2012年12月18日 (火)

モラルジレンマ ~「Aは正しい/Bも正しい」の間で


Kirekoku cover   きょうは、先月刊行した『キレの思考・コクの思考』から、モラルジレンマについての演習を紹介する。


◆演習:ボックス・ティッシュ開発
   次にあげるケース(事例)は、私が研修で使用しているもので、実際の市場で起きていることを一部取り込みながら創作したものである。ケースを読んで、後の問いについて考えてほしい。


   ===〈ケース〉===

   あなたは製紙会社A社に勤めていて、ボックス(箱入り)・ティッシュの商品開発を担当しています。A社は、スーパーやドラッグストアなどでよく見かけるボックス・ティッシュ「5箱パック」製品で業界トップシェアの位置を確保しています。ところが、最近B社が急速に売り上げを伸ばし、A社を追い抜く勢いになってきました。
   なぜかというと、B社の低価格戦略品が消費者の支持を集め、急速にシェアを拡大しているからです。現在、店頭では次のような状況で2社の製品が並んでいます。

     A社製品=5箱パック:358円
     B社製品=5箱パック:298円

   両社の製品は外箱のデザインこそ違え、5個パックの大きさはほぼ同じ。消費者はティッシュ自体の品質に大きな差を感じていません。となれば、そこに付けられた値札の差額は、デフレ・不景気下の消費者にとってみれば、歴然と大きなものです。「5箱パックが300円を切った!」ということで、消費者は一気にB社製品に手を伸ばしているわけです。


Morale d 01



   しかし、ここにはからくりがあります。B社が投入してきた戦略品は、同じ「5箱パック」としながら、1箱に詰めるティッシュの枚数を減らし、紙の品質をわずかに落とし、そこで低価格を実現させているのです。
   従来、業界では標準として、2枚を1組のティッシュとして、1箱に200組400枚を詰めていました。それをB社は、160組320枚にしたのです。1箱に何枚のティッシュが入っているかという表示は、箱の裏面に小さく表示があるだけで、多くの消費者はその点に気づかないのが現実です。つまり、実際はこういう比較数値になります───

     A社=5箱パック:358円
      (1箱400枚入り×5箱=総計2000枚:1枚あたり0.1790円)

     B社=5箱パック:298円
     (1箱320枚入り×5箱=総計1600枚:1枚あたり0.1863円)・紙品質やや劣

   そうこうしているうちに、B社は次の策を打ってきました。今月発売した新商品のパッケージには「エコ×エコ」とデザインされた目立つシールが貼ってあります。説明表示を読むと、「箱の高さを数ミリ小さくし、外箱に使う紙資源を少なくしました!」とあります。
   さて、客観的に考えて、ほんとうに「エコ×エコ」=経済的で省資源なのはどちらでしょうか? 確かに店頭価格はB社のほうが安い。しかし、ティッシュ1枚あたりで考えると、A社のほうが安いのです。しかも品質的にも上です。経済的なのはA社です。

   次に、ほんとうに省資源なのはどちらでしょうか。B社が小さくしたという箱の高さはわずか数ミリです。その分の資源の節約は実際に効果的なものなのでしょうか。
   A社が調査したところ、外箱を数ミリ薄くしただけでは、箱用紙、印刷インク、物流コストについて大きな節約効果は出ません。もし、同じ1600枚の販売で考えるなら、「1箱320枚×5箱」より「1箱400枚×4箱」で販売するほうが、節約効果が大きいとの結果です。
   結局、B社がやっていることは、1箱に400枚詰められる技術があるにもかかわらず320枚に留め、A社と見た目のボリューム感はほぼ同じにしながら、分かりにくいように中身の質と量を落とし、低価格で訴える戦術です。しかも、そこにもっともらしい社会性のある宣伝文句を加えるというしたたかさ。

   こうしたB社の猛追を受けて、A社の1位陥落は時間の問題となってきました。もちろん、A社内では盛んに議論が交わされています。「うちも枚数と品質を落とした低価格品で対抗すべきだ」という声もあれば、「業界のトップ企業として、そしてもっとも信頼される上位ブランドとして、安易に見せかけのエコ競争・低価格競争に走ってはならない。多少の割高感が出たとしても、何がほんとうに経済的か、省資源的かを訴え、自分たちの理念を軸にした商品開発を堅持すべきだ」という声もあります。
   また、ネット上の口コミサイトを探ると、ほんとうに経済的で省資源的であるのは、「1箱400枚入り」のものだという消費者の意見が少しずつではあるが増えている気配もあります。しかし、おおかたの口コミは、「5箱パックで298円!」だとか「無名ブランド品で198円ものが出た!」など、もっぱら安売り情報が主となっています。

□問1:
自社(A社)は、ボックス・ティッシュ5箱パック分野において、B社と同じような仕様(枚数減・品質低)で競合品を出すべきでしょうか? 

□問2:
問1についての判断をした理由は何ですか?
(自分がどんな視点・価値的判断軸を持って考えたか、もしそれが複数あった場合は、どんな優先順位で考えたかなどを説明してください)

□問3:
もしあなたが、製紙業界とはまったく関係のない一消費者・一市民だとしたら、問1の判断を支持しますか?


◆私たちは「マルチロール」な存在である
   このケースを考えるとき、個人の頭のなかでも、そして組織内の議論においても、さまざまな視点・価値的判断軸が出てくるだろう。たとえば、「安さを追求した商品を出すことが消費者のためである」「シェアを取る=数量を押さえることが事業の根幹である。シェアトップの座を奪われることは、組織の士気に影響する」「数量の論理・利益至上主義のみで進める事業は長続きしない」「地球環境を守ることは一地球市民としての義務である」「目先の競争のためにブランドイメージをゆがめてはならない」など。こうした多様にある価値的判断によって、「正しいこと」はいくつも存在する。
   私たちはこうした正解値のない問題に対し、具体的な事実やデータを把握し、論理的に分析をし、客観的に対応法を考える。しかし、そうやって追いこんでいっても、切れ味よい答えがなかなか出てこない。それは、私たち個人が、「マルチロールな(複合的な役割を持つ)」人間だからだ。

   たとえば、自分がどこかの会社に勤め、何か事業を企てている場合、私たちは「一企業人」としての側面を持つ。一企業人であるかぎり、事業の拡大を狙うし、組織が永続するために利益を追求する。競合会社を蹴落とすために手段を尽くすし、より多くの消費者を取り込もうとするだろう。一企業人としての自分は、行政・法律の制限、消費者団体の意見、メディアの批評、株主の圧力、取引先との関係性、地域・社会の動き、社内の目など、いろいろなものに囲まれている。これら外部の力と複雑にやりとりをしながら物事を動かしていく。
   と同時に、私たちは「一人間」としても存在する。つまり、家に帰れば、誰かの親であり、あるいは子であり、市民であり、地球人であり、消費者であり、良識人である(図2)。


Morale d 02



   ボックス・ティッシュのケースにおいて、もしあなたが「安さで太刀打ちできる製品を出して、何が何でもトップシェアを維持すべきだ」と考えるのは、一企業人としての価値的判断だ。しかし同時に、一人間としてのあなたの心の奥からはこのような声が聞こえてくるかもしれない───「資源のムダを知りながら、それを脇に置いて価格競争に明け暮れていいのか。子どもたちの世代に少しでもきれいで豊かな地球を引き渡してあげるのが、大人の責務ではないのか」と。ここにモラルジレンマ(道徳的価値の葛藤)が生じる。
   チェスター・バーナードが『経営者の役割』のなかで、「組織のすべての参加者は、二重人格――組織人格と個人人格――をもつ」と記述したように、事業現場におけるモラルジレンマはこの二つの人格の間の揺れ動きにほかならない。組織の目的を優先させるのか、個人の動機に根ざすのか、その力学が複雑になればなるほど私たちは悩み悶える。

◆現実の自分を高台から見つめる「もう一人の自分」をつくれ
   では、この「組織人格」と「個人人格」の葛藤を超えて答えを出すためにどうすればよいのか。それには、高台から現実の自分を見つめる「もう一人の自分」をつくることだ。その「もう一人の自分」は、単なる客観を超えたところで、「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な主観を持っている存在である。モラルジレンマに遭遇したとき、その彼(彼女)が現実の自分を導いていく───これが最善の形である(図3)。


Morale d 03



   ちなみに、その自己超越的な「もう一人の自分」について、能楽の大成者である世阿弥は、『風姿花伝』のなかで「目前心後」という言葉で表している。世阿弥によれば、達者の舞いというのは、舞っている自分を別の視点から冷静に見つめてこそ可能になる。そのために、「目は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」と。つまり、前を向いている実際の目と、後ろにつけている心の目、この両方を巧みに使いこなすことが重要であるとの教えである。なお、世阿弥は同様のことを「離見の見」とも言い表している。

   もちろん、「もう一人の自分」の導いた判断が、ビジネス的成功の観点からまずい結果に終わり、一企業人としては失敗者の烙印を押されることもあるかもしれない。だが、その判断は「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な次元から出てきたものだから、本人に悔いはないはずである。心身へのダメージは比較的軽く済むだろう。むしろ恐れるべきは、「高台のもう一人の自分」をつくることができず、二つの人格の間で、自己喪失したり、自己欺瞞に苦しんだりする日々を送ることだ。

   バーナードが著した『経営者の役割』はすでに経営の古典的教科書の一つになっているもので、1938年の刊行である。同書が、経営者が直面すべき道徳性について少なからずの紙幅を割いているのは、担当する業務が経営のレベルに上がっていけばいくほど、個人は道徳的緊張と価値観の乱立にさらされることとなり、人格の崩壊や道徳観念の破滅が起こるリスクが高まるからだ。実際、当時から経営現場ではそれが数多く起こっていた。
   昨今の職場でも、メンタルを病む人間が増えていることが社会問題化している。実は、「キレの思考」ができる人間ほどそのリスクが高くなる。物事が客観的に見えすぎるがゆえに、自分の論理が、事態収拾のためにどんどん捻じ曲げられ、破綻していくことに精神が耐えられなくなるのだ。
   また、企業の不正事件もあとを絶たない。高度な専門能力をもった担当者が、巧妙な手口で組織に利益を誘い込む。その担当者は、自分のなかの「組織人格」が肥大化し、組織の論理・組織の都合だけで違法な手段を実行してしまう。それはもはや一市民・一良識人としての「個人人格」の制御が失われ、組織の僕(しもべ)と化した知能ロボットのように見える。

   私たちはマルチロールな(複合的な役割の)存在である。もし、モノロールな(単一的な役割の)存在であれば、物事の思考はラクになる。が、その分、判断も経験も人生も薄っぺらになるだろう。幸いなるかな、私たちは多重的に複雑な役割を担った存在である。そのときに大事なことは、「自分は何者であるか/ありたいか」の主観的意志を持つことである。ただ、この主観的意志は客観を超えたところの主観である。世阿弥が言うところの「我見」ではなく「離見の見」である。さて、あなたはこのボックス・ティッシュ開発においてどんな意思決定をするだろうか───?




2012年12月 8日 (土)

大人になってからの「学ぶ場」は楽しい


Tbtws02   私は基本的に企業内研修を生業としていて、オープン型のセミナーはあまりやらないのですが、今回は知人である図解改善士・多部田憲彦さんからの依頼を受け、90分のワークショップを受け持つことに。

   師走の土曜9時半から集まった方々は約40名。男女問わず、さまざまな分野からの参加をいただき(中には、沖縄から参加いただいたご夫妻もいらっしゃいました!)、みなさんと楽しい学びの時間を創造・共有させていただきました。
   こうしたオープン型(広く一般から参加募集を行い、参加料をいただく形式)の勉強会が、企業内研修と最も異なる点は、参加者が自分の意思で“自腹を切って”やってくることでしょうか。企業内研修は、社員が人事部が設定した研修に業務として受講するもので、受講費も自己負担はありません。ですから受講態度の面で、明らかに最初から学び意欲の低い人がある程度混じってきます。
   その点、きょうのようにオープン型の勉強会は、学びモチベーションの高い方たちばかりですから、とても雰囲気がよい。私からの講義の時間もさることながら、受講者同士で個人ワークの回答を交換するときの様子や、グループワークの発表時間は、それはそれは意欲に満ちた空気に包まれます。
   私は、学びの刺激によって紅潮した受講者の顔々や、意見交換のはずむ声を周辺で見聞きするとき、「あぁ、大人になってからの学びはかくも楽しいものなんだな」と再認識します。

   子どもの学びは、小学校までは純粋に好奇心に根ざした楽しいものだったのに、いつしか中学、高校となるうちに、受験対策のためのテクニック習得作業となり、「学びの楽しさ」が失われていってしまう。
   そして、どこかに就職して社会人となっても、職場での学習といえば、業務処理のための知識・技術習得が第一優先にきます。たいていはビジネスで勝つための売上アップ術だったり、交渉術だったり、ともかく攻撃型・効率化型の学びが多いものです。

Tbtws01   そんな激流の中で、はたと立ち止まり、自分のほんとうの興味・関心に耳を傾ける。そしてそこから「これが学びたい」という声が聞こえてくる。で、会社の直接的な業務処理とは異なった次元の理由で、勉強会やセミナー、スクールに行って、学ぶ場に訪れる。自腹でも惜しくないと思える。休日の朝でも早起きして行こうと思える───そうやって求める「学びの場」は何ともすがすがしい。

   私は社会人になってから2つの大学院(一つは米国留学、もう一つは国内)に行きました。いずれも何百万円という私費を投じて入学したものです。しかしそれはほんとうに自分が学びたいと思ったことなので、お金のことなど問題ではありませんでした。自律的・自発的に勉強するテーマを選び出し、教授や同僚学生の力を借りながら、自分の知識体系をつくっていくという経験は、そのときになってようやくできたものです。

   いずれにしても、大人になってからの学び、学びの場に足を運ぶことは楽しい。

   私はきょうのワークショップで、あえて「明日からの仕事に即効で役立つ図解スキル」という角度では内容を組みませんでした。「仕事という概念を絵でどう表現するか」という、抽象曖昧だけれども根本的な問いを立てて、みなさんどう考えますかと投げかけをしました。「大人になってからの学び」は、こういった根っこに横たわる大きな問いに対して、皆が洞察を深めあうことがふさわしいと思っているからです。
   そしてその期待に違わず、参加者のみなさんからはとてもよい絵がさまざまに出てきました。いつもながら思うのですが、こうした勉強会をやって一番勉強できるのは、教える側(=講師)。きょうもたくさんことを学ばせてもらいました。

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「図解思考ワークショップ」風景
12月8日:東京・コクヨ品川オフィスにて






2012年11月24日 (土)

新著『キレの思考・コクの思考』を刊行します


Kirekoku book


   11月29日から全国書店で発売される新著『キレの思考・コクの思考』の著者献本分10冊が出版社から届きました。

   独立後8冊目の著書となるこの本は、「思考」を私なりの観点で切り取ってまとめたものです。タイトルに用いた2つの思考は、端的に言うと───

     ○「キレの思考」=具象的に・論理的に・客観的に考える=鋭い思考
     ○「コクの思考」=抽象的に・イメージ的に・主観的に考える=豊かな思考

ということです。「大きな思考」は、この2つの思考を大きく往復運動することによって生まれるというのが私の主張です。
   この本ではいくつもの新しいコンセプトを提示しています。タイトルにある「キレの思考・コクの思考」はもちろんのこと、思考を3次元でとらえる「思考球域(Thought Sphere)」、そして「図解から図観へ:概念のマンダラ化」など。さまざまな紙上演習を通して、それらを解説していきますので、知的に楽しく読み進めることができると思います。演習では特に、第7章の「モラルジレンマに立つ」で紹介している事例が、読者のコクの思考を問うには面白いものとなっています。

   きょうは以下に、「思考球域(Thought Sphere)」「キレの思考・コクの思考」に触れた部分を抜粋してお届けします。

* * * * *

◆「思考の三軸」がつくる球状空間
   私たちはこれまで、思考というものについて、論理法や発想法といったアプローチからさまざまに分類をしたり、全体像を描いたり、またそこに命名をしてきた。「帰納法/演繹法/そして第三の『アブダクション』」「水平思考/垂直思考」「右脳思考/左脳思考」、また「ロジカルシンキング」や「フレームワーク思考」「(川喜田二郎氏による)KJ法」など……人間の思考は、まさに思考を尽くして捉えようとしてもその奥深さはきりがなく、そのテーマを取り扱おうとする者に無数の切り口を与えてくれる。

   そこで私は今回、次の三つの軸で思考というものを捉えようと試みる。

     〈1〉思考の上下軸───「抽象的/具象的」
     〈2〉思考の左右軸───「論理的/イメージ的」
     〈3〉思考の前後軸───「主観的/客観的」

   この三軸で形成される空間を球体に見立てたのが下図である。


Kirekoku 1



   これを私は「思考球域」と呼んでいる。英語で造語表記をするなら「Thought Sphere」(ソート・スフィア)となるだろうか。
   「Sphere」とは、球形のもの、作用や活動が及ぶ範囲、天空を意味する単語である。私が抱く思考の概念イメージは、まさにこの「Sphere」がぴったりだと感じている。作用・活動の領域が球状に広がり、しかも外縁部には定かな境界線がなく、その先はもっと大きな空間につながっているというまさに天空的なものを想像するからである。


   さらに、三軸による三次元の表現も、私には理にかなっているように思える。つまり、思考には、

1)物事を抽象化して本質をつかみにいくか、それとも、具象化に寄っていって個別の実態を見 ようとするかといった「上下方向」があり、
2)論理的に分解し組み立てて理解するか、それとも、直観的なイメージで把握するかといった「左右方向」があり、
3)主観的・意志的に考えを前面に押し出していくか、それとも、一歩引いて、客観的・説明的に物事を見つめるかといった「前後方向」の三方向があると思えるからだ。


◆「キレ」の思考・「コク」の思考
   さて、ここで私は、この二つの対照的な領域を基地にする思考に特別な名づけをしたい。一つは、「C(具象)×L(論理)×O(客観)」領域を基地とする思考を『キレの思考』と。これは、典型的にはサイエンスの人びとが行っているものと考えればわかりやすいだろう。そしてもう一つは、「A(抽象)×I(イメージ)×S(主観)」領域を基地とする思考を『コクの思考』と名づける。これは、典型的にはアートの人びとが行っているものである(下図)。

Kirekoku 2


   「キレ・コク」は、ご存じのように、ビールやコーヒーなどの味を評価する言葉としてよく用いられる。「キレ(切れ)」は、辛いや酸っぱいなど舌の上での刺激が明瞭で、その後、すっと味が消えていくことをいう。他方、「コク」は、複雑に入り混じった味が余韻をもって舌や喉、口内に留まることをいう。
   私は、思考にも「キレ」と「コク」という性質の転用が可能だと思う。「キレの思考」と「コクの思考」の特徴をまとめると次のようになるだろうか。

【キレの思考】
・「C(具象)×L(論理)×O(客観)」領域を基地とする思考活動
・「シャープ&ソリッド」な思考
(sharp=鋭い・明快な、solid=固形の・硬い・実線の)
・具象性に根付きながら明示するように考える
・tangible(触れられる)、explicit(系統立てられた)、establish(立証する)
・不確実性や曖昧さを排除する
・実践や実利を求める
・客観的事実を積み上げていく
・物事を細かに分解し調べて理解しようとする(還元論的)
・分析的、収束的
・直線的に、連続的に
・「理知の人」、事象を測量し証明する
・形態〈form〉寄り
・その思考をする者の能力に関わる

【コクの思考】
・「A(抽象)×I(イメージ)×S(主観)」領域を基地とする思考活動
・「リッチ&ファジィ」な思考
(rich=豊かな・濃厚な・味わいのある、fuzzy=ぼやけた・曖昧な・不明瞭な)
・抽象的に、輪郭を描かず、示唆化するように考える
・intangible(触れられない)、tacit(暗黙の)、metaphor(隠喩)
・不確実性や曖昧さを受け入れる
・観念的でよしとする  
・主観的解釈で仮説を立てる
・物事をまるごと包み込んでとらえようとする(全体論的)
・綜合的、拡張的
・非直線的に、非連続的に
・「智慧の人」、意味・価値を物語る
・本質〈essence〉寄り
・その思考をする者の存在に関わる


◆鋭く明瞭に考え・豊かに曖昧さをもって考える
   私たちは誰しも、運動量に差こそあれ、ときに「キレ」でもって科学者のように考え、ときに「コク」をもって芸術家のように考える。

   たとえば俳句を詠もうとするとき、詠み人はまず目の前にしている自然を細々と観察する。雲の動きがどうなっているか、風がどう吹いているか。何の植物があり、どんな色の花を咲かせているか。それは言ってみれば、自然を個別に具象的に観ていき、句の材料になるものが何かないかを鋭敏に探している姿勢である。そこでは「キレの思考」をしているわけだ。
   と、次の刹那に詠み人は、いまここにある自然の本質的な存在要素は何であるか、自分は何をモチーフとして描くか、といったものを抽出する。それは「コクの思考」である。そこは曖昧さという霧のなかであり、直観というサーチライトで“何か”をつかみにいく作業となる。……そして彼は、蛙(カエル)や蝉(セミ)といったモチーフに出合う。

   すると今度は瞬時に頭が切り替わって、「五・七・五」という言葉の成形に入る。どんな語彙、どんな構成、どんな韻が効果的であるか、客観的、論理的に考える。ここは、自身が感受したものをいかに「キレ」よく、文字というナイフを使って表現できるか、の思考になる。
   しかし、次に彼はそこを超え、あえて「キレ」を隠そうとする。静けさを表すのに、あからさまに「静かだ」と言ってしまわない。あるいは、静けさを、音の賑やかさから逆説的に伝えようとする。明瞭ではなく、あえて不明瞭に。鮮明に切り落とすのではなく、じんわりとにじませるように。なぜなら彼は、「コクの思考」の住人だからだ。ご存じ、俳人・松尾芭蕉の名句───

古池や蛙飛びこむ水の音

閑さや岩にしみ入る蝉の声


   この二句は、「キレ」と「コク」の二つの思考を高速かつ大きく往復したことによって生まれた。このことは、俳句のような表現作品であれ、科学的な分析論文であれ、あるいは、ビジネス戦略であれ、同じことである。両思考のダイナミズムがアウトプットの出来栄えを左右するのである。

◆論理・客観に留まるほど没個性に陥る
   昨今のビジネス現場では、科学的な手法や考え方がどんどん入り込んできている。それ自体は悪いことではないし、むしろそれをうまく見方につけなければイノベーションは起こらない。だが、超一級の科学者たちは、論理だけ、客観だけで物事を鋭く考えることの限界を知っている。

   1981年にノーベル化学賞を受賞した福井謙一氏は次のように言う。

───「結局、突拍子もないようなところから生まれた新しい学問というのは、結論をある事柄から論理的に導けるという性質のものではないのです。では、何をもって新しい理論が生まれてくるのか。それは直観です。まず、直観が働き、そこから論理が構築されていく。(中略)だれでも導ける結論であれば、すでにだれかの手で引き出されていてもおかしくはありません。逆に、論理によらない直観的な選択によって出された結論というのは、だれにも真似ができない」(『哲学の創造』PHP研究所)。


   論理で「キレ」を出すのは確かに大事だが、論理力という刃物をいくら研いたところで、そもそも「切ろうとする対象物」を創造することはできない。創造のためには、滋養豊かな思考の大地あるいは濃厚なスープが必要である。それこそがまさに、もう一方の「コクの思考」の役割なのである。
   私たちの日ごろの職場には、分析されたデータは豊富にあるし、定型化された戦略フレームシートに文字をぎっしり埋めることも上手になった。また、ロジカルシンキング手法に則った批評は会議でも行き交っている。だが、そのために、明瞭ではあるが独自性の弱い、もっともではあるがブレークスルーを起こすほどの力をもたない思考が増えている。論理や客観はそこに留まれば留まるほど、没個性に陥るという罠があるのだ。

◆「インテリの弱さ」を指摘する松下幸之助
   松下幸之助は「インテリの弱さ」という表現を使い、この点につき言及している。


───「『それは社長、無理ですよ、できません。理論上から考えても無理です』ということが多い。特にすぐれた技術の持ち主ほど、そうした傾向が強く、困ったものだと(ヘンリー・フォードは)述懐している。私は、このフォードの言葉について、これはこれで一つの真理をついていると思います。(中略)なぜインテリが弱いといわれるのでしょうか。私は、それは結局、その人が、もっている知識にとらわれている場合にそうなるのだと思います」(『松下幸之助 成功の金言365』PHP研究所)。


   別の箇所で、松下はこうも述べる。

───「単なる知識、学問ではいけないのだ、それを超えた強いものを心の根底に培って、はじめて諸君が習った知識なり学問が生きてくるのだ、その根底なくしては学問、知識はむしろじゃまになるのだ」。「私は昔から、非常な夢の持ち主である。だから早くいえば、仕事もいっさい夢から出ているわけだ。よく人から『あんたの趣味は何ですか』と聞かれるが、私は『私には趣味はないですな。まあ、しいていえば、夢が趣味ということになりますかな』と、答えるようにしている」。


   日本のモノづくりが弱くなった原因のひとつは、経済合理性という大潮流の中で、日本のモノづくり思想が相対的に薄まっていったことだ。他方、故・ステーブ・ジョブズ氏がコテコテの主観や想いを前面に出し、それを巧みに形にしてきたアップルは勢いが止まらない。
   私たちがいま再認識せねばならないのは、イメージや主観、抽象といった、曖昧だが、その人の色、クセ(癖)、アク(灰汁)、味わいといったものを醸し出す力だ。それはコクの思考の作業領域になる。そこを強く持って「自分の奥底から湧き起こる何か」をつかみ取り、キレの思考との間を往復する。そして「これしかない!」という表現で打ち出す。この力強い思考運動こそが、個々のビジネスパーソンに求められるものだ。


* * * * *


Kirekoku cover







『キレの思考・コクの思考』

村山昇著
(東洋経済新報社)


【目次】
〈Part 1〉「キレ」の思考・「コク」の思考
 ○プロローグ ~ニュートンと南方が描いた2つの世界 
 ○1章 「思考球域〈Thought Sphere〉」 
       ~3次元で捉える「鋭く考える」と「豊かに考える」
 ○2章 なぜいま「コク」の思考なのか 
      ~独自で強い発想は「抽象×イメージ×主観」から生まれる

〈Part 2〉「コク」の思考を鍛えるワークショップ
 ○3章 曖昧なことを「定義化する」 
       ~物事の本質を探り言葉に落とす
 ○4章 曖昧なことを「モデル化する」 
      ~物事の本質を構造にして表す
 ○5章 曖昧なことを「比喩化する」 
      ~物事の本質を引き出し置換する
 ○6章 曖昧なことを「マンダラ化する」 
      ~概念を一幅の絵図に収める
 ○7章 「モラルジレンマ」に立つ 
      ~「自分は何者であるか」を明らかにする判断の岐路

2012年11月10日 (土)

足下の落ち葉 朽ちゆく美


Ochiba


紅葉を愛でるのに、名勝地に出かけていって展望台からわーっと眺める。

それもいいけれど、私は、いつも足下の葉っぱをみる。

マクロで観る大味な観賞とは違い、そこには個々の葉の朽ちゆく美がある。
とても繊細な色加減があり、いつも押し葉にしてこの色を永久に保存したいと思うのだが、
半年もすると脱色してしまい、そのときの色はそのときでしか味わうことができない。

カサカサという落ち葉を踏みしめる音も耳心地がよい。
近所の雑木林の散歩が楽しくなる季節到来。




2012年11月 4日 (日)

【お知らせ】勉強会に出講します:12月8日


来る12月8日(土)、東京・コクヨ品川オフィスにて
図解改善士・多部田憲彦さん主催の勉強会で、講義&ミニワークショップを行います。

私はキャリア教育がメインの活動分野ですが、
「概念工作家」として図解表現の教育も一部行っています。
今回は、初級レベルの講義になります。
図で考える課題を出し、受講者同士で解をつくりだしあっていきます。
私の持ち時間は90分ですが、もし、ご関心のある方は、
下記URLのフェースブックイベントページをご覧ください。
(参加申し込み手順もそこに載っています)

http://www.facebook.com/events/503546156333401/

 

【考える力を鍛える図解思考術】
 日時:12月8日(土)9:00開場 9:30開始
 定員:先着40名様
 場所:コクヨ品川オフィス
 品川駅徒歩5分⇒http://www.kokuyo.co.jp/com/hall/ 
 会費:5,000円

 


* * * * * * * * * * *
■追伸:

   ブログの更新が滞っており、各所からメッセージをいただくことが多くなりました。本業である企業内研修が繁忙期を迎えており、まさに“心を亡くす”ほどの「忙しさ」で動いております。年内はゆっくりと書く時間がとれそうにありませんが、年明けには、またぽつぽつと発信していきたいと思っております。
   また、その忙しさの合間をぬって、11月末に、本年2冊目の著書を刊行いたします。それについては間近になりましたら、本ブログで紹介したいと思います。



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