2008年3月18日 (火)

人事の世界を客観的にみると・・・

現在、私は、人財育成研修の開発と実施を主たる生業にしています。

実を言うと、私がこうした人事の世界に踏み込んだのは、比較的最近のことで、

大卒後22年間のキャリアの流れの中で、わずか8年前からです。

そういった意味では、いまだ“人事畑ビギナー”の部類です。

ですが、ある部分、ずっと人事畑の部外者であったからこそ、

そして、いまだ入門者レベルであるからこそ、

ものを客観的にみることができるという利点もあります。

客観的にみることができる事象として、例えば、

1)人事の仕事が、制度やシステムの「設計屋」になっていやしないか

2)人事の世界は、(特に米国発のHR論に対し)流行に侵されやすく

  日本オリジナル、組織オリジナルな思考フレームの創造を怠けていやしないか

3)人財育成に関し、人事部門は「研修の手配屋」と化しているのではないか

4)人財育成に関し、「知識でっかち」、「技能でっかち」な“業務処理人”

増やすことに懸命で、“全人的にまっとうな職業人”を育てようとする意識が

希薄なのではないか

・・・等々があります。

しかし、ここでこれら日本の人事部にみられるネガティブな面を批評するのが

私の本意ではありません。

私は、もはや、日本の人事部の部内者としてビジネスを行なう身となりました。

これからは、人事に携る方々とさまざまに交流し、

人事の世界で行なわれていることを進化・発展させていくことが本望です。

このカテゴリーでは、

現在の日本の人事部門を取り巻く問題・課題、

特に人財育成に関連する問題・課題について取り上げ、

私なりの切り口を入れて言及していきたいと思います。

なお、こういうテーマですので、読者は、

人事に関わるプロの方々、経営者の方々、部下を持つ上司の方々を想定しています。

「成功」と「幸福」は別ものである <上>

年収1000万円の働き手と年収400万円の働き手とでは、

年収1000万円もらうほうが、世の中では“成功者”と呼ばれます。

また、莫大な利益をあげる大企業で働いていれば「勝ち組サラリーマン」とされ、

困窮する中小会社で働いていれば「負け組サラリーマン」とされます。

さらに、年収の上がる転職であれば「キャリア・アップ」ですが、

年収の下がる転職は「キャリア・ダウン」のように思います。

いつしか私たちの社会では、

あまりに定量的、功利的な考え方が幅広く支配するようになったために

他人と自分を量的尺度で比較して、

「多い/少ない」、「勝ち/負け」、「成功/不成功(失敗)」を峻別し、

自分の人生の良し悪しを決めるようになりました。

ですが、ここでじっくり見つめなおしてみたいことは、

他者との比較相対で「多・高・優・強」を獲得した人が、

一般に「成功者」と呼ばれますが、

そのことは同時に「幸福」を保障するものでしょうか?

また逆に、

他者と比較相対して「少・低・劣・弱」である人は、

一般に「不成功(失敗)者」とみなされますが、

そのことはすなわち「不幸」を意味するものでしょうか?

現実社会をみてみると、

仕事やキャリアで「成功」している人が、

「不幸な」生き方をしているケースは多々あります。

同様に、

世間の尺度で言えば、必ずしも働き手として「成功者」とはいえないが、

実に「幸せな」生き方を実現している人は大勢います。

こうしてみると、つまり、

「成功」と「幸福」は別ものと考えるべきなのでしょう。

(その違いについては、次回以降、述べたいと思います)

いずれにしても、このカテゴリーでは、

「仕事の幸福とは何だろう?」、「幸せな働き方/キャリアって何だろう?」

ということについて、考えを深めていきたいと思います。

2008年3月17日 (月)

私たちは、生涯、仕事上でどれだけの人と出会うのだろう?

私は大学を卒業して、17年間、会社勤めをやりました。

(そして、5年前から自営業をしています)

4つの会社にお世話になりましたが、

最後の会社を辞めるとき、それまで交換した名刺を整理しました。

ファイルで何冊あったか、合計で何枚あったかは定かではありませんが、

相当の量の名刺を整理しました。

1枚1枚に目を配っていくと、

記憶に残っている人/残っていない人、

今も商談の時の様子がふつふつと思い出されるもの/そうでないもの、

いろいろです。

しかし、冷静に振り返ってみると、私たちは

生涯、仕事上で、いったい何人の人たちと出会うのでしょうか?―――――

基本的に、同じ社内の人間とは名刺交換しませんから、

手元にある名刺の数以上に、私たちは人と交流しているはずです。

ましてや、名刺を交換しない間接的に仕事でお世話になっている人たち、

講演会やセミナーの講師、

書物やネットなどメディアを通して知る偉人、知識人などを含めれば、

私たちは膨大な数の人に接し、

彼らから影響を受け、あるいは影響を与えながら、働いています。

人と人の間に生きる動物だから、“人間”であるとはこういうことなのでしょう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「職業・仕事」もまた、人と人との間で行なわれる営為です。

100%自己完結する職業・仕事というのは、極めて稀にしかないでしょう。

創作が自己目的化する芸術家ですら、

師匠がいて、仲間・ライバルがいて、パトロンがいて、お客さんがいる。

それらの人との間で、

ようやく芸術家は自分の仕事(=創作)ができる。

私たちは、人生の長きにわたり、

いやおうなしに人と人との間で働いていかねばなりません。

ですが、その中でもまれてこそ学びや気づきがあり、成長もできる。

他方、職場の人間関係であれ、顧客との信頼関係であれ、

良好で創造的な相互関係を築き上げるには、

間断のないストレスに耐え、自分からのはたらきかけが求められます。

それは、大きな心身のエネルギーを要する作業です。

「よりよく働くためにどうすればよいか?」という問いをみつめていくと、

結局、

1)仕事そのものをどう価値あるものにするか

2)自分の可能性をどう拓くか

3)人間関係・人とのつながりをどう築くか

という3つのことに集約されると私は思っています。

このカテゴリーでは、その3番目のテーマにつき思索していきたいと思っています。

きちんと働くマインド・観を持った人が、強くて安定する

福澤諭吉の言葉に次のようなものがあります。

「思想の深遠なるは哲学者のごとく、

心術の高尚正直なるは元禄武士のごとくにして、

之に加ふるに、小俗吏の才能を以てし、

之に加ふるに土百姓の身体を以てして、

始めて実業社会の大人たるべし」。

よき職業人の要件として、

福澤は、思想、心術、才能、身体の4つをあげているわけですが、

ここで興味深いことは、思想や心術をまず先に置き、

才能をようやく3番目に置いていることです。

私も、その順序におおいに賛同します。

なぜなら、各々の働き手が持つ知識や才能の数々は、

その人の奥底に横たわる働くマインド・観の地固めをしてこそ、

質の高い業務成果およびその再現性へと結びつくと考えているからです。

そして、マインド・観をきちんと持った人が、

いろいろな人生の波に遭遇しつつも、結果的に、

自分自身の満足・納得のいく仕事人生を形成していくことができるからです。

“マインド・観を腹に据えた人”は、ゆらぎつつも安定する。

“知識でっかち”“技能でっかち”の人は、

翻弄され、いつまでも不安定でいる。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

しかし、現実の職業人教育をみると、

知識の注入や技能の習得といった「HOW」ばかりを覚えこませる

プログラムばかりです。

そして、働き手側も、「HOW」の習得に躍起になっている。

だから、書店に行っても、

そうした効率的・功利的な「HOW」の本が溢れているし、売れもする。

「HOW」を身につけることは確かに必要です。

しかし、自分で「WHAT」を考え(=目的を定める)、

自分で「WHY」を考える(=意義を見出す)ことは、もっと必要です。

たまたま良書に出会い、

あるいは、たまたま影響力のある上司に出会い、

自分の働くマインド・観を醸成できた人は幸せです。

しかし、世の中でそうした人はどちらかといえば少数派であり、

ほとんどの職業人はマインド・観を漠然と放置したまま、

日々の業務処理に忙殺されていっているのが現状です。

だからこそ、本ブログのこのカテゴリーでは、

みなさんと一緒に、

働く「マインド・観」をみつめていきたいと思います。

2008年3月15日 (土)

知識が増えて、人は賢くなったか?

  毎週発行される1冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、

  17世紀の英国を生きた平均的な人が、

  一生のあいだに出会うよりもたくさんの

  情報がつまっている。

    ―――――――リチャード・S・ワーマン『情報選択の時代』より

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

いまの社会では、「情報増加」というよりも、

「情報爆発」といったほうがいいくらいに、

その生産量・発信量が秒単位で溢れ出しています。

インターネットに接続して検索をかければ、

パソコンの画面からは、今や無尽蔵ともいえるほどに情報が入手できます。

また、交通手段の発達や余暇の発達によって、

日常の生活空間とは異なるさまざまな場所へ行って、

多くのものを見聞し、体験できる世の中になりました。

現代人の見聞知や体験知は、

わずか数十年前の人間と比べてもはるかに多くなっています。

ですが、1人の人間が知り得る情報が増せば増すほど、

人間は賢くなるのでしょうか?

日々の仕事の質が上がるのでしょうか?

豊かな発想が湧きやすくなり、より優れた商品・サービスが生まれるのでしょうか?

また一方、情報とともに、技術・道具も止め処もない進歩を遂げています。

私がかつてビジネス雑誌の記者だったころ、

米国の有名なグラフィックデザイナーにインタビューで質問したことがあります。

廉価で高度なスペックを持ったパソコンが普及し、

今や誰でもイラストや写真などを自由に画像処理できる時代が来た。

こうした技術は、人びとの創造性を増したか?――――との私の問いに、彼は、

「いや、ヘタな絵が増えただけだ」、と。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

情報量の増加や技術の進歩が、

必ずしも人間の創造性や賢さを比例して増すものではないことは、

さまざまに語られています。

小林秀雄は、

人は“知る”ことのみをして、“考える”ことをしなくなったといいます。

「考へるとは、物に対する単に知的な働きではなく、

物と親身に交はる事だ。

物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、

さういふ経験をいふ。

・・・物しりは、まるで考へるといふ事をしてゐない」と。

同様に、モンテーニュは、

「他人の知識で物知りにはなれるが、

他人の知恵で賢くなることはできない」と本質を突いた言葉で射す。

この「知識・能力」のカテゴリーでは、

「知ること」や「できること(=能力)」をいろいろな角度から見つめなおし、

目の前の職・仕事を切り拓いていくこととどのような関係にあるのかを

考えていきたいと思います。

過去の記事を一覧する

Related Site

Link