2012年9月22日 (土)

留め書き〈029〉~待つのではない。満たすこと


   私たちは、「他者からの評価」を過剰に気にする時代に生きています。

   職場では、組織・上司からの評価がある。もちろんその評価を励みすることはありますが、おおかたは、ストレスになることが多いものです。

   また、プライベートの生活でも、フェイスブックで何人とつながっているとか、ツイッターで何人のフォロワーがいるとか、個人ブログの閲覧数が1日に何人来たとか、そうした定量評価が常時気になります。自分の発信に対し、「いいね!」ボタンの反応が数多く出れば一喜し、少なければ一憂する。人によっては、もはや、「いいね!」をもらい続けなくては、精神が安定しない、「いいね!」をもらいたいがための発信になっている場合も多い。

   私たちの少なからずは、そんな「評価不安症」に陥っています。そしてまた、定量的に表示される数値がすなわち、人とのつながり度合いを示すものとみなす傾向性が強まっています。私はそんななかで、次のメッセージを伝えたいと思います。




Tome029

 

「待つ」のではない。「満たす」ことだ。

「評価される」という受動的な喜びに期待をかけるより、
「意味を満たす」という能動的な喜びによって、溌剌(はつらつ)と前を向いていればよい。
───そう構えれば、どれだけ心がどっしりするか。

* * * * *

そうするうち、その意味を共有できる人たちが、
一人二人と周りに集まってくる。
そう多くはなくとも、そのつながりこそ、それからの人生の宝になる。

独り漂うのでもない。
仲間に入れてもらい群れるのでもない。
不特定多数が渦を巻く熱狂の一分子になって泡沫を繰り返すのでもない。

同志(とも)と語り合い、動き合う充実。
「想い」が人を呼び、「意味」が人を結び付ける。
そのなかで自分が強く深く変わっていく。
そして、「より強い想い」「より深い意味」を抱いていく。


   補強として、岡本太郎さんの言葉を記します。

 


「人に認められたいなんて思わないで、己を貫くんだね。でなきゃ、

自分を賭けてやっていくことを見つけることは出来ないんだ」。


「相手に伝わらなくてもいいんだと思って純粋さをつらぬけば、
逆にその純粋さは伝わるんだよ」。



「他人が笑おうが笑うまいが自分で自分の歌を歌えばいいんだよ」。

「ひとつ、いい提案をしようか。音痴同士の会を作って、そこで、ふんぞりかえって歌うんだよ。それも、音痴同士がいたわりあって集うんじゃだめ。得意になってさ。しまいには音痴でないものが、頭をさげて音痴同好会に入れてくれといってくるくらい堂々と歌いあげるんだ」。

───以上、『強く生きる言葉』より





2012年9月17日 (月)

「決意」が人を最も元気にする


Tamagawa sset
多摩川の土手に群生する「ネコジャラシ」(正式名はエノコログサというそうな)



   NHK教育テレビ『100分de名著』が、この8月、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を取り上げた。その影響は大きなもので、あのような重苦しい作品が、すっとベストセラーにランクインした。日本人の読書欲もまんざら軟弱ではないなと思える一方、それだけ生きることへの漂流感が強くなっているのかもしれない。

   フランクルは、私も研修プログラムの中で頻繁に引用する人物で、「生きる意味」「意味が人間に与える力」を語らせれば、彼以上に説得力を持つ人はいない。なぜなら、第二次世界大戦下、あのドイツの強制収容所から奇跡的に生還したユダヤ人学者だからだ。あの絶望するしかない状況の中で、フランクルは生きる意味を自分に問いかけ、周囲に問いかけ、生き続ける意志を貫いた。

   フランクルの言葉を一つ引用しよう。

「人間にとって第一に必要なものは平衡あるいは生物学でいう『ホメオスタシス』、つまり緊張のない状態であるという仮定は、精神衛生上の誤った、危険な考え方だと思います。人間が本当に必要としているものは緊張のない状態ではなく、彼にふさわしい目標のために努力し苦闘することなのです」。

                                                                           (『意味による癒し-ロゴセラピー入門-』より)


   精神科医フランクルがたどり着いた結論は、人間の幸福はなにも緊張がない穏やかな状態に身を浸すことではなく、意味に向かって奮闘している状態だということである。こうした行動主義的幸福観は、他の偉人賢人の考えとも共鳴する。

「われわれが不幸または自分の誤りによって陥る心の悩みを、知性は全く癒すことができない。理性もほとんどできない。これにひきかえ、固い決意の活動は一切を癒すことができる」。
                                          ───ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』


「人は意欲し創造することによってのみ幸福である。(中略)だから、行動を伴わない楽しみよりも、むしろ行動を伴う苦しみのほうを選ぶのである。(中略)登山家は、自分自身の力を発揮して、それを自分に証明する。この高級な喜びが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、この登山家と同じ太陽を見ることはできない」。
                                                                                        ───アラン『幸福論』


「人は軽薄の友である歓喜や、快楽や、笑いや、冗談によって幸福なのではない。むしろ、しばしば、悲しみの中にあって、剛毅と不屈によって幸福なのだ」。
                                                                                 ───モンテーニュ『エセー』


「丈夫(真の男)というのは、潔く玉となって砕けることを本懐とすべきであって、志を曲げて瓦となってまで生きながらえるのを恥とする」。
                                                                           ───西郷隆盛『西郷南洲遺訓』



   こうしたことを受け、私は「幸福とは、自分が見出した意味に向かって坂を上っている状態」と拙著『プロセスにこそ価値がある』の中で定義した。私もまた、行動主義的幸福観をもつ者の一人である。
   意味とは、言い換えれば、夢や志、目的といったものである。それを成し遂げようと「決意する」とき、人は元気になる。元気とは、その字のごとく、その人の元のところから湧き起こってくる気だ。その人が本来の自分になるためのエネルギーだ。

   なにかとストレスが重くのしかかる昨今の仕事生活にあって、人びとはよく、「癒されたい」と願う。そして「癒し」をうたう商品・サービスも花盛りだ。
   しかし、「癒し」は病気や傷をなおすことであり、あくまでマイナスの状態をゼロに戻す手当てでしかない。“やまいだれ”が付く字であるのはそういうことだ。
   いくら高価な「癒し」の商業サービスを受けても、プラスゾーンに突入できるほどのエネルギーは得られない。通常のストレス負荷にさらされれば、すぐまた、マイナスゾーンで疲弊することになる。

   もちろん、疲れた心身に癒しは必要である。だが、中長期にわたって、ほんとうに元気になっていくためになにが必要か、そこを考えなければ、いつまでも「ストレス負荷→癒し・憂さ晴らし」のサイクルをマイナスゾーンでぐるぐる回る生活を続けるだけになってしまう。
   では、ほんとうに元気になるために必要なものとはなにか───それは「決意」することである。意味を見つけ、そこに肚を決めて行動することが、人が一番元気になることなのである。
   たしかにそこにはストレス負荷が生じる。しかし、それは「よいストレス」である。学術的には、ストレスには2種類あり、なにか建設的な目的に向かうときのストレスは「ユーストレス(eustress):よいストレス」であり、やらされ感のあるときのストレスは「ディストレス(distress):わるいストレス」となる。
   また、ときには失敗や挫折もあるだろう。だが、それは病的で不健全な落ち込みではない。自分を真の意味で蘇生させるための価値のあるプロセスとなる。決意をした人間は、苦しみのどん底にあっても、「誓い」を立てることができるのだ。

   「決意のある人生」と「決意のない人生」を図で表してみた。


Mental dynamism


   「決意のない人生」(左側)は、疲弊ゾーンでこぢんまりと回るだけだが、「決意のある人生」(右側)は、元気ゾーンの住人となり躍動して回っていくこととなる。ときに、ネガティブゾーンに入っていくが、それも人生の醍醐味の一つとして、許容できるほどの力強さを持つだろう。
   作家の村上龍さんは『無趣味のすすめ』のなかで次のように書く。───「趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクを伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している」。 

   ネガティブゾーンでこぢんまり生きるか。それとも、ポジティブゾーンで、大きな喜びも大きな苦しみも抱え込んでダイナミックに生きるか。それは、ひとえに「決意するか/決意しないか」による。




2012年8月24日 (金)

「職選び」を乗り物にたとえる


Kattadake
蔵王連山(宮城県)のひとつ刈田岳から立ち上る入道雲



   私は仕事柄、さまざまな人のキャリアを観察しています。
   Sさんは31歳。世間でも超一流と言われる大企業に7年間勤め、2年前、ベンチャー企業に転職した。大企業勤めが特に嫌だったわけではない。勤めようと思えば、定年まで勤められた会社だったという。
   ただ、大組織の中にいて、忙しいだけで退屈な内容の仕事に自分が生き生きしていないなと感じる日々にモヤモヤ感があった。そんな折、みずからの事業を熱く語るベンチャー経営者に出会った。その人の情熱と夢に共感し、いとも簡単にそこに転職を決意した。年収は2割減。会社の知名度も安定度も比較にならないくらい低くなった。任された職種もこれまでとまったく違う。けれど、社員数十名の組織での自分の役割や影響力は格段に増した。「小さい会社は問題も多いが、自分のやりがいも大きい」とSさん。自分の意見や行動が組織に響く手ごたえ、自分の成長と組織の成長が月々年々よく見えるという面白さ。そして、事業の方向性について、社長と“差し”で話せる経営参加意識。Sさんはこの転職がよいものだったと確信している。

   さて、Sさんの転職話を前置きとして、きょうは自分にとっての「職選び」を乗り物にたとえてみたい。

   まず、大企業勤めは、言ってみれば「大型船」である。パワフルなエンジンを装備し、多くの人数を安定した速度で、しかも遠くまで運んでいくことができる。船体は頑丈で多少の波にはびくともしない。屋根や窓がしっかり付いているので、雨が降っても、風が吹いても中の人間は平気である(空調がきいている部屋もあって快適ですらある)。その上、自分ひとりが多少居眠りをしても、その船は運行を止めずに進んでいってくれる。
   ただ、難点もある。自分に与えられたスペースが限られているのでとても窮屈だ。また、作業はこと細かに分けられ、はたして自分のやっている作業がどれだけ全体に影響しているのかがわかりづらい。そんな中で、個々人はともかく自分の居場所を確保するのに忙しい。が、その乗り物がどこに向かうかは、多くの場合、個人では決めることができない。

   一方、ベンチャー会社や起業は、「オートバイ(自動二輪車)」である。細い道や多少の悪路もなんのその。エンジン音を高鳴らせながらグイグイと突き進んでいく。ハンドルさばきは自分次第。風を切りながら走り、自分の一挙手一投足がマシンに直下に伝わる快感は応えられないものがある。
   しかし、雨が降ればズブ濡れ覚悟。ちょっとのハンドルミスが大きな事故につながるという危険性は常に隣り合わせ。オートバイはハイリスク・ハイリターンな乗り物なのだ。

   また、町の中小企業はさしずめ、「小さな帆船」といった感じだろうか。その日その日の風向きを常に気にしながら、帆の位置を変えてゆっくり進む。出せるスピードは限られているし、遠くへも行くにも難がある。景気といった波の影響をもろに受けるからだ。
   しかし、自分たちしか知らない穴場の漁場があって、そこで高級魚の一本釣りの醍醐味を味わうこともできる。帆船はエンジンで走る高速の乗り物では味わえない独特の世界を持っている。

   そして、最後に自営業・フリーランス。これは「自転車」か「徒歩」だ。漕ぐこと、歩くことをやめたらそこでストップする。動く早さ、動く距離はすべて自分の意志と体力次第だ。
   もちろん行き先はすべて自分で決める。道草は自由。途中で道を変えるのも自由。ただし、雨が降り、風が吹けば自分でよける道具や工夫が必要になる。しかし、移りゆく景色、風の匂い、季節の音を楽しみながら進むことができる。

   乗り物の好みは人さまざまだ。安定した運航で遠くまで連れていってくれる大型船がいいという人もいれば、目の前の岩山を、オフロードバイクでケガを承知で駆け上がりたいと衝動が走る人もいる。
   また、乗り物など使わず自分の脚で山に登って、道端の草花に目をやり、景色のいい場所を適当に見つけて、手作り弁当を広げるほうがいいと思う人もいる。これらは志向性、価値観の差であって、どれが正解か不正解かという問題ではない。

   職選びもこれに共通したところがある。大企業で海外を股に掛けるもよし、ベンチャー企業で一攫千金を狙うもよし、はたまた個人事業で趣味を仕事にするもよし。スピードの中で戦う仕事もよし、のんびりとした仕事もよし、人が寄り付かない仕事もよし。
   要は、自分の内なる声に正直に従い、それにマッチした職やワークスタイルを選び、生計が立てられれば、それは「幸せのキャリア」である。経済的に「成功のキャリア」ではなく、自分の性分に合った乗りものを選ぶという「幸せのキャリア」という観点も長いキャリア人生においては大事である。
   ちなみに、「成功のキャリア」にせよ「幸せのキャリア」にせよ、そこを狙い、維持していくためにはリスクを負って努力することが必要だ。そういうことがわずらわしいと思う人は、現状に不満がありつつも、内なる声に耳をふさぎ、現職でとりあえず安定的に雇用されるように我慢をするという「可もなく不可もなくキャリア」という道を選ぶこともできる(現実社会ではこれが多数派ではないか)。

   ……さて冒頭のSさん。彼は、結局、受け身で乗せられる「大型船」ではなく、ハイリスクであろうと自分でマシンを動かせる「オートバイ」が自分の働く性分に合っていたのだ。



2012年8月13日 (月)

「火の心」と「水の心」~五輪の感動を消費しないために


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   この2週間、居間のテレビからはいつもオリンピック中継の熱い映像と音声が流れていたのだが、それも終わり、お盆休みの静けさを取り戻した庭先では、いつの間にか、セミが生命力いっぱいに鳴いている。

   3・11以降最初のオリンピックとあって、試合後の街の声は「感動をありがとう」、「勇気をもらえた」というのが多かった。
   さて、選手たちはがんばった。4年間の辛く厳しい準備過程を経て、晴れの舞台で精一杯表現した。では、そこから感動・勇気をもらった私たちは、きょうから何にそのエネルギーを生かすか───? それを自分の生活・人生・仕事にうまく生かしてこそ、選手たちへのほんとうの「ありがとう返し」になるのではないか。

   興奮や高揚による感動は、ある意味、火のようなものである。
   ぼっと燃えあがって、すぅっと消えていく。

   誰しも感動したときは、おれもがんばろう!と思う。しかし、それはいわば“火の心”であって、長く保持することは難しい。
   生活・人生にはそうした一時(いっとき)の刺激も大事だが、それ以上に大事なのは、そのとき決めたことを持続していく習慣である。習慣は、“水の心”によってなされる。絶え間なく滔々と流れる川の水のように、きのうもきょうも、昨年も今年も、そして5年後も同じように流れてこそ、川は澄み、自分の形となり、海を豊かにしていく。

 


「人格は繰り返す行動の総計である。
それゆえに優秀さは、単発的な行動にあらず、習慣である」


                                             ───スティーブン・R・コヴィー 『7つの習慣』

 


「同じ情熱、同じ気力、同じモチベーションで持続することができる人が、一番才能がある人じゃないかと思っているのです。奨励会の若い人たちを見ていると、手が見えると言うのですが、一つの場面でパッと発想が閃く人がたくさんいるのです。しかし、だからといって、そういう人たちが全員プロになれるかというと、意外にそうでもないのです。
逆に、そういう一瞬の閃きとかきらめきのある人よりも、見た目にはゆっくりしていて、シャープさはさほど感じられないが、でも確実にステップを上げていく人、ずっと同じスタンスで将棋に取り組むことができる人のほうが結果として上に来ている」。


                                                      ───羽生善治・今北純一著 『定跡からビジョンへ』



   今回、五輪選手たちからもらった感動が単なる興奮だった人は、おそらく、次の興奮を求めて、また別の強い刺激を追いかけるだろう。彼らは退屈が嫌いなのだ。
   逆に、この感動を自分をつくるためのものに変換しようと思った人は、何か挑戦の準備をしたり、何か習慣を始めたりするだろう。準備や習慣といったものは、元来、退屈なものである。しかし、この退屈ではあるが、中身を詰めていくプロセスこそが、よりよく生きることの本体である。それは、バートランド・ラッセルが「偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた」(『ラッセル幸福論』)と書いたとおりである。

   人は刺激ばかりを追っていると疲れる。退屈さの中の“耕し”がないと、心身は決して満ちてこない。ロマン・ロランは次のように警告する───「魂の致命的な敵は、毎日の消耗である」(『ジャン・クリストフ(一)』)と。

   「水の心」を持って、自分が掲げた目的のもとに、日々の行動を積み重ねていくこと───文章で書けば、これもまた退屈な表現だが、これがなかなかできないのが私たち凡人なのだろう。しかし、考えてみれば、五輪という舞台に立ったアスリートたちは、みな、こうしてきたのだ。あらためて敬服。
   祭りは終わった。されど、個々の人生は続く。

 


「どんなにゲームで活躍しようが、自分の中では、どこにも、何にも到達していないという感じです……人生と同じで、死ぬまでの間は通過点なんです」。


                                                                                     ───三浦知良 『カズ語録』

 


「一日は一年の縮図である。夜は冬、朝と夕方は春と秋、そして昼は夏である」。


                                                         ───ヘンリー・ディビッド・ソロー『森の生活』



さて、きょう一日、何をしようか。
一日即一年、一日即一生である。




*(引き続き行われるパラリンピック出場の選手のみなさんのご活躍も期待します)







2012年7月27日 (金)

中学生向けのキャリア教育プログラムを実施


「働くってなんだろう!?」を考える特別授業

『僕らは能力の貯蔵庫だ!』
(広島県福山市立・山野中学校にて)

山野中u4


   7月24日、山野中学校(広島県福山市)で、キャリア教育の特別授業を実施いたしました。きょうはその報告をします。

   今回の特別授業は、同校の柳井晃司校長から一通のメールをいただくことから始まりました。柳井校長は私の著書を何冊か読んでくださっていて、どうにかこの著者を招待して生徒向けの講演・授業のようなものができないか、その思いを真摯に伝えてきてくれました。
   奇遇なことに、私も企業内研修の事業で独立して10年、今後はライフワークとして学童向けのキャリア教育で何かよいものをこしらえて、それを本業の合間に(営利目的ではなく)やっていきたいと考えていた矢先でした。幸い、大人向けに行っているレゴブロックを使ったプログラム『キャリア・ダイナミクス・ゲーム』を学童向けにアレンジすれば、かなりよいものができるとの確信もありました。
   お話をちょうだいしてから2カ月間、中学生の気持ちになってプログラムをつくり変え、今回の実施に至りました。山野中学校は、福山市北部の山間部に位置する学校です。昭和30年代までは200名ほどいた生徒数も、次第に過疎化の波を受け、現在では1~3年生まで合わせて12名となりました。しかしながら少数であるだけに、その分、生徒たちは学年を超えて、学び合い、助け合う空気がとても強いと感じました。
   以下に、特別授業の実施内容をまとめます。

* * * * *

■ 実施日・実施校: 山野中u1
2012年(平成24年)7月24日  
午前10時~(2時間)

広島県福山市立・山野中学校にて
 

■ 授業名:
「働くってなんだろう!?」を考える特別授業
『僕らは能力の貯蔵庫だ!』



■ プログラム概要:
   玩具の「レゴ」ブロックを使って行うキャリア教育プログラムです。
   ゲーム形式で進行していくもので、参加者は作品を何度かこしらえていく過程で、「能力とは何か」「職業に就くとはどういうことか」「自分の生きる道を創造するとはどういうことか」などを体感的に学んでいきます。
   従来、企業従業員・公務員向けに開発・実施されているプログラムを、今回特別に中学生向けにアレンジし行うものです。

■ プログラム内容:
   このゲームは4つの作品づくりステージから成っています。
   チーム(1チーム=2~3名)に分かれ、第1ステージは「小学生時代」という想定で、ブロック15個で「船」を作ります。第2ステージは「中学生時代」の設定で、ブロック35個で「船」を作ります。このとき、ブロックは自分が持つ能力(知識や技能、資質など)の比喩であることを説明します。
   15個で作る船と35個で作る船では、当然出来栄えが目に見えて違ってきます。ブロックが多いほど(つまり能力が幅広く豊かになるほど)表現できることも幅広く豊かになることを受講者は学び取ります。
山野中u2   第3ステージは「高校・大学時代」の想定で、ブロック40個+文房具4点(色画用紙や色マーカー、ハサミ、テープなど)で「船」を作ります。この段階になると格段に個性のある作品に進化してきます。そして、各チームは自分たちの船に物語さえ付加するようになります。「想い」が湧き起こってくるわけです。
   「能力」をさまざまに組み合わせ、かつ、そこに「想い」を乗せながら、何か形あるものを表現していく───それが、「仕事・職業・働くこと」の原形であることを解説していきます。


   そして最後の第4ステージ。これは「高校・大学卒業時」を想定し、「夢」というテーマで作品づくりをしなさいと指示が出ます(今回は時間の都合で、このステージの作品づくりは行いませんでした)。
   「船」という具体的・限定的なテーマから、「夢」という抽象的・自由度の高いテーマに移ることは、就職というイベントが持つ抽象性・自由度に呼応しています。「職を選び取る」とは、そうした抽象性・自由度が自身に振り向けられることを受講者に気づかせるものとなります。このように、このゲームでは作品づくりと、それが現実生活ではどういう意味をもつのかを解説する講義とが交互になされていく仕組みになっています。


■ スライド講義概要:
   レゴでのゲームプログラムを生かすために、そして「働くこと・仕事・職業」とは何かの核となるメッセージを伝えるために、スライドによる講義をゲームの前後に挿入します。そうすることで受講者の理解度(=腑に落ちる度)が高まります。

・まず、「能力」について、その概念を広げるところから始めます。
能力とは、学校で習う科目以外のことも含まれること、そしてもちろん学校の成績のよしあしが能力のあるなしに必ずしも関係しないことを伝えます。

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・「能力」に含まれるものを簡単に分類し説明します。
  「知識」=知っていること。
  「技術」=身体を使ってできること。
  「資格」=知識や技術があることを試験によって証明するもので、免許のようなもの。中学校をきちんと卒業して学位を取ることも資格のひとつとなる。
  「人とのつながり」=友だちをつくる力。何か事を成そうとしたときに、一緒にやってくる仲間、自分を助けてくれる人、味方になってくれる人、それらを人脈という。
  「強み・得意なこと」=几帳面である、社交的である、人を引っ張っていける、集中力がある、のんきである等、そうした性格的なことも能力の一部である(人材育成の専門用語では「コンピテンシー」に相当)。
  そして、これら能力は、目には見えないが、自分のなかに貯蔵されていく大事な「資産・たからもの」であることを伝える。

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・「お金持ち」と「能力持ち」

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・「ひらがなゲーム」というミニゲームをやります。
Aチーム(教職員)とBチーム(生徒全員)に分かれ、Aチームは3枚のひらがなカードを持ち、Bチームは5枚のひらがなカードを持つ。手持ちのカードを自由に組み替えて、2文字以上の意味ある単語(名詞)をつくるというルール。  「ひらがなゲーム」の結論は……

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・以上の下地となる講義をして、ここからレゴブロックゲームに入ります。
このゲームプログラム(所要約1時間)で、受講者が体感的に学ぶことは、

   1)「能力」が豊かになるほど、「表現」できることも豊かになる
   2)漫然と作品をつくるのではなく、「思い」(=自分なりの物語)を加えていくと
       作品がより個性的に魅力的になるし、自分の意欲も盛り上がってくる
   3)他グループの作品表現を見て刺激を受ける。
       と同時に、自分の作品表現が他グループに刺激を与えることもある。
   4)協働することの難しさ・面白さ


・レゴのゲームプログラムを終えて、
講義は「働くこと・仕事・職業」とは何か、のメインテーマに入っていきます。
「働くこと」について、3つのキーワードで説明します。
それは「能力×想い→表現」

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・「働くこと」の最終出口は「表現」であり、
その「表現されたもの」に対し、人(お客様)が反応してくれる。
反応には「スゴーイ!」や「いいね、それ!」「助かったわぁ」「ありがとう!」などがある。

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・「働くこと」で、みな、生活のためのお金(給料)を得ているが、
それは「働けばお金がもらえる」という解釈ではなく、
こう解釈してみてはどうかと問いかける……

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間近にくる「就職」という大きな時点に立ったとき、
「能力」・「思い」・「表現」について自分がどれだけの準備をできるか、に言及します。
職業選択の自由があることは歓迎すべきことではあるけれど、
自由であることに「負担」を感じることも起きてくるだろうことにも触れておきます。
そして、職選びというのは、親や先生からのアドバイスは受けつつも、
最終的には、「自分一人」で決めるという作業になることも伝えます。

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山野中学校の校訓は「他律から自律へ」ということで、柳井校長からは「自律」について一言触れてくださいとの要望がありましたので、ここで「自律的な人とは」という結びのスライドを入れることにしました。

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・そして補足的に、名言・箴言をいくつか紹介しました。
これら含蓄の深い、けれど抽象的な言葉は、けっして生徒を子ども扱いせず、
しっかりと目と耳に触れさせておくべきです。
名言・箴言は、本人の言葉の咀嚼力を超えて、響いていくときがあるものです。

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■ 事後アンケートの声(生徒):
   ・レゴブロックの製作を通して、能力がたくさんあればあるほど、いいものができあがることがわかりました。これからゴム袋をまんぱいにしていきたいです。また、レゴブロックを作るときに、人と協力することも必要だなと思いました。(中1・男)

   ・レゴブロックでの製作を通じて、大きくなるにつれて能力が増え、思いが大きいほどに豊かな表現ができることがわかりました。今から能力をたくさん身につけて、強い思いを持って、自律的な人間を目指します。また、今まではお金を稼ぐために働く、という考え方だったけど、自分が一生懸命表現すれば、相手が「ありがとう」の気持ちでお金をくれるという考えのほうが正しいことがわかりました。私は、人々に感謝されるような働きをする人間になりたいです。(中3・女)

山野中u5   ・レゴブロックを使って、働くということ、能力ということがよくわかる楽しい授業でした。私はいままで、自分のことを「なんの能力もない人間」と思っていました。実際、何をやっても上手にいかず、自分を責めたりすることがよくありました。でもきょうの授業で、「能力のない人なんていないんだ」と思いました。自信を持って将来の夢へ進んでいきたいです。(中3・女)

   ・今の成績では高校に入れるかどうか不安なじょうたいです。ちょっとあきらめようという気持ちはあったけど、今日の話を聞いて、お金持ちになれるかどうかは分からないけれど、能力(才能)はのばせるということを知ったので、あと二年あるので、卒業するまでにしっかり勉強をして能力を上げつつ、能力を見つけていきたいです。(中2・男)

   ・1つのものに何か加えるだけで、見る人の気持ちも変わることをレゴブロックのゲームで分かりました。(中2・女)

   ・将来、働くためには、その時になってはとうぜんに遅いし、たいへん困ると思った。能力はいくらでも持てるんだから、いろいろなことをやって、どんどん身につけていきたいです。(中3・男)


■ 事後アンケートの声(教職員):
   ・生徒の表情を見て、楽しみながら学習していたと感じました。きっと今日の学習は生徒たちの一生にわたっていきていくと思います。私自身、どれだけカード(ブロック)を持っているか、反省させられました。あわせて、世界中の人のカードをうまく、平和に組み合わせていく手段はないものか、と考えさせられました。

   ・レゴを使っての作品づくりが段階を踏んでいくことで、成長するということがよくわかる内容でした。能力がたくさんあるほうが「楽しい」という表現がよかったと思いました。

   ・レゴブロックを通して、能力は自分のなかに貯蔵されていく資産だということが具体的につかめたと思います。(教職員)

   ・レゴブロックを使って、年齢や経験が増えるごとに、表現の可能性・理解も伸びていくということを体験的に実感することができたと思います。「能力」と「思い」を組み合わせて「表現」する活動が働くことである、一生懸命表現することでお金を受け取ることができる、という言葉は素直に希望を持って、生徒の心に落ちたと思います。

   ・レゴブロックを使用することにより、生徒はゲーム感覚で能力を増すと船の完成度(表現力)が高まることを理解できた。


■柳井校長からいただいたお礼メッセージ(抜粋):

   このたびは、遠路より本校にて、キャリア教育特別授業の講義およびレゴブロックによる体感型学習を実施していただき心よりお礼申し上げます。

   先生が授業で示された「能力×思い⇒表現」は学校におけるキャリア教育において、大変重要な視点だと捉えています。特に「能力のゴム風船」の考え方は働くベースになるものだと感じた次第です。
   また、教職員にとっても今の仕事を捉え直し、問い直すきっかけになった時間だと思っています。
最後になりましたが、生徒をはじめ教職員一同、先生との出会いに感謝申し上げます。またお会いできることを楽しみしています。今後とも「働く意味の翻訳人」として先生のますますのご活躍を祈念しまして、お礼のことばとさせていただきます。
 

平成24年7月24日
福山市立山野中学校
校長 柳井晃司



■今回私が感じたこと・思ったこと:

1〈中学生にほんもののメッセージを〉

   私はかつて勤めたベネッセコーポレーションで、大学生向けの就職支援プロジェクトに携わったことがあります。私はいわゆるシューカツ(就職活動)のための「受かるテクニック伝授」のサービスはしたくなかったので、顧客ターゲットを1年生・2年生とし、「働くとは何か・職業を選択するとはどういうことか」の根本から考えさせるサービスを考え出そうとしました。その部署では結局1年間ほどいろいろ実験をしたのですが、私が見出した結論は、キャリア教育をやるにはもっと早い段階からやる必要がある。それは直感的にですが、小学校高学年か中学校あたりではないかと思いました。
   それから月日は流れ、今回、このような形で念願の中学生対象にキャリア関連の授業ができ、そして内容をぶつけてみて、そのときの直感は正しかったのではないかと自信を得ることができました。

   なぜ、高校生や大学生になると、本来のキャリア教育が施しにくくなるのか。それは、学年が上がるにしたがって、文系や理系といった枠組み・レールによって自分を限定していき、やがて、業界を選びにいき、具体的な会社を選びにいく意識ができ上がるからです。そしてもっぱら「どうやって志望会社に入るか」という観点にしか興味を示さなくなるからです。
   その点、中学生までは、能力・資質の方向性がよい意味で定められておらず、また“無垢”な心持ちが保持されていて、「働くと何か」という根っこの問いに対し、白紙のカンバスに自分なりの概念の絵を描くことができます。

   今回、私がもっとも気にかけていたことは、中学生の抽象的学習能力がどれほどあるかでした。レゴの作品づくりゲーム自体は、必ず盛り上がる内容になっています。それはレゴという玩具がもっている創造性引き出し力によるものです。問題は、そのゲームでやったことから、現実生活に置き換えて、「働くこと」を理解させるところの橋渡しです。レゴのブロックや使える数の変動などはすべて、現実生活の「比喩」になっています。その比喩の解凍・展開を中学生がうまくできて、ハラに落とすことができるか───結果的には、事後アンケートを見てもわかるとおり、予想以上に自分たちなりに咀嚼できているようでした。

   驚くべきは、上の欄には挙げませんでしたが、次のような感想を書いてくれた生徒もいました。───「私は(第3ステージの)大学生は一つのことからもう一つ視点を広げて自分の能力を生かして作品をつくっているんだとわかりました〈中1・女〉」

   このゲームの第3ステージは、レゴブロックに加えて文房具が使える段階になります。そしてまた、船だけを一生懸命作るのではなく、文房具で海や波をこしらえて「景色の中に浮かぶ船」を作るというステージに変わります(そう変えるよう発想するのは、ほかでもなく受講者本人たちなのですが)。そのステージの転換点を上の1年生の彼女はしっかりと気づいていたのです!

山野中u3   このステージの転換点は、企業の従業員向け研修では当然触れることですが、私は中学生向けだからということで、あまり余分なことも言及しないほうがいいだろうと思って、この点は言わずじまいにしていました。ところが、こういう感想がしっかりときたのです。

   中学生は大人が思う以上に、抽象的に考える能力が養われており、またほんもので直球のメッセージをきちんと受け止める心が備わっています(いると見るべきです)。中学生受けしないということで、抽象を避け、目先の変わった具体事例ばかりを見せてばかりいたら、それこそ概念・観念を抽象的にとらえる能力が退化してしまいます。私たちは、ほんもののメッセージを真正面からしっかりと投げることが重要だと思います。



2〈さらなるプログラム開発〉

   私は今回、働くとは何かを考えるキーワードとして、「能力」・「思い」・「表現」の3つで整理をしました。今回はレゴを使った授業で約2時間、主には「能力」を豊かに蓄えることの重要性を説きました。
   「働くこと」を十全にとらえていくためには、あと「思い」の重要性や、「表現」の多様性についても、それなりのボリュームを割いてしっかりプログラムづくりすることが必要だと感じました。そうした意味で、今回のプログラムは、全3部あるうちの第1部と自分のなかではとらえています。これを機に、中学生に向けた第2部、第3部のプログラム開発にも力を注ぎたいと思っています。

   ちなみに第2部の「思い」をテーマにしたプログラムは、「~のために・~したい」という自分のなかの動機・意欲を内省するものになるでしょう。

   「~したい」という気持ちの側面だけで、職業選択を誘導していくことはある意味簡単なことです。しかし、私は「~したい」ということはベースにあるべきだけれども、それだけでは不十分だと感じています。そこに「~のために」という“理由・意志”が伴わなければ、ほんとうに強い次元からの「思い」が湧いてこないからです。私は仕事柄、さまざまな人のキャリア姿を観察していますが、単に「好きを仕事にする=~したい」だけで、職業を選んだ人たちの付和雷同ぶりを目撃してきました。「~したい」という感情レベルのものは、いとも簡単に、「~が嫌になった・飽きた」に変わるからです。
   「~のために」という理念・信条に根ざした意志が加わることによって、その意欲は堅固なものになります。私はその「~のために」ということを内省できるワークを中学生向けにこしらえたいと思っています。


   また、第3部の「表現」に関するプログラムのキーワードは「ロールモデル探し」です。「あこがれ」は強力な力を持っています。あこがれの仕事をしている人を見つめさせ、仕事とは「表現活動」であり、そこにはさまざまな個性・価値観があることに気づかせていきます。そして、人間が行う仕事世界の面白さを感じてもらう内容です。また、そのあこがれの表現の土台には必ず「能力」や「思い」というものがあり、そこを探ることで、第1部、第2部との相乗効果も生まれます。
   こうしたプログラムを本業の合間にこしらえ、中学校の現場で実施できる機会をちょうだいしながら、プロジェクトを発展させていく予定です。


3〈人は思いによって引き寄せ合う〉

   今回授業を行った広島県福山市は、私にとって、それまで何の縁(ゆかり)もない土地でした。ところが、柳井校長の一通のメールからほんとうにうれしい結び付きと交流ができました。

   現代は、思いや志を持つ者にとってはとてもよい時代です。メディアの発達により、みずからの思いを発信すれば、それに響いてくれる人びととのつながりができやすい環境にあるからです。もちろん、ネット上には悲観や冷笑、嫉妬、批評のための批評の声が渦巻いており、そこから“負の連帯”のようなものもできあがります。しかし、その一方で、この世界には、楽観や正義、夢、志に満ちた建設のための意志の声も泉のごとく湧いています。そして、そこからは“正の連帯”が起こりえます。

   私が今回、広島県の山間部の全校生徒数12名の中学校に出会えたのも、校長先生と私とが「思い」でぴんとつながり、小さくではありますが“正の連帯”が起こったことによります。
   「働くということについて健やかな考え方を涵養したい」───中学校訪問中、このテーマにつき校長先生、教頭先生らとの対話は尽きることがありませんでした。日本の教育現場には問題が山積ですが、こういう先生方が現場で苦悶し、奮闘しておられることの具体的事実を知ったことだけでも私にとっては大きな気づきであり、ひとつの安堵でした。

   子どもたちの教育・しつけは、学校と家庭に任せておけばよいものではなく、社会全体で取りかかっていかねばならない問題です。ビジネス界にはそれこそ多くの「知と術」が蓄積されています。それをもっと公共のために、「共通善」のために、組織も個人も使うべきだと思います。

   最近では「プロボノ」(=プロフェッショナルが職能をボランティアに生かす活動)という動きも出てきています。NHKテレビの番組で『課外授業ようこそ先輩』というのがあります。各界で活躍するスポーツ選手やアーティスト、タレントたちが、なつかしい母校に戻って、子どもたちに個性的な授業を行うというものです。登場する人たちが毎回、自分の才能世界での発想をフルに生かしながら、とても面白い内容をやります。私自身もこれを機に、非営利活動としての学童向けキャリア教育を強く押し進めていきたいと決意できたプロジェクトでした。


■最後に:
   小・中・高校生に向けたキャリア教育の必要性は、着実に広がりをみせているように思います。子どもたちの就労観を健全に育むことは、産業の興隆ひいては国力の足腰に関わってくる部分です。そして何よりも、1人1人の個人が、よりよく生きていくための精神的土台になる部分です。
   文部科学省や経済産業省はそれぞれに方向性を出してキャリア教育の牽引役を果たそうとしていますし、民間企業やNPOが独自のプログラムで事業化を図ろうとしています。『13歳のハローワーク』(村上龍著)もしっかりとしたロングセラーになりつつあります。世の中には、多様なサービスがあってこそ、よい発展が起こります。その意味で、私も独自の観点からのプログラムづくりに取り組んでいきたいと考えます。

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■付録:(山野中学校に事前に送ったメッセージ)

山野中学校のみなさんへ

私はスポーツを観るのが大好きです。アメリカのメジャーリーグではイチロー選手やダルビッシュ選手が頑張っています。サッカーの香川真司選手はいよいよイギリスのマンチェスター・ユナイテッドに移籍します。彼らの仕事・職業は、野球やサッカーをし、美しい技術を披露して、ゲームに勝つことです。彼らは、世の中に数多くある職業のなかから、プロスポーツ選手という道を選びました。

見渡してみれば、私たちの身の周りには、いろいろな人のいろいろな仕事があります。たとえば、みなさんがいま履いている靴。その靴は、だれかがデザインし、だれかが工場で製造し、だれかが店で売ってくれた靴です。それはつまり、靴のデザイナーという仕事、靴の製造組立員という仕事、靴の販売員という仕事があるということです。

また、みなさんがレストランに行ってハンバーグステーキを注文したとしましょう。そこで出てくるハンバーグステーキは、それこそ数えきれない人の仕事を経て、あなたの前のお皿の上にやってきました。世の中の誰かが、その牛を育てるという仕事をしました。そして、その牛肉をオーストラリアから日本へ運ぶことを仕事にする誰かがいました。成田空港の税関では、誰かがそれを検査する仕事を請け負っています。さらには、その検査が済んだ牛肉をレストランに売る仕事の人がいました。そしてレストランの厨房では誰かがステーキを調理する仕事をしています。ステーキはいよいよ、ウェイター・ウェイトレスという仕事をする人によってあなたのもとに運ばれました。これで終わりではありません。食後、レストランで会計をしますが、そのレストランでは経理を仕事にする人がいて、きちんと店が回っていくようにお金をやりくりしています。そして、経理の人は、翌日、その売上金を銀行に持っていきます。銀行には、また多くのお金を数えることを仕事にする人が働いています。

このように、みなさんの周りには実に多くのモノやサービスがありますが、よくよく観察すると、そこにはたくさんの仕事・職業がかかわっています。みなさんも、近い将来、何らかの仕事に就いて、親から独立して生きていくことになります。

来週24日の特別授業は、そんな「仕事・職業・働くこと」についての2時間授業をやります。授業といっても、半分は「レゴブロック」で作品を作って遊びます。でも、その授業が終わったときには、「仕事ってそういうものなのか」「働くってそういうことなのか」ということが、少しだけわかるようになっていると思います。

では、来週お会いしましょう。私もみなさんと一緒に過ごせることをすごく楽しみにしています。

 

東京より
キャリア・ポートレートコンサルティング
村山昇

 

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