2008年4月 5日 (土)

広がる「働く場」の概念

【沖縄・石垣島発】

Photo4


◆田舎の音は耳にやさしい
島キャンプ4日め。

ようやく雲がとれて、南国の青い空が出ました!

やはり高い位置から太陽が照りつけると、景色がすべて変わります。

きょうはどこを歩いても、絵葉書に出てくるあの期待通りの島の景色が

目に飛び込んできます。ここは、もう完全に夏です。


ここで仕事をしていると、“耳がラク”なことに気がつきます。

島にしても、山にしても、

田舎に来れば来るほど嫌な雑音がない。


都会は、耳に聴こえる範囲の雑多な音はもちろん、

耳に聴こえない範囲の雑音もかなりあるそうです。

特に不可聴域のクルマの音や機械の音などは、

知らずのうちに人間にストレスを与え、

場合によってはよからぬ症状を発現させるといいます。


田舎には、そうした人工物の出す雑音がない。

もちろん田舎にも、不可聴域の雑音はさまざまあるでしょう。

でも、それは、自然が出す雑音であって、人工物が出すものとは異なる。


田舎に来て、この“耳がラク”という状態を、

私はミネラルウォーターがおいしいという感覚に近いなと感じます。


つまり、水道水にしても、天然水にしても、

目に見えない含有物がありますが、

天然水は天然のミネラル分、

水道水はカルキやら管のサビ・カビやらを含んでいる。


―――――その差は、とても大きい


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


◆場が熱を帯びるのは:共振価値

さて、私はいま、新聞のあるスクラップ記事を見ています。


08
年3月23日付、日本経済新聞朝刊

米IBMが、統合コミュニケーションソフトに10億ドルを投資する

という記事です。


このソフトは、遠隔地にいる人たち同士をテレビ会議でつなぎ、

全員が、画像や書類、音声などのデータを一括して共有のシステム上で

使えるというものです。


こういったソフトがいよいよ普及を始め、

機能的にも使い勝手が向上してくれば、

「働く場」の概念はますます広がってくるでしょう。


すでに、システムエンジニアやコールセンターのオペレータなどの職種では

在宅勤務がそこかしこで行われています。

これは、個人の業務が、ある程度、自己完結して分離が可能だったので、

やりやすかった面があります。


しかし、今度の統合コミュニケーションソフトは、

複数の人間が本来、一つの場に集って、共創・協働せねばならない業務に

新しいスタイルを起せるかどうか――――そこが注目されます。


画面上で顔を見合わせる参加者たちが、

ネット空間のバーチャルな会議の場で、

意識を合わせ、アイデアを出し合い、熱を伝播し合えるのか・・・・


私は、至極、可能だと確信します。


結局、リアルな集合場であろうと、バーチャルな集合場であろうと、

その「場」を有意義にさせるもの――――

それは、「共振価値」だと思います。


参加者が真剣になる、真摯になる、夢中になる、面白がる、

つまり心に触れて共振する価値がそこに通っているからこそ

参加者は主体的にかかわろうとする。


ただ、それだけの問題だと思います。


もちろん、肌感覚をもった人間ですから、

実際に対面することも、ときに欠かせません。



◆ネット会議が主になる時代

これまでも言われてきたように、要は、

リアルとバーチャルのうまい組み合わせが問題なんでしょうが、

これまでは、どちらかというと「リアルが主」で「バーチャルが従」

という意識がありました。


しかし、私は技術の進歩と人間の順応化に伴って、

今後は、バーチャルがいかにリアルに迫り、

ついには、リアル以上に成果を出すことで、

「バーチャルが主」で、「リアルが従」という構図もありうると思っています。


そのためには、主導者(たいていは経営者・監督者とか企業)が

「ヒトのマネジメント」と同様、

「場のマネジメント」に関しても、有能であることが求められます。


「場のマネジメント」とは、その新ツールのテクニカルな取り扱いではなく、

いかなる「共振価値」の軸をそこに突き刺すかということが生命線です。


そうなれば、働き方の多様化はますます促進され、

たくさんの働き手が、

みずからに合ったワークスタイルを選択しやすくなる社会が

早足でやってきてくれるでしょう。


そうすれば私も、いよいよ山か島に本宅を構えて、

顧客とバーチャルで有意義な企画会議やら事前ミーティングやらをし、

いざ本番の研修実施のために、都会に出ていきたいと思います。

2008年4月 4日 (金)

身の丈ビジネス・百倍丈ビジョン

【沖縄・石垣島発】

Photo22

島でのキャンプも3日め。

きょうは薄く陽射しのある1日で、気温は25度を超え、

Tシャツ1枚で心地よく過ごせました。


昼間は、底地(すくじ)ビーチに出て、書きものの仕事をしました。

木陰にピクニックシートを敷き、

ペンと白紙を持って、手書きでいろいろと考える。

たいてい私は、図を書いて、自分の伝えたいメッセージを精錬します。

そして、外から戻って、パソコン上で一気に文章化する。

それが私の思考→アウトプットの習慣です。


あと私は、外で考え事をするときは、たいてい

キャンプで使っている携帯用ガスコンロとケトルを持参します。

それでお湯を沸かし、ドリップコーヒーを入れて、ブレイクします。

きょうのコーヒーのお供は、島名物のマンゴーケーキ。


* * * * * * * * * * *


◆それ以上は受託しないぞという決断

さて、きょうの本題です。


私の生業の主たる売上は、

企業を顧客とする従業員向けの人財研修実施によって立てています。

しかし、私は不敵にも、年間で請け負う研修日数に関し、

「40日間を超えない」という方針で臨んでいます。


研修以外の40日は、

こうして島でキャンプを張って執筆仕事をしたり、

人事コンサルティングの仕事をしたり、

あるいは

社会的意義のあるボランティア(に近い)仕事などに充てています。


研修請け負いの日数に上限を設けるのはなぜか?―――――


その理由は、おおむね次のようなものです。

1)創作・思索のための時間を確保するため

2)私の行うビジネスは量の拡大を必ずしも志向しない。

  質の深掘りで勝負するため

3)身体のことを考えて


◆「思索する時間」という宝もの

忙しさに身を置くことは、ある種「俺は働いてんだゾ」という快感をもたらします。


また、私のように自営業の場合は、

仕事予定が入っていないと、すごく不安になります。

「ダイアリーが仕事で埋まる=売上が立つ」ということですから。


しかし、人は、忙しさで仕事をやったような気になりますが、

冷静に振り返ると、

その仕事を通して、

自分がどれだけ成長・進化できたか、

世の中にどれだけ新しい価値を生み出したかという点で、

非常に心もとない結論がみえてくることが多々あります。


例えば、私は

20代後半から30代初めの7年間、ビジネス雑誌の編集をやりました。

非常に忙しく働きましたが、

その忙しさの割りに、何が自分の中で積みあがったのだろう?

何を世の中に提供できていたのだろう・・・? と考えると、


・・・もちろん、面白く働いた仕事ですから、

自信を持って答えられるものはいくつかあります。


しかし、結局は、「消費される仕事」を繰り返していたんだな、と

いま振り返ってつくづく思います。

「消費されない仕事」を自らつくり出すためには、

きちんと立ち止まって、時間をとって、もっと思索をせねばならなかった。


だから私は、いまの仕事で、その轍を踏まないように、

仕事に関する思索の暇(いとま)をとるようにしたいのです。


既存に開発した研修サービスのプログラムは、

お客様から高い評価をいただいてはいるものの、

まだまだ改良・改善の余地は無限大にありますし、

他の新しい分野の教育プログラム開発も創造していきたいと思っています。


それは、ミュージシャンがよく言う

コンサートツアーで忙しくすればするほど

新曲・新アルバムの創作ができなくなることと同じです。


私にとって、研修の受託量をいたずらに増やすことは、

必ずしも賢明なことではないのです。


◆一軒の頑固な寿司店商売でいい

私は、いわゆる「インディペンデント・コントラクター」(独立請負業者)

として働いています。

つまり、「雇われず・雇わない」働き方です。


であるがゆえに、先に書いたように、

売上の拡大をいたずらに追わなくてもすみます。

だから、私は「身の丈ビジネス」でいいと思っています。


量を追うだけのビジネスや

功利主義が支配するビジネスは、私はごめんです。

そういう“量志向マッチョ”な土俵では、ビジネスをやりたくありません。


私のライフワークテーマは、

「働くとは何か?」「よりよく働くとはどういうことか?」を

万人が腹でわかるための教育プログラムをこしらえることです。

このテーマの深さは無限に広がっています。

だからこそ、質の深掘りに向かいたい。


私の事業を応援くださっている方々から、

「なぜ、村山さんは、その研修プログラムを標準化して

量販できるようにしないのですか?」とよく聞かれます。


そのときに答えているのは、こうです・・・


外食ビジネスに2通りあって、

1つは、同じメニューを多数の店で量産・量販できる体制を敷いてやる

ファミリーレストランチェーン。

もう1つは、頑固でこだわりをもった腕の利く板前がいて、

対面カウンターでしか出さない一軒の寿司店。


私は、「寿司屋がいいんですよ」と。



◆職の“持続可能性”を考えよ

私は、生来、身体がどちらかというと弱い部類です。

これまで、大きな病気やケガこそありませんが、

いろいろな面で常時、気をつかわないと、体調がダメになります。


40代を過ぎてからのキャリアを考えるとき、

「長く働き続けるために」という目線がとても大きくなってきます。

私はこれを「職のサスティナビリティ意識」と呼んでいます。


“サスティナビリティ”(sustainability)とは、「持続可能性」という意味です。

温暖化問題で、「地球環境のサスティナビリティが脅かされている」などといいますが、

生涯を通じたキャリアにもその発想が大切です。


医療の発達によって、人生が延びています。

ですが、仕事なしのリタイヤ人生や、病床に伏しての人生が延びることを

私は望みません。


自分の就労期間を延ばすこと(=働くことの持続可能性を高める)は、

ほかならぬ、自分自身の責任でやらねばならないことです。


* * * * * * * * * * *


このように私が志向する私自身の仕事・キャリアの方向性は、

「身の丈ビジネス」「身の丈キャリア」といっていいかもしれません。

しかし、それは、こじんまりうまく自己完結して渡世していけばいい

という意志ではありません。


身の丈というのは、側・外形がそのサイズでいいといっているのであって、

中身・内の心は、高く・深く・大きく理想を描いています。

その意味では、ビジョンは百倍丈ほども膨らませています。


夢や志については、他のところで詳しく触れたいと思います。

2008年4月 3日 (木)

「W/Lバランス」の人・「W/Lブレンド」な人

【沖縄・石垣島発】

Photo1

「仕事の春キャンプ」で石垣島入りしてから2日め。

あいにく、きのう、きょうと鈍曇りの天気が続きます。

せっかく名勝・川平湾がすぐそこに望めるのに、

あのキラキラ透き通る青い海は、まだおあずけ状態。

東京からのメールで「こちらは晴天」と聞くと、なぜか悔しい気持ちです。


ですが、朝夕の散歩やら、

昼間の海辺での読書・企画構想作業やらは楽しいものです。

気を晴らすために、昼食後、観光スポットに足を運んで、

カメラでスナップを何枚か撮るのもアタマが活性化していいです。


さて、こうしたリゾート地に来ての仕事キャンプは、

私にとって、もちろん真剣な「仕事」であり、

また、観光要素をもった「遊び」でもあります。

そして、自炊を行いながら滞在する「生活」でもあります。

(家具・食器・寝具付きのウイークリーマンションはこの点で便利です)


* * * * * * * * * * * * *


◆ゆるゆる・だらだらの「仕事/生活」境界線

私は、東京にいる普段もそんな感じです。

自宅の一室をオフィスにしていることもあって、

仕事と生活と遊びの境界線はとてもあいまいです。


仕事机のPCの前で企画作りに集中していたかと思えば、

その後はソファでごろごろしたり、

図書館に行って仕事をしてみたり、

(でも、仕事に直接関係のない本で半日を費やしたり)

また、天気がよければ多摩川にひょいと散歩に出たり。。。


外見からの行動は、ばらばらですが、

私の頭の中は、四六時中、仕事のことを考えています。

仕事というか、ライフワークといったほうがいいかもしれません。


私のライフワークは、

「働くとは何か?」「よりよく働くとはどういうことか?」を

万人が腹でわかるための教育プログラムをこしらえることです。


私は、常に手帳を傍に持ち歩いていますが、

(寝るときも枕元に)

アイデアメモは、休暇中であろうと、仕事中であろうと、

散歩中であろうと、入浴中であろうと、就寝中であろうと、

電車の移動中であろうと、

それらに関係なく書き留めていきます。


そうした次々と湧いてくるラフアイデア、着想・構想、

およびそれらを深掘りする作業で

実はアタマは常に「仕事」をしています。


* * * * * * * * * * * * *


◆「仕事バカ」ではない「仕事好き」

・・・・これは、いわゆる「仕事バカ」な状態なのでしょうか?

あるいは「仕事中毒症」「仕事依存症」なのでしょうか?


いや、私にとって、もちろん非日常の場所での時間はおおいに楽しいものです。

家族との時間も楽しんでいます。

仕事の犠牲として、何かを切り捨てている現実はありません。

私生活も楽しい、仕事も楽しい。

(苦労や心配事は絶えませんが)


私生活・人生の活動の中で、仕事を想い、

仕事の活動の中で、私生活・人生を想う。


私にとって、「仕事」と「私生活・人生」は、2分法で分割し、

「ON/OFF」でとらえられるものでないと感じています。

東洋哲学の概念で当てはめれば「空」(くう)です。


つまり、私にとって、仕事と私生活・人生は、空の状態で渾然一体化していて、

たまたま今のこの活動や思考は、仕事のことが顕在化している状態だとか、

私生活のことが潜伏化している状態だというふうなとらえ方です。

両者の間に明確な境界線も引けませんし、引く必要もありません。


だから、“現在の私”にとって、

「ワーク/ライフバランス」といった概念は、

少し遠い感覚のものになります。


* * * * * * * * * * * * *


◆悩み深き「組織人格と個人人格の乖離」問題

ただ、「ワーク/ライフバランス」という概念は、

現代のビジネス社会にあって、とても重要で必要なものではあります。


私も“過去の私”においては、本当に、この「ワーク/ライフバランス」が

必要なサラリーマン時代がありました。


組織の中で、自由に権限を持って多少なりとも楽しく働いていた

サラリーマン時代でしたが、

やはり、年次が経つにつれ、

自分の想うところと組織の命令・任務とは乖離するところが大きくなり

違和感を抱きながら、「仕事に働かされていた」日々でした。

物理的に休日も仕事にとられることが多かったものです。


ましてや、管理職となり、

組織側の考えることに異論を持ちながらも、

部下には組織側の意思決定を正当化して伝え、実行させなければならないとなると

もう、精神がキリキリしてきます。


まさに、バーナードが触れた経営者の苦渋の重荷は、

組織人格と個人人格の乖離(『新訳・経営者の役割』に詳しい)である

ことがよくわかりました。


こうなると、仕事と私生活・人生を「分離」して考えることが必要になり、

両者のバランスを保たねば、カラダとアタマが続かなくなってくる。


* * * * * * * * * * * * *


◆生活と仕事を「ブレンドする妙」

しかし、現在の私は、はれて個人事業主の道を選び、

みずからの想いを具体的にサービス化して、

直接、世の中に問う働き様となりました。


私の行なう事業は、

私個人の仕事観・人生観による価値や意志の表明そのものであります


組織の中で働かなくなった今、

組織人格と個人人格の間で葛藤することもありません。

私の考えに制限を与えるのは、顧客の要望のみです。


もはや私にとっては、仕事と私生活・人生は、無境界に「融合」して、

両者をいかに掛け合わせて、

納得する仕事、満足する生活・人生をつむぎ出していくかという

「ワーク/ライフブレンド」な状態になっています。


この記事の表題とした

「ワーク/ライフバランス」と「ワーク/ライフブレンド」は

必ずしも適切な対比でないかもしれませんが、

2つの考え方を図化したものが下です。

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* * * * * * * * * * * * *

◆「仕事に“遊ぶ”人は幸福である」

「ワーク/ライフバランス」の人と

「ワーク/ライフブレンド」な人の境界線はどこにあるかといえば、

つまりは、

仕事に働かされるのか、

仕事を創造するのか、です。


または、仕事に使われるのか、

仕事を使って、もっと大きな何かを成そうとしているのか、でしょう。


そして、さらには、その仕事に対し、

全人的に健全的に没頭できるか、できないか、です。

たとえ組織の中で、能動・快活的に働いている場合にも、

やはり先に述べた組織人格と個人人格の乖離の問題は少なからず起きるもので、

最終的には全人的かつ健全的な没頭は難しくなります。


その点で、

「ワーク/ライフブレンド」という状態は、

個人単位に近い形で働いている人のほうが

よりなりやすいのではないでしょうか。


「仕事に“働く”人は不幸であり、

仕事に“遊ぶ”人は幸福である」・・・

詳細の出所は忘れましたが、かの美食家にして芸術家の北大路魯山人が

こんなようなことを言っていたと記憶しています。


『遊ぶように働く』とは、私の独立後のモットーでもあります。


もちろん、“遊ぶ”とは、

消費的な遊興ということではなく、

自らの事業に真剣に夢中になり、

自分の想った価値を世の中にぶつけて、その反応を楽しむ、

そしてライバル他社とは競争ではなく、競創と共創を楽しむ、

そして最終的に、お客様から「払ってもいいよ」というお金をいただく、

という遊びです。


1日や1年のうちに、休みたいときに休み、仕事をやりたいときに仕事をやる。

そうしたワーク/ライフが無境界にクロスオーバーする働き様、生き様を

私は志向しています。(誰もがやれるスタイルではありませんが)


なお、私はここで

「W/Lバランス」と「W/Lブレンド」の双方を比較しましたが、

どちらが良い・悪いという問題ではありません。

私のハイブリッドライフ:複棲人生への試み

【沖縄・石垣島発】

Photo2


いま私は、沖縄の石垣島に滞在しています。

今回は、名勝・川平湾を望む場所に1週間ほどウィークリーマンションを借り、

著作原稿の執筆と教育プログラムの再設計を集中的にやります。


私は、時間の自由がききやすい自営業というメリットを生かして、

年に2、3回ほど「仕事キャンプ」をします。


冬・春ならたいていは沖縄(島)で、

夏・秋ならたいていは信州(山)で、

何となくせわしい東京オフィスを離れて、

静かな場所で、窓から自然を眺めながら、

あるいは自然の中にどっぷり浸かって、じっくり「考える」仕事をします。


よく小説家が、馴染みの宿にこもって執筆をやりますが、

まぁ、言ってみればその真似っこのようなものです。


私のメインの仕事は、企業・団体への人財育成研修ですが、

研修を年がら年中やっているわけではありません。

研修の実施のない期間に、こうしてキャンプ日程を設定しています。

ネットさえ通じていれば、

研修以外の仕事はどこでもできます。


もちろん将来的には、

ホテルや短期賃貸ではなく、

しかるべき土地と物件を購入して、そこを拠点にしたいとは思いますが、

現時点では、

国内のさまざまな場所を下見するという意味合いも兼ね、

この形がいいかなと思っています。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


いずれにしても、私が目指す仕事/生活スタイルは、

よい仕事発想の湧くよい環境の田舎(山か島か)に住み、働き、遊び、

よい仕事案件のとれる東京でもまた、住み、働き、遊ぶことです。


私が描くそうした複数に棲処(すみか)を置く生活で目指すところは、

「東京拠点の生活A」と「田舎拠点の生活B」とがあり、

その両者が互いに機能的に融合して

自分の行いたいライフワークをより高いレベルに発展させていくことです

(私のライフワークは、よりよい職業教育プログラムの追求です)


私は、そのいわゆる複棲生活において

・東京生活=タフな仕事生活

・田舎生活=のんびり息抜き生活

という構図ではまったく考えていません。


私は、どちらの生活も、

ライフワークの追求を目的として送っていきたいと思っています。


だから、東京でも仕事をして、遊びますし、

田舎でも仕事をして、遊びます。

東京で疲れれば、田舎でエネルギーを充填し、

田舎でダレてくれば、東京で刺激を受けてしゃきっとする。


そういう両者の融合具合が、

まさにガソリンと電気のハイブリッドエンジンにも似ているので

私は自分が目指すワーク&ライフスタイルを

『ハイブリッドライフ』と呼びたいのです。

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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


人の仕事・生活はますます“複化”が進んでいるようです。


仕事で複数のプロジェクトを兼任し、責任を持つ

「複務化・複任化」はごく普通の姿ですし、

また、平日昼間はサラリーマン・週末はネット通販店主といった

二足のわらじを履く人が増えています。

これらは「複業化」の流れです。


そして、2箇所以上の居住地を持つ「複住化・複棲化」です。

この「複住化・複棲化」は、近年さらに注目を集めるようになりました。

安部前政権のもと、山本有二金融・再チャレンジ担当相が

有識者による「暮らしの複線化研究会」を発足させたからです。


この「複線化」という表現は、なかなか言い当てているところがあるようです。

そこには主に団塊の世代の方々が、

平日の都会の生活と、週末の田舎の生活を交互に行き来する様子、

あるいは、

定年退職までの都会現役生活から、定年後の田舎リタイヤ暮らしにスイッチする様子

が見て取れます。

2つそれぞれにある生活は、互いに分離し、目的を別にしているため

並行した複線が走っているというのがイメージになります。

(下図参照)

07001

一方、私の言うハイブリッド型の2つの生活は、

互いが融合して、目的を共有していますから

同じ「複住化・複棲化」にあっても、複線化とは異なるものです。


今後、人が仕事や生活で、複数の様式を持つことは

いろんな面で多くなりそうですが、

それらが互いに独立分離して、目的を異にし、非ハイブリッドなのか、

互いに融合して、目的を一にし、ハイブリッドなのか

そこは大きな分かれ目になりそうです。

2008年3月31日 (月)

アラン『幸福論』

古今東西、数々の名著がきら星のごとくある中、

私がこのブログで推す滋養本として、何からはじめればよいか――――

その答えは簡単に出ました。

これまでの自分の著作や執筆原稿、研修講義の中で

どの本からの引用がもっとも多いだろうと考えてみたのです。

・・・その結果、世に言う「三大『幸福論』」がそうであろうと。

三大とは著者でいう、アラン、ヒルティ、ラッセルです。

今回は、アランの『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫版)

を取り上げます。

Photo いまの世の中、「幸福」というと、

すでにいろいろに手垢のついた言葉になってしまった気がしますが、

アランの記す「幸福」は、

ああ、幸福とはそういうことだったんだなという原点を

シンプルに力強く思い戻させてくれるものです。

彼が言い起こす幸福は、

動的で意志的、包容力があり、普遍性と高邁な精神に満ちています。

例えば、

「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」

#44

「幸福だから笑うわけではない。むしろ、

笑うから幸福なのだと言いたい」

#77

「外套ぐらいにしかわたしたちにかかわりのない種類の

幸福がある。遺産を相続するとか、

富くじに当たるとかいう幸福がそうである。

名誉もまたそうだ。

・・・(中略)

古代の賢者は、難破から逃れて、

すっぱだかで陸に上がり、

『わたしは自分の全財産を身につけている』と言った」

#89

「悲観主義は気分に属し、

楽観主義は意志に属する。

・・・(中略)

あらゆる幸福は意志と抑制とによるものである」

#93

私がこの本で教わった極めて重要なことは、

「幸福とは、静的な状態ではなく、動的な行いそのものなのだ」

ということです。

アランの言う幸福は、徹底的に行動主義です。

上に挙げた「幸福だから笑うわけではない。むしろ、

笑うから幸福なのだと言いたい」という行動主義的幸福は、

いろいろなことに敷衍(ふえん)して考えることができます。

つまり、

平和などない。だから、平和を成すのだ。

正義などない。だから、正義を行なうのだ。

自由などない。だから、自由を活かすのだ。

愛などない。だから、愛するのだ。

健康などない。だから、健康をつくるのだ。

ある幸せな状態、もしくは、ある好ましい状態があって、

そこに自分が身をうずめて、いい気分でいるというのは、

真の幸福ではない。

むしろ、自身の置かれた状況が苦しくとも、厳しくとも、

何らかの理想に向かっているそのプロセス自体が、

実は本当の幸福である。

その結果として得られたものは、ごほうびに過ぎない。

――――私はアランの助けを借りて、幸福をこう咀嚼したことで、

自分自身、随分、頭がすっきりし、気がラクになりました。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

アランは哲学者ということですが、

この本は、いわゆる哲学書の類ではありません。

幸福論と「論」の字が付いていますが、

原題は、『幸福に関する語録』となっており、

言ってみれば、短いエッセイ集(全部で93話)です。

しかし、最初は取っ付きにくいかもしれません。

彼独自のレトリックがそうさせるのかもしれません。

私は図書館に行って、まず、

アランの『幸福論』についての解説本をいくつか読んでから

この本をじっくり読みました。

そうしたほうが、読み方のツボがわかっていいかもしれません。

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