャラであっても
強くて魅力的な取組を観せてくれるならそれでよし、という思いが微妙に交錯します。
(いずれにしても私は、朝青龍関より相撲協会と現行の相撲システムを問題視します)

巷においても、また一個人の中においても
これら2つの相反する思いにかられるのはなぜでしょう?

◆求めるものが異なる「道」と「ゲーム」
それは、相撲という日本の伝統競技を
相撲道=「道」とみるか、
相撲スポーツ=「ゲーム」とみるか

の観点で思いが違ってくるからだと思います。
(*ここでの「ゲーム」とは、遊興としてのゲームよりももっと広い意味です)

「道」とは、
 ・真理会得のための全人的活動であり、
 ・そこには修養・鍛錬・覚知があります。
 ・最上の価値は「観を得る」ことにあります。
 ・道を行なうには、明快なルールはありません。
  しきたりや慣わし・型・格・美を重んじ、
  その過程における世俗超越性・深遠性が行者を引き込んでいきます。

他方、「ゲーム」とは、
 ・他者と勝敗を決するための能力的(知能・技能)活動であり、
 ・そこには競争・比較・優劣があります。
 ・最上の価値は「勝つ」ことにあります。
 ・ゲームには、ルールがきっちり設定されています。
  そのルールの下で合理的、技巧的、戦略的なやり方を用い、
  客観的に定量化された得点を他者よりも多く取ったほうが勝者です。
  そのときの優越感、征服感がプレイヤーを満足させます。

道とゲームとは、微妙に似通っていながら、
よくよく考えると両極のものであるようにも思えます。

朝青龍をめぐる二分する思いも
「道としての相撲」観点からすると、横綱失格→残念・けしからんとなり、
「ゲームとしての相撲」からすると、強いプレイヤーの存在→ガンバレ!となるわけでしょう。

今後、朝青龍関が相撲道を究めて、品格を備えた横綱に成熟していくのか
単に強い力士として相撲ゲームを面白くするプレイヤーに留まるのか
(それともK-1など他の格闘ゲームに戦場替えするのか)
そこは本人次第といったところでしょうか。

ところでその一方、
毎度の場所でひときわ人気を集めているのは角番大関・魁皇です。
相撲ファンが魁皇関を応援するのは、もう勝ち負けということより
カラダがボロボロになってもひたむきに相撲「道」を求めようとする
その姿だろうと思います。

ボロぞうきんになるまで現役にこだわり続ける。
それは、三浦カズ、桑田真澄、野茂英雄もそうです。
彼らはすでに肉体的なピークを過ぎ、
ゲームプレイヤーとしての最上価値である「勝つこと」からはどんどん遠ざかっています。
しかし彼らは、サッカー道、野球道を求めてやまない。
そんな姿もまた、日本人の心のヒダに染み入ってくるものがあります。

◆「よい経営者」とは?
さて、ここからがきょうの核心部分です。

「道」なのか、それとも「ゲーム」なのか・・・
それは“経営”にもいえることだと思います。
(ここでの“経営”とは、特に企業・ビジネスの経営をいいます)

私がかつて出版社でビジネス雑誌の編集をやっていたころ、
年間で100人近い経営者やビジネスのキーパーソンにインタビューをしていました。
そこで感じたのは、
経営を「ゲーム」(=利益獲得競技)ととらえている人がとても多いということでした。
経営は「道」であるとハラを据えてとらえている人はきわめて少ないと思います。
(もちろん一人の経営者の中で、経営は道かゲームかというのは、
白か黒かという立て分けではなく、あいまいなグレー模様でとらえるわけですが)

「よい経営者」とは、どんな経営者でしょうか?
・・・・この問いの答えは、千差万別に出てくるでしょう。
(それは、「よい横綱」とはどんな横綱ですかと問うのと同じように)

「経営はゲームである」という観点に立てば、
斬新な経営手法を考えつき、利益をどんどん創出し、
その会社を勝ち組にしてくれる経営者がよい経営者でしょう。
ただ、その金儲けの際、法律スレスレの手を使っている、あるいは、
従業員を大事にしない、社長室がやたら豪華で私的に交際費をつかう、
などの状況だったらどうでしょう、、、

相撲ゲームの世界においては、「ともかく強けりゃイイ・許せる」といって、
私たちはやんちゃな横綱・朝青龍関を見守ることができます。
では、経営というゲームの世界において、
人格的資質やその経営手法に問題のある経営者をして
「ともかく利益を出せりゃイイ・許せる」となれるかどうか。。。

私はビジネス雑誌の取材で、ときどき、中小企業も訪れました。
確かに、金儲けはヘタかもしれないけれど、
堅気に自分の商売を貫き、時代に対応する努力を惜しまず、
従業員の雇用を守ることに一所懸命な経営者も世の中にはいます。
「経営は道である」との観点に立てば、
それはひとつの「よい経営者」であると思いました。

◆経営がゲーム感覚に偏ることの弊害
私は、経営の勉強もしましたし、現在も自らのビジネスの経営を行なっている身ですので、
「経営は道なり」という美辞麗句で利益志向を排除するつもりはありません。
ただ、経営者の利益志向が、利己的な拝金主義に陥っている状況を気にかけるものです。

昨今の企業の不祥事の数々、
チキンゲーム化するマネー投機合戦、
陣地取りゲームに堕するM&A、等々、
これらはいずれも、経営が「ゲーム感覚」となり、
「儲けりゃいいんでしょ」「勝てば官軍でしょ」のような思想が蔓延しているところに起こっています。

加えて、経営の内実を問わず、
結果的に儲けた経営者をビジネスヒーローとして簡単にあおるメディアの軽率さも目に付きます。
さらには、投資家・株主の間断なきプレッシャーもあります。
経営者に品格があろうとなかろうと、
ともかくゲームに勝て、株価を上げろ、配当を上げろ、のプレッシャーです。

真に優れた経営者というのは、
経営を「ゲーム」と「道」との間で適度なバランスを保つことができる人だと思いますが、
現在のビジネス世界においては、
そのバランスが不健全に「ゲーム」に偏っているように感じます。

資本主義経済という一大システムが織り成すゲームは、実に複雑で巧妙です。
だからこそ経営というゲームは面白くてたまらない。
勝てば勝つほどに、富が手に入り、その富は(このシステム下では)また富を生む。
富はさまざまな欲望も満たしてくれる。
逆に言えば、貧はますます貧を呼ぶ。
資本主義下のゲームは、その意味で“暴力的”といえるでしょう。
ゆえに、経営には一方で「道」というものがいる。

◆資本主義に徳はあるか?
アンドレ・コント=スポンヴィル著の『資本主義に徳はあるか』(紀伊国屋書店刊)は、
きょうのこうした点を考えるにあたっては、是非おすすめの1冊です。

ソルボンヌ大学で哲学の教鞭をとる彼は、同著で道徳と経済の関係を省察していますが、
著書タイトルに対する彼自身の答えを紹介しましょう。

 「価格を決定するのは道徳ではなく、需要と供給の法則の役割です。
 価値を創出するのは、徳ではなく、労働です。
 経済を支配するのは、義務ではなく市場です。
  ・・・・(中略)・・・
 『資本主義に徳はあるか?』という私の問いに対する解答は、
 “否”ということになります。
 資本主義は道徳的ではありません。
 ましてやそれは反道徳的ではありません。
 資本主義は、―――全面的に、徹底的に、決定的に―――非道徳的なのです」。

すなわち、
資本主義のメカニズムは、それ自体、悪徳のものでも善徳のものでもない。
それは本来、冷たくも熱くもなく、無機質に無関心にはたらく機能システムである。
だから道徳的であるかどうかとは無関係である。
資本主義を道徳的に使うか、反道徳的に使うか、
結局、それは経済を行なう人間の問題であるとの指摘です。

「経済」の語源は、「経世済民」(けいせいさいみん)です。
それが示すとおり、民を救うことが経済の原義としてあります。
その意味で、経営はある部分、大義を目指す「道」であってほしいものです。

経営においても、相撲においても
「強いから横綱である」というのではなく、
「強いからこそ横綱になる必要がある」のだと思います。

2008年6月16日 (月)

組織人か・仕事人か

日本の場合、職業人の多くは、
組織(企業や諸団体)に雇われるサラリーパーソンです。
その場合、その働き人は、組織人と仕事人の2つの側面をもつことになります。

組織人と仕事人という考え方に関しては、
『仕事人の時代』の著者である同志社大学の太田肇教授が簡潔に示してくれています。

すなわち、組織人の価値観・目的は
「組織に対して一体化し、組織から与えられる報酬(誘因)を目的とする」
他方、仕事人の価値観・目的は、
「組織よりも仕事に対して一体化し、仕事をとおして自分の目的を追求する」と。

で、私が、私なりに
組織人と仕事人の対比を整理した図は例えば下のようなものです。

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04003b

◆働く忠誠心はどこにあるか
さて、私たちは、仕事人の典型をプロスポーツ選手にみます。
野球にせよ、サッカーにせよ、
なぜ、国内リーグのトップ選手たちが、世話になったチームを出て、海外に渡っていくのか。

それは、彼らの働く忠誠心・情熱が、
組織にあるのではなく、仕事にあるからでしょう。
彼らは「組織に生きる」のではなく、「仕事に生きる」からと言い換えてもいい。

彼らにとっての仕事上の目的は、野球なり、サッカーなりを極めること、
その世界のトップレベルで勝負事に挑むことであって、
組織はそのための手段やプロセスとなる。

一方、実力アップして、他球団に移りたいと申し出た選手に対して、
球団側も潔く真摯にビジネスライクに対応する意識が求められるでしょう。

なぜなら、こうした「個」の仕事人を束ねる形でのビジネスにおいて、
組織は、もはや「タレントオープン×インフラ型」としての機能存在であるからです。

映画製作しかり、保険商品の外交セールスしかり、
有能なタレントの集合離散で事業成果を出していく世界では、
人財の流入も「是」、人財の流出もまた「是」として
組織はいかに魅力的な企画(プロジェクト)とインフラを提示できるかに
専念しなくてはなりません。

とはいえ、そこを巣立った仕事人たちも、おそらく、長い目でみれば
いつか何かの形で組織に恩返しをしてくれると思います。
それが、新しい時代の仕事人と組織の関係性だと思います。

*********

◆「組織人×依存心」の掛け合わせが不幸を呼ぶ
さて、ひるがえって、日本の働き手で圧倒的多数の
「カイシャイン・サラリーパーソン」はどうでしょうか。

言うまでもなく、戦後の日本は、
組織が「終身雇用によるヒトの抱え込み×ヒラルキー型」を強力に実行し、
その中で労働者が忠誠心を組織に捧げて、
与えられるがままの仕事を真面目にこなしてきました。
労使を挙げて、コテコテの組織人が大量に生産された時代でした。

私は、組織人の意識自体、悪だというつもりはありません。
私自身、現在は個人で独立して事業を行なっていますが、
会社勤めのサラリーマンとして働いた17年間の蓄積があればこその独立です。

会社が過去から蓄えたノウハウを伝授してもらい、
会社の信頼度で仕事を広げ、人脈をつくり、
会社のお金で研修もさまざまに受けました。
組織人であることのメリットを感じながら、それを最大限活かしていく意識は、
むしろ奨励されるべきことだと思います。

問題なのは、組織人的な意識が、依存心と結びついた場合です。

組織のぬるま湯に浸かって、自分を磨くこともせず雇用され続けてきた“組織依存人”は、
バブル後の景気低迷時に大変な苦難に遭いました。 
この様子をみて学ぶべきは、
もし自分が「雇われる生き方」を生涯、選ぶのであれば
組織人としての意識と、仕事人としての意識のさじ加減を自分で司り、
依存心を排して、自律的に働く覚悟を決めることです。

**********

◆「出世」とは何か?
ところで、『出世』とはどういうことでしょうか?
よく、高業績を上げて、部長に出世したとか、社長に出世したなどといいますが、
社内の昇進の閉鎖的な話で、どうも矮小化した使い方の感じがします。

電通の元プロデューサーとして有名な藤岡和賀夫さんは
『オフィスプレーヤーへの道』の中の「“出世”の正体」という章で、
面白い表現をされています。

 「自分の会社以外の世界からも尊敬される、愛される、
 それは間違いなく『世に出る』ことであり、『出世』なのです。
 そこで肝心なことは、『世に出る』と言ったときの『世』は、
 自分の勤めている会社ではないということです。
  (中略)
 自分の選んだ会社を“寄留地”として、
 そこを足場として初めて『世に出る』のです。
  (中略)
 “寄留地”を仕事の足場として、ビジネスマンという仕事のやりかたで、
 もっともっと広い社会と関わっていくということが『世に出る』ということなのです」。

◆組織ローカルな人はつまらない
日本は、まだまだ、“組織ローカル”な世界観で働いている人が多い。

先日、韓国のあるIT会社のマネジャーから面白い話を聞きました。
その会社では、マネジャークラス以上の人間は、
少なくとも年に1回、業界のカンファレンスやビジネスエキスポなどで
講演やセミナーをしなければいけない、というルールです。
(実行できなければ、降格対象となるそうです)

社内の管理業務だけに閉じこもっているな、
社外に開いて、「この分野に○○社あり」「この分野に“誰々”あり」とアピールしてこい、
というもので、これは、いわば、
「組織内“仕事自律人”」をつくりだす姿勢として関心が持てます。

ところで、
私は、“組織ローカル”でしかも“テング(天狗)”になった担当者と商談をするときが、
一番、面白くない商談です。
そんなときは、法外な見積もりを出して、
「ご縁がありませんでしたね」と破談でもいっこうに構いません。

ですが、組織の枠を越え、発注側と受注側の垣根を越え、
一職業人対一職業人が、共感を持ち合って
この商品・サービスは、「確かに新しい価値を生み出しそうだ」と合意できるとき、
もうどんな契約条件でも「やりましょう!やらせてください!」となります。
私は、そうした“ビジネス・コスモポリタン”的な人たちと仕事を一緒にやることが好きです。
(*コスモポリタンとは、「世界市民」の意)

そしてまた、私自身も、ビジネス・コスモポリタンであるべく、
世界の同業者、世界の同世代には負けないぞという“競争”意識と、
そうしたビジネス・コスモポリタンたちと“共創”していきたいという意識でいます。

2008年4月24日 (木)

上司と部下は「Big Picture」を見晴らせ!


広大な暗黒の宇宙空間に、

青き水を満々とたくわえ、緑を生やし、白い雲が得も言われぬ模様を編みながら

ぽっかりと浮かぶ惑星「地球」。

残念ながら、この地球上で人間同士の争いが絶えたことはありません。


ですが、例えば、もし、

ナゾの巨大隕石が1年後に地球に衝突確実となったら・・・


たぶん、争いは止み、私たち人類はみな「一地球人」として、

一致結束するだろうと思います(思いたい)。


むかし、何かのコマーシャルで次のようなコピーがあったのを記憶しています。


――――One world under the sun.

(世界はひとつ。みんな同じ太陽の下)


* * * * * * * * * *


◆モザイク的に集められた集団に何が必要か?

会社という組織内には、

いろいろな考え方のいろいろな人がいます。

そして、基本的には、配属は人事部(会社側)による任命ですから、

どんな上司、どんな同僚・先輩・後輩社員と一緒に仕事するかは

ほとんど自分で選択する場面はありません。


どこの会社の、どこの職場も、

おおよそモザイク的にたまたま集められた人間による集団です。


事業を日々進めていくにあたって、

トラブルは起こってくるわ、課題は山積だわ、怠ける人間は出てくるわ、などで

基本的に職場の人間関係は不安定で壊れやすく、

ほおっておいて好転することはまずありません。


特に、上司と部下の関係は、容易に感情論争になりやすく、

冷めたものになりがちです。

また、経営側と従業員側との関係も、容易にミゾができやすく

対立構図になりがちです。


こうした組織内の人間関係を、

相互に安定的かつ和合的なテンションで維持していくにはどうすればよいか―――

これはずっと以前から会社組織における重要なテーマの1つであり続けてきました。


そのテーマに対する解の1つが、皆で「第三点を共有する」ことだと思います。


◆2点より3点が安定する

従業員同士にせよ、上司と部下にせよ、経営側と従業員側にせよ、

不機嫌な二者間で閉じていると、

何かと硬直化して前に進んでいこうとするエネルギーがうまく出てきません。

そんなとき、互いが共同して見つめられる第三点を設定して、

そこに意識を開いていくわけです。


「この方法は、顧客のためになるのか?」

「このサービスは、会員に何を提供するものなのか?」

「この問題を、ユーザーの立場で考えるとどうなるか?」

「この取引システムは、取引先にとってもメリットがあるのか?」

「この考え方は、社会通念に照らし合わせてどうなのか?」


第三点としてお互いが見つめなくてはならないのは、

何よりも顧客です。そして、取引先であり、社会です。


顧客や取引先、社会の前では、

従業員であれ、上司であれ、経営者であれ、立場に関係なく、

皆、パートナーです。


04002


上司と部下が、また従業員側と経営側が、互いに感情論でにらみ合い、

不機嫌な平行線を描くとき、

結局、こういった第三点に開いた問いを発して、

駒を進めていくしかありません。


◆部下が大人にならねばならないときもある

ま、とはいえ、現実の組織の中には、

大人になってくれない上司や経営層もまたぞろいて、

部下や従業員のほうが大人にならねばならないときも往々にしてあります。


そんな時は、「忍」の一字でこちらが大人になりましょう。

大人げない上司や経営層をみて、それを反面教師とすれば

それもまた1つの学習機会だったということです。

私もサラリーマンを17年やって、

「あんな上司・役員にはならないでおこう」といった反面教師材料を

たくさん持っています。


いずれにしても、

良好な上司/部下関係をベースとして強い組織を形成しているところは、

必ず当事者たちが担当仕事の意味や意義を、

第三点として設定して共有しています。


その様子は次のコピーのように言えるかもしれません。


―――――“One team under the vision.”

(チームはひとつ。みんなそのビジョンの下)

2008年3月17日 (月)

私たちは、生涯、仕事上でどれだけの人と出会うのだろう?

私は大学を卒業して、17年間、会社勤めをやりました。

(そして、5年前から自営業をしています)

4つの会社にお世話になりましたが、

最後の会社を辞めるとき、それまで交換した名刺を整理しました。

ファイルで何冊あったか、合計で何枚あったかは定かではありませんが、

相当の量の名刺を整理しました。

1枚1枚に目を配っていくと、

記憶に残っている人/残っていない人、

今も商談の時の様子がふつふつと思い出されるもの/そうでないもの、

いろいろです。

しかし、冷静に振り返ってみると、私たちは

生涯、仕事上で、いったい何人の人たちと出会うのでしょうか?―――――

基本的に、同じ社内の人間とは名刺交換しませんから、

手元にある名刺の数以上に、私たちは人と交流しているはずです。

ましてや、名刺を交換しない間接的に仕事でお世話になっている人たち、

講演会やセミナーの講師、

書物やネットなどメディアを通して知る偉人、知識人などを含めれば、

私たちは膨大な数の人に接し、

彼らから影響を受け、あるいは影響を与えながら、働いています。

人と人の間に生きる動物だから、“人間”であるとはこういうことなのでしょう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「職業・仕事」もまた、人と人との間で行なわれる営為です。

100%自己完結する職業・仕事というのは、極めて稀にしかないでしょう。

創作が自己目的化する芸術家ですら、

師匠がいて、仲間・ライバルがいて、パトロンがいて、お客さんがいる。

それらの人との間で、

ようやく芸術家は自分の仕事(=創作)ができる。

私たちは、人生の長きにわたり、

いやおうなしに人と人との間で働いていかねばなりません。

ですが、その中でもまれてこそ学びや気づきがあり、成長もできる。

他方、職場の人間関係であれ、顧客との信頼関係であれ、

良好で創造的な相互関係を築き上げるには、

間断のないストレスに耐え、自分からのはたらきかけが求められます。

それは、大きな心身のエネルギーを要する作業です。

「よりよく働くためにどうすればよいか?」という問いをみつめていくと、

結局、

1)仕事そのものをどう価値あるものにするか

2)自分の可能性をどう拓くか

3)人間関係・人とのつながりをどう築くか

という3つのことに集約されると私は思っています。

このカテゴリーでは、その3番目のテーマにつき思索していきたいと思っています。

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