2009年6月 4日 (木)

『暴走する資本主義』〈続〉:パンとサーカスとサイコロと

前回のエントリーでまとめたように、
『暴走する資本主義』の著者ロバート・B・ライシュ氏は、
今のこの歪(いびつ)に暴走を始めた資本主義の進路コースを修正し、
世界が継続的に維持発展できるようにするためには、
一人一人がマクロの視点で、自分たちが依って立つ経済システムを見つめなおす意識を持つことが大事だと訴える。

そして、
「消費者・投資家として私」が、際限のない欲望をうまく自制し、
よき「市民・労働者」として、よき民主主義を蘇生させるよう動くことだと主張する。
そのバランスを能動的に賢くとることができれば、
強い資本主義と活気ある民主主義を同時に享受できるとしている。


私が人財教育事業で起業したとき以来の問題意識は、
一人一人の働き手の「仕事観・働き観」をしっかりまっとうにつくることが
個々のよりよいキャリア・人生をつくることにつながる、
そしてそれは、よりよい組織・社会をつくることにつながる―――
というものです。

その点で、私はライシュ氏の主張に大いに賛同します。
とにもかくにも、
今のビジネス社会において、個々の働き手の中で、そして事業組織の中で
「働くことの思想」が脆弱化している、あるいは自問を怠っているように思います。

「働くことの思想」とは、簡単に言えば、
仕事・労働について日ごろからさまざまに思索を巡らせ、
自分なりの“解釈・答え”を持つことです。

例えば、自分は何のために働いているのか?というのはその人の根本思想です。
「3人のレンガ積み」の話で言えば、
自分にとっての“大聖堂”は何なのか、がきちんと答えられるということです。
(→“大聖堂”に関してはこちらの記事を)

また、「金儲けは目的か手段か?善か悪か?」といった問いに対して、
あなたは何と答えるでしょう?
この質問を自分の部下から受けた時、
あるいは自分の子どもから受けた時を想像してみてください。
すぐに、具体的に説得性をもって答えられるでしょうか?

働くことの思想を普段から強く持っている人は、
この問いに対する回答をすでに持っているはずです。
(→ちなみに私はこんな答えを持っています)

そして、今回の書評で中心テーマとなっている資本主義。
私たちのほとんどは、資本主義を生まれた時から当然のものとして受け入れています。
単純な比較で「資本主義=○、共産主義=×」と半ば反射的にとらえています。
そこには、確たる思想があって、資本主義を是としているわけではありません。
ただ何となく「共産主義は怖そうだから」とか「資本主義は自由だからいい」
といった程度の感覚で支持しているにすぎないのではないでしょうか。

しかし、今回明らかになったように、
資本主義は、私たちの大事な民主主義を脅かしているのです。

ライシュ氏もそうですし、もちろん私もそうですが、
資本主義なんかやめちまえ!といっているのではありません。
おそらく、このシステムを土台にしてしか、当面、地球上の数十億人の経済は
回っていかないと思います(中国も事実上すでにこのシステムの上に乗っかっている)。

資本主義は基本的には優れたシステムです。
しかし、人間の欲望をエンジンにして稼働するところが問題なのです。
ですから、私たちには、それを賢く扱うための「思想」が要る。
言うまでもなく、一個一個の人間の中にそれが不可欠なのです。

アンドレ・コント=スポンヴィル氏が『資本主義に徳はあるか』の中で言ったように
資本主義のメカニズムは、それ自体、道徳的でも反道徳的のものでもない。
結局、それは経済を行なう人間に任されている。

(→関連記事はこちら)

だから、私たち一人一人の思想いかんで、
資本主義は“ノアの方舟”にもなれば、“泥船”にもなる。


* * * * *

思想なり哲学なり叡智なり、人間の賢さというのは
少なからずの人が指摘するように時代が下ってもさほど進化してはいない。
(科学技術文明の発達ともあまり関係がない)
特に、欲望の扱いに関しては、人類は古くから惑わされっぱなしです。
古今東西、宗教は、欲望をどうコントロールするか、そして死をどうとらえるか―――
この二大テーマを扱ってきたともいえます。

資本主義が個々の欲望をベースにするところから、
その「暴走→暴落→規制→新たな暴走」というサイクルは過去から営々と続いてきました。
そのサイクルが止まないのは、
人間がいまだ欲望をうまくコントロールできていない証左だともいえます。

渋沢栄一の『論語と算盤』は、昭和3年(1928年)の刊行ですが、
ここには現在と同じくマネー獲得を狙って投機に明け暮れる投資家や事業経営者たちが
あちこちで言及されています。
そして『論語』の思想で滔々と諭す渋沢の様子がみてとれます。

また、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著した
マックス・ヴェーバーは(執筆した1904年時点で)、
「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、
営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、
今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、
スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」
と書いています。

つまり、経済がその本来の意味である“経世済民”からはずれて、
もはやマネーの多寡を競い合う体育会系ゲームになり下がったと言っているわけです。

そもそもケインズも、
私は資本主義より優れた経済システムを知らない。
しかし、人びとの中に生まれる「貨幣愛」こそが問題である、と吐露しています。

資本主義が回り始めてこのかた、
人びとの欲望がそのシステムの箍(たが)をはずし、
いくつもの「●●恐慌」やら「●●ショック」を引き起こしてきました。
しかし問題は、暴走→暴落→規制→新たな暴走の規模が肥大化していることです。

* * * * *

私たちの考え方と行動いかんによって、資本主義が泥船化するかもしれないという大事な分岐点にあって、
私たちは相変わらず、目先の知識やスキル習得ばかりに目がいき、
組織から振られた短期業務目標の達成に忙しい。

肉体労働、知識労働の別にかかわらず、
組織の歯車となって一人一人の労働者が働かされる構図は
チャップリンが映画『モダンタイムズ』で描いたころとさして変わってはいない。

スーパーで1円を節約する主婦が、
あるいは昼食で100円200円を浮かせたサラリーマンが、
FX取引で「きょう1日で5万円の儲けが出た」とか「レバレッジで2000万円の損失が出た」と口にする風景は、
どうも何かを見失っているように思う。

「生活防衛のための投資の何が悪い!」という気持ちもわかりますが、
それは前記事で触れた明石の花火大会歩道橋事故で言えば、
肘を立てて我さきに強引に逃げようとしている姿にも映る。
橋全体が崩れるかもしれないという状況にもかかわらず・・・。
(そういうことに気づいたので、私個人はマネー投資をいっさいやっていません)
(もちろん投資マネーはある部分、企業・産業を興すために必要なことも理解しています)


「パンとサーカス」は、詩人ユヴェナリスが用いた風刺句です。
西洋ではよく知られた比喩ですが、要は、
民衆はパン(=食糧)とサーカス(=適当な娯楽)さえ与えられていれば
為政者に文句を言わず、日々適当に暮らしていくということです。

今の日本を見ると、問題山積ではあるものの、
パンはそこそこ手に入るし、
ストレス発散や憂さ晴らしをするサーカスもさまざまある。
加えて、パソコンや携帯から手軽な操作で、マネーを増やす投資(投機)手段もいろいろ出てきた。
「給料が増えないんなら、カネにカネを生んでもらおう」と
投資商品を買い、日々の相場数値に一喜一憂する。

意地の悪い風刺画家であれば、こうした状況を
パンとサーカスに満足し、サイコロに夢中になっている人びとを描くのではないでしょうか。
もちろん人びとが乗っているのは、泥船です。

繰り返しになりますが、
私は厭世家でも、マネー投資否定者でもアンチ資本主義者でもありません。
むしろ“強い資本主義”と“活気ある民主主義”の両方を望む者です。
そして経済を本来の大義である“経世済民”として、その健全な発展を望む者です。

そのために「働くことの思想」を一人一人の人間の中に涵養していくことが
不可欠だというのが本記事の主張です。―――私の起業動機もまさにそこにあります。

歴史を振り返ってみると、
よき時代には、必ず「よきエートス(道徳的気風)」が充満しています。
エートスはどこからか漂ってくるものではなく、
個々の人間の内側から湧き起こってくるものです。


私たちは一個の自律した職業人として、
パンとサーカスとサイコロで日々を送るのではなく、
各自の胸の内に“大聖堂”とは何であるかを求めて働いていきたい。


【お勧めしたい関連読書】
・アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』
 (小須田健/C.カンタン訳、紀伊国屋書店)
・渋沢栄一『論語と算盤』(国書刊行会)
・野中郁次郎/紺野登『美徳の経営』(NTT出版)
・内山節/竹内静子『往復書簡 思想としての労働』(農山漁村文化協会)
・杉村芳美『「良い仕事」の思想』(中央公論社)
・塩見直紀『半農半Xという生き方』(ソニーマガジンズ)
・西村佳哲『自分の仕事をつくる』(晶文社)
・ディック.J.ライダー『ときどき思い出したい大事なこと』
 (ウィルソンラーニングワールドワイド監修、枝廣淳子訳、サンマーク出版)




Taue
軽井沢から戻ってきたら、調布ではすでに田植えが終わっていた
今年も瑞穂の風景がやってくる (農家の方に感謝)

2009年6月 1日 (月)

『暴走する資本主義』:一個一個のビジネス人に問う本質論

Scaptlsm きょうは前回のエントリーで紹介した
ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』
<原題:“Supercapitalism”>
(雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社)
の詳しい感想を書きます。

* * * * *

本題に入る前に、先日テレビのニュースで取り上げられていた事故について触れたい。
それは、兵庫県明石市で2001年7月に起きた「明石花火大会歩道橋事故」です。
市民花火大会に集まった見物客がJR朝霧駅南側の歩道橋で異常な混雑となり、
「群衆雪崩」が発生。11人が死亡、247人が負傷した事故です。

遺族は、その警備・安全体制に問題があったとして
管轄の明石警察署元副署長らを訴え続けているのですが、
10日ほど前、
「業務上過失致死傷容疑で書類送検され、
3回にわたり不起訴になった当時の明石署副署長(62)の処分を不服として、
遺族側は、神戸検察審査会に3回目の審査を申し立てた」
とのニュースが流れた。

私は、この事故については、遺族の方々の心が収まる形で終結し、
今後同じような事故を他でも起こさないことを願うばかりです。

さて私には、この事故と、きょう紹介する『暴走する資本主義』とが
ある部分、重なって見えます。
以降、本題に沿って、明石事故を分解してみたい。

明石事故において、着目する点は3つあります。

1点目に、安全面での警備体制・規制がなされていなかったこと。
例年、人がごった返し、かねてから安全面での問題が指摘されていたにもかかわらず、
混雑を規制する計画も、当日の警察官出動もなかったという。

2点目に、被害者は主に過度の圧迫による死傷です。
歩道橋に溢れた人びとの一人一人は、もちろん事故を起こす意図などない。
ましてや誰かを圧死させようなどという殺意があるわけでない。
第一、一人の人間は他人を圧死させるような強い力を持ち合わせていない。
しかし物理的には、歩道橋にいた一人一人の自己防衛の行動が重なり合わさって、
ある箇所に力として集中し、たまたまそこにいた個人が圧迫被害を受けた。
(特に子どもや女性など力の上での弱者が被害者になりやすいという)

3点目に、したがって、当時、あの歩道橋にいた一人一人が
知らず知らずのうちに(物理的な意味での)事故の加担者となり、
かつ、誰もが、被害者になりえた状況にあった。


* * * * *

さて、そんなことを頭に置きながら、
ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』の内容に移ります。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」
―――著者はこの問いを置くことからスタートしています。
この問いは、読み進めていくと解るのですが、表面的な問いではありません。
現象の本質、そして人間の根本を見つめようとする問いです。

そして、その答えが解き明かされていきます。
著者は、資本主義を暴走させたのは、
根本的な意味で、強欲な企業・経営者、あるいは
巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたちではないと言います。


それは、「消費者」「投資家」として力を持った一般の私たち一人一人なのだ―――
これが著者の主張する重要な観点です。

つまり、一人一人の力は小さいかもしれないが、
「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって
巨大な力を生み、資本主義を歪な形に走らせるプレッシャーをかけている。

例えば、ウォルマートは今日、米国で最大規模の収益を上げ、最多の従業員を雇用し、
日々、何千万人という消費者を招き寄せる圧倒的に強い小売企業となった。
そしてここ数十年間、目覚ましい勢いで株価を押し上げ、株主に報いてきてもいる。

それを可能にしているのは、
ウォルマートのサプライヤーに対する過酷で非情な交渉力です。
ウォルマートは「1セントでも安く買いたい」という個々の消費者の購買意思を集結させ、
あたかもその消費者団体の代表として仕入れ先と値引きの交渉を行う。

ウォルマートが収益を上げるためにやっている過酷なことは、外側だけに限らない。
内側に対してもギリギリまで削りに削る。
詳細の数値は本書に出ているので省きますが、ウォルマートの従業員・パートタイマーの
労働待遇(給料や福利厚生、年金保障、健康保険手当など)は厳しい。

しかしだからといって、ウォルマートのCEOは、
非情だとか残酷だとかのレッテルを張られる筋合いのものではない。
彼は、ビジネスという競争ゲームのルールに従って、
最大限の成果(収益獲得)を出そうと本人の能力を発揮し努力している
に過ぎないのです。


仮に、サプライヤーや従業員に温情をかけてウォルマートの値引き率が鈍ってしまえば、
1セントでも安く買い回る消費者は、そそくさと他のチェーン店に移ってしまうでしょう。
そして、収益が悪化傾向をみせるやいなや、株価が下がり始め、
少なからずの投資家たちがワンクリックで株を売り払う流れが強まる。
そして、株の下落は加速する。
四半期ごとの成績を厳しく問われるCEOは、交代を迫られるはめになる。

そうした背後でプレッシャーをかける投資家とは誰なのでしょう?
直接的にはもちろん、その株を保有する株主です。
そして間接的には、年金ファンドや保険商品、投資信託商品を通じて、
薄く広く「あなた」自身も、そこに関わる当事者の一人である可能性が高いのです。

私たち一人一人には、多面性があります。
「消費者」であり、(広い意味での)「投資家」でもある。
そしてまた同時に、「労働者」であり、「市民」でもある。

70年代以降、「消費者としての私」、「投資家としての私」は、飛躍的にその立場が強まった。
より有利な(=得をする)選択肢を求めて、動ける方法が格段に多くなったのです。

しかし、その「消費者」「投資家」としての利得欲望が増せば増すほど、
「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと
押しやられていく皮肉な現象を起こしているのが昨今の状況です。


そうした資本主義の歪みを矯正するのが、民主主義・政治の役割なのですが、
もはや暴走する資本主義にのみ込まれてしまって機能しなくなっている。

著者は、ワシントン(=米国の政治)が、いまや
企業という利益団体から雇われるやり手のロビイストたちで動かされている現状を
具体的に書き連ねています。
公益や社会の真に重要な問題を訴える市民団体や非営利組織などは、
団結力や資金力に乏しいので、
その訴えがワシントン上層部に届く前に雲散霧消していく場合がほとんどだと言及しています。

「消費者」や「投資家」としての私たちは、
ネットショッピングやネットの株取引、ネットの検索などを利用して、
ワンクリックで自分の意思を即座に完結させることができる手段を持った。
そして、それらはグローバルにつながり統合されることで、巨大なパワーとなる。

その一方で、「労働者」「市民」としての私たちは、
意思を世の中に伝える手段はきわめて限られており、脆弱なままです。
一労働者・一市民として、
「このままじゃいけないので反対しよう」「何か役立つことをしたい」と思ったところで、
それを実行し、ましてや同じ考えの人びとを束ねて大きな運動にするには
気の遠くなるような努力と時間が必要になります。

ライシュ氏は、序章でこう書いています。

私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。
日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、
よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。
現在進行している超資本主義では、
市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、
民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。
個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、
現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。

そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、
それを決断していかねばならない。
その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。


著者は、序章でこうした結論を述べた後、
残りの300ページ超にわたり事実を一つ一つ積み上げながら、
資本主義が暴走を始める根本のメカニズムを書き解いていきます。

もちろん、その列挙する事実が偏向的だとか、決め付けだとかの声は出てくるでしょうが、
力強い主張の本というのは、一本の背骨の入った図太い解釈から成り立つものです。

文章や解釈というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、
ここにはロバート・ライシュという人物の高いレベルの良識さ・明晰さと、
そしてこのことを社会に問わずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができます。

実際のところ、ライシュ氏は、ハーバード大学の教授であり、
クリントン政権下では労働長官を務めた人物です。さらには、
ウォールストリートジャーナル誌で「最も影響力のある経営思想家20人」の1人に選ばれるほどですから、
よい本を著して、こういった論点を世に問うというのは、
当たり前といえば、当たり前なのですが、
日本において、こうした立場にある人が、どれだけ同じように賢者の論議を押し出しているのか
と考えてみると、非常に残念に思います。

いずれにしても、本書は、ビジネスに関わるすべての人に課したい良書です。
そして、これは米国だけの問題ではなく、
日本を含め、経済体制を問わず全世界の国々が共有すべき問題を扱っています。

私は個人的に、今回の金融危機による世界同時不況が、
あいまいなまま、あいまいな感じで景気持ち直しにつながらないでほしいと感じています。
このまま中途半端に進んでいけば、早晩、歪んだ形の資本主義は、
もっと大きなダメージを世界規模でもたらすと危惧するからです。

私たちが全世界的に持続可能な社会をつくるために、
国の境界を越えて経済体制や仕組みづくりを変えていく、
そして、自ら所属する組織の在り方を変えていくのは当然ですが、
その根本は、やはり一個一個の人間が、どう変わっていくかということに行き着きます。

百年単位の時間軸の視座に立てば、
個々の人間の叡智、勇気、行動が問われる大事なタイミングなのだと思います。

2009年5月30日 (土)

本を著すことについて

【軽井沢発】
軽井沢で仕事キャンプを張って4日目。
2日目から雨、雨、雨。きょうも雨。
観光で来たのなら空をうらめしく思うところでしょうが、
私の場合、集中仕事なので、外への誘惑がなくむしろ踏ん切りがつきます。

窓を少し開けると、雨しずくが葉っぱやら地面に当たる音、
そしてときどき聞こえる野鳥の声が、心地よく仕事への集中力を増してくれます。

さて、今年の秋か冬ごろに1冊本を出せればと思い、まとまった読書をしています。
まず、本を書くには、切り口が必要ですが、
その切り口のスタートは、自分自身に「よい問い」を発することです。

書き手にとって、「よい問い」をすることが、本づくりの3分の1。
そして、「よい答え」を持つことが3分の1。
最後に、「よく書き上げる」ことが3分の1だと思います。
(出版社さんにとっては、並行して、よいパッケージに作りこむ、
よいマーケティング&セールスをするという仕事があります)

で、その「よい問い」を発するために、
現状のことをさまざまな視点から見つめなくてはなりません。
そのために、INPUTのための読書をします。
(もちろん、INPUTは読書だけでなく、仕事現場での直接的な情報感受・獲得が欠かせませんが)

ここ1週間で読んだ本といえば、
『なぜ社員はやる気をなくしているのか』、『「雇用断層」の研究』、
『人間らしい「働き方」・「働かせ方」』、『他人を見下す若者たち』、『オレ様化するこどもたち』、
『働きすぎの時代』、『職場はなぜ壊れるのか』、『不機嫌な職場-なぜ社員同士で協力できないのか』、
『その上司、大迷惑です。困った上司とかしこく付き合う傾向と対策』、
『ギスギスした職場はなぜ変わらないのか』などなど。

・・・いや、ほんとうに、いまの職場は壊れかけています。
ヒトも壊れかけています。
その嫌な流れが拡大することはあれ、健全なほうに転換していかない要因は何なのか?


もちろん、企業側(雇用側)の問題もあるでしょうし、
働き手側(上司にも、部下にも)の問題もあるでしょう。
社会や家庭にも問題となるものもあるでしょう。

私は、これらの問題の要因を論(あげつら)うだけの本にはしたくない。
その一番根っこにあるところの要因は何かを特定した上で、
この嫌な流れが改善に向かうためには何が必要なのかこそを書きたいと思っています。
そのための「よい問い」を見つけることが、現時点で最重要のことです。

* * * * *

さて、そんな中、腹応えのある本を読んでいます。
「よい問い」があり、「よい答え」が展開され、
「よく書き上げ」られている著作です。

ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』 (東洋経済新報社)がそれです。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」
―――著者はこの「問い」を置くことからスタートしています。
この問いは、読み進めていくと解るのですが、
表面的な問いではありません。人間の根本を見つめようとする問いです。
その意味で、「よい問い」なのです。

そして、「よい答え」が解き明かされていきます。
著者は、資本主義を暴走させたのは、
強欲な企業・経営者、巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたち
ではない(根本的な意味で)と言います。

それは、「消費者」「投資家」として力を持った私たち一人一人なのだ―――
一人一人の力は小さいかもしれないが、
「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって
巨大な力を生み、資本主義の箍(たが)をはずすほどのプレッシャーをかけている。

しかし、その「消費者・投資家」としての欲望が増せば増すほど、
「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと
押しやられていく皮肉な現象を起こしている。


これがライシュ氏の答えです。
まえがきにこうあります。

「私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。
日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、
よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。
現在進行している超資本主義では、
市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、
民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。
個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、
現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。
そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、
それを決断していかねばならない。
その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。


この「よい問い」に対する「よい答え」を、
300ページ超にわたり事実を積み上げながら「書き上げて」いきます。
文章というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、
ここにはロバート・ライシュという人物の高いレベルの良識さ・明晰さと、
そしてこのことを社会に発せずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができます。
その意味で、「よく書き上げられた」本です。

実際のところ、ライシュ氏は、ハーバード大学の教授であり、
クリントン政権下では労働長官を務めた人物です。さらには、
ウォールストリートジャーナル誌で「最も影響力のある経営思想家20人」の1人に選ばれるほどですから、
よい本を著して、こういった論点を世に問うというのは、
当たり前といえば、当たり前なのですが、
日本において、こうした立場にある人が、どれだけこうした論議を押し出せるのか
と考えてみると、非常に残念に思います。

(本書についての感想は改めてアップしたいと思います)

* * * * *

私が起業したとき以来の問題意識は、
一人一人の働き手の「仕事観・働き観」をしっかりまっとうにつくることが
個々人のよりよいキャリア・人生をつくることにつながる、
そしてそれは、よりよい組織・社会をつくることにつながる
―――
というものです。

その点で、今のこの暴走する資本主義の進路コースを修正し、
世界が継続的に維持発展できるようにするためには、
一人一人の欲望に関する意識を変えねばならないというライシュ氏の主張には
私は大いに賛同します。

次に著す本は、この本のように、
大きな「よい問い」を発し、
根っこに横たわる「よい答え」を見出し、
力強く説得力をもって「書き上げる」ことを自分に課したいと思います。

Baob

2009年5月27日 (水)

「楽(ラク)」と「楽しい」

あるテレビ番組を観ていたら、
タレントの清水國明さんがこのようなことを言われていた―――

「田舎暮らしは楽しいけど、決してラクやないんです。
逆に、都会暮らしはラクですけど、楽しくないですねぇ」。


つまり、田舎に住むと、スーパーや病院、駅などが遠くにある。
電車だってすぐに来ない。
生活はクルマがないと始まらないが、大雪が降れば、雪かきから始めなければならない。
いろいろなことが不便で、そりゃもうラクではないというのです。

しかし、その不便さがかえって楽しいし、人とのつながりもできる。
だからこそ田舎は楽しい。
その一方、都会は何でも揃って、すべてのものが近くにある。
けれど、生活が何か楽しくない、のだそうです。

「楽(ラク)」と「楽しい」は、同じ字を使うが、含んでいるものは違う。

「ラク」は、効率(省力や要領)を求めるが、
「楽しい」は、必ずしも効率を求めない。
ときに、「楽しい」は、無駄や苦労を求めるし、
手間ヒマこそが楽しみを与えることは世の中にたくさんある。

ちょっと考えてもみてください。
あなたが死ぬ間際に、家族に向かってこう自慢できますか?

―――「私の人生は、実に“効率的でラクな人生”だった」と。

それよりも、
「私の人生は、確かに無駄は多かったし、苦労も多かった。
でも楽しかった。みんな、ありがとう!」
と言えたほうが、どれだけいいでしょう。

ラクばかりを追い求める仕事・人生は、スカスカになりますよ。


【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□その仕事は効率化の名のもとに要領だけで形を整えたものではないだろうか?
□あなたには、無様(ぶざま)な失敗の連続や修羅場をくぐり抜けてようやくまとめあげた仕事経験がどれくらいあるだろうか?それらは苦しかったけど楽しかった経験だろうか?
□自分が本当に「楽しい」と思える仕事はどんな仕事だろうか?

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□働き手に「楽しい仕事」を与えるとはどういうことだろうか?
□あなたの組織では、「ラク」(=効率化)を追求するあまり、「楽しさ」を失っていないだろうか?


* * * * * *

きょう軽井沢(長野県)入りし、5日間、集中的に書きもの仕事をやります。
5月末のこの時期の山はほんとうに生命が満ち溢れていて、
そこに身を浸していると、自分の内にある同じ生命の源も共振し、
エネルギーが呼ばれて出てくる感じがします。

そのエネルギーは、情報を智慧に変える大事なもの。
冬の間に溜め込んだ情報を整理し、編集し、
智慧として芽吹かせ、花と咲かせるには恰好の季節です。

でも、あいにくきょうは曇り空。浅間山のやさしい稜線と対面できず残念。
(明日からの天気予報も晴れが望めず)

きょうの昼飯は、
『峠の釜飯』(言わずと知れた「おぎのや」さんのです)と、
ツルヤさん(これも軽井沢ならではのスーパー)で見つけたPB品のりんごジュース。
(ストレート100%なのでたぶん期待していい!)

Photo

2009年5月16日 (土)

4つの「キョウソウ」:競争・狂走・競創・共創

私はかねてから次のように考えています――――

ゴッホとゴーギャンは競争したわけではない。
ピカソとマチスも競争したわけではない。
彼らはただ、たくましく競創し、おおいに共創しただけだ、
と。


さて、
「キョウソウ」について考えてみると、次の四つのパターンが見えてきます。

1【競争】
いまや世の中の多くのことが「競争」原理で動いています。学校もビジネスも社会も。
なぜなら、競争というシステムには、互いの成長・前進を刺激し、
怠惰や馴れ合いを防ぐというはたらきがあるからです。

けれども、競争には悪い面もあります。
競争はたいてい、数値化した評価で優劣や勝ち負けを判定するので、
高い数値の獲得のみがいつしか目的化されるおそれがあります。

特にビジネスは、利益(お金)という数値の奪い合い競争ですから、
人間の金銭欲が前面に出て、ビジネス本来の意義や目的が見失われることが容易に起こりえます。
私たちは競争を容認しつつも、目的のはずれた競争には
翻弄されないように注意しないといけません。

1a 2【狂走】
競争が過激になると「狂走」になります。
バブル経済が膨らむ過程などはその典型です。
「みんなが投機で儲けてるんだから、自分もやらなきゃ損!」という心理が万人に広まり、
株や不動産は実体価値を離れて値が高騰しはじめます。
「上がるから買う、買うから上がる」という狂走回路ができあがるわけです。

・・・狂走の行く末はいつも破たんです。
狂走を無意味なチキンレースだと見破り、狂走には参加しない意思と賢明さを持つべきです。

3【競創】
競い合うことは悪ではありません。
競うなら互いの創造性を競おうという意識を持つことです。つまり「競創」です。

競創においては、数値による優劣の評価や勝ち負けなどは関係ありません。
ゴッホとゴーギャン、ピカソとマチスは同時代の芸術家として、
おおいに競創したわけですが、彼らは、
互いの独自性や芸術性を刺激し合い、リスペクトし合っただけで、
蹴落とし合ったり、何か評判・得点で勝ち負けをつけようとしたわけではありません。

4【共創】
ゴッホとゴーギャンは競創関係にありながら、同時に、「共創」もしていました。
二人は共に後期印象派の流れを創造したのです。
共創とは、タレントを持った個人同士が一緒になり、
個人の枠を超えた何かを創造することをいいます。


私たちは、個人においても組織においても、「競争」を是としながら、
それを「狂走」回路に変質させていかない、
できるだけ「競創」や「共創」回路に開いていくことが大事な観点だと思います。

【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□あなたが「競争」疲れしているのはなぜだろうか?
 (限られたパイを奪い合うゼロサムゲームの中で「狂走」回路にはまっていないか?)
□蹴落とし合いではなく、創造の刺激合いをしているだろうか?
□タレントの結び付き合いで、何か大きなものを「共創」する喜びを知っているか>

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□ゼロサムゲームの中で、働き手を相対評価で操りすぎていないだろうか?
□チキンレース的なビジネスの「狂走」回路にストップをかける勇気を持てるだろうか?
□競合他社とともに時代をつくるという「共創」意識の大局観に立てるだろうか?



過去の記事を一覧する

Related Site

Link