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2012年1月

2012年1月27日 (金)

「健やかさ」を取り戻す時代へ


アメリカのロックバンド、イーグルスを率いたドン・ヘンリーは、
時代を見る目を持って、「喪失」を見事に歌うミュージシャンだったように思います。


『ホテル・カリフォルニア』の中に出てくる有名な一節───
(支配人に自分の好みのワインを注文するのだが…)

     “We haven't had that spirit here since nineteen sixty nine.”
      あいにくそのようなお酒(精神)は1969年以降ご用意しておりません。

ここに出てくる「spirit(スピリット)」は、「酒」と「魂・精神」の掛け言葉になっています。
(伝説のウッドストックコンサート開催に象徴される)1969年以降、
アメリカは爛熟した物質文明・商業主義の中で、何か大事な魂(スピリット)を失ってしまった
───そんな憂いを彼は歌詞の裏に込めました。

また、ドン・ヘンリーはブルース・ホンズビーとの共作による
『The End of the Innocence』でも、1990年にグラミー賞を受賞しました。
「イノセンス=無邪気さ・無垢であること」の終わりを歌ったこの曲は、
やはり時代に対するメッセージ性を感じさせます。


* * * * *

さて、時代が喪失しているものはさまざまあるでしょう。
私がその中で大事なものを1つ挙げるとすれば───それは「健(すこ)やかさ」です。

私が考える「健やかさ」とは、次のような意味合いです。

    ○生き生きと強いこと

    ○素直であること
    ○明るく開けていること
    ○善的なことに向かっていること
    ○自然と調和していること


現代社会が抱える問題の多くは、
「反・健やかさ」あるいは「離・健やかさ」の力が増長、圧迫、堆積して
起こっているように私には思えます。

「健やかさ」というのは、レトロで野暮ったい観念でしょうか。
いや、私は、こういう時代だからこそ、逆に清新であると感じます。

健やかな身体、健やかな心、健やかな思考、健やかな生活、健やかな社会。
健やかな詩、健やかな絵、健やかな物語、健やかな食べ物、健やかな会話。

……こういったものは、ほんとうのところ、いつの時代にあっても人びとが求めたいものです。
しかし、普遍的なものほど退屈になりやすいという欠点がある。
問題はいかにそれを新しい気持ちで、新しい形にして求めていくかです。


私たちはブータン国王夫妻が来日したとき、
その国が「国民総幸福量」を指標にして国づくりを行っていることをうらやましく思った。
また、映画『ALWAYS三丁目の夕日』を観て、古き良き昭和の日を懐かしんだりもする。
私たちはこうした「健やかさ」に触れて、
自分たちは、もうそこには戻れないんだと溜息をつく。

しかし、いま大事なのは、いろいろなことに対し、
平成ニッポンの「健やかさ」を新しい形で生み出すことは可能ではないかと考える「健やかさ」です。
少なくともそうしなければ、この国の21世紀は開けてきません。

例えば、宮崎駿監督のアニメーション映画はひとつの「健やかさ」の作品表現かもしれない。
グリーンツーリズムや日本の“おもてなし”も旅行業界での「健やかさ」価値の体現かもしれない。
「無印良品」も、商品づくりの思想のなかに「健やかさ」という一本の軸が通っているように思える。
“ロハス”や“スローライフ”も「健やかさ」と通底している。
また、ビジネス書としてベストセラーになった『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著)
の中には、それこそ「健やかさ」を保った企業の話がたくさん出てくる。


世の中の商品・サービス・芸術が、刺激性・中毒性を増さなければ振り向かれない潮流にあって、
「健やかさ」などという普遍的だが退屈な価値で注目・支持を集めるのはラクな仕事ではない。

しかし、「健やかさ」を蘇生する作業を怠れば、
歴史上、多くの爛熟しきった社会がたどった道と同じ道を私たちも進んでいくことになりかねない。


私は企業の研修現場で仕事観の醸成教育をやる身ですが、
プログラム開発のテーマに据えているのは、次のようなことです。


  ・「成功のキャリア」から「健やかなキャリア」へ
  ・「勝ち組/負け組の生き方」から「自分らしくを開く生き方」へ。
  ・「得点の競争で疲れる職場」から「知恵の競創が面白い職場」へ。
     (“競創”とは創造性を競うこと)

1人1人の仕事・働く意識が健やかになる。1つ1つの職場が健やかになる。
私自身、そのための教育はとても大事な仕事であると自覚を強める昨今です。



再び名曲『ホテル・カリフォルニア』に戻って。
ドン・ヘンリーは最後の部分でこう歌います───

   “We are all just prisoners here, of our own device.”
   俺たちはみんなここの囚人さ、自らが仕掛けた罠にかかって。

   “You can check out any time you like, but you can never leave.”
   チェックアウトしようと思えばいつでもできるのに、決してここを出ていけないのさ。

「ホテル・カリフォルニア」という「喪失の園」から抜け出られないのは歌の世界ですが、
現実世界の私たちは、しっかりと「健やかさ」を取り戻し、自らの罠にかからないようにしたい。





2012年1月22日 (日)

「モデル化」して考えるとはどういうことか?



   THINK 40a季刊ビジネス雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)で連載中の「抽象度を上げて本質をつかむ『曖昧さ思考』トレーニング」も、今号で3回目を迎えました。今回は、「概念をモデル化してとらえること」について書いています。


  「モデル(model)」という言葉は、最近いろいろな場面で使われる言葉です。大本の意味は「型」ということですが、そこから派生して、プラモデルやファッションモデル、ビジネスモデル、ロールモデルなどに広がり、すでに日本語の中に溶け込んでいます。今回の記事は、そんな中でも「概念モデル」を扱っています。

  概念モデルとは、
  「物事の仕組みを単純化して表したもの」、
  「概念のとらえ方を示すひな型」と言っていいでしょう。

  概念モデルとして秀逸なものは世の中にいろいろありますが、私は次の2つを挙げたいと思います。まず1つめに、エッセイスト・画家・ワイナリーオーナーとして活躍される玉村豊男さんの「料理の四面体」図。


Simentai



  料理という概念を理解するのに、「煮る」とか「焼く」とかいった加工方法で分類するアプローチは、特段独創性のあるものではありません。
  玉村さんの発想の優れた点は、加工方法の観点からさらに一段抽象度を上げて、その根源となる4つの要素「火・空気・水・油」を“発見した”ことです。そしてさらにもう一段の抽象化、それら4要素の関係性を三角錐(四面体)の構造で表現したことです。

  玉村さんは火を頂点にして、空気・水・油へと伸びる稜線をそれぞれ「焼きものライン=火に空気の働きが介在してできる料理」「煮ものライン=火に水の働きが介在してできる料理」「揚げものライン=火に油の働きが介在してできる料理」と名づけました。こうすることで、煮物とか、炒めものとか、グリル、くんせい、干物、生ものがすべて意味をもって構造の中に配置されます。

  このモデル図をいったん見てしまえば、私たちは「あぁ、ナルホド、ナルホド。確かに料理ってこういうとらえ方ができるな」と思える。もちろん、これは1つの切り口からの整理にすぎませんが、それでも直観的に料理という概念の全体構造を把握できます。

  もう1つ紹介しましょう。哲学者・九鬼周造が1930(昭和5)年に著した『「いき」の構造』(岩波文庫)で提示したモデルです。「粋」などという、まさに曖昧きわまりない概念をよくぞこのような姿で示せたものだと感服します。九鬼は図化を積極的にやる哲学者で、他にも、偶然性と必然性の論理を図に表して分析しています。


Iki



  九鬼は、粋の構成要素として8つの趣味(渋味・野暮・甘味・意気・地味・下品・派手・上品)を抽出し、「対自的/対他的」「有価値的/反価値的」「積極的/消極的」など彼独自の対立項を用いて、直六面体の構造に表現しました。九鬼は、8つの頂点に配置された趣味以外のものも、この直六面体のなかで捉えられると説明しています。

  例えば───「“さび”とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角柱の名称である」「“雅”は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである」「“きざ”は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している」といった具合です。


  九鬼の場合、こうした風流をめぐる美的価値を1つ1つ言葉上で定義するのではなく、直六面体のモデル上に相対的な位置関係で示すというアイデア自体が、優れて独創的であると思います。概念モデルを図に落とし込む作業は、ある意味、アート作品をこしらえる作業にも通じるところがあります。モデル図は、もちろん理解しやすいということが必須要件ですが、美しいことも大事な要件です。

* * * * *

  ところで、私たちはなぜ物事をモデル化してとらえることが大事なのでしょうか。

  ───それは、物事を個別具体的にとらえるレベルに留まっていると、
  永遠に個別具体的に処置することに追われるからです。

  それを簡単なモデルを使って説明しましょう。次に並べたのは英語の問題です。それぞれのカッコ内には前置詞が入りますが、それは何でしょう。1つ1つ答えてください。


・a fly (     ) the ceiling  ───天井に止まったハエ
・a crack (     )  the wall ───壁に入ったひび割れ
・a village (      )  the border ───国境沿いの町
・a ring (      ) one’s little finger ───小指にはめた指輪
・a dog (      ) a leash ───紐につながれた犬



  ……どうでしょう、各問に答えられましたか。 正解は、すべて「on」です。

  ところで、私たちは前置詞「on」を「~の上に」と習ってきました。習ってきたというか、暗記してきました。そうした暗記的なやり方で英語と接してきた人は、「天井にさかさまに止まった」とか「壁に入った」とか、「国境沿いの」などの言い表しに思考が発展しないので、それぞれの問題に戸惑ったことでしょう。そうして正解を見て、また1つ1つ、「on」の使い方を丸暗記していくことになる。

  これに対し、いま私の手元にある一冊の英和辞典『Eゲイト英和辞典』(ベネッセコーポレーション)の帯には、こんなコピーが記載されています───「on=『上に』ではない」と。さっそく、この辞書で「on」を引いてみる。すると、そこに載っていたのは、下のような図でした。


Egate


  「on」は本来、縦横・上下を問わず「何かに接触している」ことを示す前置詞だというのです。確かにこの図をイメージとして持っておくと、さまざまに「on」使いの展開がききます。

  この辞典は、その単語の持つ中核的な意味や機能を「コア」と呼び、それをイラストに書き起こして紙面に多数掲載しています。10個の末梢の意味を覚えるより、1つの「コア・イメージ」を頭に定着させたほうがよいというのが、この辞書づくりのコンセプトなのです。

  まさにここで出てきた「コア・イメージ」に基づく学習が、概念をモデル化して押さえることにほかなりません。

  私たちは、物事の抽象度を上げて大本の「一(いち)」をイメージなりモデルなりでとらえることができれば、それを10個にも100種類にも具体的に展開応用することができます。
  逆に言えば、モデル化によって「一」をとらえなければ、いつまでたっても末梢の10個を丸暗記することに努力し、100種類に振り回されることになります。1000にも種類が広がったら、もうお手上げでしょう。


  「一」をつかんだ者は、1000個だろうが、1000種類だろうが、原理原則を押さえているのでそれに対応がききます。そして、その「一」から落とし込んだ1000種類の応用は、具体的な末梢を必死になって丸暗記したときの1000種類とはまったく異なったものになるでしょう。真に新しい発想というのは、必ずと言っていいほど、抽象思考の川をさかのぼり、本質の「一」に触れて、再度、具体思考の川を下るというプロセスを経ているものです。


  “抽象的”という言葉は、いまでは何かネガティブなニュアンスで使われることが増えました。しかし本当は、抽象的に考えることはとても大事なことで、物事の余計な部分をそぎ落とし、その奥にある本質は何か、原理原則は何かと考えるのが抽象化能力なのです。したがって、概念をモデル化するには、この抽象化能力をフル稼働させることになります。

  私たちは、日ごろから意識して、モデル化して考えることに努めることが大事です。物を売ることを超えて、物を売る仕組み(ビジネスモデル)をつくることが重要になってきているように、物事の知識量を増やすことを超えて、物事の仕組みをつかむ能力が重要性を増しているからです。


2012年1月19日 (木)

結果・成功を求める人 vs プロセスに喜びを見出す人


   人の欲望にあらかじめ、それが「よいもの」「わるいもの」というラベルが貼ってあるわけではない。「こうしたい」「ああなりたい」「あれがほしい・これを手に入れたい」といったエネルギーは、人を育てもするし、惑わしもするし、壊しもする。


   若いころの欲は、往々にして、「具体的で功利的な結果」を求め、「自己に閉じがち」である。しかし、その人が“よく成熟化”していくと、欲の性質が変わっていくように思える。つまり、「意味の感じられるプロセス」を求め、「他者に開いていく」心持ちになっていく。
   ただし、この変化はそこに書いたように“よく成熟化”した人間が得られるのであって、年齢とともによく成熟化ができないと、依然、欲は結果に拘泥し、自己に閉じたまま、いやむしろ、それが強まりさえしてしまう。

   私自身、決してよく成熟化しているとは言えない凡夫なのであるが、個人的に振り返ってみるに、やはり20代、30代の欲は、功名心や野心めいたものの力が強かったように思う。
   メーカーで商品開発を担当し、次に出版社に転職をして雑誌の編集をやったが、「ヒット商品を当てて世間を騒がせたい」「スゴイ記事を書いて世の中を驚かせたい」と鼻息は荒かった。そのためにいつも自分が担当した商品や記事の販売数や閲読率という数字に執着していた。成功者になりたいというエネルギーは、多分に自己顕示欲を満たしたい、自己優越感に浸りたいといった感情を連れ添っていた。


   また、「自己実現」という言葉が流行ったときでもあり、「そうだ、すべてはジコジツゲンのためだ!」とストレスと疲労が溜まっても自分にモチベーションを与えて頑張っていた。が、いま考えると、その自己実現は「利己実現」ではなかったかと恥ずかしくなる。

   しかし、年を重ねるとは、有難や、不思議な影響を人間に与えてくるもので、私は41歳でサラリーマンを辞め、教育事業で独立をした。理由の1つには、“消費されない仕事”をしたい。消費されない仕事とは、人をつくる仕事だと思うようになったこと。そしてもう1つは、「大きな目的のために自分を使いたい」と心持ちが変化したことだ。

   私は子供のころから身体が丈夫なほうではない。大病こそせずに済んでいるが、いつも身体のことを気にかけている。もし私が、昭和以前に生まれていたなら、この生物的に弱いつくりの個体は、とっくに何かで死んでいただろう。医療が発達し、物質が豊かで、衛生環境もよい現代の日本に生を受けたからこそ、ようやく私は人並みに働くことができ、生きている。
  私は40歳になったとき、「40以上の寿命は天からの授かりものと思って、今後はもっと世のため人のためにこのアタマとカラダを使いたい」と思った。


   そういえば、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が、あの1970年「よど号ハイジャック事件」に乗客として遭遇し、無事解放されたときに、「これからの人生は与えられた人生だから、人のために身をささげようと決心した」と語ったエピソードは有名である。そしてまさに、先生はそうされている。

   さて、この記事で私が何を言いたいかというと、


1)心の成熟化に伴って、「成功」志向は弱まっていき、「意味」志向になる
2)つまり、成功という「功利的結果」を手にするよりも、
    意味のもとに自分が生きている/生かされている「プロセス」に
    喜びを感じるようになる
3)とはいえ、若いうちは大いに成功を目指し、結果を出すことを習慣づけるべき


   そのあたりのことを、賢人たちの言葉から補ってみたい。


「人間の値打ちとは、外部から成功者と呼ばれるか呼ばれないかには関係ないものです。むしろ、成功者などと呼ばれない方が、どれだけ本当に人生の成功への近道であるかわかりません。
だれが釈迦やキリストを成功者だとか、不成功者だとかという呼び方で評価するでしょうか。現代でも、たとえばガンジーやシュバイツァーを成功者とか、失敗者とかいういい方で評価するでしょうか。世俗的な成功の夢に疑惑をもつ人でなければ、本当に人類のために役立つ人にはなれないと思います」。

                           ───大原総一郎  (『大原総一郎~へこたれない理想主義者』井上太郎著より)


「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」「無駄に終わってしまったように見える努力のくりかえしのほうが、たまにしか訪れない決定的瞬間よりずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか」。

                                           ───湯川秀樹  (『目に見えないもの』講談社学術文庫あとがきより)


   このお二人の無私で透明感のある言葉を、ようやく私は咀嚼できるようになってきた。しかし、仕事上で20代、30代の若い世代に「仕事観」を醸成する研修を行っている私は、こうした賢人の達観を伝えるとともに、次のメッセージも届けなければならないと感じている。それは、


「勝ち負けは関係ないという人は、たぶん負けたのだろう」。

                                                    ───マルチナ・ナブラチロワ  (テニスプレイヤー)


   母国チェコスロバキアを逃れてアメリカに亡命し、70~80年代に黄金の歴史を築いた女子プロテニス界最強の一人が言うのだから、実にすごみのある言葉である。

   そう、やはり、勝つという結果にはこだわるべきなのだ。特に若いうちは、野心でも利己心でも、ギラギラと何かを獲得しようと動き、もがいたほうがいいのだ。最初から結果を軽視して、「私はプロセス重視派です」なんていうのは、実際のところ、怠慢か逃避の言い訳である。そういう姿勢は、結局、先の二人(大原と湯川)の言った「成功を考えないこと・プロセスが実は大事であること」の深い次元での理解からも遠くなる。
   逆に、若いうちに成功を求め、結果を追った者ほど、ある人生の段階に入ったときに、二人の言葉がふぅーっと心に入りやすくなる。なぜなら、欲は、よいものもわるいものも、利己的なものも利他的なものも、“ひとつながり”だからだ。欲の質は縁(きっかけ)に触れて変わる。仏教はそれを「煩悩即菩提」と教えている。

   「結果」と「プロセス」を語るとき、そして「成功」について語るとき、そこに忘れてはならないワードは、「目的」である(目的は“意味”と置き換えてもよい)。何のための結果を追い求めているのか、何のための成功を欲しがっているのか───それが「開いた意味」に根ざしているなら、やがて結果も成功も心の中心から外れていくだろう。代わって、プロセスに身を置くことが幸福感として真ん中に据わってくる。しかもそれは持続的である。結果や成功を得ることが、ある種、一時的な興奮・高揚であるのとは対照的である。

   とまぁ、ややこしいことをややこしく書いたが、要は、動くことなんだろうと思う。動くことからすべてが起こる。動くほどに、ものが見えてくる。動くほどに、同じように動いている人と結び付く。そしてその人たちの影響を受けて、さらにものが見えてくる。さらに動こうという欲求が起こってくる。




【姉妹記事】
○「成功」と「幸福」は別ものである <中>
○「成功」と「幸福」は別ものである <下>
○「結果とプロセス―――どちらが大事か?」


Kyoto tw
京都駅にて



2012年1月17日 (火)

留め書き〈027〉~効率化の中で「即席もの」になるな

 

悪神のささやき───

人間というのは実に勤勉な動物であることよ。
太陽の巡りで1年に1回しか収穫できない作物を
ハウスをこしらえて2回の収穫にしてみたり
工場の中に水を流し、電灯を点けて10回にしてみたり。


24時間365日は動かないけれども、回転数を上げることでそれを何倍にも使う。
人間たちはそうして現在を圧縮することに成功したわけだな。

いや、それにしても、
パーソナルコンピュータの処理速度をどんどん上げていった先には、
自分たちが“ラクでヒマができる”生活があるはずじゃなかったのかい?
これまで1日かけてやっていた作業が半日になり、2時間になり、1時間になった。
そりゃめでたいことだが、はて、そこで浮いた時間は何処へ行った……?

さ、そこに置いてあるワインとチーズを食わせてもらうことにしようか。
ほほぉ、「10倍効率もの」か。
10年熟成のワインを1年でこしらえ、
10か月熟成のチーズを1カ月でこしらえたものなんだな。
いや人間の知恵は素晴らしい。
さぞ美味(うま)いにちがいない……。


* * * * * *

私たちはスピードを上げること、回転数を上げることで、
有限の時間に対し、生産性向上・効率というものを手に入れた。
だからこそ、戦後の日本は、人口増加にも対応できる消費財の量を供給することができ、
また、低価格を実現させて、国内外に売り、国富を獲得してきた。

時間を効率化して使うこと自体は問題ではない。むしろ奨励されるべきことだろう。
しかし、そこには常に「即席文化」を助長する力がはたらく。
そしてもっとも恐るべきは、
人間が時間を使うのではなく、時間に人間が使われるようになることだ。

高速回転しながら量をこなす生活は、はたして濃密に豊かなものなのか。
それとは真逆で、スカスカになっていやしないか。


高校生のとき、初めてラブレターを書いた。
何度も何度も推敲して書いた手紙を投函したその刹那から、
「明日届くのかな、あさって届くのかな」、
1日経てば、「きょう見てるかな、まだ未配達かな」、
2日経てば、「きょう見てるかな、彼女のお母さんが怪しんでいないかな」
などと、ヤキモキ思いを巡らせたものだ。


90年代初め、私はアップルの「マッキントッシュQuadra」を買って使っていた。
当時の写真画像処理ソフト「Photo Shop」は、今からするととても非力で、
ちょっとしたレタッチ処理でも、5分や10分、30分、ときには数時間を要した。
画面には、例の腕時計のアイコンが針を回しているのが映るだけで、
処理がいつ終わるのかは、まさにパソコンのみぞ知る、だった。
うまく処理してくれればいいが、辛抱強く待ったあげくに、
マシンがフリーズすることもざらだった。
けれど、その待っている時間は、過熱した頭を鎮めるのにちょうどいい小休止で、
熱いコーヒーをすすりながら過ごしたものだ。
すると、別のデザインアイデアや思考がふぅーっと湧いてきて、
結果的にそれがとても創造的な時間になるのだった。


うちの実家は三重県の片田舎にある。
地域の足として近鉄電車の支線が走っている。
運行本数は1時間に3本程度だ。だから1本を逃すと待ち時間が長い。
だが、子どものころを振り返るに、電車の待ち時間が長いと感じたことは少ない。
私は、いつも駅のホームから西に連なる鈴鹿山脈の稜線を飽きずに眺めていた。
山脈の稜線はギザギザに富んでいて形状が面白い。
日の入り時刻ともなればとても美しいシルエットを見せてくれた。


……「待つ」。
その時間が実は豊かな何かを育んでいたと感じるのは、私だけだろうか。
私たちは「待つ」ことを我慢しなくなった。

忙しいとは、心を亡くすと書く。
試しに、過去1年、3年、5年を振り返ってみてほしい。
高速回転で動き、量をこなしてきたけれど、そこに心はなかった……(愕然)
なんてことになりはしないだろうか。

私の人生時間の主人は、私である。

2012年も明けてすでに2週間が経った。この分でいくと、
間もなく進入学の春が来て、夏が始まり、気がつけば秋になっているだろう。
時間に使われないためには、
1日、1日、心をしっかり置き留めて進んでいくことである。

心を置き留めるとは、
スピードや効率化の流れに受動的に巻き込まれるのではなく、
立ち止まるべきときは、焦らずに立ち止まり、
待つべきときは、辛抱強く待ち、
1つ1つのやるべきことを「これでいいのだ」という自信のもとに、
自分の心のペースで動かしていくことだ。
そして5年、10年の時間レンジでどっしりと構えられる肚を持つことだ。

1日1日の中身をきちんと詰めていけば、
未来には相応のきちんとした果実が成るように人生はできている。

私は、効率的に作られたワインやチーズを食したいとは思わない。
よいものを食べたければ、1年待つことをするし、
10年かかるのであれば、それを楽しみに10年待つ。

そして何より大事なことは、
自分もひとつの生産物だとすれば、自分自身が即席ものにならないことだ。


Quote al


「未来について一番よいことは、それが1日1日とやってくること」
“The best thing about the future is that it only comes one day at a time.”

───エイブラハム・リンカーン(第16代アメリカ合衆国大統領)

 

2012年1月11日 (水)

目的を掲げよ~「消費されない仕事」を目指して


Okina j01
沖縄県南城市にて


◆自分へのプロジェクト宣言

  私は毎年1月、新調したビジネスダイアリーの1ページ目に、その年の目標をいくつか箇条書きにしている。今年、その中で最初に書き出した(つまりそれが現時点での最上位の目標になる)のが、

  「日本で、アジアで、そして世界で100年読まれ続ける本を遺す」。

  もちろんこれは今年1年間でやる短期目標というより、これから5年~10年レンジで取り組む一大プロジェクトの自分への開始宣言である。

  本の基本アイデアはすでにあり「働くこと×哲学×絵本」である。実際のところ、いま、原稿を書こうと思えば書くこともできるし、どこかの出版社にお願いして刊行してもらうこともできるかもしれない。しかし、「100年読まれる本」にはならないと思う。なぜなら、自分の中身が100年の年月に耐えうる器になっていないからだ。そうした意味で、これからの5~10年は、本を書く技術や知識をつけるというより、人間の中身をつくる大事な時間にしていかなければならないと決心している。

  私は多読派ではないが、少なからず本を読む。年々の自分の読書リストを見て気づくことは、仕事に直接関係するビジネス書ジャンルのものがどんどん減ってきていることだ。その代わりに増えているのが、文化、哲学、思想、芸術、宗教、言語学、詩集、絵本、偉人伝といったものである。そして古典的名著の再読、再々読。

  ちょうど年末から読み返しているのが、サミュエル・スマイルズ『自助論』や、マックス・ウェーバー『職業としての学問』、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、福澤諭吉『文明論之概略』、湯川秀樹『目に見えないもの』などだ。『自助論』は150年前のものだし、湯川先生の本にしてもすでに70年弱の月日が経っている。が、これらの内容はまったく色褪せない。時代の風雪を耐えてきた本というのは、汲めども汲めども内容が尽きない。読み返すたびに、以前読んで気付かなかった箇所の深みにはまりこむ。昔の本はいまの本と違い、へんに編集者の手が入っていないので、行間から本人の“地金(じがね)”が出ている。だから、余計に書き手と人間交流ができる気がする。

  生きること・学ぶことの本質を教えてくれたという意味で、私は小学校から大学まで、あまりいい教師に出会った記憶がない。けれども、私は書物というパッケージメディアを通し、時空を超えて、たくさんの優れた教師に出会えることを実感している。

  となれば、今度は、私が自分の著した書物を通じて、10年後、50年後、100年後の人びととそういう出会いをしたいと思うようになる。


◆「消費されない仕事をやりたい」

  私の独立動機のひとつは───「消費されない仕事をやりたい」

  私は20代から30代にかけ、ビジネス雑誌の編集者として働いていた。ビジネス情報の記事づくりは仕事としては面白いが、積み上がっていく何かがない。あれが売れている、これがトレンドになるなど、時代の変化を追っていく刺激はあるものの、記事は常に「消費されていく」だけ。バブルが膨らんでくれば景気のいい話をどんどん書き、バブルがはじければ、今度は「誰が悪いんだ」とか「失敗の研究」という粗探しの記事を書く。

  私はそうしたメディアの状況に辟易しはじめ、「消費されない仕事」って何だ?と考えるようになった。そんなとき目にしたのが中国の古い言葉だ───

「一年の繁栄を願わば穀物を育てよ。
十年の繁栄を願わば樹を育てよ。
百年の繁栄を願わば人を育てよ」。


  ……「消費されない仕事」とは、「人を育てる仕事」である! 自分が以降進むべき道に開眼した瞬間だった。独立して9年目を迎え、教育の仕事の「消費されない」ことの実感をますます強くしている。だが、ここ数年、次のフェーズに意識が動いてきた。

  いま行っている企業内研修のように対面のサービスはリッチな教育が施せる一方、自分がどう頑張ってみたところで、1年間に出会える受講者数は限られている。しかも、研修の実施というのはけっこう重労働で、歳とともにそう多くをやれるわけではない。時空を超えて、より多くの人と考えることを分かち合えるメディア───その最適なものは、やはり書籍である。

  書籍は個人の心の根っこをつくり、文化の大地となり、社会の気骨をつくる。政治家にせよ、企業家にせよ、その世界での野心家たちは「世の中を変えたい」と叫ぶが、たいていの場合、体制や法律を変えたり、新規の創造物(商品やサービス)を打ち立てたりすることでそれを実現しようとする。それらは必要なものであり、有効な手段ではあるが、あくまで“外側からの変革”だ。

  結局、ほんとうに個人が変わる、社会が変わるためには、“内側からの変革”が欠かせない。そのための手立ては、一人一人が古今東西の良質の本を開き、書き手と対話し、自己と対話することだ。そうした地道な負荷の作業を怠れば、心は根無しになり、文化の土壌はやせ地となり、社会には骨がなくなる。ころころ変わる気分的な風に、人びとは右になびき、左になびく社会になってしまう。

  テレビ番組やネット上のコンテンツは、おおかた刺激物や消費情報であって、風を吹かせることならできるが、根っこをつくり、土壌を豊かにし、骨を強くすることはできない。その点、本は良いものであれば、滋養物となり、いろいろな基盤をつくる素となる。本はやがて大部分が印刷ではなく、「i-pad」のような端末画面上のものになるかもしれないが、それでも本が果たす重大な役回りは21世紀も変わらないだろう。

  だから、良い本を書き遺すということは、生涯を懸けてやるに値する一大仕事なのだ。


◆願いは“叫び”に変じなければ本物ではない

  私は、夢と志を次のように定義している。
夢とは、不可能なことをイメージし、それを実現化する楽しい覚悟である。
志とは、はるか高みにある理想を誓い、それを現実化する自分への約束である。

  願いに向かう気持ちにはいろいろな種類・強さがある。
    □ 「な(や)れればいいな」 〈淡い望み〉
    □ 「な(や)りたい」 〈願望〉
    □ 「な(や)らせてください」 〈祈り〉
    □ 「な(や)ってみせる」 〈誓い〉
    □ 「な(や)ってやる」 〈意地〉
    □ 「自分がな(や)らねば誰がな(や)る」 〈使命感〉
    □ 「な(や)らないではすまない」 〈反骨〉
    □ 「な(や)るのだ」 〈確信〉
    □ 「な(や)らずに死ねるか」 〈執念〉

  「100年読まれ続ける本を遺す」という思いは数年前から頭をかすめていたのだが、なかなかそれを夢・志として自分に明確に宣言できなかった。ところが、ようやくいま、「やれればいいな」とか、漠然と「やりたい」というレベルを超え、上のリストで言えば「やらせてください」以下「やらずに死ねるか」までの全ての気持ちが胸に満ちるようになった。

  それは私に、リルケ(プラハの詩人:1875-1926)の『若き詩人への手紙』(高安国世訳、新潮文庫)の一節を思い出させる。───


「自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。
・・・(中略)もしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、『私は書かなければならぬ』をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立てて下さい」。


  スティーブ・ジョブズは伝説のスピーチでこう訴えた───「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」

  仕事の幸福とは、ほんとうのところ、今日死ぬとしても、そのことをやりたい、やらずにはおられないと思える仕事を持っていることではないか。そして坂本龍馬が言ったとおり、「前を向いて逝く」ことができれば人生本望だ。死ぬ直前にどれだけの財産を蓄えていたか、どれだけの地位にあったかではない。あの世には、金品も地位も持っていけないのだ。


◆人は歳とともに目的に応じた人間になる

  いま手元にあって読んでいるのが、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾/村上春樹、新潮社)だ。この本でインタビュアー役を務める村上さんは、食道がんの治療と演奏活動を体力ぎりぎりのバランスで続ける小澤さんの姿を前書きで次のように書く。


───この人はそれをやらないわけにはいかないのだ。(中略)ナマの音楽を定期的に体内に注入してあげないことには、この人はそもそも生命を持続していけないのだ。自分の手で音楽を紡ぎ出し、それを生き生きと脈打たせること、それを人々の前に「ほら」と差し出すこと、そのような営みを通して──おそらくはそのような営みを通してのみ──この人は自分が生きているという本物の実感を得ているのだ。誰にそれを「やめろ」ということができるだろう?


  身体の器官がいかに弱ってこようと、マエストロ小澤の内側から噴き出すことを止めない音楽欲求のマグマは、自己満足や自己顕示のものではないだろう。やはり「自分の音楽(指導)を待ち望んでくれる人たちがいる」「で、あるならば、一曲(一言)でも多くその耳に届けなければ」という、やむにやまれぬ愛他の心に違いない。「使命」という字のごとく、まさに「命を使って」音楽を続けているのだ。

  コンサートで演奏される音楽は、その場で消えるものである。しかし、小澤さんの仕事は決して「消費されない」。その音の感動や、小澤さんの生き様は、深く聴衆の心に蓄積して、次にその人の生き様をつくる栄養となり、お手本となり、種となる。

  目的──目的とは目標に意味が加わったもの──は、人をつくる。

  私は今年50歳を迎えるが、これまで多くの人を観察してつくづく思うことは、「人は歳とともに、自身の抱く目的の質とレベルに応じた人間になる」ということである。人は、自分の掲げる目的以上の中身にはなれない。言い方を変えれば、現状の自分より常に大きな、高い目的を持って、それを目指していれば、永遠に成長は続く。そして、目的から得られる“やりがい”というエネルギーが、人を永遠に若くする。

  年頭に目標を考え、そこに意味を与え、目的を掲げる。常に溌剌と健やかに仕事・人生を送っていくために、それはとても大切な作業である。私がここで言う目標・目的とは、組織の中のサラリーマンとして負っている業務課題に関わるものではなく、一職業人・一人間として、どう働くか、どう生きるかという中長期の大きな視点に立ってのものだ。自分のやりたいことがわからないから目的が見えないのではない。目的を掲げないからやりたいことも見えてこないし、掲げた目的もシャープになってこないのである。ストレスフルで不安定な生活・社会にあって、目的に身を投げ出すことこそ、最大の守りであり、最大の攻めである。



Okina j02
1月に訪れる沖縄は心身を穏やかに清新にさせてくれます。
日の出に合わせた早朝の散歩は何ものにも換え難い宝の時間です。
2月になると、この地でプロ野球のキャンプが始ま、ほどなくまた、アクティブなシーズンがやって来る。

Okina j03






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