2013年1月12日 (土)

留め書き〈030〉~生き方の選択としての職業


Tome030

彼は15年間のサラリーマン生活をやめて、土地を借り、一農夫になった。
それは「働き口」の選択ではなく、
「生き方」の選択をしたからだった。




先日、都心である中華料理店に立ち寄り一人食事をしていた。
横のテーブルには、団塊の世代らしき男性3人が、紹興酒をちびりちびりやりながら話をしている。
どうやら3人は同じ会社の同僚らしく、
間近にやってくる定年後の再雇用契約について語り合っている。

「あの給料だと小遣いが減る」「外回りの営業に回される」
「貸与されるパソコンが古くて使いにくいらしい」などと、

会社に恨みがましく愚痴を連ねていた。
雇われ根性が染みついたサラリーマンの成れの果ての会話はこんなものかと、
気分が悪くなった。

このような意識の大人が、社員として、親として、市民として伝染させる悪影響は計り知れない。

不景気の時勢であるから、「働き口」を見つけることが難しいときではある。
ただ、幸運にも何かの「働き口」にありついたとして、
そこにしがみつくだけの意識でいてよいものか。

いったん仕事を得たなら、そのなかで、能力を上げ、人とのつながりを築き、興味を拡げていく。
リスクを負って、既存の殻を破っていく挑戦を続ける。
そうして自分が選べる進路の幅を拡げていく。
それをしなければ、
いつまでも「働き口」に使われるだけの身になる。

私たちは、保身という名の怠慢・臆病を排し、
みずからの職業を「生き方」の選択として昇華させていきたい。


2013年1月 8日 (火)

学校の先生と自律を考える~『21世紀教育セミナー』より


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平成24年度第3回 『21世紀教育セミナー』
「まずは自分から ~自律的に振る舞える職業人になるには」

◇主催:広島県立教育センター
◇日時:平成24(2012)年12月26日
◇場所:東区民文化センター
◇参加者:県内公立の小中高校の校長、教頭、教諭はじめ約230名
(*写真提供:広島県立教育センター)



過日、広島県立教育センターからの依頼を受け、講演を行いました。きょうはその内容の一部を要約して紹介します。

* * * * *

「自律的である」とはどういうことか───。自律の「律」とは、ある価値観や信条にもとづく規範やルールのこと。さまざまな事柄を判断し行動する基準(羅針盤)となるもの。このことから「自律的」とは、自分自身で律を設け、それに従って判断・行動する状態。その反意である「他律的」とは、(自分で律を設けることはせず・できず)他者が設けた律に従って、判断・行動する状態をいう。


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なぜ、いま、職業人の人材育成の観点から、「自律性」を重要視する声が大きくなっているのか───。1つには、経営者や上司から見て、一人一人の社員が受け身的である、仕事をつくり出せない、目の前の物事に対し独自の価値判断ができないなど、他律的な傾向が強まっているという実感があり、そこから要請が出ていること。これは、直接的・ミクロ的な見方で、私は、もう1つ間接的・マクロ的な見方から、「自律性」を鍛えることの重要性を指摘したい。

日本人は、よく言えば「和をもって尊し」、わるく言えば「長いものに巻かれろ」の精神風土のなかで生きている。日本人の傾向性として、

   1)「フワフワと立ち上がってくる他律」に寄っていき協調的に(角を立てずに)やりたい
   2)「権威が決めて下ろす他律」のもとで能動的に(ただ真面目に)やる

という面がある。基本的に日本人は「他律」ベースでやりたい、できるだけ「自律」を押し出さずに事を済ませたいと思っている。「他律的真面目な民族」といってもよい。

戦後の高度成長期の日本は、「フワフワと立ち上がってくる他律」にせよ「権威が決めて下ろす他律」にせよ、その律にはあまり間違いはなかったし、迷いもなかった。向いている先は、個も組織も、地域も国も、欧米キャッチアップであり、貿易・技術立国によって豊かになろうというような価値観だった。だから、「他律的・真面目さ」でどんどん突き進めばよかった。そして、ある程度、皆がハッピーになったという事実がある。
だが、昨今、身を取り巻く他律は漂流を始めた。他律をベースにしていた個々も、当然、方向感を失っている。権威もまた明快な答えを示せないばかりか、さまざまな失策や不祥事などが明るみに出た。

いままさに、他者の律をあてにしていては、どこにも進めない状況になってきた。「自らの律」を押し出すことをおっくうがっていた個々が、いよいよそれをやらねば、物事が展開しない状況になってきている。そうした背景から「自律的になる」ということが重要になってきた。


さて、話をもう少し根っこのところに移して、次の問いを発してみたい───「そもそも、自律的は望ましくて、他律的は望ましくないのか?」。スライドに示したような4つの空欄を考えたときどうだろう。これは私が企業内研修で行っているディスカッションテーマだが、よくよく考えると、自律的にも望ましくない点があるし、他律的にも望ましい点はある。

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たとえば自律的な行動はそれが行き過ぎると、独善的、自己中心的になる危うさがある。俺様流に事を進めことは、自律というより「我律」と言っていいものだ。しかし、そういった欠点があるものの、自律的に振る舞うことは、創造性を生み、責任感を養い、リスクを負う勇気を湧かせるなどという点で、はるかに大きなメリットがある。

他方、他律的のよい点は、他者が営々と築いてくれた知恵を敬い、協調的にそれを使うところだ。私たちは遭遇する1つ1つの出来事に対し、すべてに独自の評価や判断をしていたらキリがないし、効率的ではない。多くのことは他律に従って処理していくことのほうが賢明だ。しかし、すべてのことを他律に依っていたら、物事に向き合う意識や観は脆弱化していく。他律的な個、他律的な個が多く溜まる組織は、環境変化のなかで生き延びていくことが難しくなる。いわゆる“ゆでガエル”になってしまう。


自律にも他律にも一長一短がある。他者の律も、自分の律も完璧ではない。重要なのは、両者の律を「合して」、つねに「よりよい律」を生み出していこうとする運動を起こすこと。

「止揚(アウフヘーベン)」という概念がある。「正」と「反」がぶつかって、より高次な「合」が生まれる。それと同じように、自律と他律を超えたところに、「合律」を生み出していくことが大事。


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自律はともすると「我律」ともいうべきワガママに陥る危険性があると指摘したが、「よい自律」というのは、本来的に、他律を受容しつつ、合律を目指す志向性をもっている。


律というものは、個人の内に、組織の中に、世の中に、流動的に変容しながら存在し、人の判断や行動に影響を与える。律が進化するためには、他律と自律の2つのぶつかり合いが要る。どちらか一方のみでは、決して高次に上がっていく進化は起きない。

強い組織を観察すると、必ずそこかしこに自律的な個がいて、常に組織の既存のやり方・考え方・規範(=他律)に対し、「現状のやり方でいいのか」「ここを改善しよう」「もっと違う考え方ができるはずだ」というふうに自律の目線を入れている。そこから個と組織の協働による止揚によって新しい「合律」が生まれ、律は一段進化する。そしてその律は新しい他律として組織に流布するが、今度もまた、自律の目線にさらされ、そこでまた合律がなされ……というふうに、止揚サイクルが力強く回っていく。こういうサイクルを学校の職場でも起こす必要があるのだろう。


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ともあれ、「自律した強い個」をつくることがすべての起点となる。「自律した強い個」は
「自律した強い集団」をつくる。「自律した強い集団」は個人の「自律心」をますます強くするようにはたらく。この好循環が組織における人材育成の理想である。
教師も一人の職業人として、「自律した強い個」であらねばならない。「他律的に真面目で熱心」という状態を超えて。学校の先生方は、「一クラス・一科目の主」として独立性が強く、教師同士互いに干渉しあわない空気が強いと聞く。であるならば、学校という職場において、もう少し、一人一人の職業人として啓発し合い、「自律した強い個」という観点の人材育成意識も必要ではないかと思う。


個と組織の関係性において、個(主体)が変われば組織(環境)が変わるし、逆に、組織(環境)が変わることで個(主体)が変わることもある。両者は相互に影響を与えあっている。

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他律的な意識の人間が多い組織は、個々が「環境が変わらなければ自分は変われない」という空気になってしまう。そのときに組織側はショック療法として制度改革(成果主義導入など)をしたり、トップを交代させたりするが、あくまでそれらは外側からの一時的な刺激である。根本的に大事なことは、個々の働くマインド・仕事観に迫っていき、自律心を育むことである。内側からの持続的なはたらきかけが(これこそがまさに教育であるが!)、真の解決になる。

松下幸之助も次のように言っている。───

「私は一人がまず、めざめることが必要であると思います。一人がめざめることによって、全体が感化され、その団体は立派なものに変わっていき、その成果も非常に偉大なものになると思います」。




私自身、20代から30代はメーカーと出版社で働き、そのころによもや自分が将来、教育の分野で生業を立てるとは夢にも思わなかった。41歳で独立を決意したとき、自分を後押ししたのが次の中国の古い言葉である。―――「一年の繁栄を願わば穀物を育てよ。十年の繁栄を願わば樹を育てよ。百年の繁栄を願わば人を育てよ」。
皆様は人を育てる部分の根っこのところをやっていらっしゃる。まさに百年の繁栄の基盤をつくる尊い仕事。まずはお身体を大事にされ、自らの自律と子どもたちの自律を育むすばらしき職業人としてご活躍されんことをお祈り申し上げる。

* * * * *

その他、この日の講演では、
・「自立」と「自律」の違い
・「自立」と「自律」、そして「自導」へ
・「小さな自律」と「大きな自律」
・広島県福山市立山野中学校でのキャリア教育特別授業(平成24年7月実施)の紹介
なども盛り込みました。


【講演を終えて】
   昨今、民間企業における人材育成では、重要観点として「自律」ということが頻繁に取り上げられています。このことは、実は公務員の世界も同じです。行政業務を行う役所の職員から、学校で教育を行う教諭まで、「自律的に働く意識」の醸成は重要度の高い課題となっています。
   一般市民・子を学校に預ける立場からすれば、「えっ、学校の先生ともあろう人たちが、自律的に働いていないの……?」と感じてしまいますが、考えてみれば、学校の先生の働く環境は、民間企業社員のそれに比べ、はるかに強く自律を封じ、他律に従わせるものです。教育現場は、法律や規制、「○○に準拠」といった枠や重しでがんじがらめです。一人一人の教諭が、ヘタに自律的に判断・行動をし、事故や間違いでも起こそうものなら、社会的制裁は容赦がありません。ですから、どうしても「他律的に無難に」という意識への傾斜が強まります。もちろん勇気を持って自律的に働く先生は大勢いるでしょう。しかし、教育仕事に「真面目で熱心である」ことと「自律的である」ことは必ずしも同じではありません。「真面目で熱心だが他律的」という先生が実は多く存在しているとも考えられます。少なからずの教諭たちが他律に留まる意識が慢性化しているとすれば、それを放置してよいわけはありません。
   学校の先生方は2つの側面から「自律」を考える必要があります。1つは自らが自律した職業人になるために、そしてもう1つは生徒たちの自律心を涵養するために、です。

  Kouen 02  そうした意味で、広島県内の教育関係者の皆様とともに、今回、「自律」について考える時間を共有できたことはとてもよい機会でした。私自身も日頃から、民間企業の従業員を対象に「キャリアの自律マインド」を醸成する教育プログラムを実施している身であり、一度その内容を異なった分野の方々にぶつけてみたかったというのもあります。

   ともかくも、お集まりいただいた先生方のこれからのご活躍をお祈りするとともに、このような機会を設けてくださった広島県立教育センターの藤本秀穂副所長、重岡伸治部長、宮崎喜郎指導主事に厚く御礼申し上げます。





2013年1月 7日 (月)

「よく生きろ。それが最大の復讐だ」を超えて

 

“Live well. It is the greatest revenge.”
  (よく生きろ。それが最大の復讐だ)

 

   ───どこで書き留めたか、誰が言ったかは忘れてしまったが、かなり昔の手帳に記して以来、私の心のなかにどすんと居座っている言葉の一つである。

   人間の行動エネルギーで、復讐心や怨念、もっと言い方を和らげれば、見返し心や反骨心から出るエネルギーは馬鹿にならないほどの大きさで持続する。このエネルギーは、ときに人を暴走させるし、ときに成長させもする。

   私自身、これまでの人生を振り返ってみると、実はこの「リベンジ心」によるエネルギーを主たる源泉にしてやってきたのかとも思える。
   幼少期から実家は経済苦の連続で、夜中に借金取りが怒鳴り声を立てて来るような状態だったので、お金持ちの家庭から「あそことはあまり付き合わないように」と言われ、子ども心に「なにクソ!」と思って勉強したのを思い出す。また、生来ひどく痩せているために身体コンプレックスがあり、それを打ち消すために自分が秀でたものを何か見つけようと懸命だった。20代終わりには過酷な大失恋をし、その悔しさを晴らすためにがむしゃらに仕事をした。41歳で独立起業をしてからは、米粒のような事業に対し、外側だけの判断で無視や軽視があり、あるいは少し成功でもしようものなら嫉妬も妨害も受ける。それによって「いまに見ていろ!」の反骨心でここまで頑張ってきたように思う。

   そんな過程において、冒頭の「よく生きることが最大のリベンジである」という言葉は、ある意味、私を正しく鼓舞してくれた。だから、この言葉には感謝している。

   ……ところが昨年あたりだろうか、この言葉を読み返したときに、以前ほどの力強さを感じないことに気がついた。「リベンジ(復讐)」という語彙が、自分の気持ちにしっくりこないのだ。そして、今年の元旦を迎え、なにげなく岡本太郎さんの本を再読していたら、こんな一文に目が止まった。なるほどそうかと、自分の気持ちの変化に合点(がてん)がいった。

「人生は、他人を負かすなんてケチくさい卑小なものじゃない」。

                                               ───岡本太郎『強く生きる言葉』



   いや、まさにそのとおり! すでに私のなかには、過去の些細な出来事のわだかまりやら引っ掛かりやらはすっかり削げてしまっているのだ。岡本流に表現すれば、もはや自分は「他人に復讐しようなんてケチくさいちっぽけな」理由で、日々の仕事に打ち込んでいるわけではない。私は見返し・復讐といった次元から解放され、もっと大きな開いた理由を持って働いている。そう合点がいったとき、なにかすっと抜けた気持ちになり、これも何か一つの成長なのだなと思った。

   喩えて言うなら、石炭という復讐心を燃やして、黒煙を上げながら地べたをズリズリと進んでいた小さな機関車が、いまや、太陽からの光(=大きな開いた目的)を燦々(さんさん)と受け、それを無尽蔵のエネルギーに変えて自由に大空を飛ぶ飛行機に変身したかの成長だ。

   「成長」を考えるとき、人にはいろいろな成長がある。できなかったことができるようになる。これは腕前(技術)が上がった成長である。見えなかったものが見えてくる。これは観(もののとらえ方)が深まった成長である。そして、不自由だった自分を自由にできる。これは境涯(自分がいる次元)が高まった成長である。私もこの歳になると、2番目、3番目の成長を感じられることが特にうれしい。




2013年1月 3日 (木)

『突破・展開の年』


Mt fuji
西伊豆から富士山を望む


   2013年、明けましておめでとうございます。


   私は毎年、その年のテーマを年初に決めています。昨年は『突破の年』と掲げました。昨年は独立して10年目。ようやく基盤としたい研修事業が基盤らしくなり、基盤づくりだけに安住してはいけない、次のフェーズへと突破していかねばならないという決意を込めてそう名づけました。
   そして今年は『突破・展開の年』を掲げます。引き続き突破という未知への仕掛けを怠らないことと、突破の後に状況を展開していく、そこまで要求する年にしたいからです。

   私が働く上で、自ら事業を行う上で、つねに念頭に置いているのが「4つのキー・アクション」です。それは───「保持・拡大・突破・展開」。

【保持】
   一度受注をいただいたお客様との関係を維持し、リピートを獲得していくこと。
   私のもっとも古いお客様は創業年から研修依頼をいただいているお客様で、もう10年のお付き合いになります。担当者が変わっても、「この研修はキャリア・ポートレートコンサルティングに任せよう」と言っていただけるのはほんとうにうれしいことです。

【拡大】
   現在のビジネスモデルをベースに新規のお客様を獲得していくこと。
   昨年もまた、いくつかのお客様が新たに増えました。東京では大手総合商社、関西では鉄道最大手、ガス、重工業メーカー、製薬メーカー。地方では信用金庫、独立行政法人など。新しいお客様との出会いは刺激的なものです。ただ「拡大」の後には、翌年度からどう「保持」していくか、その努力がはじまります。

   上の2つは、既知の世界でのアクションです。ここをきちんとやることは大事ですが、それのみに追われていては真の進化が起きません。やはり未知の、不安定な、リスクのある世界への攻めを続けなければ、ほんとうに強くはなれません。


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【突破】
   現状とは異なる次元への挑戦を仕掛けること。
   私は昨年、「概念工作家」というもう一つ別の側面から自身をとらえ、執筆活動をやり、その結実として『キレの思考・コクの思考』(東洋経済新報社)を出版しました。また、子ども向けのキャリア教育プログラムの開発を行い、7月に福山市立山野中学校(柳井晃司校長:広島県)で特別授業もやることができました。これら本業とは異なる活動を仕掛けることにより、本業へのすばらしい影響が出、結果、自分が見る世界のフェーズが確実に変わりました。
   「突破」は「保身の壁」を破る自己との戦い。壁の向こうに何があるかは、破ってみてのお楽しみ。そう考えれば、突破という戦いはゾクゾクするものです。

【展開】
   突破の後、その先をぐいぐいと拡げていくこと。
   突破の先のその展開エリアは、将来の自分の活動基地になる可能性を秘めています。もし、それまで「保持」「拡大」で得てきたものが、その展開エリアにおいて新しい基軸で再編することができれば、おそらくそれがフェーズアップした次の自分の基地になります。
   私は今年、「概念工作」という切り口から、これまで行ってきた職業人向け研修プログラムの大改善をやるつもりです。その融合がうまく進めば、私はそこを基地として、新しい教育のカタチを発信できると思います。

   「1年後自分がどうなっているかがわからない」───世の中にはこれを不安がる人がいますが、私はそのまったく逆。2013年、「突破」と「展開」によって、どういう出会いをし、どういう体験をし、どういう心持ちになっていき、結果、年末にどんな自分になっているか、さっぱり予想がつかない。この予想のつかないところが、意欲的に挑戦を起こす人生の面白みだと思います。想定の範囲内に収まる1年後の自分の姿など、想像するに値しないものです。

   万人に平等に与えられた24時間365日をどう使うか。ましてや、その人生時間は無尽蔵に与えられているわけではなく、いつか必ず終わりが来る(それは明日かもしれない)。となれば、ほんとうに1日1日は宝石の時間。大事に、しっかりと、味わいながら、中身を詰めながら、きょうという1日を編んでいきたい。



2012年12月20日 (木)

この世界は無数の「仕事」による壮大な織物である


   かのアイザック・ニュートンは言った───

      「私が人より遠くを眺められたとすれば、それは巨人の肩に乗ったからである」。

つまり、自分より過去に生きた人たちの偉大な知識を土台にしたからこそ、自分の仕事・業績はあったのだと。


   「仕事」をひとつ定義するとすれば、「事前(Before)→事後(After)で何らかの価値を創造すること」となるだろうか。そう考えると、仕事にはたとえば、

○ 「A→A±」〈増減〉もあるし、
○ 「A→B」〈変形〉もあるし、
○ 「0→1」〈創出〉のようなものもある。


   いずれにせよ、仕事は時間的にみれば「I N P U T→T H R O U G H P U T( T H R U P U Tと略)→OUTPUT」の流れでなされている(図1)。


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   たとえば、椅子をつくる仕事は、木材が原材料としてINPUT(投入)されると、つくり手の能力や意志・身体といったTHRUPUT(価値創造回路)にかかり、椅子がOUTPUT(産出)されるといった具合に。

   それで仕事というものは、一人で閉じてできるものではない。たとえば、職人が椅子をつくるとき、手にする木材は誰かが木を切って運んでくれたものだし、工作機械も誰かが設計し、製造し、販売してくれたものだ。また、職人が学んできたモノづくりの知識は、過去の職人たちからの贈りものである。そして、当然ながら、そうした仕事をするには健康な身体がいる。そのためによく食べる。食べるとはすなわち、動植物の生命を摂取するということだ。だから職人の仕事のINPUTは、実はほかから提供されるさまざまなOUTPUTで成っている。
   これは同時に、その職人のOUTPUTが次に誰かのINPUTになるということでもある。その斬新な椅子のデザインはほかの椅子職人のインスピレーションを刺激するかもしれないし、その椅子を購入した人がそこに座ってベストセラー小説を書くかもしれない。そう考えると、仕事というのはずっと連鎖していくイメージが生まれる(図2)。このとき、仕事は経時的変化であるとともに、無数の仕事が空間的な広がりをもって複雑につながり合うことにもなる。


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   そして、この連鎖のイメージを巨視的に発展させていくとどうなるか。私は次のようなイメージにたどり着く───この世界は、無数の個々が無限様に成す「INPUT→THRUPUT→OUTPUT」の価値創造連鎖による壮大な織物である。それを表現すると図3のようになる。


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   地球という惑星が特異なのは、1つには、青い水と空気があり生物が存在していること。そしてもう1つは、生物のなかの1種類である人間が、個々それぞれに「仕事」という一糸で価値創造という織りものを日々刻々行っているということである。きょうの私のこのアウトプット記事も、世界を織り成す一糸となり、次の誰かの仕事のインプットになるやもしれない。






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