沖縄県南城市にて
◆自分へのプロジェクト宣言
私は毎年1月、新調したビジネスダイアリーの1ページ目に、その年の目標をいくつか箇条書きにしている。今年、その中で最初に書き出した(つまりそれが現時点での最上位の目標になる)のが、
「日本で、アジアで、そして世界で100年読まれ続ける本を遺す」。
もちろんこれは今年1年間でやる短期目標というより、これから5年~10年レンジで取り組む一大プロジェクトの自分への開始宣言である。
本の基本アイデアはすでにあり「働くこと×哲学×絵本」である。実際のところ、いま、原稿を書こうと思えば書くこともできるし、どこかの出版社にお願いして刊行してもらうこともできるかもしれない。しかし、「100年読まれる本」にはならないと思う。なぜなら、自分の中身が100年の年月に耐えうる器になっていないからだ。そうした意味で、これからの5~10年は、本を書く技術や知識をつけるというより、人間の中身をつくる大事な時間にしていかなければならないと決心している。
私は多読派ではないが、少なからず本を読む。年々の自分の読書リストを見て気づくことは、仕事に直接関係するビジネス書ジャンルのものがどんどん減ってきていることだ。その代わりに増えているのが、文化、哲学、思想、芸術、宗教、言語学、詩集、絵本、偉人伝といったものである。そして古典的名著の再読、再々読。
ちょうど年末から読み返しているのが、サミュエル・スマイルズ『自助論』や、マックス・ウェーバー『職業としての学問』、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、福澤諭吉『文明論之概略』、湯川秀樹『目に見えないもの』などだ。『自助論』は150年前のものだし、湯川先生の本にしてもすでに70年弱の月日が経っている。が、これらの内容はまったく色褪せない。時代の風雪を耐えてきた本というのは、汲めども汲めども内容が尽きない。読み返すたびに、以前読んで気付かなかった箇所の深みにはまりこむ。昔の本はいまの本と違い、へんに編集者の手が入っていないので、行間から本人の“地金(じがね)”が出ている。だから、余計に書き手と人間交流ができる気がする。
生きること・学ぶことの本質を教えてくれたという意味で、私は小学校から大学まで、あまりいい教師に出会った記憶がない。けれども、私は書物というパッケージメディアを通し、時空を超えて、たくさんの優れた教師に出会えることを実感している。
となれば、今度は、私が自分の著した書物を通じて、10年後、50年後、100年後の人びととそういう出会いをしたいと思うようになる。
◆「消費されない仕事をやりたい」
私の独立動機のひとつは───「消費されない仕事をやりたい」。
私は20代から30代にかけ、ビジネス雑誌の編集者として働いていた。ビジネス情報の記事づくりは仕事としては面白いが、積み上がっていく何かがない。あれが売れている、これがトレンドになるなど、時代の変化を追っていく刺激はあるものの、記事は常に「消費されていく」だけ。バブルが膨らんでくれば景気のいい話をどんどん書き、バブルがはじければ、今度は「誰が悪いんだ」とか「失敗の研究」という粗探しの記事を書く。
私はそうしたメディアの状況に辟易しはじめ、「消費されない仕事」って何だ?と考えるようになった。そんなとき目にしたのが中国の古い言葉だ───
「一年の繁栄を願わば穀物を育てよ。
十年の繁栄を願わば樹を育てよ。
百年の繁栄を願わば人を育てよ」。
……「消費されない仕事」とは、「人を育てる仕事」である! 自分が以降進むべき道に開眼した瞬間だった。独立して9年目を迎え、教育の仕事の「消費されない」ことの実感をますます強くしている。だが、ここ数年、次のフェーズに意識が動いてきた。
いま行っている企業内研修のように対面のサービスはリッチな教育が施せる一方、自分がどう頑張ってみたところで、1年間に出会える受講者数は限られている。しかも、研修の実施というのはけっこう重労働で、歳とともにそう多くをやれるわけではない。時空を超えて、より多くの人と考えることを分かち合えるメディア───その最適なものは、やはり書籍である。
書籍は個人の心の根っこをつくり、文化の大地となり、社会の気骨をつくる。政治家にせよ、企業家にせよ、その世界での野心家たちは「世の中を変えたい」と叫ぶが、たいていの場合、体制や法律を変えたり、新規の創造物(商品やサービス)を打ち立てたりすることでそれを実現しようとする。それらは必要なものであり、有効な手段ではあるが、あくまで“外側からの変革”だ。
結局、ほんとうに個人が変わる、社会が変わるためには、“内側からの変革”が欠かせない。そのための手立ては、一人一人が古今東西の良質の本を開き、書き手と対話し、自己と対話することだ。そうした地道な負荷の作業を怠れば、心は根無しになり、文化の土壌はやせ地となり、社会には骨がなくなる。ころころ変わる気分的な風に、人びとは右になびき、左になびく社会になってしまう。
テレビ番組やネット上のコンテンツは、おおかた刺激物や消費情報であって、風を吹かせることならできるが、根っこをつくり、土壌を豊かにし、骨を強くすることはできない。その点、本は良いものであれば、滋養物となり、いろいろな基盤をつくる素となる。本はやがて大部分が印刷ではなく、「i-pad」のような端末画面上のものになるかもしれないが、それでも本が果たす重大な役回りは21世紀も変わらないだろう。
だから、良い本を書き遺すということは、生涯を懸けてやるに値する一大仕事なのだ。
◆願いは“叫び”に変じなければ本物ではない
私は、夢と志を次のように定義している。
夢とは、不可能なことをイメージし、それを実現化する楽しい覚悟である。
志とは、はるか高みにある理想を誓い、それを現実化する自分への約束である。
願いに向かう気持ちにはいろいろな種類・強さがある。
□ 「な(や)れればいいな」 〈淡い望み〉
□ 「な(や)りたい」 〈願望〉
□ 「な(や)らせてください」 〈祈り〉
□ 「な(や)ってみせる」 〈誓い〉
□ 「な(や)ってやる」 〈意地〉
□ 「自分がな(や)らねば誰がな(や)る」 〈使命感〉
□ 「な(や)らないではすまない」 〈反骨〉
□ 「な(や)るのだ」 〈確信〉
□ 「な(や)らずに死ねるか」 〈執念〉
「100年読まれ続ける本を遺す」という思いは数年前から頭をかすめていたのだが、なかなかそれを夢・志として自分に明確に宣言できなかった。ところが、ようやくいま、「やれればいいな」とか、漠然と「やりたい」というレベルを超え、上のリストで言えば「やらせてください」以下「やらずに死ねるか」までの全ての気持ちが胸に満ちるようになった。
それは私に、リルケ(プラハの詩人:1875-1926)の『若き詩人への手紙』(高安国世訳、新潮文庫)の一節を思い出させる。───
「自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。
・・・(中略)もしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、『私は書かなければならぬ』をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立てて下さい」。
スティーブ・ジョブズは伝説のスピーチでこう訴えた───「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。
仕事の幸福とは、ほんとうのところ、今日死ぬとしても、そのことをやりたい、やらずにはおられないと思える仕事を持っていることではないか。そして坂本龍馬が言ったとおり、「前を向いて逝く」ことができれば人生本望だ。死ぬ直前にどれだけの財産を蓄えていたか、どれだけの地位にあったかではない。あの世には、金品も地位も持っていけないのだ。
◆人は歳とともに目的に応じた人間になる
いま手元にあって読んでいるのが、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾/村上春樹、新潮社)だ。この本でインタビュアー役を務める村上さんは、食道がんの治療と演奏活動を体力ぎりぎりのバランスで続ける小澤さんの姿を前書きで次のように書く。
───この人はそれをやらないわけにはいかないのだ。(中略)ナマの音楽を定期的に体内に注入してあげないことには、この人はそもそも生命を持続していけないのだ。自分の手で音楽を紡ぎ出し、それを生き生きと脈打たせること、それを人々の前に「ほら」と差し出すこと、そのような営みを通して──おそらくはそのような営みを通してのみ──この人は自分が生きているという本物の実感を得ているのだ。誰にそれを「やめろ」ということができるだろう?
身体の器官がいかに弱ってこようと、マエストロ小澤の内側から噴き出すことを止めない音楽欲求のマグマは、自己満足や自己顕示のものではないだろう。やはり「自分の音楽(指導)を待ち望んでくれる人たちがいる」「で、あるならば、一曲(一言)でも多くその耳に届けなければ」という、やむにやまれぬ愛他の心に違いない。「使命」という字のごとく、まさに「命を使って」音楽を続けているのだ。
コンサートで演奏される音楽は、その場で消えるものである。しかし、小澤さんの仕事は決して「消費されない」。その音の感動や、小澤さんの生き様は、深く聴衆の心に蓄積して、次にその人の生き様をつくる栄養となり、お手本となり、種となる。
目的──目的とは目標に意味が加わったもの──は、人をつくる。
私は今年50歳を迎えるが、これまで多くの人を観察してつくづく思うことは、「人は歳とともに、自身の抱く目的の質とレベルに応じた人間になる」ということである。人は、自分の掲げる目的以上の中身にはなれない。言い方を変えれば、現状の自分より常に大きな、高い目的を持って、それを目指していれば、永遠に成長は続く。そして、目的から得られる“やりがい”というエネルギーが、人を永遠に若くする。
年頭に目標を考え、そこに意味を与え、目的を掲げる。常に溌剌と健やかに仕事・人生を送っていくために、それはとても大切な作業である。私がここで言う目標・目的とは、組織の中のサラリーマンとして負っている業務課題に関わるものではなく、一職業人・一人間として、どう働くか、どう生きるかという中長期の大きな視点に立ってのものだ。自分のやりたいことがわからないから目的が見えないのではない。目的を掲げないからやりたいことも見えてこないし、掲げた目的もシャープになってこないのである。ストレスフルで不安定な生活・社会にあって、目的に身を投げ出すことこそ、最大の守りであり、最大の攻めである。
1月に訪れる沖縄は心身を穏やかに清新にさせてくれます。
日の出に合わせた早朝の散歩は何ものにも換え難い宝の時間です。
2月になると、この地でプロ野球のキャンプが始まり、ほどなくまた、アクティブなシーズンがやって来る。