2008年6月22日 (日)

本田宗一郎『夢を力に~私の履歴書』

Photo 私は大学生に向けて研修・講義を行なうこともあります。
「何がやりたいのかわからない」「何を仕事として選んだらよいかわからない」・・・
これは就職活動を前にした多くの学生の悩みです。
(もちろん、私も就職学年のころはそうでした)

よほど強烈な体験や特定の人からの大きな影響がないかぎり、
その歳でやりたいことが具体的にみえている人は数少ないものです。
自分のやりたいこと、夢/志、天職は、
動きながらもがきながらつくりだしていくものだから心配するものではない
と私は彼らに言っていますが、
むしろ彼らをみていて感じる問題は、
そうした霧中の道のりを前進していく「エネルギー」が決定的に不足していることです。
どうも若いのにしぼんでいるのが多い。
(むしろ私のほうが活力がある)

そうしたとき、私は滋養強壮のための読書として、偉人たちの自伝とか歴史小説を勧めています。
例えば、きょう取り上げる本田宗一郎『夢を力に~私の履歴書』(日本経済新聞社)とか、
司馬遼太郎『竜馬がゆく』、吉川英治『三国志』などです。

こうした本には、情熱の力とか、気宇壮大な腹構え、血湧き肉踊る人生の展開、
えもしれぬ人間力を持った者同士のつながり、生涯を賭した使命観などがテンコ盛りで、
最良の人生の教科書たりえるものです。

よく、「いい教師、いい上司に出会えなくて」とか
「自分の周囲には影響を与えてくれる大した人物がいない」と愚痴をこぼす人がいますが、
それなら、こういう読書を通じて出会っていけばいいのです。
私自身を考えてみても、
私の人生観を形作ってくれた半分は、
こうした偉人たちとの間接的な出会いによるものだからです。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

さて、本の紹介に移りましょう。
本田宗一郎(1906-1991)はご存知、本田技研工業(以下、ホンダ)の創業者です。
実際、本田は創業から25年間、社長として陣頭に立ち、
ホンダを国際的な一大自動車メーカーに育て上げましたが、
本田は経営者というよりは、生涯、純粋な「モノづくり小僧」だったように思います。

ただ、単なる小僧ではなく、まっとうな思想と壮大なビジョンを持ち、
芯の強いヒューマニストであったがゆえに、
大勢の人が慕い、経営者として支え上げていたのではないでしょうか。
(実際の経営に関しては、副社長の藤澤武夫の手腕が決定的に大きかった)

で、この『夢を力に』には、本田のジェットコースター的人生がまとめられています。
半端なフィクションを読むより
はるかに面白い人生展開、企業展開が、繰り広げられています。
こういう物語を読むと、小ぢんまり、小ざかしくまとまろうとしている
自分の人生が恥ずかしく思えます。

そして本田語録には、とても魅力的なものが多い。
働くこと、生きることの真髄を真正面からズドンと突いてくるのですが、
なぜか説教じみてもいないし、難解でもない。
内容的には訓示、格言なんだけれども、そこには堅苦しいストイシズムが全くない・・・
底抜けに明るく強いメッセージ、それが本田の言葉の魅力です。

以下に語録をいくつか挙げますが、
これらは本書を読んで、本田宗一郎の生き様やらキャラクターやらを知ってから読むと
さらに味わいの出る、説得力の出るものになります。

 ・「初めて見る自動車。それは感激の一語だった。停車すると油がしたたり落ちる。この油のにおいがなんともいえなかった。私は鼻を地面にくっつけ、クンクンと犬よろしくかいだり、手にその油をこってりとまぶして、オイルのにおいを胸いっぱい吸い込んだ。そして僕もいつかは自動車を作ってみたいな、と子供心にもあこがれた」。

 ・「すぐこわれるような粗悪な製品を作る人は、その人柄がどうあろうとも、技術者としては人格劣等であると断ぜざるを得ません」。

 ・「個性の入らぬ技術は価値の低い乏しいものであります」。

 ・「創意発明は天来の奇想によるものでなく、せっぱつまった、苦しまぎれの知恵であると信じているが、能率も生活を楽しむための知恵の結晶である」。

 ・「技術があれば何でも解決できるわけではない。技術以前に気づくということが必要になる。日本にはいくらでも技術屋はいるが、なかなか解決できない。気づかないからだ」。

 ・「私はいつも、会社のためばかりに働くな、ということを言っている。君達も、おそらく会社のために働いてやろう、などといった、殊勝な心がけで入社したのではないだろう。自分はこうなりたいという希望に燃えて入ってきたんだろうと思う。自分のために働くことが絶対条件だ。一生懸命働いていることが、同時に会社にプラスとなり、会社をよくする」。

 ・「ホンダは、夢と若さを持ち、理論と時間とアイデアを尊重する会社だ。とくに若さとは、困難に立ち向かう意欲、枠にとらわれずに新しい価値を生む知恵であると思う」。

 ・「“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、こんな楽しい人生はないんじゃないかな。
そうなるには、一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。石は石でいいんですよ。ダイヤはダイヤでいいんです。そして監督者は部下の得意なものを早くつかんで、伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。
そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
舵を取るもの 櫓を漕ぐもの 順風満帆 大海原を 和気あいあいと
一つ目的に向かう こんな愉快な航海はないと思うよ」。



いまの働く自分が、どこか縮こまっていると感じている人は、
是非、この本をお勧めします。
自分の心の枠がはずれ、グイグイ、エネルギーをもらえると思います。

なお、本田宗一郎、ホンダを通じて、もっと元気になりたい人は
以下の資料、書籍もあわせて読むといいでしょう。

ホンダ社史『語り継ぎたいこと チャレンジの50年』
 (これはWEB上で公開されている同社の歴史ドキュメントです。痛快な企業物語です)
○『私の手が語る―思想・技術・生き方』本田宗一郎著
○『スピードに生きる』本田宗一郎著
○『松明は自分の手で』藤澤武夫著

2008年6月16日 (月)

組織人か・仕事人か

日本の場合、職業人の多くは、
組織(企業や諸団体)に雇われるサラリーパーソンです。
その場合、その働き人は、組織人と仕事人の2つの側面をもつことになります。

組織人と仕事人という考え方に関しては、
『仕事人の時代』の著者である同志社大学の太田肇教授が簡潔に示してくれています。

すなわち、組織人の価値観・目的は
「組織に対して一体化し、組織から与えられる報酬(誘因)を目的とする」
他方、仕事人の価値観・目的は、
「組織よりも仕事に対して一体化し、仕事をとおして自分の目的を追求する」と。

で、私が、私なりに
組織人と仕事人の対比を整理した図は例えば下のようなものです。

04003a

04003b

◆働く忠誠心はどこにあるか
さて、私たちは、仕事人の典型をプロスポーツ選手にみます。
野球にせよ、サッカーにせよ、
なぜ、国内リーグのトップ選手たちが、世話になったチームを出て、海外に渡っていくのか。

それは、彼らの働く忠誠心・情熱が、
組織にあるのではなく、仕事にあるからでしょう。
彼らは「組織に生きる」のではなく、「仕事に生きる」からと言い換えてもいい。

彼らにとっての仕事上の目的は、野球なり、サッカーなりを極めること、
その世界のトップレベルで勝負事に挑むことであって、
組織はそのための手段やプロセスとなる。

一方、実力アップして、他球団に移りたいと申し出た選手に対して、
球団側も潔く真摯にビジネスライクに対応する意識が求められるでしょう。

なぜなら、こうした「個」の仕事人を束ねる形でのビジネスにおいて、
組織は、もはや「タレントオープン×インフラ型」としての機能存在であるからです。

映画製作しかり、保険商品の外交セールスしかり、
有能なタレントの集合離散で事業成果を出していく世界では、
人財の流入も「是」、人財の流出もまた「是」として
組織はいかに魅力的な企画(プロジェクト)とインフラを提示できるかに
専念しなくてはなりません。

とはいえ、そこを巣立った仕事人たちも、おそらく、長い目でみれば
いつか何かの形で組織に恩返しをしてくれると思います。
それが、新しい時代の仕事人と組織の関係性だと思います。

*********

◆「組織人×依存心」の掛け合わせが不幸を呼ぶ
さて、ひるがえって、日本の働き手で圧倒的多数の
「カイシャイン・サラリーパーソン」はどうでしょうか。

言うまでもなく、戦後の日本は、
組織が「終身雇用によるヒトの抱え込み×ヒラルキー型」を強力に実行し、
その中で労働者が忠誠心を組織に捧げて、
与えられるがままの仕事を真面目にこなしてきました。
労使を挙げて、コテコテの組織人が大量に生産された時代でした。

私は、組織人の意識自体、悪だというつもりはありません。
私自身、現在は個人で独立して事業を行なっていますが、
会社勤めのサラリーマンとして働いた17年間の蓄積があればこその独立です。

会社が過去から蓄えたノウハウを伝授してもらい、
会社の信頼度で仕事を広げ、人脈をつくり、
会社のお金で研修もさまざまに受けました。
組織人であることのメリットを感じながら、それを最大限活かしていく意識は、
むしろ奨励されるべきことだと思います。

問題なのは、組織人的な意識が、依存心と結びついた場合です。

組織のぬるま湯に浸かって、自分を磨くこともせず雇用され続けてきた“組織依存人”は、
バブル後の景気低迷時に大変な苦難に遭いました。 
この様子をみて学ぶべきは、
もし自分が「雇われる生き方」を生涯、選ぶのであれば
組織人としての意識と、仕事人としての意識のさじ加減を自分で司り、
依存心を排して、自律的に働く覚悟を決めることです。

**********

◆「出世」とは何か?
ところで、『出世』とはどういうことでしょうか?
よく、高業績を上げて、部長に出世したとか、社長に出世したなどといいますが、
社内の昇進の閉鎖的な話で、どうも矮小化した使い方の感じがします。

電通の元プロデューサーとして有名な藤岡和賀夫さんは
『オフィスプレーヤーへの道』の中の「“出世”の正体」という章で、
面白い表現をされています。

 「自分の会社以外の世界からも尊敬される、愛される、
 それは間違いなく『世に出る』ことであり、『出世』なのです。
 そこで肝心なことは、『世に出る』と言ったときの『世』は、
 自分の勤めている会社ではないということです。
  (中略)
 自分の選んだ会社を“寄留地”として、
 そこを足場として初めて『世に出る』のです。
  (中略)
 “寄留地”を仕事の足場として、ビジネスマンという仕事のやりかたで、
 もっともっと広い社会と関わっていくということが『世に出る』ということなのです」。

◆組織ローカルな人はつまらない
日本は、まだまだ、“組織ローカル”な世界観で働いている人が多い。

先日、韓国のあるIT会社のマネジャーから面白い話を聞きました。
その会社では、マネジャークラス以上の人間は、
少なくとも年に1回、業界のカンファレンスやビジネスエキスポなどで
講演やセミナーをしなければいけない、というルールです。
(実行できなければ、降格対象となるそうです)

社内の管理業務だけに閉じこもっているな、
社外に開いて、「この分野に○○社あり」「この分野に“誰々”あり」とアピールしてこい、
というもので、これは、いわば、
「組織内“仕事自律人”」をつくりだす姿勢として関心が持てます。

ところで、
私は、“組織ローカル”でしかも“テング(天狗)”になった担当者と商談をするときが、
一番、面白くない商談です。
そんなときは、法外な見積もりを出して、
「ご縁がありませんでしたね」と破談でもいっこうに構いません。

ですが、組織の枠を越え、発注側と受注側の垣根を越え、
一職業人対一職業人が、共感を持ち合って
この商品・サービスは、「確かに新しい価値を生み出しそうだ」と合意できるとき、
もうどんな契約条件でも「やりましょう!やらせてください!」となります。
私は、そうした“ビジネス・コスモポリタン”的な人たちと仕事を一緒にやることが好きです。
(*コスモポリタンとは、「世界市民」の意)

そしてまた、私自身も、ビジネス・コスモポリタンであるべく、
世界の同業者、世界の同世代には負けないぞという“競争”意識と、
そうしたビジネス・コスモポリタンたちと“共創”していきたいという意識でいます。

2008年6月15日 (日)

神谷美恵子『生きがいについて』

Photo このブログは「職・仕事を思索する」ことをメインテーマにしています。
その中で、「働きがい」はどうしてもはずすことのできない重大なテーマですが、
「働きがい」を考えるには、
そのもうひとつ奥にある「生きがい」を考えねばなりません。

きょうは、その「生きがい」を真正面からみつめた名著
神谷美恵子の『生きがいについて』(みすず書房)を紹介します。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

神谷美恵子(1914-1979)は、
生涯をハンセン病患者の治療に捧げたことで知られる精神科医です。
彼女は、ハンセン病の治療施設で数多くの患者と接し、
その病ゆえに絶望に打ちひしがれて生きる意欲をなくしている人々をみる一方、
それとは逆に、何らかの目的や望みをもって積極的に生きようとする人々をみた。

この本の冒頭部分で彼女はこのように書いています。

「平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえ
むつかしいかもしれないが、世のなかには、
毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとが
あちこちにいる。・・・・(中略)
いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。
ひとたび生きがいをうしなったら、
どんなふうにしてまた新しい生きがいをみいだすのだろうか。・・・・(中略)
同じ条件のなかにいてもあるひとは生きがいが感じられなくて悩み、
あるひとは生きるよろこびにあふれている。このちがいはどこから来るのであろうか」・・・

精神科医である神谷が、
「生きがい」という茫漠としながら、しかし極めて重大なテーマについて著すことの
動機を語った部分です。

私がこの本を他の人に薦めたい理由は、神谷美恵子という一人間が、
・張り詰めた臨床の場で全身全霊で受け止めた情報を
・哲学や科学の世界からの英知をたくみに組み合わせつつ
・慈しみ溢れる人間性で包み込んで

書き出した一冊であるからです。

「生きがい」などという甚大なテーマは、
“何が”書かれたかは、確かに大事ではありますが、それ以上に
“どんな人物”が書いたかが、決定的に重要です。
要領よく世間を成り上がった者が、「生きがい」「働きがい」について語ったところで、
何の説得力も出ませんし、
また、象牙の塔にこもった学者などが
学術的な理論のみできれいに語った「生きがい論」等もどこかパワー不足に陥ります。
その点、この本は書くにふさわしい人が、書くべき内容を、ずっしり書いたものです。

「キレのある本」、「面白い本」、「情報が濃密な本」など本にはいろいろな特徴が出ますが、
この本は、「強く賢い母性の本」であると思います。
そして「じーんと迫ってくる本」であるとも思います。
正直、地味で、読み解くのに力が要りますが、
自分が真剣に読み解こうとぶつかった分だけ、何かしらを与えてくれる本でもあります。
(名著とはそういうものです)

サクサク読めるお手軽な世渡りハウツー本が巷には溢れていますが、
こういった本を、突っ掛かり突っ掛かり、
著者の思想の壁をよじ登りながら読んでいくことが、実は
「生きる・働く」に悩む人に本当に必要な作業ではないでしょうか。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

神谷は、現代人が雑多な用事に忙しくし、
本当に大事なことを考え抱こうとする暇(いとま)を持たないことを危惧した。
そして、そんな中で生きがいの重要性やその難しさを述べる。

 「日常の生活は多くの用事でみちているし、その用事を次々と、
 着実にかたづけて行くためには、「常識」とか「実際的思考力」などという名の、
 多分に反射的、機械的な知能の処理能力さえあればすむ。
 あまりにゆたかな想像力やあくことなき探究心やきびしい内省の類は、
 むしろ邪魔になるくらいであろう」。

 「人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、
 人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない。
 しかし、ひとの心の世界はそれぞれちがうものであるから、
 たったひとりのひとにさえ、
 生きがいを与えるということは、なかなかできるものではない」。

 「生きがいというものは、まったく個性的なものである。
 借りものやひとまねでは生きがいたりえない」。

神谷は、生きがいを理解していくために、生きがいに似たものとして、
よろこびや充実感、使命感などのようなものの考察から始めていく。
そして、生きがいを生きがいたらしめるもの、よろこびをよろこびたらしめるものとして、
苦労や苦難、障壁など「負の力」を指摘している。

 「さまざまの感情の起伏や体験の変化を含んでこそ生の充実感はある。
 ただ、呼吸しているだけでなく、生の内容がゆたかに充実しているという感じ、
 これが生きがい感の重要な一面ではないか。
 ルソーは『エミール』の初めのほうでいっている。
 “もっとも多く生きたひとは、もっとも長生をしたひとではなく、
 生をもっとも多く感じたひとである“と。
 ・・・・あまりにもするすると過ぎてしまう時間は、
 意識的にほとんど跡をのこさない」。

 「人間が真にものを考えるようになるのも、自己にめざめるのも、
 苦悩を通してはじめて真剣に行なわれる。・・・苦しむことによって
 ひとは初めて人間らしくなるのである」。

 「ベルグソンはよろこびには未来にむかうものがふくまれているとみた。
 たしかによろこびは明るい光のように暗い未知の行手をも照らし、
 希望と信頼にみちた心で未来へ向かわせる。
 ・・・・(中略)よろこびというものの、もう一つきわだった特徴は、
 ウィリアム・ジェイムズも気づいたように、
 それがふしぎに利他的な気分を生みやすい点である。
 生きがいを感じているひとは他人に対してうらみやねたみを感じにくく、
 寛容でありやすい」。

 「使命感というものは多くの場合、はじめは漠然としたもので、
 それが具体的な形をとるまでには年月を要することが少なくない。
 ・・・(使命感とは)「自分との約束」をみたすものであったのだ。
 もしその約束を守らなかったならば、
 たとえ世にもてはやされても、自己にあわせる顔がなくなり、
 自分の存在の意味を見うしなったであろう」。

ひとたび生きがいを見出し、そのよろこびを獲得した人は、
静かであれ、急激であれ、心の世界の変革が起こる。
それは多分に宗教的体験に似ている
そのとき人は、深い次元で平安となり、利他的となり、「おおいなるもの」の存在を感じる。
神谷はそのあたりを例えばこのように記しています。

 「小さな自我に固執していては精神的エネルギーを分散し、
 消耗するほかなかったものが、
 自己を超えるものに身を投げ出すことによって初めて
 建設的に力を使うことができるようになる。
 これはより高い次元での自力と他力の統合であるといえる」。

 「変革体験はただ歓喜と肯定意識への陶酔を意味しているのではなく、
 多かれ少なかれ使命感を伴っている。
 つまり生かされていることへの責任感である」。

“シューキョー(宗教)”なるものが、ネガティブにとらえられている昨今、
私個人も、小生意気で不遜だった20代のころは、
「我々は生かされている」とか「摂理に通じる感覚」とか、
そんな言い回しがどうも抹香臭くて、素直に納得できない時期がありました。
(若い読者の中には、そう思われる方が多いかもしれません)

もちろんここで言っている宗教とは、
特定の形をもった宗教(教義、組織)ではなく、
万人が共通に感受しうる宗教的体験を指します。
(*「5段階欲求説」で有名なエイブラハム・マスローも、このあたりを
「至高体験」(peak experience)と名づけています)

そんなことを充分知っているのでしょう、神谷は慎重に言葉を選びながら、
古人の叡智を引用しながら、あるいは実験結果のような具体的な証拠を示しながら
この本の最終部分のペンを進めています。

生きがいのたどり着く先は、
利他的な使命観であり、おおいなるものと自己とが統合される体験である。
その体験は、人に心的な変革をもたらし、
人は真の心の平安を得ることができる。
真の平安とは、苦労や苦難がなくなることではなく、
たとえどんな苦労や苦難に直面しても、自分を能動的に支配し進んでいけるという
心的状態である――――私がこの本から得た結論はこうまとめられるでしょう。

神谷もこう言っています。
 「結局、人間のほんとうの幸福を知っているひとは、
 世にときめいているひとや、いわゆる幸福な人種ではない。
 かえって不幸なひと、悩んでいるひと、貧しいひとのほうが、
 人間らしい、そぼくな心を持ち、
 人間の持ちうる、朽ちぬよろこびを知っていることが多いのだ」。

2008年6月10日 (火)

「プロフェッショナルシップ」という人財育成の観点

◆「キャリアデザイン」が矮小化していないか
私は、いわゆる“キャリア教育”を研修化することを生業としています。
しかし、キャリアは、人の働き方・働き様・働き観に関することであり、
それを“教育する”という言葉が醸すニュアンスは、どうも気持ちが悪い。
だから、その言葉の使用はなるべく避けるようにしています。

で、通じのいい言葉に「キャリアデザイン」というのがあります。
組織・人事の世界で、
「当社はキャリアデザイン研修をやっています」といえば話が早い。
しかし、私はこれも極力避けています。
なぜか?―――――

それは、「キャリアデザイン」という概念・言葉が、最近、
矮小化の方向に引きずられているのを感じるからです。

「キャリアデザイン」が語られはじめた当初、
その言葉は、全人的かつ統合的に、職業人の営為を考察し、
そのよりよきマネジメントを方法論に落とし込もうとする
それなりの膨らみと新しい光を帯びたものでした。

ですが、そもそも「デザイン」という言葉自体が
かなりのレベル幅で意味が拡散したのと同様、
キャリアデザインもそうなることを宿命的づけられたように思えます。

◆「働くとは何か?」の核心に迫っていかない「キャリアデザイン研修」
人事の育成担当者の方々との会話で
キャリアデザインのことが話題に上がると、
「ああ、キャリアデザインですねー、ええ、大事でしょうけどねー・・・」
直接的な言葉にはしませんが、彼らの内に
遠まわしにネガティブな思いを含んだ反応を私はしっかり感じ取っています。

このような反応が起こっている背景には、
安易に設計されたキャリアデザイン研修の増加があります。

 ・学術的なキャリア理論の紹介(紹介に留まる)
 ・自己分析(何らかの自己診断テスト・強みと弱みの棚卸し等)
 ・計画表づくり

これら3点セットで1日研修。

これらの研修要素が悪いとは言いません。
(私も要素としては取り入れています)
確かにこれでキャリアデザインの何たるかは、“ある程度”理解させることができるかもしれません。

しかし、
いくら学術的なキャリア理論を紹介しても、
いくら精巧な診断ツールで自己分析させても、
いくら自分の強み・弱みをSWOT表に記入させてみても、
いくら丁寧に5年後、10年後のキャリアプランを立てさせてみても、

「よりよく働くとは何か?」「たくましくキャリアをつくっていくとは何か?」
の核心部分にはいっこうに迫っていかない。

おそらく、この核心部分に迫っていかないモヤモヤ感が、一種の不満感となり、
先の人財育成担当者たちの声になっているのではないでしょうか。
「キャリアデザイン研修」なるものは、いま、
お手軽な「キャリア教養講座」へと拡散してしまっているように私には見えます。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

◆「つくりにいくキャリア」と「できてしまうキャリア」
「5年後のあなたはどうなっていたいですか?」、
「5年後のキャリア目標とその実行プランを立ててみましょう」―――――
キャリア研修でよく行なわれるこの手の質問やワークは、有意義ではあるが、
使い方によってはまったく意味のないものになる。

確かにキャリア形成は、計画を立て、そのとおりに進めていくのが大事である
という面があります。
しかし、キャリア形成は、人生という旅の一部であり、
旅には不測の出来事や想定外の道にはずれることが往々にして起こるように
そう易々と計画し得る営みではない。
計画し得ないからこそ、人生は奥深いし、面白い。
人生から、偶発による“ゆらぎ”の作用をなくしたら、
それは初速度と打ち出し角度の数値さえ与えれば、計算によって着地点が決まる
物理運動になり落ちてしまう。

私は、キャリアづくりはJAZZ音楽に似ていると思っています。
JAZZ演奏は、即興性を基とするがゆえに、
一瞬先の空白の未来に向かって、一音一音、
演奏者が全身全霊を込めて仕掛ける、その連続により曲が成立します。
JAZZの名演奏というのは、
その日の演奏メンバーの調子と聴衆のノリが見事に反応し合った場合に、
“結果的”に生じます。
JAZZにおいては楽譜どおりに演奏しても何も面白くないのです。

個々のキャリア形成も同じです。
そこには、「意図的につくりにいくキャリア」と
「結果的にできてしまうキャリア」
の両方の面があります。

もちろん子供の頃に「宇宙飛行士になりたい」とか「医者になりたい」とか、
具体的に夢や目標を立てて、着実にその進路上で駒を進めていく人たちはいます。
しかし、同時に、
「当初Aの山を目指していたが、登っているうちにBの山になっていた。
Bの山もまんざらではないよ。
でも、もしかしたらこの先、また別の山が見えてくるかもしれない」
という人もいます。むしろ、こちらのほうが世の中では多数でしょう。

例えば私自身のキャリアも、後者の典型例です。
私は、大学卒業後、「新しいモノを創造して世の中に提案したい」という想いから、
メーカーに就職をし、商品開発・マーケティングの分野でキャリアをつくっていきました。

しかし、20代後半から
働く想いが「価値のある情報を創造し世の中に届けたい」という方向に変わり、
結果、出版社に転職をし、
そこからジャーナリズム分野でのキャリアをスタートさせます。

そして、30代半ばからは、さらに想いが
「人の向上意欲を支援する情報・サービスを創造したい」という方向性に変化し、
人財教育の分野にキャリアチェンジを図りました。

私はいま、とても満足のいくキャリアを進行中ですが、
現在、自分が教育分野で仕事をするなんぞは、決して予想できなかったことです。
20代や30代前半のころ、
いくら自己分析をして、キャリアのプランシートを書かされたとしても、
教育の「きょ」の字も出るはずがない。

私のいまあるキャリアは、意図的につくりにいったものではなく、
むしろ、結果的にこうなってしまったものだからです。

だから、いま、キャリアデザイン研修なるものでやられている
自己分析やキャリアプランシート作成が、
分析のための分析ワーク、
プランのためのプランワークであるならば、それは意味がないと思うのです。

◆キャリア形成は「計画のあるなし」ではなく、「想いのあるなし」が要
私は研修で、「キャリアはある意味、行き当たりばったりでいい」と言っています。
それくらいオープンマインドでいたほうが、キャリアはどんどん開くからです。
想像のつく範囲で、こぢんまりと計画を立てて、
それで安心安住することは、結局、
自分の可能性を狭めることにつながりかねません。

「想定の範囲内に収まっている自分の未来」など何が面白いか、です。
(ポジティブな意味で)
「5年後の自分はどうなっているのか予想がつかないのが楽しみ」
というくらいの人生のほうが健全であるとも思います。

しかし、このことは、無防備に漫然と運任せにキャリアを過ごしてよい
と言っているのではありません。
力強いキャリア形成には、決定的に「目的」が必要です。
しかし、いきなり目的を明確に得ることのできる人はそう多くありません。
ですから、まずは「想い」を持つことからはじめればよいのです。

「想い」とは、“方向性と像”です。
当初は漠然とでも構わないので、自分が進みたい方向性を持つ。
その方向性でいろいろと行動で仕掛けると、だんだんその先の像(目標イメージ)が
見えてくる。そして、その見えてきた像は、方向性を修正し、強化する。
すると、像がまた、より鮮明になってくる。
そして、そのうちに、自分の中でそれを目指す意味も伴ってくる。

「目的」=「方向性×像」+「意味」

という分解式を私は使っていますが、
これらの要素は、互いに連鎖しながら、あいまいから明確化の流れをつくっていく。
この式の中で、最初の重要な一歩は、方向性=「想いを持つこと」です。

評論家の小林秀雄は『文科の学生諸君へ』の中でこう述べています。
 「人間は自己を視る事から決して始めやしない。
 自己を空想する処から始めるものだ」
と。

キャリアをたくましく拓くためには、
小林の言うように、「己を空想(妄想でもいい)すること」です。
その空想が、現実の自分をいかようにでも引っ張り上げてくれるからです。

また、その空想を実現化しようとするとき、自分の中で、
過去に培った知識・技能を新しい角度で再構築しようとし、
不足している知識・技能をどんどん吸収していこうとする意欲が湧き起こる。
この未知の世界へ開いていく能動的なダイナミズムこそ
キャリア形成の核心部分のひとつです。

こうした部分を欠いたまま、
自己分析やプランシートの作成それ自体を目的化して作業させる、
そんなキャリアデザイン研修が増えている点を、私は指摘したいのです。

・自分の「想い」はどこにあるか
・「想い」を描くにはどうすればよいか
・「想い」を体現するとはどういうことか
・「想い」を仕事に変えている人は周囲にいるか
・個人の「想い」と、組織の「想い」をどう重ねることができるか・・・等々、
こうした「想い」に関することを研修プログラム化することは、非常に難しい作業ですが、
ここを正面から照射しないものは、やはり不充足プログラムだと思います。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

◆プロとしての働く基盤意識「プロフェッショナルシップ」
ヤンキースの松井秀喜選手の母校である星陵高校野球部の部室には
次のような指導書きが貼ってあると聞きました。
 「心が変われば行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。
 習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。

これはまさに、一般のビジネスパーソンにもそのまま当てはまることです。

冒頭、私は、キャリアは人の働き方・働き様・働き観に関することだと書きました。
そして、キャリアは「想い」を持った後の奮闘の結果、
何かしらできてしまうものでもあると書きました。
ですから、つまるところ、キャリア教育とは、
日々の働くことに向き合う「意識づくり」の啓育である――――
それが、私の今の認識です。

私は、プロフェッショナルとしての働く基盤意識を「プロフェッショナルシップ」と
名づけています。

06006a

このプロフェッショナルシップ(Ⅱ)は、
各自の専門性能力(Ⅰ)がうまく発揮されるベースとなるもので、
具体的には、プロとして働く基礎力、態度、習慣、マインド、価値観が含まれます。
また、Ⅰ・Ⅱによって成された行動や仕事実績、あるいは習慣といったものが、
中長期に蓄積することにより、キャリアが形成(Ⅲ)されます。

先の星陵高校の指導にあった「心を変える」とか「習慣を変える」の
“心・習慣”の部分を、すなわち私は“プロフェッショナルシップ”と考えます。
キャリア教育を施すにしても、各種の専門技能訓練を行なうにしても、
この基盤意識の醸成をないがしろにしては、その効果が限定されるでしょう。
また、効果が歪むことすら起こりえます。

キャリアデザイン研修なるものの矮小化問題は、
キャリア形成の部分だけを切り出して、基盤意識の部分に手を入れることなく、
技巧的に取り装った研修メニューのみが施されることに原因があります。
(これは技能訓練にも同様の問題があります)
(だから、技能でっかち、知識でっかちの人間ができあがる)

私は、キャリア教育はそれのみを切り出すのではなく、
プロフェッショナルシップという基盤意識を醸成するプログラムの一部として
それを扱うことが最も自然であり、いきいきとした効果が出ると考えています。

プロフェッショナルシップという概念の具体的な内容を
私は下図のように考えています。

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・自立性/自律性/自導性とは何か
・指導性/協働性と/育成性とは何か
・変革性/創造性/賢慮性とは何か

こうしたことを腹で理解して、原理原則イメージとして意識の基盤に置くこと、
その文脈の中で、キャリア形成をとらえる――――
私の展開しようとするキャリア教育の考えはそういうものです。

いずれにしても、ビジネス社会が複雑化するにつれ、
働く人びとの漂流観、喪失感、不安感、倦怠感は増し、
同時に、不正や不祥事などモラルハザードの問題も増しています。
働き方・働き様・働き観にまつわることが混迷している状況下、
「働くこと」の教育は、もっともっと切磋琢磨されたサービスが多角度で立ち上がり
世の中に提案されることを当事者として願っています。

2008年6月 9日 (月)

職業倫理の原点:『ヒポクラテスの宣誓』

昨今、民間企業、公的機関の別を問わず
不正・不祥事、犯罪的営利行為、非倫理的行為などのニュースが絶えることがない。

その原因は、
組織ぐるみのものもあれば、
一従業員や一管理者、一経営者によるものもある。

しかしいずれにしても、その根本は、
一職業人の中の
職業倫理欠落(あるいは欠陥)にあるといえるでしょう。

“倫理”などという抹香くさいテーマは
いまどきはやらないわけですが、
私は職業訓練・キャリア教育に携わる身の上でもあり
あえて声高に仕事上で折々に触れています。

なぜなら、誰しも働く上でこの倫理の問題を避けて通ってはいけないのは
「倫理を誓う」ことが
「プロフェッショナル」の原義
でもあるからです。

◆プロフェッショナルとは“宣誓する人”
「プロフェッショナル」という言葉は、現在では多義に拡大され
いささか大安売りされている感がありますが、
もともと「プロ」と呼べる職業は極めて限定的でした。

ジョアン・キウーラ著『仕事の裏切り』(原題:The working Life)によると、
プロフェッショナルという言葉は、もともと
“profess”=宗教に入信する人の「宣誓」からきていて、
やがてそこから、厳かな公約や誓いを伴うような職業をプロフェッショナルと呼ぶようになったといいます。

中世に存在した数少ないプロフェッショナルは、
聖職者や学者、法律家、医者だったわけですが、
彼らの仕事の特徴は、
仕事における(個人や組合・協会の)自律性と
私欲のない社会奉仕精神・公約の精神です。

プロフェッショナルの仕事は無報酬を理想とし、
「お金をもらう仕事をする」のではなく、
仕事をするために必要な経費を補填してもらうという意識が原則だったのです。

したがって、社会学者のタルコット・パーソンズはわずか50年前の著書で
「(こうしたプロフェッショナルの厳格な定義に照らすと)
企業管理者は決してプロになれない」と主張しました。
なぜなら、企業におけるビジネスマンは、
基本的に利己的行動に走らざるをえないからです。

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◆我欲を排し、利他を誓う『ヒポクラテスの宣誓』
欧米の医学会では、
今でも、医師になるときに『ヒポクラテスの宣誓』を行なうしきたりを残していると聞きます。

ヒポクラテスは、紀元前400年ころに活躍した人で、
ソクラテスやプラトンと同世代のギリシャの偉人の一人です。
「人生は短く、学芸は永し。
好機は過ぎ去りやすく、経験は過ち多く、決断は困難である」
との有名な言葉は、彼のものです。

ヒポクラテスは、当時の医術の発展に多大な貢献をしただけでなく、
後世の医の倫理の礎を築きました。

彼は多くの著書を残しましたが、『ヒポクラテスの宣誓』は、
その中の、通常、「誓い」と表題された短文を指します。
彼はその中に、医師の戒律・倫理を明言しています。

全文はここに示しませんが、
ネット検索をすれば、どこかに掲示されていると思いますので
それを一度参照されることをお勧めします。

『ヒポクラテスの宣誓』は、要は、
冒頭、医神であるアポロン、アスクレピオスらに誓いを立てる文面からはじまり、
医を志す際の師弟の誓い、
そして医師として、患者第一とする利他的で我欲を排する誓いをするものです。

現代の資本主義下におけるビジネスで、
利益追求が悪だとか、利己主義が悪だとかを言うつもりは私にはまったくありません。

ただ、プロフェッショナルを標榜する人たちはもちろん、
すべての働き手たちが、『ヒポクラテスの宣誓』にも似た
おおいなるヒューマニズムに基づいた仕事倫理、信条を思い描き、誓うことを
基盤行為としてやってほしいと願うのみです。

◆精神のない専門人と心情のない享楽人
しかしながら、人間が我欲を抑えて
功利主義や保身主義にみずから抗することは、時代を越えて難しいことのようです。

孟子は、
「義を後にして利を先にするを為さば、奪わずんばあかず」
(義を後回しにして、まず利益を追い求めるということになると、
結局、人は他人のものを奪いつくさないと満足しなくなる)
と古くに説いていますし、

また、マックス・ヴェーバーは、
1905年の大著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾において
資本主義の興隆で跋扈し、うぬぼれるのは
「精神のない専門人と心情のない享楽人」であると予見しています。
しかも、ヴェーバーはこれら2種の人間たちを
“ニヒツ”(=無なるもの)と言い放っているところが、切れ味のある点です。

精神のない専門人が、プロフェッショナルとして多量になりすぎると
ビジネスは単なる「利益追求ゲーム」と成り下がり
夢と志に燃えてやっている人々が面白くなくなるばかりか、
経済が本来、“経世済民”として持っている
「民を救う」という使命・目的が喪失されてしまいます。

だから、私は、みずからのキャリア教育事業のプログラムの中で
『ヒポクラテスの宣誓』を引用し、
クラスで多少のディスカッションをするようにしています。

そして、何よりも、
まっとうな仕事の倫理・思想・哲学を持った経営者や働き手が
若い世代のロールモデルとして社会や各組織で活躍し、
高い道徳観を持つことがカッコイイのだという暗黙の認識を浸透させることこそ
嫌な潮流を変える大きな力になるものだと思います。

「プロフェッショナル」の原義は、“profess”(=宣誓する)。
プロが宣誓をなくしたとき、それは単なる「○○屋」でしかないのです。

【参考文献】
・ジョアン・キウーラ『仕事の裏切り』(中嶋愛訳・金井壽宏監修)翔泳社
・ヒポクラテス『ヒポクラテス全集 第1巻』(大槻真一郎編集・翻訳責任)エンタプライズ

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