2008年7月27日 (日)

ゲームの3人 ~枠の中の人/枠をつくりなおす人/枠をはみ出す人

◆飲み会から足が遠のく
仕事関連の人たちと事業や仕事に関して語らう場は、
アイデアミーティングやらランチ商談やら、飲み会といろいろあります。
近年、私は、どうも会社員(特に大企業勤め)の方々とのミーティングや飲み会に関して、
どんどん足が遠のくばかりです。

それに代わって、
独立自営業者やベンチャー・起業系の方々とのミーティングや飲み会は
楽しいものがあり、「いっちょ、行ってみるか」という気が湧きます。

それは何故か・・・?
それは、自分の立ち位置が変わったからです。

5年前まで私もとっぷり大企業の中のサラリーマンをしていました。
そのころは、企業という一種守られた“釣り堀”の中で
上手に釣りをしていればよかったのです。

しかし、今は、個人自営業者として、囲いのない大海原に小船ひとつで出て、
独りで漁をする身となりました。

企業がやらないことを商品・サービスとして生み出していかないかぎり
受注はどこからもない。
つまり、既存の枠の中では、食う種がない。
いやがうえにも既存の枠の外に出て、食う種をつくり出さねばならない状況です。

◆3人の達者
ゲームには3人の達者がいる。
第1の達者は、決められたルールの中で優秀な成績をあげる「グッド・プレーヤー」。
これは、「枠の中の人」です。
ここではさほどのリスクは生じません。

そして第2に、ゲームルールをみずから改良していって
ゲーム自体をさらに面白くしようとする「ルール・メーカー」。
これは「枠をつくりなおす人」です。
ここでは相応のリスクが生じます。

第3は、そのゲーム盤の外に出ていって、そこに
全く違うゲームをつくってしまう「ニューゲーム・クリエーター」です。
これは「枠をはみ出す人」です。
これをやろうとすると、かなりのリスクを背負わねばなりません。

◆「グッド・プレーヤー」ごっこがよく見える
私も17年間のサラリーマン時代はそうでしたが、
どうも企業の勤め人というのは、既存の枠の中で、
いかに比較相対で成果を出して認められるか、
いかに後ろ指刺されないよう給料分働くか、
いかにそこそこの年収と立場を確保していくか、などが意識の中心になりがちです。
つまり、「グッド・プレーヤー」ぶることに腐心する日々。

私は、すでに枠をはみ出たところで、
泥臭く「ニューゲーム・クリエーター」に立ち位置を変えたために、
サラリーマン諸氏の「グッド・プレーヤー」ごっこがよく見えてしまう。
だから、飲み会などがつまらなくなったんでしょう。

もちろん、
企業内のサラリーマンすべてが、枠の中でモゾモゾ動いているだけとは言いません。
中には、企業内起業で意識を高く持って頑張る人もいれば、
血の気がありあまって、スピンアウトする人も大勢います。
(私はそういう人をみると敬服します)

いずれにせよ、3人の達者のどれを志向するかはその人次第。
釣り堀で10匹、20匹釣り上げることが楽しいという人もいるし、
独り海に漕ぎ出でて、たとえ1匹も釣り上げられないことがあっても
それこそが釣りの醍醐味という人もいる。
幸福観は人それぞれです。
そして味わう幸福の質と量も人それぞれです。

2008年7月22日 (火)

情報少なにして知恵豊か(less information, more wisdom)

07007 ◆情報を取らないという静寂さ
昨日、10日ぶりに東京に戻りました。
この10日間、共同プロジェクトのディスカッションと諸々の仕事片付け、
そして夏の小旅行を加え、
長野県の白馬と山梨県の小淵沢に滞在しました。
東京で猛暑日・熱帯夜が続く中、
私は標高1000mに身を置き、エアコンなしの昼夜がとても快適でした。

私が東京から身を離して、山か島に拠点を設けて仕事をするとき、
快適なのは、自然環境だけではありません。

「情報が極端に少なくなることの快適さ」も忘れてならない要素です。

新聞も読まない、
テレビのニュースも見ない、
メールチェックも朝晩2回、
携帯電話は出ない(というか、かかってもこない)・・・・
これだけで、どれほど生活が快適になることか。

10日ぶりに帰った自宅オフィスの玄関には、
留守中の新聞(朝日と日経の2紙)がどっさり溜まっている。
私は、一切読まず、そのまま縄でくくってゴミ出ししてしまいます。
・・・一種の快感です。

◆情報量が増えて人は幸せになったか?
情報建築家のリチャード・S・ワーマンが著した
『情報選択の時代』(松岡正剛訳)には、次のような書き出しがある。

 毎週発行される一冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、
 一七世紀の英国を生きた平均的な人が、
 一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている。

私たち現代人は、かくも情報を膨大に、しかもたやすく摂取できる時代を生きている。
しかし、私たちは、その情報摂取量によって幸福になれたかといえば、
どうもそうではない。

単に情報を量的に摂取することが無意味であることを、賢人たちはいろいろな言葉で語っています。

 ・「他人の知識で物知りにはなれるが、他人の知恵で賢くなることはできない」
  (モンテーニュ)

 「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけなのだろう」
  (小林秀雄)

 「知識より想像力が大事である」
  (アインシュタイン)

先のワーマンの著書『情報選択の時代』の原題は、
“Information Anxiety”(情報不安症)です。
つまり、情報をいつも十分に摂取していないと不安にかられるという
現代病を表しています。

私もかつてはこの情報欠乏不安症でした。
しかし、状況が変わったのは、1年間の米国留学でした。
シカゴに住んでいるとき、日本の情報は、
ケーブルテレビで見る毎晩の7時のNHKニュース30分のみでした。

それだけの情報でも、生きていくのに全く問題はありません。
むしろ心地よくさえありました。
それ以来、今では、情報を遮断してもなんてことはありません。不安も感じません。
(しかし、情報に無関心でいるということではありません)

情報・知識は何かの目的のための手段です。
その目的を考えるのは、英知や意志、人生観の範疇の問題です。
これは必ずしも、情報摂取量に比例して強くなるものではありません。

私は、この10日間の山滞在で、世間の情報はほとんど摂取しませんでしたが、
生きる方向性を堅固にする出会いや見聞、内省の時間をたくさん得ました。
そういった意味では、とても中味のある10日間でした。

変化の時代であればこそ、
「情報少なにして、知恵豊か」(less information, more wisdom) となる時間
あえて設ける必要があるのだと思います。

2008年7月 8日 (火)

イメージは力を生む

◆人は坂に立つ

――――「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。
                      アンリ・ベルグソン『創造的進化』より

この言葉を読んで以来、私は、人は常に坂に立っており、
その傾斜を上ることがすなわち「生きる」ことだと考えています。

たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけです。
なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、
高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからです。

ですが、生命は、そのエントロピーの傾斜に逆らうように、
何かを形成していく努力を発する。
哲学者の三木清が「生命とは形成作用である」と表現したのもこのことだと思います。

◆プッシュの力・プルの力

さて、坂を上っていくには、自分を押し上げる力が必要です。
私はその力に2種類あると思っています。

1つには「ガマン・プッシュの力」です。
これは、義務感や責任感から出る力で、自分で自分を押す力です。
そしてもう1つは、「ドリーム・プルの力」。
これは、自分の理想像(夢や志といったもの)を具現化しようと
内面から湧き出てくる情熱で、目的イメージが自分を引っ張り上げてくれる力です。

01006

◆プッシュの力を出し枯れた成果主義現場

私はさまざまな企業、団体でキャリア開発研修を行なっていますが、
受講者のみなさんは日々の仕事に本当に疲れている様子です。
なぜか――――?

おそらく「ガマン・プッシュ」疲れなのだと思います。
組織の課してくる業務目標(=坂の傾斜)に対し、やりきらなくてはならないという
義務感・責任感で自分で自分を押してきたのですが、それにも限界がある。
もう絞り出せないところまできてしまっているのでしょう。

ですが一方には、同じように課された厳しい仕事をしぶとくこなし続け、
いっこうに疲れをみせない人もいます。
おそらく、その人は「イメージ・プル」をうまくやっているのだと思います。
組織が課してくる目標を、自分自身の働く目的イメージの中でうまく位置づけし、
内面からエネルギーを湧かせているのです。

昨今、成果主義の反省がなされていますが、
その際、成果主義自体を全否定するという観点ではなく、
その導入・運用のしかたに問題がなかったかという観点で議論されるべきだと
私は思います。

◆いかに業務目標を人生の目的の中に描き落とすか

人は、自分の行動に目的を持ち、理想イメージを描くことができれば、
むしろ成果を出したがる状態に変わるものです。
ロッククライマーのように激しい傾斜をも楽しんで上ろうとします。

企業が従業員に課す目標は往々にして定量的な数値になりがちです。
その数値目標をいかに、個々の働き手が、
各自のキャリア・人生における定性的な目的の中に描き落とすことができるか、
そうしたイメージング能力こそ、このストレスフルなビジネス社会を
渡り歩いていくための必須のものです。

そしてまた、企業側も、
そういうイメージづくりの支援や研修プログラムに着目しなければなりません。

私が行っているキャリア開発研修でも、この「イメージする」ことを重要視しています。
一般的なキャリア開発研修で主に行なわれている自己分析ワーク
(例えばアセスメントテストやSWOT表分析)、
将来のキャリア計画表づくりからは、エネルギーを湧かせることはできません
イメージを自分の中に据えることこそ、
坂を上っていくエネルギーの源泉になりえます

キャリアの長い道のりは、坂道マラソンです。
これからは、自分なりの大いなる目的を描く者と描かざる者の間で、
キャリア・人生がくっきり分かれるという二極化が進むと思います。

目的をイメージし、
エネルギーを無尽蔵に湧かせながらキャリアマラソンを楽しむ人たちと、
目的イメージを持たないがゆえに現状のストレスにあっぷあっぷで、
将来に不安を抱えながら走る人たちと。

2008年7月 4日 (金)

金儲けは目的か手段か・・・それとも?

◆「血のために生きています!」・・・?
例えば、これをお読みいただいているあなたが、いま、自分の会社を経営して
何人かの従業員を雇用していると想像してみてください。

そのとき、従業員に「なぜ君は働いているのか?」と質問し、
返ってきた答えが「生活のために働いています」だったら、
経営者(社長)のあなたは、さぞ、がっかりするのではないでしょうか。

では、次に、「あなたの会社の目的は何ですか?」と問うたとき、
どうお答えになるでしょうか?

・・・「そりゃ決まってるよ、会社は事業体だもの、利益の追求だよ。
会社を存続させ、従業員を雇用していくためには金儲けが根本でしょ」

お答えになる場合が多いのではないでしょうか。

ですが、これもどこかしら残念な答えのように思えます。

カネ(金)は、経済の世界では血液のようなものです。
人間の体は、血液が常に流れてこそ生命を維持でき、さまざまな活動が可能になります。
血の流れが止まれば、当然、人体は死を迎える。
それと同じように、経済活動の血液であるカネの流れは、
個人生活、あるいは事業体存続の生命線を握っている。

しかし、だからといって、私たち人間・事業体は血のために生きるのでしょうか?
「サラサラの血をつくるために、日夜がんばって生きています」
なんていう人がいたら、やはり、その生き方はどこかヘンです。

人間の生き方として大事なのは、結局その身体を使って何を成したかです。
血は、肉体を維持するための“条件”であって、“目的”とはならない。

◆利益は「条件」である
ここにきて、ピーター・ドラッカーの次の言葉はいやまして光彩を放ちます。

 「事業体とは何かを問われると、
 たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。
 たいていの経済学者も同じように答える。
 この答えは間違いだけではない。的外れである」
 「利益が重要でないということではない。
 利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」。

                    ・・・『現代の経営』より

ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他で述べています。
その真の目的を成すための基本「条件」として利益が必要だと、
そう言及しているのです。

利益追求(金儲け)をどう考えるか。
松下幸之助や渋沢栄一は、何と言ったでしょうか。

 「本質的には利益というものは、
 企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。

                ・・・『実践経営哲学』(松下幸之助)より

 「徳は本なり、財は末なり」。
 「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。

                         ・・・『論語と算盤』(渋沢栄一)より

◆利益は「報酬」である
松下幸之助は、ご存知のように、独自の『水道哲学』を強く抱いていました。
松下にとって事業の主目的は、
豊かな物資を通して人びとの暮らしを幸福にさせることであり、
副次的な目的としては、雇用を創出し、
税金を納める(=社会を強く安定させる)ということでした。

そして、そうした目的(松下は“使命”と言っていますが)を果たした結果、
残ったものが利益であり、それを事業者・経営者は報酬としていただく
という考え方でした。

また、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、
財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものであると言いました。
仁義道徳に基づいた目的や、その過程における努力こそが最も大事であって、
その結果もたらされる財には固執するな、
無頓着なくらいでよろしいというのが、渋沢の思想です。

実際、渋沢は、彼自身、一大財閥を成せるほどの大活躍をしましたが、
亡くなるときは、必要分のわずかな財産しか残していませんでした。


利益追求・金儲けを、個人も事業体もどのように位置づけるかは自由です。
目的にもなりえるし、手段にもなりえる。
また、条件、あるいは成果・報酬・恵みにもなりえます。
おそらくはそれらの要素の混ぜ合わせかもしれません。
要は、どこに比重をおくかでしょう。

・「この会社で働く目的は、担当業務を通して、●●を実現させることだ」
・「自分の夢である●●をかなえるために、この会社は良質の体験機会を与えてくれている」
・「この会社の事業理念に共感して入社した。実際、その理念は仕事を通じて、顧客・社会に届けられている実感がある。給料は安いが、ここで働けてよかったと思う」
・・・こうした声を発せられる働き手は幸せな従業員ですし、
同時に彼らを雇っている会社も幸せです。

カネだけでつながる個人と会社はどこかしら不安定で不健全だと思います。
「いかに働くか」は、「いかに目的を持つか」に尽きると言っても過言ではありません。

2008年6月27日 (金)

「道」としての経営・「ゲーム」としての経営

いまや朝青龍関をめぐる横綱品格論議は、世間を二分するほどの話題になりました。
街の声は、
「結局、真剣に反省していないんじゃないの。横綱として問題あり」というものと、
「やっぱり強い横綱がいればこそ場所が盛り上がる」というものとで、
完全に分かれています。

私個人の中でも、
やはり横綱たる者、相応の品格を備えてほしいという思いと、
多少破天荒で逸脱したキャラであっても
強くて魅力的な取組を観せてくれるならそれでよし、という思いが微妙に交錯します。
(いずれにしても私は、朝青龍関より相撲協会と現行の相撲システムを問題視します)

巷においても、また一個人の中においても
これら2つの相反する思いにかられるのはなぜでしょう?

◆求めるものが異なる「道」と「ゲーム」
それは、相撲という日本の伝統競技を
相撲道=「道」とみるか、
相撲スポーツ=「ゲーム」とみるか

の観点で思いが違ってくるからだと思います。
(*ここでの「ゲーム」とは、遊興としてのゲームよりももっと広い意味です)

「道」とは、
 ・真理会得のための全人的活動であり、
 ・そこには修養・鍛錬・覚知があります。
 ・最上の価値は「観を得る」ことにあります。
 ・道を行なうには、明快なルールはありません。
  しきたりや慣わし・型・格・美を重んじ、
  その過程における世俗超越性・深遠性が行者を引き込んでいきます。

他方、「ゲーム」とは、
 ・他者と勝敗を決するための能力的(知能・技能)活動であり、
 ・そこには競争・比較・優劣があります。
 ・最上の価値は「勝つ」ことにあります。
 ・ゲームには、ルールがきっちり設定されています。
  そのルールの下で合理的、技巧的、戦略的なやり方を用い、
  客観的に定量化された得点を他者よりも多く取ったほうが勝者です。
  そのときの優越感、征服感がプレイヤーを満足させます。

道とゲームとは、微妙に似通っていながら、
よくよく考えると両極のものであるようにも思えます。

朝青龍をめぐる二分する思いも
「道としての相撲」観点からすると、横綱失格→残念・けしからんとなり、
「ゲームとしての相撲」からすると、強いプレイヤーの存在→ガンバレ!となるわけでしょう。

今後、朝青龍関が相撲道を究めて、品格を備えた横綱に成熟していくのか
単に強い力士として相撲ゲームを面白くするプレイヤーに留まるのか
(それともK-1など他の格闘ゲームに戦場替えするのか)
そこは本人次第といったところでしょうか。

ところでその一方、
毎度の場所でひときわ人気を集めているのは角番大関・魁皇です。
相撲ファンが魁皇関を応援するのは、もう勝ち負けということより
カラダがボロボロになってもひたむきに相撲「道」を求めようとする
その姿だろうと思います。

ボロぞうきんになるまで現役にこだわり続ける。
それは、三浦カズ、桑田真澄、野茂英雄もそうです。
彼らはすでに肉体的なピークを過ぎ、
ゲームプレイヤーとしての最上価値である「勝つこと」からはどんどん遠ざかっています。
しかし彼らは、サッカー道、野球道を求めてやまない。
そんな姿もまた、日本人の心のヒダに染み入ってくるものがあります。

◆「よい経営者」とは?
さて、ここからがきょうの核心部分です。

「道」なのか、それとも「ゲーム」なのか・・・
それは“経営”にもいえることだと思います。
(ここでの“経営”とは、特に企業・ビジネスの経営をいいます)

私がかつて出版社でビジネス雑誌の編集をやっていたころ、
年間で100人近い経営者やビジネスのキーパーソンにインタビューをしていました。
そこで感じたのは、
経営を「ゲーム」(=利益獲得競技)ととらえている人がとても多いということでした。
経営は「道」であるとハラを据えてとらえている人はきわめて少ないと思います。
(もちろん一人の経営者の中で、経営は道かゲームかというのは、
白か黒かという立て分けではなく、あいまいなグレー模様でとらえるわけですが)

「よい経営者」とは、どんな経営者でしょうか?
・・・・この問いの答えは、千差万別に出てくるでしょう。
(それは、「よい横綱」とはどんな横綱ですかと問うのと同じように)

「経営はゲームである」という観点に立てば、
斬新な経営手法を考えつき、利益をどんどん創出し、
その会社を勝ち組にしてくれる経営者がよい経営者でしょう。
ただ、その金儲けの際、法律スレスレの手を使っている、あるいは、
従業員を大事にしない、社長室がやたら豪華で私的に交際費をつかう、
などの状況だったらどうでしょう、、、

相撲ゲームの世界においては、「ともかく強けりゃイイ・許せる」といって、
私たちはやんちゃな横綱・朝青龍関を見守ることができます。
では、経営というゲームの世界において、
人格的資質やその経営手法に問題のある経営者をして
「ともかく利益を出せりゃイイ・許せる」となれるかどうか。。。

私はビジネス雑誌の取材で、ときどき、中小企業も訪れました。
確かに、金儲けはヘタかもしれないけれど、
堅気に自分の商売を貫き、時代に対応する努力を惜しまず、
従業員の雇用を守ることに一所懸命な経営者も世の中にはいます。
「経営は道である」との観点に立てば、
それはひとつの「よい経営者」であると思いました。

◆経営がゲーム感覚に偏ることの弊害
私は、経営の勉強もしましたし、現在も自らのビジネスの経営を行なっている身ですので、
「経営は道なり」という美辞麗句で利益志向を排除するつもりはありません。
ただ、経営者の利益志向が、利己的な拝金主義に陥っている状況を気にかけるものです。

昨今の企業の不祥事の数々、
チキンゲーム化するマネー投機合戦、
陣地取りゲームに堕するM&A、等々、
これらはいずれも、経営が「ゲーム感覚」となり、
「儲けりゃいいんでしょ」「勝てば官軍でしょ」のような思想が蔓延しているところに起こっています。

加えて、経営の内実を問わず、
結果的に儲けた経営者をビジネスヒーローとして簡単にあおるメディアの軽率さも目に付きます。
さらには、投資家・株主の間断なきプレッシャーもあります。
経営者に品格があろうとなかろうと、
ともかくゲームに勝て、株価を上げろ、配当を上げろ、のプレッシャーです。

真に優れた経営者というのは、
経営を「ゲーム」と「道」との間で適度なバランスを保つことができる人だと思いますが、
現在のビジネス世界においては、
そのバランスが不健全に「ゲーム」に偏っているように感じます。

資本主義経済という一大システムが織り成すゲームは、実に複雑で巧妙です。
だからこそ経営というゲームは面白くてたまらない。
勝てば勝つほどに、富が手に入り、その富は(このシステム下では)また富を生む。
富はさまざまな欲望も満たしてくれる。
逆に言えば、貧はますます貧を呼ぶ。
資本主義下のゲームは、その意味で“暴力的”といえるでしょう。
ゆえに、経営には一方で「道」というものがいる。

◆資本主義に徳はあるか?
アンドレ・コント=スポンヴィル著の『資本主義に徳はあるか』(紀伊国屋書店刊)は、
きょうのこうした点を考えるにあたっては、是非おすすめの1冊です。

ソルボンヌ大学で哲学の教鞭をとる彼は、同著で道徳と経済の関係を省察していますが、
著書タイトルに対する彼自身の答えを紹介しましょう。

 「価格を決定するのは道徳ではなく、需要と供給の法則の役割です。
 価値を創出するのは、徳ではなく、労働です。
 経済を支配するのは、義務ではなく市場です。
  ・・・・(中略)・・・
 『資本主義に徳はあるか?』という私の問いに対する解答は、
 “否”ということになります。
 資本主義は道徳的ではありません。
 ましてやそれは反道徳的ではありません。
 資本主義は、―――全面的に、徹底的に、決定的に―――非道徳的なのです」。

すなわち、
資本主義のメカニズムは、それ自体、悪徳のものでも善徳のものでもない。
それは本来、冷たくも熱くもなく、無機質に無関心にはたらく機能システムである。
だから道徳的であるかどうかとは無関係である。
資本主義を道徳的に使うか、反道徳的に使うか、
結局、それは経済を行なう人間の問題であるとの指摘です。

「経済」の語源は、「経世済民」(けいせいさいみん)です。
それが示すとおり、民を救うことが経済の原義としてあります。
その意味で、経営はある部分、大義を目指す「道」であってほしいものです。

経営においても、相撲においても
「強いから横綱である」というのではなく、
「強いからこそ横綱になる必要がある」のだと思います。

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