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2010年4月

2010年4月29日 (木)

留め書き〈009〉 ~「失敗」について

  Tome009 

    「失敗」というのは、実は一時の仮の姿にすぎない。
    それはあたかも、“蛹(さなぎ)”のようなもので、
    やがて「成功」という蝶に完全変態するかどうか、その手前の状態をいう。

     「失敗」の定義を変えよ。
     失敗とは「一時的後退」である。
     失敗とは「後の成功者に与えられる試験」である。
     失敗とは「成功するに値する者を判別する“ふるい”」である。
     失敗とは「成就の栄光を手にするための前払い金」である。
     失敗とは「飛ぶ前の屈みこみ」である。

   「失敗」には2種類ある。
   「いまだ不確定の失敗」と「確定された失敗」と。
   失敗に対し抵抗を続けるかぎり、その失敗は不確定だ。
   抵抗をやめたとたん、その失敗は確定する。

    「失敗」に関する箴言は多々あるが、
    それらをどれだけ深く読めるかは、
    自身がどれだけ深い失敗からリベンジしたかによる。

* * * * *

私が「失敗」という言葉を聞くたびに思い出すのが、
以前勤めていたベネッセコーポレーション、福武總一郎会長の次の口グセである。

「私には“失敗”という概念がない。なぜなら成功するまでやるから」---。

当時は私も生意気盛りの30代。
大企業ばかりを転職で渡って、さしたる失敗経験・リベンジ経験もないままだったので
(いくつも修羅場をくぐったさと思っていたのは実は小さな自分だった)
この言葉をついぞ深く味わうことができずじまいでいた。
ところが、独立して7年経ち、ようやく沁み入ってくるようになった。
(箴言というのは往々にしてこういうものだ。
箴言的なものは普遍的なことを言っているので、誰しも「そんなの当たり前」と思う。
しかし、箴言を受けて問題なのは、
アタマの理解ではなく、どれだけ身で読めるか、心で読めるかという沁み入りの強さなのだ)

もちろんすべてのことは成功させるつもりでやっているのだが、
ものごとはそう簡単に都合のいいように転がらない。
しかし、失敗という洗礼を浴び、
そこからのし上がっていく強さを身につけることで、
実はそのプロセスにおいてすでに勝ちを得ている。
負けに屈しないというのもひとつの勝利の姿なのだ。


   
より多くのことを
   より深く気づくためには
   簡単に成功してしまわないほうがいい。
   でないと、安ピカになってしまう。

   
ラクな「勝ち」は、ときに次に大きな「負け」を呼びこんでしまう。
   辛い「負け」は、次の輝かしい「勝ち」への燃焼油になる。


結局のところ、失敗も成功も外界の現象にすぎない。
それは天気が雨になり、晴れになることと同じだ。

大事なことは、
「想い」を抱きながら、一歩ずつ、一つずつ、行動を重ねていくこと。
勝っておごらず、負けてくさらず。
結果は天命だが、
最終的にはやはり結果も手に入れる---そうありたい。そうしてみせる。

希望と気概できょうも一歩前へ。

Akazan 

 
 

2010年4月26日 (月)

上司をマネジメントする〈2〉~フォロワーシップという考え方

Grnwalk 


「上司」に対して「部下」という言葉があります。
では、 「リーダーシップ」 (leadership:指導性、統率者としての地位、任務、能力)に対して、
どんな言葉があるでしょうか?

――――答えは 「フォロワーシップ」 (followership)です。

これに関連して、もうひとつ質問します。

「ナポレオンはなぜ偉大なリーダーになれたのでしょうか?」
――――答えは、偉大な 「フォロワー」 がいたから。

◆フォロワーシップ=「従支性・従支力」
いまのところフォロワーシップに対してよい訳語は付けられていません。
私は、指導者に従い、支えるという意味で「従支」という言葉を当てたいと思います。

したがって、フォロワーシップとは、
「従支者としての立場やその能力」ということになりましょうか。

優れたリーダーの下には、必ず優れたフォロワーがいます。
逆に言えば、いくら潜在的に優れたリーダー資質を持った人でも、
彼に従い、彼を支えてくれるフォロワーがいなければ、タダの人に終わってしまいます。
ですから、ナポレオンが偉大なリーダーになりえた理由の最大のひとつは
偉大な従支者を持ったということなのです。

このことは現在の事業組織においてもまったく有効で、
ひとつの組織において、
優れたリーダーと優れたフォロワーが相互作用をはたらかせてはじめて
目覚ましい成果を出すことができるのです。

また、 一人の人間の中においても、
リーダーシップとフォロワーシップは同居しています

優れたフォロワーシップを発揮する者は、優れたリーダーになりえる―――
そうしたことを実証するフォロワーシップ研究も進んでいます。

リーダーシップとフォロワーシップはコインの両面である。
組織論やリーダーシップ論を研究する上で、この対になる2つの概念は注目されています。

◆フォロワーシップの5つのタイプ
フォロワーというと、上から言われたことを素直に聞いて動く
という狭いイメージになりがちですが、
実際のフォロワーはもっと広がりをもった存在です。

フォロワーシップを広く世に知らしめたロバート・ケリー教授(米・カーネギーメロン大学)は、
著書『指導力革命』(プレジデント社)の中で、
フォロワーを5つのタイプに分けています。
(タイプ分けには次の2つの軸を使っています;
「独自のクリティカル・シンキング」か「依存的・無批判な考え方」か、
「積極的な関与」か「消極的な関与」か)

その分類をかいつまんで説明すると……

○【「模範的」フォロワー】 (Exemplary Follower) 
独自の基準や価値判断で思考し、上司にも積極的にはたらきかけをするタイプです。
この手のタイプが上司マネジメントの能力も優れていて、
将来はみずからも優れたリーダーになっていく可能性が高いといえます。
組織の中では「ホープ」「エース」的な存在かもしれません。

○【「孤立型」フォロワー】 (Alienated Follower) 
自分独自の冷めた思考が要因となって、
上司へのはたらきかけをあまりしないタイプです。
いわゆるアウトロー、批評家タイプの部下がこれにあたります。

○【「消極的」フォロワー】 (Passive Follower) 
みずからの視点で考えることをせず、
また上司に対しても積極的にはたらきかけていくわけでもなく、
言われた分だけ「ま、やるか」というタイプです。
事なかれ主義の部下といっていいでしょう。

○【「順応型」フォロワー】 (Conformist Follower) 
上司から言われたことを無批判に受け入れながら、積極的に動くタイプで、
いわゆる「太鼓持ち」「ゴマすり」がこれに当たります。

○【「実務型」フォロワー】 (Pragmatic Follower)
上の4つのタイプの中庸をいき、
組織内での生き残りをしたたかに考える現実派タイプとなります。


◆志の高いゴマすり・志の低いゴマすり
神戸大学の金井壽宏教授は、『ハッピー社員』(プレジデント社)の中で、
フォロワーシップを「悪玉」と「善玉」に分けて説明しています。

 「悪玉フォロワーシップとは、簡単に言うと、『志の低いゴマすり』のこと。
 私利私欲のためだけに働くタイプが取る行動だ。
 常に自分の立場、自分の仕事成績のことだけを考えていて、
 そのため『便宜的に』権威者にゴマをするというフォロワーシップなのである。
  (中略)
 一方、善玉フォロワーシップとは、上司の示すミッションに共鳴し、
 かつそのミッションを果たすことが会社の利益になることを納得し、
 『喜んで』上司に仕えるというフォロワーシップのこと。
 これもゴマすりの一種だとしても、『志の高いゴマすり』であり、
 推進力、実現力を発揮するための一つのスキルである」。

* * * * *

私たちは上司をつかまえて、
―――「あの人にはリーダーシップがない」と簡単に批評はできます。

では今度、――― 「自分には優れたフォロワーシップがあるだろうか?」
と自問してみてください。

もし、胸にズキンときたら、きょうから「志の高いゴマすり」、
すなわち、いかに部下として優れたフォローができるかを考えてみてください。
それが上司をマネジメントすることにもつながってきます。

あなたが優れたフォロワーになることができれば、
私はそれを名づけて「賢従者」と呼びたいと思います。
(ちなみにそれに反対であれば「愚従者」と呼びます)

 

*本シリーズ記事の詳細議論は、拙著『上司をマネジメント』を参照ください。



2010年4月24日 (土)

上司をマネジメントする〈1〉~上司は「資源」である


Sinryoku1


4月は新期のスタートです。
人事異動がそこかしこであり、新しい部署に転属になった人や、
新しい上司・仲間を迎える人も多いでしょう。
あるいは逆に、新期にはなったものの、相変わらずの顔ぶれでまた1年か、
と思っている人もいるかもしれません。

そこで、以降数回にわたって、「上司をマネジメントする」シリーズをお送りします。
上司/部下間の人間関係づくりにつき、マインドのリセットを行うヒントとしてください。

念のため書き加えますが、
“部下が”上司をいかにマネジメントするかというテーマです。
(上司が部下をマネジメントするという方向ではありません)

「上司をマネジメントする」という発想・実践は、
職場のダイバーシティ(人種の多様性)の進む米国でいち早く発展しました。
米国では、上司が年下であったり、女性であったり、
人種の異なる人であったりすることはよくあることですし、
また(これは国を問わず)「モンスター」と呼ばれる難物・変人・奇人の上司も多い。
ですから、部下側のほうが上司との人間関係をうまくマネジメントしてみる、
そんな意識が早くから芽生えたと考えられます。

そしてさらには、部下が上司をうまく活かす能力というのは、
リーダーシップとは対になる概念=「フォロワーシップ」であるとした研究が
上司マネジメントへの注目をいっそう集めさせる結果となりました。

米国では、書店の棚に行くと「How to manage your boss」とか
「Managing upward」などといったタイトルをよく見かけます。
また、大学院の中には、いわゆる「ボス・マネジメント」を
MBA(経営学修士)コースの科目にしているところもあります。

「賢い部下ほど上司を活かす」―――では、上司マネジメントの本題に入ります。

* * * * *

◆「上司」とは何か?
ここに「1」「2」「3」と書かれた三枚の数字カードと、
「+」「-」「×」「÷」と書かれた演算カードがあります。

そして、いまあなたは、業務上の命令として「6」という数字にたどり着くことを
会社から要求されています。
さて、この三枚の数字カードと四則演算カード(この演算カードは何度使ってもよい)
を組み合わせて、あなたならどうやってこの命令を達成しますか。

・・・・・・・

これに対し、ある人は「2×3」という達成のしかたをするかもしれません。
また、ある人は「1+3+2」、
さらに別の人は「3×2÷1」とするかもしれません。
「6」へのたどり着き方はさまざまあります。

では今度は、業務上の命令が変わって、「8」を言い渡されました。
手持ちのカードが変わらないとして、どうたどり着くことができるでしょうか。

・・・・・・・

さすがに現状、「8」にはどう転んでもたどり着きません。
達成のしようがないのです。
では、このときどうすればいいとあなたは考えるでしょうか。

――――そう、手持ちのカードを増やせばいいのです。

例えば、「4」というカードを一枚増やせば、
「1+3+4」や「2×4」などの方法で達成が可能になります。

◆いかに自分の外にあるカードを増やすか
私たちが職業人としていかに多くの命令や目標、ゴールを達成できるかどうかは、
ひとえにいかに多く手持ちのカードを持っているかにかかっています。

手持ちのカードとは、
一つには自分自身が持ついろいろな知識や能力、体力、人脈です。
そしてもう一つは、
自分以外、つまり他の働く人々が持つ知識や能力、人脈と、
会社組織が持つ資金力や設備力、情報力、信用力といったものです。

手持ちのカードの種類や枚数が豊富で多様であれば、
自分が成就できることも豊富で多様になります。
ただ、いくら努力しても自分一人が習得できるカードは限られています。

そうしたとき、考えなくてはならないのが、
他者の持っているカードや会社組織の持っているカードをうまく活用することです。
これは自分の身に取り込んだカードではなく、借り物のカードですが、
成果を出し、目標を達成するためにはどんどん使っていいカードなのです。

なぜなら、個々の社員が成果を出すこと、目標達成することは、
組織全体の好業績に直接つながっていくので、
組織としても、個々の社員が組織内にある資源を最大限活用してくれることを
おおいに望んでいるからです。

◆上司は仕事を成すための「資源」である
さて、自分の外からカードを引き出すとき、その最大のカードホルダーは何でしょうか?

―――それは間違いなく、あなたの「上司」です。

確かに、会社という組織も潜在的には多くのカードを持っています。
しかし、会社の資源を引き出すためには、目の前にいる上司の承認が必要なのです。
上司自身から引き出せるもの、そして上司の承認を通して会社組織から引き出せるもの、
これらを合わせて考えると、
上司は潜在的に非常に大きな「資源」の固まりということになってきます。

小さくは日々の業務で成果を上げるため、
大きくは自分の仕事上の思いや夢、志をかなえるために、
上司という資源を有効に活用することが賢い職業人なのです。

しかし、私たちは往々にして上司を貴重な「資源」としてみることができません。
なぜなら、「とっつきにくい」、「ノルマばかり押し付ける」、
「権威主義だ」、「優柔不断で困る」などなど、
上司個人が持つ性格や人間性が高い壁となって、
そこから部下がカードをなかなか引き出せないでいるという現状があるからです。

こうした状況は、上司と部下、そして会社にとっても好ましい状況ではありません。
この状況を脱し、部下が上司を資源とみるためには、意識を変える必要があります。
すなわち、上司を分解してとらえるという転換です。

上司は次の三つの層に分解してとらえることができます。

〈1層〉 権限、機能を持った存在…… 「一役職人」としての上司
〈2層〉 知識、能力、経験、人脈を持った存在…… 「一能力人」としての上司
〈3層〉 個性、人格を持った存在…… 「一人間」としての上司

私たちは、組織において“上に仕える”といった場合、何に仕えているでしょうか。
おそらく大部分の人は、〈1層〉から〈3層〉を一緒くたにした上司に仕えている
と認識しているのではないでしょうか。
ですから、その上司が〈3層〉、すなわち一人間として問題が多いとついつい毛嫌いしてしまい、
少なからず持っているかもしれない〈1層〉や〈2層〉からの資源を引き出せずに終わってしまうのです。

上司3層図


◆その「人間」ではなく、「役職」に仕えるという発想
したがって、私たちにとって重要なことは、
部下は上司であるその「人間」に仕えるのではなく、
その「役職」に仕えるという発想からスタートすることです。

まず目の前の上司を〈1層〉のみで見つめてみる。
上司が持っている「権限・機能という引き出し」の中には、
自分が仕事をやりやすいようにヒト・モノ・カネを動かしてもらえる資源がたくさん入っています。
チームに人を増員してもらう、
業務上の効率化のために設備を増強してもらう、
何か自分で身につけたいスキルがあればセミナーへの参加費を出してもらう、
また、社外の交渉でてこずっていたら、上司に同伴してもらって援軍をしてもらう、
など、一役職人としての上司が持つ資源はいろいろと使い手があるものです。

それらを活かすことで、自分の仕事がラクにはかどり、
アウトプットに幅が出るのであれば、
上司の性格的な違和感などは「しょうがないか」と寛大に構える ことです。

次にもし、上司が一能力人として優れた点があるとすると、
例えば、本人の蓄えた知識や技能を教わる、
人脈を紹介してもらうなど、〈2層〉の資源を引き出しにかかればいいわけです。

そして、最後に、その上司が一人間としても尊敬でき、親しくできるなら、
交流を〈3層〉レベルにまでもってきます。
仕事のもろもろの相談をはじめ、プライベートの相談にものってもらうことができるでしょう。
また、上司/部下の関係がなくなった場合にでも、
人生のアドバイザーとしてその後も貴重な存在になるでしょう。

◆要は部下がどれだけのものを引き出せるか
私たちは、上司とはそれなりに仕事経験・人生経験を持ち、
自分よりも高い給料に見合ったパフォーマンスを上げ、
人格的にも優れているという理想・べき論のもとに、その人間に仕えようとします。
しかし、その理想・べき論による上司への期待をいったん捨てたほうがいいでしょう

―――現実の上司は欠点、不足だらけです。
ですが同時に、部下が引き出すべき資源はたくさん持っているのも事実です。
その引き出し方を最大限うまくやろうというのが「上司マネジメント」です。

まずは、上司を「一役職人」としてみること。
ここから引き出せるものがあれば、あなたは幸運です。
次に、上司を「一能力人」としてみる。
本人から学ぶべきものが見つかれば、あなたは相当に幸運です。
最後に上司を「一人間」としてみる。
仕事を離れてもいい付き合いができそうなら、あなたはきわめて幸運な出会いをした人です。

いずれにせよ、よい上司なら教官、コーチ、メンター、支援者、師となってくれ、
部下の引き出し方いかんによって、いろいろな資源カードを与えてくれる。
わるい上司であっても、それを反面教師としてさまざまなことを考えさせてくれる。
そんな上司を会社は自動的に付けてくれ、指導料も取らない。
(むしろ給料さえやるという)
―――そう考えると、会社とは何とありがたいシステムではありませんか
自営で事業を始めた私には、もはやタダで上司を付けてくれる人などいないのです。

上司は「資源」です。
それを最大限活かさない手はない。
そうでなければ自分のキャリアが「モッタイナイ!」。


*本シリーズ記事の詳細は、拙著『上司をマネジメント』を参照ください。

 

Sinryoku2 
春は英語で“spring”。
springとは「湧き出ずる」という意味。確かに自然はそこかしこから緑という色を伴って
生命を湧き出している。また、springとは「弾む・跳ねる」の意味も持つ。
日本語の春の語源である「張る」に通じる。古人の春に込める思いはどこも変わらない。

 

 

2010年4月17日 (土)

塩見直紀 『半農半Xという生き方』


情報が絶えず生まれるメディアには、
日々いろいろに新コンセプトやらバズワードやらが現れる。
私も商売柄、そういったものをこしらえる。
しかし、そうそう簡単に長生きするもの、ましてや一般に普及するものはつくれない。

そんな中、私がここ10年の間でもっとも啓発を受けたもののひとつが
「半農半X」 (はんのう・はんえっくす) である。

「半農半X」とは、生みの親の塩見直紀さんによれば、
「一人ひとりが天の意に沿う持続可能な小さな暮らし(農的生活)をベースに、
天与の才(X:エックス)を世のために活かし、
社会的使命を実践し、発信し、まっとうする生き方」
をいう。

これは時代の先を読み、時代が求める、そして時代をつくるコンセプトワードだと思う。
知的に刺激されるというよりは、
肚にズシンとくる揺さぶりの言葉である。
この言葉は1995年に塩見さんの頭の中で生まれたらしいが、
まだまだ10年先も20年先も時代の風化を受けない、逆に輝きが増すであろう
それくらい深く骨太なものだと私は思っている。
半農半Xカバー 
2003年に刊行された 『半農半Xという生き方』 (塩見直紀著、ソニーマガジンズ)には、京都・綾部の地で様々な人が実践する「半農半X」の生き方が紹介されている。

「半農」をベースに、
映画字幕翻訳をする人、
「人生最高の朝ごはん」を主宰する人、
あかり作家をする人、
介護ヘルパーをする人、
ウェブデザイナーをする人、
画家をする人……いろいろな掛け合わせがある。
「半X」のエックスの中には人によって何が入ってもよいのだ。

私も遠くない将来に農的生活を始めたいと思っているのだが、
「半農」という考え方が重要なポイントである。

いま田舎暮らしをしたいという人の中には、すべてを農に懸けるケースが多い。
(つまり生活を「全農」的に預けてしまう)
もちろんそれでうまく回っていけばいいのだが、それではリスクが大き過ぎる。
商業的に農業を成立させ、生業とするのはことのほか難しいものだ。
生産性や効率、取引先の要望に引っ張られたら、
無理な生産、本意でない手段もやらねばならなくなる。

塩見さんは「半農」の考え方のもとは、
作家の星川淳さんの『地球生活』からきているという。
星川さんはそこで次のように書いている。

 「自給規模なら見通しは立つものの、
 営利規模ではかなりの無理を要求される。
 これ以上地球に農薬という毒を盛ることだけは絶対にしないと決めているが、
 無理のなかには機械力や借金、もっとめまぐるしい生活ペースなども含まれる。
 それに対する私の答えは『半農』である。

 百の作物をこなす“百姓”や農業だけで生計を立てる専業農家にならなくていい。
 かりに実働八時間として、
 その半分で自分たちの食べるものを納得のいくやり方で育て、
 あとの半分でなにかしらの収入につながる仕事をする。
 私の場合はたまたま『半農半著』」。

もちろん、世の中には専業農家で頑張って作物を供給してくれる人が必要である。
と同時に、もし日本で半農という形で耕作をする人が増えていくとなれば、
つまり二重構造で農の営みが拡大・継承されていくようになれば、
日本の農業もよい変化を起こすにちがいない。

そして「半X」。
Xとは、やりがいを見出した仕事や、自分の天賦の才を活かす職業、
使命と感じるライフワークのことだ。

もちろん、自分が没頭できるXに対し、
それに100%専念したい、つまり「全X」的に取り組みたいという人はいるだろう。
「半X」的にじゃ、とてもそれをまっとうできないと。
それはそれでひとつの肯定できるあり方だ。

私も20代から30代前半にかけては、
ビジネスジャーナリスト、出版の仕事が面白くて面白くて、
残業を厭わず、それにのめり込んだものだ。

しかし不思議なもので、30代以降、農的な暮らしに少しずつ興味が湧いてきた。
今では、農作業こそ手をつけてはいないが、
あえて大事な仕込みの仕事をするときは、東京を離れ、
地方の山か島にこもってやっている。
今まで単眼思考だったのが複眼思考になって、とてもよい結果を生む。

二つ以上の仕事、二つ以上の活動拠点を持つことは、
私にとって、どちらも中途半端になるのではなく、
どちらも和合してよい影響を与えあい、トータルでみた創造性や充実感が格段に増す。
(それを私は“ハイブリッド・ライフ”と呼んでいる)
(「半農半X」も農とXのハイブリッドの形である)

だから、「全X」的に仕事に邁進している人も、
「半農半X」というコンセプトを頭に入れておくとよい。
いつかこうした複合的な考え方がすーっと馴染むときがくるだろう。

塩見さんは、「半農半X」のその複合的な考えを
「種(たね)」を例にして見事に説明している。

 ―――「たね」の音義を漢字以前の日本の言葉「やまと言葉」で調べてみると、
 「た」は「高く顕われ(伸び)、多く(たくさん)広がりゆく」、
 「ね」は「根源(に返る)、(いのちの)根っこ」という意味があり、
 「タネ」の本質を的確に表現している。
  …(中略)
 「半農半X」で言えば、「半農」が「ね」で、「半X」が「た」だ。―――

ワークライフバランスということが最近話題になる。
私は、ワークとライフを分離してバランスをとるというような考え方ではなく、
両者をハイブリッドさせるという考え方なので「ワークライフブレンド」と言っているが、
いずれにせよ、これも複合的な「た・ね」のとらえ方ができる。
つまり、ライフ(私生活・人生)は「ね」であり、
ワーク(仕事・職業)は「た」である。

この本の中で塩見さんは、「半農半X」というコンセプトを核にして
力強いメッセージをいろいろな言葉にして披露している。

○「小さな暮らし」と「充実感ある使命」―――これが「半農半X」だ。

○田舎で「半農」の暮らしをしようとすれば、
 原則的に生活は「生活収入少なく、心の収入大きく」になる。
 生活の縮小となると、厳しさを感じるが、
 それでも心豊かな暮らしができるのは、「X」があるからである。

○「おいしいもの」追求ではなく、「おいしく」いただく

○「ないものねだり」から、「あるもの探し」へ

○昔の農民は豆をまくとき、必ず三粒ずつまいたという。
 一粒は空の小鳥、一粒は地の虫、一粒は人間のためにだ。

○「give and give(与え、さらに施す)」
 「give and forgot(施したことさえ忘れてしまう)」
 という考え方があるのを知った。
 私たちはつい受け取ることや与えたことに執着しがちである。
 先人は「放てば満てり」と言った。
 こだわらず、解き放つことで、自由になれるという意味だ。
 残念ながら、私たちの文化では、与えることより獲得するほうに重きが置かれている
 と言っていいだろう。

○ヨハン・ゲーテの詩に
 「心が海に乗り出すとき、新しい言葉が筏(いかだ)を提供する」
 という一節があります。
 海に乗り出すためには新しい言葉、新しいコンセプトが要るのです。
 意識が変わり、行動が変わり、暮らし方、生き方が変わる
 新しい概念の創出が急務なのです。


この本は、多分に思想的であるが、
著者を含め綾部の方々の多くの具体的な生き方が散りばめてあり、
とても実践的なライフスタイル提案書となっている。
(その人の持つ思想的なものは、最終的には
その人の挑戦的実践・生き様によって証明される)


「農」という営みはことのほかに奥深いものである。
個人が「半農半X」を志向することは有意義な人生のチャレンジになるにちがいない。
と同時に、
日本という国家もまた「半農半X」というコンセプトで立国すべきではないかと思った。


 

2010年4月12日 (月)

留め書き〈008〉 ~発酵と腐敗

Amesak02 


Tome008 

        微生物が食物を変化させる。
        人はそこに二つの呼び名を与えた

               ---「発酵」と「腐敗」と。


視点の置き場所によって、物事は善にもなれば、悪にもなる。

さしずめ、きょうの雨は
桜見客からすれば、いまいましい「花散らしの雨」。
春の木々からすれば、若葉を育むやさしい「慈雨」。


Amesk01 
(カメラのファインダーを覗きこみながら、
 花は盛りに 月は隈なきをのみ見るものかは…と思い出され)




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